祖母谷と高橋郷このページの索引 天藏神社(舞鶴市多門院材木) 大唐地(綾部市) 祖母谷(舞鶴市) 三国岳(丹後・丹波・若狭境) 山口神社(舞鶴市堂奥) |
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『万葉集』の3560 (真金吹く)丹生の地の赤土のように、色に出して言わないだけです。私が恋することは。という意味だそうである。このソホではなかろうかと思われる。 岩波の新日本古典文学大系本の注釈には、 ▽「真金吹く」の「ま金」は、鉄。鉄鋼から火力で鉄を吹き分けて鋳るので「吹く」という。「丹生」は赤土から成る地。この歌の「丹生」が具体的に何処であるかは、未詳。「東歌だから上野だろう」(『全註釈』)と言われる。「上野国北甘楽郡」の「丹生」とする一説もある(橋本直香・上野歌解)。「まそほ」は、赤土。辰砂。「仏造る真朱足らずは」(3841)。初・二句、「色に出て」の序詞。類歌、「白砂(しらまなご)御津の黄土(はにふ)の色に出でて言はなくのみそ我が恋ふらくは」(2725)。) ここは「麻曾保」と萬葉仮名で書かれているが、真朱としたり真赭と書いたりする。 『丹生の研究』は、マソホ(真赭)は水銀朱のことであり、 さてもう一つは大和国の 『大日本地名辞書』は、 〈 添上(ソフノカミ)郡 大和国東北隅にして旧添下郡と一境の地なり。春日の三笠山中央稍北に峙ち、山東の地は、田原柳生等別に一境を成し、山城相楽郡伊賀名張郡に接す。日本書紀神武帝の巻に層冨(ソフ)県あり、(欽明帝の巻に添上郡とあるは追書にして)大化元年大倭六県の一は延喜式に曾布と記し、其後上下に分れたり、続日本紀、元明天皇和銅元年、至春日離宮、詔添上下郡勿出今年調云々。(日本書紀、天武白鳳五年、添下郡あり此頃已に分れたりと知るべし) 和名抄、添上郡、訓曾不乃加美、分郷八あり、今奈良市外十七村と為る、郡役所奈良市に在り。 〉 藤原宮木簡に 『地名・苗字の起源99の謎』(鈴木武樹・1992)は、 〈 【層富(ソフ)】のちの「添(ソホ)」。朝鮮古代語で「蘇伐(ソボル)」・「所夫里(ソフリ)」はいずれも「みやこ」を意味し、それぞれ新羅と百済との都。「添」は『日本書紀』の第二巻では「ソホリ」と読まれている。 …河内・北河内郡の讃良(ササラ)は、古くは「現占(サウラ)」とか「佐和良(サワラ)」とか「早良(サワラ)」とか書かれていたようである。早良(サハラ)はまた筑前にもあって、これまた「佐和良(サワラ)」とも表記され、ほかにも摂津・三島郡の沢良宜(サハラギ)(のちに玉櫛村・佐和良義神社あり)や 美作・大庭郡の四宮佐波良神社などが目につく。讃良(ササラ)が沙羅(新羅)から来た可能性があるということから推論しなくても、これらのサワラは、十中八九、新羅の古名《蘇伐(ソボル)》に由来する地名である。朝鮮古代語では、「ソ」は「金」を、「ポル」は「村邑」を意味したから、「ソポル」は「金の邑」すなわち新羅の都《金城》を指すのである。このソボルは、「蘇伐」のほかにも、渉羅(セフラ)・雑羅(サフラ)・金椀(サハリ)・匝羅(サフラ)・缶+欠羅(サフラ)・肖伐(ソボル)・沙伐(サボル)・沙弗(サフル)・屑夫婁(ソフル)・草羅(サワラ)・所夫里(ソフリ)(百済の都)・徐伐(ソホル)・舒発(ソハル)・斯弗(サフル)・助當利(ソホリ)・佐布利(サフリ)などとも表記され、扶余・高句麗・百済・新羅・加羅の別なく「主邑」の意味で用いられていた。そのうちでも新羅の都だけは、「徐羅伐(ソラボル)」(=新羅城(ソラボル))とも「曽尸茂梨」(ソラモリ)(=「金の城」)とも書かれ、倭国では前記の早良(サワラ)・佐和良のほかに、ニニギが空から降臨したとされる「添(ソホリ)ノ峰」の「ソホリ」をはじめ、筑前・早良郡の背振(セブリ)山脈の「セブリ」、瀬織津比口+羊(=伊勢神宮の主神)の「セオリ」、塩乗津彦(シホリツヒコ)の「シホリ」、曽能振ノ命の「ソノフリ」、あるいは佐分利(サブリ)など、さまざまなかたちで表記されていたようである。 ところで、すでに15で説明したように、この曽富利(ソホリ)という地名は奈良盆地では、「利」が落ちて「層富(ソホ)」(添(ソホ))というかたちをとっている。日本語では、蕪(かぶら)の「ら」や野良の「ら」のような、単語の末尾のラ行音は、脱落する傾向があるからで、この伝でいけば、周芳(スハウ)ノ国(のち周防)の「スハ」や「諏訪」なども「ソフリ」の「リ」が落ちてできた地名だということはじゅうぶんに考えられる。 ちなみに、「都」を表わした朝鮮古代語の「ソボル」は、現在ではb(p)音が消失して「ソウル」になっている。p音の転化したかたちであるh音を固執して「周防」や「諏訪」を伝えている日本語は、言語は中心地を離れるほど古いかたちを残すという言語学上の通則にあくまでも忠実なわけである。 〉 ソフル地名は朝鮮にもたくさんあるし、海を渡った美しい国にも実はたくさんある。気が付かないというか、気が付こうとしないというべきなのか。自分たちの先祖はこの地に天から降ってきたとでも固く信じているのだろうか。 祖母谷はどちらとも取れる、どちらが正解かはなかなかにつかめない。 古い地名や神社名とはこうしたことで、全国的な視野だけでなく、少なくとも東アジア的な視野を必要とする。古代とは実はそんな時代であった、後の狭い島国根性・神国根性では理解を超えるかも知れない。簡単なようでなかなかに奥深く、歴史認識の自己改革も迫られる分野の一つである。地名の面白さとはこんな場面であろう。教科書には書かれていないが、地面に書かれている。どちらを信用するかである。 『丹後風土記残欠』は、 〈 高橋郷。本字高椅。 高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高橋と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。また、その山口(二字虫食)国に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母祠と云う。 庫梯山 倉部山別称也。 倉梯川水源(以下虫食) 〉 峰の頂上にあった神庫に稲が納めてあったということは想像しにくい。何が収蔵してあったのだろうか。それはカゴであろう。ここで製鉄・鍜冶された鉄の武器類ではなかろうか。 その山口に これら残欠に記載された社や地名は現在もなお見ることができる、歴史の化石を掘るようなことになる。現在のそれらの位置が当時のままかどうかは検討が必要と思われる。 現在の地図に書かれている倉梯山(244.5m)は舞鶴若狭道インターの裏山であるが、これが古来からの、残欠などが述べている倉梯山かどうかは怪しい。現在はそれほどには重要視されている山とは言い難い。無視されていて、与保呂や倉梯の聖山と意識されているのは、この山でなくて奥に鎮座する三国山(616.4m)の方である。天藏神社や山口神社の位置からしても現在のそう呼ばれているこの山ではなかろうと思われる。
「室尾山観音寺神名帳」には、「正四位下 天藏明神」とあるが、『倉梯村史』は、
〈 天蔵神社 多門院材木鎮座 無格社 天香語山命を祀る。丹後風土記高橋郷の条下に曰く、 「天香語山命庫部山尾上に神庫を創営し給ひて云々…前述地名の起源の条参照…、藤原光長在銘の神鏡あり、古老曰く「古くより伝はりし立派な新鏡ありしも何時の頃よりか現在のものと交れり」と。寛文…凡二七〇年前…宝暦…一八〇年前…等の修理棟札あり。其他不詳。 本村の古名高梯の名始めて文書に現はれしは蓋、元明天皇の和銅三年ならんか…一二二○年…この年諸国より風土記を奉る。丹後風土記伽イ+少郡残欠本の郷名中に高橋郷あり。我国斯界の権威吉田東伍博士は之を現時の椋橋…倉梯…と断ぜり。地名の起原として曰く、 「天香語山命倉部山の屋上に神庫を創営し総ひて種々の神宝を収蔵し長梯を用ひて其の庫に到るの科となす。故に高橋と言ふ、今猶峯頭に神祠あり、天藏社と称す」 依て其址を按ずるに今多門院小字材木に小丘ありて梯木林と言ふ。古老傳へて曰く、古くは倉部山とも称し頂上に小祠ありしが何時の頃か南面の山麓に移したりと。現存の天藏神社と併せ考へて或は此所なるか。往時は當地方一帯を高梯と称せしがごとし。 〉 現在の鎮座地は本来の位置とは考えられない。峰の頂ではないからである。狭い谷間のような所である。裏山は何山なのか名前もない。 ここへは しかし本当に正解かと考えれば疑いたくなる。梯木林は高くはない。「峰の頂」とか呼べるような高さも大きさもない。「小丘」であって、天香語山命を祀った銅山にしてはどうも規模が小さすぎる。 右の写真の正面手前、鯉幟の右下の小山というか携帯のアンテナの小丘が梯木林、現在は見るも無惨な姿をさらしている。一番奥の高山が三国山である。 藏梯山は倉部山とも呼ばれたと残欠は書く。倉部が黒部(黒苻)に転訛したのであろうが、その黒部集落は祖母谷の一番奥にあって、梯木林よりもまだ奥にある。恐らく そんなことから聖なる倉部山は三国山だと思われるのである。与保呂小学校校歌で歌われるのは玄関先の倉梯山でなく三国山である。倉梯小学校校歌も三国山である、校名の元となった倉梯山などは歌われない。与保呂の蛇切岩伝説でも黒部の美女・オマツがヘビとなる。三国山が黒部山(倉部山・倉梯山)であり、そこには大蛇が棲むと考えられていたのでなかろうか。だから本来は三国山が倉梯山であり、それが遠く嶮しいので、ヘリから見るとゴッツイ嶮しい山だそうであるが、そんなことで里にある梯木林に移され、ここが倉梯山となり、この丘は小さく忘れられることになった。現在の倉梯地域に住む後裔たちにより伝説の倉梯山は現在の倉梯山と交替することになった。…と私は想像している。 祖母谷から見る現在の倉梯山は聖山とはいえないような感じである。麓には何の社もない。後世、誤り伝えられた倉梯山なのではなかろうかと考える。 しかし梯木林はその名からしても立派な一人前の聖地である。世界樹伝説を持った金属精錬技術者たちがいたと思われる。この林もあるいは磐穴師の転訛かも知れない。「梯木林」 古い記録に見える高橋は倉梯の間違いだと言う人ばかりであるが、現地の長い千年を越える歴史のなか、比較的広いこの地のあちこちでたくさん人が使ってきた地名であり、それはいろいろと言うのであって、何も絶対にこう呼ばなければ通らないということはない。地名はそこの民衆がつけるものである。地名とはそんなある程度のユレのあるものである。現地で通用すればそれでいいのである。高橋と言えば誰にもわからないならば、間違いであるが、それで相手が理解できればそれで正解なのである。今は普通はこう呼ぶが、しかしそうとも言うな。ということはよくあることである。そのどちらが正しいか。答えはどちらも正解なのである。現在は高橋とは呼ばない。現在はそう呼ばないからといって古代も呼ばなかったとはいえない。倉橋サンも高橋サンもこの地域には住んでいる。倉橋サンが正しくて高橋サンは誤りとはいえない。 当時の「行政地名」を集めたと思われる『和名抄』ですら、刊本は高橋、高山寺本は倉橋である。高橋とも倉橋とも、現地では倉部とも呼ばれたと考えざるをえないではないか。千年の後の当時を何も知らない現代人が、どちらが正しいなどと議論するのは馬鹿げたことである。どちらが正しいかは当時の資料を調べるより道はない。その資料に両方があれば、どちらも正解だと考えるより道がない。 記録にそう書かれていれば、昔はそうも言ったのかと考えなければならないのであって、これは間違いと違うかなどと何を根拠にそう思い上がるのであろう。現代人の歴史への謙虚さを欠いた大きな欠陥だと思う。田造と田辺、高橋と倉梯が間違いだから、残欠は偽書なりと明治人はいう。本気で偽書を書くつもりなら、そんなヘマをするかどうかを考えてみたのか。未だにそんな説を信じる人ばかりである。
三国(丹後・丹波・若狭)の国境に位置するため、三国岳と呼ばれている。いつの頃からそう呼ばれるのかわからないが、その古名あるいは地元名は恐らく倉部山・黒部山・倉梯山・高橋山・笠松山などではなかったのかと思われる。
茅屋の窓からは現在の倉梯山とこの三国岳がよく見える。三国岳は養老山などと比べると少し低く見える。『角川日本地名大辞典』は、 〈 みくにだけ 三国岳[綾部市・舞鶴市] 綾部市・舞鶴市・福井県大飯郡高浜町との境にある山。標高616.4m。地質は斑糲岩・閃緑岩からなる。養老山、弥仙山、蓮ケ峰と北東から西南方へ連なる標高600m前後の山塊の北端部に位置し、眺望にすぐれる。山名は丹波・丹後・若狭の3か国の国境に位置することに由来する。東方の頭巾山(871m)に続く稜線上に尼来峠がある。 〉 この山を水源にしているのが丹後では与保呂川・祖母谷川(残欠の言う倉梯川であろう)。丹波では由良川の支流・上林川。若狭では関屋川である。私は登ったこともないが大変に眺望のよい山だそうである。 『丹後風土記残欠』は、 〈 枯木浦 本字彼来 枯木浦は、往昔、少彦名大神と大己貴大神、この二柱神、国造り坐さなとするの時に当たり、海路の順次に所在する諸島を集合しめんと欲し、便ち笠松山之嶺に登り、息限りに号呼んで曰く、彼々来々と。則ち四嶼自ずから来て列り。故に彼来と曰う也。 〉 この図は「カシミール3D」によるもの。三国岳頂上に立って枯木浦をみた想定で作図している。四嶋(戸島・蛇島・烏島・浮島)の全嶋が見える。笠松山は本来はこの山だろう。国作りの基点となった山のようである。 斑糲岩・閃緑岩だから金属が出たのでないのかと考えられるが、丹波側の麓の 〈 …「丹波志」は市茅野と大唐内の奥の若狭境に「サントウ山」があると記す。「丹波負笈録」にいう「サントラ山」「三俵山」のことと思われるが、同書はこの山に鬼の穴があると伝えている。また村の奥には鬼の洗濯場の伝承がある。現在地元に「サントラ山」とよぶ地名はないが、鬼の穴は三国岳東方の丸山とよぶ尾根にあると伝える。 村内に 当社ノ謂、往古奥ノ山ニ人ヲ取大蜘住ケル由草ケ部 村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ祈リ退治ス、今其谷ノ 名大蜘谷ト云、其聖リヲ祭ト云、并藤ノ森ト云社アリ、近江国佐々木郎等住シ其先社也卜云、 … 〉 『角川日本地名大辞典』は、 〈 …当村の小字に湯屋谷・湯屋内があり、温泉の跡という伝承がある(丹波誌).村の鎮守に大蜘蛛神社(聖大明神)がある。同社は往古大蜘蛛一族を近郷有安村の藤元氏が退治し祀ったところという(奥上林村誌)。… 〉 大蜘蛛もいたし鬼もいた。…という。これらは産鉄民を呼ぶことばである。 この東には 丹波側の麓はどこも「限界集落」などと呼ばれていて、これらの集落で65歳以上の高齢者が締める割合100%の所もある。格差社会の到来を目の当たりにできる。手を叩いて喜ぶ者も多かろう。さて現代の鬼とは、どいつじゃろ。 口の方は庭先に花が植えてあったりして、まだいいが、奥(奥上林)は荒れとるな、と写真家・坂根氏も認める。仮にいくら大都市が立派になったからといっても、それで国がよくなったということにはならない。全体というものはそうしたことではない。政治家たる者は全体を見て政策を進めなければなるまい。一部だけ、それも大金持ちや大企業だけが良くなったかも知れないというのでは政治家は失格である。半面しか見えない者を半人前と呼ぶ、そんな一人前でないような者ばかりではないか、早く降板願いたい。 若狭側の 〈 …京都府と福井県境の高浜町青の青海神社に胴体を、同じく高浜町難波江の小字大森に鎮座する大森さんに尾を埋め、祭神とする伝承もあり、二府県にまたがって大蛇退治の伝承が派及していることがわかる。 〉 「舞鶴市内の大蛇退治伝説のまとめ」 「空を飛んだヘビ」 「青海神社」 (舞鶴市の森の弥加宜(みかげ)神社(大森さん)、余保呂の神社、当社の三社は兄弟神さんだと言われ、当社も大森さんと言われております。とある。 ) 古くは重要な街道の通った関屋川を遡る、高速の工事があったためか道路が広くなっている。カラ川といわれるだけあって、水がまったく流れていない部分も多い。近くに住んでいながらも私は初めて来てみたが、結構人家も多い。林道がずっと延びていて、その気になれば、かなり山奥まで車で行けそうに見えた。この辺りも蛇紋岩である。
丹後風土記残欠の神名帳に、山口坐祖神とある、山口坐祖母神の写し間違いであろうか。その本文には、
〈 …また、その山口(二字虫食)国に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母祠と云う。 〉 とある神社である。「室尾山観音寺神名帳」の従五位上・曾保谷山口明神とあるのがこれであろう。 古くは、残欠がいうように、 現在も 普通はアマノミチ姫と呼んでいるが、テンドウ姫なのではなかろうか。これは天童とも書くが要するに太陽のことである。天道日女とは日の姫ということで、天照大神と同じと思われる。海人族の信仰だと言われる。宮津市下世屋の山口神社にも天道神社という境内社がある(左写真)が、何か山口と天童は関係があるのだろうか。 ソボは倉谷の佐武ヶ岳のサブともなり、また大飯町の 〈 佐分利川中流域に位置する。地名は、サビタ(荒び田)・サブタ(佐分田)の転訛によるものか。当地は佐分利谷全域を見渡せる場所に位置し、古来から交通の要所であった。… 〉 RはよくD音と入れ替わるのでサブリ=サバリ→サバダかも知れない。ここは古いサバ街道が通り、高浜町に越えれば、そこは街道の基点となった 舞鶴の祖母谷と佐分利川の辺りとは関係がないことはない。直線距離ならば5キロばかりの地である。 『丹哥府志』は、 〈 山口大明神。山口大明神の禁口元文二年の春宮津白柏町の人の田より掘り出す。其銘に云。丹後国加佐郡倉梯郷祖保呂谷村山口大明神文安二年十一月廿一日勧進聖道仙敬白とあり、後に其人より其村へ遣す今に在り。 〉 『丹後国加佐郡旧語集』は、 〈 山之口社。八月朔日祭角力有。堂奥村多門院村ノ氏神。元文二年春宮津白カシ町加右衛門と云者の野田云年の水にて山崩れたり。此度地を平均申候処土中より鰐口を掘出す。銘有り田辺山口大明神と在之ニ付其後嘉右衛門田辺引土町六兵衛と云者に右之段語り双方上江無沙汰ニ而遺申度由。六兵衛堂奥江知らせ掛合ニ而貰申候由。鰐口ノ銘。丹後加佐郡倉橋郷祖保谷村 山口大明神。文安二十一月廿一日 勧進聖道仙敬白。 〉 としている。現在はこの鰐口はないそうである。文安21月は年の間違いか、そうなら1464年。こんなことで何を祀った神社ともわからない。名前から判断するより道がなさそうである。 この谷の特徴は地名よく現れている。「 「溝」はソボとかシボとかとも古くは呼んだようである。『風と火の古代史』(柴田弘武1992)に、「丹後の天女伝説」の章があって、「丹後の畏友小牧進三氏の霊に捧げます」とあるが、その中で、 〈 竹野川を下れば このHPで紹介している国内神名帳では、「従三位上 溝尻と書かれていればミゾシリとしか普通は読みようがないが、現地では案外に何でもないソボシリということであったのかも知れない。祖母谷の尻に位置するからソボシリであったかも知れない。 丹後国国内神名帳の原典を見ないので何とも判断ができないが、恐らく「ソ」か「シ」か判断しにくい文字が書かれているのではなかろうか。私の字も汚くて自分で書いた物でも自分で読めない。そんな時は前後関係から判断して読むのだが、そうだとするとここは「ソボタニ」ではなかろうかと私には思える。
多門院の梯木林の北側に興禅寺がある。
『舞鶴市民新聞』(060322)には、 〈 臨済宗天龍寺派 護国山興禅寺 住職 岡 義道 溝尻の谷を南へ行くと、堂ノ奥となる。さらに入って行くと多門院の谷となり、山すそにある集落が左側にあらわれる。そして興禅寺へ向う集落際の狭い道をさらに行くと、道は二つに分かれ、古い石の道標によって、左若狭道、右丹波道としている。丹波道へ向う道は、真横に舞鶴若狭自動車道が通り、山(三国山)の向うには、今は行きがたいと云う。三国山の向うは綾部市上林である。 輿禅寺へは、若狭道に向かい間もなくである。左手の小高い山中に、寺院が見える。ここは堂ノ奥と多門院である。その地名の由来は、共に興禅寺の一宇の中におわす「毘沙門天」にあると云う。この毘沙門天立像は、京都鞍馬寺の毘沙門天と奈良信貴山の毘沙門天と、時同じくして三体とも一本の香木から、お姿を現わされたのである(寺伝)。造られたのは平安時代にさかのぼると云う。 興禅寺の来歴は不詳であると云うが、元は天台宗の寺院としてあり、その後真言宗になり天皇家の祈願所としての由緒を持つに至った。当寺はこの頃が七堂伽藍の偉容をそなえた興隆の中にあったのであろうか。高台にある当寺の庭から眺める谷合いに、末寺十一ケ寺が軒を並べ、寺屋敷もあったと伝える。しかし一五○年余の後、織田信長の「真言倒し」に遭う等、世の興廃に抗う事は出来ず、やがて当寺が復興するには、元和八年(一六二二)である。 元和年間にひとつの出来事があったと古文書は云う。 元和二年に寺宝であるところの「毘沙門天」が、盗難にあう事件が起り、一村挙げて探索と、どろぼう探しに奔走した挙句、伊勢の御師(慶龍と云う)を探りあて、元和八年に無事に昆沙門天の帰山を得たと云う騒ぎがあったことを。 〉 ここには大変有名な毘沙門さんがある。上の写真で言えば、門前の道をお寺へは曲がらずにそのまままっすぐに山の方へ行けばそこに毘沙門堂があり、その中に置かれている。 『舞鶴の文化財』(市教育委員会・昭和61)は、 〈 この像は、元和2年(1616)に慶龍という伊勢の御師に盗まれて持ち去られたが、元和8年、一村結衆して取り戻したと伝え、もともと本地仏か神社に関係のある仏像として造られたものかとも思われる。 毘沙門天は、四天王のひとつに数えられる多聞天が、福徳の神として独尊で信仰されてきたもので、この像は左手に宝塔を捧げ、右手に宝棒を持つ毘沙門天の通形である。 眼、口、髭、獅噛などに彩色するほかは、素木のまま造られている、いわゆる檀像である。檀像は、もともと白檀などの香木で小像に造られたものであるが、後には、このような檜造りの大像の制作も行われるようになった。 唇の間から歯をむき出しにした相好は他に例を見ないもので、獅噛の人面に近い不気味な表情とあわせて、民間信仰の対象としての呪術的な迫力をみせる。 邪鬼の素朴さなどからこの地方での制作を思わせるが、素木彫り独特の鑿の冴えをみせる優れた作である。 〉 『丹後史料叢書』「丹哥府志」の中で永浜宇平は、 〈 【長谷山興禅寺】(臨済宗) (校者曰)この多門院の多門天即ち毘沙門天は実に名高い毘沙門天で、伊勢のお札売が盗んで持ち去ったら、夜な夜な丹後へ帰りたい帰りたいと枕上に立たれて仕方なしに持って来て帰したといふ伝説の主人公であるが、然る伝説の真偽や事実の有無は姑くら措き、所在の村名を多門院と決め込んで仕舞ってゐるのに見ても霊験いやちとな毘沙門天即ち多門天であったことが判る。嘗て大正十五年三月二日地方新聞紙上に「多門院興禅寺の秘蔵されてある毘沙門天の立像(高サ三尺)は京都鞍馬の一体、大和信貴山の一体と共に日本三体の一として貴ばれ、昨年国宝審査委員長の九鬼男爵下丹に際して之を見、驚嘆して是非国宝に編入方運動しようと約束した程の逸物であるが、二月二十八日文部省宗教局技師中川忠順氏下丹、親しく之を観察する処があったから国宝に指定されるのも遠い将来ではなからう」と報じてゐたが果然同年三月二十八日保存会議を通過し四月十九日文部省告示第二五一号で国宝編入を発表された。多門天(毘沙門天)といへば多くは矛を把り塔を捧げた姿であるが是は宝棒を持って御座る。面貌、宝髪、衣文の刀法(寺伝は兎に角)まさに藤原期の作顕なる容易に首肯得らるる素晴らしい霊像である。 〉 「かえって来た毘沙門天」 毘沙門とは何物であろうか。『カミと青銅の迷路−清張通史(3)』(松本清張・昭62・講談社文庫)は、 〈 …この四天王のうち毘沙門天こそメソポタミアのミトラ信仰が東にきたものであるというのが宮崎市定の説である(「毘沙門天信仰の東漸に就て」『アジア史研究第二』三所収)。 毘沙門はミトラ 毘沙門天が四天王の一として仏教とともに中国に輸入されたのはきわめて古い時代であって、唐代には毘沙門天が北門鎮護の善神として独立し、天王といえば毘沙門天のことになり、毘沙門天の画像も多く描かれたが、それをうけて宋代には都城の楼上に安置されたり毘沙門天信仰の流行となった。 毘沙門天は西方から入ってきたらしく、西域の于蘭(門の中は眞・ホータン)(タリム盆地南部のオアシス都市)では毘沙門天信仰が最も盛んで、中国では唐以後たえずその影響をこうむっている。于開(門の中は眞)国の守護神は毘沙門天王であった。 昆沙門の語源は梵語ではなくベルシア語のようである。于閑(門の中は眞)人はイラン種であり、最初はその宗教もイランの拝火教(ゾロアスター教)すなわち示+天教で、唐代の于関(門の中は眞)では仏教と示+天教とがともにおこなわれた。すなわち毘沙門はもとゾロアスター教から出て仏教に摂取された神の一つで、毘沙門はイランのゾロアスター教の中でもっとも勢力のあるミトラ神にちがいない。 毘沙門は漢語に意訳されるときは多聞となるが、これはもし毘沙門がミトラならば容易に説明がつく。すなわちアベスターによればミトラは千の耳をもつ(多くを聞く)神だからである。さらに四天王の毘沙門以外の三天王も、それがミトラの分身であるならば、漢語の訳名はきわめて無雑作にその意義がわかる。すなわちミトラは万の眼をもつ神(広目天)であり、国家を護持する神(持国天)であり、生長を司る神(増長天)であって、三天王はそれぞれの徳をいいあらわしている。四天王像が多く光背をもち、ことに毘沙門が光塔をもつのも拝火教の遺物ではなかろうか。およそこうまでぴたりとあてはまるのは決して偶然ではない。西城から中国に輸入された毘沙門天信仰は、外形は仏教だが、その内容にはたぶんにイラン色がある。 ミトラはゾロアスター教での日神であり、同時に勝利の神である。ササン朝ベルシアがアラビア人にほろぼされ、ゾロアスター教は大弾圧をうけたが、ミトラ神はなおもイスラム世界に存続した。ミトラの祭日には各地で祭礼がおこなわれ、いたるところに繁華な市場がひらかれて群衆が集まったので、ここにおいて戦勝の神は商業の神と変化したらしい。もともと遊牧社会での戦勝は人畜財宝の掠奪による富裕であるから、戦勝の神が福の神に変わるのも不自然ではない。 ー宮崎市定の「毘抄門天信仰の東漸に就て」を、わたしなりの理解で要約していえば以上のとおりになろう。 ここに注目されるのは、大日如来が太陽神すなわちミトラをあらわすことである。密教では、大日如来が不動明王をもってあらわされる。不動明王が背負う火焔は、太陽の光熱線でもあるが、ゾロアスター教の拝火でもある。それは毘沙門天が火焔を負っているのと同じである。… 〉 こうした専門書が直接読めるような環境に私はないので、孫引で申し訳ない。 毘沙門天は多聞天のことで、地名の多門院はここから出たということがわかる。その毘沙門天はなぜここに祀られたのであろうか。『京都北山を歩く』(澤潔・1989-)は、 〈 毘沙門天信仰も北方鎮護という立場から考えるだけでなく、鍛冶との関係も重視しなければならない。 毘沙門天とは仏説にいう須弥山(しゅみせん)北面の黄金を守護する役割をもち、火焔を背負った製錬師の姿をしている不動明王と係りが深い。『今昔物語』巻十七には、ある僧が黄金を発見して鞍馬寺の毘沙門天に感謝する話がある。応永年間から江戸初期まで、三条吉次と称する鍛冶が何代も鞍馬の地に居住するのは、鞍馬寺の毘沙門天との係りからではないかと田中千穂氏は推測している(『白鳥伝説』谷川健一)が、十分に頷けることである。 義経で知られる鞍馬寺は、王城北方鎮護の寺だけでなく、このように金属製錬の面からも見直す必要がある。 毘沙門天を祀る寺なら、それが山中にあるのであれば、必ず付近に鉱床がある。昆沙門天の姿はまさしく古代の鉱夫の姿である(『金属・鬼・人柱その他』)ともいう。鞍馬寺も本尊は昆沙門天であり、大悲山峰定寺も毘沙門天を祀り、後述する花背経塚からも、金銅製毘沙門天像が発見されている。なおまた、その経塚の発見された処が、後述する別所大平谷である。大平谷の大平(ダイダイラ)とは、タタラ(製鉄のため足で踏んで空気を送るフイゴ、またはその製鉄所をも指す)の転訛した「ダイダラ」と思われるからである… 多聞天はその別名であるが、衆生の悩みを多く聞くのでその名がある。だが本来の姿は、右手に宝灯を捧げ左手に鉾を握り、黄金の甲胃で身を固めている。軍神というが、なぜ宝灯を捧げているのか。じつは、宝灯は坑内を照らし、鉾あるいは宝棒は、岩石の裂け目をこじる道具で、古代インドの鉱山師を仏法守護の姿にしたらしい(『地名を掘る』)。またそういえば、毘沙門天は不動明王と同じく火焔を背負っているが、その火焔とはタタラの火を象徴しているのであろう。なお、宮崎市定の『毘沙門天信仰の東漸について』によれば、毘沙門の語源は梵語ではなくペルシャ語のようである。すなわち毘沙門はもとゾロアスター教(拝火教・示+夭教)から出て仏教に摂取された神の一つ。ビシャモンという言葉には、「美しき砂(真砂・砂鉄)を吹く火処」という鉄吹き神の性格がある。鉄を吹く神だから福神である。なお毘沙門天の化身は深沙(水銀に係わる朱砂王)大王である。 〉 「三条橋」 「銭塚」 「鞍馬寺毘沙門天立像」 「信貴山」 京都北山の鞍馬山(869m)は暗部山だし、鞍馬山の貴船神社はこの祖母谷にも鎮座している。谷筋は違うが同じ鴨川の源流は桟敷ヶ岳(896m)で、鴨川の最川上は祖父谷川といい、祖父谷峠を越えて丹波側は井戸祖父谷という。何か似た地名でつながりがありそうに思われる。
〈 貴布弥明神。氏神元来正一位の宮成しか或百姓京江上り貴布祢の神を勧請申帰村に祠を建たり。後々村中尊敬し正月に者家々に松にて嶋の形を作り藁ニて鬼を拵祝ふ也。昔鎮西八郎為朝嶋江渡り鬼を退治平安成なせし因縁を云伝ふ。此事は貴船勧請せしものの縁者の者に聞たり。 〉 正月には藁にて鬼をこしらえ祝う、と書かれている。普通は正月に鬼を追い払う行事をするのだが、ここでは正月にわざわざ鬼つくってを祝う。鍛冶屋さんでなくて何であろうか。 『市史編纂だより』(55.8)に、 〈 弥加宜神社の氏子圏変遷と関連二社について(その1)編纂委員 井上金次郎 …貴船神社の創建も約四百年前であったらしいことが窺知できる。この貴布弥神社の縁起は旧藩時代の「旧語集」や「田辺志」に次の様にのせられているものの、これ以外の史料には出てこない。 賞布弥明神 氏神元来正一位の宮成りしが或百姓虫江上り貴布称の神を勧請申し帰り村に祠を建てたり、後々村中尊敬し正月には家々に松にて島の形を作り藁にて鬼をこしらへ祝ふ也。 昔鎮西八郎為朝嶋江渡り鬼を退治平安成りし因縁を云伝ふ。 此事は貴船勧請せしものの縁者の者にきく。 どうしてここに鎮西八郎が附会したのか理解できないが、私が昭和42年6月に調査した時、この社の本殿奥深く秘蔵されていた御神体は、正方形の仕掛け木箱に匿されて見ることはできなかったが、拓本では外周の直径12.3センチの 波切り不動像を線太く鐫刻した市域では珍らしい御正鏡であった。 また村の人達が寵堂と称している社務所には、中世末の木彫毘沙門天立像(邪鬼共高さ約40センチ)一体が見うけられた。これらから類推すると、御神体を含めて、まさしく中世末には弥加宜神社の氏子圏を離脱し独立したものと思われる。この他に陰部を露出した高さ約20センチの小形の木製狛犬が一対あった。耳が小さく、丸味を帯びた像容で、彩色は全部剥落して、あらわになった木目が美しく印象的であった。ひなびた本殿の軒下に「梅渓」落款の岩緑で画かれた翁図の絵馬がかかげられていた。梅渓は郷土の画家矢野松玉氏の若年の画号で、技の上達を祈念して奉納されたものであろう。…. 〉 鎮西八郎為朝は鬼ヶ島の鬼退治をしたと信じられていた人で、桃太郎のようなものである、このあたりで言うなら日子坐王や麻呂子親王で、だから現在には伝わらないが、ここにも鬼退治の伝説がかつてはあったのではなかろうかの推測が成り立つ。 この社には、稲荷・大川・當勝・浦島・妙見などの境内社がある。金属と関係の深そうな社である。 『市史編纂だより』(48.10)に、 〈 地蔵盆を客祭に (溝尻) 木船貞次 さ ん たいていの部落の客祭りは、氏神の例祭日にする習わしになっているが、溝尻では毎年、地蔵盆の8月24日に親類、知己らのお客を招く。その由来は、部落の創設当時は氏神貫布禰神社の祭りにお客を招いていたが、ある年疫病が流行し、部落内の幼児がたくさん死んだ。 これはお地蔵さんを粗末にしたたためだと、その非を悟り、地蔵祭りを盛大にしてわびたにとから、例年、地蔵盆にお客を招いて子安地蔵尊の供養を盛大にする習わしになったという。 (ある作これを中断して氏神の例祭日を客祭りに復活したところ、またまた疫病がはやり部落民が大いに苦しんだと伝えられる)。 〉 貴布禰神社の祭りは客が招けぬようである。秘密の祭なのであろうか。それとも何かわけがあるのであろうか。泉源寺の熊野神社(波多社)にも七鬼神という境内社があるが、昔はこのあたり鬼がいたような感じの地のようである。 溝と古くから地名にあるような所は何か金属と関係があるのでないかと考えていたのである、弥栄町の溝谷や宮津市府中の溝尻が頭にあって、何か金属のにおいがしてくる。有名な黄金山に 「八溝山の鬼」 茨木市に嶋下郡式内社の 茨木童子の茨木であり、富登多多良は 宮津市の溝尻の裏山には西国28番札所・高野山真言宗の古刹
ソボやソフに関係ありそうな所を拾って見ると、『与謝郡誌』に、
〈 小聖神社 山田村字下山田小字聖谷、村社、祭神伊奘那岐命、由緒不詳、そのむかし高野聖の齋く所なりといふも定かならず。土俗蓑笠持の紳と云ひ九月二十八日日本全國六十餘州八百萬の紳々が出雲の國へ神幸あらせらるゝや丹後一國大小三百八十社の神々は雨天なれば銘々雨具御着用あるも、若し晴天ならば当社の神が蓑笠捧持の御役目を奉仕せらるゝ由の事にて村民は當日天候不良ならんことを希ふの迷信ありといふ。天保六年再興明治六年二月村社に列せられ氏子八十戸、祭典九月十四日。 境内末社曾富騰神社は元小字竹内に鎭座ありて総社田明神と云ひ、丹後田数帳五町一反百八十歩内四町六反二百八十歩不知行の旨記載あり。以て鎌倉時代より室町に亙り相當大社なりしを知るべく、丹哥府志には惣々田大明神と載せ享保検地帳、文化名寄帳などには惣社と録し又俚人は宗像社とも左右頭社ともいふ。文政八年今の小聖境内に遷す。 〉 この 〈 ◎下山田村(石川村の西加悦谷海道) 【付録】(下薬師堂、観音堂、小聖大明神、惣々田大明神、愛宕二ケ所、七面堂) 〉 『野田川町誌』は、 〈 小聖(こひじり)神社 下山田小字平野 祭神 伊奘諾命。 女神伊奘冊命と共に国土の経営を行ない、天照大神、月夜見命、素盞嗚命を生んでより、淡路国に居を構え隠れる。一説に近江の多賀の宮へ隠退したともいう。大祭は旧九月十五日(現在は四月二十五日)。特殊な祭典としては、節分の風祈祷がある。 終戦後農民祭の余興として、神楽、昭和初期より太刀振りがある。伝説としては、神無月(旧十月)の初め(旧九月二十八日)の出雲行きに、丹後一円の神が出雲の国へ集合、このとき蓑笠持ちの役に当り、里人はこの日雨天であることを望んだという。 明治末期まで楽屋台が、下地、上地、尾崎、館にそれぞれ一台づつあった。これは、一・五メートル四方のもので、祭礼時子供中と若連中がこれらをかつぎ歩いた。明境社と同じく、明治中期まで、能の三番叟を舞い、豊作時には狂言を行ない、社前の鉄筒の「おみくじ」を自己の思う数を祈願して振り出すなど同じである。末社に稲荷の祠があり、初午には米の粉でまゆの形をつくり、これを神に供え養蚕業の発展を祈った。 また、境内に宗像天王社があり、疫病除けの神として、宗像宮址から文政八年(一八二五)、移転された。この祭礼は、九月十八日で、神楽、相撲が行なわれる。流行病を防ぐため、木版刷りの「お札」を戸口に貼り、当社の砂を持ち帰って、家の軒下にまいておくなどの風習がある。なお境内の山頂に秋葉神社の祠がある。 〉 山田の曾富騰といえば 聖という名のある神社は一般に金属関係が深そうであるし、丹後にもあちこちにあるが、秩父の聖神社(秩父市)は歴史上有名である。和同開珎の和銅、年号の和銅と関わりがあるところで和銅が始めて出たという。15キロの自然銅が御神体として祀られているという。「聖神社」 小聖神社で風祈祷をするというのも金属精錬と関係がありそうに思われる。薬師も秋葉もそうであろうが、蓑笠持ちで雨天を好むというのがわからない。 どうしてこんな神様がここに祀られるのかはよくわからないが、何かそれなりに深い理由があるのであろう。『古事記』(日本古典文学大系)に、 〈 …大国主神、出雲の御大の御前に坐す時、波の穂より天の羅摩船に乗りて、鵞の皮を内剥に剥ぎて衣服に爲て、帰り来る神有りき。爾に其の名を問はせども答へず、且所従の諸神に問はせども、皆「知らず。」と白しき。爾に多邇具久白言しつらく、「此は久延毘古ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、即ち久延毘古を召して問はす時に、「此は神産巣日神の御子、少名毘古那神ぞ。」と答へ白しき。故爾に神産巣日御祖命に白し上げたまへば、答へ告りたまひしく、「此は実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣より久岐斯子ぞ。故、汝葦原色許男命と兄弟と爲りて、其の国を作り堅めよ。」とのりたまひき。故、爾れより、大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の少名毘古那神は、常世国に度りましき。故、其少名毘古那神を顕はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曾富騰(そほど)といふぞ。此の神は、足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり。 〉 何ともどう理解しすればいいのやら途方に暮れるような話である。 そのカエルが山田の曾富騰(= 小人と鉄は関係があるということはどこかで述べたが、だから曾富騰というのもやはり鉄と関係があると思われる。
溝尻の貴布禰神社の境内社に浦島神社がある。
竜宮城が有名すぎて誰もこんなことを言う人はないようだが、私は浦島太郎は鬼だと考えている、さてどうだろうか。 「浦嶋子伝説」 やはり無いこともない、先人はいる。吉野裕氏は『風土記と鉄王神話』の「序に代えて」で、逸文風土記の浦島子伝説にふれて、常世辺に 雲立ち渡る …の雲とは溶鉱炉のめでたい煙のことだと言っている。さすがというか目のつけどころが違う。恐るべき先人である。しかしこれ以上は何も書かれていないようである。これから先は一人旅になりそうである。長期戦になる。 現在では一般に彼は浦島太郎と呼ばれているが、雄略紀や風土記は、 シマコというのは、『魏志倭人伝』に伊都国の副官名、奴国の主官名として出てくる。漢字が難しいので(↓赤くしてある箇所)引かないが、これらの官名は一説にこのシマコだと言われる。だとすればずいぶんと古い弥生の呼び名なのである。 だから浦嶋子というのはウラの親分とか村長とかいう意味であろう。 ではウラとは何か。浦であろうか。 『角川日本地名大辞典』は、 〈 浦(うら) 地理学上の名称では、海や湖の湾曲して陸地に入りこんだ地域をいう。古代末期以来、このような地域に定着をはじめた人々を海人・海士などとも呼び、彼らは漁業や塩業、さらには海(湖)上輸送などに従事した。中世、これらの人々が水軍として組織され、軍事力の一翼をになうことも多かった。また独自の団結組織をつくりあげて村落共同体として独立的な姿をとった浦もあった。 〉 現在では一般に上のようにしか解釈できないが、桃太郎の吉備の鬼退治伝説の元となった伝説に 〈 …では桃太郎の鬼退治伝説とは、一体何か。『備中誌』によれば、吉備津神社の北方に、阿曾郷という郷があり、そこに鬼ヶ城という山がある。この山にまつわる鬼ヶ城縁起として次のような伝説が伝わっている。 昔、阿曾郷の鬼ヶ城に温羅(ウラ)という鬼が棲んでいて、附近を荒し廻っていた。吉備津彦尊は、その随臣楽々森彦尊とともに、この鬼を退治した。温羅はなかなか強く、尊に左の眼を射られたのにもかかわらず、岩にかくれたり川にひそんだりして反抗をつづけたが、ついに捕えられ、その首はかの有名な吉備津神社の釜鳴神事の行なわれる竃の下に、埋められた。釜鳴神事の釜の鳴るのは、この温羅のさけび声だといい、またこの釜鳴神事は、鬼ヶ城の麓の阿曾村の女が、巫女となって代々つづけて来たという。阿曾の女が巫女になる理由については、温羅の妻、あるいは妾が、この阿曾村の生れであったからだという。なお鬼ヶ城からは血吸川という川が流れ出て、阿曾村の中を通っているが、血吸川というのは、温羅の左の眼を射抜かれた時に出た血が、川になって真赤に川砂を染めたからだと伝えている。そして現在、温羅は楽々森彦尊とともに、吉備津神社の本殿に、剣先神として祀られている。(備中誌参照) これが鬼ヶ城縁起の概要だが、この吉備津彦の鬼退治が桃太郎の伝説と習合して、いまある桃太郎の鬼退治の話になったのだと考えられる。… 〉 温羅の意味は誰も解いた人がないようだが、とにかくウラは鬼かも知れないということを教えてくれる。また鬼ケ城や 小牧進三は『郷土と美術』(1984.6)の、「古代丹後逍遙−浦島伝説と羽衣伝説の謎(第二章)−」で、丹後周辺各地の浦嶋子を祀る神社を拾っている。それには、 〈 浦の嶋子を祀る神社は、 (1)同社をはじめとし(引用者注−伊根町の宇良神社のこと) (2)与謝郡加悦町字虫本(式内大虫神社合祀) 床浦神社 (3)竹野郡網野町字網野の大同元(八○六) 日下部嶋根保重神主とみえる 式内 網野神社 (4)同町浅茂川 川口の明神岡 島児神社 (5)同町下岡の 六神社(島子とその一族) (6)竹野郡丹後町字宇川上野 浦島五社 (7)加佐郡大江町河守 浦島神社(筒明神) (8)福知山市字戸田 浦島神社(月読尊) (9)綾部市字下延町 浦島神社 (10) 〃 字奥黒谷 浦島神社 (11)兵庫県朝来郡山東町粟鹿(粟鹿大明神摂社) 床浦神社 と広範囲な神社分布の中に浦の島子は永劫の未来へと命脈している。 〉 「浦島神社」 これらの神社を一つ一つ虱潰しに調べていくより浦島太郎は鬼だという説は立証できない。桃太郎は鬼、金太郎も鬼、浦島太郎も鬼、どなたかやりませぬか。大江町河守の浦島神社(筒明神)をやりかけて私はもうお手上げの状態で立ち止まっている。それと月読神が何か絡んでいるのが気になる。 弟の その前に有名な 〈 【布引の滝】(出図) 宇治村の後山を雲滝山といふ、山の絶頂より飛流直に下る凡七十五丈、聊樹木の遮るなし、実に銀河九天よの落つるに似たり、滝の下に不動堂あり又其辺りに島子の亭跡あり。 〉 同じく『丹哥府志』に、 〈 【曾布谷】(宇治村の端郷) 島子の伝記に所謂曾布谷次郎の宅地なりとて聊か小祠を建たり、今其子孫なりといふものあり。 【三宝荒神】(曾布谷) 〉 『宮津府志』に、 〈 浦島社 在與謝郡本庄宇治村 祭神 浦島子 相殿四座 社人 赤染氏 今断絶 祭日 別當 来迎寺 … 宮津古記曰、今の社は本庄の小村宇治といふ所にあり、神社口傳記に云く昔筒川庄に浦島太郎と云人あり其太組は月読尊の苗裔にして浦島は當地代々の領主なりと云傳ふ、然るに浦島太郎曾布谷二郎(浦島太郎弟)に子なし、之に依りて浦島太郎夫婦天に折り一人の男子を生めり其名を島子と名づく、或時此島子船に乗で釣に出しに大なる亀を釣得たり、此亀美なる姫と化して島子を誘て海神の宮に到ると云々。 按に此説は當国俗間に古より云傳へし説なり、今浦島の社別当来迎寺の縁起にも斯の如く云なり、然れば浦島太郎と島子は別人にて龍宮に到りしは島子なりと云ふ。縁起云今五社を祭るは浦島太郎、曾布谷二郎、今田三郎(共に浦島が弟にて島子が叔父なりと)島子、乙姫以上五人の霊を祭ると云。浦島の古跡并古歌等は名所の部に出せり。 〉 今田三郎の今田はバス停があって、そのあたりだとわかるのだが、曾布谷がわかりにくい。いっぱいある。小地名一覧によれば、ヲニ山というのがあるし、本庄宇治や本庄上には曾布谷・大曾布谷・小曾布谷・曾布谷奥などがある。そのあたり一面に散らばっているのでなかろうか。 先に引用の『丹哥府志』によれば三宝荒神がある所である。今の三柱神社(本庄宇治森ノ下)であろうから、ここなら国道178号線の脇である。来迎寺から少し北へ行ったところで長延川の谷筋になる。『角川日本地名大辞典』は、 〈 そぶだに 曽布谷[伊根町] 「そびだに」どもいう。与謝郡伊根町にある谷。筒川下流域の本庄宇治の西約0.4km、長延川と滝山川の間に位置する。江戸期には本庄宇治の端郷で、かつて曽布谷千軒といわれ、大集落があったと伝えるが漸減し、大正初期までは数戸の民家があったが、現在それらの民家も宇治へ移転して無住地となっている。浦島太郎の弟の曽布谷次郎の屋敷跡とされる所に曽布谷神社があったが、明治以前に宇良神社に合祠された。また、浦島子が竜宮より帰還した時に玉手箱を開いた所といわれる一本杉も、切株だけが残っている。 〉 誰もいないので聞きようもなかった、別当の来迎寺も猿しかいないのである。 過日、坂根正喜氏と探してようやく見つけた。草が生い茂っていて見えなかったのだと思う。この辺りは何度も何度も探した所であった。「片倉(利彦)さんに教えてもらったが、確かこのあたりやった」という。本庄小学校の東側、国道178号線を超えると広い田んぼになっている。そこがかつての曾布谷千軒であるらしい。その北側山裾に「浦嶋太郎乃弟・曾布谷次郎屋敷跡」の碑が立っている。その細い道を道なりに進むと今田の集落があり、少し高いところに祠がある。その下に「浦嶋太郎乃弟・今田三郎屋敷跡」の碑がある。 宇良神社の東側、布引滝を真ん中に、そこに浦嶋太郎の屋敷、向かって右側に曾布谷次郎の屋敷、向かって左側、今の今田集落のあたりに今田三郎の屋敷があったという話になる。 浦島太郎サンは一度に解明できたりはしない。またおいおい考えてみることとして、先へ行こう。
〈 (丹後の国) 天の椅立 久志浜 (丹後の国の風土記に曰ふ) 与謝の郡。 〉 「天橋立」 ヨサも意味不明だが、アソもまた意味不明である。いろいろと説はある。 『角川日本地名大辞典』は、 〈 与謝郡岩滝町と宮津市にまたがる、天橋立西面の内海。天橋立の砂嘴によって宮津湾内に生じたラグーン(潟湖)。文珠水道で宮津湾と通じる。「丹後国風土記」逸文に「東海を与謝の海といへり、西の入海を阿蘇の海と云、東西一里許、南北半里、回り二里半許。是橋立より西のせはき入海也」とあるように、阿蘇海は与謝の海と対句をなして用いられることが多い。与謝の海(外海)と同様、古来詩歌に多く詠まれた。柿本人麻呂の「内の海海士の船にのり、のりにし心つねにわすれず」(夫木抄)もその一つ。また、与謝の海は、天橋立より外の「外の海」と阿蘇海(内海)を含めた総称ともいう。明治16年、阿蘇海南岸の二本松と対岸の岩滝町男山を結ぶ渡船が通じたが、大正8年に府中〜文珠〜宮津間に汽船が就航したため、二本松〜男山間の渡船は昭和初期に廃止された。一説に阿蘇海は「あそみ」で、丹後半島北部の竹野郡網野町遊の浦をさすともいう(丹後与佐海図誌)。 〉 西の入海を阿蘇の海と云、東西一里許、南北半里、回り二里半許。是橋立より西のせはき入海也はどこにあるのか知らないが、『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)は、 〈 【内海】 橋立の東方よさの入海を外の海といひ、西の方を内の海といふ。橋立を内外浜といふ故也。人丸歌あり、然に諸州めくりに風土記を引て阿蘇海と云けり。不審也。今案に阿蘇海はあそみにて遊の浦なるへし。しかれは同国異郡の名所也。 夫木抄 内の海釣する海士の船にのり のりにし心つねにわすれす (人丸) 〉 上の説も正解かどうか私としては怪しいと思うのだが、阿蘇海も 阿蘇海には次のような伝説もある。『おおみやの民話』(91)に、 〈 内海の水 新宮 井上 保 なんでも昔、成相山の仁王さんの子供が、底なしの池に落ちたら、池におった大蛇が一口に呑んでしまっただそうな。 その大蛇は、それから大きなって、大きなって、底なしの池におれんようになって、山の下の内海に入ってしまった。それを見た仁王さんの爺さんの方が、 「婆さんや、あの内海の水を飲みほしてしまって、大蛇を退治しようかい」いうたら、婆さんが、 「それゃ爺さんなるまいで、水がなかったら人間が困る」というただそうな。おかげで今でも内海の水は、いっぱいあるんだ。. 〉 何かずいぶんと古い伝説の残りのハテのようなものと思われるが、 大蛇の棲む阿蘇海である。 踏むとキュッキュツと音がする、 「京丹後市HP」 遊は急な狭い路を下っていくと小さな浜がある。この辺りの集落を呼ぶ。 不思議な地名でいろいろと解釈されている。『郷土と美術』(82.9)に、 〈 丹後古代地名メモ 中嶋利雄 …すなわち「橋立図記」に次のように記されている。 与謝ノ海は、伊祢浦より宮津まで凡そ五里の入海で、北を望めば、右に黒崎、左に鷲ケ尾が門関を開いた如くで北海第一の湊である。それを貝原益軒は、諸州巡りに、東の入海(外の海)を与謝の海といい、西の海(内の海)を阿蘇の海とよんでいる。これは「丹後風土記」から引用しているらしが、この説はおかしい。阿蘇の海の阿蘇はあそみのことであって、これは遊の浦のことに違いない。だからそこは竹野郡のことで与謝郡ではない。 つまり「宮津府誌」の編者(小林玄章ら)は、「橋立図記」の編者が、貝原益軒の内海=阿蘇海論を批判して阿蘇海=遊の浦(竹野郡)説を立てているのを支持しているが如くうけとれる。これはまことに興味あることでアソというのはアソブ(ビ)の音節の脱落とみるわけである。なおこれに関連していえば、大和国高市郡の「遊部郷」の遊部川を「大和志」にはソブと訓している(平凡社「奈良県の地名」)という。こういうケースは多くある。このことから私は次のようなこトを考えてみる。それは伊根町本庄宇治の曽布谷(又そびたに)、同じく日出、平田のソブ谷、ソブ田等もアソビに関係がないだろうかと。こんごの検討課題としておきたい。ただ一ついえることは、アソビ(ブ)というものはもとより丹後にだけ存在するというものでもないし、また丹後にあっても竹野郡一か所にしかないというものでもあるまい。だからこそ府中にアソがあっても一向に構わないということである。… 〉 大和国高市郡の遊部郷について『奈良県の地名』は、 〈 「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「遊部 已廃存今井四条二村」として現橿原市今井町・四条町に比定するが、現高市郡明日香村大字小山から橿原市 〉 『角川日本地名大辞典』は、 〈 〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」高市郡七郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。ソブ、ユウ、ユベ、アソブなどとも訓める。鎮魂・卜兆を行う職業部である遊部に由来する地名か。遊部は、天皇の殯宮に侍して霊魂の復活、死者蘇生の呪術を行った部民と考えられる。「令集解」喪葬令親王一品条所引古記によると、遊部は伊賀比自支和気とその氏人らが代々の天皇の殯宮に供奉したのが始まりで、氏人2名を禰義・余比と称して、禰義は刀を負い戈を持ち、余比は酒食を捧げ刀を佩き、秘辞を奏したという。彼の娘を娶っていた円目王(垂仁天皇の子孫)が遊部君と称してその事を行ったとある。遊部は喪葬令一品親王条に親王・公卿の葬儀にも参加すべき者として規定されたが、もはやそれは鎮魂者としての遊部ではなく、同条所引の古記に「但此条遊部。謂野中古市人歌垣之類是」と見えるように、葬送の行列を飾る単なる歌舞へと変質していった。また、「遊部者。在大倭国高市郡。生目天皇之苗裔也」ともあり、円目王の子孫を称する者が奈良期において高市郡内に居住していたことが知られる。ただし郷名としては「和名抄」以外には見えない。「大和志」は旧今井・四条二村の地(現樫原市今井町1〜4丁目・四条町)に比定するしかし飛鳥川のことを「遊部川」とも称したので(大和志)、この流域が郷域と考えられ、飛鳥川に沿って蘇武井・蘇武橋・尊坊川(現樫原市今井町1〜4丁目)の称や、ソブ田(現明日香村豊浦)・ソブソフ(現樫原市東竹田町)・北蘇武口(同今井町1〜4丁目)などの小字名が残る。なお「夜部村」(三代実録 4年10月20日条)、「逝囘岳」(万葉集1557)、「四分」(現樫原市四分町)などの地名は、いずれも遊部か遊部ユベから夜部ヤベ、遊から逝ユキ、遊部ソブから四分シブへとそれぞれ変化したものとする説がある(大和志料下)。「五郡神社記」に「甘樫坐神社…在逝囘郷甘樫丘前」とある逝囘郷とは遊部郷の誤伝であろう。大倉集古館蔵の天平勝宝3年3月10日茨田久比麻呂解(寧遺下)には「遊部足得」の連署が見える。 〉 遊とソブが関係あるということがわかる。アソビのアが脱落したのか、ソブに接頭語のアが付いたものなのか、… 祖母谷と阿蘇海と遊は同じものなのかもわからない。そしてそれは鉄と関係する地名であるかもわからない。 阿蘇海の周囲は全部鉄だということはこれまで述べてきた通り。 遊の周辺は東隣の三津の節分に豆をまかない末次サン。西隣の白滝神社の境内社の日吉神社には天湯川板挙命を祀る。南は鳥取郷。ここもあるいは鳥取郷かあるいは網野郷。鉄(サビ)であっても不思議ではない。 |
資料編の索引
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祖母谷と高橋郷