黒部(くろべ)
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京都府京丹後市弥栄町黒部 京都府竹野郡弥栄町黒部 京都府竹野郡 弥栄村黒部 京都府竹野郡深田村黒部 |
黒部の概要《黒部の概要》 竹野川右岸沿いの峰山高校弥栄分校のあるあたり、野間への入口でもある。 中世は、黒戸荘で、平安末期~戦国期に見える荘園名。石清水八幡宮領。保元3年の八幡宮并極楽寺領に対する押妨の停止を命じた官宣旨に「丹後国 佐野庄 板浪別官 黒戸庄」と見える(石清水文書・平遣2959)。「丹後国田数帳」には「一 黒部〈戸〉保 五十四町五段 八幡領」と見え、「丹後御檀家帳」には「一 くろべの里にて 松田小治郎殿 松田との御内 孫左衛門殿。あく平治郎殿」とある。 近世の黒部村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、のち幕府領久美浜代官所支配。「丹哥府志」によれば、竹野郡内の吉沢・芋野・堤・溝谷・外村・等楽寺・堀越(等楽寺村枝郷)・黒部・船木・小田・国久・井辺・鳥取・木橋・和田野15か村を黒部庄と総称している。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年深田村の大字となる。 黒部は、明治22年~現在の大字名。はじめ深田村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 大正2年頃より小字池が谷で牛市が開かれ、昭和10年竹野郡内の市場であった宇川六社、網野、池が谷の三市場を黒部一ヵ所に統一したもの。 新羅明神を祀る船木の隣になり、あるいは黒部は呉部の転かも。。高句麗か百済か、ともかく渡来系地名かも知れない。。 《黒部の人口・世帯数》 768・245 《主な社寺など》 奈具遺跡 黒部銚子山古墳 弓木古墳、福谷、金谷の古墳群、黒部川中流にかせ谷遺物散布地がある。 黒部製鉄遺跡 深田部神社 黒部小学校の向かいの八幡山に鎮座する式内社。応仁期に旧社地(黒部小学校地・野崎)から移転したという。 社伝では丹波道主命が当地方平定後、五穀豊饒を祈願して豊宇気大神を祀り、社を創建したという。近くにその丹波道主命を葬るという黒部銚子山古墳があり、当地は丹波道主命の由縁の地か。丹波王国の中心地の一つかも知れない。 竹野郡式内社14座の中に、深田部神社があるが、大宇加神社もあり、この社を当社に当てる説も古来あるようである。 なお、岡山市中区今谷にある深田神社は当社から分霊を受けたといい、近世まで当社に代参の慣例があった。一時中絶していたが近年復活した。という。 「深田神社」。町誌は式内社としているが、そうではない、備前国神名帳で従二位、高い神階をもった神社である。深田神社は野田川にもあるが、丹波王国国王由縁の丹波王国の官社なのかも知れない。 「丹後国式内神社取調書」 〈 深田部神社 【覈】関村ニマス今熊野郡ニ属ス【明細】黒部村二月十一月巳日【道】所在同上八幡宮ト云【豊】同字深田八月十五日【式考】黒部村八幡)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志) 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 深田部神社 村社 字黒部鎮座 (延喜式)竹野郡 深田部(ルビ・フカタヘ)神社 (同社調文書)祭神 豊宇気大神 天照大御神 天児屋根命 誉田和気尊 豊宇気大神は崇神天皇十年癸己丹波道主命に詔り給ひ、国中に不服者あらば射向けよとの大命により、當国に下りたまひ平定の後、此国を治し坐せる時に、御稔豊に国人の安穏に日足り行かん事を欲し、坐して穀物に幸ひ給ふ、此一柱の大神を此地に鎮め奉り給ひしなり、明治の初村社に列せらる、 明治四十年三月一日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる (丹後考) 村社 深田部神社 在竹野郡深田村大字黒部小字深田山 祭神 宇気母智神 相殿 天照大御神 誉田別尊 天児屋根命 社伝曰祭神大皇御代丹波道主命四道将軍として當地巡撫の際鎮祭せし所なり且延喜式小社なり、當神社の分社岡山県上道郡幡多村大字今谷に在り式外の神社にして深田神社と称す従二位の位階ありしなり當社よりの分霊年月日不詳古老伝説には神護景雲二年と云ふ、又現今社地は元来八幡神社の社地なり元の宮地は當社より乾の方に當り三町余り隔てゝ字野崎といへる岳の草叢の中に一本の榎を植ゑ永く神跡の證として今に至り存在せり其年代不詳明治維新の際社名改称す、 (同社棟札) 屋根茸替、明和四年七月、天明六年八月文化二年七月等あり (幕) 氏子九十内名の寄進に係るものにして寛文九年とあり (同社調文書) 天照大御神、誉田和気食、天児屋根命、此三柱の大神鎮祭の年月詳かならずと雖、古来より神輿三社あり一は天照大御神一は誉田和気尊一は天児屋根命にして、毎年大祭のときは本社より南方二町命隔て神幸所へ行幸す、猶古代より各大神に一人宛累代の旗本と称する者ありて、神事の際供奉せり天照大御神旗本谷口氏家誉田和気尊藤田氏家天児屋根命垣内氏家此内藤田垣中両家は去る明冶十二年に至り自ら此役務を辞す、是により氏子総代の内にで二名に代り勤務することゝなりぬ、 社名原由深田部の名義社記に曰當地の近辺往古海原なりしが漸々潮水引き其跡深き沼田となる、其時の状況自然土地の地名となり此近辺総て深田と云ふ此地に創立せしを以て深田部神社と称するなり 本 社 梁行 五間 桁行五間一尺 文政十二己丑年十一月廿四日造営 門 仝二間 仝一間四尺三寸 文政十三庚寅年八月三日造営 拝 殿 仝二間 仝二間一尺六澗 仝上 輿 庫 仝二間 仝二間四尺五寸 仝上 境内坪数 千七百一坪 境 内 神 社 稲荷神社 祭神 宇迦之御魂神 須賀神社 祭神 素盞嗚命 元社名奥荒神と称せしを明治二年改称 神宮神社 祭神 仲哀天皇 神功皇后の大神なり 元社地は小字神宮山と称する地なり (実地聞書)字黒部の地名に母御(宮の奥にして神功皇后を祭る)小脇、鳥居、山瑞、かんぢやくご等あるは皆本社に関係あるものなり (口碑)尚仝社は中古まで福昌寺より祭祀を行ひたる歴史ありといふ) 〉 『弥栄町史』 〈 深田部神社 字黒部八幡山鎮座 元村社 延喜式内社 神饌幣帛料供進し得べき神社指定 祭神 宇気母智神(豊受大神) 八幡大神(誉田別尊後応神天皇) 天児屋根命(春日大神) 天照皇大神 由緒 神社明細帳及び同神社の古文書によると深田部神社の主神は元来宇気母智神で、上古崇神天皇十年九月(約二千五十年前)開化天皇の御孫丹波道主命に詔し給い背面なる国中に服せざるものあれば言向けよとの大命をもって当国に下り給い、平定後この国を治められし時五穀の稔り豊かに国土安穏ならん事を思召され、穀物を掌る宇気母智の神をこの地に鎮め給うとある。ゆえに当社は皇族丹波道主命の創祀されたるもので一般里人が勧請して分霊を奉祀せるものと趣きを異にする。爾来星霜を経て応仁年間(約五百年前)「神社は痛く荒廃し、宮柱も朽ち果てければ里人等相謀り深田山に鎮座の八幡社に遷し合祀せり」とある。 もとの社地は、当社の北の方三百メートル余り隔てた小字野崎の岡で、その岡の草叢にはその後一本の榎を植え永く神跡の証としたが、現在黒部小学校の敷地となり、校庭拡張の際多少移動したが今なお現存している。社名深田部の名は社説によれば「昔当地は海原であったが漸く潮水引き其の跡深き沼田となる。其時の状態自然地名となり深田という。此地に神社創立されたため深田部神社という」とある。通称八幡様というのは配神である八幡大神を宇気母智命を遷祀する以前より祭祀し、このお山を八幡山と称したのによる。八幡大神の創祖された年代は不詳であるが、鎌倉時代源家の氏神であり武将の崇敬篤く全国に祭祀され当地にも古くから祭祀されていたようで、長保三年八月(約千年前)の丹後地検帳という古文書に当社の社領地のあったことが記してあるそうである。配神天照皇大神、天児屋根命の創祀された年月その他由緒不詳であるが、神輿三社あって、 一つは八幡大神 一つは天照皇大神 一つは天児屋根命で毎年秋祭の時本社より南方二百余メートル隔てた神幸所へ行幸する。旧来より各大神に一人の旗本と称するものがいて神幸の際供奉した。 天照皇大神の旗本谷口家 八幡大神の 同 藤田家 天児屋根命の同 垣中家 当社は日本国内に類社なく、ただ岡山県備前の国上道郡幡多村字今谷に一社がある式内社であって、深田神社という当社よりの分霊年代は不明であるが、明治二十八年全国古社取調べにあたって先方深田神社社掌岡本真潔氏よりの照会で神護景雲二年(千二百年前)らしいと判明した。 昔から近世になるまで分社より代参の慣例があった。一時中絶していたが最近また復活した。 本殿 梁行 三メートル一八センチ 桁行 四メートル七〇センチ 上屋 梁行 九メートル〇九センチ 桁行 九メートル四〇センチ 拝殿 梁行 三メートル六六センチ 桁行 四メートル〇九センチ 庫蔵 梁行 三メートル六六センチ 桁行 五メートル 門 梁行 三メートル六六センチ 境内坪数 千七百一坪 境内神社 稲荷神社 祭神 宇迦之御魂神 須賀神社 祭神素盞嗚尊 もとの社名を奥荒神といったが明治二年改称。 神功神社 元社地神宮山より移転。 祭神 仲哀天皇 神功皇后 厳島神社 字黒部深田山鎮座 祭神 市杵島姫命 猿田彦神 須佐之男命 創立年代由緒不詳 愛宕神社 字黒部小字有田鎮座 祭神 火産霊神 加具津智神 由緒 明和五戌子年七月七日創建 山域国葛城郡愛宕神社遠州秋葉神社より神霊を請い奉祀したものである。 〉 黒部の踊子(府指定無形民俗文化財) 「丹波山地から流れ出る竹野川がつくる平野の一部、山側の丘陵に式内社とする深田部神社をもつ。地形からしてもいかにも古く拓かれた土地といえよう。この社の秋祭りに行なわれる芸能は、隣村の舟木とともに”踊子”と呼ばれる。その芸態や楽器構成は、田楽系とするには若干の躊躇があり、一種の風流系芸能とした方がよいのかもしれない。風流踊りが、まだ囃子物と称ばれていた時代の芸態の流れが存在しているとも見られる。しかし踊り手達が二列に並び演じるその動きには、田楽躍りから風流の囃子物が学んだ要素を思わせるものがないではない。」(『京都の田楽調査報告』) 踊子もみものだが、祭礼そのものもみものである。 屋根にブ厚い蒲団を敷いた「蒲団御輿」(太鼓のかつぎ屋台)が、間人の方面には見られるが、ここのもそれらしい。 動画 黒部の踊子 曹洞宗万寿山福昌寺。 境内には享禄4年刻印の十三仏石塔(逆修塔)が現存し、町文化財。山門は文化期の建造。 『丹後国竹野郡誌』 〈 福昌寺 曹洞宗 字黒部にあり (丹哥府志) 萬寿山福昌寺 曹洞宗 (同寺調文書) 長禄年間は小字不老ノ谷に在りたりと伝へられ明暦年問小字古寺に移され萬治三年四月換宗して今の地に移さる、此際字国久の久国寺及字井辺の長福寺を末寺として宮津の智源寺より賜はりしといふ、 (福昌寺再建記) 當寺の開基は久山和尚と称し前任を久岩和尚と云平僧地以前は不明関山然巌春泰大和尚、西森の吉岡か家の出處即智源寺第二世橘州宗曇大和尚之法子にて此寺を始て法地となし久国長福二ケ寺な末寺となして住山し後隠居して久国寺を建て又開山となる、第二世密菴長伝大和尚に至り伽藍造営悉く成就是亦隠居して長福寺を建て開山となれりされは伽藍造営より釣十世現住佛菴心宗大和尚まで星霜すでに百三十年程に及ふ事なれば棟朽?蝕みて堂宇大に破壊して柱礎殆んざ傾頽せんとす因之今茲文政四年辛巳冬諸檀相評議して本堂再建云々 (古社寺取調書) 境内三十二間南北三十間面積一反五畝二十七歩、古昔真言宗にて當国中郡橋本村西明院の末寺にして字古寺にありしを万治六丙午年四月転宗し、且村字虎山に移し開山然巌和尚なり、文政五午年三月再建す (実地調査) 境内墓地の古碑年代次の如し 享禄四年、天正七年、天正十四年、慶長十四年 (黒部区蔵社寺書上帳) 享和三年の書上帳に寛文元年然岩開山とあり 〉 『弥栄町史』 〈 万寿山福昌寺 字黒部 本尊 釈迦如来 曹洞宗 同寺調べの文書にょれば、「長禄年間までは(五百十年前)小字不老の谷にあったと伝えられ、明歴年間(約三百十年前)小字古寺に移され、寛文六年四月に、もとは真言宗で中郡橋木村縁城寺西明院の末寺であうたが転宗して字虎山に移った。開山に然厳春泰和尚で、「字国久の久国寺字井辺の長福寺を末寺として宮津智源浄より賜る」。 とある。 福昌寺再建記によれば、 「当寺の開基は久山和尚と称し、前住を久岩和尚という。平僧地以前の事は不明。 開山然厳春泰大和尚 西森吉岡家の出処即ち智源寺第二世橘州宗曇大和尚の法子にして、この寺を始めて法地となし、久岡、長福ニケ寺を末寺として住山し、後隠居して久国寺を建て又開山となる。第二世蜜菴長伝大和尚に至り、伽藍造営悉く成就是亦隠居して長福寺を建て開山となれり。 然れ共伽藍造営より第十世仏菴心宗大和尚まで星霜すでに百三十年に及ぶ事なれば、棟朽柱蝕みて堂宇大に破壊して柱礎殆ど傾頽せんとす。依って今茲に文政四年辛巳各諸担相評議して本堂再建云云」 とある。 古社寺取調書に 「境内三十二間南北三十間面積一反五畝二十七歩。古昔真言宗にて当国中郡橋木村西明院の末寺にして、字古寺にありしを、万治六年四月転宗し、同村字虎山に移し、開山は然厳和尚なり」。 文政五午年三月起工、同七年竣功した境内墓地の古碑古堪の年代は、享禄四年逆修塔(四百十年前)、天正七年(約三百九十年前)、慶長十四年(約三百六十年前)等があって、その由緒の古いことを物語っている。また同寺には宮津藩士沼野源治郎の位牌があって、法名自明源体信士という。 これにともなう伝説には、宮津の藩主青山大膳の家臣沼野源治郎同僚の讒言により、冤罪を蒙り追われ追われて黒部に至り、福昌寺本堂の床下で切腹して相果てた。 その後血まみれの亡霊が夜な夜な本堂に立った。ために慰霊法要を営んだとの一言い伝えがある。 なお庭園にば鎌倉時代の作なりと伝える吉い石灯籠がある。堂宇伽藍始め全境内清掃整備よく行届き大寺の風格も十分である。 〉 小字城山の黒部城跡には、城の守護神であったと伝える大宮神社(祭神・大宮能売命)がある。 『弥栄町史』 〈 黒部城 城主松田摂津守 黒部城山にあり三層よりなり上層平地は約二畝位ある。 一色軍記に、 「黒部の城主松田摂津守天正の頃、大宮宜大明神の社を、守護神として城山に移す。」「松田摂津守切腹の地は丹波郷と荒山の野境にあり。」 等の記録がある。 深田部神社神官今井正洋に伝わる系図抜萃すれば、 「今井四郎兼平より出ず。後能勢次郎政義の頃、松田摂津守に仕え、天正十年(三百八十年前)、主人松田摂津守 長岡兵部と戦い敗死す。政義深田部神社の拝殿に火を放ち、其の中にて切腹す。政義の一子惣之亟政名と名乗り、今井谷の口に住む。神官今井正洋はその後商なり」とある。 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 大宮神社 無格社 字黒部小字城山銭座 (神社明細帳) 祭神 大宮能売命 由緒 創立不詳、口碑曰該地は元城跡の地にして城主松田家藩籠守護の爲鎮祭せし大神なりと維時天正十三年信長公の爲に落城し終に松田摂津守自殺す依て爾来村民より再興修繕祭祀等営来る延宝二甲寅年九月再建す 〉 『弥栄町史』 〈 大宮神社 字黒部城山鎮座 祭神 大宮能売命 由結不詳であるが、口碑に伝えるところによれば、黒部城の城主松田摂津守の守護神として鎮祭した社である。天正十三年(三百八十余年前)秀吉のために落城し摂津守は自殺したが、爾来村民により修繕祭祀を営んだ。延宝二甲寅九月再建の棟札あり(約二百九十年前)。 〉 大正~昭和初期のプロ文芸評論家の平林初之輔は当地の出身。そう言われても、丹後人でも多くは知らない。以前はこんな案内板があったが、今はないようである。 この国道482号から少し東へ入ったところに生家があるという。平林初之輔(1892‐1931。明治25‐昭和6)は、加悦町の細井和喜蔵を育てたプロレタリア文学ごく初期の理論家として知られる。 黒部小学校高等科卒業して、京都師範学校中退。早大英文科卒。1918年「やまと新聞」に入社して文芸時評を担当。20年国際通信社に移り、青野季吉らとマルクス主義を研究。のち『種蒔く人』『文芸戦線』同人となり、初期プロレタリア文学運動の代表的理論家として活躍した。31年国際文芸家協会大会出席のため渡仏、パリで客死。著書に『無産階級の文化』(1923)、『文学理論の諸問題』(1929)などがある。 『丹後半島の旅』(澤潔) 〈 黒部というと、平林初之輔の名を忘れることができない。初期プロレタリア文学の指導的理論家であり、『女工哀史』で有名な細井和喜藏(加悦谷出身)と同時代の人である。 彼は明治二十五年(一八九二)十一月八日、竹野郡深田村黒部、今の弥栄町に生れた。父は旧姓田家で平林源助の長女、うめの婿養子となる。明治四十三年(一九一〇)四月、十九才で京都師範学校に入学。この頃の日本は、まさに大陸政策華やかなりし頃であって、入学した翌月から、大逆事件の容疑者としてアナーキストの逮捕が始まっている。 初之輔は大正二年(一九一三)四月、師範学校を脱走して上京するまでの多感な青春時代を京都に過ごし、休暇になると故郷黒部に帰った。師範学校に入学した年の八月、彼は「薔薇に似る君が頬に似る唇に似る夕雲はなつかしきかな」と歌い上げている。おそらく夏休み、黒部に帰省した初之輔は、蜩の降るように啼く夏の日の夕暮どき、茜色に染まりゆく故郷の夕雲を打ち仰ぎ、京都に残した恋人の顔を切なく思い浮べたのであろうか。 彼の生家は、今も黒部に残されている。丹後には、彼のようにひたむきで激しい気性の人が多く生れている。丹後のウラニシ風土のなせる業であろうか。 〉 『郷土と美術』(1991.7)は彼の没後60年特集号で、 「日本のプロレタリア文学理論は、平林初之輔・青野季吉・蔵原惟人という順序で、バトンタッチしていった。文芸・芸術の時代性、歴史性、階級性を解明して、まがりなりに、芸術の永遠性という旧来の概念を打破する礎石を築いた名誉は、日本の文学史の上では平林初之輔に所属するのである」という。 文芸・芸術だけでなく、歴史学や社会学などの社会科学は軒並みそうであるし、自然科学すらこのごろの原発問題の発言などを聞いていると、医学、工学、地質学や地震学津波学などの純な学問分野と見られてきた部門ですら、何から何までにすべてに、時代性・歴史性・階級性・政治性・党派制が見られる。簡単に言えばその人の社会的立場によって真理とするものが異なってくる、もう学問というものではなく、学問や科学を装っているが実際は単に己が社会的立場の政治的主張に落ちぶれている、こうした「学」を教育するという学校が当然ながらこれまた頽廃、校長を民間に変えればよくなるというものではもちろんない、(一国の宝、地域の未来を官に丸まかせるのは危険すぎるが、そうかといって一度も子供達を教えた経験のない民間人が校長になったとしてもよい教育ができたりするはずはない、どんなアホが応募したりするのであろう、とてもではないが、社会の未来はまかせられたりはしない。この世界では頼みもしないのに押しかけてきてワシに教えさせろなどいう者には決して教えさせてはならないとされているようだが当然でなかろうか)、それは学問・科学の母体となる社会そのものがごく一部の大金持ちとその他大多数の貧乏人の超独占資本主義国の格差社会に分裂してしまった以上、その反映である。 近代から現代社会では、避けようもなくなる一方での科学や学問の頽廃はごく一部連中のためのゼニ万能教育の横行のためであるが、どちらの立場に立つものがより正しく、より多数の人類の平和と安全と幸福に貢献する学問であるかは、初之輔氏のハナクソばかりの脳味噌があれば判断できよう。今では当たり前の常識理論だが、これが彼によるとは知らなかった、だいたい私は彼の著作を一度も読んだことがない、若い頃に読んだかも知れないが、記憶にはない、同丹後人でありながら…。 『郷土と美術』より引かせてもらうと… 「大正時代は明治と昭和に挟まれた僅か十四年間のことで短期ながら大正デモクラシー或は大正ロマンと呼ばれて親しまれ愛された時代であった。弥栄町出身の平林初之輔は黒部のわが家に帰る度に特高の監視づきだったので裸で寝ていても泥棒の心配がないわいと豪快に呵々大笑していたと云う有名な話がもてはやされていた。」 「私は、家出同然に故郷を出ました。家出をしたとき、私は力スリの着物に弁当を背負い、ふところには十六銭のお金と、折りたたみのナイフが入っていました。等楽寺の道を、夜明けめがけてあえぐようにして上り、京都に着いたときには、二銭銅貨が一枚だけふところに残っていました。私は今でも、そのときの二銭銅貨を宝物のようにして持っていますし、そのときのカスリの着物も記念に保存しております。 なぜ夜明け前に黒部を出たかといいますと、等楽寺谷の夜道がこわかったので、あの峠を夜明け前に上るようにするためだったのです。 私は、二・三日前に東京からこの黒部に帰ってきました。ところが有難いことに汽車に乗っても、公衆の中にいても、懐中物に要心する必要は少しもありません。なぜなら、私が外に出かけるときには、いつでも私服の刑事がついてきてくれるからです。今日のこの会場にも、網野警察の方から四、五人の刑事さんがみえているようですが、ご苦労なことであります」 権力というのは恐いのだ、ビクビクのようである、不正ばかりやっているから、正義の言葉が恐い、仮に正義を行っているなら、田舎者の一人の青年くらいを何を恐れることがあろうか。4・5人も刑事を貼り付けるところに権力の意外にももろい正体がばれてしまう。こうして萌芽のうちに何とか社会から封じ込めようとする。 丹後立国1300年記念に、看板ももっと大きくして、書は複製して全丹後人に無料で配ってくれ。京丹後市さんと与謝野町さんにお願いしたい。 《交通》 《産業》 黒部の主な歴史記録『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』 〈 竹野郡木津郷 一 黒部(戸)保 五十四町五段 八幡領 〉 『御檀家帳』 〈 一くろべの里にて 松田小治郎殿 松田との御内 孫 左 衛 門 殿 此御かた、御はつをの外、毎年 〔被仰〕 取締と□□候御月参のふせ あく平治郎殿 弐貢四百文つゝ御参らせ候さいさい かり神馬をまいらせ候 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎黒部村(溝谷村の次) 「丹後旧記に和名抄にある春部を黒部に当るは誤なり」春部は加佐郡小倉村なり、小倉村の古名は日部といふ、よって藻塩草既に小倉村条下に出す。 【大宇賀神社】(延喜式) 大宇賀神社今大宮売大明神若宮大明神と称す、丹波郡周枳村より遷し祭るといふ。(祭八月十五日) 【万寿山福昌寺】(曹洞宗) 【松田摂津守城墟】 摂津守討死の地、丹波郡荒山村に松田摂津守の碑あり蓋討死の地なりといふ。 〉 『丹後旧事記』 〈 大宇賀神社。黒部村。祭神=大宮宜大明神 若宮売大明神。 延喜式の竝小社にして谿羽道主命の勧請なり崇神天皇四十九年竝松社廿七社あり当郡の神戸所にて春部郷といふ今世黒部といふはあやまりか。 〉 『京都の田楽調査報告』(府教委・昭53) 黒部の踊子 名 称 踊子 所在地 竹野郡弥栄町黒部 時 期 一○月九日・一○日(旧暦九月八・九日) 深田部神社祭 峰山駅より間人行のバスの途中に位置する黒部は、丹波山地から流れ出る竹野川がつくる平野の一部、山側の丘陵に式内社とする深田部神社をもつ。地形からしてもいかにも古く拓かれた土地といえよう。 この社の秋祭りに行なわれる芸能は、隣村の舟木とともに”踊子”と呼ばれる。その芸態や楽器構成は、田楽系とするには若干の躊躇があり、一種の風流系芸能とした方がよしのかもしれない。風流踊りが、まだ囃子物と称ばれていた時代の芸態の流れが存在しているとも見られる。しかし踊り手達が二列に並び演じるその動きには、田楽躍りから風流の囃子物が学んだ要素を思わせるものがないではない。それ故に此処には田楽の一つの展開として、本調査の対象とした。 ただ、楽器構成が太鼓六名・ササラ六名・羯鼓(腰付け)六名で、太鼓とササラが出るから田楽系芸能という単純な分類は、芸能史上から賛成出来ない。ササラがスリササラであり、ビンザサラではないという大きな違いがあり(もっとも田楽躍りにビンザサラとともにスリザサラが用いられる所もある)、その芸態からいっても、田楽と断定するにはいささかの躊躇を感じる。 現在、宵宮は十月九日の八時過ぎに始まる。この祭礼には踊り子と称する少年達による組織と、神輿舁きの青年達による組織があるが、現在は後者はあまり機動していない。 少年達による踊り子という組織は、一種の少年組とも称されるべき半自治組織で、氏子中の少年が十歳程度になると加入が許される。組織の大将と呼ばれるリーダーは、中学二年生位で、彼等年長者の権限でメンバーを決める(現在は依頼する場合が多い)。この踊り子を勤めあげて若者組(青年団)に加入するわけである。この祭礼における踊り子組は、なかなかの収入があり、特に大将には年令不相応の権利が与えられる。しかし責任も大きく、練習も大変である。 踊り子組の人数は全部で一八名。大太鼓と呼ばれる締太鼓打三名。その太鼓を持つ者三名。腰付と称し、羯鼓を腰に付ける者六名。スリササラを手に持つ者六名で、このうち大太鼓の上二名が大将と呼ばれる。踊りにはこの他鬼役が出るが、これのみは大人の役で厄年の者や、身体の弱い者が希望して勤める。 この一八名の踊り子は各役二名づつ六名を一組とし、それぞれの旗本(祭祀に当る一定の家筋があった)に属し、練習期間中面倒を見てもらったというが、この習慣は既にない。 現在では九月に入ると踊り子役が決まり、毎夜黒部のお堂に七時半頃から九時頃まで集まり練習する。この時は大人が一人付くか、主体はあくまで少年達の側にあり、大将の統率のもとに行なわれる。新入りのスリササラの子供達にとっては、なかなかの恐しい存在であるらしい。昔は此処にて籠り、練習にはげんだものと思われるが、現在では九月三十日の晩と、宵宮の晩のみ、親が蒲団を運んで一晩を籠る。 青年団の組織は、現在神輿舁きとしての役目をはたすが、これにも組織と行事が果せられている。まず宵宮においては、九時過ぎに潔ぎのため池に赴くことで、境内に集合した青年達は、本殿の階段下に置かれた榊枝をもって、真暗な脇参道を馳け降り、下にある池(小川)に行って水垢離をとって(現在水に榊をつける程度)帰ってくる。これを三度半(半分は途中まで行く)繰り返すが、この間中神社では大太鼓が刻み打ちされている。 本来、青年は踊りのうち”大百”という最高の願がかけられた折には、少年にかわって青年が踊ったものといわれるが、今はなく、そのかわりに潔ぎから帰ると、一度だけ普段着のままの青年が踊りを代演することがある。祭礼当日は、この青年達は神輿を舁くのが主で、なかなか荒れるようである。少年達のような金銭の取り分はない。 二 宵宮の行事が始まる八時頃には、踊り子達は拝殿の左側(本殿にむかって)に陣取り、村人の願を受けつける。この時の衣裳は普段着(といっても筒袖の着物に黒帯)のまゝで黒襷をし、大将を先頭に並んでいる。村人による願は金額によって①スワリ三つ、②百度、③大百の三種類があり、②の百度と③の大百は宵宮しか演じない。なおこの宵宮の折は鬼役は出ない。 次々と村人が願をかけ、金と年令、目的を書いた封筒を持参し、掛りの少年(大将の次の者)に渡すと、その人の干支と目的、踊りの種類を大将が読み上げてから踊りを始める。次々に休む暇なく願がかけられるから、小さいスリササラ役などなかなか大変である。時々は大将が叱ったりもする。 青年団による水垢離のうち、太鼓乗りの役である二人だけは、他の者より早く神社へ来て、三度半の水垢離も先に始める。仕度の関係である。それが済むと大太鼓を打ちはじめるが、これを合図に他の青年も水垢離をはじめる。 この頃本殿における祭典も行なわれており、多くの参詣もある。神輿舁きの青年達が三度半の潔ぎを終了すると、一度だけ踊り子の少年に変って踊りを演じることがある。 その後も願の踊りは続けられ、それらがほゞ一段落すると、大将の判断で境内を出発し、お寺や役員の家へ踊りに行く。この頃籠り堂には、少年の家人によって蒲団が運びこまれる。 青年達もその間に神輿を舁き出し、神社のまわりをまわるが、踊り子の中に突っ込むなど大いにあばれまわり、最後に神社の石段を降りて行く。神輿がかき出されると踊り子も突っ込まれるので注意が忙しく、大将は目配りが大変である。 少年による踊り、青年団の神輿、祭典とそれぞれが互の責任において、同時進行するわけである。なお神輿には二人の太鼓打の青年が縛りつけられるようにして乗り、常に太鼓を連打する。一種の太鼓神輿である。 祭礼当日の踊り子は揃いの衣裳に冠り物を公民館にて支度し、そこにて一踊りした後、愛宕、母御などの村内の祠や、民家での踊りに出発する。この日は鬼役も付き、傘鉾三、旗三、裃姿の警固なども付く。また行列の最後に弓を持った者が従うのは、流鏑馬の名残りで、以前は他に相撲もあった。 踊り子の一行は役員宅や祠などにて踊り、宮の下まで来ると、そこから鬼役が神輿に対し七度半の使いをする。神輿の到着を待つ間、踊り子は再び願を受け付けるが、この時は百度や大百はやらず、スワリ三つのみである。鬼役の使いは、その出入にかならず踊り子の二列の間を割って通るきまりがある。 村中をめぐっていた神輿が、七度半の使いでようやく迎えられると、踊り子はこれに従い御旅所である馬場先に渡り、そこにてババサキと呼ぶ踊りを奉納、還御に従って神社へと帰る。そこにて再び踊り、摂社・末社にも奉納しつゝ、公民館へとむかい最後にそこにて一踊りし、全ての踊りを終了する。公民館にて少年達の責任で収入を分配。それぞれの家に帰る。昔はこの後にコバヨシと称する行事があった。これは踊り子が家々をまわって食料を集め、共同飲食するもので、野荒しの収穫も馳走されたという。 … 三 踊り子の衣裳のうち、宵宮では普段着のまゝ黒帯・黒襷であることは先に述べたが、当日は次の如くである。 大太鼓-絣の着物の上に赤い広袖の短羽織をはおる。その上から白襷をし、背に女帯を結ぶ。頭に赤熊。草履は三色鼻緒。左側の三人は締太鼓を革を上にして両手で持ち、右側の三人は桴を両手に一本づつ持つ。先頭の大将の赤熊のみ色が異なる。 腰付-着物は大太鼓に同じ。白襷に赤に三角帽子様の美しく飾った紙製の帽子を冠る。草履は大太鼓と同じ。腰に羯鼓様の太鼓を括りつけ、両手に桴をもつ。 スリササラ-衣裳は腰付に同じ。手にスリササラを持つ。 鬼-赤衣に胸当てをし、頭に赤熊。草履は三色鼻緒。襷。手に杖をもつ。 踊りの基本型は図Iの如く並ぶ。 大太鼓役のうち先頭をコワキ、二番目をトリイ、三番目をサンズイと称する。 踊り方には①オロシ ②ハサキ ③スワリ三つ(一つ・二つ・三つ) ④百度 ⑤大百の別があるが、宵宮では③④⑤しかやらず、①のオロシは道行の楽、②は祭礼当日お旅所の馬場先でのみ踊るもので、③のスワリ一つを可能な限り早いスピードでやるもの。踊り方は③と同じである。④と⑤は基本を③にするもので、それに拝殿のまわりをまわるとか石段を降りるとかの動きを加えたものである。 すなわち踊りの基本はスワリで、スワリの動きには表にした如く(A)と(B)の二つの基本があり、 スワリ一つは(A)+(B) スワリ二つは(A)+(B)+(B) スワリ三つは(A)+(B)+(B)+(B) ということになる。 百度の場合はスワリ三つを演じたあと、最後のスボーリ・スボーリで歩き出し、太鼓をボンと叩いてホーイホイ・ホーイホイという掛け合いの掛け声で走り出し、神社本殿と拝殿のまわりを三回まわり、元の位置に戻るとホーイホイの掛け声で座す。この走っている間は、スリササラは常に摺っていなければならず、太鼓・羯鼓ともにホーイホイにあわせて打つ。 大百の場合は百度と同じであるが、神社を走ってまわるその二回目に石段を降りて下まで行き戻って来るという大変に疲れる動きが入る。 なお他に特殊な踊り方としてミツメノカエシというのがあるが、これはスワリ三つの最後にスボーリ・スボーリと歩いて列を反対向きにし、スワリ一つをするという演じ方で、突きあたりの小祠などでのみ演じる。 願を受けた場合、トリイと呼ぶ大将の次の者が紙と金を受けとり、金額にあわせて大将が「ソロッタカ!・辰歳の家内安全…… スワリ三つ」という様に皆に知らせてから踊りはじめる。 因みに昭和五一年度の調査では、五百円でスワリ三つ。千円で百度、二千円以上で大百であり(宵宮)、本祭では、スワリ一つ・二つ・三つの区別があった。少年組の収入総額は不明であるが、十万を越す金額にはなるはずである。 この踊りの芸態的特色は、三つの楽器の奏者達がそれぞれに別々の動きをする点であろう。 なお調査年度に大将を勤めた中学二年生の金久祐作君の場合は、小学四年の折にはじめて加入。スリササラを勤め、次年に腰付、三年目・四年目が大太鼓、五年目の本年が大将ということであった。 楽器については第五章を参照されたい。 四 黒部・舟木の踊り子と称する芸能は、厳密な意味では田楽の範疇に入れるべきではなし。むしろ風流に分類した方がよいかもしれない。風流の傘鉾が付属し、太鼓持ちの持つ太鼓を、別の太鼓打の者が打つという芸態や、羯鼓など近江の湖南地方に残る”ケンケト”と呼ぶ芸能と類似する所もある。 伝承する村々でも、田楽という名称は用いない。また記録等もない。 しかし、スリササラを田楽躍の中にビンザサラとともに使用する所があり(隠岐美田八幡、出雲多久神社、石見福原八幡など)、田植の囃子に用いたものが、平安末期に風流田楽と称して本来の田楽躍と一緒になって演じられた事(永長の大田楽等の風流田楽)がある以上、いちがいに田楽の伝承にあらずとしてしまうわけにもいかないであろう。今後の研究にまちたい。 なお、行事について詳細に述べた書上げの控があるので、最後に参考としてあげておく。… ↑オニと呼ばれている。錫杖でガラガラとやってもらうと霊験があるよう。「お願いします」とひっきりなしに氏子がやってくる。 ↓これはトッケツだ、ガランガランの音にも霊験があるよう。こうした異形異様なものには魔除けの霊力があるのか。 こうした太古の心を残す古い村から現代精神を切り開く初之輔が誕生した。これらでやってもらうと現代人に生まれ変われるかも知れない。 この山、頂上に深田部神社が鎮座する丘陵の地層だが、これは花崗岩ではない。海底か湖底かに砂が堆積して、それが隆起したものに思われる。中に砂鉄が特別に堆積した部分があるのかも知れない。黒部もやはり鉄の村ではなかろうか。 黒部製鉄遺跡 黒部は鉄だ、地名もバカにはならないもので、ここには古代製鉄遺跡がある。遠處遺跡とは竹野川を挟んでその対岸になり、早く丹後王国が重要な地と位置づけていたような地であり、後には律令国家の国家事業であったかも知れない遺跡になる。 文献があまりなく、黒部も広く、その遺跡がどこにあるのかも私は不案内である。 『読売新聞(平6、9、8)』 〈 簡略製鉄炉が出土*弥栄・黒部製鉄遺跡*防湿構造なし、省力化が考案?*全国で二例目* 弥栄町黒部の奈良時代中期から平安時代前期(八世紀中ごろ-九世紀中ごろ)の黒部製鉄遺跡から、炉の下部に防湿用の粉炭層を持たない簡略化した構造の製鉄炉跡が出土したと、府埋蔵文化財調査研究センターは七日、発表した。近くのニゴレ遺跡群(八世紀後半)に続き全国で二例目で、同センターでは「製鉄炉の変遷を知る上で貴重な資料」としている。同遺跡から、製鉄炉跡七基が見つかり、うち一基が下部構造がなかった。丘陵のすその平たん部にあり、長さ3.5㍍、幅0.6㍍、深さ0.1㍍。炉の底にあたる粘土を焼き固めて防湿をしていた。下部構造を持つ製鉄炉に比べ、多くは生産できないが、炉の補修がより簡単なことから数回使われていた。隣接して燃料を作る炭窯跡十五基が出土した。丹後地方で発掘される製鉄遺跡は竹野川左岸で、古墳時代の製鉄コンビナートの遠所遺跡群(六世紀後半)やニゴレ遺跡群があり、時代が下るにつれて炉の規模は小さくなって、原料の砂鉄も地元産を用いたとみられる。黒部製鉄遺跡は同川右岸にあり、同センターでは、同センターでは、簡略化した製鉄炉は地元の有力者が製鉄の省力化を図るために考案したのではないか、としている。 〉 『読売新聞(平7、6、28)』 〈 古代の製鉄所新たに*炭窯跡23基、炉跡1基*弥栄・黒部遺跡から出土* 府埋蔵文化財調査研究センターは二十七日、弥栄町黒部の奈良時代中期から平安時代前期(八世紀後半から九世紀前半)の黒部遺跡のうち、仲谷、金屎(カナクソ)、青谷の三地区から炭窯跡二十三基、製鉄炉一基が見つかったと発表した。竹野川を挟んで西にある大規模製鉄遺跡の遠所遺跡群(六世紀後半から九世紀末)の後に、本格的な鉄の生産が行われていたとみている。同遺跡は、古代の製鉄コンビナートと呼ばれる遠所遺跡群の東約三・五㌔。九二年度から調査を行っており、すでに製鉄炉跡十基、炭窯二十八基を確認している。今回は、登り窯状炭窯跡十四基と円形炭窯跡八基、方形炭窯跡一基、製鉄炉跡一基を確認。炭窯で製鉄の燃料の炭を作っていたらしい。炭窯は大きいもので、青谷地区の登り窯状炭窯跡が長さ七・五㍍、幅一・二㍍、深さ約二㍍。また円形、方形炭窯跡は直径一ー一・五㍍ほどの大きさ。金屎地区の二基の登り窯状炭窯は山の斜面をくり抜いて並んで造られており、炭の層の重なりから、少なくとも南側のはニ回、北側のは三回は使われたらしい。仲谷地区から幅六十㌢、長さ二㍍の製鉄炉跡を確認。青谷地区からは製鉄炉の炉壁や鉄滓の破片が見つかり、製鉄炉が存在していた可能性がある。同センターでは「遠所遺跡に比べ登り窯状炭窯の割合が多く、大規模に製鉄を行っていたことがうかがわれる」としている。 〉 『京丹後市の歴史(中学校社会科副読本)』 〈 平林 初之輔 平林初乏輔は、日本の作家・推理作家・文芸評論家。プロレタリア文学運動の理論家として知られています。 明治25年(1892)11月8日、京都府竹野那深田村字黒部に、父万蔵、母うめの6人兄弟の長男として生まれました。明治43年(1910)、18歳で京都府師範学校に入学し、上京して早稲田大学文学部英文科に入学し、大正6年(1917)、25歳で早稲田大学を卒業し、アテネ・フランセでフランス語を学びました。 大正7年(1918)、26歳で、やまと新聞に入社しました。社会主義・マルクス主義に関心を持ち研究をすすめました。 また、プロレタリア文学を理論化することに力を尽くしました。大正13年にルソー「エミール(上下2巻)』を翻訳しており、この頃より探偵小説に興味を持ち始めます。「私の要求する探偵小説」を発表し、大正14年にルソー『民約論』を翻訳し、「自然主義文学の理論的体系』を刊行しています。昭和6年(1931)、フランスに映画研究のため留学中、パリ市内で急死しました。39歳でした。 〉 黒部の小字一覧黒部(くろべ) アサゴ アワラダニ アリダ アオダニ イザガリ イマイダニ イシグマ イチノオサ イクシ イシバタ イシブロ ウメノキガタニ エドガマエ オオドウリ オテジ オオチ オオシモジ オカジ オオタニグチ オテゴヤ カジガクボ カキノキガバナ カナヤ カセダニ カナクソ カワサキ カミタカノダイドウ カモン カワジリ カンジヤクボ カミウチジマ カミイツチヨウダ カヨウカ カシノキタニ カナヤヒガシ カエルゴダニ キツネヅカ キツネダニ ギヨウセンダニ クロサキ クガタニ クボイケ ケヤキガダニ コスギハラ コオチ コザカ コタニ ゴタンダ コワキ コバカ サンズイマエ シバハラガハナ シモタカノダイドウ シモイツチヨウダ シメウチ シモジガタニ シモウチジマ シングウ シングウノマ シロヤマ スクモダニ スギタニ スギタニマエ スミヤキ センボンオカ ソウズ ソトジマ ダシコデン タカグロ タニ タニオク チユウダン ツルベガオカゴシ ツツミクボ ツバキ テラガエ テラノシタ テラノカミ トチガクボ トイシガダニ トリカブト ドウチ トラヤマ ナカヤダニ ナグキタ ナカガワラ ナカガタニ ナカダニグチ ナカダニ ナグ ナグミナミ ナガシバハラ ニジユウシモ ニワイ ニシノシタ ニシモリ ノサキヒガシ ノサキキタ ノサキ ノサキニシ ハツタンモノ ハリノキ ハハゴ ハサコ ババミナミ ババ ババキタ ヒメウチ ヒヨウゴ フクモト フカタ フクニシ フナヤマ 阿難谷(あなんだに) 新宮腰(しんぐうこし) 下ケ地(しもがじ) 風呂谷(ふろだに) 芝原端岡(しばはらずはなおか) 千本浦(せんぼんうら) 千本岡浦(せんぼんおかうら) 谷貞(たにさだ) ホリ マルヤマ マノムカイ ミゾデングチ ミツイガオカ ミヤノシタ ミヤサカ ミゾデン ムナヒロ ムカシキヤマ モリダニ ヤノタニ 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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『弥栄町誌』 その他たくさん |
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