槙山
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京都府舞鶴市白杉・青井・神崎 京都府加佐郡四所村・神崎村 |
槙山の地誌《槙山の概要》 舞鶴湾口の西側にある高い山(標高483m)で、今は頂上にテレビの中継アンテナなどが建っている。ここの電波を受けている茅屋からもよく見える山である。 マキヤマというのは何を意味する山名かわからないが、恐らく金属と関係があるのではなかろうか。阿仁の真木山銅山とか巻向山とか、これらは有名な鉱山であった。 舞鶴の槙山にも鉱山があった。『舞鶴市史』は、 〈 白杉鉱山 金ヶ岬南南東の海岸にある。10米内外の二本の坑道によって、昭和三十一年ごろ採掘されていた。接触交代鉱床で、鉱石は、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、黄鉄鉱などである。 〉 槙山が北の海へ落ち込む岬を金ヶ崎と呼び、白杉神社は旧称が蔵王権現。南の青井に鎮座の結城神社は、古名を伊吹戸社(伊吹部神社)という。 さらに、像高23センチの薬師如来像が安置されていて、ここの水を持ち帰ると目と耳に御利益があるという“たたり薬師さん”もある。 これだけあれば古い時代からの鉄の山と見て間違いはなかろうと思われる。 槙山は東に舞鶴湾の入口があり、西は由良川の河口である、北に日本海を睨み、軍事的にはきわめて重要な山でもあった。 明治30年金ヶ崎と対岸博奕岬を結ぶ湾内には軍港規則による制限をうけたが、白杉の横波鼻と長浜の捻松鼻を結ぶ以南の海面(西舞鶴湾)は、第3区として艦船の自由停泊が許された。 明治31年四所村と長浜村の共有であった戸島が軍港の消毒予定地となり、白杉分4反2畝20歩が買い上げられて同38年完成した。同33年槙山砲台と金ヶ崎砲台が完成(金ヶ崎は昭和9年撤去)。同年白杉北方の谷地に舞鶴湾西岸諸砲台のための弾薬本庫を構築したが、大正12年廃止された歴史があるという。 そんな軍事基地の山でもあった。現在も自衛隊の何か、レーダーだろうか大型通信アンテナだろうか、↑写真のようなものがある。下からもたいへんよく目立つ。 《槙山登山》 舞鶴要塞の砲台跡がこの山の頂上に残されている。 『京都の戦争遺跡をめぐる』は、 〈 槙山砲台 美しい眺望の地として、ハイキングコースになっている槙山には、一九○○(明治三十三)年に砲台が設けられ、二十八センチ砲六門と十五センチ砲四門が設置されました。ここでもコンクリートの台座などを見ることができます。また舞鶴湾の沖に浮かぶ冠島にも砲台が置かれていました。 〉 →白杉の集落を通り越したところあたりに、こんな看板がある。ここから登る。 車で頂上まで登れる。普通の車で行ける。 この看板によれば頂上まで4.900mという。 →登山道と呼ぶべきか、かつて頂上の砲台へ物資を運んだ軍道を使っている。 全線舗装されているが今の道路規格のように親切にはできていない。 一発では廻りきれないヘアピン。見通しは悪く、カゲしたの方へ傾いた路面。 一台が一杯一杯の道幅。 対向車が来たらどうしょう、どうもならんな、どうか来ませんようになどと祈りながら登る。 勾配はきつくはないが、しかし落石はゴロゴロ。倒木はあちこちで道をふさぐが踏みつけて進む。濡れ落ち葉でタイヤは滑る。ヤバイな、ここらでもう引き返そうかと思ってももう引き返せない、車を回転できる場所がない。進むより道はない。 しかし上の方へ行く程に道は次第に快適になってくる。木々が茂ってなくて明るくなってくる。 ここが頂上。 槙山砲台頂上にはテレビの中継アンテナも何本かあるが、何と言っても異形なるものはこれらである。槙山砲台の跡である。東西方向へ伸びる痩せた尾根筋上にこうしたレンガとセメン、石を交えた建物跡が直線に並んでいる、弾薬庫かと思われる。どこに砲座があったのかよくわからないが、たぶんこれらのレンガ建物の間のひらたくなったところではなかろうか。 写真で言えば建物の入り口は青井側、反対側が正面で神崎側を向いている →内部を覗いてみる。 どなたかバーベキューでもされたのか、コンロや流し、冷蔵庫まである。 まあ火事にならぬよう、してもよかろうが、ゴミは持ち帰るべきだろう。山を愛する者が山を汚してはなるまい。 当初の装備は、28センチ榴弾砲×6門と15センチ臼砲×4門だったという。砲口は360度どの方向へも撃てそうであるが、砲台の位置からは舞鶴湾口は見えず、たぶんそれよりも由良川河口を主に向いていたように思われる。想定した敵軍(ロシア)が攻めてくることも幸いなかった。早く撤去されて高射砲に取り替えられたと思われるのである。 ↓28センチ榴弾砲(『日本の要塞』(学研)より、下の写真も)。日露戦争の旅順要塞攻撃に使われて有名になった砲である。日本各地の要塞から何門も何門も取り外されて、はるばる旅順へ運ばれた。明治期の最強の攻守城砲であったが、日露戦争後は第一線から退いた。ご覧の通りのずいぶんとクラシックな形をして、すべて手動で操作する。おいおい大丈夫かいなと心配になる。 しかし日露戦争では活躍した砲であった。莫大な犠牲を払ってようやく203高地を占領し、そこに観測所を置いて旅順軍港内にいたロシア旅順艦隊の戦艦・巡洋艦などを、この28センチ砲で砲撃している。戦艦「ポルタワ」(10960d)の上甲板に命中、弾は甲板を突き破り火薬庫内で炸裂したようで同艦は大爆発を起こし、上甲板まで海水が浸水した。そのほかの戦艦や小船にいたるまで大破、撃沈し、造船所なども徹底的に破壊した。 ↓クラシック性では、もっと驚くのが15センチ臼砲。砲身は安価な青銅製であった。のちに鋼製の物もつくられたというが、槙山にあったのはどちらかかわからない、ということは青銅製ではなかったかと思われる。青銅製砲身、幕末期の話のようなことである。 日露戦争も後備師団などはこれを引っ張っていって満州でロシア軍相手に戦った。これしかなかったのである。明治陸軍は兵器の国産をしたかったのであるが、日本には銅だけは豊富であった、それでこんな骨董品が作られたのだという。 こんなものが槙山砲台には据えられていた。元々がロシア海軍が攻めてくると想定しての要塞で、こうしたものであった。 これら砲身が短い砲は曲射砲と呼ばれるもので、弾丸は直線的に飛んで行くのでなく、大きな山を描いて飛び、比較的脆弱と言われた艦船の上面に墜ちてくるわけであるが、そうなると命中させるのがたいへんに難しい。狭い港湾内でウロウロしているのはいいが高速艦船にはまず当たらない。今の自衛隊艦船に付いているようなレーダー砲が欲しいが、そんなものはなかった。その後もこれらの写真の明治期の砲からあまり進歩はなかったという。 海上から攻められることもなかったのでよかったようなものの、もし攻められたなら、「攻撃こそ最大の防禦」と考え、守ることなど頭にないので、要塞は実戦経験がなく演習もあまりしていないく、秘密基地だから兵隊が要塞そのものをあまり知らない、たぶん役には立たなかったと思われる。微々たる戦果でも上げられたら上等ということではなかっただろうか。軍隊だからと何でも上のほうだけにしてヒミツヒミツと言っているとこうした落とし穴におちる。全兵士がすべてを熟知していない限りは勝てない。 明治陸軍は相手が国内を向いている、国内の反乱軍を想定して作られた、元々は外征用にはできていない、外国の軍隊がどれほどの装備を持っているかなどは意識していない、これで強陸軍国を相手にすると勝ちはない。今の陸自でも同じ想定で外へ出れば勝ちはない(それでよろしい。アメリカのケツについて出て、オンタイが勝てない所でも日本は勝つと、一般国民でも信じているモンもある、ベトナムでアメリカは負けたけど、日本なら勝つかろで、とか。敵を知らず己を知らずの一部のバカな国民がそういっているのはまだよいとしても、近頃は政治屋のトップのバカどもまでそのように信仰しているようで、アメリカがやられているのに、日本が助けられないのはおかしい、とか。アメリカがやられているのに、日本が助けられるわけがないではないか。横綱がやられている所へ十両が出ていって、しかも赤子程度の頭しかない政治屋の指揮で勝てたりはすまい。)。 『市史編纂だより』に転載の昭和20年11月18日付朝日新聞記事によれば、 槙山砲台は、10年式12センチ高角砲4門、25ミリ単装機銃1基、13ミリ単装機銃2基を備え、電波探信儀室には3式1号電波探信儀、TM軽便無線通信機各1組があっただけ。という。 10年というのは大正10年のことのようで、ずいぶんと旧式のもの、それから20数年の後の舞鶴空襲時には確かにまったく「役に立たなかった」と思われるが、それを据えたと思われる大きな穴ボコらしきものはここに残されている。 同じものだが高射砲は陸軍の呼び方で、高角砲というのは海軍である。艦載されることもある砲で、この砲を連装化機械化したものは赤城とか加賀とかの古い空母などにも載せられていたという。その旧式砲、たぶん人力で動かすものをここの陸軍が使っていたのであろうか。市民風にいえば「言えんけどなぁ、竹ヤリとあまり変らん程度のもんや。こんなもんでB29がたったの1機たりとも堕とせたりするもんかいな」と思われる。 槙山からの眺望周囲に高い山もないので眺望がよい山である。登り口の看板にも「スカイ・スポーツのメッカ」などと書かれていたが、槙山はハンググライダーやパラグライダーの飛行基地にもなっている。砲台跡のすぐ裏や表に木製の「滑走路」(本当はどう呼ぶものか知らないので)がある。神崎あたりの下の方からは、彼らが飛んでいるのを何度も見かけたことがある。 こんないい日和だが、この日は誰もいなかった。メッチャ気持ちよさそうで面白ろそうにも思える。私もやってみたい気持ちになるが、怖いような。 ↓同じものだが、見やすい方を 槙山の主な歴史記録《丹後国加佐郡旧語集》〈 槙山。青井村ト裏表也高山也。山上ヨリ文珠成相切戸ノ景見ユル。 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 彼の寺々より見渡せば則わち金ケ崎を限り内海の磯辺山々谷々山畠の案山子異形に拵らへ物謂わねとも猪鹿を守る 出入の船は風に従がいて帆を挙げ風に向へば軸艫を立て力を出し玉の汗を流す有様目前に見へて海陸の要用滞うることなし適無双の景地なり 横波の松の景三穂の松原とやいわん、ねもとを揃へみぎわにそだち、とうとうたる波に根をあらはせり、されども垂れ葉色潤わしくみへ鳧ケリより千代のためしにや 真木山の霞も晴れて青井、雲日和、吉田の三つケ嶽年取嶋とはその昔、細川越中守忠興豊前国小倉とかやへ国替してまいしに幽斎ここにて越年し出船ありし故により年取嶋とこれを云う 町人百姓名残りを惜みまたいつの世に大君と暇ごひとて喜多村の武部の晴嵐烈しくも宮崎の御神へ富貴を祈る、上福井上をまなぶや下ふくい、一本松はいつの代の、ねの日に植えしためしにや、めまつにいつか大野辺の波も豊かに納まりけり 〉 《舞鶴市史》 〈 槙山砲台 白杉・神崎間の半島中央部、標高四二○メートルの峯が槙山である。明治三十一年十一月、築城工事に着手し、同三十三年十月竣工した。備砲は二八センチ榴弾砲六門と、一五センチ臼砲四門の編成で、前者は三十四年五月据付開始、四十一年九月完了し、備砲費は一二万五二○○円であった。後者は三十三年七月据付開始、同年九月これを完了し、備砲費は八、五○○円であった。二八榴は二門を一砲座とし三砲座で、砲座中心間隔は三○メートルである。砲座間および両翼に積土の横墻を構え、横墻および翼墻の下は、地下砲側庫である。砲床および胸墻は、コンクリート造で、胸墻の高さは二メートルである。砲座の後方に地下弾薬支庫および掩蔽部を設けてある。横墻および左右の翼墻に隣って、各一個の小隊長位置が構築されている。火砲の首線はNW○度三○分、射界は三六○度である。第三砲座(左翼)の西方一○メートルに、観測所を置き、さらに西北方七五○メートル、標高一五○メートルに、槙山砲台低地観測所を設けた。低地観測所には、観測所付属室・廠舎・厩を付属構築した。 一五臼砲の首線はNW三十度であり、二門ごとに土塁を廻らし、所々に土塁上に登る階段を設けた。若干の補助建物を付属していた。本砲台の付属建築物として、弾廠・兵舎・監守衛舎・砲具庫・装薬調製所・炸薬填実所・炊事場・厠・貯水所などを備えた。眺望絶景の地である。(略) 金岬砲台 舞鶴湾西岸の突端が金岬である。明治三十一年七月、築城工事にかかり、同三十三年二月竣工した。クルップ式三五口径中心軸二一センチカノソ砲四門と、クルップ式三五口径前心軸一五センチカノン砲四門編成の砲台である。二一カノン砲は、三十二年十一月備砲を始め、三十三年十月これを完了し、備砲費は一七万六、七○○円であった。一五カノン砲は、三十三年十一月据付開始、三十四年五月完了し、その費用は九万八、五○○円であった。両砲台とも、昭和九年三月、要塞整理処理要領に基づいて撤去され、火砲は予備兵器に編入された。 下安久および白杉弾丸本庫 下安久弾丸本庫は、舞鶴湾東岸の諸堡塁砲台のため、舞鶴市下安久の谷地に構築された。白杉弾丸本庫は、舞鶴湾西岸の諸堡塁砲台のため、白杉部落北方の谷地に構築された。下安久の弾丸本庫の大きさは幅五・五メートル、長さ一○・九メートルであり、下安久火薬本庫は幅五・五メートル、長さ二九・二メートルで、他に火具庫、火工所をもっている。白杉弾丸本庫の大きさは、幅七・三メートル、長さ九・一メートルで、火薬本庫は幅七・三メートル、長さ二七・一メートルであり、繋船場・糧食支庫(五・五メートル×一四・五メートル)・番入舎を付属している。弾丸本庫および火薬本庫の基礎および床は、コンクリート、腰は煉瓦、木造亜鉛板葺きで、避雷針をのせている。 〉 関連項目「建部山」「舞鶴要塞」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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