丹後の地名

溝谷(みぞたに)
京丹後市弥栄町溝谷


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京都府京丹後市弥栄町溝谷

京都府竹野郡弥栄町溝谷

京都府竹野郡弥栄村溝谷

京都府竹野郡溝谷村溝谷

溝谷の概要




《溝谷の概要》

旧弥栄町の中心地で、京丹後市弥栄支庁や弥栄病院などがある。竹野川に溝谷川が合流し、間人街道と網野(岩滝)街道が交差する要所。イチバという字もあり神社もある、古くから周辺の経済の中心であったと思われる。
溝谷は戦国期に見える地名で、伊根町菅谷の妙光寺の天文23年6月28日付鐘銘に「舟木庄溝谷」と見える。
溝谷村は、江戸期~明治22年の村名。宮津藩領。枝村に外村(とのむら)がある。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同年再び外村を合併。同22年溝谷村の大字となる。

近代の広い意味の溝谷村は、明治22年~昭和8年の竹野郡の自治体名で、溝谷・等楽寺の2か村が合併して成立したもの。旧村名を継承した2大字を編成。旧溝谷村溝谷を甲区、同外村を乙区とした。昭和8年弥栄村の一部となる。村制時の2大字は弥栄村の大字に継承された。
溝谷は、明治22~現在の大字名。はじめ溝谷村、昭和8年からは弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《溝谷の人口・世帯数》 1186・337



《主な社寺など》

奈具遺跡・奈具岡遺跡・奈具岡北1号墳
穴ノ谷2号墳
溝谷古墳群


溝谷神社(字溝谷 ヒツギ)神額旧外村に鎮座。溝谷・外村・等楽寺の氏神。祭神は新羅大明神(須佐之男命)・奈具大明神(豊受気能売命)・天照大神。式内社。
崇神天皇の時、丹波道主命が素盞鳴命を三宝荒神として奉斎すれば天下は泰平になるだろうとの夢告を受けて祀り、またその子新羅将軍大矢田宿禰が帰国の際暴風雨に遭い、素盞鳴命の神徳に祈って、無事に帰ることができれば新羅大明神として奉斎することを誓い、祀ったという。今でも航海の神として崇敬される。
「三代実録」元慶元年(877)に「授(中略)丹後国正六位上竹野神、山伎神並従五位下」とある「山伎神」は溝谷神社の古名であろうの説がある。
永万元年(1165)平重盛、天正年間(1573-92)織田信長が社殿を再建したと伝え、現存の「新羅大明神」の神号額は信長の寄進と伝える。境内に伝明智光秀奉納の石灯籠もある。
溝谷神社(外村)

『丹哥府志』
 〈 ◎外村
【溝谷神社】(延喜式)
溝谷神社は今新羅大明神と称す、神功皇后新羅より帰朝の時竹野浦に着船す因て祭る。  〉 

『丹後旧事記』
 〈 溝谷神社。溝谷庄外村。祭神=新羅大明神 素盞能宇尊。
延喜式の小社 午頭天王新羅より帰朝ありけるを祭て神号とするなり勧請の年暦いつよりと云事をしらず。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 溝谷神社 村社 字ヒツイ鎮座
 (延喜式) 溝谷神社
 (丹哥府志) 溝谷神社は今新羅大明神と称す
 (神社明細帳) 祭神 須佐之男命 天照皇大神 豊宇加能売命
 創建不詳、明治二巳年四月再建、溝谷村及等楽寺村、吉津村の内七戸合して四百二十三戸の氏神なりしが其後船木村は分離したり、明治六年二月村社に列す、相殿に延書式内奈具神社祭神畳宇賀能売命にして元奈具村の鎮座なりしに、嘉吉三癸亥年非常の暴風雨にて山崩大洪水に依て元奈具社は溝谷神社へ合併す、而して奈具村は亡村となる、其際奈具神社は溝谷神社へ引移し相殿に奉祀す、就中奈具村より引越せし者現今溝谷村に二十二戸相続の者は奈具神の氏子なりしに明治六年癸酉二月中舊豊岡県管轄中、元教務省より命令有之旨を以溝谷神社相殿にある奈具神社の霊石と式内號を船木村の奈具神社へ移転すべき旨達に依て、同年六月中式内號、霊石を船木村へ引移す、
明治四十年三月一日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる
一本  殿  染行二間四寸 桁行二間一尺五寸
一拝  殿  仝 二間三尺 仝 六間三尺六寸
一境内坪数  千五百三十八坪
一境外所有地
  田 三畝十三歩     字日津井谷
  田 二反四畝歩     字 馬 場 谷
  畑 参畝二十二歩    仝
一氏  子 三百七十七戸
境 内 神 社
 大宇迦神社
 祭神 大宇迦命  天日鷲命 奥津彦命
    丹波道主命      奥津姫命 大宮売命 天香山命
  由緒 不詳

 棚機神社
   祭神 棚機姫命 火産霊神
   由緒 不 詳

 市杵島神社
   祭神  市杵島姫命
   由緒 不 詳

 布津主神社
   祭神 布 津 主 命
   由緒 不詳
(丹後旧事記)
 溝谷神社   溝谷庄外材
 祭神  新羅大明神 素盞嗚命
 延喜式小社牛頭天皇新羅国より帰朝有けるを祭りし神號なり、勧請の年歴いつよりと言事を知らず
(社記) 創立不詳當社の古文書は火災の爲め焼失せしに付往昔の由緒は不詳と雖、人皇十代崇神天皇秋七月将軍丹波道主命當国に派遣せられ土形の里に国府を定め居住あり、或時神夢の教あり眞名井の卜(卜ハウラ又ハキタトモ云)のひつき谷に山岐神あり、素盞嗚命の孫粟の御子を以て三寶荒神として斎き奉らげ天下太平ならんと、道主命神教に従ひ丹波国眞名井卜日ウキ山の麓の水口に粟御子を以て三寶荒神と崇め奉る、其後粟の御子は水口の下に新宮を建てゝ此處より斎き奉る、囚て水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ、溝谷村字溝谷を舊名外邑と云ひしは真名井の卜と云ふ卜の字を外の字に誤りて云ひしものと、其後丹波道主命の子大矢田宿祢は成務仲哀二帝神功皇后に仕へて三韓征伐に従ひ新羅に止り鎮守将軍となり新羅より毎年八十艘の貢を献す、其後帰朝の時風濤激浪山をなし航海の術なきに苦みしに素盞嗚尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば新羅大明神と心中に祈願を結びけれは激浪忽ち変じて蒼々たる海となりて無恙帰朝しければ、直ちに當社を改築せられ新羅大明神と崇め奉る
人皇七十八代永萬元年乙酉大政大臣平清盛の嫡子平重盛丹後守に任せられし時、當国與謝郡府中村小松に舘を造築せられし時武運長久の爲め新羅大明神を御信仰遊はされ當社を御再建なされたりと、其後天正年中織田内大臣信長公先例に任せ當社を改築せられ新羅大明神の御神号を額面に書き鋳造して納めらる、其扁額今尚ほ保存す明治二年に至り當社を改築す、當境内に明智光秀の奉納せりと称する石燈龍一基あり文久三年三月勅願により夷狄退散天下泰平の御祈祷を執行し同年六月上旬、御祈祷御祓壹箱並に御神供壹箱献上し御祈祷料として金千四百疋禁裏御所より御下賜の栄を受く、元治元年甲子年三月より五月下旬迄神事潔齋し、王体御安全之御祈祷執行し同年六月四日御祈祷御祓壹箱御神供壹箱御局会所へ献上す
一御撫物       一箱
一御会付       壹枚
一白銀        参枚
右は元治元年の拝領にして此年より毎年三月 天皇陛下御寶柞萬歳の御祈祷被出仰 御撫物御会付を預り奉り御幣物料を拝受し長日御祈祷執行仕り翌年三月十七日、御撫物及御曾付御交換披仰出其際當社大麻御神供奉献の式法行事を明治三年に至る迄毎年被仰出、明治三年三月十八日宮内省より例に依り御撫物及御曾付御交換せられ御幣物料を拝受し、其際當社大麻御神供等献じ奉りしに明治四年に至りては大政官の御布告を以て被爲廢、
寶  物
一御 撫 物       壹 箱
  一御 合 符        一  枚  〉 

『弥栄町史』
 〈 溝谷神社 外村ヒツギ鎮座
 元村社
 祭神 新羅大明神(須佐之男命)
    奈具大明神(豊宇気能売命)
    天照皇大神
当社は旧溝谷村三部落の氏神で延喜式内所載の古社である。
由緒
丹後旧事記 神社明細帳及び当社に伝わる記録によれば、
「人皇十代崇神天皇の御代(約二千六十年前)丹波道主命、当国に派遣され当地方平定後、土形の里に国府を定め居住せらる。或時神夢の教あり、真名井のト(北の意)ヒツギ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞嗚命を以て三宝荒神と斎き奉らぽ天下泰平ならんと。丹波道主命、神教に従い丹波の国真名井のト。ヒツギ谷の麓の水口に(当時は丹後も丹波という)新宮を建て斎き奉る。因ってその水の流れる所を溝谷の庄という。外村の旧名トの邑といいしが、真名井のトが外の字に変ったものならん」
とある。
「其後丹波道主命の御子大矢田宿弥は成務、仲哀二帝及び神功皇后に仕えて神功皇后の三韓征伐に従い新羅に止まり、鎮守将軍となり新羅より毎年多量の貢物を献ぜしめた。其後帰朝の際風濤激浪山をなし、航海の術なきに苦しみし時、素盞嗚命の神徳を仰ぎ奉り、我れ此度恙なく帰朝せぽ新羅大明神と奉崇せんと、心中祈りければ激浪変じて畳海となりて、恙なく帰朝せるを以て直ちに当社を改築せられ新羅大明神と崇め奉る」
とある。
したがって当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅将軍大矢田宿弥の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである。
相殿に延喜式内奈具大明神を祀る。この祭神は丹後旧事記によれば、「中郡比治の嶺真名井に天降った天女の一人で苦労を重ねて泣く泣く或一村に着き、静かに茲に住み終に身を終る。是れ豊宇気能売命なり」とある。泣く村より奈具村となり奈具大明神として祀ったようである。嘉吉三癸亥年(五百二十年前)非常な暴風雨のため、山崩れ大洪水等の災害があり、そのため奈具村は亡村となり、奈具大明神は溝谷神社に遷し、相殿に合祀することとなった。したがって明治初年ごろまでは毎年秋の例祭には、船木より代表者が参拝したものである。
 この際溝谷及び外村に移住したもの二十三戸で氏子となったと記されている。その後天保三年(百三十五年前)船木奈具神社より式内号及び霊石返還の争議があったが、藩庁の裁きによって事なく経過していたところ、明治六年二月豊岡県管轄当時神祇省から溝谷神社に合祀した奈具大明神の式内号及び霊石を船木奈具神社に移転するよう通達があって同年六月移した。しかし溝谷神社にも今な相殿に奉祀する。
溝谷神社は明治四年村社に列し同四十年三月神饌幣帛料供進し得べき神社に指定された。
皇室との関係
当社は勅願により文久三年三月『夷狄退散天下泰平』の御祈祷を執行し、同年六月上旬御祈祷御祓一箱御供一箱を献上し、御祈祷料として金千二百疋也を禁裏御所より御下賜された。次に元治元年三月より五月まで、神事潔斉し尊体安全の御祈祷を執行し、同年六月御祓御神供を局会所を通じて献上した。この年より毎年天皇陛下の宝酢万歳の御祈祷を仰せ出され、御撫物(陛下のお体に代るもの)御用札(神官の御所へ司候の際道中使用した看板)をお預りし、御祈祷料として白銀三枚を拝受した。
その後引続き毎年長期御祈祷を執行し、翌年三月十七日当社より大麻及び御神供を献上し、同時に御撫物、御用札の交換を仰せ出された。式法行事は明治三年まで継続したが、明治四年太政官布告発布と同時廃止となった。
明治四年廃止の際お預りしたまま神社に保管した。御撫物及び御用札は今なお社宝として現在に及んでいる。
武将の崇敬
人皇七十八代二条天皇の永万元年(八百年前)太政官平清盛の嫡子平重盛丹後守に任ぜられ、与謝郡府中村小松在に舘を築造して丹後を統治した時、武運長久祈願のため新羅大明神を信仰し当社を再建されたという。
その後天正年間(約三百九十年前)織田信長は当社の信仰とくに篤く、先例にならって社殿を改築され、新羅大明神の神号を書し、額に鋳造して奉納された。この額面は中央に新羅大明神の神号左に信長の花押があり、現在も社宝として保管されている。
その他惟任将軍明智光秀もまた新羅大明神の信仰篤く、神明の加護により願望成就の暁はさらに一基を献納しようとただ一基のみ奉納したと伝えられる花崗岩の石灯籠がある。この石灯篭は大東亜戦争前、当時の京都帝大教授西田博士の鑑定の結果国宝級と折紙をつけられ、まず順序として重要美術品指定の手続をするよう勧められ、直ちに手続きの結果前重要美術品(現在の重要文化財)に指定され国の保護を受けることになっていた。
神位所領
三代実録という古文書の元慶元年十二月二十九日乙未の条に曰く「丹後国竹野郡正六位上新羅大明神に従五位下を授く」
とあり、職員令によれば従五位下の神は八町四方の社領を賜る法則で二百五十石の領名なりと。また口碑に伝えるところによれぽ当社は
昔千百石の黒印地を所持したことがあったというが証拠はない。
社宝
一、御撫物(陛下のお召しものの一部)
一、御用札(御祈祷大麻神饌等を御所に献納の際神官一行の先頭に使用したもの)
一、拝領白銀(祈祷料として御所より拝領したもの)
一、鋳造神号額(武将織田信長の寄進と伝え花押あるもの)
一、石灯籠(前重要美術品指定明智光秀寄進と伝うる
もの)
一、本殿
一、拝殿
一、割間拝殿
一、境内坪数千五百三十八坪
境内神社
大宇加神社
 祭神大宇加命 丹波道主命
 大宮売命 奥津彦神
 奥津姫命 天香山神
由緒不詳
棚機神社
祭神 棚機姫命 火産霊神
市杵島神社
祭神 市杵島姫命 由緒不詳
布津主神社
祭神布津主命
由緒不詳
愛宕神社 字外村小字上地鎮座
祭神 火産霊神
由緒不詳
愛宕神社 字溝谷小字八所鎮座
祭神 火産霊神
由緒不詳
立山神社 字溝谷小字立山鎮座
祭神 三柱の命新宮大権現
元三宝荒神と称したが明治五年立山神社と改称した。
新宮大権現は小字新宮山に鎮座してあっだが明治五年立山神社に合祀

八所神社 字溝谷小字八所鎮座
祭神 三柱の命
由緒不詳

森ケ崎神社 字溝谷小字市場岡鎮座
祭神 三柱神 若宮神 八幡大神
由緒 創祀年月とも不詳であるが昔蚕の神その他産業の神として崇められ、毎年旧暦八月十七日より三日間米麦を始め呉服小間物陶器木具に至るまで出品する大市があったので、この辺を字溝谷小字市場岡の地名が生じたと古老は言伝えている。明治五年三月小字若宮上に鎮座の若宮神社龍淵寺鎮守八幡大神を移転合祀された。

大宮神社 字等楽寺小字中島鎮座
祭神由緒共に不詳
愛宕神社 字等楽寺小字ユリガ尾鎮座
祭神 火産霊神 由緒不詳
白山神社 等楽寺谷地岡鎮座
祭神 白山大権現 由緒不詳  〉 

「室尾山観音寺神名帳」の「竹野郡五十八前」に、

 〈 従三位上 溝谷明神
正四位 溝谷物部明神
正四位上 溝谷國主明神  〉 

溝谷物部社は不明だが、溝谷国主社は境内社の大宇迦神社ではなかろうか。


曹洞宗霊長山万願寺には大般若波羅蜜多経600巻が現存する。
万願寺(外村)
『丹哥府志』
 〈 【雲長山万願寺】(曹洞宗)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 万願寺 曹洞宗 溝谷乙区にあり
 (丹哥府志) 雲長山萬願寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 運長山万願寺と称す、本尊は直観世音菩薩を安置す、慶長十年三月の創立にして其後平僧地(普通寺の資格なきもの)たること久しく、寛保二年六月法置開山(普通寺の資格に列す)となりしが爾後敬度の火炎に罹りたり)  〉 

『弥栄町誌』
 〈 長雲山万願寺 字外村
本尊 観音菩薩 曹洞宗
同寺の文書によれば、慶長十年三月の(約三百六十年前)の創立で、その後長らく平僧地(普通寺の資格ないもの)であったが、寛保二年六月法置開山(普通寺の資格)となった。爾後数度の火災に罹り古い文献ことごとく焼失したようである。
 同寺境内には高さ四メートル余、花崗岩の不動明王の大立像がある。吉岡直次の寄進したもので、作者は中郡鱒留の田中作治である。日支事変等の戦死者の霊を慰めるため寄進されたもので台に納骨室がある。  〉 

曹洞宗興国山龍淵寺
龍淵寺(溝谷)
『丹哥府志』
 〈 【興国山龍淵寺】(曹洞宗)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 龍淵寺 曹洞宗  溝谷甲区にあり
 (丹哥府志) 興国山龍淵寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 慶安元年二月の創建にして宮津智源寺橘州宗曇和尚の開山なり、本尊は聖観世音菩薩を安置す
 (寺記) 天保十三寅年當寺什寶道照法師御作聖観世音菩薩八月十六日御領主松平伯耆守え俵御所望に指上申候、御上様より玄米五俵被置下侯施主常四郎えも玄米壹俵被下侯
  註、本観音像は當寺の本尊にあらず個人の寄進したるものなり、一寸八分の黄金佛なりしといふ、  〉 

『弥栄町誌』
 〈 興国山龍渕寺 字溝谷
本尊 聖観音菩薩 曹洞宋
同寺調べによれば
「慶安元年二月(約三百三十年前)の創建で、宮津智源寺の橘州宗曇和尚開山勤室文察和尚開基なりという。現在の本堂は弘化二年(約百二十年前)第十四世寿峰泰寛和尚により建造され、庫裡は安政二年(約百十年前)第十五世独庵恵音和尚の建造である。
山門は正徳四年(二百五十年前)、二世大心祖道和尚の建造であるが、歳月が経つに従って老朽したので、第十世正法円宗和尚の時代に修復したもので、建物としては徳川初期のものという。
同寺過古帳の記録によれば、当村に常四郎という者があったが、生まれつき魚とりがすきで、網を持って竹野川で魚獲中、網に一寸八分の黄金仏がかかり寺に納めた。
この仏敵は道照法師御作と鑑定され、同寺の秘仏として祀り、それより七月十七日を縁日とし、観音法要を営む例となったが、この仏像の由来が時の領主松平伯耆守の耳に入り、持参して御覧に入れるよう指示があったので、御覧に入れた所お気に召し、兜の八幡座におさめたいからと所望され、天保十三年八月十六日領主に差し出し、この時寺へは玄米五俵を、常四郎へは玄米一俵を下されたとある。今はその秘仏はないが、引き続き観音様はお祭りし、八月十七日の縁日には遠く他町から出張して売店を開くもの多く、盆踊りなどですこぶる賑やかである。
薬師堂 字溝谷八所
創立年代不明であるが、龍渕寺の境外仏として古くから祀られたようである。本尊薬師如来並びに左右脇立の立派さは稀に見る秀作のようである。  〉 

小字立山には真言宗醍醐寺三宝院末の胎蔵院があった(現在は廃寺)。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 胎蔵院  字溝谷字立山にあり
 (院記) 舊修験眞言宗  三寶院末
 覚文二年、坂根悔山法印の創立する所なり

       奉持上舊修験明細書
 古義真言宗本寺         丹後国竹野郡溝谷村
   一醍醐三寶院末            小膳
右當住父海山一男得道之儀者與謝郡後野村寿福院より得道仕候於小篠道場菩提山寶蔵院に伝法仕候

一本 尊 不動明王
 二坪二厘五毛
              丹州竹野郡溝谷村
 補 任                 海  山
     應命許可院號事

 右 奉
 當山法頭御門主御気色件人宜令称胎蔵院依御消息行之者
  天保四年三月廿三日  僧正法印淳覚 奉 花押
             刑部卿法印豪正印
             治部卿法印宣重印
             河内介源春澄印


補 任                胎 蔵 院 海 山
     応命許可綿地袈裟事
右 奉
當山法頭御門主御気色件人宜令着錦地袈裟依御消息行之者
 天保四年三月二十三日   僧正法印淳覚奉花押
              刑部卿法印豪正
              治部卿法印宣重
              河内介源春澄  〉 

『弥栄町史』
 〈 胎蔵院 字溝谷立山
院記によれば、
旧修験真言宗三宝院末寺
寛文二年(約三百年前)坂根誨山法印の創立で、本尊は不動明王であった。今は廃寺となっている。  〉 


溝谷城跡。
『弥栄町史』

 〈 溝谷城
字溝谷小字立山にあり、三層より成り、最上層約一畝歩、第二層約二畝歩、その附近に道路馬場等の跡があり、なおその付近に馬乗禿という所がある。城主不詳。  〉 

外村城跡
『弥栄町史』
 〈 外村城 字外村小字城山
溝谷神社の東方城山にある。二層よりなり、上層の広さ約二畝歩、南面後方の山続きを深く切割って、城山を孤立させたようである。城主名不詳。  〉 

外村は殿村ではなかろうか。


《交通》


《産業》




溝谷の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎溝谷村(堤村の次)
【森ケ崎大明神】
【興国山龍淵寺】(曹洞宗)
◎外村(溝谷村より南へ入る、是より野間の庄へ出る)
【溝谷神社】(延喜式)
溝谷神社は今新羅大明神と称す、神功皇后新羅より帰朝の時竹野浦に着船す因て祭る。
【雲長山万願寺】(曹洞宗)
【月見の松】
月見の松は溝谷村より外村へ至る間にあり、松の傍に月見の岩あり、八月十五日夜此處に来りて月を眺むれば一田一田に月の景あり、田毎の月といふ、地理の然らしむ唯更科のみならず。  〉 


『大日本地名辞書』
 〈 【溝谷】今溝谷村と云ふ、延喜式溝谷神社此に在り、其相殿に奈具神を配祀す、嘉吉年中奈具の村里洪水の為めに流亡したる事あり、其時之を移せりと。〔神祇志料〕  〉 


溝谷古墳群
『京丹後市の考古資料』
 〈 溝谷2号墳(みぞたににごうふん)
所在地:弥栄町溝谷小字市場岡
立地:竹野川中流域、支流構谷川右岸丘陵上
時代:古墳時代中期
調査年次:1993年(府センタ)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:市教委
文献:C096
遺構
溝谷古墳群は、標高約55m前後の尾根上に造られた3基の古墳からなる古墳群である。1号墳は一辺15m、高さ2.0~2.5mの方墳であり、3号墳は2号墳の東側に舌状に張り出す平坦面に築かれた木棺内に礫床を施した埋葬施設を持つ古墳である。
 2号墳は、標高58m前後の尾根稜線上に立地する直径28m、高さ3mの円墳である。墳丘は自然地形を利用しており、径17m前後の墳頂部平坦面の中央に1基の埋葬施設を持つ。埋葬施設は、全長9.9m、北端幅2.9m南端幅2.2m、高さ1.2mの巨大な二段墓壙の中に、2枚の側板と2枚の小口板および1枚の仕切り板からなる組合式木棺安置されていた。底板はなく、厚さ3㎝ほどの粘質土の上に径0.5~1.0㎝の円礫が敷かれていた。側板は7.7m、厚さ3㎝前後の板材で、南小口板の端か1.75m、北小口板は1.5m内側に入ったところに設けられ、両小口板で挟まれた空間に遺骸を納めている。この内のほぼ中央部に仕切り板があり、2区画に分割されている。
なお、東側墳丘裾の平坦面からも礫床を持つ組合式木棺が検出されている(3号墳)
遺物
2号墳の埋葬施設では、2区画に分割された棺内のうち、南側で席に混じって朱が認められ、南西隅で鉄製刀子1点が出土した。また、北側からは南小口に接したところで径9.4㎝の鋸歯文鏡1面と碧玉製管玉2点が出土した。
意義
溝谷2号墳は、直径28mの円墳で長さ約10m、幅約3mの大規模な埋葬施設を有する本棺直葬墳である。2号墳の時期は出土遺物からは判別しがたいが、日本海側の地城における特徴的な埋葬形態とされる礫床を持つほかの古墳がいずれも5世紀初頭から前半に位置づけられていることから、2号墳もこの時期を大きく逸脱するものではない。  〉 

『読売新聞』(93.7.23)

 〈 弥栄町の溝谷古墳群を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは22日、仕切り板を組み合わせていたと見られる長さ8㍍近い木棺跡のある古墳時代中期(五世紀前半)の円墳が見つかったと、発表した。同形の木棺跡は、府内では岩滝町・日ノ内古墳で確認されているが、全国で数例しかない。同古墳群は竹野川東約1㌔の丘陵地にあり、国営農地造成のため四月中旬から約3500平方㍍を調査していた。
円墳(直径約28㍍、高さ約3㍍)の主体部(長さ約10㍍、幅約3㍍、深さ約1.2㍍)には、長さ約7.8㍍、幅約0.6㍍の木棺跡があった。木棺は仕切り板を組み合わせて二室を備えていたらしい。また床面に小石が敷き詰められ、副葬品として直径9.4㌢の小型・製鏡などが出土。他に円墳、方墳各一基が見つかった。
仕切り板と小石のある長大な組み合わせ木棺跡は、日の内古墳(長さ約8㍍)や兵庫県和田山町・中山古墳群、島根県鹿島町・奥才古墳など日本海側に集中している。
同センターは「地域の有力者と家族の二人が埋葬されていた可能性が強い。古代の文化交流を探るうえで貴重な資料」と話している。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 穴ノ谷2号墳(あなのたににごうふん)
所在地:弥栄町溝谷小字穴ノ谷
立地:竹野川中流城右岸丘陵上
年代:古墳時代中期
調査年次:1997年(府教委)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:丹後径郷土資料館
文献:C117
遺構
 穴ノ谷2号墳は、標高約70mの丘陵の尾根上に所存する一辺約20m、高さ1.5mの方墳である。墳丘は20㎝の厚さで盛土されており、南西側と北東側に浅い区画溝を設けている。
 第1主体部は、墓壙の長辺のみ二段に落ちる長さ7.4m、幅3.1m、深さ0.9mの二段墓壙の中に、長さ4.7m、幅0.8m、深さ0.45mの箱形木棺を直葬する。棺内を区分する仕切板が木棺短辺よりそれぞれ0.9mと1.2mの位置にあり、仕切板間の距離は2.15mを測り、ここに遺骸を安置したものと考えられる。遺物は、木棺上から鉄鏃2と鉄鎌1が出土し、南側の据え付け穴から鉄釧2、勾玉2、管玉13、竪櫛14が出土している。このうち鉄釧と玉類は集中して出土していることから一連のものとして使用されていたと考えられる
 第2主体部は、第1主体部の東側に同じ向きで作られている。長さ6.3m、幅2.9m、深さ0.6mの二段墓壙の中に木棺が直葬され、棺内から鉄剣1点、竪榊7点が出土している。墳丘の平坦面に土師器壺1があり、第2主体部の埋葬終了後に墓壙の脇に据えられたものである。
遺物
 鉄訓は、2点ともに、勾玉1点と管玉9点と銹着して出1している。どちらも同じ形状で長径6.5cm、短径5.5cmの楕円形を呈し、幅は1.1㎝、厚さ0.3㎝断面は長方形である。各々に直径1.6㎝、幅0.9㎝、厚さ0.1㎝前後の遊環2個が付着している。いずれも板状の鉄板を曲げて作られている。
 鉄鏃は2本とも小型の細根式で片丸造の形式であり、長頸鏃の祖型の形式である。鉄剣は剣身長42.8㎝、剣身幅2.8cm、茎部長8.8㎝を測り、鞘入りの状態で副葬されている。鉄鎌は長さ10.0cm、最大幅2.0㎝の直刃鎌であり、長方形鉄板の一方に刃部をつける。
 また 注目すべき遺物として鉄釧がある。与謝野町加悦の小虫1号墳では、鉄釧が棺内の頭部付近より竪櫛などとともに出土しており、穴ノ谷2号墳も同様の出土状況である。一方、京都府内の徳雲寺北1号墳(南丹市)や幣羅坂古墳(木津川市)の例では手首に着装しており、丹後地域の副葬形態と違っている点は興味深い。  〉 




溝谷の小字一覧


溝谷(みぞたに) アゼノマ アナノタニ アゼナシ アナノタニグチ アシダ イツケンダニ イチバシタ イワバナ イモジヤ イチバオカ イチバ オタル オクジ カワシリ カリマタ キヌヤシキ キコリダニ クバラ クロサキ クルマダ ゲンコシタ ゴノツボ コブカタ コウノベ コダヤ コンゴウドウジ サイケ サクラガマエ シタンダ シモザカイ シミズガジリ シングウシタ ゼンノウジ タツヤマ タテオサ タツヤマシタ タマリミズ タニバタケ タカジヨダニ チヤヤ ツキノワ テラオカ ナカガワラ ナカノタニ ナグダニ ナカアサ ナシノキ ナカセ ナグオカ ニシガチヨウ ネナシガコシ ハブダニ ハツタンダ ハブ ヒトマチダ ブロタニ フナサガ マルヤマジリ マツナシ ミカゲ メツタ ヤナギガウチ ヤトコロ ヤトコロシタ ヤダチ ヤシキ ユリガシタ 穴ノ下(あなのした) 一之長(いちのおさ) 小田野(おだの) フキノシタ ワカミヤシタ ワカミヤウエ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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