倉梯(くらはし)
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京都府舞鶴市倉梯中町 京都府加佐郡倉梯村 |
倉梯の地誌《倉梯の概要》 倉梯(椋橋・倉橋)は現在の東舞鶴地区南部の市街地のほぼ全域を呼んだ地名であった。祖母谷川流域・与保呂川流域の海まで。森・行永・浜・北吸の地にあたる。 古代は『和名抄』の高橋郷(刊本)、椋橋郷(高山寺本)。丹後風土記残欠の高橋郷。 後の文献では倉橋と記されるので、高橋は椋橋の誤記だとする説が多いが、というかそればかりであるが、そう簡単に決めていいものか。高と椋は似た漢字ではなく書き誤ることは考えにくい。古代社会へ行ったこともないクセして傲慢な現代人の思い上がった勝手な推理を古代人と後世人が嗤うことにはならないか。 後の文献がたとえそうであっても、その記録もすべてが記録され残されているわけではないし、ましてそれが過去まで遡って適用できるかどうかはまた別の問題である。江戸は誤記で東京が正しい地名だろうか。正解は一つなどと単純で愚かな考え方でいけばこうした結論となるが、地名は算数ではないので何も一つだったとは限らないものである。多くの人が広い地域を長い時代に渡って呼び使うのであるから、同じ場所でも複数の地名があったとしても何も不思議でもない。古くはクラハシ・タカハシの少なくとも両方の呼び方が知られていたと見ておくのがいいと思われる。 倉梯・高橋はどこの地名かと考えれば、庫梯山から来たものと思われる、庫梯山は別称倉部山と呼ばれたから、今の黒部(倉部→黒部)の奥の三国岳(616m)を指すと思われる。丹後・丹波・若狭にまたがるから三国岳と現在は呼ばれている↑、上林側からは胡麻山とも呼ばれる。 現在では与保呂小学校の向かいの山(インターの裏山)が倉梯山(砲台山・青路山)と呼ばれ、地図にはそう書かれているが、そんな名があると知らない人も多く、後世にここに山名が移動したか、あるいは何かの間違いなのではなかろうかと思われ、古代の庫梯山なのではない。現在の倉梯山↓は与保呂校グランドから見ればかくも姿がよく舞鶴の古代史と戦争史がそこに眠っているのだが誰も気にもしていない様子。 ハシといえば現在は水平に架けられている橋とだけ考えられるが、ハシはハシゴのことで、垂直に架けられたものでもあった。倉梯は高床式の倉の入り口に立てかけられている梯子のことである。これは高橋とも呼ばれるが、こうした梯子を立てかけたような嶮しい山をいう言葉である。会津磐梯山はバンダイサンと呼ぶが、本来はイワハシ山で、岩で出来たハシゴのような垂直に近い嶮しい傾斜の山の意味。 坂根正喜氏がヘリでここを飛び、与保呂側へ越えたことがあるそうである、「ゴッツイ嶮しい山やなー」と言っていた。倉梯・高橋は元々は倉部山ふもとの今の黒部や多門院、さらに祖母谷の奥地を発祥とすると考えられる。 倉部山(倉梯山・三国岳)は丹後風土記残欠に、 〈 高橋郷。本字高椅。高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高橋と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。 〉 とある。天香語山命を祀る山なのだから天香具山とも呼ばれたものと推測できるし、与謝の例から天香具山は傘松山とも呼ばれたのではないのかと考えられ、笠松山とも呼ばれたと私は推測している。 丹後風土記残欠には、 〈 枯木浦は、往昔、少彦名大神と大己貴大神、この二柱神、国造り坐さなとするの時に当たり、海路の順次に所在する諸島を集合しめんと欲し、便ち笠松山之嶺に登り、息限りに号呼んで曰く、彼々来々と。則ち四嶼自ずから来て列り。故に彼来と曰う也。 〉 の笠松山之嶺とは、三国岳のことと思われる。東舞鶴の発祥に関わったきわめて重要な山と思われる。 中世は倉梯郷・倉橋庄。 現在の龍勝寺の裏山に「倉橋城」があったという。『角川日本地名大辞典』は、 「永正12〜14年、一色氏家臣団の内紛と対武田合戦にあたって、一色義清・石川勘解由左衛門尉は武田元信・朽木稙広・朝倉孝景らの勢力と合体、一色九郎・延永春信らの勢力と相対した.永正14年6月、延永春信は若狭和田に着陣したが、武田・朽木らの連合軍に追われて「倉橋城」に退き、同年8月落城した(室町家御内書案・小浜市明通寺文書・東寺過去帳)。倉橋城は舞鶴市行永の竜勝寺裏山と考えられる。「東寺過去帳」によれば、永正13・14年の双方の死者は二千数百人を数えたという。」 近代の倉橋村。明治22年〜昭和13年の自治体名で、北吸・浜・溝尻・森・行永・堂奥・多門院の7村が合併して成立した。 旧村名を継承した7大字を編成し役場は行永に設置。明治23年の戸数659・人口3、115。 明治25年倉梯尋常小学校に倉梯村ほか3か村の組合高等小学校が併置された。 明治39年北吸・浜・溝尻の全域と、森・行永の各一部が分離して新舞鶴町の大字となり当村は4大字となる。 昭和13年東舞鶴市の一部となる。 倉梯の主な歴史記録《東大寺奴碑帳》(天平勝宝元年(749)12月19日付正倉院文書)〈 奴津麻呂年弐拾・(さんずいに七、そのしたに木)(割註・印左口辟下黒子 加佐郡戸主外正八位上椋橋部乙理野奴 〉 乙理は雄鳥だろうか、椋橋部乙理はたぶん鍛冶屋か祭司ではなかろうか。 《丹後風土記残欠》 〈 高橋郷 本字高椅 高橋郷。本字高椅。高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高橋と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。また、その山口(二字虫食)国に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母祠と云う。 庫梯山、倉部山の別称也。 倉梯川 水源(以下虫食) 〉 《東寺百合文書ホ・平遺4154》 寿永3年4月16日、平辰清が八条院女房弁殿局に加佐郡大内郷を寄進しているが、その寄進状に大内郷の四至として 〈 北限余部堺方并倉橋郷堺 〉 《丹後国田数帳》加佐郡、 クラハシかタカハシかわからないが、与保呂があるので倉梯郷とされている。 〈 □□郷 百六拾七町七段内 [ ]一段七十五歩 領家 延永左京亮 廿七町九段八十三歩行 与保呂 小倉筑後守 卅一町六段百二歩 地頭 小野寺 〉 《加佐郡誌》 〈 倉梯村 (一)戸数 七九九戸 (二)人口 男一七九九名 女一五三八名 計三三三七名 (三)生業の状況 農業 四○六戸 職工 三一四戸 商業 五三戸 工業 一六戸 其他 一○戸 (四)主要物産 米 二、二七五石 七五、二八六円 麦 三七八石 四三、九四円 繭 四、一○○貫 四五、○○○円 果実 一三、五二○貫 八、五九二円 (梨、葡萄、桃、柿) 蔬菜 九八、六○○貫 一二、五○二円 (葱、大根、蕪等) (五)人情一般 往時質実敦厚であった気風は次第に薄らぎ、欧洲大戦後の浮華な潮流は、これが浸染を防ぐことができなかったが、現時に於ては引締らんとする傾向を見るやうになった、東南部祖母谷方面は専ら農蚕等に従事して比較的鈍重素朴で、北部新舞鶴川隣接方面は外来者も少なからず、官衙工場への通勤者多く、市街地の影響を被って地勢と共に両者の中位に在る。 … 〉 《地名辞書》 〈 椋橋郷。和名抄、加佐郡高橋郷。○高橋は椋橋の誤ならん。高山寺本に椋橋に作れり、今の倉橋村与保呂にあたる、志楽の西。三宅神社は倉橋村大字北吸に在り、又式内社の一也。倉橋村行永の東北を与保呂村と為す。其嶺は丹波何鹿郡上林谷と相界し、養老山と名づく。 〉 《倉梯村史》 〈 本村の古名高梯の名始めて文書に現はれしは蓋、元明天皇の和銅三年ならんか…一二二○年…この年諸国より風土記を奉る。丹後風土記伽イ+少郡残欠本の郷名中に高機郷あり。我国斯界の権威吉田東伍博士は之を現時の椋橋…倉梯…と断ぜり。地名の起原として曰く、 「天香語山命倉部山の屋上に神庫を創営し総ひて種々の神宝を収蔵し長梯を用ひて其の庫に到るの科となす。故に高橋と言ふ、今猶峯頭に神祠あり、天藏社と称す」 依て其址を按ずるに今多門院小字材木に小丘ありて梯木林と言ふ。古老傳へて曰く、古くは倉部山とも称し頂上に小祠ありしが何時の頃か南面の山麓に移したりと。現存の天藏神社と併せ考へて或は此所なるか。往時は當地方一帯を高梯と称せしがごとし。 〉 関連項目「祖母谷」「与保呂」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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