菖蒲田植え'2011 (京丹後市市野々) |
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 ↑天満神社 ここは昔の久美浜町。川上谷の一番の奥の市野々の集落に天満神社が鎮座している。『丹哥府志』には天神社とあるが、 『熊野郡誌』(大正12)には、 〈 天満神社 村社。祭神=菅原大神。按ずるに天神を天満宮に誤れるものの如し。 由緒=当社の創立は最も古く、元高森神社の境内地を天神といひ古木鬱蒼たりしが、近年移転し跡地は畑に開墾せり。古来の伝説に高森神社を氏神と唱へし事あり、右の伝説は元来天神社は小字天神に鎮座ありて、現地に移転の際元社地に高森荒神を祀れるものにて、小字に天神の称を存せり。後世誤て、高森社を氏神なりしと言ひ伝へしものにて、当社には古来田植神事の古式あり、且つ天つ神の降下せらるるや、鞍を椎の枝に掛け給へりとて鞍掛椎といへる神木あり、右等は天満宮には何等関係なき事項にして、天つ神を奉祀せる事を知らる。現社地古くは明坂と唱ふ。… 田植神事=毎年五月五日菖蒲を田草とし各氏子より当日田草を奉納し、九歳より元服迄の男児社前に集合し、青年の唱ふる歌太鼓につれて神事を行ふ。 〉 『京都府の地名』には、 〈 小字宮ノ上の天満神社では、毎年端午の節句に「菖蒲田植」の行事が行われる。太鼓の悠長なリズムの菖蒲田植歌は中世のにおいを残す。 〉 『角川日本地名大辞典』には、 〈 川上谷川の最上流部に位置し、北は青地岳(446m)、南東は高竜寺岳(697m)。南の円城寺峠を越えれば但馬国(兵庫県)に出る。カンナ流し跡・タタラ跡がある。 〉 『和名抄』の熊野郡川上郷の地で、こうした地名のある所は鉄と思われるが、案の定タタラ跡などがあるという。高森はタカモリなのかコウモリなのか。明坂はアカサカか。七堂伽藍を備えていたといわれる円城寺、その法燈を継ぐ正福寺には薬師は円城寺の遺仏という。 田植神事=毎年五月五日菖蒲を田草とし各氏子より当日田草を奉納し、九歳より元服迄の男児社前に集合し、青年の唱ふる歌太鼓につれて神事を行ふ。 11時くらいから始まった。子供たちが菖蒲を30センチばかりに切りそろえ束ねて天秤棒に担いで集まってくる。しかしこの草は菖蒲ではないような、と坂根正喜氏は言う。帰って調べてみると、図鑑的に書けば白い花だから、シャガ(射干・著莪)というアヤメ科の多年草ではなかろうか、この時期に木陰などによく咲いている。 社前の広場に4間四方の標繩が張られていて、ここで神事が行われる。 市野々は50軒ばかりで、本当はこれだけの子供はいない。外へ出た2世3世たちがこの日はかなり加わっている。 神事が執り行われている。 いよいよ始まり。11時くらいです。8才から12才の男の子たちが輪になる。 さあ一杯持てよ、と青年が両手の上に菖蒲を積み上げてくれる。 さあキミもテンコ盛りだ。エッー! しょんぼりしょんぼりたうえ! 男の子たちは輪になり、両手一杯に菖蒲を抱えて、「しょんぼりしょんぼりたうえ」と唱えながら、空へ向けて勢いよく力一杯に投げ上げる。 「田植え」と呼ばれているが、どうしたことか「田植え」らしい立ち居振る舞いではない、こうして菖蒲を投げ上げるだけである。投げ上げた菖蒲は頭の上に勢いよく降ってくるが、「しょんぼり」といったものでなく、豪雨の様子になる。しかし丹後では今日まで伝承された唯一の御田植神事系の行事であり、歌われる田植え歌は中世歌謡に共通するところのある貴重なものである。という。 広場の隅にお堂があって、そこでは「田植え歌」が歌われている。村の青年が歌うそうだけれども、もうかなり古くなってしまった様子の「青年」たちも。12番まである歌詞などは覚えていないらしく、書いたものを見ながらであった。これも中世から伝わるものという。 元々が男の子の節句だから、女の子は無視される。でもそれでは、というのか、竹箒を持ってまき散らかった菖蒲を黙々とただ集める、何かどこか高貴な日葉酢媛の末裔たち。 恒例のみんなの行楽行事になっている様子。 ワタシ的には悩むところで、神社で、神事で、はたして肉料理なんかを出していいものか、どうかである。祭礼の忌みの真っ最中に、神を穢すことになりはしないかと。 当地の祭礼をどうこうといっているのではなく、ワタシの住む町内の祭礼に、「どうだろバーベキューやってみたら」といった話がでることがある。鯛とかは神に捧げられているので、魚やイカは許されるのであろうが、肉はどうなのか。時の流れの行楽ということでOKなものなのか、それとも伝統的にはなぁと否なものなのか。 小さな忘れられた谷間だが、川上の地は古代は超重要な王都の地であった、この地の日葉酢媛は片目の垂仁帝の后となっているから、川上の地は古代全国屈指の金属生産地であったと推測される。いろいろ文献があるが、『網野町誌』には、 〈 川上摩須郎女と『丹波の五女』 『記』によれば、丹波道主命は「丹波の河上摩須郎女」を妻として迎えている。「河上」は土地の名で現久美浜町の「川上」のこととされる。旧川上(村)字須田には、川上摩須郎女−以下「摩須」と略記−の屋敷跡というものがあり、すぐ近くにはかの有名な「双竜環頭の太刀」を出土した湯船坂二号項もあって、この地域も伝説と事蹟とが共存しているようだ。 丹波道主と摩須の間には『紀』によれば五人の娘があった。上から順に日葉酢媛・淳葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・五番目が竹野媛(先出由碁理の娘と同名)であり、これを『丹波の五女』という。 しかし『記』では丹波道主の娘はヒバス媛・オト媛・ウタゴリ媛・マトノ媛の四人とされており、『紀』よりも一人少ない。 このうち長女にあたる日葉酢媛が垂仁帝の皇后となって、三男二女を生む。次男大足彦が景行天皇となる。このように当地域の古代伝承には由碁理の娘竹野媛といい、川上摩須郎女や日葉酢媛といい多くの有名女性が登場するが、これは先述のようにヤマトの首長勢力が、日本海ルートにつながる丹波の首長勢力と結ぶための、多分に政略的な婚姻−伝承とみることができよう。 〉 参考文献 『熊野郡誌』(大正12)には、 〈 天満神社 村社。祭神=菅原大神。按ずるに天神を天満宮に誤れるものの如し。 由緒=当社の創立は最も古く、元高森神社の境内地を天神といひ古木鬱蒼たりしが、近年移転し跡地は畑に開墾せり。古来の伝説に高森神社を氏神と唱へし事あり、右の伝説は元来天神社は小字天神に鎮座ありて、現地に移転の際元社地に高森荒神を祀れるものにて、小字に天神の称を存せり。後世誤て、高森社を氏神なりしと言ひ伝へしものにて、当社には古来田植神事の古式あり、且つ天つ神の降下せらるるや、鞍を椎の枝に掛け給へりとて鞍掛椎といへる神木あり、右等は天満宮には何等関係なき事項にして、天つ神を奉祀せる事を知らる。現社地古くは明坂と唱ふ。天明八年建立の棟札に河上谷市野々村明坂之庄奉建立宮殿天満宮の文字あれば、当時既に天満宮に誤りし事も推定せらる。而して明坂の名称の起因に就ては知る処にあらず。尚当社の祭日は古来十日にして、天満宮祭日と異れるも一考の要あり。明治四十二年拝殿の造営成り、爾来財産を増殖と、諸般の設備整ひければ、大正十年幣饌料供進神社として指定せらる。 氏子戸数=六十戸。境内神社。高森神社。祭神=大国玉神。八幡神社。祭神=応神天皇。山神社。祭神=大山祗命。大神宮。祭神=天照大神。 由緒=高森神社は元小字天神、八幡神社は小字上ノ森、山神社は小字上岡谷に鎮座ありしが、明治四十一年九月境内に移転し大神宮社と共に改築奉安せり。 神木=当社の東方約六十間にして椎の古木あり、目通一丈二尺余天神降下の際神馬の鞍を掛け給ひしより鞍掛椎といへり。 田植神事=毎年五月五日菖蒲を田草とし各氏子より当日田草を奉納し、九歳より元服迄の男児社前に集合し、青年の唱ふる歌太鼓につれて神事を行ふ。 〉 『京都の昔話』(昭58・京都新聞社) 〈 幸せになった継子 むかし、お母さんが死んで、継子が継母に育てられたそうです。ところが、継子は継母にむりなことを言いつけられて−−昔はみなたもとのある着物を着とりましたが−− 「たもとで風呂水を張れ」と。ところがそれはみなぼって(漏れて)しまうし、これは困ったことだと思って、死んだお母さんの墓場へ行った。 「お母さん、こんなむりなことを言いつけられたんだ。どうしたらいい」 「うん、それはなあ、ちょっと隠いて、椀を一つたもとに入れて、それで水を汲んでは風呂へさいざい入れさえすれば、それで水が張れる」 とこう言われた。そのようなことで、一つはつとまったらしいです。 継母は、今度は、 「たきぎを持ってこい。二度燃えるたきぎを持ってきたらこらえてやる」。 ところが、またそれもわからんで、お墓の前に行って、 「お母さん、どうしたらええ。また、むりな仕事を言いつけられた」 「それはとにかく、葉のある木を折ってこい。はじめに葉がゴウといって燃えるし、二度目に今度はじくのほうが燃える。それでまあ、二度燃えることになる」。 まあ、そういうことで、言いつけはみな、死んだお母さんのおかげでつとまったわけです。 お母さんは、 「まあお前も苦労するけど、節分さんには、また宮へお参り。もどりしなにいいことがある」 言うたそうな。それで継子は宮へ参った。行きしなにはなにもなかったのに、もどりしなには鳥居の横に赤鬼と青鬼とがどんどん火を焚いとって、そこをなかなか通らせりやせん。鬼たちは、 「どうでも通りたければ、ここに棺桶があるで、それを負うていんだら通いてやる」言うそう な。 しかしまあ、自分の家にいなにゃなんし、それを負うてもどったそうです。ところが家の中へ持って入るいうことはできんし、垣根のあたりに置いといたそうです。ところが朝間、どうなったかしらんと思って見にいったら、それがお金に変わっとったと。そこでまあ、いっきに分限者になって、継母もそれから継子をいじめんようになって、みんな幸福に暮らえたという。 語り手・田中兼吉 〉 |
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