丹後の地名

鳥取(とっとり)
京丹後市弥栄町鳥取


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京都府京丹後市弥栄町鳥取

京都府竹野郡弥栄町鳥取

京都府竹野郡
弥栄村鳥取

京都府竹野郡鳥取村鳥取

鳥取の概要


《鳥取の概要》



竹野川西岸の鳥取小学校や「弥栄あしぎぬ温泉」や「道の駅・丹後あじわいの郷」があり、遠所製鉄遺跡のある一帯である。
鳥取県があるが、その鳥取である、鳥取とは何なのか、『丹後国竹野郡誌』には、
 〈 (口碑)垂仁天皇天下を知食御代天湯川板譽命但馬国より当地水江に来り、彼の浮べる白鳥を取り奉り鎮守と爲さんと墨ノ江の水笑松原村の遠津神に御祈書ありて此水江に網を張りしによりて後に水江網野とは称すなり、松原村の東に鳥取郷鳥取ありこの烏を捕へたる所なりといふ、  〉 

とあるが、5世紀末からの遠所製鉄遺跡が発見されたことにより、「白鳥」は鉄霊を意味していて、鉄を発見し捕らえた鳥取という氏族名から出た地名であろうと思われる。
別に離湖や浅茂川湖(水江)に行かなくとも、当時は目の前にも弥栄湖が広がっていたのかも知れない。誰も言った者がないようだが、離湖や浅茂川湖を言うなら、この潟湖も同時に言うべきであろう。15メートル海面が上昇すれば、15メートル堆積土を取り除けば、この古い潟湖が蘇る。砂鉄を採るようになってアッという間に埋まってしまったのではなかろうか。
峰山のマインの近くで建設工事をしていて、地面を3メートルばかり掘り下げていた、全部砂である、花崗岩の風化した目の粗い砂であった、もっと下はどうなっているのかわからないが、20メートルほど掘ってくれないものか。

『丹後と古代製鉄』の表紙絵
遠所遺跡のイラスト↑、彼らこそが鳥取氏のようである。鉄の5世紀から奈良時代の頃までここで鉄が生産されていた。最先端技術を駆使する鳥取氏、倭文氏と同族という。吉沢の早尾神社が彼らの祖神を祀っていて、そこが当地鳥取氏の本貫地かも知れない。

古代の鳥取郷で、奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」丹後国竹野郡六郷の1つ。はやく平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野郡鳥取郷鳥[   」(平城宮跡出土木簡2-2205)、正倉院古裂の銘文に「丹後国竹野郡鳥取郷□(門カ)田里戸車部鯨調アシギヌ(漢字)壱匹 長六丈 天平十一年十月」(寧遺下)と見える。郷域は、竹野川流域のこの一帯だったと思われる。
中世は鳥取荘で、室町期~戦国期に見える荘園名。「親長卿記」文明2年12月24日条に「御料所鳥取庄事御年貢未進、重可被仰付之由、被申武家」、同3年4月7日条に「鳥取御料所之内六百疋」と見える。「丹後国田数帳」には「一 鳥取庄 八十二町三段一歩内」とあり、また、「丹後御檀家帳」には「一 とつとりの里 家百軒斗」と見える。
近世の鳥取村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、のち幕府領久美浜代官所支配。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年鳥取村の大字となる。
近代の鳥取村、大きい意味での鳥取村だが、明治22年~昭和8年の竹野郡の自治体名。鳥取・木橋・和田野の3か村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を編成したもの。昭和8年栄村の一部となり、村制時の3大字は弥栄村の大字に継承された。
鳥取は、明治22年~現在の大字名。はじめ鳥取村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《鳥取の人口・世帯数》 557・154



《主な社寺など》

鳥取橋遺跡
鳥取橋を中心とした延長約1㎞の竹野川川底は弥生期(縄文晩期?)の土器が採取されている。鳥取橋遺跡
鳥取橋(鳥取)
縄文時代にこのあたりが陸化していたかは不明なのではなかろうか。壺が1個だけなので、あるいはもっと上流から流れてきたものかも知れない。

ニゴレ古墳
ニゴレ古墳(鳥取)
ニゴレ古墳出土品1
小さな古墳だが、宝物ザクザクのきわめてユニークな古墳。今は家庭菜園なのかパラパラと野菜などが植えられている。
この山の裏側は遠處製鉄遺跡であるが、小字ニゴレのニゴレ古墳は直径約30メートルの円墳。昭和33年発掘調査。周囲には円筒埴輪が約1メートルの間隔をおいてめぐらされており、墳丘中央から木棺が出土した。副葬品には鉄剣・鉄鏃・衝角付冑破片・短甲・頸甲の破片と多数の埴輪がある。形象埴輪は家・腰掛・楯・靫・冑・甲・舟など多種の器物をかたどっている。そこの案内板には↓

ニゴレ古墳(古墳時代中期)
不整形墳 全長約20m 埴輪列
古墳は離湖(網野町)と竹野川流域(弥栄町)を結ぶ交通路を見おろす丘陵先端に位置します。1954年(昭和29年)、峰山高等学校弥栄分校郷土史研究同好会によって埴輪が採取されたことが契機となり、その後弥栄町教育委員会と京都大学によって調査が行われました。(写真1)
 墳丘は全長約20m程度の地山を削りだした不整形墳です。北側の丘陵との切り離し溝には幅0.8-1.7m間隔で13本の埴輪列(写真2)がありましたが、葺石や段築は認められません。
墳頂部ほぼ中央で木棺(割竹型木棺)を検出しています。木棺内は、遺骸を東枕で埋葬し、頭側に鉄製甲冑(写真7・8)、左側に剣、足元に鉄鏃束が副葬されていました。完形で出土した鉄製甲胃は技術的にも注目すべきもので、丹後の中でも最も早い時期に、朝鮮半島から導入された進んだ金工技術により成立したものと考えられています。ニゴレ古墳出土品2
 墳丘上では形象埴輪が採取されています。甲冑(写真6)、船(写真3・4)、椅子(写真5)、家など写実的なもので、畿内の専門工人が関与していたとみられています。
 弥栄町内では、竹野川対岸に「奈具岡北1号墳」(溝谷区)という朝鮮半島との関係を強く伺わせる古墳が先行して存在し、ニゴレ古墳の甲冑に見られるような金工技術の伝来にも関与していた可能性も、最近の調査成果を基に指摘されています。
また、ニゴレ古墳に近接する「遠處遺跡」のような製鉄遺跡が成立した背景を考える上でも、重要な位置を占める古墳と言えるでしょう。京丹後市教育委員会
竪穴だけれども、最後の時代かと思われる、遠處遺跡の最初の頃の古墳のようだが、彼らは最初からこうした最先端のプロの技術を持っていたと思われる。鳥取氏というよりこれは渡来人と呼ぶ方がいいのかも知れない。
『弥栄町史』は、
〔ニゴレ古墳〕弥栄町鳥取小字ニゴレ、昭和三十三年(一九五八)京都大学考古学教室により発掘調査された。直径約三十メートルの円墳であり、周囲には円筒ハニワが約一メートルの間隔をおいてめぐらされており、墳丘中央に木棺が埋葬されていた。この古墳から出土したものは鉄剣、鉄鏃、衝角付冑破片、短甲、頸甲の破片と多数の形象埴輪である。形象埴輪は、家、腰掛、楯、靭、冑、甲、舟なと多種の器物を形どったものであり、わが国古代の生活様式を知る上でも重要な資料とされてしる。現在京都大学に保管されている。

ニゴレ古墳


網野町との境の丘陵上にゲンギョウの山
ゲンギョウの山古墳群


遠處遺跡・遠所古墳


墓ノ谷12号墳。巨大石室の横穴式古墳
墓ノ谷12号墳


御殿口古墓
小字中地岡(なかじおか)(通称御殿口)の古塚(ふるづか)は特殊な構造をもつ平安時代初期の墳墓で、古鏡も出土した。
御殿口古墓


あしぎぬの碑
あしぎぬの碑(鳥取)
奈良正倉院に保存されているアシギヌは天平11年この地より献上されたもので、それを記念して昭和43年に建てられた「あしぎぬの碑」がある。
『弥栄町史』
 〈 あしぎぬ顕彰碑 字鳥取
アシギヌは古代絹織物の元祖といわれ、天平十一年すでに当地で織られ御所へ献上したと伝えられている。このため、あしぎぬ顕彰委員会では、奈良正倉院などへ出向いて調査した結果、天平十一年竹野郡鳥取郷の住民車部鯨が、緋のあしぎぬ一疋を時の聖武天皇に献上し、今は御物として奈良の正倉院南倉に保管されていることが判明した。よってこの事実を後世に伝え、織物の歴史を認識させ、本町重要産業である縮緬産業の発展に役だたせるため顕彰碑の建設計画が進められた。昭和四十三年四月、その発祥地と思われる字鳥取地内の八ケ崎を選定し、町費並びに丹後織物工業組合、丹後中央信用金庫、弥栄町農業協同組合、弥栄町商工会、町内織物業者の寄附金等、工費百余万円をもって造られ、昭和四十三年十一月三日文化の日に除幕式が行われた。
記念碑は大江山産の巨石で、庭園は広さ約三百平方メートル、多くの名石を取り入れ、松、モミジ、サツキ、梅、モクセイその他四季の樹木を植えた近代的な庭園である。
弥栄平野を一望のうちに収める景勝の地で、弥栄町新名所の一つである。  〉 


吉田神社
鳥取市吉田神社より分霊を勧請して祭祀したと伝わるというが、そうした神社は今は見当たらない。観音寺神名帳には記載がない。
吉田神社(鳥取)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 吉田神社 村社  鳥取村字宮ノ森鎮座
 (丹哥府志) 吉田大明神 祭九月十六日
 (神社明細帳)祭神 天児屋根命 猿田彦命
   創立不詳、宝永二乙酉年十一月次に宝暦十一辛巳年九月十六日再建、明治四年五月村社に列せらる、次に猿田彦命は當村辻堂に有之處明治二年十一月當社へ合殿となる、明治国十二年十月五日神餞幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる
  一社  殿  梁行二間三寸   桁行一間四尺七寸
  一上 屋   仝 三間一尺八寸 仝 二間五尺五寸
  一拝 殿   仝 一問三尺六寸 仝 三間二尺五寸
  一境内坪数  千百二十六坪
  一氏  子  百 十 戸
  境内神社
   社日神社
    祭神 倉稲魂神
    創立不詳
   大川神社
    祭神 宇気母智命
     創立 不詳
   厳島神社
    祭神 市杵島姫命
     創立不詳  〉 

『弥栄町史』
 〈 吉田神社 字鳥取 宮の森鎮座
神社明細帳によれば、
祭神 天児屋根命 猿田彦命
創立年月日不詳であるが、口碑によれば当社は鳥取市吉田神社より分霊を勧請して祭祀したものであると。宝永二乙年十一月(二百七十年前)再建の棟札がある。ゆえに相当古くより鎮座されたことは想像できる。参道の両側には老樹生い繁りすこぶる荘厳である。
明治四年五月村社に列せられた。次に猿田彦命は当村辻堂にあったが明治二年十一月当社へ合祀された。
社殿 梁行 三メートル六十七センチ
   桁行 三メートル二十四センチ
上家 梁行 六メートル○センチ
   桁行 五メートル三十センチ
社殿 梁行 三メートル六十七センチ
   桁行 三メートル二十四センチ
上家 梁行 六メートル〇センチ
   梁行 五メートル三十センチ
拝殿 梁行 三メートル六十三センチ
   桁行 三メートル六十三セソチ
割間拝殿
 境内坪数 千百二十六坪
境内神社
大川神社 祭神 宇気母智神
創立年月日不詳
厳島神社 祭神 市杵島姫命
創立年代不詳  〉 


曹洞宗寿宝山長命寺
吉田神社の隣にある。
長命寺(鳥取)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 長命寺 曹洞宗 字鳥取にあり
 (丹哥府志) 寿寶山長命寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 本尊阿弥陀如来、往古は平僧地なり、宝暦十三年法地となり開山は宮津町曹洞宗智源寺十三世定山和尚住職す、二世石峰長老堂宇を建設せられたり、檀家百餘戸  〉 

『弥栄町史』
 〈 寿宝山長命寺 字鳥取
本尊 阿弥陀如来 曹洞宗
同寺文書によると、
「徒昔平僧地なりしが、宝永元年(約二百六十年前)法地となり、開山は宮津町智源寺十三世定山和尚住職す。二世石峰長老堂宇建設せられたり壇家百余戸」
とある。  〉 


鳥取城趾

『弥栄町史』
 〈 鳥取城
字鳥取小字表に城屋敷という所がある。また同字城山もあり、人家の後方の山で二層よりなり今も水路の跡がある。城主等不詳。  〉 


《交通》


《産業》




鳥取の主な歴史記録


丹後国田数帳
 〈 一鳥取庄 八十二町三段一歩内
 四十町五段二百十六歩 (此内三丁五反二百十六歩成川) 御厩御料所
 四十一町七段百十六歩  不知行  〉 


丹後御檀家帳
 〈 一とつとりの里  家百軒斗
田辺たうくわん入道殿
田辺又治郎殿
中村大和守殿
左衛門介殿
〆  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎鳥取村(井辺村の次)  〉 

『郷土と美術79』「暖流と湖の文化」(井上正一)
…往古の日本人は白鳥を神の使いとしめと言って神聖視し、そのころ多くいたコウノトリ、クグイなどは殺したり捕えたりしなかったと言われています。ところがこれを捕えなければならぬ事件が生じました。『書紀』垂仁天皇二十三年条に、悲劇の皇后狭穂の遺児として残されたホムツワケの皇子が成人してもモノを言わず、クグイを見てはじめて口をきいたという物語があります。この神話にクグイを捕えて皇子に献じた功により、鳥取部の連の姓を賜わった功臣としてアマノユガワタナ(天湯河板挙)という人物があります。この人が当地に来られ、この湖にワナミを張って白鳥を捕えたのでこの地を網野というようになった(竹野郡誌-網野神社明細帳)と言われています。この周辺では網野神社(式内社)をはじめ五カ村の村社に、境内社ではあるが、速尾神社などの社名によってユガワダナの神が際祀されています。但馬の円山川の沿線にもこの神を祭神とする式内社が二社ありますが、丹後では当地湖の周辺に五社あるだけでほかに例がないようです。これは鳥取部の部民たちがその祖神として際祀したものと考えられます。新撰姓氏録鳥取部の項によると鳥取部の祖神としてユガワタナをあげており、この神は角凝魂゙命十三世または三世の子孫とされています。これらの神はいずれも倭文部の祖神となっていますので、ユガワタナの神も倭文部の祖神の一人であると考えられます。このシドリのいうのはシズオリの約でこの部民たちは山野にひろく自生しておりとくに川や湖の周辺に多い野生のカラムシ、カジの木などの幹の皮から繊維を採取して、これを原始的な織機にかけて粗い布をつくっていたものであるといいます。このユガワタナが倭文部から鳥取部への移行については「歴史研究」第238号の東京の芦野泉氏が註記されているし、氏はわざわざ当地へも調査に見え直接いろいろ伺う機会を得ました。とにかく当地にユガワタナの神の際祀が集中していることに興味をもち、今この地が丹後織物の主産地として発展していることは古代人たちの願望が強く残されているものと理解しております。…


『京丹後市の考古資料』
 〈 鳥取橋遺跡(とっとりぱしいせき)
所在地:弥栄町鳥取
立地:竹野川中流域、支流奈具川合流地点の河川敷を含む平地
時代:縄文時代晩期(弥生時代前期)
調査年次:なし 現状:水田および河川
遺物保管:峰山高校(丹後郷土資料館寄託)
文献:BO20
遺構
鳥取橋遺跡は、竹野川中流域、竹野川と支流奈具川の合流地点を中心とした平地に立地する。1961年、堤の基部あたりから小型の土器1点のみがが採集されている。竹野川沿いの自然堤防上に立地する集落遺跡が想定されている。
遺物
採集資料として小型の壺1点がある。この壷について竹野遺跡の報告書の中で黒田恭正が詳細に報告している。口縁部の一部を欠くがぼぼ完形で、器高15、4㎝、口径9.2㎝胴部最大径14.7㎝、底径6.O㎝を測る。口縁部境には、段、沈線ともなく頸部から緩やかに外反する口縁部へと続く、胴部に刷毛小口部を押しつけることによって造られた段を有する。胴部は球形に近く、底部は平底で上げ底である。
意義
竹野遺跡の報告書刊行当時、口縁部の形状、胴部の段など弥生土器的な特徴を持つことから弥生時代前期古段階の資料の可能性を持つものとして注目された。しかし、黒田も縄文土器ではないかと脳んだように、現状では縄文ないし晩期の土器の可能性が高いとしておきたい。その特微から北部九州の縄文晩期の土器との親密性を指摘しておく。  〉 
ニゴレ古墳出土品

 〈 ニゴレ古墳(にごれこふん)
所在地:弥栄町鳥取小字ニゴレ
立地:竹野川中流城左岸丘陵端
時代:古墳時代中期
調査年次:1958年(弥栄町教委)
現象:完存
遺物保管:京都大学総合博物館
文献:B036、E101、G008
遺構
ニゴレ古墳は、弥栄町から網野町へ抜ける府道網野岩滝線沿いの標高40mほどの低丘陵上に立地する。長さ20m、高さ3~4mの不整形な古墳である。墳丘は、丘陵の先端部に造られ、わずかな鞍部と尾根筋に直交して東西に立てられ13本の円筒埴輪により区分している。葺石、段築はみられない。墳頂部は南北約10m東西約6mの平坦面をなし、ほぼ中央部に設けられた二段墓壙の中に舟形木棺を直葬する。副葬品の配列状態から、遺骸は東枕に葬られ、頭部に鉄製甲冑を置き、遺骸の左側に鉄剣、足元に鉄鏃の束を置いたものと推定されている。また頭部の平坦面などからは、多くの形象埴輪が出土している。
遺物ニゴレ古墳出土品
埋葬施設から出土した鉄製品には、小札革綴じ衝角付冑、板綴、頸甲、肩甲、三角板革綴短甲からなる1組の甲冑および剣2点と鏃11点がある。形象埴輪は写実的なもので、甲冑形、船形、椅子形各1点と家形6点があるほか、20点以上の円筒埴輪と7点以上の朝顔形埴輪がある。
意義
ニゴレ古墳は5世紀中葉の年代が与えられ、形象埴輪と甲冑の組合せが注目される。丹後半島で鉄製甲冑が出土した古墳は、ほかに産土山古墳と離湖古墳、清漬7号墳があるのみである。また、多くの形象埴輪も、丹後地域ではほかに無いもので、その製作には畿内の専門工人が関与したものと考えられている。中でも船形埴輪は外海を航行できる準構造船を模したもので、近くの離湖や浅茂川湖といった潟湖に入港していた実物の船を模した可能性も考えられ興味深い。  〉 

 〈 ゲンギョウの山古墳群(げんぎょうのやまこふんぐん)
所在地:弥栄町鳥取小字涼堂
立地:竹野川中流城左岸丘陵上
時代:古墳時代前~中期、終末期、室町時代
調査年次:1985年(府センター)
現状;全壊(国営農地)
遣物保管:市教委
文献:C051
遣構
ゲンギョウの山古墳群は丘陵の尾根上に築かれた10基以上の古墳からなり、そのうち8基の古墳が調査されている。
1号墳は、標高50mの丘陵南斜面に築造された横穴式石室を持つ古墳である。封土は失われており、墳丘規模は不明である。石室は、全長4、7m(玄室長3.7m、羨道長1.0m)、玄室幅0.9m.高さ1.3mの無袖式横穴式石室であり、奥壁部を一段せりあげるような形で構築された壇構造を持つ.壇部分の規模1は、奥行0.7~1.0m、幅1.0mを測り、高さは床面から0.4m程度である。壇の上面には炭化物混じりの灰層が5㎝ほど載っており、灰の上面から刀子1点が出土した。また、石室の北側からは、室町時代の4基の火葬墓が検出されている。
2~10号墳は、尾根上に連なって築造された古墳群である。2号墳は丘陵の先端部にある径12m、高さ1.5mの円墳で1基の埋葬施設を持つ。3~6号墳は階段状地形を呈する。最下段にある3号墳は長辺9m、短辺5m、高さO.5mの方墳で2基の木棺
が検出された、4号墳は一辺8m、高さ1.5mの方順.5号墳は長辺15m、短辺13m、高さ1.8mの方墳で、それぞれ1基の木棺が検出された。6号墳は最上段にあり、一辺13m.高さ108mの方墳で2基の木棺が検出された。7号墳は長辺12皿、短辺10m、高さ1.9mの方墳、8号頃は長辺19m、短辺14m、高さ1.5mの楕円形墳であり、それぞれ2基の木棺を持つ。なお5号墳の東裾部および4号墳の東裾部斜面からは、土器棺墓がみつかっている。
遺物
1号墳の横穴式石室からは、刀子2と耳環1が出土。2~8号墳の木棺直葬墳からは、壺、高杯、器台の土師器類とともに直刀、剣、手斧、刀子、ヤリガンナの鉄製品類、3号墳の第2主体部からは管玉6点が出土している。また、3号墳の第1主体部と7号墳の南側溝からは砥石が各1点出土した。
意義
1号墳の横穴式石室は、雛壇付石室ともいえる特異な石室であリ、丹後地域にのみ見られるものである。2~8号墳は、弥生時代の方形台状墓以来の在地的な系譜を引く造墓集団によって築造された古墳時代前期後半~中期前半の古墳群である。この時期は、一方では網野銚子山古墳や黒部銚子山古墳などの大型前方後円墳が築造されており、畿内勢力と結びついた有力首長層の存在が考えられ、在地的な古墳群を造営した集団の存往との対比には興味深いものがある。  〉 

 〈 墓ノ谷12号墳(はかのたにじゅうにごうふん)
所在地:弥栄町鳥取小字墓ノ谷
立地:竹野川中流域左岸丘陵上
時代:古墳時代後期
調査年次:1999(府教委)
現状:全壌(國営農地)
遺物保管:丹後郷土資料館
文献:B095、C129
遺構
墓ノ谷古墳群は12基からなる古墳群である。このうち9~11号墳は、発掘調査の結果、自然地形と判明した。12号墳は、標高65mの尾根上に築かれた径約13m、高約2mの不整円形を呈する横穴式石室を持つ古墳である。石室開口部の両側には葺石状の列石があり、開口部の化粧石的役割を果たしていたと考えられる。横穴式石室は、南西に開口する左片袖式のものであり、全長7.95m、玄室長4.62m、同幅1.44~1.7m、羨道長3.33m、同幅は玄門付近で0.9m、羨門付近で1.56mと羨道が開口部に向けて大きく左側に開く。石室内の遺物出土状況から、埋葬がが3回以上行われたことがわかる。なお墳丘の南8mの地点には、長辺1.4m、短辺0.72mの小型竪穴式石室があり、床面から須恵器蓋杯が合わさった状態で出土している。
遺物
出土遺物なは、TK209型式の須恵器類(蓋杯12、有蓋高杯18、無蓋高杯3、短頸壺2、長頸壺1、小型壺2、ハソウ1、提瓶1)ほか、耳環5、玉類(管玉7、棗玉2)、鉄製品(鉄刀1、鉄鏃13、鉄釘1、刀子3)がある。
意義
墓ノ谷12号墳は、6世紀末葉から7世紀初頭にかけての古墳である。竹野川流域では、石室規模から全長10mを測る高山3号墳につぐクラスの古墳といえる。  〉 

 〈 御殿口古墓(こてんぐちこぼ)
所在地:弥栄町鳥取小字中地ヶ丘
立地:竹野川中流域左岸丘陵端
時代:平安時代前期
調査年次:1923年(増田于信踏査、梅原末治踏査)
現状:全壊
遣物保管:東京国立博物館、個人
文献:C027
遣構
御殿口古墳は、梅原の報告によれば、丘陵先端の帯状平坦面上に位置し、開墾によって遺物が出土したという。同報谷によると墓壙は、地山面を幅約3.0m、深さ1.8m堀り込んでおり、底部に木炭が敷かれているという。
遣物
遣物が出土した直後に描かれたと推定される実物大模写図が残されている。これによると、瑞花双鳳文八稜競1面、茄子形装飾品2点、石帯7点(増田踏査、採掘時出土、、所在不明)、鉄鏃2点、刀子1点が出土している。石帯は、巡方6点、鉈尾1点からなり、模写図では漆の痕跡と思われるものが描かれている。また同図では「裏板紅綾附着」と記されており、赤色の綾に縫い付けられた痕跡が残っていたようである。このほか模写図には描かれていないが、鉄刀、須恵器甕の出土が伝えられている。
意義
当古幕は、遺構、遺物の内容から平安時代前期の木炭敷の墓と思われる。特に石帯の出土数は、丹後地域で最も多い。石帯の出土と木炭敷である点が特筆され、当該期の地方官人が埋葬された墳墓の例として重要なものと評価できる。  〉 



鳥取の小字一覧


鳥取(とっとり) アカイダニ アカハゲ アサマチ イタバシ イリヨウデン  イワイダニ  イナバ  イワバナ  イシアナ  イリガヤマ イエノオカ イリガキ ウバガフトコロ オモテ オフガノタニ オクノシロ オカガエ オオタニ オクヤマ カミスナゴ カワガケ カミジ カンジヤクゴウ カネツキドウ カジヤダニ キリタニ クズレ クルマダ ゴタンダ コモイケ コウトク コウデン コモダニ コゾウグチ コトウゲ コブシ サンダオサ サカイダニ サイズクシ サイノカミ サトノオク シモスナゴ シヨウブダニ ジヨウガタニ シバサキ シロシタ シクダニ シミズガヘ スズミドウ セセノタニ タカグロ タモノキ タナカ ダイシヨウグン チハヤデン テギ テラガエ ドウシン トイツ トビダニ ナカヤマグチ ナカジ ナカジオカ ナカノタニ ナカヤマ ニチヨウデン ニユウドウ ニゴレ ニユウドウオク ハタダニ ハラダ ハカノタニ ハゲノタニ ハチガサキ ヒヨイダニオク ヒヨイダニ フルカワ フクイダニ ブツカブ フルミチ ホリダニ マエダ ミゾガタニ ミヤノシタ ミヤノモリ ムカイスナゴ ヤクシ ヤノタニ ヤスダ ヤナギダニ ゲンゲヨ 矢ノ谷口(やのたにぐち)


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京都府福知山市
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京都府南丹市

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市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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