浅茂川(あさもがわ)
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京都府京丹後市網野町浅茂川 京都府竹野郡網野町浅茂川 京都府竹野郡浅茂川村浅茂川 |
浅茂川の概要《浅茂川の概要》 福田川河口に位置する。北に浅茂川港がある。↓向かいに浅茂川温泉「静の里」がある。浅茂川は昔当地にあった湖の名。 往古、当集落は福田川下流の西岸にあり、西浦・西村と称した地にあり、西村千軒・西浦千軒の呼称が残る。 弘安4年7月暴風雨で出漁中の漁船が遭難し、集落では火災で焼失し、残存戸数わずかに18戸となった。その後、戸数は漸次増加、応永初期には40数戸となった、天正年間に、塩焼や湖漁の便のため4戸が川東の現在地に移住したのがきっかけとなり、全70戸が移住したという。もと下岡村の内で慶長検地郷村帳に「下岡村之内浅茂川村」とみえる。 浅茂川村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。当初は下岡村の枝郷、幕末に分村独立したと推定される。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年浅茂川村の大字となる。 浅茂川は、明治22年~現在の大字名。はじめ浅茂川村、明治37年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 近代の浅茂川村は、明治22~37年の竹野郡の自治体名。浅茂川村・下岡村・小浜村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を編成した。明治37年網野町に合併、村制時の3大字は網野町の大字に継承された。 浅茂川港(網野町・大正5年) 海上運搬の拠点として栄えた頃の港の風景。 (『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも) 《浅茂川の人口・世帯数》 1975・666 《主な社寺など》 島児(しまこ)神社・浅茂川明神・奈古(なこ)社 福田川河口の東岸先頭部、明神山という小丘上に丹後のもう一つの浦島伝説で知られる社で島児の神を祀っている。 当社のそばには鏡掛松があったというが、枯死したといい今はない。 浅茂川港に浮ぶ福島の頂に西浦福島(にしうらふくしま)神社が鎮座するという(↑背後に見える島)。祭神は浦島伝説の乙姫である。 社のうしろは開けて日本海に臨む。背後の防波堤の先端の岩中に浦島太郎の釣溜(つんだめ)ある↓。天然のイケスのよう。 この近くでは、島児神社のほかにも浦島子を祭神とする神社として網野神社(式内社)と下岡の六神社がある、また島児の住居跡と「しわ榎」が網野銚子山古墳のすぐそばにある。 『丹後国竹野郡誌』 〈 島児神社 無格社 字淺茂川明神山鎭座 (神社明細帳)祭神 島子神 由緒、嶋児紳社の由來を尋ぬるに、浦嶋太郎が子なる者、雄略天皇廿二年今淺茂川明神岩と云ふより引績き二町許北の方に島児の釣溜と云傳ふる嶋に出て釣をなす時に七日に至れども家に帰らず、今又福嶋といふ島にて龍神乙女に誘はれ共に常世の國に至り、三年と思ひて帰郷せし神なり、こゝより戌亥の方四丁程離れて海中に輻島あり、丑寅の方に布引の龍(海底)あり汐見岩は明神岩の邊酉ノ方五町を隔て白鷺の鼻と云ふ古跡有り、 (宮津府志)淺茂川の東に奈古社とて海濱の小山に小社二座あり、社の後に鏡掛松といふ古松あり、祭六月二十八日 按、奈古社とは島児神社と同一社なるべし、當時淺茂川村は旧磯街道に沿ひて村をなせり故に奈古社の位置は今の水無月山に相當す、 〉 『網野町誌』 〈 島児神社 浅茂川明神山鎮座 明神山は浅茂川港の右手にある小さな丘で、俗に川裾山とも呼ばれている。 祭神 島子神 由緒 「神社明細帳」によると 島児神社の由来を尋ぬるに、浦島太郎が子なる者、雄略天皇二二年、今浅茂川明神岩と云うより引続き二町許北の方に島児の釣溜(つんだめ)と云伝うる島に出て釣をなす時に七日に至れども家に帰らず、今又福嶋という島にて龍神乙女に誘はれ共に常世の国に至り、三年と思ひて帰郷せし神なり、ここより成亥(北西)の方四丁程離れて海中に福島あり、丑寅(北東)の方に布引の滝(海底)あり汐見岩は明神岩の辺酉(西)の方五町を隔て白鷺の鼻と云う古跡あり、と記され、『宮津府志』では、浅茂川の東に奈古(なこ)社とて海浜の小山に小社二座あり、社の後に鏡掛松という古松あり、祭六月二八日按、奈古社とは島児神社と同一社なるべし、当時浅茂川村は磯街道に治ひて村をなせり故に奈古社の位置は今の水無月山に相当す。 注 祭日が六月二八日とあるが、島児神社単独の祭礼はなく、水無月神社の祭日と混同したのであろう。水無月祭は島児神社の周囲で行われるため、当日は参詣者が多い。鏡掛の松は、麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)の伝説の松であると伝えられていたが今はない。浦島伝説については後述する。) 〉 宮津府志や丹哥府志は「奈古社」としている、 「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」には、正四位下 嶋奈岐明神と正四位下 常世明神が見える。 今は陸続きだが、古くは島でなかったかと思われるが、そこに嶋奈岐社があった、ナキ・ナク・ナコは通音で、嶋奈岐あるいは嶋奈古と呼ばれた名のナが脱落して島児となったのかも知れない。そうだすれば、元々は羽衣伝説で名高い舟木の式内社・奈具社と同じで、羽衣伝説と浦島伝説は同じ社が伝えたのでないのかということになってくる。 ナコという所は全国あちこちにあり、普通は魚児(なこ)で漁夫のことと理解されている。私はナーガ神で、遠くインドにルーツを持つ種族がやってきた足跡ではなかろうかと考えている。 常世社は背後の西浦福島神社で、常世の神として乙姫を祀っているのではなかろうか。 羽衣と浦島がもともと一つでインドに発していそうだというおもしろい話がある。「七夕伝説・異郷訪問神話」 浦島さんも羽衣さんも元はわが国の伝説ではないようで、そうした地でのグローバルな研究が積み重ねられてこないと、明確なことは書けそうにもない。丹後はどちらの伝説も本場として古来から有名であり、ナグ、ナキ、ナコ、ネコなどと呼ばれる神社も多く残されている、そうした先住の南方系民間伝承を後の支配種族が取り入れ、あたかも自分の神話のようにしてしまったということであろうか。それに隠されてしまったが有力な南方系種族が丹後にはいたということになる。これを丹後海人と呼ぶか丹後倭人と呼ぶか、解明は何よりも丹後郷土史界にぜひ願いたい。 まさかインドなんて、と思われるかも知れないが、仏教だってインドが元。海人・倭人ももしかしてインド発祥かも? 言語学からは日本語は南部ドラビダ語族のタミル語発祥とする説もある、ドラビダ語はシンガポールやスリランカでも公用語の一つとか、あのあたりなら、ありえるハナシかも知れない。 羽衣と浦島は何か別物とワレラは考えてきたが、そうではなく両者にはつながりがありそうだとは丹後でも以前から指摘はされている。『郷土と美術83』(1984)「浦島伝説と羽衣伝説」(小牧進三)」に、 〈 …偶然の一致と一蹴できない謎に突きあたる。「日本書紀」はなぜ嶋子のトコヨ行きを雄略二十二年七月の条に記し、豊受大神の伊勢遷宮の日が同年七月七日となぜ定ったのか、… 〉 (雄略22年紀の「秋七月」に浦島子の記事がある。 豊受大神の遷宮記録は「倭姫命世紀」によるもの。『元初の最高神と大和朝廷の元始』によれば、 外宮所伝本倭姫命世記に、 明年戊午秋七月七日以二大佐佐命一天従二丹波国余佐郡真井原一志天奉レ止由気皇大神一 御鎮座伝記に、 明年戊午秋七月七日以二大佐々命一(此間細註略之)従二丹波国余佐郡魚井原一之弖奉レ迎二止由気皇大神一 ) まだ偶然の一致とは一蹴できそうにないナゾの一致はあって、たとえばすぐに気づくもっと簡単な事例をあげれば、宇良神社の例大祭は8月7日(旧暦の7月7日)、現在は地域との関係もあるのか少し移動しているが、この日に近い日に執り行われている(本庄祭)ことである。7月7日なら七夕祭りの日ではないか、浦島太郎伝説の本家、宇良神社の祭日は七夕祭りの日である。さらに同社案内によれば雄略天皇の御宇二十二年(478)七月七日に、美婦に誘われ常世の国に行ったという。逸文風土記を読んでも七名あるいは八名の童子が登場し星の精だと説明されていたり、万葉集の虫麻呂も七日という日を記録している。浦島太郎は海の底の国へ行ったのではなく本当は星の国へ行ったとするような物語が根底にあったのではなかろうかと疑いたくなる痕跡を残しているようにも思われる。ここを見落とすようなら三流探偵と呼ばれても文句は言えない(ほぼすべての研究者がそうなのだが…)。 七夕といえば、言うまでもなく丹後では磯砂山の羽衣の里こそが本場で、伝説の「三右衛門」の家はいま安達家というが、土地の人はこの家を「七夕の家」とよんでいる。月遅れにしているのだろうが、毎年八月七日には、家宝として伝わる毛皮の矢筒と矢、七夕の軸物を供え、七夕を飾って祀っている。と伝わっている。実際ワタシはその日に出かけてみたが、今は何もないようであった(中で静かに行われているのかも知れないが、外部の者には何もないように見えた)。逸文風土記では比治山だが、地元の伝承では伊去奈子嶽(磯砂山)で、ナコという名がやはり伝わっている。 『丹後旧事記』に、 〈 大路里田奈畑祭。崇神天皇三十九年壬戌秋七月七日豊賀志飯比売天降りの日を以て祭礼する故後俗二星に誤る伝婦父社真名為神社の所に見るべし。 〉 羽衣伝説の磯砂山麓と浦島太郎の神社の祭日は同じ日。同じ神を祀ると思われる。またフジコソもマナイもまた関係がありそうに伝えている。 ←仙台の七夕祭り。 こんな様子だそう。夏祭りの系統のようで、悪しきものを川に流す祭という。浅茂川の当社は川裾祭(7月30日)というが、川に流してケガレを祓う系統の祭のように思われる。 一般に水無月神社の祭礼と一緒くたになったのだろうと言われるが、そうとも決められそうにはない、こうした七夕もまたあるようである。浦島太郎さんの神社で七夕祭りがあったのかも知れない。水無月さんの祭と同じようなことだったので一つになったのかも知れない。 日吉神社 福田川河口の西側山腹。東郷平八郎揮毫の忠魂碑もある。 正面が日吉神社。左は水無月神社、右は金比羅神社。 境内社は下にまとめられている。早尾神社や御金神社もある。 『丹後国竹野郡誌』 〈 日吉神社 村社 字浅浅川日吉山鎮座 (神社明細帳) 祭神 大山咋命 創立年月不詳、寛文十一年再建、明治六年二月村社に列せらる、 一本殿 梁行一間二尺五寸 桁行一間二尺五寸 一拝殿 仝 二間 仝 四間 一上屋 仝 二間四尺八寸 仝 四間五尺八寸 一籠屋 仝 二間二尺一寸 仝 三間 一境内坪数 千二百万十一坪 境内神社 五社 金刀比羅神社 祭神 大物主命 由緒 不詳 水無月神社 祭紳 瀬織津比売命 天湯川板挙命 由来を尋ねるに水湖浅茂川と云ふ、其流れの源は竹野、中、熊野三郡の境にして切畑村の高山瀧谷より流れて福田川となり、浅茂川湖に淀み海に入る、三里以内の諸悪水流れ込の水湖故川尻浦島児の旧跡の岩に於て、文武天皇の朝より他に類なき禊の大祓祭典をなす、例年六月三十日の執行にて遠近の参詣多し 稲荷神社 祭神 宇賀魂命 若松神社 祭神 若年神 三柱神社 祭神 火産霊神 奥津比古命 奥津比女命 由緒 不詳 〉 『網野町誌』 〈 日吉神社 浅茂川日吉山鎮座 祭神 大山咋命 大己貴命(大国主命の別名) 由緒 日吉神社は旧浅茂川村の氏神であり、創立年月は不詳。本社はもと、現在の社殿より奥の社に祀られていたものを、浅茂川の発展する将来を考えて現在地に移転し、東向きに建立した。日吉神社棟札によると、寛文一一年(一六七一)に再建したとある。さらに文政-○年(一八二七)に社殿を再建。(工事費、銀二二貫匁、当時の氏子一七五戸)ついで、天保六年(一八三五)末、拝殿を建築。(工事費二貫六三〇匁四分)嘉永四年(一八五一)一〇月、上屋を建築。(工事費二貫六三八匁三分)籠屋も明治六年(一八七三)一一月に建つ。当時の氏子二一五戸。明治に入ってからでも、度々大修理を重ね、昭和四二年(一九六七)九月、本殿の修理と拝殿の新築を行って現在に至っている。 (境内社の修理も含め、総額七四五万八〇〇〇円を寄付金によって実施。当時浅茂川総戸数七二五戸) 明治六年二月、山王大権現、または山王社という呼称を、日吉神社と改め村社に列せられる。(以上「浅茂川区関係文書」) 注一 日吉神社は日吉大社(滋賀県大津市坂本本町)の末社(本社に付属する神社)である。本社は二宮(現称東本宮)に、もともとの地主神である大山咋命と、のちに大和の三輪明神を勧請した大宮(現称西本宮)に大己貴命(日吉大黒とも)を祀っている。現在では西本宮の神が主神として崇められている。 二 大山咋命は、「比叡山の主の神」(本居宣長説)という意味のほか諸説があって一定しない。また別名を山末之大主神ともいわれ、「ひえ」(日吉の古訓で、日枝・比叡とも当てる)の山の根本神であったものと思われる。 三 山王権現という別名は、日吉神社をもって比叡山の地主神とし、その祭神をもって天台宗(開祖は日吉大社下の出身、伝教大師最澄)の諸法神となし、最澄が中国の天台山で修業をしていたころ、天台山の地主神・護法神を山王と称していたことにならったものである。権現とは、仏や菩薩が神の姿をとって現れることで、明治初年の「神仏分離令」以前は、大己貴命は釈迦牟尼仏、大山咋命は薬師如来の化身とされていた。 (『国史大辞典』『日本神社由来辞典』『日吉神の謎』中井国垂) 祭礼 例祭日は明治四三年(一九一〇)より一〇月一二日と定め、宮司と区の代表者で執り行っており、一般には、夏の水無月祭を盛大に行うため、外部からのお客を招待することはしていない。 なお、当時の風習として、日吉大社の例祭四月一四日には、区の代表者が参列し、また区民も厄年(三六歳・四二歳・六一歳)などには、男女とも大社に参拝することが多い。 社殿 現在、社殿にある彫物は、丹波柏原(兵庫県氷上郡柏原町)の彫物師中井権次正貞の秀作である。 中井権次正貞は中井家の六代目で、安政二年(一八五五)に没しているので、一八四〇年代の作ではなかろうか。(『丹波柏原の彫物師中井氏とその営業形態』日向進) そのほか、応永一八年(一四一一)のものとされる石灯篭の柱のみが現存している。 日吉神社本殿は、平成五年四月九日京都府登録有形文化財(建造物)に登録された。 〉 水無月神社の川裾祭 水無月神社は、毎年7月30日に川裾祭を行う。奥丹最大の夏祭りとして有名である。 『網野町誌』 〈 水無月神社 浅茂川日吉山(日吉神社のむかって左側)鎮座 祭神 瀬織津比女命 天湯川板挙命 注 瀬織津比女命は祓を行う所をつかさどる祓戸神(四神)の一神 天湯川板挙命は「細野神社補注二」を参照 由緒 創立年日不詳 「神社明細帳」によれば、竹野・中・熊野三郡の境にある切畑の高山滝谷から流れ出た川が、福田川となって浅茂川湖によどみ海に入る。一二キロメートル(三里)以内の諸悪水が流れこむ湖であるから、その川尻の浦島児の旧跡の岩で、文武天皇の時代(六九七-七〇七)から他に比類のない祓の大祓祭典が行われた。 祭礼 祭礼は「水無月祭」「川裾祭」(川裾(かわすそ)さん)といわれて、陰暦の六月末に執行されていたが、いろいろの経過をへて、今では陽暦の七月三〇日に本祭、前日に宵宮、翌日に後宴(ごえん)を行っている。古くから奥丹後最大の夏祭りということで当日は、神輿の町内巡行と海上渡御をはじめとして、夜店がならび、花火が打ち上げられるなどいろいろの催物があり、遠近の参詣者が多い。後宴の日は川裾山の御旅所に遷座していた神輿が、水無月神社に還幸する。 祭典の執行は、古くは若連中(安政二年=一八五五・輿連中と改める)などが行い、明治の中期からは青年組織の「矯正社」が中心となって運営していた。戦後「矯正社」の解散によって、現在では二〇代から四〇代までの人々が、神輿の巡行をつとめている。 (矯正社と祭典期日をめぐる論争については上巻・第五章近代第四節・第五節参照) 神輿 記録によれば、現在の神輿は元治元年(一八六四)に新調した。京都市田中小兵衛より銀一五貫四七四匁をもって購入したとある。以後、たびたび修理を重ねて今に至っている。 なお、『浅茂川区誌』によれば、氏神である日吉神社に神輿がなく、水無月神社にあるのは、水無月神社の方が先に祀られていたからであろうと述べている。 〉 「水無月神社」は丹後などにはあちこちに見られるが、どこかに本社とかあってそれを勧請したというようなものではないよう。水着(みなつき)で港のことだとかも言われるが、そうではなく、古くからの全国的な民俗行事「水無月の祓い」を行う神々を祀る社と思われる。 ほかの地にもあるのかも知れないが「水無月神社」は丹後、丹波、若狭、近江のあたりを本場とする「水無月の祓い」祭のローカルな神社ではなかろうか。全国的には稲の虫送りやネブタや祇園祭などかよく知られるがそうした夏祭り系のケガレを川や海に流して地域を祓い浄化する神社かと思う。 ケガレを海に流す、海辺での祓い浄めの祭りは各地様々であろうが、丹後ではだいたい当社のようにして送られるようである。 神社を出た御輿は地区を2時間ばかり練り歩き、最後は浜へやってくる。地区の禍々しいケガレとそれを払う神々を御輿は満載しているものと思われる。 海辺で祓い浄めをするのは黄泉の国から戻った伊奘諾尊が行ったように神代の昔からの禊ぎの習わしのようである。丹哥府志によれば「よみの鼻」という所が西側にあるそうである。 海中には小さな神棚のようなものがすでに設けられている、これを何と呼んでいるのか不明だが、川棚(かわたな)とか祓戸・祓門・祓殿(はらいど)呼ぶ祓戸神(当地では瀬織津姫)を祀るものではなかろうか。ケガレが送られる海の底の黄泉の国へ通じる入口の門であろうか。 (同じ浦島太郎を祀る宇良神社の相殿に祓戸大神と月読神が祀られているし浦島太郎は月読神の裔とも伝わる、読は黄泉のことであろうから浦島太郎は黄泉国神の子孫ということになる、また鳥取氏などの祖神は天湯河板挙命というが両者ともに元々は水無月の祓い浄め神事と関係があるものかも知れない) 川棚の周囲を御輿は三回回る。そして肩に担いでいたのを「ヨイショ」と持ち上げる、しかしこれは正しくは「持ち上げる」のではない、御輿のケガレが川棚に移り、そのたびに御輿が軽くなっていくのを表す所作であろうと思われる。 御輿はずいぶん軽くなって、頭の上まで「持ち上げ」られてケガレがすべて送られたことを確認するクライマックスで祭礼は終わる。 島児神社の祭礼として合同で行われる。島児神社にこんなホコが4本立てられていた。何と呼ぶものか、太陽に輝いてこれこそ日矛(ひぼこ)ではないか。海人(あま)の日矛(天日槍・天乃日矛・天日桙)とはこうした集団であったのかも知れない、などと思った。 これを山車に乗せて御輿の露払いにすれば、祇園祭のようになる。太鼓などの音と火や光でケガレなす悪霊を追い立てるのだが、この日の如くにまぶしく輝くホコもその役割を果たすのかも知れない。(花火大会がこの夜に行われ、火の行事がかつてはあったかと思われる) 朝日神社 尉ケ畑の朝日神社を勧請したものという。こうした名はたいていが鉱山神と思われる。 『丹後国竹野郡誌』 〈 朝日神社 無格社 字淺茂川小字東小路鎮座 (神社明細帳)祭神 天之御中命 神日本磐余毘古命 稚産霊神 須佐之男命 菅原道真公 由緒不詳 境内神社 聖神社 祭神 不詳 〉 『網野町誌』 〈 朝日神社 浅茂川小字東小路鎮座 祭神 天之御中主命・神日本磐余毘古命(神武天皇)・須佐之男命・稚産霊神・菅原道真 朝日妙見宮(朝日神社と併祀。以下三社も同じ) 祭神 妙見菩薩(北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩) 注 通称妙見さん。国土を守護し、人の福寿を増すとされる。『浅茂川区誌』によると、もとは浅茂川村の北西の端、小字平浜五番地にあったのを明治年間に、現地区東の松林の中に遷座したものという。 稲荷神社 祭神 宇賀魂神 天満宮 祭神 菅原道真 牛頭天王社 祭神 牛頭天王 注 牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、怨霊や悪疫を除く神として敬われている。猛威ある御霊的神格だったことから、一般的に素戔鳴命とされている。 聖(ひじり)神社 浅茂川小字東小路鎮座(朝日神社の境内にある小祠) 祭神 不詳 由緒 浅茂川小字霧ケ磯(磯村と接する)に祀ってあったのを、明治年間になって妙見宮境内に遷座したものである(『浅茂川区誌』) 追補 祭日は五月五日の子どもの日をこれに当て、当日は境内で祭事を行ったのち浅茂川区の子供達が、子供神輿(六基)をもって、町内を巡行したり、子供相撲大会を開くなどの行事を行っている。 〉 曹洞宗福聚山正徳院 日吉神社の隣にある、元は真言宗と伝わる。 『丹後国竹野郡誌』 〈 正徳院 字淺茂川にありて曹洞宗なり (同寺調文書)元祿元戊辰年三月往古存在せし眞言宗千眼寺の舊趾に、淺茂川の村民堂宇を建立し、宗旨を曹洞宗に改め木津村龍献寺天梁和尚を請して開山とす、交化元子年眺望佳なるを以て今の地に移転せり世代を経ること二十三代なり、 (丹哥府志)開山石牛和尚は本然円明禅師の勅號を賜はる、 (宇川上山寺藏年代目録)寛延三年鐘鋳) 〉 『網野町誌』 〈 福聚山正徳院 曹洞宗 浅茂川 本尊 釈迦牟尼如来 注 当山は従来、聖観世音菩薩を本尊としていたが(同寺調文書・旧『網野町史』)、現住職二十七世今村隆之和尚の彫像になる釈迦牟尼仏を安置し本尊に改める。 <由緒・伝承> (同寺調文書)「神社寺院明細書」(「浅茂川区有文書」) 京都府管下丹後国竹野郡浅茂川村字川向 龍献寺末 曹洞宗 正徳院 一 本尊 観世音菩薩 一 由緒 元禄元戊辰年三月ニ往古ニ存在セシ真言宗千眼寺旧址ニ基ツキテ改宗シ同郡岡田分龍献寺ノ世代天梁和尚ヲ請シ村中有信ノ士女堂宇ヲ創立シテ開祖トス文化元甲子年四月跡ヲ今ノ地ニ移転シ文政七甲申年三月火災ニ罷リ文政九丙成年八月再建シ世代ヲ経ルコト二十二代ナリ其他更ニ沿革ナシ其他不詳 一 (本堂・庫裡・位牌堂・鐘楼堂・廊下・土蔵・門の寸法について記載してあるが省略) 一 境内坪数並地種 三百十五坪 民有地第一桂 一 境内仏堂 二宇 地蔵堂 二宇 由緒不詳 本尊 地蔵菩薩 一 (寺領について記載されているが省略) 一 檀徒人員千七拾九人 一 管轄官庁追距離里数 三拾五里廿四町 以上 右院無住ニ付法類 明治十七年四月五日 網野村心月寺住職 甘泉三応 檀徒惣代 山中九兵衛 山崎政右衛門 志水文五郎 右村戸長 松田 量 注 右文書は京都府知事北垣国道殿代理 京都府大書記宮尾越蕃輔殿宛のものである。 明治一二年(一八七九)一二月五日にも、京都府知事宛に同様の文書が提出されている。 ・寺の略歴-「同寺調文書」『浅茂川区史』などを参考に作成- 元禄元年(一六八八) 真言宗千眼寺の旧跡を起こし曹洞宗に改宗。 正徳元年(一七一一) 石牛天梁大和尚を開山に話し正徳院と改める。 文化元年(一八〇四)四月 現在の地に石垣を造築し移転す。 文化四年(一八〇七)四月一六日午後三時ごろ庫裡より出火全焼す。同年本堂再建す。 文化一三年(一八一六)大鐘鋳造、当時本村戸数一六〇軒足らず。 文政七年(一八二四)三月火災により全焼。 文政九年(一八二六)諸堂再建。 大正二年(一九一三)七月開山二百年忌法要が勤修される。 大正八年(一九一九)客殿不老閣建設される。 昭和二年(一九二七)三月七日奥丹後震災にて本堂はじめ諸堂全壊す。 注 (旧)網野町が作成した災害調査表には〝本堂、住家、位牌堂全壊其ノ他八棟半壊″と記載あり。 昭和四年(一九二九)庫裡、仮本堂を再建する。 昭和一一年(一九三六)本堂を再建す。(棟梁中村淳治) 昭和一八年(一九型二)大鐘、戦争により供出される。 昭和二三年(一九四八)鐘再鋳。 注 中村淳治については〝宝聚山本覚寺″の項を参照のこと。 ・千眼寺と改宗の時期 真言宗千眼寺は、開山の年月日など一切不明であるが、丹後国中郡橋木村(現峰山町)の縁城寺の末寺であったと伝えられ、西村寺屋敷(浅茂川村落の西端の地区)にあった。西村は、かつて浅茂川発祥の地であったが、天正年間(一五七三~一五九二)に、東の現在地へ移住しはじめたため、寺も廃するようになった。(『浅茂川区史』) 真言宗から曹洞宗への改宗については、「同寺調文書」では元禄元年(一六八八)に改宗したとあるが、承応元年(一六五二)の「龍献寺古文書」や、天和二年(一六八二)の「丹後国寺社帳」には、いずれも"曹洞宗・浅茂川村正徳院″の記載があり、正徳元年に正徳院と改名したとする言い伝えについても疑問が残る。 〉 浅茂川湖(浅茂湖・水江) 丹後の古代潟湖の一つ浅茂川湖。今の離湖はその名残とされる。江戸時代でも南北に1㎞弱、東西に600mくらいの浅茂川湖が残っていた。明治40年に埋め立てられて姿を消した。浦の入口には砂州が発達して塞ぎ淡水化していたと思われる。左は5メートル海面を上げたもの、右は10メートル上げて作図したもの。いつの時代か、こうした姿をしていたと思われる。 郷の大宇賀神社のあたりでも浜の砂のようなものが混じっているから、あのあたりまではあるいは古くは海浜ではなかったかと思われる(あるいは津波の痕跡かも)。 『丹哥府志』 〈 【湖】 南北八九町東西五六町、湖の西南に弁財天を安置す、其西に愛宕の山あり。次に水神の社あり、次に薬師堂次に寺。寺の下より湖の流れ川となる、其川に橋を架す、橋の長サ廿間、川の東西に人家あり。 〉 『大日本地名辞書』 〈 【水江】今網野の左右にある淡湖也、共に細溝を以て海に通ず、其浅茂川池は水源郷村の切畑山に発して此に瀝す、池畔の村家を浅茂川と云ふ、小浜池は其東数町に在り、島溝川の水を容る、池中に小嶼あり。凡此両湖は各周囲廿余町、水碧沙明、海遠山幽、また一勝地とす、万葉集浦島子伝等に澄江(すみのえ)浦と云ふも此とす。(宮津府志に『浅茂川村、海浜所在之小社、俗称奈古社者、是往古所祭浦島子』と述べ、又水の江は日量(いかり)本庄村に在りと云ふ、イカリとは今与謝郡本庄の別名なるべしと雖、日量は日置の誤のみ、且水江は必定網野にして、筒川にあらず、筒川に江湾の名のつくべきものなし、蓋浦島子は筒川網野の両地に来往せし人なりければ、両地に其事を係くるのみ…略… 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 浅茂湖 字浅茂川にあり、現今周囲二十五町面積六丁広?東西六丁十問南北四丁三十四間なり、 福田川の水を容れ二丁餘の川によりて浅茂川港に注ぐ、離湖と共に往昔水江の一部にして、離湖以上に廣かりしならんも、福田川より運び来れる土砂によりて埋められ、下岡弁天山の如き、湖中の島嶼として勝景を誇りしならんも、今は田圃中の一小森と化せり、下岡三反田天満宮境内の船繋松の如き、現今の湖より田圃を距つ十餘町あるにても、其地形の変化を知るべし、近頃湖中愛宕山の下より鉱泉の湧出を発見せり、今これが分折表を掲ぐ 一鉱泉 壹 種 略 〉 弁天山↑弁天神社か地図にはあるが、見当たらないよう。かつてはここは浅茂川湖中であった。 『網野町誌』 〈 丹後でもこの潟港が、久美浜湾と福田川河口と離湖並びに竹野川河口に復元できる。福田川下流には昭和四○年に埋め立てられるまで浅茂川湖があった。古代にはこの湖はもっと上流まで広がっており、銚子山古墳のある丘陵の下も湖であったと推定できる。また、過去には、浅茂川湖と離湖は続いていたのではないかという説もある。銚子山古墳はまさしく浅茂川湖を見下ろす位置に築造されたのである。 〉 『ふるさとむかしむかし』 〈 網野の広瀬のこと 網野の広瀬一族は、中世から栄えた豪族であったが、そのうち吉岡姓を名乗った吉右衛門の頃は家運が最も栄えたという。 同家は廻船問屋を営み、船の帆印は、(吉)または(広)で、持船も多く、その千石船が、日本海を松前へ、また西廻りと航行していた。また大地主でもあったので、土地の改良にも意を注ぎ、文化の頃、正徳院下の水道の掘り下げのエ事を起したり、下新田の干拓によって 新田の造成など行ったといいます。 こんな逸話が残っています。 南風の吹く日に、作り道から、大量の木灰を風に飛ばせる仕事を命じられた下男が、「風が強くて、灰がどこへ飛んでゆくかわかりませんが」というと、主人は 「そこより北はみんな我家の土地だ。どこへ落ちてもよい」と言っていたという。 またある晩、吉右衛門は、もと浅茂川湖中にあった弁天さんと相撲を取った夢を見た。弁天曰く、「もしわしが負けたら、湖中全部埋めたてても苦しうない。ただしお前が敗けたら今後、湖水の埋立て、新田作りはまかりならん。そうして どこからでも拝まれるような大鳥居を寄進せ」と言われた。 そして相撲の結果は吉右衛門が負けだった。そこで吉右衛門は約束通り、弁天様の境内に見上げるような大鳥居を建立寄進した。ところが、落成の祝いをした翌日、どうしたことか、建立したばかりの大鳥居は、一夜のうちに湖中に埋没してしまったという。 これはたんに夢物語りではない。なにぶんあの辺の湖底は一帯に地質が泥沼で軟弱だから、古い時代の基礎工事くらいでは、あるいはほんとうに一夜で埋没したのかもしれない。 ある年の台風によって同家の廻船の持船が難破し、乗員・積荷もろとも遭難してしまった。荷主への補償などを加えた損害は予想以上に多大で、ついにこの災難が、家運の衰退の因となったのだという。(原話 網野 中矢徳治) 〉 《交通》 《産業》 ♨ 浅茂川温泉 静の里 丹後には温泉がけっこうある、あまり知られていない様子だが、カニの季節は最高である。案内に「日本海や浅茂川漁港を見下ろす高台にあり、温泉や休憩所など至る所から海を見られます。レストラン・特産品の売店・温泉プール(室内)もあります」とある。 浅茂川の主な歴史記録『丹哥府志』 〈 ◎浅茂川村(網野村の次) 【山王大権現】(末社四社) 【奈古社】(祭六月廿八日) 宮津府志曰。神社啓蒙云。網野神社在丹後国竹野郡阿佐茂川東網野村所祭三神一座水江浦嶋子也。神社考云。丹後国與佐郡阿佐茂川明神者浦島子也。以上二書浦島の社を網野とし阿佐茂川とす、又阿佐茂川を與佐郡とす、いふ所審ならず。神社啓蒙に網野神社は阿佐茂川の東網野村の三字、恐らくは衍字ならん。今浅茂川の東に奈古社とて海浜の小山に小社二座あり、社の後に鏡懸松といふ古松あり、是延喜式に所載の網野神社当に此なるべし。 【福聚山正徳寺】(曹洞宗) 開山石牛和尚は本然円明禅師の勅號を賜はる。 【付録】(若宮大明神、五社明神、薬王堂、瑞応軒、辻堂一宇) 【湖】 南北八九町東西五六町、湖の西南に弁財天を安置す、其西に愛宕の山あり。次に水神の社あり、次に薬師堂次に寺。寺の下より湖の流れ川となる、其川に橋を架す、橋の長サ廿間、川の東西に人家あり。 【亡者船】 凡航海の者往々風波の為に溺死するもの挙て数ふべからず、其遊魂形を現し、或は海上に火を焼き、或は泳ひで櫂を乞ひ、或は大船に帆を揚て馳する者あり、毎度海浜の人これを説話すれ共余未嘗て信用せず。辛丑の夏浅茂川に宿して又是を聞く、よって村長篤実の人を撰みて、これに実否を尋ねるに果して妄説ならず、既に昨年の夏一日農業を休みて村内相集り聊か酒肴を携へ海浜に出て酒宴をなす、夜月明にして昼の如し、偶大船に白帆をかけて沖より馳せ来るものを見る、追々近寄りて二、三十人斗の人聲も聞ゆ、最初より如何なる船なるを詮議まちまちの内遂に浜に着して消滅す、是等の事は村内不残見る所なりといふ一人廿歳前後より廿ケ年斗り渡海を業とし東は松前迄も至る人なり、其間に屡是船を見る、人の船と相違なる事なし、唯人の船は風に順ふて馳るに其船に限りて風に逆ふて馳す、珍しからぬ事と云。 【龍騰】 天晴風快の日海面一丁斗忽然として漣波を生ず、其時天に一点の雲を見る、其雲下るに従ふて其水凸然たり、遂に雲と水と斉しくなる、是時初て大風雨を発す、須臾の間に其水雲に乗じて騰る、凡一丁斗り騰るよと思へば海面故の如く風波治り渚は又快晴になる、其雲の騰るを見る凡七、八丁斗横に流れて又上に騰り又横に流れ、其騰り容易ならず、龍の尾ともいふべきもの水雲の際よの下る、是を龍なりといふ、渡海のものこれに逢ふて破船するもの少なからず、蓋其風上に在れば僅に二丁斗隔てて其難を蒙らず、凡海浜よの年々是を見る多くは十月十一月の候にあり、一日に二度三度に及ぶ事もあるよし、是日は極めて吉日なりといふ。余前年より此説をきけども、妄誕なる様に思へて遂に人に語りもせず元より筆記もせざりしが、前段の頃に是事を尋ぬれば其人龍騰に逢ふといふ、是時祈願をこめ髪を切りて金毘羅へ供へしより船乗を止めたり、其話前にいふ處の如し。自これを聞て駭然たれ共猶不思議に思ふ處あれば、其人座を正座して、これは先生にも似合ぬ不窮理なり、天に在ては雷なり地にありては地震なり海にありては龍騰なり事異なのと雖も理は一ツなりといふ、自一言も答ふる事能はず。 【福島】(浅茂川村より舟に行七八丁) 【よみが鼻】(福島の次、是より磯村へ四五丁 〉 『網野町誌』 〈 浅茂川昔ばなし 今の浅茂川区は、明治二二年合併までは浅茂川村だった。 浅茂川村には、海難にまつわる話が多く伝承されている。 鎌倉時代に元の軍船が襲来したころの台風の時、今の福島は大波風のため、対岸の蛭子山から切れて離れ島となったというが、この時に浅茂川村から出漁していた多くの漁船が遭難し、多くの溺死体が海岸に打ち上げられたという。そのころはまだ浅茂川村とはいわず西浦と呼び、よほど栄えていたらしく今でも「西浦千軒」のことばが残っている。 運悪くこの台風の最中に村の中から出火し、火はほとんどの家々を焼いてしまい、なにしろ元気な者は出漁中で留守、残った老人と女子供では逃げるのが精一ぽいといった有り様だったので、西浦は壊滅状態となった。 その後住民たちは西浦を去って、網野側の今の地に次第に移住した。もと西浦の四軒町という所が、もと村の中心であったらしく、今でも「四軒町」の小字が残っているが、一説には最初住居を構えたのが四軒だったので、それが地名になったのだともいわれている。 ○ 浅茂川には海賊の話も伝えられているが、夜、遭難して海岸に近づいて来る船があると、丘の上で松明を灯し、その明かりでおびき寄せては乗り組みの者たちと格闘し、積荷を奪ったものだという。 ○ また亡霊船の話もある。はるか向こうの海上から、満帆に風をはらんだ大きな船が岸の方へ近付いて来る。船中には二、三十人ばかりの水夫たちの話し声もする。船が浜辺へ近付いて来ると船の姿はぱっと消え、亡霊の火の玉だけがゆらゆら揺れている。 ふつうの船は順風に乗るが、亡霊船は逆風で走る。このような光景を見た者は一人や二人ではない。 もし出漁中に亡霊船に出合うと、その亡霊船の水夫たちが「杓を貸してくれ」とねだる。この杓は船に入った海水を汲み出すために使う物だ。だがもし要求どおり杓を貸そうものなら、逆に海水をこちらの船の中に汲み込んでついには船は沈められてしまう。だからねだられて断わり切れない時は、必ず杓の底を抜いて渡すものだといわれている。 盆の一六日に漁に出ると必ずこの亡霊船が現れ船端に近付いて、「杓を貸してくれ」とねだられる。だから盆の一六日には誰も出漁しないことにしている。 こんな不思議な出来事がたびたびあったころ、正徳院の和尚の枕頭で夜な夜な海難の亡霊たちが、悲しげに泣きじゃくるので、和尚はふびんに思い、寺で施餓鬼を催しねんごろにその冥福を祈ったという。 それから数日後、亡霊たちはその供養を大変悦び奇妙な手ぶりで踊り出した。その仕草が余りにも面白かったので、和尚はこれを盆踊りに取り入れて無縁の仏供養に用いた。 これが今の「浅茂川踊り」の起こりだという。「浅茂川踊り」が近辺の町や村の踊りと全く違うといわれる理由は、これでわかってもらえると思う。(原話 浅茂川 山中淳一氏) 〉 浅茂川の小字一覧浅茂川(あさもがわ) 野島(のじま) 西村(にしむら) 戸鞍(とくら) 砥石ケ谷(といしがたに) 宮谷(みやだに) 畷(なわて) 寒入(かんにゅう) 休場(やすんば) 日向尾(ひなたお) 布多村(ふたむら) 新ケ尾(しんがお) 布田村(ふたむら) 稗田(ひえだ) 向新田(むかいしんでん) 隠谷(かくれだに) 中尾(なかお) 霧ケ磯(きりがいそ) 倉谷(くらたに) 虫谷(むしだに) 畑ケ谷(はたがたに) 坂尾(さかお) 中瀬布(なかせぶ) 黒谷(くろたに) 穴ケ下(あながした) 牛町(うしまち) 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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後国竹野郡誌』 『網野町史』 その他たくさん |
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