丹後の地名

浦明(うらけ)
京丹後市久美浜町浦明


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市久美浜町浦明

京都府熊野郡久美浜町浦明

京都府熊野郡神野村浦明

浦明の概要


《浦明の概要》



KTRの「丹後神野駅」や道の駅「くみはまSANKAIKAN」のある一帯で、浦明と長柄(長良)の2集落より成る。丹後神野駅
西は久美浜湾に面している。水田はわずかで、浦明野の畑作が大きな比重を占めている。浦明野は浦明・神崎から甲山にわたって広がる古砂丘の海岸段丘の上に数10センチの火山灰層が重なってできたもので、畑作に適している。
水田が少なかったので新田開発に努め、古新田・中新田などの地名を残している。浦明から長柄に至る付近一帯はすべて新田であるという。
中世の浦明荘で、南北朝期に見える荘園。元弘3年5月20日付の熊谷直経代同直久軍忠状に「元弘三年五月一二日、直久相共罷向丹後国熊野郡浦明庄、押寄二階堂因幡入道(貞雄)之城郭、令追罸畢」と見え、至徳元年5月6日付の虎若丸承祐連著請文には「石清水八幡宮護国寺領丹後国鹿野別宮、或号浦明」と見えるという。
宮津市の妙立寺厨子に文和4年(1355)頃の次の記録がある。
 浦明の臨阿弥陀仏□□浦明ニ留主ヲ定メ橋立へ罷リ
 通橋立□住□(中略)同キ文和四□□三月十八日入院□
 天橋立道場(中略)程ナク□本道炎上ス矣
浦明に阿弥陀仏号の法名をもった者がおり、念仏の道場があったことがわかる。
江戸期の史料では、当村は神崎村とともにもと鹿野村のうちてあり、鹿野村の八幡神社を氏神とし、浦明村を「鹿野庄内」としているが、南北朝期には鹿野荘域を含め久美浜湾東岸を広く浦明と称していたらしいと言われる。戦国期の「丹後御檀家帳」には「一 浦明村 家百五拾斗」と見える、「耕雲寺」には「大寺也」との註が付されているが、これは神崎の康雲寺。同書には他に「一 なから 家百斗」「一 にんくわし」が見える。「なから」は地内北部の長柄で、同地には「一城主也 岩田殿」と見えるが、長良城は天正10年細川の将松井康之によって落城した。「にんくわし」は東方日光寺峠に所在した寺。
浦明村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。「慶長郷村帳」では鹿野庄に含まれている。
村内長柄には佐濃谷幕府領の年貢米の蔵があり、年貢米は長柄から艀で旭港に運び、旭港から千石船で江戸・大坂へ運ばれた。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年神野村の大字となる。
浦明は、明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。昭和7年宮津線丹後木津~久美浜間が開通、長柄に丹後神野駅を設置した。

長柄(長良)は、浦明村の一分で北部に久美浜湾に沿って集落をつくり、1行政区になっている。丹後国御檀家帳に「なから 家百斗」とある。江戸時代には御城米の蔵屋敷があったという。


《浦明の人口・世帯数》 330・97
《長柄の人口・世帯数》 210・76

《主な社寺など》

今は桃や梨畑になってKTRが走っている海岸から少し東側のちょっとした台地上には縄文時代からの遺跡がある。
浦明遺蹟
小丸山古墳
長良遺蹟


丹波国浦掛水門

春日神社
春日神社(浦明)

『京都府熊野郡誌』
 〈 春日神社 村社 神野村大字浦明小字スタノヲウ鎮座
祭神=武甕槌命、斎主命、天児屋根命、比売命。
由緒=当社の創立年代不詳なれど、浦明の鹿野より分離し、元鹿野八幡宮を氏神と崇敬し、八幡宮は春日神社をも合祀せる関係等より推究するに、八幡神社の御祭神中春日大神の郷分霊を浦明に奉祀せしもにてはなきか、当社に存する棟札中享徳三年十月のものあり、創立とも再建とも明記なければ断定する事能はざれど、或は創立当時の棟札とも推察せらる。爾来享保三年再建せる事は、丹羽広次方に当時の普請帳を存するにて明なり。尚延享五年三月再建の棟札あれば、現社殿は当時の改築と推せらる、大正十一年拝殿の再造営を爲し偉観を呈せり。
氏子戸数=六十七戸。
境内神社 山神社 祭神=大山祗命。  〉 

臨済宗南禅寺派碧玉山宝勝寺
宝勝寺(浦明)
『京都府熊野郡誌』
 〈 碧玉山 宝勝寺 神野村大字浦明小字上地
臨済宗南禅寺派南禅寺末
本尊=薬師瑠璃光如来。脇立=釈迦。観世音。
由緒=当山創立の年代等詳ならずと雖も、其の由来を按ずるに往古は天台宗にして、坂尻と称する山あり、其の麓に原と瑠璃山宝勝寺といへる道場あり、日光寺の頽廃せるを歎き再興を図れるものにて、一時隆運に向ひしも偶々祝融の災に罹り悉く鳥有に帰せるより、年久しく再興するを得ざりき。文明三年久美浜宗雲寺第四世宝山和尚其の泯絶の久しきを慨し、復興の志願を起し地を上地に卜して一宇の伽藍を建営し、山号を改めて碧玉山と号せり。されば宝山和尚は中興開山第一世の祖とし、宗旨を転じて臨済宗南禅寺派に属し、中本山宗雲寺末となり、法燈益々盛んにして現今に及べり。而して小字宝勝寺といへる丘陵は従前の寺跡にして、一に寺屋敷とも呼ぶ。現今安置せる本尊薬師瑠璃光如来は、往古日光寺より伝来の遺仏にして、現在の本堂は二百五十余年前の建築に係れりといふ。
境内仏堂 鎮守堂 本尊 秋葉三尺坊
       地蔵堂 本尊 六地蔵菩薩  〉 


日光寺跡
浦明から関に至る府道666号線日光寺峠の西側、浦明小字ホンダ口(本堂口)から谷を南に入ると小字本堂屋敷がある。
丹後国御檀家帳に「にんくわうし 寺数あまたあり、ぬしぬしの心まゝに御付候寺御座候、近年はいつれも祭り候人御持候、壱人も余人へは卸持なく候、はし本坊ほうほうの代参めされ候人道者ひき也まんさう坊ほうほうの代参めされ候人道者ひき也」とある。
当地の宝勝寺の本尊・薬師瑠璃光如来は日光寺から移したといわれ、また円頓寺の仁王尊も日光寺のものを移したものであると伝えている。

『京都府熊野郡誌』
 〈 本村内寺跡の著名なるは日光寺にして、大字浦明小字日光寺に在り、浦明より田村に通ずる日光寺峠を進み、一杯清水に口を濡し、ホンダグチ(本堂口)に至れば右手に谿谷あり、谷を進む事約三丁にして本堂屋敷に達す。礎石等現存せりといへど荊蕀繁茂して位置明ならず、丹後国檀家帳に曰く「にんくわうじ 寺数あまたありぬしぬしの心ままに御付候寺屋候近年はいずれも参り候人御持候壹人も余人へは御持なく候 はし本坊ほうほうの代参めされ候道者ひき也まんさし坊ほうほうの代参めされ候人道者ひき也」とありて大寺なりし事を知らる。古来七堂伽藍ありしといへる口碑の偽らざるをも推究せらるるなり。彼方の山此方の丘に五輪塔の散在せるも、橋本坊まんさし坊等各坊の遺跡にして、当時を物語れる遺跡たり。按ずるに鎌倉足利時代の巨刹にして、此の地方信仰の中心たりしならん。而して現今佐濃村円頓寺の二王尊は、当日光寺の二王尊を移ししものなりといひ伝ふ。

大字浦明小字坂尻に寺跡あり、日光寺の廃絶せるを歎き、再興せりと伝ふれど、其の年代等明ならざるを遺憾とす。  〉 

鳥取城跡
『京都府熊野郡誌』
 〈 鳥取城址
 大字浦明小字鳥取に在り、通称城といひ、長良より日光寺峠に達する間道の右側丘陵にして、数段の階段を有し、山上は平坦にして一反歩に余り、眺望絶佳にして内外の海を下瞰し多数の松茸を産す、されば近来茸狩の遊覧客多し。山上には一面土塀を有し城砦の俤を語る。城主は栗田内膳正にして、一色家部下諸将の一人なりしが、天正年代細川氏の臣松井康之の爲に落城せるものゝ如し。  〉 

「鳥取」地名がここにもある。丹後で鳥取といえば、弥栄町鳥取の遠所遺跡の古代製鉄遺蹟が有名で、鳥取氏の祖神・天湯河板挙命を祀る社がありそうに思うのだが、当地にはない。
鳥取城主の栗田氏や長柄城主の岩田氏はその後裔なのだろうか。


長柄城跡
『京都府熊野郡誌』
 〈 長良城は字浦明に在り。一色家部下諸将の一人にして、鳥取城と共に天正年間落城せり。一に岩田城ともいひ岩田肥前の一族たりしが如し。
長良城址は岩田城ともいひ、大字浦明の内長良小字長良丘に在り。丘上は平地にして内海に面し波涛船歌と相応し頗る勝景の地たり。浪華の俳人愛我が「葛野や浦明へかけて時鳥」と吟ぜしも此の辺なるべし。此処にも土塀を存し稲荷の祠あり岩田稲荷といふ。元城中に安置せし処なりといひ伝ふ。丹後国御檀家帳に曰く「なから家百岩田殿一城主也、岩田屋敷内かへしする人」などありて城主の岩田たりし事は伝説と一致せり。丹後旧事記熊野郡諸将を列記せる中に、岩田丹波守岩田角之丞小寺小次郎等の武将あり、丹哥府志浦明村の部に栗田内膳城跡を挙げ、城墟の在る所を水取といふ、其続きに小寺小次郎の城跡あり皆伝詳ならず」とある水取山は鳥取山の誤にして、小寺小次郎の城跡といへるは、岩田城といへるものにて、城主を岩田丹波守といひ、岩田角之丞は其の一族にして、小寺小次郎は臣下たりしものの如し、而して岩田の一族郎党の屋敷は、旧道網野街道に接せる長良岡にありしといふ。栗田内膳正と共に一色家部下の諸将軍にて、天正年代落城せりといふ。  〉 

時宗の浦明道場
宮津府中の妙立寺厨子に文和四年(1355)頃の次の記録がある。
 浦明の臨阿弥陀仏□□浦明ニ留主ヲ定メ橋立へ罷リ
 通橋立□住□(中略)同キ文和四□□三月十八日入院□
 天橋立道場(中略)程ナク□本道炎上ス矣
これにより当時浦明に阿弥陀仏号の法名をもった者がおり、念仏の道場があったことがわかる。


《交通》


《産業》


浦明の主な歴史記録


『日本書紀』
雄略天皇23年条の一番最後に書かれている「丹波国浦掛水門」を当地に比定する説がある。詳しくは、
丹波国浦掛水門
別所と鉄と俘囚
当時当地は北に河口を開く佐濃谷川の河口の西岸に位置した湊であったと思われる、その西岸岬の北先端部には「別荘遺蹟」(鹿野八幡神社のあたりで、同社はこの岬全体の総社であったよう)や東隣に別惣の小字(平田)がある、南側の海士には別所(別ソウ)の小字がある。別荘は別所地名であるが、遺蹟は「平安時代末~鎌倉時代中期の鍛冶工房跡を中心とする遺跡」とされるが、中期古墳があるから古墳時代からの鍜冶遺跡のようで、何か事件と関連があるかも知れない、あるいはここも奥州俘囚の移居配地で彼らの仲間が鍜冶業務に就いていたのかも知れない。


『丹後国御檀家帳』
 〈 一浦明村   家百五十斗
 森助左衛門殿    浦  明  殿
 耕雲寺 大寺也   木村与一左衛門殿
 木村弥治郎殿


なから   家百斗
 田中新左衛門殿  岩田屋御内かへしする人
一城主也
 岩  田  殿   五郎右衛門殿


一にんくわうし
 寺数あまたあり、ぬしぬしの心まゝに御付候、寺
 [   ]近年ハいつれも祭り候人御持候、壱人も余人へ
 ハ御持なく候、はし本坊ほうほうの代参めされ候人道
 者ひき也
 〆  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎浦明村(葛野の南)
【春日大明神】(祭九月九日)
【碧玉山宝勝寺】(臨済宗)
【栗田内膳城墟】
城墟の在る處を水取山といふ、其続きに小寺小次郎の城跡あり、皆詳ならず。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 浦明遺跡 遺跡番号一〇
字浦明小字大藪に所在する。
遺跡は久美浜湾に面した河岸段丘上にあり、早くから遺跡として認識されていたようである。
縄紋土器と縄紋・弥生時代の石器が出土している。この内石器は二七点出土している。内訳は石鏃九点、石錐一点、掻器状の刃を有する剥片石器一点、掻器状の刃を有する礫核石器一点、太型蛤刃石斧一点、石包丁二点、砥石二点、敲石六点、線状痕を有する小礫一点等である。遺物には一部未成のものや破片も含まれており、石器の細かい年代は不明である。縄紋土器は約七〇〇点出土している。大部分は細片である。遺物の年代としては、縄紋時代中期から晩期と思われる。当遺跡の所在する台地周辺の農地については、近年まで湿田地帯であり、この点から推測すると、遺跡のあった当時、かなり内陸部まで海岸線が進出していたと考えられる。そのため、集落背後の丘陵地帯とあわせて、海辺や山間での食糧確保等に良好な、恵まれた生活環境であったと思われる。浦明遺跡については、久美浜町内の集落の成り立ちを考える上で重要な遺跡と考えられる。

浦明遺跡 遺跡番号一〇
字浦明小字大藪に所在する。
遺跡は久美浜湾東岸の海岸段丘上に立地する。古墳時代の竪穴住居や中・近世の溝などによって削平を受けているものの、溝によって囲まれた空間に円形の竪穴住居が存在するという環濠集落的な様相を呈する弥生時代中期の集落遺跡である。溝R-三は断面V字形で上面幅一・五から一・七メートル、検出面からの深さ二メートルで、下層からは畿内第Ⅱ様式併行の土器が、上層からは畿内第Ⅲ様式併行の土器が、最上層からは古墳時代後期の土器が出土した。竪穴住居H-五は直径七メートルの円形を呈する住居である。竪穴住居の側壁に沿って周壁溝が幅二〇から三〇センチでめぐっている。床面には二・五メートル間隔で五基の主柱穴が穿たれ、撹乱によって失われたであろう一基を想定すると六角形に配置されていたと考えられる。この柱配置の中心に中央土坑が穿たれている。この住居からも畿内第Ⅱ様式併行の土器が出土し、サヌカイト製の無茎石鏃も出土した。出土した遺物には小型の磨製石斧、土器転用の紡錘車などがある。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 浦明遺跡(うらけいせき)
所在地:久美浜町浦明小字大藪
立地:久美浜湾東岸波状台地東端部(海岸段丘)
時代:弥生時代中期、古墳時代
調査年次:1979年(久美浜町教委)現状:全壊
遺物保管:市教委ほか
文献:DOO9、BO10
遺構
1969年に峰山高校の坪倉利正教諭により、遺物が採集され、その2年後、遺跡一帯で進む土砂採取に伴い、同志社大学を中心とした関西考古学者連合による分布調査等が実施された。これにより、当遺跡は縄文時代中期末葉から奈良時代初頭に亘る複合集落遺跡であることが明らかになった。
1979年には、最後に残された浦明大藪の台地が土砂採取されることになり、発掘調査を実施した。
検出した主要な遺溝は、弥生時代中期に属するもの(溝3、5号住居跡)と古墳時代に属するもの(1~4号住居跡、6~9号住居跡)がある。
弥生時代の溝3は、幅1.5~1.7m、深さ2.Omを測るV字の溝である。5号住居跡を含めた南東側に広がる居住域を囲んだ環濠と考えられる。弥生土器を中心に多量の遣物が出土しており、弥生時代中期初頭に掘削され、中期中葉までにほぼ埋没し、古墳時代には浅い溝状を呈していたことがうかがえる。5号住居跡は、唯一の弥生時代中期の竪穴住居跡であり、直径7mの円形の床面を持つ。6本の主柱穴と炉跡と考えられる中央土壙が検出されている。
古墳時代の竪穴住居跡はいずれも方形で、前期から後期のものまであり、古墳時代全期間を通じて集落が営まれた可能性が高い。4号住居跡は、前期竪穴住居跡で、ベッド状遺構を有している。
遺物
出土遺物には、弥生土器、石器、古式土師器、須恵器などがある。ここでは、弥牛時代中期前葉の土器(右下図)について触れる。広口壷の口縁端部には、無文のものと加飾するものがある。2は、三角刺突文、3はヘラによる斜格子文である。4は、8条の櫛描直線文の下には縄文を施す。5は、無頸壺で、櫛描直線文と波状文を交互に施す、甕は、肩部の張らず、肩部を飾るものが多い。6、8は複帯構成の櫛描直線文の下端に三角刺突文を、7は櫛描渡状文を施す。10のように肩部に突帯を貼り付けるものも一定量存在する。
意義
丹後地域において、弥生時代中期前葉の集落の状況が確認できる数少ない資料である。集落を囲んだ環濠は、扇谷遺跡同様、堅固なものである。三角刺突文は、この時期の丹後地域の土器の指標であり、北陸の小松式との関係を示すものである。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 日光寺遺跡 遺跡番号二五〇
字浦明小字日光寺に所在する。
A・B調査区からは弥生時代中期のピット、古墳時代前期・後期および飛鳥時代の竪穴住居跡七棟、奈良時代の掘立柱建物跡六棟、土坑、鎌倉時代の墓などの遺構が検出されている。またC調査区では、奈良時代後期および平安時代前期の土坑、平安時代後期終末の掘立柱建物、鎌倉時代の墓などの遺構を検出している。古墳時代前期の竪穴住居SHB四は、住居中央に炉跡と思われる焼土がある。古墳時代後期のSHB二・三は、いずれも周壁溝をめぐらすものである。SHB二では、壁際に近いところに炉跡と思われる焼土がある。飛鳥時代の竪穴住居SHB一は、前代のものと比べて規模が小さい。壁際に近いところに炉跡と思われる焼土がある。奈良時代のものと思われる掘立柱建物跡は、いずれも側柱建物であり、二~五×二間のものがある。一番規模の大きいSBA一は、一〇・五×四・八メートルを測る。建物主軸は、SBB二・四・五が揃う。庇付きの建物や倉庫と考えられる総柱建物は見られない。
C調査区において検出された平安時代後期終末の掘立柱建物は、四×四間の総柱建物である。この建物跡は、この場所にあった谷状地形を埋めて建てられたものであり、三昧堂などのお堂の可能性が考えられている。
出土遺物は古墳時代のものとしては、土師器・須恵器・用途不明土製品などがある。また飛鳥~奈良時代のものとしては、土師器・須恵器・土馬・土錘・鉄製品がある。
A・B調査区において検出された奈良時代の建物跡にひさし庇付き建物や総柱建物がみられないことや、出土遺物に硯・墨書土器といった文字資料がみられないこと、こくばら野遺跡ほどの量ではないが土錘が内陸部の遺跡に比べて多く出土していることから、この集落は、こくぼら野遺跡と同様に漁携を主たる生業としていたものと考えられる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 日光寺遺跡(にっこうじいせき)
所在地:久美浜町浦明小字日光寺
立地:久美浜湾東南岸段丘上
時代:弥生時代中期~鎌倉時代
調査年次:1988~89年(府センター)、1999年(久美浜町教委)
現状:調査範囲は全壊(国道ほか)
遺物保管:市教委
文献:BO96、CO75
遺構
1988、89年のA、B調査区および1999年調査区では弥生時代中期の柱穴、古墳時代前期、後期および飛鳥時代の竪穴住居跡7棟、奈良時代の掘立柱建物跡6棟、土坑、鎌倉時代の墓などが検出されている。
古墳時代前期の竪穴住居SHB4は、住居中央に炉跡と思われる焼土がある。古墳時代後期のSHB2、B3は、周壁溝をめぐらすものであり、飛鳥時代のSHB1は、ほかに比して規模が小さい。SHB1、B2では壁際付近に炉跡と思われる焼土がある。奈良時代の掘立柱建物跡は、側柱建物のみであり、庇付建物や総柱建物は見られない。2~5×2間のものがあり、SBB2、B4、B5の主軸は揃う。一番大きいSBA1は、10.5×4.8mを測る。鎌倉時代の墓は4基あり、いずれも木棺墓である。
C調査区では、奈良時代後期~平安時代前期の土坑、平安時代後期の掘立柱建物、鎌倉時代の墓などを検出している。谷状地形を埋め立てて建てられた掘立柱建物跡SXC1は4×4間の総柱建物であり、二昧堂の可能性が考えられている。鎌倉時代の墓は木棺墓である。
遺物
古墳時代のものとしては、土師器、須恵器、用途不明土製品などがある。また飛鳥~奈良時代のものとしては、土師器、須恵器、土馬、土錘、鉄製品がある。鎌倉時代の墓SXA1、C1には龍泉窯系の青磁椀が、SXC1には鉄製刀子が副葬されている。
意義
奈良時代の日光寺遺跡は、A、B調査区において検出された8世紀の建物跡に庇付き建物や総柱建物がみられないことや、出土遺物に硯、墨書土器といった文字資料がみられないこと、こくばら野遺跡ほどの量ではないが土錘が内陸部の遺跡に比べて多く出土していることから、漁撈を主たる生業としていたものと考えられる。また鎌倉時代には、三昧堂と思われる総柱建物が見られるほか、龍泉窯系の青磁椀を副葬する屋敷墓があり、当地の有力者を葬っものと評価できる。  〉 

『久美浜町史・史料編』

 〈 鳥取城跡 遺跡番号九九
字浦明小字鳥取に所在する。
現地は久美浜湾に面した河岸段丘から続く丘陵上で、当遺跡西方五〇〇メートルには浦明遺跡、また北方約二キロメートルには函石浜遺跡が所在する。
石器は段丘の先端部分より三点出土している。一はサヌカイト製の石鏃で、表土中から出土した。最大長三・六センチ、最大幅一・三センチ、最大厚は〇・五センチ、石材は粗悪で技法も稚拙な製品である。一については弥生時代中期のものと思われる。二は加工痕跡を有する剥片で、石材は石英である。叉状の抉りのある部分に加工痕が見られることから、石器と判断された。最大長二・六センチ、最大幅二・二センチ、最大厚は〇・九センチ。二は旧石器時代のものである可能性が高い。三は玉髄製の掻器である。縦長剥片を素材とし、両側縁を細かく調整している。最大長五・七センチ、最大幅二・九センチ、最大厚〇・六センチ。三については、調査時点で地山と考えられていた明灰黄色砂質土層から出土し、この石器についても旧石器時代の所産である可能性がある。本遺跡出土の石器については出土状態が確認されており、貴重な発見と言え、当地域が旧石器時代から居住地帯となっていたことをうかがわせる。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 小丸山古墳 遺跡番号一一
字浦明小字日光寺に所在する。
古墳は久美浜湾に面する浦明集落の後背にある丘陵上に立地する。
小丸山古墳の墳丘は長軸一八メートル、短軸一二メートルの楕円形を呈する円墳で、墳頂部には組合式箱式石棺を直葬した主体部を一基設ける。主体部は二段墓壙の二段目に石棺を据えており、石棺の長辺は二枚の板石で構成される。石棺内部は撹乱を受けており、副葬品などは出土しなかった。石棺の内法は長さ一・五メートル、幅三〇センチ、高さ四〇センチを測る。石棺の石材は凝灰岩で、函石産という。古墳の時期は副葬品などが皆無なため詳細は不明であるが、石棺を用いていることから古墳時代前期後半から中期にかけてのいずれかの時期に築造されたのであろう。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 長良遺跡 遺跡番号二七二
字浦明小字長良ほかに所在する。
遺跡は、久美浜湾岸に発達した標高一五~一六メートルの海岸段丘上に立地する。一九八九年に行われた調査では、後世の削平が著しいものの、掘立柱建物跡四棟および柵五条を検出している。
掘立柱建物跡は、一×一または二間および四×二間の側柱建物である。いずれの主軸も磁北より西に振る。庇付きの建物や倉庫と考えられる総柱建物は見られない。
柵列は、建物跡の一部の可能性もあるものである。
出土遺物から奈良時代の集落遺跡と考えられ、こくばら野遺跡・日光寺遺跡とともに久美浜湾岸の段丘上に立地する集落のひとつとして位置付けられる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 鳥取城跡(とっとりじょうあと)
所在地:久美浜町浦明小字鳥取
立地:久美浜湾東南岸丘陵上
時代:弥生時代中~後期、古墳時代、中世
調査年次:1987、88年(府センター)
現状:調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:市教委文献:CO58、C072
遺構
鳥取城跡は、中世の山城跡として知られる。中世の土壙(2.2x2.Omの方形、深さ約0.2m)のほか、下層遺構として弥生時代の構、土壙や古墳時代の直径0.7m、深さ0.4mの円形のピットなどを検出した。
遺物
中世の遺物は、土師器皿、青磁椀などの土器類のほか、芥臼がある。弥生時代の遣物としては、中期から後期の壺、把手付壷、高杯などが出土した。このほか、弥生時代中期と推定されるサヌカイト製の石鏃や旧石器時代の可能性がある玉髄製のスクレイパーも出土した。
意義
鳥取城跡は、発掘調査された数少ない中世山城跡の事例として貴重である。下層遺構としては、遺物には白磁、弥生時代中期~後期の遺構のほか、古墳時代の須恵器があり、調査地周辺に古墳があった可能牲がある。特に旧石器時代の可能性があるスクレイパーの出土は注目される。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 鳥取城跡 遺跡番号九九
字浦明小字鳥取に所在する。
遺跡は、浦明集落から東方の丘陵上に展開する。
鳥取城は、一色氏の属将である栗田内膳正の居城と伝えられ、天正一〇年、細川藤孝の家臣である松井康之の手によって落城したとされる。山上にある土塁や掘切・石列とその下部にある郭状の平坦地の存在から、古くから城跡と認識されてきた。
一九八七~八八年、発掘調査が実施された。一九八七年の調査では、丘陵先端付近で広い平坦地が確認され、掘立柱建物跡(SB〇二・〇三)、土坑(SK〇一)、溝(SDO四)、ピットなどが検出された。SK〇一は、二メートル×○・九メートル、深さ一五センチを測る長方形の土坑であり、形状から土坑墓の可能性が考えられる。埋土中から鎌倉時代前半の白磁片が出土しており、このSK〇一を切ってSB〇三の柱穴が掘られている。そのため、SB〇三の時期は鎌倉時代前半以降に比定される。
遺物は、白磁・青磁・瓦質土器・算盤玉状土製品・須恵器・土師器などが出土したが、その大半は古墳時代の須恵器が占めており、城に伴うものは少なかった。一九八八年の調査は、丘陵先端部分(第一調査区)と丘陵北辺(第二調査区)の二つの地点で行われた。第一調査区からは、弥生時代・古墳時代・中世の遺構が検出された。弥生時代の遺構としては、溝六、土坑二などが確認された。溝六は、調査区の南隅で検出され、幅二〇~四〇センチ、深さ一〇~一五センチを測り、U字形の断面形を呈する。溝内からは、外面に赤色顔料が残る壺の口縁部や、高杯の脚台部が出土し、中期末~後期初頭頃に埋没したと考えられる。
土坑二は、長径三・四メートル、短径一・九メートル、深さ二〇センチを測る、浅い窪地状の土坑である。土坑の北東縁に沿って、高杯・甕・短頸壺・水差し・長頸壷が各一個体出土した。土器はいずれも口縁部を北東側に向けた状態で出土し、ほぼ原位置を保っている。土器の配置は、中央に甕・短頸壺・水差しを並べ、その両側に高杯・長頸壺をやや離して配している。土器の外面には朱が塗られた痕跡があり、何らかの祭祀を目的にしたものであろう。遺物から、中期末~後期初頭の時期が考えられる。土坑二の長軸・短軸方向は、溝六の方向と一致し、両者一体で祭祀空間を形成していたものと理解できる。
古墳時代の遺構としては、ピット一一九などが検出されたが、建物跡は復元できない。ピット一一九は、直径七〇センチ、深さ四〇センチを測り、円形プランを呈する。埋土中より、土師器竃・石製坩堝・銅滓などが出土した。
中世の遺構としては、土坑一、溝一~五・七~八、ピットなどが検出された。土坑一・溝三・溝八は、一連の遺構であり、室町時代前半に埋没したものと考えられる。
溝一・二・四・五・七は、それぞれ互いに直行するような形で検出された浅い溝である。溝一は、溝八の埋没後に掘られており、室町時代前半以降のものである。これらの溝を排水・区画溝とし、溝四・溝五の間の空間を道路と推定することもできる。第二調査区では、地山を削りだして造成されている土塁状の高まりが確認された。時期の特定は難しく、当初から大規模な地形改変はなかったものと考えられる。
二年にわたる調査の結果、丘陵先端部の広い平坦地には中世期の遺構が展開していることが確認された。しかし、城郭に伴うような人工の施設は検出されず、土塁状の高まりはごく小規模な地形改変を行って造成されていることから、この平坦地を城郭の一部と考えることは難しい。青磁椀や茶臼が出土したことから、居館・屋敷地が存在していたものと想定される。  〉 

『京丹後市の伝承・方言』(写真も)
一遍聖絵
 〈 【コラム】一遍上人と久美の浜
  時宗の開祖一遍上人は、各地を遊行してまわった聖として知られているが、その記録に「一遍聖経」十二巻という大部な絵巻が残っている。
 その一コマが、熊野郡久美の浜で、上人が海中から龍が立ち現れたのに出くわしたことを伝えている(巻八)。

   同八年(注:弘安)五月上旬に、丹後の久
   美の浜にて、念仏申し給ひけるに、龍波の
   中より出現したりけり。聖の他は、時衆嘆
   阿弥陀仏、結線衆高幡の入道と云ふ者、こ
   れを見る云々。それより他所へ移り給ひけ
   る道にて、沖の方を見給ひて「ただ今の龍
   の供養をなさむとするぞ、供養には水を用
  いる事なり。ただ濡れよ」との給ひければ、
   やがて雨降り雷鳴りで、入皆濡れにけり。

と詞書に語っている。絵の右端で背を向けているのが、一遍上人。久美の浜の砂洲が描かれている。絵の左側に「久美浜」と注記がしてあるが、これは但馬の久美の里のことである。  〉 

『宮津市史』
 〈 一遍と時宗諸派の伝播
 鎌倉時代に誕生した浄土教の一派に、一遍智真によって開かれた時宗がある。一遍の法流を教団としての時宗と呼ぶようになるのは江戸時代からで、古くは個人と集団とを区別せず広く時衆と称した。一遍は弟子たちとともに全国を遊行して賦算(「何無阿弥陀仏 往生決定六拾万人」と摺られた札を配ること)をおこない、踊りながら念仏を称える「踊念仏」を人びとに勧めた。時衆が民衆や武士階級に受容され、もっとも盛んであったのは南北朝時代から室町時代にかけてである。鎌倉仏教諸派のうち丹後国に宗祖みずからが足を踏み入れたのは、時衆を開いた一遍だけてあった。
 自分の著作を意図的に遺さなかった一遍を知るうえでもっとも重要な資料といわれるのが、一遍の没後十年目の正安元年に弟(あるいは実子)といわれる、聖戒が絵師の円伊とともに一遍の生涯を絵と文で綴った『一遍上人絵伝』(『一遍聖絵』)である。
 弘安七年(一二八四)の秋ごろ、一遍の一行は京都を出立し、桂川を越えて山陰道に向かった。丹波国篠村あたりで草枕を結んでいると、観音信仰で有名な穴太寺(西国三十三所観音霊場第二十一番)観音の化導により、そこに集まった「異類異形にして、世の常の人に非ず」と周囲から認識されているような人々と仏縁を結ぶこととなった。ここで一遍は腹病を得て二週間ばかり逗留することとなった。病も癒えた一遍一行はその足で丹後に赴くのであるが、翌八年五月上旬に熊野郡久美の浜に着くまでの半年以上もの間、随分と月日を費やしているようにみえる。「絵伝」はこの間のことを一切記していないが、穴太寺から久美浜に至る間の道程は、おそらく天田郡生野の里(福知山市)を経て与謝峠あるいは普甲峠を越えて丹後路に入り、弘安七年の年の暮れを府中に逗留して、時宗にとって重要な意味を持つ歳末別時念仏を当地で修したと思われる。別時念仏とは期日を定めて不断念仏を称えることで、法然の命日に当たる毎月二十五日に修されたが、なかでも歳末の別時念仏は特別に重要であった。しばらく丹後府中に滞在して、五月になって丹後の久美の浜で一遍の一行が念仏三昧にふけっていると、海中より竜神が出現したのを目撃した。この時一遍のほかに竜神を目撃できたのは、時衆嘆阿弥陀仏と結縁衆の高畠入道の三人だけであった。久美の浜の故地は現在の久美浜湾に臨む久美浜町浦明の辺りとされ、南北朝時代にはこの辺りの時衆の拠点として浦明道場ができている。
 同じく時衆を名乗りながら一遍とは別の法系で、一遍より早く丹後に来往した人物に、浄土宗三祖良忠の弟子で近江国馬場蓮華寺の一向俊聖がいた。一向の伝記である『一向上人伝』によれば、一遍の山陰道遊行に先立つ弘安四年春に弟子礼智阿とともに因幡国智頭に遊行したのち、但馬を経て翌年春には丹後国に赴いている。この時丹後の草野辺兵衛なる者が礼智阿に諸方巡礼の意義を問い質したのにたいして、「三業の中身業の罪を償うことは巡礼がよき事なり」との答えに感服して礼智阿の弟子となった。さらに与謝の法順という者が持蓮華のことを一向に尋ねて、やがて一向に帰依して看阿と名乗ったという。看阿はその後も一向に付き随い十五戒弟の一人となっている。
 鎌倉時代には一遍と一向の二系統の時衆が丹後国に伝播したが、その後南北朝から室町時代にいたって丹後各地に宗勢を伸張させていったのは一遍の法系であった。  〉 


『京都府熊野郡誌』
 〈 藏屋敷跡
大字浦明の内長良は網野街道に浴へる長良城址の下手にあり、旧幕時代御城米の藏屋敷跡にして、当時上下佐濃田村方面の上納米の荷積場たりしなり。浜手に向ひて十数戸前の土藏並列し、明治七八年頃迄現存せりといふ。此處より艀にて旭港に回漕し、旭港より本船に荷積せしものなり。郡内に於ける御城米蔵屋敷は久美浜川崎長良の三ヶ所たりしなり。  〉 




浦明の小字一覧


浦明(うらけ)
大門 高バナ 五郎ガイ谷 天神 一本松 キズミ谷 長良蔵屋敷 城ノ岡 長良 長良ヤシキ 六方 サエンバジヤラク 沼田 城ノ谷 カマクラ谷 ホンド口 日光寺 フロヤガ谷 鳥取 サブ 長良坪内 辻藪ノ下 辻ノ藪 岡野 東岡野 サアリ 東岡 鳥取坂 クシヲガミ 城上 ヌタノヨウ 宮ノ下 大御堂 石井 ヨト マジリ 前谷 柳崎 フクラグチ フクラ奥 カケノ前大岩本 カケノ前 欠ノ前 横ヤダ 三町田 破田坪 清水 清水下 土橋 オテ 宝勝寺 カヤ山下 仏山下 岡ノドウ 竹ノ森 中林ノ下 仏山西 カウカグチ カウカ 六地蔵 嫁コロシ 清水向ノ上 人夫替 山ノスソ 平林坪 平林 カンジヤ森 松ノ木 クゴ 角クゴ 金ヤ谷口 荒神向 大廻リ 大クジ 八ケ坂 大ヤブ 番人前 大廻リ南坪 庵奥坪 庵奥 カンドノ ニヨウヤ 谷ノ奥 谷奥岡 寺ノ上 子ギ谷 カワシナワテ 神崎岡 西ヤシキ 家ノ下 砂原 中新田下 砂原下 西ヤシキ 西新田 西地 坊主ヤシキ 上地 中地 東地 大松 ソラ地 大藪 宅地ノ上 元宅地 宅地ツゞキ 宅地前 アンヤシキ コクマノ ゴロガイ谷 ゴロカイ谷 ワシラガミ 向カウカ 松ノ下 南クゴ 中クゴ 岡崎 カンシヤ森 小石バナ 才ノ神 大ミゾ 長良 橋爪 ハケサカ 石井坂 カナヤ谷 坂尻 フクラ 大岩ノ本 松葉頭 カンシヤモリ イエノシタ キシミ谷 イワラ谷 タカバチ 堂ノ東 フシヲガミ 長柄坪 長良坪 中新田

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ



資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2014 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved