舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)-1-明治の舞鎮
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府舞鶴市 |
舞鶴鎮守府の概要《舞鶴鎮守府の概要》 江戸期には海軍などなかったのだから、新たに一気に列強なみの海軍を作るというのは大変な大仕事である。過ぎ去りし前世紀の遺物だが、もし今でいうなら宇宙人相手に戦争するから新たに宇宙戦艦と宇宙軍基地を舞鶴に作ろうというようなものであったかも知れない。 舞鶴鎮守府は昭和に入るとさらに大幅に拡張強化されていくが、当ページは主に当初の舞鎮(舞鶴鎮守府)に触れるもので、まだ小さかった頃の、まだしも「ロマンチックだなぁ」「ノスタルジックだなぁ」(市の宣伝文句)舞鎮、「坂の上の雲」舞鎮、まだカワイイところもあった明治舞鎮についてごく簡単な記述をしようとするもの、しかしこのころ新兵だった連中が、その嫡子がオヤジの威光を背景に帝国主義時代の昭和「悪い戦争」侵略戦争の主導したわけで、萌芽にしてすでに悪が含まれていた時代でもあった。舞鎮のお膝元のあちこちには今も当時の遺物がかなり残されている。↓舞鎮の心臓部、明治から昭和に至る建物が残っている 明治19年に仁礼海軍中将(海軍軍事部長)は軍艦金剛に坐乗して舞鶴湾や宮津湾に来航し、日本海における軍港の最良候補地であることを認め、翌20年以降にも海軍省や陸軍省はじめ内務省や京都府庁などの視察や調査が相次いだ。だいたい20年はじめごろには軍上層部では舞鎮設置の最終決定が終わり、引き続き用地設定や軍港諸施設のレイアウト構想も出来ていたと見られている。21年には海軍大臣西郷従道と伊藤博文が浦塩からの帰途舞鶴港を視察して本決まりとなり、22年5月の勅令72号で正式公布された。その「鎮守府条例」には、 第四条 第一海軍区鎮守府ヲ相模国三浦郡横須賀ニ置キ第二海軍区鎮守府ヲ安芸国安芸郡呉ニ置キ第三海軍区鎮守府ヲ肥前国東彼杵郡佐世保ニ置キ第四海軍区鎮守府ヲ丹後国加佐郡舞鶴ニ置ク 第五海軍区鎮守府ノ位置ハ別ニ之ヲ定ム その「第四海軍区」というのは、明治19年の「海軍条例」に、 第四海軍区 石見長門国界ヨリ羽後陸奥国界ニ至ルノ海岸海面及隠岐佐渡ノ海岸海面 守備範囲は本州の日本海側全部と定まっていた。 設置が内定した20年には用地の買い上げ計画が始まっていた。用地といってもほとんど民有地で、83町歩余の膨大な広い場所、人々がそこで生活している村や田畑のある土地である。 ↓用地はほかにもあったが、これはその中心となった場所で、当時の浜、北吸、余部下、長浜の4か村がその大部分である。 府は墓石から肥壺の一つ一つに至るまで詳細に移転費から補償費まで調査して買収費合計何円何銭と計算し住民を「納得」させたのだが、海軍も政府も買いたくともカネがなかった。日清戦争に向けての膨大な建艦計画や呉、佐世保の鎮守府開庁に忙殺されていた。 実際に本格的な工事が始まるのは、それから10年後の日清戦争後の30年からであった。清からの莫大な賠償金の一部を当てたものであった。清から取った賠償金は当時の国家予算の4年分にもあたり、今の額に換算すれば400兆円くらいにもなる。シナに4億の民あり、などと言われたが、仮にそれで割れば、国民一人当たり100万円取られる、貧しい国民が払えるだろうか。 軍艦カッチョイイなどとしか見ないのは幼稚な子どもであって、それを作るためにどれだけ自国民や他国民が税金を取られ、村を追われるかもよ~く考え合わせねばなるまい、ダイの大人の市民のクセしてそれをまったく考えていないのはやはりどこかコイツらだいぶにオカシイゾと見られても仕方もあるまい。 29年になって初めて舞鶴軍港臨時建築部が海軍省内におかれ、又同支部が元中舞鶴町上通(当時余内村)に設けられた。 翌30年当時海軍大佐の中溝徳太郎が支部長として赴任、やっと建設工事が始まった。 爾来4ケ年の歳月を費して明治34年10月1日に4番目の鎮守府として盛大に開庁式を挙げる運びとなった。初代舞鶴鎮守府司令長官は東郷平八郎中将であった。それから第二世界大戦の終るまで途中要港部に格下げされたり、あるいは拡大されたりしながら続いた。 舞鎮に併設された海軍の施設や機関、その下請けや陸軍砲台や火薬廠など多く、水雷団や海兵団、病院から刑務所、海軍工廠など、巨大に施設が生まれたわけで、従来の半農半漁の村々はまさに日本海側最大の軍都へと大きく変貌をとげていった。 昭和20年には二度の空襲を受けて死者も出て艦船などが沈んだ、敗戦後舞鎮は解体されたが、その旧敷地内は現在は海自の基地となったり民間の造船所となったりしているが、あちこちに今もその遺蹟が残され、現在も上水道から火葬場までだいたい旧舞鎮のものをベースに引き継いでいる。 当時の「赤れんが倉庫群」↑奥の3棟は明治35年のもの(水雷庫)で建物中にもレールが引き込まれている。手前は大正8年竣工。時代が下るほど実用本位になりアイソもクソもないものになるが、一般に古い建物の方がまだしも匠の遊びの趣が感じられる。屋根は木造瓦葺、爆発したら上へ抜けるようになっているものか、爆発などは想定外なのかあまり強固そうには見えない、周囲のレンガの壁で支える作りで中には大きな柱がない。地震で倒壊するかも知れないが人が住んでいるのではないしそれも想定外なのだろうか。 こうした朽ちた舞鎮遺物をリサイクルして(膨大な税金を投入)人口減がやまない舞鶴を再生させるとか、今は言っているようである(少し前まではそんなことは言わなかった)。ワタシが子どもの頃ですらもうかなり朽ちていてヤバイ状態だったので、それを今に安全な建物に復原するなどは腐ったミイラをカッチョイイ現代人に生き返らすような難工事、いくらカネがあっても足りたものではないし、厚化粧ほどこしそこそこのポリシーも信念も持たぬままに、カッチョだけ蘇らせても何ぞネウチのあるものになるのだろうか。なるわけがないが、しかし舞鎮は社会インフラももたらしたために深く市民の間では信仰されているようで、滅びた舞鎮で将来が切り開けるはずとでも思っているだろうか。死んで朽ちた舞鎮の亡霊にすがっているようでは、きびしい地方の明日を切り開いていくなどはとうていムリなハナシ、よほどの意識改革がないとこの町はもうこのままズルズルとダメかも知れないと心配させられるのである。 強者どもが夢の跡にアホほど税金を投入したが、さてさてほんなら、どうしたらいいのやら、さっぱりわからんわい、と途方に暮れている感じが見える↑何かやればやるほど何とも不調和な風景となってしまう。写真を写すにも苦労する。 遺蹟とはそうしたもので手を加えないのがベスト。アウシュビッツだって原爆ドームだって何もない、ただ貧相な草木がポツンポツンと生えているだけ。後世に引き継ぐべきすぐれた遺蹟ならば、ただ残されているだけ、何も後世の者が手を加えずとも、ただそれだけで世の中の誰よりも何よりも雄弁に当時を語る、向き合えば見る者の足腰をワナワとガタガタ震えさせる。本物のモノのみが持つ迫力で、言語外のコミュニケーションで向き合おうとする者に語りかけてくる。モノにも人にもそうした力が備わっている。 後の者がムリに付け加え、ムリに語らねばならないのは実はそうした語りかける力も持たないロクでもないつまらぬ物であることを自ら証明することになる。 オモロイかもしれんぞなどとアトサキ考えずに始めたもので、大学教授なども巻き込んでいたが初めから理念もクソもなかった(どうやら納税者を納得させるだけの理念は教えてもらえなかったようで、後付けで高尚なリクツ付けをひねりだすようだが、もともと理念などはなく、ああ言えばこう言う、コロコロかわる) これらのレンガは神崎のカマで焼いたとだけ言われるが、『中舞鶴小学校百年誌』には、 〈 同氏の語られるところによると、今に残る旧海軍需部煉瓦達倉庫(現在舞鶴倉庫及び海上自衛隊補給所が使用)の煉瓦はすべて和田の小字日の迫(現在白浜ニュータウン埋立地附近)に高さ10m、横8m、長さ30mばかりの円形の炉を煉瓦で築き、ここで焼いた煉瓦を浜に出し千石船で戸島を廻り北吸に陸揚したとのことである。(明治30年頃は現在のような道路はなく陸路の輸送は不能であった。)ちなみに煉瓦を焼かれたのは同氏の親の孫左ヱ門氏だったとのこと。 〉 《あーあーイヤだイヤだ。望まない立ち退き》 基地建設の直撃を受けて、村ごとまるまるの立ち退きとなったが、北吸村(今の三宅谷にあった)と余部下村(三叉路のあたり)、その様子が記録されている。 『舞鶴市史』 〈 余部下、北吸両村は買い上げ代金、移転などの補償金を受けた以上、早急に土地の引き渡しと、家屋の立ち退きが必要であった。既にその前年から一部の者は、立ち退きを始めていたが、土地の代金や移転補償費を受けると、おおむね明治二十三、四年には移転を完了した。他の地方に転出したものはほとんどなく、付近の土地に新しい生活の場所をみつけた。そのため隣接する地域の住民も協力したが、北吸村の場合について、古老の伝聞をあげる。 (前略)こんな寒村でも軍港建設のため全戸移転を命じられると、どこへ移ってよいものか、先き行き不安から村人たちは毎晩のように集まっては 「イヤだイヤだ」と思案投げ首だったという話を父から聞かされています。ついに政府から「行く所がないのなら、北海道の旭川の開拓村へ集団移転してはどうだ」との話がありました。これを聞いた浜村の人達から「行き先がなければ浜村の一部を譲りましよう」というので、寺川北西の浜地区の一部を分けてもらい、旭川へ行かなくてもすんだということです。 現在、北吸のメーンストリートは、旧国道の道芝通(市道余部上・北吸線)で、両側に人家が建ち並んでいますが、移転前は「糸谷」といって、さみしい谷間でした。キッネ、タヌキはもちろんオオカミも出没したという話です。この谷間に移転したのが明治二十四年です。ところが、二十九年八月末、大水害があり、私の家はその後水害をおそれて四面山の山すそに再移転しました。(略) 「三宅神社」は北吸の氏神ですが、もとは「荒神さん」といって、旧北吸の北側の大きなタモの木のある山にあったものです。三宅神社という名は河辺にある「三宅八幡」と混同してつけたものでしよう。(略)荒神さんが北吸の移転と共に現在のところに移り三宅神社となったわけです。 北吸のお寺といえば、現在は大聖寺ですが、これも移転後、松尾寺の一院だった「鏡智院」を移したものです。古くは対岸の多祢寺とつながりがあり、同寺に北吸の古い七軒の過去帳があったと伝えられています。北吸で死んだものが出ると、浜で火をたいてノロシを上げ、坊さんに来てくれるよう知らせたという言い伝えもあります。これは、ずいぶん古い話で、その後は中舞鶴の雲門寺に属し、移転後は浜の得月寺の壇家に加わったりしたようです。だが新参者はどうしても下座に座らされるので、自分たちの寺を持ちたいと強い願いから大聖寺を建てたわけです。得月寺では檀家がいっぺんに減るので、半分ぐらいにしてくれ、との話もあったようです。(略)墓地も現在の「生長の家両丹道場」の付近から現在の北吸の墓地へ移しました(略)。(舞鶴よみうり) 〉 『中舞鶴校百年誌』 〈 明治二一年(一八八八)村の主要部を買上げられた余部下村五○余戸の住民は晴天の霹靂の如き出来事にとまどいながらも住みなれた数百年来の墳墓の地をあとに移転を開始したのである。 買収地の明渡しをほゞ完了したのは明治二三年のことだった。 長浜村の実状は不詳であるが余部下村の買上状況は概ね次の通りである。 買上面積 田畑宅地 九三、九○○坪 山 林 二八、五○○坪 買上価格 二八、六○○円(移転料、損耗費共 三五、三○○円) この買上状況を取材した郷土新聞「舞鶴よみうり」は昭和五○年一○月一日付の紙上で『舞鶴今は昔』の物語りに「一坪が米五升分土地買収価格」と報道してくれている。 当時の米一升(一、五キロ)の値段は四銭~六銭であったに対し坪当り田地で二一銭、宅地一六銭五厘、畑地一一銭、墓地四銭、山林一銭二厘だったからである。 土地の値段が一般物価に比し異常な高騰を呼んでいる現在では全く信じられない昔語りである。 もっともこの買収価格が示すように二、三の大地主を除く一般立退農民は、明治三○年(一八九七)一月臨時海軍建築部支部が雲門寺に置かれ軍港施設に関する工事が始まりついで新市街建設工事に着手するまでの十年間に近い歳月を不安と窮乏のうちに送ったことが想像されるのである。 明治二二年(一八八九)四月、町村制が布かれるに際し、余部上村、余部下村、和田村、長浜村は新村余内村に編入せられ、村名はそのまゝ字の名となった。仝年五月、勅令を以て第四鎮守府に指定せられた。当時水交社(現防衛庁共済組合舞鶴住宅)の西隅にあった雲門寺はこの年現花木通り田中山麓へ移されたものである。寺の背後は墓地であったので軍港工事に際してはこのあたりから盛んに人骨を出したという。 その頃の中舞鶴の戸数は、余部下村が約五○戸で旧水交社、旧司令部坂下を中心として現在の和田通入口にまで延びていた。(写真381) 余部上村もやはり五○戸位で今の奥母通のあたりや、榎川五丁目の山手にあった。長浜は小字五森を合せて二六戸、和田は約三○戸。(写真382) いま余部上も余部下もぎっしり民家が建ち並び市街地化しているが以前はみんな田圃であった。当時の民家は殆んど草葺きで農業を営み、周囲の山にて薪を採り、冬などは新舞鶴(現在の東地区)の市場あたりへ売りに出掛けるのを常とした全くの農村であり、山村であった。 西舞鶴方面への広い道路や榎隧道は勿論、道芝の通りもなく、現在の縦横の街路は影もなかった。和田あたりからは海岸道路がなかったので西舞鶴へは舟で行ったものであり、四方山に囲まれた中舞鶴は至って交通不便で、夜など淋しく他所から来る様なことは出来なかったらしい。元の機関学校(現総監部)練兵場(現市民グラウンド)附近は、よしの一面に生い茂った湿地もあり、潮の満干で作物も何も出来ない土地もあった。 着手がおくれていた軍港施設工事が本格化すると全国各地より商工業者労働者来住する者多く市街地となる気運が到来した。よって地主等相謀り、市街計画がたてられ、田圃の中に砂利を入れ縦横に道路を定め、本町通り西大門通りの如き幅員一二間乃至十間のものを始め、多くの道路が設けられ、本町通一丁目を起点として新築の家屋が上、下に建ち並びはじめ、現在の市街地を形成していった。 〉 《いよいよ建設開始》 22年の舞鶴鎮守府設置の決定から実際に建設工事に入るのは遅れるが、 舞鶴炭庫の新設。明治24年決定、26年完成。今の海自の北吸桟橋のある海面を埋め立てている。 同30年、舞鶴軍港境域と軍港規則を定める。軍港域といってもすいぶん広いものでカッチョエー船が留まっている場所だけではを言うのではない。 以後50年にわたって舞鎮の解体まで基地周辺の市民は何をするにしても大きく制限しつづけられた。 この範囲内では写真などはもってのほか、小学生がヘタな写生をしても罰せられた。海岸や海面はほとんどが舞鎮のものであり、おかげで湾内には大きな魚がたくさんいたとかいう。今でもこの境界を示した標石が意外な遠い場所に残っている、ここも軍港になっていたのかと驚かされる。これらは今も高浜町高野と舞鶴市神崎に残るもの↑アベさんなどはどうしてもこれを復活させたいかも知れない。 当時の小学校の教科書(サクラ本)だが、→実際は「グンカン ノ ヱ」などは描いてはならない、ましてや実物を見て実写などすれば処罰される、子どもでも逃れられない、保護者が最悪懲役7年である。 グンカンは当時は最先端テクノロジーの超秘密技術のかたまりであって、今だってそうだろうが、そうしたものは超秘密である。そうしたものは描いてはならない。 グンカンどころかその辺りの風景を写生してもならなかった。 砲台のあった建部山のヱを小学生が写生しても、記念写真のバックの端っこに少し写っていても大問題で、どうしても残したければ、憲兵隊に出かけて、許可が必要であった。もちろん許可されない。 こうした場所はただボーと見ていても間諜と疑われるかも知れない。 ↓この範囲はビクビク何もできない、今の機密保護法が目指すもの、こうして市民を縛っていくわけである。 実戦には何の役にも立たなかった、相手は上空から写真を写して詳細に調べるので秘密なるものは丸見えであった。機密機密のバカよりもスパイの方がアタマがいい、脳味噌が上なので、まず機密は守れない、今の「サイバーテロ」とかのとおりである、相手が悪いなどと言っているが、莫大な税金を使いながらヤシして国民のすべてを監視しているのに、そのガードを簡単に突破されて秘密を守れないテマエのアホさも大問題だろう。何でも秘密ということにして市民の自由を縛り、そのかげでおのれらが好き放題にするという目的だけのものである。 此ヨリ内許可ナクシテ水陸ノ形状ヲ測量、模写、撮影、録取スベカラス犯シタル者ハ法律ニ依リ処分セラルベシ 海軍省 とある。 追加用地の買い上げと土地造成。 31年ごろに北吸官舎の用地や戸島などがこの時に買い上げられた。 30年から軍港建設工事が始まる。今の海岸にも残る石垣の海岸ができていった。舞鶴城の石垣などとは比べものにならないほどのしっかりしたものであった。由良で切り出した花崗岩を使っていて今でもだいたいはビクともしていない。 これと平行して丘では主要な建物、数百件が建てられていった。 数百もの大きな建物を一気に建てるとなると、カネがあってもできるものではない、だいたい資材が舞鶴近辺では集まらない、帆掛け船で荒海を乗り切って全国から集めねばならない、普通の家くらいは建てられたであろうが、洋式の建物であり、業者も、ウデのよい職人や作業員も、当地だけでは集めることもできない、計画より遅延して開庁には間に合わなかった建物もまた多かったという。 このころのものは洋式のレンガや石造りのものが今も少し残されていて、「近代化遺産」などと呼ばれ観光資源に、地方活性化資源にと取り組まれている。 引揚船ってサルベージ?真珠湾って三重県?と、アメリカと戦争したことも知らない人が増えて、ましてやロシアや清国との戦争など知るはずも、関心もなかろうし、舞鶴と戦争が強く繋がっていた過去は隠したいのが市当局の昔からの基本姿勢で、遺品や遺物など資料の収集保存してこなかった今もほったらかし、それどころか赤れんが倉庫を潰して体育館を建てたりもしていた、回りから言われるので引揚げはイヤイヤ言うがアナだらけ、実は侵略戦争の悲惨なハナシはヌキでカッチョエエロマンチック赤れんがだけで勝負しようなどとムシのよすぎる出来もしないことをもくろんでいるし、よい建物は今も国が持っていて、市などが手にしたのは民間に払い下げられたどちらかと言えばクズのようなもの、計画の道は険しすぎるように思われる。本来のあるべき自ずから人が来てくれそうな道は自らが閉ざしてきたし今も閉ざしているのである。 第三火薬廠の遺物↑↓ 上安の旧引揚寮↑(これらは後の遺物だが、ほったらかし) 舞鎮の西門だったという門柱↑(もともとは余部下の三叉路のあたりにあった) 木造ならこの舞鎮長官邸↑くらいだろうか、しかし当初の建物かどうかは不明。こうしたものは国のもの。 海軍関係の遺物や資料は海自の「舞鶴海軍記念館」、海軍工廠の関係は工廠後身になる今はジャパンマリンニナイテッド社の「舞鶴館」に集められており、市が持っているものは「市政記念館」「引揚記念館」にあるくらいのものと分散したままである。 人の命のかかった貴重な歴史を証言する遺品であり、基本姿勢が頼りない今の市などのロマンチック赤れんがなどへはやすやすとは寄託、委嘱はしてはくれまい。それどころか今はないが、戦争大好き連中がもし舞鶴海自に広報館でもゼニかけて立てれば、赤れんがなどは見向きもされなくなろうか。50億はパーになろうか。 軍用水道設置 舞鶴鎮守府施設に給水するために、水道施設の建設。 与保呂川上流の桂貯水池↑可愛らしいものでこんなもので足りるの、といった規模のもの、後には大幅に拡張されていく。 この辺りを小字「曲り渕蛇切岩」と呼ぶ、伝説の「蛇切岩」はこのあたりのものである。 33年には桂貯水池と北吸浄水場が竣工している。 舞鶴水雷団(水雷敷設隊と水雷艇隊) 舞鎮開庁に先立って33年開設され、当初は呉鎮守府に所属した。今の総合文化会館やフェリーターミナルのある前島と呼ばれる一帯に建設された。当初本部は得月寺に置かれた。 埋め立てられたりしたため当時の建物は何もない、ワタシが子どもの頃にはコンクリートの土台があちこちに残っていたが、今はそれもなくなった。 《舞鶴鎮守府の陣容》 艦隊だけがいたわけでなく、それを支える陸上の施設。 鎮守府本体のほかに、「海軍港務部」「予備艦部」「造船廠」「兵器廠」「海軍病院」「需品庫」「測器庫」「海兵団」「水雷団」があった。海兵団はのちの機関学校の地、今の海自総監部の地にあり、海軍病院は今のつつじヶ丘自衛隊官舎の地にあった。 《舞鶴鎮守府配属艦艇》 34~36年当時の舞鎮配備の艦艇 一等戦艦 三笠 一等巡洋艦 日進 吾妻 二等巡洋艦 千歳 三等巡洋艦 新高 対馬 駆逐艦 朝潮 春雨 村雨 速鳥 朝霧 三等海防艦 金剛 比叡 二等砲艦 摩耶 三等砲艦 鎮西 通報艦 千早 水雷艇 第44号ほか、47、48、49、60、61、62、63、64、65、66で独と仏製、日露戦争に参戦している。 下線がある艦は「通り名」に残っている。 「吾妻」は、ながく舞鶴にいた舞鎮を代表する艦で、フランス製9400トン、日露戦争などで活躍した。後には今の自衛隊桟橋があるところにあって見学艦となっていた。昭19年に解体された。 松尾寺に元クルーの手になる記念碑が建てられている↑。 明治三十七 八年ノ日露戦争ニ於テ我々一同ハ軍艦吾妻ニ乗組シ仁川沖海戦、旅順港砲撃、旅順港口閉塞、黄海海戦、蔚山沖海戦、日本海大海戦及ビ樺太占領等総テノ戦闘ニ参加シ赫々タル戦功ヲ樹テテ当舞鶴軍港ニ凱旋シタノデアル… とある。連合艦隊第二艦隊の二番艦か三番艦を務めた。 《あーあーイヤだイヤだ、大増税》 これだけのものを造るにはゼニがいる、それは国民から取る以外にはない。弱いとこから取る。 ああ増税 明治37年3月召集の第20帝国議会は、戦時財政計画にもとづく非常特別税法・煙草専売法を可決し、戦費の財源を捻出した。ここに地租・営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・醤油税・登録税・印紙税・関税などの増徴にくわえ、毛織物消費税と石油消費税を新設し、さらに38年1月には非常特別税法の改正で第2次増徴をし、通行税と相続税を新設、塩専売法も施行した。『東京パック』(6巻5号=明治43年2月10日)から。さいたま市立漫画会館蔵 (『朝日百科 日本の歴史10近代Ⅰ』(朝日新聞社)) 《岡蒸気と川蒸気。道路》 軍事施設だけでなく、社会インフラの建設も平行しても行っている。市民にとっては舞鎮そのもの軍事関係はどうでもよいことで、ない方がよいくらいだが、こちらがおいしいのであった。 明治35年にはシベリア鉄道はウラジオストックまで通じていたが、その時は京都、大阪から舞鶴に通じる鉄道はなかった。 電車などとも汽車などとも呼ばず、岡蒸気と呼んでいた時代で、何か文明開化期の半分ちょんまげ時代ようだが、当時は山陰本線もなくて、明治32年には園部と福知山までは蒸気が開通していた。さて、それから先はどうしたのであろうか。 テクで行くより方法もなかった。馬車があったところもあるというが、蒸気バスなどあるわけない、道はなんとかあっただろうが、それは江戸期の道のままで、蒸気車はムリでなかろうか。仮に車や舟があってもビンボー人はそれに乗る料金がなく、弁当をいくつも担いでテクテク、テクテク行くより仕方がない。 甲斐性に過ぎた立派な鎮守府ができたとしてもこれでは機能しない。建設資材の多くは福知山まで岡蒸気で、そこからは由良川の川蒸気や帆掛船で運ばれたようである。 明治37年2月にすでに日露戦争は始まっていたが、そのさなかに福知山から新舞鶴(東舞鶴)間が開通した。明治35年5月1日から実測がはじまり、翌36年5月1日起工。緊急の全線突貫工事で翌37年11月3日に開通した、1年半の期間であった。 「急いで急いで作った線路なもんで、白鳥トンネルのあたりは日本一の急勾配になっとる、あのあたりに来るとスピード落ちて汽車がよう登らんがぁ」などとワタシなどは子どものころにはよく聞かされたハナシで、あのあたりを通る時は今も思い出して「ホンマかいな」と思っているようなことであるが、電車だと苦もなく通りすぎてしまうようである。 すぐに軍用引き込み線も開通した。「赤れんが倉庫」にも「海軍工廠」にも引き込まれていた。今でもこのあたりで基礎工事などすれば思わぬ所からレールが出土したりするという。 後に国鉄(鉄道院)となり大正8(1919)年に「北吸」とか「中舞鶴」駅ができるが、当初は駅などない軍事物資輸送用引き込み線で、普通の乗客が乗れる鉄道ではなかった。 さらに時代は下るが三笠小学校の下にはこの引き込み線の踏切があって、ワタシなどは岡蒸気が通っていくのを見ていたし、高校生の頃には乗ったこともある、岡蒸気ではなくディーゼルカーというヤツであった。その後廃線となり、跡地は遊歩道になった。↓ ロクな道もなかった、ましてトンネルなどは一つもなかったが、明治35(1902)年に道芝トンネル(北吸と余部上間)ができ、榎トンネル(余部上と余内間)ができてようやく東西舞鶴をつなぐ今の道ができた、また葛トンネル(余部下と加津良間)も完成した。 ↓旧道芝トンネルの銘板 道芝トンネルは今は新しくなり広くなっているが、旧トンネルは狭いもので「幽霊が出る」のウワサが絶えなかった。しかしこれが東西舞鶴を結ぶ新しい幹線になった。 五老岳の登り口に二つトンネルが開いているが、あれが榎トンネル、今は五老トンネルと呼ばれて広くなっているが、以前は狭いもので1つだけ(写真の左側、北側トンネル)、工事中に落盤事故があり20名が死亡したという。 確かその銘板が、このあたりのノリ面に埋め込まれていたと記憶するのだが、今はない、その慰霊のためか祠らしきものがある。 葛トンネルは今はない。海岸沿いを通るのが従来の東西を結んだ主要道路であった。 橋もかけたが由良川に架けるるようなものはこうしたものであった(明34)↓、今の大川橋である、船を何艘もつないで道にしている、渡し舟よりマシだが、大水がでたら流される。由良川を上下する船運が通れないではないのか。 鎮守府西街道。今の中舞鶴の中央通りからこの橋を通り、今の国道175号、福知山から今の国道9号で京都、すべて国道であった。 街道途中当時建造の「ネガネ橋」の一部などが残されている。↓(上は今の国道175号。下の半分だけが残されたアーチ橋がそれである。)明治21年、京都疎水の設計者と同じという。花崗岩製。) 改修されて今でこそよい道路になっているが、昔は酷道であった、大水が出たら通行不能。 鎮守府東街道(今の大門通りから金沢)なども開通した。浜や余部の舞鎮城下町(門前町か)ができて通り名の命名も行われた。 遊郭 借金による人身売買が裏に隠れていそうな売春業を国家が管理して安全に、というか衛生的にというか、おおびらに店舗を構えてやり、それ以外での営業は違法とするものだが、朝代には以前からほそぼそとあったというが、他は寒村であり、そうした物はもちろんなかった。近代化しなければならぬ、良家の子女を保護しなければならぬ、というわけか、民間であるが、加津良や龍宮などに海軍さん相手に新たに遊郭が出来ていった。 こんな理由であったという。 一定セル遊廓ノ設ケナキヨリ人間ノ弱点トシテ或ハ町内良家ノ婦女子ニ近忸シ妙手ヲ揮フヲ以テ一般ノ婦女子ハ一時ノ利ニ眩惑サレ前途ヲ謬ラサルモノ殆ソド稀ナリ而ノ各所ニ散在セル旅館料理店ノ下婢仲居酌婦ノ類一トシテ売淫婦ナラザルモノナキガ如シ其数現今九拾名ヲ下ラズ又盛ナラズヤ此等ニ対シ一々警察ノ取締ヲ励行セバ犯罪者ハ一タニシテ拘留所ヲ填重スルニ至ルべシ ドッと巨大な資本が投下されて軍人軍属さんやその他の関係者の若い元気のある男がマチにあふれるようになってきた。サケだオンナだというわけである。 一方ではまだ世の中は「良家の婦女子」も「夜這」などの民俗を残していた時代である。周辺地ゆえに古い民俗も生きていたと思われる。偉そうに言っているがそのご当人もその経験者ではなかろうか。こうして「近代的な」遊郭が建てられていき、その建物は今も少しは残っている。 朝代は、明治34年鎮守府開庁とともに妓楼38戸・芸娼妓約200人が開業。龍宮は貸座敷46件、娼妓350人。加津良は貸座敷20軒、娼妓23人とか書かれている。 市民にはこれもおいしかったかも知れない、エかったと懐かしがる人もけっこう多い。これも復活だ、アベさんにでも頼めばよかろう。 陸軍では鎮守府を守るための舞鶴要塞ができた。 こうして軍都舞鶴ができあがっていくが、それは米の一粒たりとも生産しない軍人や憲兵が偉そうにしているだけの寄生消費都市である、舞鎮など取り上げて書いていても、立ち退きだ、重税だ、憲兵だ、戦争だ、国民が苦しむハナシばかり、みんな国民に押しつけようと言うのだから馬鹿馬鹿しい限り、悲しくなってくるだけ、途中でイヤになってきた。こんなものが世界中に何億できようとも何も未来は見えない。もうちっとらしい国を作ろう。 舞鎮は平和も安定も友好も正義も何も残さなかった、そして日本を滅ぼし自らも滅びた。ただ海外が戦場であったため、被害は二度空襲は受けたが主に軍施設・軍艦船でマチには被害がなかった。基地周辺はヘタするとマチは焼け野原となり市民が大量に殺されるという認識は生まれなかった。引揚者の苦難は見たが、あれはロシアが悪いからで、ワレラには落ち度がないと考えることにした。浮島丸などはあれはアメリカの機雷だ、少し不審もあるが、と知らん顔をした。市民の多くは自分らに落ち度があるのではないか、などとは間違っても考えてみたこともない。 一連の軍事施設は彼ら自身のためとはいえ、当地に社会的インフラも残している。鉄道や市街地ができ水道もできて半農半漁の寒村が近代都市らしい様相、ロマンチックとかノスタルジックと呼ぶには遠いが、以前の泡沫藩があるだけの一寒村、産業らしきものも持たないマチやムラが当地周辺では最大の、府下でも二位の人口を擁するマチになっていった。これがミソクソ一緒くたの明治舞鎮神格化論に一役かっていそうである。 市民たちは自分たちの手で心血を注いで自分たちの力でマチを築き上げたというものでなく、国のフンドシのタナボタで苦労なしではあったが、そうして軍事強権力の手で舞鶴は出来ていった、市民の精神もそうして作られていった。ハードもソフトも上から作られて、権威主義が舞鶴人の特徴となり、上が言えば何でもホントと思うようになった。自分の力でよくしようという気概はない。(いやそんなことはない、という人は舞鎮城下町ではないところへ住んでいる人かも知れない、傾向としてのことで全員がそうだというのではない。) 別に舞鶴だけではなく世にそうした人も多いが、「権威」のフンドシ担ぎを疑うこともなく先頭切って生きて、その朽ちたフンドシを飾り付けてああロマンチックだと言うつまらぬ者ばかり、それを近頃では自治体が税金でやる、まずは自分らのカネと力でやれよ、舞鶴だけでなかろうか、これでは何もよくもならないし変わりもすまい。変わっても表面だけの話でしかない。 元々豊かでもない辺境の軍事都市と生まれたのだが、ただ軍隊の駐屯地だけというものではなかった。経済的には舞鶴工廠ができ最新の巨大重工業を持つ豊かな近代都市らしい発展を見ることになる。舞鶴人は舞鎮ではなく舞鶴工廠こそ、近代舞鶴を象徴するものと見ている。舞鎮は知らぬとしても舞鶴工廠に何も繋がりもなかった舞鶴市民は当時恐らくなかったと思われる。 舞鎮には自分が使う船を作る最新テクの造船所があった、舞鎮によい所があったとすればこうした点であろうか。後にはこれが舞鶴に富を生み出した。 今の袖志の米軍基地や自衛隊基地や原発などの一時金だけで富を生むインフラ、生産設備なしというものとは大きく違う点であった。一時金はすぐなくなってしまうが、最新のレーダー製造工場、原子炉製造工場、などなどのハイテク巨大工場とその作業員の新市街も新幹線も高速も空港もつけたことになる。こうしたものは後々に大きく役立つことになった。 舞鎮そのものは先進列強の海軍を見習って建てられたもので、当時の遅れたビンボー日本、特に舞鶴などにはまったくないものであり、舞鎮は地域そのものから己にふさわしいものを作らねばならなかった。舞鎮によって舞鶴も作られたので、舞鶴にしてみれば(特に東舞鶴市民には)産みの親になり、全体としての舞鶴市民にも全体としておいしいとも見えるのである。 しかし舞鎮そのものはほぼすべての舞鶴人は忘れていた、ああー、そういえばそんなもんがあったなー程度の認識しかなかった。舞鎮などはどうでもよかったし思い出したくなかったし、ガッコーでも教えられなかった。 舞鶴工廠の後身である造船所はワタシが青年時代くらいまでは舞鶴の代表選手であった、この造船所あっての舞鶴であったが、しかしそれも巨大民間事業所となりグローバル化、さらに軍需品も製造しているため秘密化して市民とは関係がなくなり何が何だがわからないものとなり、馬力もなくなった、舞鶴を象徴するとは言いがたくなり、象徴の産みの親が舞鶴から失われた。 より底では経済の疲弊が横たわっている、地方は経済競争に敗れて、行き先が見えなくなってきた、中小零細製造業が潰れ、商店街は閑古鳥が鳴き始めていた。戦争に関するものを好んで取り上げるなどは野蛮人のすることで、文明人のするような話ではなく、少なくとも商人や百姓が決して取り上げたりはしないものであるが、経済的不安を抱えた者に対してその対策も立てないままに「赤れんがはどうじゃ」などと言い始めるのはごく最近になってのことである、大反対の声も市民からは上がらない、強く市を信じているのか、それとも現代の最先端のつもりだが、実は野蛮人の町でしかないのかはわからない。 しかし歴史は繰り返し、カネを喰うばかりで何も富を生まない、何のためにやっているのか、やっている者にもわからない、道楽者のヒマつぶしの類いでは、すぐにスコーンと忘れられること必定。 これではダメだ、舞鶴にはインフラと「舞鶴工廠」(軍事工場ではない産業)こそが必要、舞鶴に平和に豊かな富を生み出す生産こそ、生産産業活動こそ、もう一つ加えれば教育こそ何億円積もうとも取り戻さねばなるまい。 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
《年表》
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
《参考》 鉄道 『両丹地方史14』(1971.11.1) 〈 福知山と舞鶴・京都間の鉄道建設の経緯 福知山史談会 芦田 完 大阪より舞鶴「当時新舞鶴」に通ずるいわゆる阪鶴鉄道が計画せられ、そのうち大阪-福知山駅「当時福知駅」まで開通したのか明治三二年てあった。本稿では福知山‐舞鶴間及びその後園部-綾部間の鉄道か完成した経緯についてて概説したい。 明治二四年山陰線官設の議が起り、京都商業会議所は舞鶴町とともにこの運動を推進するため、京都府知事及び京都市会の賛同を求め、同二五年二月には京鶴「京都‐舞鶴」鉄道官設の運動を申合せ、同年三月には「山陰銑道ニ関スル意見書」を政府に提出した。 同じ頃市会に於ても同様の建議書を提出した。この建議書には「山陰鉄道ノ必要ハ唯ニ山陰各地の殖産興業ノミナラズ、国防上軍事上及外国貿易上ニ於テモ頗ル緊急ノ事業」であると述べてあった。 当時丹後地方の米穀、縮緬等の物産は船により山陰、瀬戸内を迂回して阪神地方へ運ばれており、また舞鶴は軍港に選定されていた。さらにロシヤのシベリヤ鉄道開通を見通しての対岸貿易にも大きた期待かかけられていたのであった。 同年(二五年)六月に公布された法律第四号鉄道布設法には、京鶴線は第一期線に加えられ、同二七年六月に決定公布されたが、たまたま土鶴線「兵庫県土山〔現加古川〕-福知山‐舞鶴間」との比較線としてあげられ、工事か遅延する傾向が見えたので、京都市を中心に沿線住民は一層の運動展開を企図し、七月に府下一市一八郡の有志大会を開き、京都府鉄道同盟会を結成した。そのうちこの鉄道を私設経営として速成すべしとする意見か台頭し、発起人一一五名を以って京都鉄道㈱を設立した。この会社の路線は、京都‐綾部‐舞鶴-宮津間の本線と、舞鶴、余部「現東舞鶴市、当時軍港所在地」間及び綾部-福知山-和田山間の分線を申請し、同二八年一月に免許が下った。 その頃兵庫県側は大阪の有力者を合同して阪鶴鉄道「大阪‐福知山‐舞鶴間」と摂丹鉄道「大坂‐池田-福知山-舞鶴間」の二つの鉄道会社を起こし、三つめ鉄道会社の競願となったが、同二七年五月、鉄道会議は摂丹鉄道を却下、阪鶴鉄道と京都鉄道を許可する裁定を下したので、京都府鉄道同盟会は解散した。 時恰も日清戦争か勃発しており、工事に着手する運びに至らず、戦後に方って同二九年四月京都より起工、翌年一一月には京都嵯峨問が、同三二年八月には嵯峨・園部間が開通したが、「予定以上に莫大た建設費を要し、到底園部以西工事未成部分を完成し得をい状態」に陥り、同三三年一一月、未成部分の免券取消を出頭するとともに、既成線路の買収を政府に具申した。政府はこの線の国家的枢要性を認め、三五年四月にこれを買収した。これにより以後の京鶴線敷設工事は官営に引継がれ、同四○年八月、鉄道国有法により京都鉄道は阪鶴鉄道とともに国有化され、漸くにして同四三年八月二五日園部・綾部間が開通した。 これより先同三五年一一月鉄道院は福知山から綾部に向って工事を始めたが、日露の風雲急をつげ、大阪と舞鶴軍港への線路の急設に迫られ、同三七年一一月福知山・新舞鶴間が開通していたのて京鶴線は起工以来一四年ぶりに全通することゝなった。この線完成までは、京都から新舞鶴に至るには、一旦大阪に向い、更に阪鶴線によったもので、その間一二一哩「一九三・一粁」もあったが、この線開通後は僅かに五八哩「九二・八粁」に半減した。当福知山から京都へ出ることも非常に便利になったことはいうまでもない。 福知山綾部間の鉄道工事中、同三七年九月の暴風雨に土師川の仮橋梁か流失し、土工列車の運転を絶たれるなどの事もあり、又四○年夏の大水害の影響をうけるなど、多くの苦難があったか、遂に竣工を見たのである。後に昭靭四五年綾部・福知山問の線路が複線になるまで、土師川鉄橋の東方数百米の間は、線路の北側に今一本並行して線路を敷き得るだけの幅の鉄道用地かあったが、それが土師川鉄橋完成までに土工列車が通っていた線路の跡であったのである。複線化の際その線路跡は再び新線の線路に利用せられて、その間は新しく土地を買収する必要がなかった。六六年間眠っていた用地が生き返った思いである。 京鶴線の開通式は福知山で盛大に行われた。式場はふくち駅前で多数の来賓出席の上行われた。式場へは京都祇園の名妓が白衿紋付で接待に来福し、舞鶴の朝代、竜宮両新地からも応援の紅君隊が送られ、福知山猪崎新地の名妓は揃いの衣裳で手踊を演じたのであった。その踊の文句には次のよう右沿線の駅名や地名を織込んだものもあった。 ◎ かねてよりいとし殿田と思いそめ 私しゃ山家の育ちでも 心の綾部はネーあやにしき それを園部といゝかねる サノサ ◎ 別れても末は一つに汽車の道 つゞく園部や福知山 むすぶ綾部のネー緑の糸 舞鶴みなとにかえる船 サノサ ◎ 千代八千代祝して今日ぞ福知山 ふくやすづ風末広く 花の都の春は盛りの花だより 嵯峨野こゆれば秋もまた 月の園部のもみじ葉や 思いぞふかき和知川の 綾部に樹々の綾にしき ヨイ、ヨイ、ヨーイヤサ 当日は福知山も各戸装飾を競い、花火を打揚げ、記念絵葉書を発行し、記念スタンプも捺された。又町では開通祝賀のため広小路堂盤館と裁判所前の仮小屋で芝居を無料で観覧させたたのであった。 その後間もなく発行された「福知山名所-写真案内」には土師川の鉄橋の写真を掲げ次のように説明している。 福知山町の東南約五丁にして土師川に一大鉄橋を架す。これ阪鶴線路にして、二十有余の石台は河中に并列し、鋼鉄の高架を走る岡蒸汽の音も亦頗る壮観なり。 当時の人々が誰工事土師川鉄橋の完成と、阪鶴線の開通を如何に慶んだかが偲ばれる。 (鉄道院福知山建設事務所発行「舞鶴線建設概要、大坂朝日新聞明治四三・八・二六京鶴線開通記念号、京都府百年の年表、鉄道建設史等参照) 〉 『両丹地方史15』(1972.8.1) 〈 福知山、新舞鶴間の鉄道建設 この頃日露両国間の緊張が高まり、舞鶴軍港までの延長か絶対に必要となった。ところが「福知」駅は、今の一宮神社の北方約五百米ほどの所にあり、構内が狭溢で綾部方面への列車の切替えか困難なため、当時の福知山町としては、飛離れて西方の字天田に新たに「福知山」駅を設置し、福知-福知山間五一鎖を施工した。それより突貫工事を以って綾部へ、つづて舞鶴(新舞鶴)に鉄道が延長され、同三七年一一月三日福知山、新舞鶴間が開通した。この福知山、新舞鶴間の鉄道建設は官営で行われたが、三七年一○月一五日より四○年一〇月一四日まで三ケ年間は阪鶴鉄道㈱に貸与された。その期限が来るまでに同四〇年七月三一日この契約は解除せられ、八月一日行を以って阪鶴鉄道は政府によって買収されたのであった。 注 昭和一三年八月一日新舞鶴町が東舞鶴市と在り、翌一四年六月一日駅名も「東舞鶴」と改称された。 由良川に定期の川蒸汽船運航 前記阪鶴鉄道(株)は、明治三二年七月一五日より大阪、福知山(南口)間の鉄道が開通すると、由良川の水運に眼をつけ、同三四年一二月一日より、福知山、由良間に貨物運搬のための定期船の運航を開始した。古老の話によると、その名は「阪鶴丸」といゝ、由良から塩、石、鉄、海産物(この附近では筈巻産の素麺など)を積上げ、福知山からは卸商人が下流の方へ品物を積下していたということである。 註 今から十数年前運輸省嘱托の某氏か来福され、由良川の水運については京都大学に資料があり、古の船についてそれが建設された造船所の名も、頓数(六頓)も判っており、同造船所で同型のものか三隻造られそのうち一隻は岡山の旭川、一隻は淀川、一隻は由良川に就船したものであることなどを洩らされたが、まだ確認していないことをお詫びする。この川蒸汽船の廃止年月も明らかな記録に接しないが、明治三七年一一月舞鶴線が開通するまで運航し、舞鶴から海産物が福知山へ入るようになると廃止せられたものか、それとも次に述べる明治三九年一○月舞鶴・境間に就航するまで由良川で使用されていたものか明白でない。 なお阪鶴鉄道㈱は明治三七年一〇月一六日に兼業として毎曹(海運業)を営むことについての認可を得、三七年一一月二四日、汽船橋立丸を以って舞鶴、宮津問の運航を開始し、同三九年七月一日には第二橋立丸を以って宮津、小浜間を、同年一○月には阪鶴丸を以って、舞鶴、境間の定期船の営業の認可を得ていることだけを追記しておく。 註 この稿については福知山鉄道管理局で目下編纂中の「鉄道百年史」編纂係の協力を得たことを述べて謝意を表したい。 一九七一、一一月 〉 『舞鶴市史編纂だより118』(57.1.1) 〈 〈要塞地帯法と軍港構内〉 専門委員 吉田美昌 明治30年7月、勅令234号によって舞鶴軍港境域が設定されて以来、同年4月舞鶴要塞司令部が併置されたことによって「要塞地帯法」(明治32年7月法律第105号)と、同時に作られた「軍機保護法」(明治32年7月法律第104号)とによる市民一般への拘束が始まった。 (軍港境域については、軍縮による要港への格下げで大正12年3月勅令57号によって4月1日から廃止となったが、昭和14年の軍港復活で再び生き返り終戦まで拘束を続けた)。この間、舞鶴港は軍港地帯として市民の日常生活の上にきびしい制限があった。とりわけ公私の出版物は事前に検閲を経なければならず、特に写真撮影については厳しいチェックがされ、艦影の入るのはもちろん、湾口を囲繞する島嶼の陵線は軍港の範囲を窺うため有無を言わさず抹消された。 明治34年舞鶴鎮守府開庁を記念して刊行された「舞鶴案内」(舞鶴実業協会編)の緒言によると〝本誌は昨年出版の予定なりしも製図撮影等軍港及要港規則に準拠するの必要あり意外の日子を要し終に今日に及べり。製図撮影及印行は本年7月13日、9月21日、10月25日舞鶴鎮守府司令長官の允許を、9月19日、10月3日、11月22日舞鶴要塞司令官の允許を得たり〝と断っている。 また、大正2年4月舞鶴町発行の「舞鶴」の緒言にも〝本誌編纂は時日の切迫したると、軍港要港及要塞地帯両法規の拘束ある為、叙事撮影共に描いて尽さず、隔靴掻痒の感あり〝と漢じている。大正4年版の「加佐郡誌」の編者も、その例言に〝記述は可成正確ならんことを期したるも或は魯魚の誤なきを保せず、且軍港要港及要塞地帯法の拘束あるため叙事意の如くならざる点あり〝と、それぞれが言外に記述に制限があったことをにおわせている。 海軍は軍港造成の一環として明治35年11月道芝・榎・葛の三隧道を同時にしゅん工したが、中でも道芝トンネル掘削の理由は、余部6か村に入っていた北吸村(現・三宅団地付近)が、軍用地買い上げのため全村移転の破目におちいり隣接する浜村の厚意により現在地に移ったものの、従来から余部上・下、さらに田辺城下への交通路は峠越えして海岸線を生活道路としていたが、軍港構内となったため、これに代る道路として新設されたものである。浜村としても交通事情は同じであった。この道路の主目的は軍用道路で、鎮守府東街道と呼ばれ、金沢9師団とを連絡するものであった。 一般にいわれていた軍港構内とは、北吸の東門と余部下の西門約2キロ間をいい、それぞれ海岸線が切れて市街地へ入る位置に、れんが造りの門柱が立っていたことから地名となり戦時中から町内会名になり今日まで残っている。構内の東門近くの三叉路(市役所前)には、衛兵詰所があり、立哨する海軍の衛兵が検問にあたっていた。戦後は東警察署の派出所になっていたが、昭和39年10月に解体された。市民の通行については軍事情勢などを機敏に反映して、しばしば通行制限や禁止があった。今、明らかな分だけを記してみると ○大正4年5月27日より〝鎮守府構内道路ヲ一般公衆ノ通行ヲ許可セラル。但シ夜12時カラ朝4時迫ヲ除ク〝となったのは舞鶴から軍港のある余部町を通ずるはずの鉄道が明治37年新舞鶴に直通したため、それまで表門といわれた鎮守府正門(西門)が裏門となり、裏門であった東門が逆に表門に代わって人馬の往来が繁しくなったため。 ○大正8年7月21日念願の中舞鶴線が開通したため〝同日ヨリ鎮守府構内鉄道開通ト共ニ構内通路一般ノ通行ヲ禁止セラル〝とした。 当時、工廠へ搬入する貨物は新舞鶴駅から人夫が貨車を手押しで軍港引込線まで半日がかりで運ぶという有様であった。余部町会では軍港引込線を利用して工廠入口から新たに路線を引き延ばして、西門の外に停車場を作り軽便機関車を運転する計画を要路に折衝中であったが、中舞鶴線(3・4キロ)が開通し一般営業が開始された。この年11月1日余部町は中舞鶴町と改称した。それまでの余部町は軍港設置の中心でありながら交通の便に恵まれず、その上、構内の通行制限によって受ける不便は大変なものであったが、この日以後構内を歩かずとも列車を利用できた。 軍港構内を走った中舞鶴鉄道の敷設は、時の鎮守府司令長官財部彪(第8代大正6、12、1~同7、12、5)が、鉄道院(現 国鉄)の経営で開設するように国に働きかけ開通したもので、住民の意志とは別に軍事上の目的が主であったが、住民としては地元負担もなく、一片の陳情もせず出来上がったことに感謝して「財部鉄道」と呼んで永くその功を賛えた。 ○大正11年6月〝午前5時ヨリ午後12時マデ鎮守府構内東西横門間、一般ノ通行ヲ許可セラル〝この年軍縮により7月6日舞鶴軍港廃止の勅令が公布され、舞鶴海兵団も廃止となり横須賀に移った。艦艇・諸機関も縮小され交通制限がゆるんだ。 ○大正12年2月15日〝時間ニ制限ナク東西構門間道路一般公衆ノ通行ヲ許可セラル〝この年3月31日舞鶴鎮守府が廃止となり、閉庁式が中舞鶴雪中練兵場で挙行された。華府会議の結果4月1日から要港、工廠は工作部となり、工作部は大量の人員整理を行った。 昭和14年12月1日舞鶴鎮守府復活が公表されてから再び規制がはじまり、第2次世界大戦中は、特に防諜上の見地から軍事機密に対する取り締まりが一段と強化され散索するような風体で構内を歩くことはできなかった。中舞鶴線の車窓からは軍港か見えないように構内は、軍需部(現 市役所)から機関学校(現 総監部)に至る海岸側を、軍港遮蔽のため板塀が張りめぐらされていたが、終戦後戦災地復興資材として取り壊され大阪に運ばれた。この風景を見るたびに、戦時中東海道線に乗って〝板張りに誰がしたのか見えぬ富士〝と、破られたガラス窓を板でふさいだ車窓をヤジった句が思われてならなかった。 昭和3年11月東門駅(のち北吸駅と改む)が開設された。戦後北吸駅と共に中舞鶴駅は営業近代化のために昭和38年2月から無人化したが、同47年10月31日遂に合理化の波の中に軍需物資の輸送をはじめ兵員や工員を運び、中舞鶴住民の通勤や通学の足となっていた中舞鶴線も廃止となり、53年間にわたる栄光の幕を閉じた。この半世紀は軍港都舞鶴の歴史を象徴させるものがあった。かって8番線までレールが敷かれ、1日平均1、500人の乗降客と貨物150トンを呑んだプラットホームは、今日自転車道やグラウンドに転用されて跡形もない。 〉 《鎮魂碑》 余部上の真宗寺の鎮魂碑↑ 舞鶴工廠敷地は岩磐の裏山の開鑿が最も困難を極めた、明治32年5月の発破作業中に事後が発生し数十人の死傷者を出した。請負人の発起で寺を建てて碑を建て永代供養を委嘱したという書は旧田辺藩士伊籐雋吉海軍中将。 犠牲者数十人の内訳の生国別・男女別も刻まれている、それによれば、美濃9(女2)、丹波6(2)、丹後4(2)、近江5(1)、播磨3(1)、伊勢4、但馬2(1)、因幡2(1)、越前3、伊賀2、讃岐1(1)、摂津、若狭、加賀、越後、美作、伯耆、出雲、石見、安芸、豊後、各1、陸前(1)で、計51(12)で、合計63人であった。ずいぶんと遠い国もある。 どうした気持ちを持って舞鶴工廠建設工事に従事することになったものか、彼らに「近代日本をつくるのだ」「ロマンチック舞鶴のためだ」といったような大きな期待の気持ちや夢を持ってのことなのか、重税にどうにもならないための単身出稼ぎだったのか、それが分かるといいが、彼らの本心を知るための資料はワタシの手元には何もない。明治舞鎮がロマンチックかノスタルジックかはそれを見てからでもよいだろう。 《伊籐雋吉》 舞鶴出身のこの当時の海軍のエライさんである。雋吉は「としよし」と読む。西舞鶴の宮津口に生誕地の石碑がある。 『加佐郡誌』 〈 伊藤 雋吉 伊藤雋吉氏は天保十一年三月わが舞鶴(当時田辺)に生れた人で幼名を徳太と称し後度々名を改め明治維新後雋吉と称し橘庵をその号とされて居た、父は勝介といひ母は磯といって牛田家の出であるが地方稀に見る賢夫人であった、雋吉氏資性英邁、才識非凡、漸く長じて藩士牧野氏に仕へ筆札の事に当られたが、才智の衆に勝れて居る上大志を抱いて居た氏は、幼時から和漢の書を渉猟し、又特に数学を好みその研究を怠らなかった。 かゝる神童重であったので牧野氏に仕へてからも日に信任を加へ間もなく藩命を承けて外に出で蘭学及び兵学を修められたが、幕末から明治維新へかけ四方志を抱くの士は競ふて王事に勤めることゝなったので氏も亦将さに大いに竭す所あらんとしたが偶々其の父を喪って一頓挫を来たすやうなことになったが元来大志を抱いて居る氏はやがて母にその宿昔の志を告げ許しを請はれた、母たる人も亦雋吉氏の将来を慮って其の請を許諾せられたるのみならず氏の雄図に対し大いに激励せられたので氏の悦び一方ならず間もなく江戸に出られることゝなった。 やがて江戸に上った氏は数学を内田五観、兵学を大村益次郎の両氏に就いて修められたが既にして明治二年には海軍操練所出仕を命せられ、翌三年には英艦と合同で南海の測量、四年には復た同じく英艦とともに北海の測量を命ぜられやがて海軍少佐に任ぜられた。 明治七年台湾事件に際しては氏は筑波艦長として出征の途に上り事漸く平きて後更らにまた筑波に座乗して海軍兵学寮の生徒を統督して布哇から桑港に航し往復ともすべて風帆を用ひ約半年を費し無事その任務を了へて帰朝された、蓋しわが海軍に於て外人の力を借らずして遠洋航海をしたのはこれを以て嚆矢とするといはれる、その後金剛艦長を経て明治十年西南役の際は海軍兵学校長代理として薩南学生の緩撫に日夜心を労せられた、然るに明治十二年にその母を喪ひ哀愁殊の外深く翌年碑を建てその側に慈母の奨励扶訓克く己をして今日あるに至らしめ其威恩の特に切なる旨を叙べられたが措辞凱切読むものをして惻々の情に堪えざらしめるものがある。 明治十五年には海軍少将に任ぜられ海軍兵学校長を仰せ付けられたが同年十月政府は共同運輸曾社を創設して氏を社長に任し英国彼阿曾社と輸贏を決せしめた處竟に彼を圧倒するまでの敏腕を振はれた、後英国に渡って汽船十隻を購入して帰朝されたが、氏が船体の良否を鑑別する眼識の優秀なのには英人も舌を巻いて驚嘆したといふ事である。 事毎に功を奏した氏は官少将より中将に進み明治二十三年国会開設に際して樺山海軍大臣の下に次官となられた、それから大臣は屡々変ったけれども氏は明治三十一年に至るまで約十年帝国海軍の枢機に任じて貢献する所甚だ多かった、明治二十七八年戦役の終った時、勲功に依って持に華族に列し男爵を腸ひ、更らに貴族院議員に勅選せられ徒二位に叙せられた。 氏が斯の如き栄達を見るに至ったのは天性英邁の資によるのは固よりであるがまた一面刻苦勉励の賜ものといはねばならぬ。 氏は亦詩文にも長じ書画にも巧みに傍篆刻をよくし茶花の道に於ても甚だ嗜好が深かった.実に氏の多芸多才なのには人皆嘆服せざるものなく、其の偉大なる勤功は実にわが郷士の誇りであった。 惜しいかな大正十年春病褥の人となり四月十日終に北品川の邸に永眠された、享年八十二、その危篤の旨天聴に達するや特旨を以て正二位に叙せられたのである。 〉 『中舞鶴校百年誌』 〈 伊藤雋吉海軍中将 (舞鶴出身) 横須賀の記念艦三笠をおとずれると、誰でも気づくはずだが、後部の司令長官室の外にベランダのようなものが突き出している。あれはスターン・ウオークといって、艦長や司令官の散歩をする場所である。比叡にも榛名にも伊勢、山城にも、改装前はみなスターン・ウオークがあった。汽車にたとえれば、昔の展望車のオープン・デッキだが、長門はこのスターン・ウオークを、内がわに閉じこめた。 ちょうどスターン・ウオークの位置に、艦名が入る。「いせ」「はるな」「なかと」「むつ」「あかぎ」「かが」、あの肉太の平かなの書体は、明治以降「やまと」「むさし」の時代まで、さらにいえば現在の海上自衛隊のフ ネまで、ずっと変っていない。 日清戦役のころの海軍次官で、海軍きっての書家であった伊藤雋吉中将が、日本紙に大きな筆でいろは四十八文字をものしたのを、海軍は艦名用の字として八十年来使っている。「ながと」と今の護衛隊「たかなみ」をくらべてみれば、「な」と「か」の字体はまったく同じである。戦争中はペイントで塗りつぶしてしまったけれども、大正九年の秋、試運転に出ていく長門の艦尾には新しい大きな軍艦旗がひるがえり、その下両サイドに、「ながと」と真鍮の金文字か光っていた。(以下省略) 文中に出ている伊藤雋吉中将は、加佐郡誌(京都教育会加佐郡部会編)の伝記に記載のとおり天保十一年(一八四○) に舞鶴(当時田辺)に生れた人で累進して海軍中将となり、海軍次官を約十年間勤め、明治二十七・二十八年の日清戦役が終ったとき、功によって男爵を賜わり、更に貴族院議員に勅選せられた。氏はまた、詩文にも長じ、書画も巧みで傍ら篆刻をよくし、茶華の道に於ても嗜好が深く、実に多芸多才で、郷土舞鶴の誇りであった。 大正十年四月十日北品川の邸にて永眠。 私事ながら老生などは、同じ海軍でも技術畑の下っ端であったが、駆逐艦とか、潜水艦とかは特に縁があったので、艦名はしょっちゅう眼にしたが、この字が伊藤中将の手になったものとは本書を読むまで知らなかった。 なお本舞鶴にも、同氏の碑文を刻んで鎮魂碑が真宗寺に建っている。 〉 『京都新聞』(00.06.22) 〈 *先人を訪ねて 12* *伊籐 雋吉(いとう としよし)(舞鶴市宮津口)* *舞鶴のまち基礎築く* 城下町の風情を残す西舞鶴の閑静な住宅地の一角。道路わきに「伊藤雋吉生誕の地」と刻んだ高さ一㍍、みかげ石の石碑が立つ。帝国海軍の創設に貢献し、一九〇一年の舞鶴鎮守府の開設に努めたという伊藤雋吉の生家があったところだ。 丹後国田辺藩の手代町(舞鶴市宮津口)に生まれた伊藤は、下級藩士ながら蘭学や兵学を学び、十六歳で上京、大村益次郎の鳩居堂塾で西洋兵学などを修めた。藩主の命で台場の築造や大砲も鋳造している。 明治維新後の一八六九年、海軍入りして水路業務に携わり、日本初の水路測量図「塩飽諸島実測図」を作製。練習艦「筑波」艦長として海軍初の遠洋航海を指揮し、米国サンフランシスコ訪問も実現させた。海軍兵学校長、官制の海運会社「共同運輸」の社長を務め、一八九〇年の国会開設で海軍中将、海軍次官に相次ぎ就任した。 碑を建立した「伊藤雋吉顕彰会」会長の佐藤正天さん(七六)=同市紺屋=は「舞鶴のまちの基礎を築いた偉大な人物」と評価する。 舞鶴の市街地形成の転機となった舞鶴鎮守府の開設は一八八九年、勅令で決まった。当時は日清戦争(一八九四-九五年)を前に、海軍拡張が図られていた時期。次官就任前、伊藤は欧州に派遣されて英国艦船を買い付け、艦船の建造にも従事した。九年間の次官在任中には装備の近代化をはじめ、海軍省所管事務政府委員として海軍諸制度の制定や改革に尽くしている。 数々の実績から佐藤さんは「雋吉の影響力は甚大。舞鶴は天然の良港で立地条件が整っていたが、故郷を浮上させるためにも口添えしたはず」といい、鎮守府の設置決定に深くかかわったと推測する。伊藤には鳩居堂入塾前、他の藩士が蘭学や兵法を学ぶ伊藤を斬ろうと企てたが、母親が企てを知って上京させた、との逸話も残る。明治に入っても故郷の行く末を案じ、「思いやりが深く、母親や故郷への愛着が強かった」と強調する。 舞鶴は今秋、鎮守府開設から百年目を迎える。地元に貢献した先人に思いを馳せるには格好の節目である。(舞鶴支局 河原健一郎) 伊藤雋吉 天保11(1840)年一大正10(1921)年。小藩の田辺藩で下級武士の出身ながら、舞鶴市の基礎をつくった舞鶴鎮守府開設に尽力したとされる旧海軍軍人。中将・次官を最後に海軍を退いた翌1899年から貴族院議員。書の才があり、海軍の艦船に書かれたひらがな船名は伊藤筆。 〉 《舞鶴市の「交流人口」、仮に増えても舞鶴人口は減り続ける》 「赤れんが」の目的は「交流人口を増やす、300万人にする、そうして人口減を止める」ということなのだが、その「交流人口」とは何か。 「交流」とは流れがまじわるということだから、「お互いに行き来する」というのが本来の意味だろうが、そうした本来の意味では使われていない。 滞在型の施設を利用した体験型で1泊でもした舞鶴市外の人を数えると、まずそうした公共の施設はないに等しいもので、年間100人程度かと思われる。「漁業体験」と言っているようだが、魚釣り・海水浴などのことのようで野原などの民宿を利用した一泊型が2000名ほどである。なくはないが「交流人口」はほぼゼロがホントのところであろう。 300万人というのは毎日毎日1万近い人がやってくるという話である、多いときは何万という人がやってくる、舞鶴のどこにそれだけを受け入れるだけのインフラ、施設や要員がいるのであろう。市当局のネゴトに過ぎずまともに相手するのもアホらしい話だが、「交流人口は増えています」というので、聞いてみる。 「とれとれセンター」に魚の買い物に来た人を「観光人口」として数えている。ここは府下(京都市内を除く)でもトップ20の5、6位くらい年間70万で入っているが、他でランクインするものはない。一時は100万人とか言っていたが何割か減少しているようだが、しかし地元産の魚も売っているとはいえ、観光客と呼べるだろうか、ここを訪れる多くの客は「とれとれ」で魚を買うが唯一の目的で、他へはいっさい立ち寄らない、立ち寄るような所もない、魚を買うとスーと帰って行く魚の買い物客である。大型ショッピングセンターへ他のマチから買い物に来た人と大きな違いはない。ショッピングセンターは地元の人も行くが、「とれとれ」は地元の人が少ない、これはヤバイ。「舞鶴は何でも高い」と言われる、その中でも魚魚ギョッと高いためであるが、地元の人も行かないような「あー高いなぁ」の観光地は将来が危ぶまれる、ゼニを投入するだけではダメである、お高くとまっているだけで内容はカラッポでなく地元市民が喜ぶ市民感覚があふれたものでなければならない。まだまだ一皮も二皮もむけなければなるまい。 こうした人が来たついでにとさいわい「引揚げ」などにも立ち寄ってくれた場合は、そこでも数えていて、仮に1人が市内5箇所のポイントでカウントされると観光人口5名とされる。ポイントを増やせばこれは増える数字で、これが「交流人口何人」というものである。「交流人口」を増やそうとすれば、ポイントを増やせば数字上では増加する。 300万人は「天橋立」の2倍量である。この表にある宮津市域の入込数は250万もあるが、これだけ「交流人口」があっても宮津市は人口減が止まらず、昭和50年には3万あった人口は今ではとうとう2万を切ってしまった。 「観光で地域発展は幻」かも知れない。舞鶴市は昭和50年は9万7千、このころまではほとんど増減はなかったが、この10年で減少し、今は8万5千人となっている。 福知山市はランクインした観光施設がないが、昭和50年は7万8千であったが、平成22年には若干増加している、平18年の合併分を除いた数字のようである。最近のものは不明。 宣伝されるワリには、どうも観光人口といってもこの程度では、何千万とかあってマチの構造がすっかり変わるほどであれば別として、チョコチョコと中小零細規模でやっても定住人口の増加には何もたいした効果がないようである。交通がよくなるなか当地あたりも京阪神からの日帰り圏になったし、もし仮に300万もの宿泊型があってもそれを受け入れるインフラがない。まあどちらにしてもはっきり言えば観光化とマチの人口は何も関係がない。観光では喰えない。観光で町の発展戦略は幻を追う愚策かも知れない。赤れんがでは中国や韓国などはムリ、わずか10万の人口も維持できないノーナシのマチがその百倍にもなる千万の観光客を集める、甲斐性に過ぎたものである、いつかもあったが国宝でもない赤れんがを、世界遺産にしよう論の滑稽な再来誇大妄想版で、ムリでっしゃろ。 世の中はそんなに甘くはない、政府やその御用学者やマスコミなどがいう観光化などと言っても、つくるだけが目的、後々の経営などは何も考えてはいない、にわか作りの根性の入っていない必要もない観光くらいでは見向きもされず、一銭もゼニは落ちず落ちるのはゴミだけ、観光鳥ではなく閑古鳥が啼き、要するにムダなものを高いゼニかけて作って、そのシリぬぐいに市民がさらに苦しくなるだけのもののようである。 関連情報「大正舞鎮」 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】【引用文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他Webや観光案内などたくさん |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2014 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |