舞鶴鎮守府-2-(大正期)
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京都府舞鶴市 |
大正舞鶴鎮守府の概要《舞鶴鎮守府の大正時代の概要》 客観的で正確なものかどうかは別として「輝かしい明治」とか明治という時代には誰でも何某かの時代イメージが描けるのだが、大正期となると何ともボヤとしたものでしかない、しっかりした大正期イメージが描ける市民はまずゼロに近いのではあるまいか。明治百年とかは言われたが、大正百年とは誰も言う者がない。 赤煉瓦でロマンチックだなぁ、と言うとしたらしかしこの時代のことである。大都市中心であった西洋文明が地方にも一部波及してきた時代で、大正デモクラッシーなどの先端精神は舞鶴ではどうであったか、まあ悲劇的なことだろうが、電灯とか電話とかついたのがだいたいこの時代である。電灯を消すのにランプのやり方でついフーフーと吹いていた時代である。 ↓こうしたものは実際にはありもしなかったが、膨大な50億とも言われる血税を放り込んでここでデッチ上げられているのが、カッコ付きの「大正舞鎮」の舞鶴ではありもしなかった大正時代である。 最初は第一次世界大戦とロシア革命、現代史の幕が切って落とされた大変な時代で、大戦後は日本は世界の一等国・五大強国に仲間入りして国際連盟の常任理事国、ロシア革命や国際連盟の影響強く、軍縮と大正デモクラッシー、この期に舞鎮は閉じられた。 大衆消費社会となり、一見平和と繁栄であったが、持てる者と持たざる者、都市と農村などの格差は一層拡大した、社会の根本では腐敗し堕落し右傾化していくのを止めることができず、やがてはファッショと戦争の時代を招いていく、大正期は現今の日本社会状況とよく似ていると言われるし、現代はまさにここから始まっていて、今の社会諸問題も多くはこの時代に発している。現代史百年の歴史はこの時代から始まる、現代人のユリカゴ時代である。 現代人のつもりならば、どうしてもこの時代はよく知っておかねばならないと言われるが、ここではごく簡単に触れるだけである。 《第一次世界大戦》 第一次世界大戦(1914~1918)は、ちょうど百年前の大戦争で、「欧州大戦」と呼ばれているように、日本は対岸の火事のように、我関せずと傍観していたようなことであった。悲惨な欧州とは裏腹に日本は戦争成金が輩出した。 地獄の戦場↑。当初はすぐにも終わると簡単に思われていたが、とんでもないことになってきた、独墺両帝国と西部戦前側では英仏・東部戦線側では露帝国が対峙し、それに各地の民族独立戦線が加わった。長い長い塹壕戦で各戦線は膠着状態となり、多量の新兵器が用いられた。毒ガスやタンク(戦車)、飛行機なども投入されたが戦線は動かず、戦争は永遠に続くように思われた、ベルダンやソンムが有名だが、何もそうした戦場だけが激戦であったのではない、そして990万人もの死者が発生したという。 日本は欧州現地でも参戦もしているがそれはきわめて限定的で「日英同盟」などの義務上の最小限であった。地中海へ対潜艦隊を派遣して対Uポート戦や輸送船団護衛を行った、カナダなどの日本人移民義勇兵や日赤の従軍看護婦派遣などもあった。わずかな兵力では大局には意味はないし、もし何十個師もの大兵力を欧州に送るとするならバルチック艦隊をはるかに越えた大遠征となり、それは輸送能力上も陸軍の能力上もムリであり、コストに引き合うメリットもなかった。 『舞鶴市史』 〈 …イギリスは、大正六年に地中海、南アフリカ方面へ日本海軍の出動援助を懇請して来たので、これに応じ駆逐艦を主体とした第一、第二、第三特務艦隊が編制され、遠く地中海、アフリカ方面で運送船の護衛に従事した。 この第一特務艦隊には南シナ海、インド洋に派遣されていた支隊が充てられ、日進、春日、筑摩が属した。また新高、対馬は遠く南アフリカに分派された。後には吾妻も加わった。第三特務艦隊はオーストラリア方面に出動したが、それには筑摩が加えられた。これらの諸艦はいずれも舞鶴海軍を代表する軍艦であった。地中海方面には第二特務艦隊が出動したが、駆逐艦が中心で、その中には舞鶴海軍工廠建造の楓などが加わり、後に日進が追加された。 〉 フランス北東部の都市ソアソンの惨状。交通の要衝だったため多大な被害を受けた。写真は、18年6月ドイツ軍が陥落させたときのもの。夏にはまた連合国側に奪還される(『朝日クロニクル20世紀』より。キャプションも) 都市の面影がまったくない。人間文明の根こそぎ破壊。地獄というのこういう所であろうか。近代戦の地獄を見せた最初の戦争であった。万単位での殺戮であり戦争に巻き込まれれば兵隊はいくらでも必要になる。キミも行かねばならなくなることだろう。 そんなことよりもということで、極東側でドイツの東アジアの拠点青島要塞を英と共に攻撃する。青島要塞は4300名の要塞守備隊とドイツ東洋艦隊がいた、艦隊は封鎖を警戒して早く本国へ向けて出航していた。旅順要塞の白兵の銃剣突撃戦と異なりここは徹底して砲撃戦を行った。最新鋭世界水準の攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、重火器による砲撃により要塞を無力化した。皮肉なことにこれらの砲はドイツのクルップ砲の国産化改であった。飛行機や水上母艦なども投入している。八日目に要塞は堕ちた。 あとは太平洋上赤道以北のドイツ領の島々。ビスマルク諸島とかあるが、あのあたりの島々のドイツ権益をいただいた。 《ロシア革命とシベリア出兵》 大戦途中にロシア11月革命(1917)が勃発、平和とパンと土地を!を掲げた革命政権は早速帝国主義の領土分捕り戦争から離脱し無併合無賠償民族自決の即時停戦講和を提示して、独と単独講和協議に入りロシア帝国が交わした外交秘密文書を公表しはじめた。 軍国主義(独墺伊の三国同盟)と民主主義(英仏露の三国協商)の戦いだなどとカッチョよく言ってはいたが、所詮は帝国主義国同士の領土再分割戦争であり、そのために一千万近い人々が死んだことがバレるし、東部戦線にいた独墺の大軍が西部戦線に回ってくる、早く露革命政権を倒してもう一度戦争に加わって欲しい。こうして始まるのが「シベリア出兵」である。 もともとが社会主義革命干渉目的の大義名分なき多国籍軍、今の言葉で言えば国連決議にも基づかない、すなわち国際社会からは承認のない有志国連合、「邪悪な連合の愚かな同盟」と「あの国」は呼んでいるもの。 (この呼び方は何も出まかせを言っているだけではなくある程度は根拠があり事情を知る人々の共感を得るので急速な勢力の拡大しているよう。→(『京都新聞』より) 元々からあの地にはなかったものなら有志国が望まずして生み出したものかも知れない、地元民でないヨソから理念だけで集まった集団ならその運動は過激で喰っているので、超過激となろうか。しかし無辜の人を捕らえて殺したりすれば全世界の支持を失うことになる。これらは別としても、空爆ではもちろんのこと自衛隊派兵などの陸軍派兵でも泥沼で撤退しかならない、敵味方中立の識別ができないのは当然として、他国なのだから、日本がどうこうと支配できるわけもなく、結局は負けにしかならない、その途中アホすれば、火に油を注ぐことになり、むしろその過激派を広げてやることになりかねない。 ワレラには錦の御旗がない、正義の味方ではない、有志国連合の攻撃は国際社会、すなわち国連だが、その承認がないし、第一領土のあるシリアが反対している。真の国際社会と協調したいのなら、ここは武力攻撃やそれへの援助などはできない。いかに暴れていても、ここで暴れている限りはどうにもできない。有志国とはお金持ち国のことであって、ここから利益を吸い上げすぎたために当地は貧しく問題が解決できない、問題の火をつけたマッチ国であって、これが火を消すことなどできるはずもない。 カレラの主張が実像か虚像かは別としても、仮にそのつもりはなかったとしても、そのように受け止められるととんでもない危険が国民に迫るかもしれなくなる。「あの国」だけでなく世界には似た者も多く、その浸透面積は日本の何倍にもなるとか↑、このあたりもよく計算に入れて、アメリカ一番の子分のような顔して出来もしない強がりを言ったり、他人の国へ行って「アメリカの正義」(テロと変わらぬことも隠れてしているそうであるが)を一方的に信じ、相手の言うことを聞きもせずに、振り回して正義の人ズラをしたりはしないで、思わぬ火の粉が降りかからぬよう十分のゆとりを見た慎重な冷静な対応でなければなるまい。) 言葉を代えただけで実態は何でもない帝国主義国連合、ご宣伝ほどには立派なものではない、それに日本も加わり、今の言葉で言えば集団的自衛権行使して、帝国主義に仲間入りして始めたのが、シベリア鉄道を占拠して、あわよくば傀儡国をでっちあげて列強を出し抜き日本権益をザ・バイカル(バイカル湖の向こう側の意味)はもとよりオムスク(西シベリアの州都、中心都市・シベリア鉄道の要・金鉱がある・一時コルチャック政権のオムスク政府があった)あたりまでの西シベリアへも広げようとたくらむ戦争が「シベリア出兵」(1918~1922)であった。 有志連合の各国は地理的にムリで限定出兵で1万を超すような派兵はないが、日本は口先だけは限定、実際は少兵ではミヤゲがありませんがなと全面出兵であった。錦の御旗がないため特務機関はそれをデッチ上げるために狂奔した、軍の正義感を信頼し期待していた者はそのあさましい姿を目の当たりにして深く失望し憤激したという。諜報機関などこうした権力の犬は正義の味方ではない、これが犬の仕事であって、何も仕事がなければ勝手にデッチ上げる。 帝政ロシアの農奴制は19世紀半ばに廃止されたが、農民は地主への依存を余儀なくされた。極端な低賃金・高地代で暮らしは農奴時代と変わらず、多くの農民が都市に流出して工場労働者となった。さらに第1次大戦勃発で男たちは徴兵され、革命前夜の農村は疲弊しきっていた。写真は1900年前後の農村。このころ飢饉が起き、村では屋外に共同の食堂を設けて助け合った。(『朝日クロニクル20世紀』より。キャプションも) ロシア帝国の貴族文化は世界的価値の高い優れたものが残されている、文学にしろ音楽にしろバレーや美術にしろそうである。 偉そうにしているだけでこれといった貴族文化らしいものも残さないどこぞの帝国よりはそのあたりはずいぶんと立派なのだが、それを底辺で支えたそのほかの大多数の庶民一般の生活はまことに悲惨なドンゾコであった。そこへ大戦争、そして大革命である。どちらも人類がこれまでに経験したこともない巨大なもので、今の大半の日本人でも情勢が理解できないしついても行けない大波である。シベリアなど辺境の地方などでは混乱を極め、古い権力は倒れたが、新しい権力はまだこの地にはとどかずで無政府の無法地であっと想像できる。 チェッコ軍団救援とかコルチャック政権への肩入れとか名目をつけてはいたが、そんなことをする気はもとよりなかった。在留邦人保護も名目だがそれもやる気はない、当国に頼まれもしないし当人達に頼まれもしないのに勝手に大軍を派兵し好き勝手をすれば、混乱はさらに深まり現地の感情悪化して逆に邦人に危害を加えられるかも知れなくなる。アフガンなどの極貧地域への軍隊投入と同じで、帝国主義国の派兵のネライが口先はともかくも実際は何かは書かずともわかろう。 欧州大戦に各国とも大わらわ、ロシアも革命騒ぎ、その力の空白期にいわば火事場泥棒的に7万を越える将兵を4年以上も極寒の地に派遣して得たものは何もなく、残ったものはシベリア住民の日本に対する憎悪と悪感情、ソ連はもとよりアメリカはじめ列国の日本に対する不信だけであった。 シベリアのような日本の何倍もある土地を手に入れるといっても、それはかろうじて点と線だけであり、パルチザン側はその線を破壊する、日本守備隊がそれを追って集落に入りシンパと見なして村を焼き村民全員殺害するなどのことが頻発していて無辜のシベリア住民に大きな犠牲も発生していた、どこにもいるものだが、日本軍の威をバックにして好き放題をする日本協力者どももいた。 有志国連合軍がすべて引揚げしまい欧州大戦が終わり独墺帝国が崩壊してもなにやかやとリクツをこねて日本だけまだ駐兵を続けた。ミヤゲがないのである。 これも大敗北の上に世界正義の観点からも恥ずべき歴史なので都合が悪く、日本側ではまず取り上げられることはなく忘れられ、今ではロシアが攻めてきた、ロシアがワルイと言うばかりだが、ロシアが日本国内へ攻めてきたことはないし、攻めて行ったのは日本であった。何が起こってもその責任の多くは派兵した側が負わねばならぬものであろう。 《ウラジオストック出兵》 シベリア出兵の前にウラジオストック出兵がある。陸軍は北満からシベリアに入るが、海軍に関心があるのは何といってもロシア艦隊の基地があるウラジオストックであった。革命直後から在ウラジオの各国大使などから市内不安定につき軍艦派遣の要請があり、まず「石見」「朝日」がウラジオ港に入港した、アメリカは現地の反発を怖れて派遣しなかった。居留民保護が名目だが、それは名目だけのハナシで、ウラジオ市会などから轟々たる非難をあび、即引揚げよと言われても居座り続けた。フネにいても仕方ない、何とか上陸し干渉の実をあげていきたいがナ~ンモ口実がない、その時ちょうど日本人虐殺事件が発生した、日本人商店を何名かのロシア人が襲い、3名を殺傷し金品を奪うことが白昼に起きた。どうせ口実づくりの日本特務機関の謀略だと見ぬ者もないようなシバイであろうか、武力でどうにもならないことは謀略でやろうとするわけで゜、どうせ帝国主義国同士、もしそれを言えば、蛇の道は蛇、オマエもそうやったでないかと言われること間違いなく黙認していた。 「気をつけろ、日本は間違いなく突っ込んでくるぞ」とレーニンはウラジオソビエトに電報を打ったそうだが、その通りであった。 舞鶴はその突撃基地になったが、多少は混乱はしているがウラジオ市は全体としてしっかりしているのでたいした干渉は当地ではできそうにもない。 『舞鶴市史』(地図も) 〈 それ(シベリア出兵)より先、同七年一月、日本政府は居留民保護を口実にウラジオストックに軍艦を派遣したが、同年七月、舞鶴鎮守府所属の駆逐艦朝風もこれに参加した。さらに同八月二日、政府の出兵宣言以降、日本海軍は舞鶴軍港を基地にして陸続とシベリアに進出した。 第三艦隊の主力であり、舞鶴軍港に属した軍艦香取、鹿島はすでに八月、デカストリに進出し、連合陸戦隊を揚陸させ、ハバロフスクから陸上部隊の来着を待ち、同月下旬には舞鶴に引き揚げた。 また、同七年二月には、舞鶴鎮守府に第五駆逐隊が移管され、朝風など四隻の駆逐艦が増強されて第三十一駆逐隊を編制し、同年十一月には海風など四隻の駆逐艦からなる第三十二駆逐隊が新たに舞鶴鎮守府の所属に移り、次いで同九年には、第三十三駆逐隊の天津風など四隻の駆逐艦も加わり、シベリア出兵に対する艦船の増強が行われた。 こうして舞鶴鎮守府に所属や原籍を持つ軍艦(香取、鹿島、三笠)、駆逐艦(第三十一駆逐隊)は、第三艦隊の中心を占め、大挙次々とシベリア各地へ派遣された。また後には第三艦隊は戦艦安芸を旗艦にして強化され、その所属軍港を問わず、舞鶴を常駐基地として作戦行動を進めた。 しかし海軍のシベリア派遣は、海戦は全く予想されず、艦船を利用して陸軍部隊の揚陸、用兵、駐屯地の確保が中心の任務であったので、大量の海兵(陸戦隊)が必要とされ、舞鶴海兵団からの出動が相次いだ。 〉 《尼港事件》 舞鶴海軍墓地にある「尼港殉職海軍将卒記念碑」↓ 側面に 案内板には、 尼港殉職海軍将卒記念碑(伏見宮依仁親王殿下御染筆) 大正9年3月13日尼港(ソ連ニコラエフスク、アムール河口)の臨時海軍無線電信隊長海軍中佐 石川光儀以下43名及び海軍中佐 三宅駿五氏の忠烈を記念するため、海軍部内及び三舞鶴町民等の義援金で大正10年3月13日建立された。 とある。 尼港というのは現在はコニライエフスク・ナ・アムーレというのだそうだが、ナ・アムーレの地名通りにアムール河畔の町である。サガレン州都、人口1万6千、内訳は白人60%、中国人20%、朝鮮人8%などで、日本人は6%派遣兵も合わせて700名弱、日本領事館も置かれていた、鮭が河を遡る夏期の漁期になると季節労働者で3万ほどになった。漁業の基地で、あとは毛皮だろうか、砂金も採れるという。北海道へ流れてくる流氷が生まれる所である。 現地の対日感情は悪い、南樺太は取りくさるし、今度は抜け目なく火事場泥棒で日本が肩入りしているコルチャックなどはひどいクズというではないか、金鉱があって金はあるたのだが、紙幣を刷って刷って刷りまくってそれで支払うという、どこかの国みたいなハナシだが、いつまで持つかわからん政権の紙幣など何のネウチがあろう、それしか払いくさらんという。混乱にますます拍車をかけるだけの大派兵に、何も感情は良くなる材料はなかった。 大正7(1918)年、第一次大戦が終結した年であるが、この町へ舞鎮から「海軍臨時無線通信隊」が派遣された。兵員44名、無線機操作が精一杯で交戦能力はない隊であったという。近辺の無線傍受か、それともほかに何か目的があったのだろうか。 その翌年、ウラジオストックに駐留していた水戸歩兵第二連隊第三大隊の2個中隊がこの町へ転進してきた。総員307名(うち90名は初年兵で鉄砲の撃ち方も知らなかった)、北海道は零下35℃、ウラジオが零下40℃、当地は零下50℃にも下がるそうだが、綿入れにウサギの毛を貼り付けただけの防寒具に鉄砲と機銃4丁だけの軽装備であった。これでは山賊さん海賊さんに襲われても防衛できまい。 大正8年1月トリャピーツィンの率いる約4000名の部隊が日本軍(総勢400名足らず)を包囲した。帝政ロシア軍から寝返った者も武器持参で加わっているので武器はよい、日本軍は大冬将軍の元でスキーもしたことがない温かい土地の部隊でもあり、衆寡敵せず、日本軍は敗れる。 2月6日海軍通信隊は「過激派約百名、電信所をおそう。わが兵四十三名、いさぎよく玉砕す、本電は最後の電信なり。死後のことよろしくはかられん」が最後の電信であった。 トリャピーツィンは元々は日本が懸命に肩入れした反革命コルチャック軍にいた下士官で当時24歳の若者である。革命パルチザンやボリシェビキやソビエトや共産党などとは何も関係はない、何者と問い詰めれば反革命コルチャック政権のくずれで、むしろシベリア出兵の日本軍側に根がある、日本特務機関の飼い犬のクズレのようなものであった。しかしボリシェビキ的なスローガンをまねて掲げたので、情報不足でそれが見抜けない田舎では、われはパルチザンだ、平和だ、帝国主義に死を、労働者よ農民よ武器を取れ、われに加われ!などというカッチョええ宣伝だけで急速に勢力を増やしたが、社会主義革命の理念や理想があるはずもない連中で、規律も何もないヤクザなゴロツキ集団である。親が親で子も子であった。 米帝が莫大なゼニと労力をかけて育てたイラクのフセイン大統領やビン・ラディンとか何とか国の指導者のようなハナシの先行例かも知れない。アトサキ考える見識もない者が敵の敵は味方だ式に、革命イランやアフガンのソ連軍対抗馬を育てるための謀略ばかりやっていると、テロ支援国家とはどこでもない自国のことになり、そうして最後には自分に跳ね返ってくることになる(誰でもよく知っていることだが、米帝の当人どもは己自身とテロとのどこよりも深い関わりは黙っていてトボケている)。 トリャピーツィンの部隊を舞鶴市史でも革命軍としたり、一般にはパルチザンとか過激派とか呼ばれているが、そういう理想を掲げた立派な考えのあるようなものではもちろんない。革命軍とかパルチザンと呼ぶのは間違いである、過激派と呼ぶなら反革命過激派とか極右過激派とか呼ぶのがよいだろう。まことの実態はわかりやすく言えば革命パルチザンを口先だけ真似た火事場泥棒を働く不良山賊とでも呼ぶようなものである。右も左もわかってない不良連中だからおもしろがって何をしでかすか分からない。 この部隊との間で一応は停戦協定を結び、3月11日武器引渡しと取り決めていたが、日本軍はその前夜に夜襲の奇襲をかけ義勇軍や一般邦人もこれに加わった。結局日本人側は大半が戦死し残った者も降伏し投獄された。この間石田虎松副領事一家は自決をとげた。 日本全体がツッコメーでアトサキ考えずに攻勢終末線を越えて突っ込んだのだが、派遣したのは山賊にも負けるような小勢力であった、海は氷結し救出もできない。現地の部隊は、生きて虜囚の辱を受けずで、降伏などもとより許されていないので、武器引き渡しなどできるわけがない。危機に瀕した場合は結局こうしたイチかバチかの作戦に出て全員玉砕しか路はないのである(100名ほどが生き残っていたという)。ナンボ山賊でもこうしただまし討ちのようなことをすれば怒るに決まっていて、ひどい報復となる。兵隊だけでなく一般日本人市民もまたその巻き添えとなったのである。中国砲艦が近くに停泊していたが、泳ぎ着いた日本人を助けてはくれなかったという。すでに全世界を敵に回してしまっていた。中国人は世界で一番多いのだから敵に回したりはしないようにしよう、またもやこうしたことになるかも知れない。 これはのちに南洋の島々などでさらに大規模にして繰り返された全員玉砕の歴史である。尼港虐殺とか惨劇とか呼ぶのも当たってはいるが、単なる感情的な反発ではなく、その真因を全面的によく分析してこそ日本の将来への教訓に生かせ、犠牲者を生かすことにも繋がるのであろう。 やがて解氷期となり、この事件を知った日本軍の救援隊が4月草々から向かうと、その到着前の5月下旬に、監獄に収容中の日本軍俘虜(127名)を虐殺した。また同地を退去する際に市街を焼き払い、一般市民約8000名の反革命とした半数を殺害したという。トリャピーツィンは日本軍からは逃れたが、のちにソビエト軍(ボリシェビキ軍、革命政権軍、レーニンの共産党軍)に逮捕され、人民革命裁判所の裁判をへて7月死刑を執行されたという。 トリヤピーツィン(25)を首領とするパルチザン軍は、1月から二コラエフスクを包囲し、2月には日本軍と休戦協定を結んでいた。3月12日、これを破っての日本軍の奇襲攻撃により交戦となった。ところが7月、ロシア共産党はトリヤピーツインらを、党とは無縁の過激派として逮捕し、死刑に処す。写真は二コラエフスクのパルチザン軍幹部たち。中央で寝そべる白服がトリャピーツィン(『朝日クロニクル20世紀』より。キャプションも) 日本軍はロシア革命政権を倒すためにコルチャックだけではなく、シベリア各地や満州などに存在した多くの反革命の地方政権や、集団にもてこ入れしていた、どれもどうしようもないようなゴロでそれらも一つ間違えればトリャピーツィンと似たようなものに転げ落ちるかも知れない。 得たいの知れない電報など飛び交い現地日本軍を混乱させている、全体にフに落ちない事件で、軍司令部がアトサキも見えないよほどのバカぞろいであったか、それともその特務機関がわざと仕組んだ謀略であったかも知れない…と思えたりもする。 この「尼港の惨劇」は、名分なきシベリア出兵継続が困難に陥っていた時に、「うまい具合に」発生したもので、日本では待ってましたとばかりに大々的に宣伝された。事件の真相は知らされることはなく、ただ「元寇以来の国辱」とか、コワイ共産党、コワイロシアとばかりをいい、そら言わんことかと、シベリアでの戦争作りに狂奔しシベリア出兵の必要を説く軍部などには大いに利用された。軍部特務機関の当時の宣伝をそのままにそんなことを今だに一部では、大部分ではかも知れないが、深く迷うこともなく信じている国民もあるとか言うからそれはうまく宣伝したようである。 こちら方面の戦史研究はあまり進んでいない様子だが、今もっても真犯人を見逃してはいないか、許していいのであろうか。 ワイツゼッカー氏のように言えば、「日本国民全員誰もが負う罪」の一つであったかも知れない、戦犯だけが悪かったのですか、わずかな数の戦犯だけであれだけの戦争ができたのですか、あなた自身にも責任の幾分はなかったのですか、の問題である。そうしたことで、近い時期の歴史は我が身に降りかかる問題で客観的に分析しにくくなり、向き合いにくいものでもある、古い時代の歴史はもう今とは関係はなく何を言っていてもいいが、この現代史時期になれば、そうはいかない、時代の限界から解放されて真実を究明しようとする研究者はそれだけの覚悟を持って進めてもらいたい、百年後というのはちょうどよい時期と言われる。過去の戦争に感謝してまたまた戦争したいと願う連中は日本にも実際に一杯いるし、世界にはさらに一杯いて、実際に地球上から戦争はなくなってはいない、戦争は現実の問題で、過去の話ではない、戦史研究者に寄せられる期待は大きい。「過去に学ぶ」ということはそうしたことであって、過去に学んで、どこかの国を憎んだり、また戦争したろかい、などということではまだぜんぜん学んでない証拠、あるいはタメにするニセ歴史に影響を受けていることである、当サイトを見ても、間違ってもそうした考えは起こさぬよう切にお願いしたい。 「尼港事件」に少し先行するが、許さないゾという大事件が平行して次々と起きていた。いよいよ現代史に入ってくるが、そうした全体像の中で、この事件もとらえ直すことが求められるかも知れない。 『舞鶴市史』 〈 (尼港事件) このような状況の中で、当時、全国に有名になった尼港(ニコライエフスク)事件が起こった。ニコライエフスクは、黒竜江の河口、左岸にある小都市であるが、大正九年三月、この地の日本守備隊、領事館等が革命軍(パルチザン)の襲撃を受け、海軍部隊約四○人、その他領事館員、在留邦人約六○人が厳寒の中で孤立し、全滅した事件である。 この事件を知った陸海軍当局は、同年四月、陸軍は旭川師団に救援行動を命じ、海軍は舞鶴鎮守府に所属し、在港していた軍艦三笠、見島に出動を命じた。両艦は五月、小樽港に入り陸軍部隊を護送して、北樺太のアレキサンドロフスクを占領、居留民を見島に収容して、ニコライエフスクに向かった。六月三日、救援隊は市街に入って日本軍全滅の状況を知ることができた。この軍事行動には第三艦隊の大部分が参加し、舞鶴軍港からは見島、対馬、第三十一駆逐隊などが加わり、その中心勢力となった。 ニコライエフスクで孤立全滅した海軍部隊は、大正七年、舞鶴鎮守府内で編成された無線電信隊で、下士官、兵はすべて舞鶴鎮守府に属していた。したがって、この惨劇は海軍関係者だけでなく、一般住民をも悲しみと憤激の極に追いやった。 なお、同事件で殉職した舞鶴鎮守府所属の海軍中佐石川光儀以下四三人および軍令部員一人の〃忠烈〃を後世に記念するとの趣旨で建てられた記念碑が中舞鶴の共楽公園裏手の旧海軍墓地に現存している。この碑は海軍部内および三舞鶴町、その他各種団体、個人から義損金が寄せられ、大正十年三月十三日に建立されたものである。 ニコライエフスクを占領し、そのまま保障占領が決定したが、同港では冬営が不可能とみられたので、アレキサンドロフスクに押収軍艦と共に引き揚げ、臨時防備隊を残し、艦隊は内地の各港に帰港した。こうしてニコライエフスク事件に伴う海軍の行動は終わり、また海軍のシベリア沿海州での大きな作戦もまずこれをもって終了した。 このように大正七年八月から始まったシベリア出兵は、四年余の間に出兵人員延べ一○万人(うち死者三、○○○人)軍費約九億円を費したが、なんら得るところはなく、同十一年六月、政府は撤兵を声明し、同年十月、シベリア本土からの撤退を完了した。ただウラジオ港に対する警備艦の派遣は、大正十四年、日進の撤収をもって打ち切られるまで続いた。 〉 同じ大正9年(1920)秋に琿春事件(間島事件)が起きている。豆満江に沿った琿春で日本領事館が襲われて日本人警官らが殺害された事件であった。当地は中国領間島省で、中国軍の警備を破って行われたものであった。日本側は朝鮮独立軍によるものとしてその報復に周辺の「不逞鮮人」6千以上をほとんどが無関係にも拘わらず虐殺した。 どうやら真相は日本側の謀略であったらしく、日本側に買収された馬賊が犯人でなかろうかと言われる、この事件を口実にして間島に出兵しようとたくらんだとみられている(日本側が認めるわけもないが、中国や朝鮮側ではそう見ているという)。 《米騒動》 米騒動(大正7・1918) シベリア出兵が引き起こしたとされる国内での大事件。それは「騒動」とかいうものでない、「騒動」など呼ぶのは世の役立たずのクソどもが付けた名である、ここではカッコは付けないが、この騒動は日本社会を根本から揺さぶり、今に続く現代へと更新する社会の空前の大脱皮になった。ムシケラのように見られていたがここから一般大衆が歴史のオモテに全国規模の大集団となって登壇してくる。革命と呼ぶにはムリかも知れないが、日本初めてのプロリタイア+小ブルジョアの民主主義革命的な様相も見られたもので、フランス革命、ロシアの三月革命の失敗に終わった日本版であったと将来は位置づけられるかも知れないような重要な意味を持った「騒動」であった。 舞鎮では8月13日に総司令部の直下で発生したが、それはすでに書いているのでそちらを参照「米騒動-舞鶴の場合-」 日本のシベリア出兵宣言は大正7年8月2日であった、欧州大戦がほぼも終末を迎えようとしていたときに、アメリカとのウラジオ派兵の合意ができ出兵となった。アメリカ7千、日本1万2千で日本主導、ウラジオ限定としていたが、日本は初めから守る気はなく、のべ10万人を越えてシベリア全面の干渉戦争へ突き進んだ。 これを見越して大手中小商社その他米小売商など諸々が先手を打って米の買い占めを始めた。戦争が始まれば何もかも値上がりし手に入りにくくなってくる、すべて買いである、持てる者にはボロ儲けのチャンスである。それまでから労働者数の増加で米の需要が高まっていたが、半分は半封建的な寄生地主の豪農政権なので自分らの保護のために外米輸入の関税は引き下げなかった、タイ米などの輸入米もこの時期同じような暴騰であった。 持てる者には千載一遇のチャンス到来であるが、貧乏人には大ピンチが到来した。大戦は日本に好景気をもたらしたが、それには政府のインフレ策も伴っていたので庶民の実質収入は戦前に比べて70%ほどに落ちていた、そこへこの米価はじめ諸物価の暴騰だから、生活は超苦しくなる。実質戦前の半分以下になってしまった。 戦争大好き人間はそのあたりのことは言わない、何か国民はベタっと一様な物のように言うが、階級社会なのでそういうものではない、戦争でボロ儲けをするのは金持ちだけ、買い占めるカネを持たない貧乏人には何もいいことではない、仮に勝っても生活水準が半分になることが歴史は教える。負ければ70年前に経験した通り、残飯シチューが食えたら幸せの生活になる。重税に+して物価の騰貴と品薄で、勝っても負けても庶民には地獄である。一般大衆には戦争によって得る物は何もない。 数%とかわずかに上がるだけでも庶民には大変であるのに、この時の米価暴騰はそうしたレベルではなかった。 米が不作で不足していたのではない、例年より僅かに悪い程度だったが、この頃が頃の端境期になるが、そんな時に戦争が始まるとなり、とたんに米価は2倍になり、取引所では立会中止が相次いだ、従って数ヶ月の米価統計がない。近代経済学の需要供給のあの関係式からは説明がつかない。ここまでの暴騰の原因はいろいろと考えられるが、やはり第一は投機目的の米の買い占めによるものとされる。さらに戦争が続けばどこまで跳ね上がるかわからない。地主豪農も米を売らない、それどころか米を買うという始末。人殺しすることしか知らない政府は効果ある対策を取らない、暴動を鎮圧したあとでも値上がりが続いて、さらに3倍近くまでになっていく。 憂国者きどりで「国民を守る」とか言っているクソ連中も知らん顔。金持ちと日頃ソンケーされている連中はワレが儲けがためのだけの必死。そうしたクソの仲間ではない普段常識あるええ人でも床下に十俵とか買い占めて隠していた、悪徳商社も顔負けしたというからもう世の中全体が狂っていたのである。今でも地震などあれば水が消えるとか何かあれば必ず何かが買い占められるが日本人のワルイところ、火事場泥棒して儲けるという気はないようだが、南海沖大津波や原発大事故などあればどれだけのモノが買い占められるか、何を買おうが勝ってで合法でござると、皆が困っている時のそうした国賊企業はもちろんとして個人にも行きすぎは法整備をして即逮捕買い占め商品没収の方針で対処すべきであろう。 これは貧乏人は餓死せよということになる。誰がこの貧乏人の危機を救うのだろうか。誰かできるものがあったであろうか。どいつもこいつも喰う物の問題すら解決できないドクズの役立たずの貧乏人のカタキばかりではないか。「輝かしい明治」の流れを受け継いだ日本社会はそうしたものだということが誰の目にも明らかになってしまった。買い占めたヤツとか隠しとったヤツとかいうそうした小物はおくとして、「輝かしい明治」以来の政府支配層はもとより、それだけでなく政治行政を司る誰にも一般民衆の生活にに目が向いていないという問題、国民生活不在の「輝かしい…」が問題である。実際の国民生活を見もしないで、ロマンチックだなぁと50億円もの血税をほかす姿勢が問われるのである。10万市民を抱えた都市の姿勢とも思えないような軽薄なナンセンスなエエかげんなセンスしかない頼りなさすぎる行政姿勢が問題なる。 シベリア出兵直前の7月23日、富山県新川郡魚津町の漁民の妻女で沖仲仕をしている婦人たちが県外に移出する米の積み込みを拒否したのを皮切りとして、同県海岸の町村一帯に、出かせぎ漁夫の留守をあずかる妻女らを中心に男もまじえて数十人あるいは数百人の集団が、資産家・米商人・町村役場などに対して米の安売、生活困窮者の救助、米の県外移出禁止などを要求して押しかけ大声で抗議したという。これが米騒動の発端であった。 当地は1897年(明治30)5月下旬にも、米騒動が最初に発生したたところで、富山県魚津町にはじまり、8月から10月にかけて石川・長野・山形・新潟・福井の各県10ヵ所に及んだという。その前の米騒動1890年(明治23)1月18日も、このあたりで最初の烽があがり、4月から9月にかけて、鳥取・新潟・福島・山口・京都・石川・福井・滋賀・愛媛・宮城・奈良の各府県19地点に騒動が発生したという。これらは不作による米価の暴騰だったが、そうした伝統の地がこの時も最初の火ぶたを切っている。 「魚津・米騒動発祥の地」 これが「越中の女一揆」として、新聞で全国に報道された、ハナシは何も富山だけではない、全国民の怒り沸点に達していたので民心は大いに動揺したという。 クソどもがこんな困っとる時にボリくさって、、ワシらのトコでも同じだ。ガマンならんと、 まず京都市であった、8月10日の夜、京都市柳原の被差別部落民が蜂起、12日まで毎日市内数ヶ所の被差別部落民を中心に一般貧民を合した数千人が米屋を襲ったという。 名古屋市も10日夜、鶴舞公園に数万の市民が集まり、多くの労働者・職人・小商人らの米価引下要求演説のあと米穀取引所を襲い、17日まで毎夜同様な大衆行動が続いたという。 この両市の騒動を皮切りに15日までに全国主要都市にいっせいに騒動が発生。特に大規模なものが発生したのは、京都(官憲側見積りによる群衆数1万)・名古屋(13万)・大阪(23万)・神戸(3万)・東京(5万)・和歌山(1万)・横浜(1万)・広島(1万)・岡山(5千)・呉(3万)・高松(1万)・門司(2万)などであったという。 都市の騒動参加者の主力は、自由労働者・職人らの前近代的労働者層で、関西では、被差別部落民が先頭に立っている所が多かった。群衆は米屋に対し米の安売を要求し、米の投機商人・米穀取引所を襲い、富豪に対しては救済寄付金を要求した。相手がこの要求をいれぬときや、ふだんからあくどく大衆に憎まれている場合には、家を打ちこわしたり焼いたりした。(これは岡山の焼き討ち↓。ここはどうであったか不明だが、警官は止めず、消防士は放水しなかった、あくどい商法で皆に深く恨まれていた所が打ち壊しや焼き討ちにあった) 海軍工廠のある舞鶴と呉(8.13参加者は数万人といわれ、軍隊3千が出動して鎮圧、死者3 )ではそこの工場労働者が騒動の主力となったが、その他の所では賃上げ争議をおこして、ストライキ数は8月中だけで108件におよんだという。 8月中旬からは農村・地方都市と炭鉱地帯に波及。農村では地主・小作人の対立のはげしい所、貧農の多い都市周辺地帯でおこり、地主や米商が襲われる。 炭鉱地帯8・17、山口県宇部炭鉱と福岡県峰地炭鉱にはじまり北九州各地にひろがり、9・17福岡県明治炭鉱でおさまった。その多くは賃上げ、待遇改善、米価引下要求のストライキが会社側や警察の挑発的態度によって暴動化したものという。 7月23日から9月19日まで54日間に、東北3県と沖縄をのぞく1道3府32県、368ヶカ所に暴動がおこる、南関東より北九州にいたる表日本地帯にとくに集中しているが、その他の県でも群衆行動のおこらなかった所はほとんどない。比較的重大な騒動の発生は33市104町97村に達していて、直接参加民衆数は官憲の推定でも少なくとも70万、おそらくは数百万とされている。 軍閥政府は警官を出動させたが、都市・炭鉱の場合はほとんど意味はなく、逆に多くの警察署や派出所がおそわれた。そこで京都市を皮切りに全国60ヵ所に軍隊9万が動員された。このため各地で市街戦が発生し市民に死傷者が続出した。8月14日に新聞報道が禁止されたことも騒動の終結を早めた。検挙者は数万人、起訴されたもの7、708、死刑を宣告されたものは2名以上あったという。 軍が出てくるとどうしょうもない、菊の紋章の入った銃を持つ天皇の軍隊だから、逆らえば間違いなく国賊になる。 敵国にでも米輸出している商人などと比べてどちらが国賊だかわからないようなことだがどうしょうもない。 アメでは皇室に恩賜金を要請し、300万円を各府県に配ったり、米価対策費として1000万円を出すとの声明を出したり(実際は400万円)、さらに富商に米の廉売を求めたりしたが、その場しのぎの策に終始した。 日本近代史上空前の大衆決起で、このため寺内内閣は9月21日、総辞職し、かわって原敬のひきいる政友会内閣が成立した。 この後、男子だけだが、普通選挙などの選挙権の拡張、その他ある程度の政治的自由の拡大をみることになる。以後労働者・農民・水平社・婦人・学生・普選運動などいっさいの大衆運動・社会運動が開花し、日本の現代史の幕が上がる。 世界史的には、翌年の三・一朝鮮独立闘争、五・四運動などと関連して、ともにロシア革命の波動の一つをなしていて、資本主義社会の全般的危機が日本においても始まったことを示すものであった、とされる。帝国主義がその国内の内側からも包囲されたことを示す。 《三・一朝鮮独立闘争と五・四運動(大正8・1919)》 朝鮮・中国に反日の大嵐。舞鎮にチョクにはあまり関係がないので、超簡単だが、 第1次世界大戦後に世界各地で高まった民族解放運動で、民族自決が認められ、東欧などでは多くの国がこの時に墺帝国などから独立しているが、それは朝鮮、中国でも例外ではなかった。日本統治下の朝鮮での天道教の孫秉熙ら「民族代表」による独立宣言書の発表は、たちまち全土に抗日運動を呼び起こし、朝鮮近代史上最大規模の民衆決起となる。3月から5月まで3ヶ月間に全朝鮮211部で1491件の蜂起が発生し数百万が参加した。労働者はストで学生は同盟休校、個人商店は一斉休業した。 3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動の坩堝と化した、特に農村部の運動が激しかった。1918年に終了した朝鮮土地調査事業によって、朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとなっていた。大戦中に日本工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がなされ、朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちは面事務所(村役場)を襲い、土地台帳や作物の供出簿を焼き捨てたという。この年あたりから土地を奪われ生きる方便を失った貧しい朝鮮人農民の日本移住がいっきに増加する。 独立文は 吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。… 上海で成立した大韓民国臨時政府は、代表をパリ講和会議に送り、韓国併合条約の廃棄と日本の植民地統治の非道を訴えた。 挙族的な抗日運動に危機感を抱いた朝鮮総督府は、軍隊・警察を動員して苛烈な弾圧を行う。運動参加者数は200万で、死者7500、負傷者16000、逮捕者数47000という。 村民を教会に閉じ込めて放火し虐殺した「堤岩里事件」は29名を虐殺、近辺の死者1千名。「天安事件」ではデモ隊に発砲20名死亡、朝鮮のジャンヌダルクと呼ばれた柳寛順が逮捕され獄死、「定州事件」デモ隊に発砲120死亡など。 しかしアジアの民族自決は帝国主義列強は認めることはなかった。アフリカや中近東とかもそうであって、現代に続く問題を残す。 多くの犠牲者を出したが、その影響は巨大であった。日本の植民地支配者には深刻な打撃を与え、学校教師が帯剣して授業することや憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが、集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して「文化政治」を唱えたが、三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動、農民、女性、青年などの運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は、三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになったという。 3月5日付東京朝日新聞に掲載された朝鮮女学生の行列。1月22日に死去した前皇帝・高宗(李太王)は、日本に毒殺されたという噂が飛び交い、独立運動の機運が高まっていた。運動は、高宗の国葬を翌々日に控えた3月1日に始まった 〝騒擾″を警戒する騎馬憲兵。運動は各地に展開したが、市など人の集まるところで街頭行進をするという非暴力運動が主だった。しかし、朝鮮総督府はこれを徹底的に弾圧した(『朝日クロニクル20世紀』より。キャプションも) 中国では北京の学生が決起し、日本商品のボイコットや大規模な街頭行動に発展する。5月4日北京の学生がまっさきに決起し、デモのあと親日派高官曹汝霖邸を焼き打ちした。15年の対華21ヵ条要求、18年のシベリア出兵を機に満蒙辺境を基地化する軍事協定を中国に押しつけた日本と、それを容認した中国軍閥政府に対する民衆の怒りの爆発であった。 これを契機に排日運動が全国に拡大し、日本商品ボイコット、労働者・商人のストライキとなって展開した。 怒りは、日米英の密約により山東半島の権益を日本に譲渡するとしたパリ講和会議の決定と、日本からの借款と引き換えにそれに同意した北京政府に向けられた。知識人・学生たちの行動と労働者・商人・農民の大衆行動が結合した五・四運動は、ついに曹汝霧らの罷免、講和条約調印拒否を政府から引き出した。 19年5月4日、天安門前に集結したデモ参加者たち。これを機に抗議活動は、急速に国民運動に発展する。北京政府が大量逮捕の弾圧で挑むと、運動は反政府的色彩を強めてさらに高揚する。各地で罷市が起こり、上海ではゼネストに匹敵する状態となった(『朝日クロニクル20世紀』より。キャプションも) 《海軍軍縮と舞鎮閉庁》 これは世界史的な流れによるもので、主には外からの力によるものであった。帝国主義の勝手な大暴走に世界各地でブレーキがかけられた。これまでにはない規模の巨大なブレーキであった。大きな大きな犠牲の上に、ようやくたどりついた、当地でのその現れが、海軍軍縮と舞鎮の廃止であった。 戦勝国がアメリカ、生まれたばかりのソ連、そうした国々が戦後の世界秩序づくりをリードする。ウィルソンにしろレーニンにしろ、まず平和であったし、全世界の世論が強くそれを求めていた。 (『舞廠造機部の昭和史』より) 全世界で軍は深く恨まれ、平和に寄与するものなどとは誰にも考えられていないものになった。世界平和のためにと大幅軍縮と国際連盟が成立した。日本はその五つの常任理事国の一つであったから、その先頭に立って誠実に責務を果たすべき立場にあった。 メシのタネが減るなどとは言ってはおれない。千人ほど原発に務める者がいるから、8万5千舞鶴市民はじめ全国民、全人類、全生命の安全安心は無視して、関電さん大儲けの再稼働に文句はつけないとか、どこぞの市や府のような超無責任な姿勢は許されない。軍事や原発関連ではない安全安心の産業を興して行かねばならない、そうした世界市民としての責任もまたわれら舞鶴の全市民も平等に負っている。カンコーカンコーと言うが観光にしても、平和と友好が大前提である。憲法の精神に反するようなカンコーであってはなるまい。 いくつかの国で、過去をケロっと忘れてしまい、過去の教訓にさからい、若気の至りで血気にはやり無分別な行いをはじめるまで、しばらくの間は続くことになった。 |
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《参考》関連情報「明治舞鎮」 |
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【参考文献】【引用文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他Webや観光案内などたくさん |
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