市野々(いちのの)
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京都府京丹後市久美浜町市野々 京都府熊野郡久美浜町市野々 京都府熊野郡川上村市野々 |
市野々の概要《市野々の概要》 川上谷川の一番上流部の集落。周囲は花崗岩の山々で、砂鉄生産をしたカンナ流しとタタラの跡が残り、砂鉄の生産と製鉄を行っていたことを物語るが、その時代は明らかでない。南の高竜寺岳(697m)の麓に円城寺跡があり、礎石が残るという。 市野々村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年川上村の大字となる。 市野々は、明治22年~現在の大字。はじめ川上村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《市野々の人口・世帯数》 154・50 《主な社寺など》 円城寺跡 市野々からは東の尉ケ畑へ越す峠と、それとは別に南へ豊岡市但東町唐川へ越す峠がある。この道は円城寺峠と呼ばれる。 『京都府熊野郡誌』 〈 円城寺の旧跡。川上村字市野々を過ぎて、円城寺峠に進み行く事約十町程にして、円城寺の旧跡あり。小字堂の奥といへるに七堂伽藍ありして伝へられ、何となう昔偲ばるる心地せらる。現今は畑地となれるも、大なる礎石柱石の存せる等は、以て其の当時を想察せられ、懐旧の情胸に逼るを覚ゆ。其の遺仏なりといへる薬師如来等の仏体は、鎌倉時代の作の如くなれば、其の当時の建立に係れるものならむか。 大字市野々小字堂ノ奥に在りて、七堂伽藍を有せし古刹たりしといふ。現今跡地に三尺四寸平方厚さ一尺にして中央に円形の穴ある大なる柱石とも見るべき礎石を存し、正福寺の薬師不動等は円城寺の遺仏なりといひ伝ふ。按ずるに久美谷の一乗寺は鎌倉時代より足利時代に存立せし処たれば、円城寺を或は同年代ならんと推察せらる。以上の外寺跡としては、大字出角小字観音田に七堂伽藍の古刹ありしといひ、現今尚石垣の一部を存せり。大字須田には小字寺の谷に松寿庵といへるあり、宗雲寺の末寺にして、二十余年前廃寺となる。湊五宝茂左衛門の建立にして旧高十二石を庵付として寄付せりといふ。大字新庄小字破風谷に真言宗の寺あり、天文二年現在の地に移せる妙音寺の元地なりといふ。此の外最明寺オカイ地等の字あり、共に寺跡なりしが如し、字金谷小字西谷に一乗山法花寺の跡あり、山添松蔵氏所蔵の曼荼羅あり、万治三年、丹後国金谷村一乗山法花寺の銘ありて、当時法花寺の存立せし事を徴するに足る。 〉 天満神社 広い境内を持つ社で、毎年の端午の節句に「菖蒲田植」行事が行われることがよく知られている。社とは関係がないと思われる。 『京都府熊野郡誌』 〈 天満神社 村社。川上村大字市野々小字宮ノ上鎮座 祭神=菅原大神。按ずるに天神を天満宮に誤れるものの如し。 由緒=当社の創立は最も古く、元高森神社の境内地を天神といひ古木鬱蒼たりしが、近年移転し跡地は畑に開墾せり。古来の伝説に高森神社を氏神と唱へし事あり、右の伝説は元来天神社は小字天神に鎮座ありて、現地に移転の際元社地に高森荒神を祀れるものにて、小字に天神の称を存せり。後世誤て、高森社を氏神なりしと言ひ伝へしものにて、当社には古来田植神事の古式あり、且つ天つ神の降下せらるるや、鞍を椎の枝に掛け給へりとて鞍掛椎といへる神木あり、右等は天満宮には何等関係なき事項にして、天つ神を奉祀せる事を知らる。現社地古くは明坂と唱ふ。天明八年建立の棟札に河上谷市野々村明坂之庄奉建立宮殿天満宮の文字あれば、当時既に天満宮に誤りし事も推定せらる。而して明坂の名称の起因に就ては知る処にあらず。尚当社の祭日は古来十日にして、天満宮祭日と異れるも一考の要あり。明治四十二年拝殿の造営成り、爾来財産を増殖と、諸般の設備整ひければ、大正十年幣饌料供進神社として指定せらる。 氏子戸数=六十戸。 境内神社。高森神社。祭神=大国玉神。 八幡神社。祭神=応神天皇。 山神社。祭神=大山祗命。 大神宮。祭神=天照大神。 由緒=高森神社は元小字天神、八幡神社は小字上ノ森、山神社は小字上岡谷に鎮座ありしが、明治四十一年九月境内に移転し大神宮社と共に改築奉安せり。 神木=当社の東方約六十間にして椎の古木あり、目通一丈二尺余天神降下の際神馬の鞍を掛け給ひしより鞍掛椎といへり。 田植神事=毎年五月五日菖蒲を田草とし各氏子より当日田草を奉納し、九歳より元服迄の男児社前に集合し、青年の唱ふる歌太鼓につれて神事を行ふ。 〉 「菖蒲田植」 臨済宗南禅寺派黒滝山正福寺 『京都府熊野郡誌』 〈 黒滝山 正福寺 川上村大字市野々小字古家 臨済宗南禅寺派 本尊=地蔵菩薩。 由緒=臨済宗南禅寺に属し、勝巌和尚を開山の祖と為す。天正年中勝巌此の国に遍歴し、仏燈を掲げ巨刹円城寺の廃絶を嘆き、旧跡を尋ね法燈を継ぎ、寺を興し正福寺と号す。爾来連綿十七代に至る。而して今尚円城寺の遺仏を存せり。 境内堂宇 観音堂。本尊=観世音菩薩。脇立=不動明王、多門天王。 由緒=本堂内には別に薬師如来弥勒菩薩を安置し、元円城寺の遺仏にして境外仏堂たりしが、明治四十三年本堂内に移転安置せらる。 庚申堂。本尊=金剛菩薩。 〉 《交通》 《産業》 市野々の主な歴史記録『丹哥府志』 〈 ◎市野々村(布袋野村より東南へ入る、是より佐野谷尉ケ畑に道あり殆ど近し) 【黒龍山正福寺】(臨済宗) 【天神社】 〉 『京都府熊野郡誌』 〈 円城寺峠の石室 大字市野々円城寺峠の旧道を進み行けば側に石室あり、村端より約一里の處なり、間口七尺五寸奥行十尺にして、高さは軒六尺棟八尺余あり、石室内に不動及び地蔵の石仏を安置す、不動は古色を帯び彫刻復見るべき所あり。年代等不明なれど、元石室の前面に不動の堂宇ありしといふ。抑もこの石室は冬期積雪に際し、行路者道を失し困難する事往々あり、一夜をこの石室に明し、危難を逃れし例多しと、こは行旅者のため特に修築公益を図れるものにて、所謂社会奉仕の一として最も美挙たるを失はず。傍側に其の年代を刻せるも石質風化して文字を判読する事能はざるを遺憾とす。 〉 『京都の昔話』 〈 幸せになった継子 むかし、お母さんが死んで、継子が継母に育てられたそうです。ところが、継子は継母にむりなことを言いつけられて--昔はみなたもとのある着物を着とりましたが-- 「たもとで風呂水を張れ」と。ところがそれはみなぼって(漏れて)しまうし、これは困ったことだと思って、死んだお母さんの墓場へ行った。 「お母さん、こんなむりなことを言いつけられたんだ。どうしたらいい」 「うん、それはなあ、ちょっと隠いて、椀を一つたもとに入れて、それで水を汲んでは風呂へさいざい入れさえすれば、それで水が張れる」 とこう言われた。そのようなことで、一つはつとまったらしいです。 継母は、今度は、 「たきぎを持ってこい。二度燃えるたきぎを持ってきたらこらえてやる」。 ところが、またそれもわからんで、お墓の前に行って、 「お母さん、どうしたらええ。また、むりな仕事を言いつけられた」 「それはとにかく、葉のある木を折ってこい。はじめに葉がゴウといって燃えるし、二度目に今度はじくのほうが燃える。それでまあ、二度燃えることになる」。 まあ、そういうことで、言いつけはみな、死んだお母さんのおかげでつとまったわけです。 お母さんは、 「まあお前も苦労するけど、節分さんには、また宮へお参り。もどりしなにいいことがある」 言うたそうな。それで継子は宮へ参った。行きしなにはなにもなかったのに、もどりしなには鳥居の横に赤鬼と青鬼とがどんどん火を焚いとって、そこをなかなか通らせりやせん。鬼たちは、 「どうでも通りたければ、ここに棺桶があるで、それを負うていんだら通いてやる」言うそうな。 しかしまあ、自分の家にいなにゃなんし、それを負うてもどったそうです。ところが家の中へ持って入るいうことはできんし、垣根のあたりに置いといたそうです。ところが朝間、どうなったかしらんと思って見にいったら、それがお金に変わっとったと。そこでまあ、いっきに分限者になって、継母もそれから継子をいじめんようになって、みんな幸福に暮らえたという。 語り手・田中兼吉 〉 市野々の小字一覧市野々(いちのの) 高森 高森小谷 鳥岡 佐々木 カンナ 深田 スカン谷 堂々 川原分ケ 森ノ上 天神 森ノ下 小高森 崩 下田 山崎 石原田 向田 柴原 順田 大坪 百谷 細谷 大谷 上柿 新ノ川 宮ノ下 中島 下岡谷 正釜 上ノ森 トウジリ 西ノ下 蔵掛椎 宮ノ上 九合 ヨトウ 川元 上地 上ノ田 後川 古屋敷 寺坂 カウカ ムセノ谷 ヤケノ 五ツ上 別田替 角田 釜谷口 釜谷 朽カナル ヌスヒト松 森屋谷 森屋敷 梨木谷 黒滝 ザナ谷 梨木谷口 サガリ谷 小屋ノ谷 小屋ノ谷口 大田 大開キ 暮ノ谷 上北谷 北谷 下七々滝 梅舞 カシアゲ 小谷 上岡谷 上坂 大向 米山 薬師 薬師ノ上 下掛 丑ケ淵 堂ノ奥 坂本 源ニヤ 大師 アマゲ 助谷 ロクロ谷 ヌカノ田 広野 滝谷 治郎右エ門 口ナシ口 小前口 小前 掛橋 大前 山ノ神 ヌカガハナ 一本椿 入角 塩釜 薬師ノ下 正福寺 円上寺 彦四郎 白鳥 大谷口 円城寺 ゲンニヤ 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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