舞鶴要塞は、舞鶴軍港防衛のため永久の防禦工事をもって構築された鞏固な陣地のことで、要塞には沿岸に近づいた敵の艦船や上陸部隊を攻撃するための砲台が、いくつか配備されていた。
日本国内には十ヵ所の要塞が設けられ、舞鶴要塞の完成は明治35(1902)年11月であった。
当初、砲台(堡塁砲台)は舞鶴湾入口の東側に葦谷、浦入の二ヵ所、西側に金岬、槙山、建部山の三ヵ所、さらに舞鶴の東の吉坂峠に一ヵ所、そして舞鶴湾の最先端にあたる博奕岬には電灯(探照灯)が設けられていた。
これらの砲台に弾薬を供給するために、下安久と白杉にそれぞれ弾薬庫がつくられた。
日中戦争がはじまり太平洋戦争へと拡大する中で砲台は次々に増設された。これらの砲台の管理や運用、また要塞内の防衛は陸軍が担当し、陸軍舞鶴要塞司令部と重砲兵聯隊が上安久に設けらた。
↓舞鶴要塞の砲台位置(『日本の要塞』(学研社)より)
さてそのようなことで強いはず、勝つはずと誰もが疑うこともなく(愚かにも頭から)信じていたのであったが、実際に敵軍がやってきて戦争となって、これら要塞が実際に火を噴いて戦うこととなってみれば、縦横無尽に飛び回る敵機をなすすべもなく見上げるばかりで、戦果は敵機撃墜数ゼロの完敗、0敗であった。
これらはクチばっかり、カッコウばかりで中味がなかったのでないのか。−の疑問が湧いてくる。
舞鶴空襲時、私のオヤジは今の東山(舞鶴市浜)の防空壕に避難して、その扉の割れ目から大編隊グラマン戦闘機群が東の空からやって来るのを見ていたそうで、「東山の上にも1つ高射砲があった、山の上に穴があいとろうが、あれがそれや。それが撃った、1発だけやけどな。そしたら1機だけ引き返していった。あれは被弾したんかもしれんなあ」と言っていたが、戦果はそれくらいのものであったかも知れない。
米軍側の記録によれば、この舞鶴空襲で対空砲火により空母インデペンデンスのグラマン艦上攻撃機1機が撃墜され3名が死亡した。同日の
宮津空襲ではコルセア1機が撃墜され1名が死亡した、という。宮津は文珠の国道上に墜落したため市民も知っているが、舞鶴はどこへ落ちたものか誰も見た者がないようである。オヤジが見たのが案外にそれだったのかも知れない、空母まで引き返すことができず、どこかへ墜落したのかも知れない。
要塞は過去のものではあるが、今の問題としては、たとえばこれらは市や市教委や大センセどもが言うような「舞鶴のシンボル貴重な近代化遺産」なのか、彼らはどうした頭脳の持ち主なのか、本気でそのように考えているのかわからないが、そんな事を言っている。あるいはそれとも「張り子の虎」の役にもたたない狂気の大無駄遣い、将来二度と繰り返すことがあってはならない「戦争の負の遺産」、非論理的大愚行の超貴重なシンボルなのだろうか。
「郷土の誇り・民族の誇り・世界の誇り」 として偉大な物と自負してよく、人類史上に普遍的な価値を有する世界遺産であって当然の、世紀をこえた大感動物、大ロマンに満ちた先祖達の鼓動が伝わる、どこか懐かしい、文化財なのか。
若い、というか若すぎる人達なのだと思えるが、そうした若い人達が戦争に少し興味を持つのは悪いこととは言えないが、しかしそう美化しただけでは済む物では決してない。わずかばかりのいい面だけを強調しすぎるそうした幻想というのかモーソウに陥ってはなるまい。悲惨な過ちの戦争そのもの、戦争の本質をよく考えてほしい。死者だけでも2000万人もが犠牲となった戦争であった、われわれはそうした彼らの死をもらって今の時代を生きている。なぜ彼らが死に、我々が生きているのか、何のために死に、何のために生きているのか、つらいだろうがもっともっとしっかり向き合ってほしいと願う。
どちらが正しいか、答えはあまりにも明確で、子供でもよくというのか、一応は承知しているとおり。今更に言うのもアホらしいようなことでもあるが、これら「近代化遺産」なるものが、日本国民ならびに近隣諸国などの人々をどのような結末に導いたか、その歴史に学べばすぐわかろう。せめて引揚記念館でもみてこられれば、サル頭でも多少は理解はできようものではないか。一応は普通の日本人ならそうした戦争観を、世界観をもってはいる。憲法にも書かれているし、学校でも習うはずの知識である。しかしあくまでも一応は、ということであって、苦労して自分で掴んだ本当の知識や智恵ではなかった。血となり肉となったしっかりと身についた智恵ではなかった。本に書かれていた知識の丸覚え、あるいはウロ覚えでしかなかった、知っているつもりという程度のものでしかなかったように思われる。
クソ役人ならびにクソセンセどもの考えは木だけを見て森を見ない、美化ばかりで戦争は人類に対する最大の罪悪だというクソ大事の「戦争と平和」の史観をまったく欠いた一方的な議論ばかりの超未熟児的なものでしかない、しかもセンセらしく経済観念もゼロで、そこから一歩も出ない、暗に市などから依頼されたヨイショ役でそれに学問的権威を被せて小遣い稼ぎをしていだけのようなものであるが、公的機関たるものが何のためにそんな歪んだアホクサイ見方を宣伝するのか知らないが、たぶん市役所脇の赤レンガ整備の予算がしっかり欲しいためかも知れない。
しかし市民としてはしっかり森の全体も視野に入れながら国際的な視野からも捕らえなければなるまい。
「レンガなど、市は観光、観光言うてますけど、ひどう人の来るようなもんやないと私は思いますな。ベルリンのレンガとか言うて並べてありましたけど、ここらのレンガと同じでね、どこのレンガやいうてもレンガだけのもんですわ。あんなもん誰がわざわざ見にきますや。200円も取りよんで、こんなもんに高いやないかと、受付の女の子に文句いいましたんや」。赤レンガ博物館のことであろうが、200円ではない、確か300円である。
「いやね、カンコーカンコーと市などは一生懸命のようですけどね、京都とかそんな所は案内できても、舞鶴を案内できる観光バスガイドなんかおりませんのや」、と口ばっかりで現場にうとくお寒いばかりのカンコー行政をバス運転手はいう。
路線バスも電車の時刻とあってないとよく聞くが、ただ走っているというだけのものをずっと走り続けさせている。こんな事はどこへ言ったらよろしいんやなどとも聞かれるが、それは市でしょう、莫大なゼーキンも投入されているんですから市が指導すべきことでしょう。
市職員は、特に幹部職員は全員交代で現場に、第一線に出して汗水垂らして働かせるべきで、こうした事は決して怠ってはならない。そうした制度をつくるべきと私などは考える。
乃木さんは己が参謀を大事にしすぎてタマの飛んでくるように現場には決して派遣はしなかった、第一線を視察した参謀は誰もいなかったそうで、そんな指揮官の戦争では勝ちいくさは決して望めなく、莫大な将兵が旅順攻略戦で犬死したのであった。「指揮者先頭」。役場でぬくぬくしていれば、市民は困る、即首を切るくらいの決断をしてくれ。
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〈
この警告でもあきらかなように、第三軍上層部の者たちには、第一線将兵に肉弾突撃をくり返させながら、自らの身の安全を守る風潮が濃かったのである。
さらに、かれらのあやまちは、それだけにとどまらなかった。司令部の参謀たちは常に司令部内にいて、第一線を視察したものは榊原大佐以外皆無と言ってよかった。乃木も参謀長伊地知幸介少将も、最前線におもむいたことはなく、敵状の判断はすべて第一線の青年将校たちにまかせていた。
そのような不可解な司令部員の行動は満州軍総司令部にもつたえられていて、噂通り司令部内に参謀全員がとどまっているのを眼にした児玉は、激しい憤りを感じた。
「よいか、参謀というものは全軍の作戦指導にあたるものなのだ。それが第一線の情況に暗いようで、参謀の仕事ができるか。なにをぐずぐずしておるのだ。すぐに前線におもむいて敵状を視察し、戦況を報告せよ」かれは、苛立ったように命じた。
参謀たちは羞恥に顔をあからめ、数名の参謀が即座に前線視察に出発することになった。
かれらが敬礼して司令部を出ようとすると、乃木が席を立ってかれらに近づき、
「第一線には危険が多い。十分注意して行くように……。身の安全を心から祈っている」と、手をさし出し、慈愛のこもった眼で参謀たちの顔を見つめた。
児玉は、その情景に眼をいからせた。たしかに乃木は心の優しい将軍にちがいなかった。かれは、部下が第一線視察に出発することを気づかって握手している。しかし、第一線に配属された将兵は、銃砲火を浴びながら突撃をくり返し、累々とした死体となって横たわっている。それは、司令部のあやまった作戦指導の犠牲になったもので、それまで第一線視察すらおこたっていた参謀たちの責任といってよかった。
その参謀が第一線にむかうというのに、「身の安全を祈っている」と言って握手をしている乃木の行為は、児玉に理解できなかった。
児玉は、乃木の指揮者としての能力が全く欠けていることをはっきりと知ったように思った。かれは、部下の身を案ずる余り、危険な第一線の視察を命じようとしなかったのだろう。そして、作戦も各師団の自由にまかせ、軍司令部内でも、参謀たちの意見に左右され決断を下すこともなかったにちがいない。
乃木は人情の厚い男にはちがいないが、軍人ではない。そのような乃木の性格が、多くの将兵を死に追いやったのだ、と児玉は思った。
乃木は、一人一人にかたい握手を交している。
児玉の怒りは、爆発した。
「そんな所でなにをしておるのか。早く第一線へ急ぐのだ」
児玉の怒声に、参謀たちは直立不動の姿勢をとると、司令部の外に走り出ていった。
〉
吉村昭氏の『海の史劇』の一部。
乃木さんは吉田松陰に幼児の頃に可愛がられたという伝説の人なので、長州の陸軍では大事にしたのか知らないが、どこかの町役人どもともよく似たようなことであった。児玉は乃木の先輩で、彼が替わってくれ、彼の指揮でようやく旅順は落とせたのであった。バルチック艦隊が迫ってくる直前のことであった。
舞鶴でもコンビニができすぎるほどにできている、えっ、まだ建てるの、そんなに建てて儲かる見込みはあるの、いよいよ先も見えんようになったんやろか、ますます呆けがきとるんと違うかと市民達はあきれながら言っているが、クソ田舎の小さな町に30軒もが24時間営業して似たような商品を売って少ない客を取り合いすれば、まもなく共倒れの理屈もわからぬ親方日の丸のクソ役人の小児病が舞鶴経済人にも蔓延しはじめた様子にも見える。不振の従来型の小売店に代わりコンビニは百貨店の売り上げを超して「小売店の革命児」と持ち上げられるが、それは数も少なく、珍しく良いものと写り、商品が高価でも売れる初期のうちの話であって、誰もが開店し始めば、従来の小売店と同様の運命がそこに待っていることであろう。第三セクター方式の営業が倒産のニュースが流れれば「コンビニと同じくらいの考えしかないでね、ちょっとヨソが良いとすぐマネするやろ、同じようなモンをどこでもここでも作る、作りすぎなんや。客が無限におると思とるやろが、増やしすぎれば共倒れ」などと市民はいう。
コンビニは個人の物だから、税金とは関係がないので好きなだけ建てて貰えば何も文句をいう筋合いはないしアイソもよいのでいいが、限りある資源の無駄遣いはするなと言えるくらいである。しかし税金は別である。「民」の苦しみなどは考えもしない、気が付きもしないアホ、本当の意味の深い深い救いのない大アホであろうが、そんな者に限って文化だ、さらに来る者など当てもなく、さほどネウチがあるとも思えないのに観光だなどと、大無駄遣いするものである、サービス精神もなくニコッともしないようなアホらしいような者どもを置いていてカンコーカンコーと言っていても、たてえ来てくれても一回きりでそのあとは誰も来はしないであろう。その筋ではいう「安物の客」、金を落としてくれない客、少額しか落としてくれない客の相手だけでは商売としては成り立たない。「よいお客様」がたくさん来てくれないことには商売とはいえまいが、そうした戦略もないように見える。
こうした連中は仮に多少の文化的貢献があったとしても歴史家にはバカ者と呼ばれる。「民」を第一に考えないような為政者は結局はバカなのである。何とか党の宣伝のようだが、それとは関係はありません。
後世の史家たちに大バカ者と呼ばれないように考え改めるときであろう。軍事にたよる大バカの次くらいのバカであろうか。
今を生きる者としてはこの点の判断を添えて未来へ手渡さねばならない「遺産」である。これらははたしてまたも莫大なゼーキンを投入して「舞鶴の誇り・シンボル・ブランドとして観光資源化」できるものなのか。
戦争は観光か、行楽か、娯楽か、物見遊山の感動かの道義的問題はともかくとしても、そもそもペイするものであろうか。もし道義には反する、ペイもしないでは納税者は大バカを見るだけである。コヤツらが手前で不始末のケツを拭くわけではないので、ツケはすべてこちらに廻される、この厳しい時期に納税者たる者は誰も傍観者たるは許されない、厳しくさらに厳しくもっともっと厳しく見なければなるまい。しっかりと自分の頭で思考し、明るい郷土の未来を切り開こうではないか。
以下もう少し詳しくみる。
説明のないものは資料は『舞鶴市史』による、その市史は「日本築城史」(1971)などからの引用という。
現在の舞鶴税務署(上安久)の位置に設けられ、明治33年4月に開庁した。重砲兵聯隊(現日星高校)の西隣になる。
労基署、税務署、警察官宿舎と並んでいるが、このあたりと思われる。→
〈
要塞司令部の任務は平時においては、舞鶴要塞の防御計画を立案し、要塞備え付けの兵器及び堡塁を管理、軍需諸品を整備し、あらかじめ地方官と協議して、戦時における軍隊の宿営給養及び公共の保安に関する事項を計画し、一方、要塞地帯内の土地変更、地方建造物の監視のほか、写真撮影、地図作製などに関しての検閲の業務を行う。
また、戦時においてはあらかじめ計画された防御計画に基づいて、舞鶴要塞砲兵大隊及び戦時に配属される部隊を指揮し、海軍と協同して敵の攻撃に対して舞鶴軍港を掩護するにあった。
〉
↑舞鶴重砲兵大隊(舞鶴市・昭和3年) 明治31年創設の同隊営門。現在の日星高校の場所にあり、舞鶴海軍とともに大きな役割をはたした。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)
↑大正初期の舞鶴重砲兵大隊(京都府誌から) 日清戦争以後、ロシアとの対戦が濃厚になり、海岸防備が急がれていた。明治30年3月、舞鶴軍港の着工と年を同じくして、陸軍も11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と葦谷砲台の起工を行った。同隊は、当初、倉谷の東山寺で業務を開始したが、明治31年11月に、現在の日星高等学模敷地に営舎の一部が完成したので移転。同隊は、要塞防御守備や戦闘に当たるための厳しい教育と訓練を積み、日露戦争にも参加した。同40年10月、隊名を舞鶴重砲兵大隊と改称した。さらに、昭和11年5月舞鶴重砲兵連隊に昇格。第二次世界大戦にも参加し、終戦を迎えた。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)
今の日星高校(上安久)のある所が跡地で、校門は当時の聯隊の門をそのまま使っている。上の要塞司令部の東隣になる。『舞鶴史話』は、
〈
舞鶴重砲兵大隊
今、日星高等学校になっている建物は元舞鶴要塞砲兵大隊として建ったものでした。同大隊ができたのは明治三十年十一月二十二日で同犬隊の戦歴としては北清事変と日露戦役に参加、出征したというに尽きます。戦争を放棄した今日としては同隊のもっていた任務だとか歴史だとか戦歴等を詳細に書く必要を認めませんので、左に歴代の大隊長名だけをわずかに褐記するに止めます。(略)
〉
過去がそのように切って捨てられるとよいし、もしそうなら市民は何も苦労して歴史を学ぶこともない、まことに都合のよい話になり我国は歴史なき国ということになる。歴史の古さを誇っていたのではなかったのか。
過去は現代と関係がないものではない、表面では見えなくとも今に生きていて、将来にまで生きるものである。過去は単に過去ではなく現在でも未来でもある。過去を忘れることは現代の大事な一部を忘れることであり、「過去を忘れる者は未来も忘れる」ことになる。
しかし戦争の過去は大変な過去であり、どうにもならない負の遺産でもある。こうした会いたくない過去に向き合った場合には、それに堪えるだけの力が無いとそれを切って捨てたり、あるいは逆ギレしたり、妄想へと逃避することもよくある。都合よい一部分だけを取り出して、あたかもそれがすべてであるかのようにも考えてもみる。いずれもよく見られる思考パターンであるが、一つのか弱き哀れなる精神の自己防衛機能なのかも知れない。
少なくとも歴史と呼ぶからには、ある程度は客観的で科学的学問的な段階に達している認識であろう。だから歴史認識などというからには、誰が見ても、自国民だろうと他国民だろうと、ある程度はまあまあ納得のできる水準のものであろう。「隣国を踏みつけておいて何を偉そうに言うとるんじゃ。アホは言わんほうがええ」などと自国市民にも非難されるような「歴史認識」を空幕長ともあろう者がしゃあしゃあと言い、それが懸賞一位論文になるという国はやはりどこかがだいぶにどうかしているのであり、史話とは逆の立場でやはり歴史に向き合えないお子ちゃま国のようである。戦う以前にすでに負けている、というかすでに脳味噌が死んでいる状態である。これでは勝てるはずもなく未来はなかろう。
過去像をしっかり学ぶことはいつまでたっても誰にとっても大切だが、厳しく強い科学精神が求めらると思われる。戦争世代も我々のような戦後世代もできなかったものである。「ワシらもみんな死んだあとが、本当の戦後やろ。その時代が新しい本当の戦後日本だろうな」などと同級生などは言うがそうかも知れない。問題の空幕長氏も同世代で、同世代人としては彼みたいなのは例外というか変わった者と思うけれども、彼ほどではないとしてもこのように戦争を客観的に見ることはわれわれも実は出来なかった課題であった。次の世代に期待するより方法もない。あわてる必要もないので落ち着いて過去と出会って下さい。
『京都の戦争遺跡をめぐる』は、
〈
舞鶴重砲兵聯隊
舞鶴税務署の東隣、私立日星高校の敷地は、一八九七(明治三十)年に創設された陸軍舞鶴要塞砲兵大隊(後に舞鶴重砲兵聯隊に発展)を引き継いだものです。重砲兵聯隊は京都伏見に司令部のあった陸軍第十六師団に所属して、舞鶴要塞の防備と防空配備、兵員の補充などを任務とし、太平洋戦争にも参加しました。
日星高校の正門は、陸軍時代の面影をそのまま伝えていますが、このほか同校の西側裏門にも、赤レンガ貼りの門柱が残っています。
〉
『舞鶴市史』は、(図も)
〈
舞鶴要塞砲兵大隊
舞鶴軍港の建設が開始されるのに呼応して、陸軍も沿岸防備の拡充をいそぎ、明治三十年十一月、第四師団管下の砲兵大隊第一中隊の事務を余内村字倉谷の東山寺で開始、このため淡路島の由良要塞砲兵大隊から簡抜された基幹要員約八○人の将兵が来鶴して創立を推進した。越えて同三十一年十一月二十六日、同村字上安久に営舎(現日星高等学校)の一部が完成したので移転し、翌三十二年十一月八日、始めて大隊編成(大隊本部と一個中隊)が成り、さらに同三十三年十一月二十四日、大隊平時編成(大隊本部と二個中隊)となった(写真21則及び図23)。じ来、同隊は要塞防御守備や戦闘に当たるための厳しい教育と訓練を積んだ。
明治三十七、八年の日露戦争にも参加し、三十七年八月の遼陽会戦には第二軍に属して首山堡攻撃に、同年十二月には沙河の戦闘に加わり、また翌三十八年三月の奉天大会戦には第四軍に属して勇戦よく健闘し、第四軍司令官野津道貫大将から感状を授与された。
同四十年十月、隊名を舞鶴重砲兵大隊と改称したが、同隊の変遷を「舞鶴重砲兵大隊沿革史」によって記すと次のようである。(略)
〉
『舞鶴市史』は、
〈
舞鶴重砲兵連隊(上安久)は、終戦時、舞鶴に約六○○人が在隊、新井崎、浦入、芦谷の各砲台や冠島に配備され、舞鶴軍港の警備に当たっていた。終戦直後の一時期、砲台の一部では兵器を隠匿して再起に備えようとの動きもあったが、これは事無く収まり終戦処理に入った。連隊配備の加農砲は砲身を三個に切断して砲床に格納、また野砲、高角砲等も砲床に格納して進駐軍の接収に備えた。また銃器や軍隊手帳、兵籍名簿、戦歴簿、身上調査書等の関係書類は営庭で焼却処分にしたが、被服類はおおむね被服庫に保管し、後日、配給に回された。将兵の大半は二十年九月十四日、十五日にかけて除隊、復員したが、将校、下士官兵の一部は兵舎や火薬庫等の警備のため十一月十四日まで残留した。
これより先、外地派遣部隊の引揚げ開始に伴い、陸軍関係を担当する山陰上陸地支局が十月二十一日、敦賀から同隊跡へ移り、舞鶴上陸地支局と改称して営舎の一部で業務を開始した。なお、同支局が二十一年三月、厚生省舞鶴引揚援護局へ吸収移転後は、同月、財団法人聖ヨゼフ学園が旧兵舎と敷地の大部分を借り受けて日星高等女学校と同幼稚園を開設、二十二年四月には新制中学校も開校した。また旧衛戍病院は聖母病院として経営した。
なお同部隊の演習砲台跡(下安久)約四万一、六九九平方メートルは二十七年三月、市立匂崎公園に、練兵場跡地(上安)約三万二、三六七平方メートルは舞鶴総合職業訓練枝(現京都職業訓練短期大学校)になった。
〉
葦谷砲台
(舞鶴市大丹生)
舞鶴湾口の東側、博奕岬の南側、国見山などと呼ばれているが、そこに設けられた。当初の装備は、クルップ社製28センチ榴弾砲×6門であった。
火電ができる以前の瀬崎峠の狭い峠道から西の方へ入る道が分かれていて、そこを行けば砲台跡へ行けた。その当時は車で行けたのだが、今はどうなっているのかわからない。
〈
葦谷砲台
舞鶴市大丹生より瀬崎に至る道路の左側二○八メートルの高地に、明治三十年十一月起工、同三十二年八月竣工した。クルップ式二八センチ榴弾砲六門編成の砲台であった。備砲は三十二年五月着手し、三十三年三月完了した。備砲費は一九万三、一○○円であった。砲台の構造は横墻を界して、二八榴二門ずつを配置し、首線方向NE五度、射界二三○度である。砲座は直接岩盤を利用して、コンクリートを打設しない。胸墻は高さ一・二メートルの間知石積みで、その上部に、勾配一分の一、高さ四メートルの積土を行って土塁とし、砲座から積土上に登る階段を設けた。左右両側の横墻上に、観測所を造った。各横墻の下部は、地下砲側庫(幅五メートル、奥行一三メートル、高さ二・四五メートル)となり、アーチのコンクリートの厚さ一・二メートル、側壁は煉瓦積みである。砲側庫上部の積土の厚さは四メートルである。砲側庫の外周には、割栗石及び砂を置き、排水の処置をしている。構造物の面壁は、煉瓦積みが多く、土留めには石垣を用いている。(略)
葦谷砲台付属構築物として、砲座・砲具庫・監守衛舎・厩・弾廠・弾廠火工所・掩蔽部・砲側庫・貯水所・観測所・観測所付属室などがあり、草谷砲台補助建設物としては、火薬本庫・火兵庫・監視衛兵所・厠・弾丸本庫・炊事場・繋船場(弾丸本庫および火薬本庫は舞鶴下安久に構築)がある。また葦谷砲台戦備工事として実施したものに、炊事場・調理所・糧食庫・浴室・厠・回光通信所・砲台長位置・指数板位置・塁道送弾路・天然貯水所などがあった。補助建設物の大部は木造建築であった。弾廠・弾廠火工所・砲兵庫の床は、コンクリート造りであり、監守衛舎・厠の腰は煉瓦積みであった。
弾丸支庫は木造揚床であり、その外壁は煉瓦造り、屋根は土居瓦葺で屋上に避雷針を設けた。繋船場は長さ一二メートル、幅三メートルの間知石積みであり、深さは中等水位下一・八メートルである(略)(図19)。
〉
榴弾砲は必要がなくなったか、もともとが役にも立たない骨董品的ボロ砲だったのか撤去されたようで、そのあとにボロの高角砲が据えられていたようである。
『市史編纂だより』に転載されている昭和20年11月18日日付朝日新聞によれば、
〈
〔博奕砲台〕舞鶴軍港の人口を扼していたとはいえ、3年式8センチ高角砲3門、8センチ高角砲装填演習砲1門、96式25ミリ単装機銃2基を備えていたのみ。
〉
という。
3年式というの大正3年のことである、時代物でかつ超貧弱、この砲は600発で砲身寿命という。使い物にならないからここに捨てて置いてあるような感じで、これらが座っていても実際に戦場となったころにはもう要塞などと呼べるようなものではなかったように思われる。
浦入砲台
(舞鶴市大丹生)
『京都の戦争遺跡をめぐる』は、
〈
浦入砲台
大浦半島の西端、現在の大丹生小学校の南東の丘の途中に砲台が設けられていました。戦後は占領軍によって撤去されましたが、今でも砲座跡などを見ることができます。
〉
↑↓の文書資料によれば大丹生神社(山王宮)の裏山のようで、猿がいる山のようである。上の地図はそのだいたいの位置。
しかしここは浦入ではなく、この砲台については資料によっていろいろと異なる地点を書いている。「築城史」自体も下の説明と地図とでは違う地点をドットしている。『舞鶴の近代化遺産』や「舞鶴のれんが建造物マップ」には写真が添えられているので、これが正しい位置かもわからないが、それによれば「築城史」の地図の位置である。↑
もっともよく似た建物跡はあちこちに残されているため見間違えもあり得るが、なにしろ私は行ったことがないのでどこが本当の位置かはわからない。
〈
浦入砲台
葦谷砲台の南方約二、六○○メートル、標高三二メートルの地に、明治三十一年六月起工、同三十二年二月竣工した。備砲は、スカ式一二センチ速射カノン砲四門で、三十四年四月、据え付けに着手、同年九月完了した。
第一砲座には、七・五メートル間隔を置いて一二力ノン砲二門、第二砲座にも、同様に二門を配置し、首線方向はNW八七度三○分、射界はおのおの一二○度である。両砲座間と右翼に横墻を設け、左翼の横墻としては、山脚を利用している。砲座後方は、斜坂として、一旦通路に下り、通路からさらに二メートル階段を下れば、地下砲側庫の床面に達する。地下砲側庫は中央横墻下に一個、右翼横墻下に三個を設け、幅五メートに
奥行九・五メートル、高さ二・七メートルで、窮窿コンクリートの厚さ、一ないし一・五メートル、脚壁煉瓦の厚さは一・一八メートルで、外周には砂を置いて、地下濠透水を源過して利用するようになっている。地下砲側庫は弾丸補給庫、材料庫、棲息掩蔽部として利用し、砲側庫の奥に、大正四年地上に達する換気孔を増設した。砲側庫上部の積土の厚さは、四・五メートルである。砲座胸墻は、コンクリート造とし、高さ一・八メートル、その前方は五分の一の傾斜で下がり、砲に俯角を与えるように構築してある。
浦入砲台に属する構築物は砲座・弾廠・監守衛舎・砲具庫・側・掩蔽部・砲側庫・観測所・貯水所であり、その他砲台補助建設物として、弾丸支庫・軽砲格納庫・装薬調製所・井戸・倉庫・火薬本庫・火具庫・厠・監視衛兵所・弾丸本庫・炊事場・繋船場がある。浦入砲台の戦備工事としては、患者集合所・糧食庫・浴室・調理所・倉庫・厠がある。
弾丸本庫および火薬本庫は、葦谷砲台と共用の下安久弾丸本庫である。弾丸支庫は煉瓦造、貯水所はコンクリート造り、その他の多くは木造である。本砲台は海軍用地に接し、交通路の一部は、海軍用地を使用した(略)(図20・21)。
〉
斯加式速射加濃砲はフランスのシュナイダー社製。
→『日本の要塞』(学研社)より。同書によれば、明治31年に購入契約が結ばれたという。当時フランス製の砲は優れていたという。
『市史編纂だより』に転載されている昭和20年11月18日付朝日新聞記事には何も書かれていない。たぶん何もたいしたものはなかったものとも思われる。
先に次のような導入記事があるので引いておこう。
〈
…こんどこれらの砲台が厚い覆面を脱いだが〃開けてびっくり玉手箱〃で、各砲台とも装備の貧弱なのには、驚かされるとともに、高角砲ばかりで要塞砲は一基も無いという有様である。明治20年、鎮守府設置予定と並行してここの要塞が設けられたのだが、今日まで半世紀に及ぶその間、軍備縮少の影響もあったとはいえ、これといった設備はなにも無かった。ただこれらを守るのに重砲兵連隊(後の中部71部隊)がおかれ旧式の全くの形だけの要塞砲がおかれただけであった。
北の要塞として強化され出したのは、大東亜戦争に突入してからである。海軍の面目にかけてあくまでも守り抜かねばならぬとあって、その後急激に増加した兵員がこれに使われ、砲身を分解して数百尺から1千尺に及ぶ山頂に引き上げ、本土決戦に備え長期の籠城を覚悟して1年分ないし3年分もの糧秣が運ばれていた
(中略)。
しかし、これらの命の綱と頼む高角砲にしても8.9千メートルの高空へは達しない。若狭湾へ機雷投下のため9千メートル前後の高度で東から西へのコースをとって来襲するB29の編隊をいつも頭上に見送ったまま、どうにも手かつけられなかったほどである。
〉
日露戦争当時の菊の紋の入った長い38式歩兵銃を担いで米軍相手に戦争したのであるから、それよりも古い明治の榴弾砲や加濃砲でも使う気持ちでいたかも知れない。舞鶴砲台は明治35年完成、従って日露戦争(明治37・1904)以前の日清戦争(明治27年・1994)時代の要塞であり、備砲であった。日清戦争で清国からの賠償金二億両(三億円、現在の円に換算するとだいたい300兆円)の大部を当てて作られたものである。
日露戦争の戦費は二十億円(現在に換算すれば2000兆円くらいか)当時の国家予算の8倍に当たったという。今の財政赤字の優に2倍はあった。二億両も焼け石に水、どうにもならない額にのぼっていた。要塞砲などは当面は更新できるはずもない財政破綻かと思われる。戦争はとんでもなく高くつく、その超高価なツケはすべて納税者に廻される。超深刻な財政破綻の上、予備兵力も使い果たした陸軍がもう一戦がヤバイ状態、海戦に大勝利した機会に講和にしようとする訳だが、今度は日本の民衆は講和反対と暴動を起こした。ロシアも暴動状態であったが、こちらの民衆は即時和平を訴えていた。日本民衆が他国民衆と較べて戦争と平和の問題に未熟といわれる状況はもうこの当時からすでにあったようである。今もそうなのであろうか。カイゼンされたかな、コイツら大丈夫なのかと市や市教委殿など横目に見ながら、そんなことを心配しながら書いているようなことである。
『宮津市史』は、
〈
日露戦争の戦費は一八億円をこえ、約七億円近くを外債で賄ったほかは増税と国債により、これも庶民に重い負担となってのしかかった。とりわけ国債は、郡・町村を通して各家々に割り当てられて消化されていった。明治三十九年三月には、日露戦争の後始末のために臨時事件公債二億円を募集し、従来と同じく各村への割り当てにより消化が図られた。だが戦争終結後の募集であったことから、上宮津村組長会では割当額九二○○円の半額四六○○円を辞退する旨の請願書を提出している。その理由としては、@村の総地価八万円のうち二万六○○○円が他町村持ちとなっている、A韓国に渡来者が続出している、B三十八年の米作が二割以上の減収であったうえに降雪のため本年の麦作も収穫の減少が見込まれる、以上三点をあげている。上宮津村では奉公義会費二二六円余の各戸への割り当てもやめ、山林の材木を売却してしのいでいる(『上宮津村史』)。民衆の負担は限界に達しつつあったのである。
このように日露戦争は前線の兵士はもちろんのこと、銃後の庶民にも多くの負担を強いた戦争であった。しかし日本の勝利は薄氷を踏むもので、奉天会戦以後日本軍は戦場で指揮する将校や武器弾薬、さらには資金面でも行き詰まり、早急に講和を求めざるを得ない状況にあった。こうして明治三十八年九月五日、樺太の南半分を得たものの賠償金なしの条件でボーッマス条約が結ばれた。その内容に怒った民衆は、同日いわゆる日比谷焼き打ち事件を起こし、軍隊が出動して鎮圧する事態となった。以後講和反対運動は全国に広がっていく。宮津町でも九月六日、三井長右衛門ほか八人の発起により万年座で条約破棄を求める大会を開催し、次のような決議を採択した(『日出新聞』明治38・9・9)。
一現内閣員及有責元老は速に自裁して罪を上下に謝すべし
一現講和条件は極力破棄せんことを努む
決議後直ちに政談演説会に移り、岡野告天子、牧放浪、杉山荘太郎、津原武が講和反対の演説をおこなった。
〉
兵器は古いと役には立たないものである。鉄砲の時代に弓矢では戦争にならない、航空機の時代に戦艦大和では役に立たない、高度1万メートルで侵入してくる敵機に最大射程5千メートルくらいの砲ではどうしようもないように、武器が古い、兵器思想が古いと丸腰と同じである。武器は一度手にしたら最後、絶えず莫大なゼニをつぎ込んで更新し続けなければならない宿命を負っている。何か過大すぎる信頼感があるむきもあるが、低国の実情は本当は貧乏国であり、また攻撃こそ最大の防禦の考えでいたので、攻めてはきそうにもない要塞の更新はままならない。
さて今や5兆円といわれる。国民一人当たり5万円、4人家族で20万円にもなる。それが本当に必要かどうかよく検討してみるべき時であろう。
自衛隊隊員に「もし戦争になって死ぬかもしれないようなことになったら自衛隊にいますか」と訪ねたら「まあ10人隊員がいたとして、そうした状態でもいるのは、まあそうですな、一人もいないでしょうな」
「戦争などなくても脱走兵が多くて困ってます。そうした彼らを呼び戻すため京都駅などでハリコミをしてます。脱走兵を見つけて連れ戻すためです、もうしょっちゅうで何度やったかわからないほどです」
「あまり厳しく教育しますと逃げますから、厳しくやれない面もあるんです」
そうしたことのようである。バカ政治屋のおっぱじめる戦争、そのケツを手前の命で誰が拭いてやったりするだろう。これは愛国心とかいう問題ではない。あなたならそうするかも知れないが、普通の者なら当然に御免であろう。5兆円かけても実際に戦争になれば、誰も兵器を扱える者はいない、ということになる。
世のため人のためとかいう時代ではもうない、誰もそんな古い生き方はもうしない、自分だけ良ければいいの時代になっている、自衛隊員も同じで、そうした社会の流れのなかで、木に竹を接いだように彼らに「お国のために命を捧げる生き方」などはまったく期待する方がおかしい。そんな事をひとに期待するなら、まずは最初に自分でやって見せてくれよ。
もともと彼らは自衛隊員であって軍隊の兵隊として雇われたのではない。自衛隊員として募集しておいて実際には兵隊として働かせるのはインチキ派遣会社と同じ手法になる。
従って防衛費5兆円は国民には実際の戦闘時には何も意味がない。「安全だということで入ったんです、技術とか身につけたいんです」が大部分で、はじめから兵隊の心得はない、そんな自衛隊に守ってもらえるなどとは考えてもおられないだろうが、雲行きが怪しくなれば、皆が辞めていく、どうやらそのようなことのようである、一般企業の従業員と同じである。そうしたものに5兆円、それはただ兵器産業やそれに群がる利権屋どもは確かに意味があるだけの話である。
高度1000キロ以上に達するテポドン2号を高度300キロしかないSM3ミサイルで迎撃するのだそうである。さすがに神国、低国の後裔政府である。考えることがすごい、ノーベル賞ものの頭をしておられるようで、いよいよ末期症状のようである、金体制の崩壊よりもこちらが先でなかろうか。高度1万メートルのB29は3000メートルの射程しかない高射砲では撃ち落とせない。サルでもわかる。もし仮にそんなことが可能ならB29なんぞはタケヤリで堕とせたはずだ。
地上発射型迎撃ミサイル(パトリオット)は、高度はたったの25キロしかないので問題外の代物。航空機やトマホークのような物には有効かも知れないが、弾道ミサイルのように頭の上から超音速(テポドン級ならマッハ20というような高速)で落ちてくるものは堕とせない。アメリカやロシアのような軍事超超大国ですら、弾道ミサイルに対して効果のある防衛システムは作られてはいない、というか今の技術水準では作れないのである。もし日本がテポドンを撃ち落とせたらノーベル賞は確実であろう。
弾頭は堕とせないでしょうが、テポドンが失敗した時は自爆装置が付いていると思わますが、もし燃えかすが落ちてきたときは堕とせるのだろうか。
「いや何段目かのロケットやブースターの燃えかすが落ちてきても当たりません。軽い物ですから、空気抵抗もある中をフワフワと落ちてくるのですから、ロケットでも何でも真っ直ぐに飛んでいる物ならいいんですが、ヒラヒラ舞っている物には当てようがないんです」という。風の中に舞う軽い羽根をピストルの弾で撃ち落とすことが無理なのと同じ理屈のようである。そんな事態は制御コンピューターのプログラムにはないかも知れない。
「こんな事を言ってしまうとナニですが、知らない人はナニか本当に撃ち落とせそうに思うかも知れませんが、そんなことはできません」。
「専守防衛が国是ですから、仮にも人工衛星といっている物に向けてミサイルを発射すれば、専攻攻撃になってしまいます。防衛ミサイルだといっても、こちらが勝手に言っているだけで、相手から見れば防衛にも攻撃にも使える兵器です」という。元兵器産業に携わっていたという人の話である。
衛星かも知れない物に対して、ありったけの武器を大騒ぎ総動員して、相手の思うつぼ、その隠れたお連れ、その方が危険かと思うが、こちら側すなわち日米韓の軍拡勢力の思うつぼ、ではなかろうか。うっかり発射すれば先制攻撃とも受け止められかねない、本当の能ある鷹ならそんな事は決してしないであろう。MDはウソでしかなかった、BMDは全く役に立たない。政府はあちらこちらに海上発射型迎撃ミサイルや、地上発射型を配備してさも撃ち落とせそうなフリをしているが、どうやらすべてサル芝居のようである。高い物をごっそりと買わされて、それがインチキ商品だったなどとは口が裂けても言えず、悲しいピエロ芝居をして強がっているが心は悲鳴をあげている、テポドンよどうか人工衛星打上に成功して、頭の上を無事飛び越えてくれ、そうと願っているのは実は日本のおサルさんどもかも知れない。全世界が笑っていることであろう。あの国はタケヤリでB29を堕とそうとした国だから、あの国なら堕とせるだろうな、反省がないのう、進歩がないのう、退化しとるのう、このままではまた原爆がおちるのう、とか。
ローテクの大砲でもそれなりに進歩もあろうから、何センチ榴弾砲とか加濃砲とか書かれているが、それらが日清戦争時代の物ならば木製の水に浮かぶ大砲を並べた偽装砲台の代わりのような「竹光の舞鶴要塞」であったろうと思われるのである。
そこへ今度は米軍機に備えて高角砲などが据えられていったのであるが、それもまた海軍軍縮で未成艦となったものや廃艦となったほとんどが海軍艦艇の旧式砲を転用したもので、発射した弾丸は敵機には届くリーチがなかった、一方的にやられるだけということになる。
航空機相手にはやはり航空機しかないと思われる。戦艦大和はじめ10隻からなる航空機の援護のない水上艦隊が沖縄めがけて水上特攻した海戦の記録によれば、大本営はとんでもない「大戦果」を発表したが本当はわずか2時間ばかりの間に大和はじめ6隻が沈没、死者は全体で4000名を越えた。一方米軍側は10機の航空機と12名を失っただけであった。飛行機には勝てない、巨艦巨砲時代から航空機時代へ移り変わったのである。「無用の長物」大和には対空用レーダーもあったし、12.7センチ連装高角砲、25ミリ3連装、あるいは単装の機銃、13ミリ4連装機銃、などいったいくら付いていたのかもわからないほどの全身はりもぐらのようなものだったし、優秀者だけを選りすぐった練度高い兵隊ばかりだったけれども、それでもそうした戦果しかなかった。話にもなりまへん、というところか。舞鶴要塞が1機も落とせなかったのもムリもないことであったようである。
昭和9年には撤去されたという。
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金岬砲台
舞鶴湾西岸の突端が金岬である。明治三十一年七月、築城工事にかかり、同三十三年二月竣工した。クルップ式三五口径中心軸二一センチカノソ砲四門と、クルップ式三五口径前心軸一五センチカノン砲四門編成の砲台である。二一カノン砲は、三十二年十一月備砲を始め、三十三年十月これを完了し、備砲費は一七万六、七○○円であった。一五カノン砲は、三十三年十一月据付開始、三十四年五月完了し、その費用は九万八、五○○円であった。両砲台とも、昭和九年三月、要塞整理処理要領に基づいて撤去され、火砲は予備兵器に編入された。
〉
私は行ったことがなく場所はわからない。現在も砲台跡が残されているようである。空撮は坂根正喜氏。
→舞鶴湾口。右下が金岬である。中央の建物は舞鶴石炭火電。水道を小さな船が帰航を急いでいる。右側が湾内になる。
昭和20年7月30日の舞鶴空襲時のことと思われるが、私のオヤジの同僚もこの小船と同じように、この水道を急い帰航していた。舞鶴空襲最中の米軍機230機ばかりの1機がここを飛び抜けた。避難もせずにこんな開けた所を航行していたのか運悪く発見され、機銃掃射をうけた。操舵室で梶を握っていた同僚氏は即死であったという。この空襲で83人が亡くなったというがその一人であった。
舞鶴湾口の西側、由良川河口の東側に位置する高い山で、今はテレビ塔などがある。
詳しくは
「槙山」参照。
→空撮は坂根正喜氏。
陸軍要塞だが、海軍の高角砲を使っていて、陸軍には高射砲はないのか。そんなこともなかろうが、数がないのだと思われる。貧乏のくせして戦線ばかり広げたものだから慢性的に絶望的に不足していたのではなかろうか。戦争といえば勝ってはいたのであるが、政府財政や軍事物資は極度に逼迫していたと思われる。砲台の砲さえ買えなかった。もとより一般国民(臣民と呼んだのだが)は、軍需景気の一部財閥を除き、もっとさらに極度な貧しさに喘いでいた、植民地ではさらにさらに喘いでいた、物資を果てしもなくのみ込む戦争、それを補うために税金は上がり、国債が乱発され、物価は暴騰した。ことに出征兵士を送り出し、あるいは戦死した家庭は働き手を失い、生活は悲惨であった。
航空機の生産よりも高射砲の生産を優先したというドイツ。ムチャクチャに攻めることしか頭になく防衛など度外視せざるを得なかった日本。防空用航空機もなく、もちろん高射砲もなかったのではなかろうか。
麓住民は防空壕掘りとバケツリレーとタケヤリ訓練に明け暮れたのであった。「大きなワラ人形を作って、エイエイエイとかけ声あげて突く訓練させられたそうや。これはもうアカンで、とワシのオッカァ、母親やけどな、さすがにそう思たそうや」という。
攻撃用としては一見すばらしいが時代遅れの世界最大の巨艦大和、他方ではタケヤリ防衛専門の国。「敵が来たらこれで突け、いうてな。タケヤリ作って、防空壕掘って、アホらしいようなもんやった」。
タケヤリとバケツと防空壕で戦争する!「タケヤリ!お前ら、いつの時代にいきているんだ、テッポウもないのか、そんなもので戦争になるのか、呆れたモンだな」と石器時代以前の人間でも笑い転げそうななさけない話であるが、そもそも世界の近代国家群相手に戦争ができるようなリコウでバランスのとれた近代国家だったのかと疑問が湧く。もし仮にリコウなもんだったら全世界を相手にして勝てる見込みもない戦争などするだろうか。貧乏だから一点豪華主義で、大和だ零戦だと、そうした正面兵器だけに酔ってしまった。ポルトマイヅル軍港防衛のテッポウもなかったくらいだから、民を守るなどとはツユ考えもしなかったことであろう。
さて、沈没した戦艦大和の話だが、『戦艦大和』(栗原俊雄・岩波新書)に、
〈
生還した八杉たちは、しばらく佐世保に留め置かれた。大和の沈没を隠すために、軟禁されていたのだと思っている。
その後、呉海兵団に移った。もはや乗艦する船はない。水兵長に昇進した八杉は陸戦隊つまり陸地で戦う部隊に配属され、新兵訓練を任された。ところが銃すら、一小隊四五人に対し七、八挺しかない。ほかに猟銃が五本。主な武器は地雷だ。兵はそれを持って、敵の戦車のキャタピラめがけて身を投げ出す。そんな訓練を繰り返した。
〉
45名の兵隊でもテッポウが7、8挺、猟銃が5挺しかなかった。テッポウのないあとの者はあとは10キロばかりの箱爆弾を背負って、敵戦車のキャタピラに飛び込むしかなかった。満洲などでは満蒙義勇開拓団に応募した、あるいは応募させられた、少年たちは現地で召集されて、わずかの訓練を受け、こうして死んでいった。あの子の最後を知りたいのですが、と遺族に問われても、「どうかそれは聞かないでください。○○君は立派な戦死をされました」と泣きながらいって逃げるように帰ってくるのだという。
赤レンガ倉庫舞鶴観光大名所、郷土の誇り、近代化大遺産、舞鶴観光大ブランドにはぜひとも忘れずにタケヤリとバケツと手掘り防空壕を大宣伝されるとよいであろう。海軍さんはかように立派な赤レンガでした、最初はそうでしたが、水兵さんたちも最後は船はもとよりテッポウすらなくなり箱爆弾を背負いました。生き残った艦艇は燃料がなくなり動けなくなり、甲板に土を運び木をいっぱいに植えて島に偽装しました。
そして民はこれが「武器」でした、石器時代以前のもので身を守る以外にはありませんでした、これらが舞鶴のいや日本の、古くは低国がいい、また最近は大センセや市や市教委のいう「近代化」の行き着いた姿でした、ロマンチックでしょう、なつかしいでしょう、感動でしょう、世界遺産でしょう、とプレートでも貼っておけば、舞鶴のよい宣伝になるであろう。
西舞鶴港から西側に見える美しい姿の山である。「田辺富士」とか「丹後冨士」とかの別称もある。この頂上に砲台跡が今も残る。
〈
建部山堡塁砲台
舞鶴湾の西岸喜多から、東雲村打越に至る山道(軍道)の峠が、標高三一三メートルの建部山である。舞鶴軍港の側面防御のために、明治三十二年九月、築城工事を起工し、同三十四年八月竣工した。備砲は一二センチカノソ砲四門で、三十四年十月据付工事を始め、十二月これを完了した。備砲費は二万円であった。二門を一砲座とし、砲座中心間隔は二五メートに
砲床および胸墻はコンクリート造りで、胸墻の高さは一・○四メートルである。火砲の首線はNW八○度、射界は一二○度である。両砲座中間と両翼に積土の横墻があり、その下に砲側庫を設けた。砲座通路の後方にも積土し、その下に幅三・八メートに
奥行一○メートルの地下掩蔽部を設けた。第一砲座の傍に、砲台長位置がある。山頂の狭小な地域を巧みに利用して、監守衛舎・弾廠・砲兵庫・厠・貯水所を構築し、戦備に当っては道路の屈曲部にコンクリート造の水溜を造ることになっていた(日露戦争時完成)。喜多には繋船場と倉庫を設けた。
〉
由良川を遡上して上福井方面へと攻撃してくるであろうと想定した敵に備えたようで、砲は由良川方面を向いている。そうした想定はもう合わなくなったのであろうが、次には高角砲が据えられた。
『市史編纂だより』に転載されている昭和20年11月18日付朝日新聞記事には、
〈
建部砲台
奥丹後から舞鶴への入口を扼する丹後富士の頂上に位し、8センチ連装砲2門、4式射撃装置1基のほか、2メートル高角側距儀1基、1メートル10センチ探照灯があった。
〉
この砲は、地元の人に依れば「日本全国でもいくらもない優秀なもんやったんやで。子供の頃に見せてもろたことがある。ズボッとしてかっこうのいいもんやった。」という。私より一回り年上だから砲を見たのは小学校の中年くらいだったろうか、その記憶である。連装というのが「優秀」ということであろうか。砲身が2本横に並んでいたものと思われる。それが2門あったようである。
「たまには撃っとったで。あかせんけど、届かんのやで。何でもそうやけどカッコウだけではあかん。」という話であった。
砲弾は爆発するタイミングをタイマーでセットする、あるいは本当に敵機に当たれば爆発するという。敵機の高度や速度などから計算をして何秒後に爆発するという時限セットをして発射するわけである。だから仮に最大射程高度が1万メートルまであったとしても、計算が合うかどうかが難しい。まぐれでしか当たりそうもないということになる。高々度の早い小さい機体をねらって砲身寿命600発をすべて発射しても1発くらい当たれば上出来の腕ではなかろうか。アメリカ軍はさすがに科学精神があって実験した軍人があるという。それによれば、300何発に1発しか命中しなかったといい、こんなレベルの高射砲などは何も恐れることはないと結論づけていたという。
米軍の対空砲の信管はよく知られているようにVT信管という近接信管に取り替えられていた。磁気変化を捕らえて弾丸は最も敵機に最も近づいて離れた瞬間に爆発するようになっている。今の対空ミサイルと同じ原理で、たいへん優秀なものと言われる。この射程内にはいると撃墜されてしまう。
大和魂に敵はない、神風の吹く国と超古代精神の生きる、というのか時代遅れ精神というか、根拠のない自惚れが高じたのか、科学兵器などの開発は遅れていたと思われる。
↑市教委などが立てた案内板。浦入砲台の位置などはあやしいかも。ここの砲台の模型が「赤煉瓦博物館」にあったと記憶する。もし日清戦争時代ならばあるいは役に立ったかも知れない要塞であった。
詳しくは
「建部山」
西国29番札所の青葉山松尾寺の南麓、吉坂峠北側にあった。
当初は12センチカノン砲6門プラス2門であったという。その後どうなったのかは不明。たぶん何もなかったのではなかろうか。高浜方面に上陸して攻めてくると想定した敵に備えたもの。こちらが防衛正面とされた。現在も砲台跡が残るという。私は行ったことがない。次のHPなど参照して下さい。
「吉坂砲台」
「吉坂要塞」
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吉坂堡塁
舞鶴市市場から高浜町に至る国道に、吉坂峠がある。峠の東北方約一○○メートル、標高一八三メートルの高地に、吉坂付属堡塁が、さらに付属堡塁の北方約五○○メートル、標高二四二メートルの高地に、吉坂本堡塁がある。築造工事は明治三十三年七月着工、同三十五年十一月竣工した。本堡塁砲台の備砲は、一二センチカノン砲六門(初め鋼製九センチ臼砲六門)、付属堡塁砲台の備砲は、クルップ式三五口径中心軸一二センチカノン砲二門で、三十四年十二月、火砲の据え付けに着手し、三十五年七月完了した。本堡塁の目的は、内浦湾・高浜湾に上陸し、舞鶴に侵攻する敵を迎撃するための陸正面防御にあって、両湾より舞鶴に至る通路を制扼するように、堡塁を配置した。
一二カノン砲台は、二門を一砲座とし、砲座中心間隔を二○メートルとして、三砲座を構え、首線方向はSE六二度、射界一二○度である。各砲座間に横墻を設けて、その下部に砲側庫を構築した。更に第三砲座左側に、翼墻を設けて、その下を砲側庫とした。コンクリート胸墻の前庭は、下り傾斜となっており、二五メートル先は空壕である。空壕の左端からは、機関銃射撃ができるように、側防施設が作られてある。砲台長位置は、側防施設と、第三砲座のほぼ中間に設けてある。第一および第二砲座の後方約二○メートルに、地下掩蔽部の入口がある。掩蔽部の大きさは幅二四メートル、奥行一○メートルである。
本堡塁の付属建造物として、砲兵庫・弾廠・兵舎二棟・監守衛舎・火薬支庫・掩蔽部・貯水所・倉庫二棟・厠が設けられ、また付属堡塁には、番人舎・砲兵庫・弾廠・砲側庫・掩蔽部・貯水所・厠が設けられた。糧食庫・炊事場・浴室・調理所。天然貯水所は戦備工事として、各その建設位置を予定しおき、日露戦争突入の明治三十七年六月これを実施した。
付属堡塁砲台の一二カノン砲二門は、一門一砲座とし、中間に横墻を置き、横墻の下は地下砲側庫である。胸墻はコンクリート造で、高さは一・四メートルである。首線方向SE七二度、射界は一二○度である。胸墻前庭は下り傾斜をなし、標高一八二メートルの一線に、側防機関を配置するように作ってある。第二砲座の左後方に、地下掩蔽部と貯水所を設け、その他番人舎・砲具庫・弾廠・厠を配置し、糧食庫・炊事場・浴室・調理所・天然貯水所を戦備工事として実施した(図)。
〉
舞鶴要塞はこうして当初は大小40門ばかりのの要塞砲が備えられていたようである。しかしそれらは日清戦争時代の旧式砲であった。その後新式の要塞砲に更新されたという話はない。砲がまったくなくもないようであるが、少しあっても8センチとか10センチ程度の旧式のばかりのようである。陸軍さんの態度としては真面目に舞鶴軍港を防衛しようなどとする様子は見えないのである。
これの要塞は太平洋戦争となって一部は防空用砲台にリサイクルされたのであった。
博奕岬は舞鶴湾口東側の岬である。今は燈台があり、この一帯は自衛隊の何かの基地になっていて立入禁止の看板がある。
←『日本の要塞』(学研社)より。
これはチェーンを用いて上下させる。こうした姿をしていたかは資料がない。照射距離は最大9000m足らずという。これなら発電所が必要だがあったのかどうかはわからない。
匂ケ崎公園から和田の方へ行けば石作りの桟橋があるが、その山手である。今は臨港道路などの工事をしている。
〈
下安久および白杉弾丸本庫
下安久弾丸本庫は、舞鶴湾東岸の諸堡塁砲台のため、舞鶴市下安久の谷地に構築された。白杉弾丸本庫は、舞鶴湾西岸の諸堡塁砲台のため、白杉部落北方の谷地に構築された。下安久の弾丸本庫の大きさは幅五・五メートル、長さ一○・九メートルであり、下安久火薬本庫は幅五・五メートル、長さ二九・二メートルで、他に火具庫、火工所をもっている。白杉弾丸本庫の大きさは、幅七・三メートル、長さ九・一メートルで、火薬本庫は幅七・三メートル、長さ二七・一メートルであり、繋船場・糧食支庫(五・五メートル×一四・五メートル)・番人舎を付属している。弾丸本庫および火薬本庫の基礎および床は、コンクリート、腰は煉瓦、木造亜鉛板葺きで、避雷針をのせている。
〉
白杉の集落の北の谷にあったという。
舞鶴要塞は当初はこれだけのものであった。しかしその後増強されて市内には25箇所もあったという。
『舞鶴市史』は、
〈
昭和二十年八月、太平洋戦争が終了した時点で、舞鶴要塞区域内には、舞鶴軍港の防護を主任務とした海陸軍の砲台、保塁が二五か所あったが、終戦後、一切の施設、装備は進駐軍に接収された。このうち、望遠鏡、探照灯、電波探信儀、無線機等は、米本国へ送る参考資料として一応保存され、その他の施設等はすべて破砕ないし解体された。
〉
この25箇所の中には機銃だけのものや水に浮かぶ「大砲」を並べたニセ砲台・偽装砲台や建設途中とか予定とかもあった様子。肝腎の敵機に届く鉄砲がないのに、砲台ばかりは作っていたのだろうか。
鉄砲なしのニセ砲台、後世の舞鶴人はまあこれらを大事にしてゼーキンの無駄遣いをしようではありませんか。さすが舞鶴だな、と全世界からもう一度嗤われるために。
市内25砲台とさらに周辺にもあった砲台は、その全リストがみつからないため、それらは次の機会に取り上げてみたいと思う。あるいはそこにはもう少しましな砲があったかも知れない−、楽しみに待ってください。
以上のような詳細な実情は要塞が実際にあった時代の国民は誰も知ることはなかったことであった。軍機・秘密であった。戦艦大和だって、こんな大きな船があったということは知らず戦後知ったことであった、大和と同型艦が4艦作られたなどは今でもあまり知られていない。
超厳しい法律で国民の目には隠され続けていたのであった。
要塞は高い山の上に優秀な砲台がいっぱい並んで敵を睨んでいて国民を守ってくれていて頼もしい、ということではなさそうである。どうやら大砲はなかったようで、ロクな大砲がなくても砲台とか要塞とか呼べるものなのかどうかは知らないが、要塞とか砲台の面目まるつぶれ、要塞とは言葉だけのものでインチキとかペテンの類になるかも知れないようなものであった。海軍さんによせる市民たちの信頼が地に墜ちる日がとうとう来た。昭和20年7月30日であった。
舞鶴空襲をリアルタイムで見上げていた当時の市民達がみな「あきゃぁせん」というのは正しい観測であったかと思われる。
『舞鶴市史』は、
〈
翌七月三十日は早朝より敵機の襲来絶えず、延べ二三○機が数次に分かれて舞鶴軍港を中心に、宮津湾、伊根湾あるいは小浜湾を襲い、艦船を中心に爆撃及び機銃掃射を繰り返した。このため湾内に停泊していた艦船の大半が沈められたり坐礁した。これらは終戦後も舞鶴湾内や宮津湾にその姿を見せていた(写真73)。また、宮津湾での襲撃のあおりを受けて宮津駅構内も銃撃されたので、宮津線は一時不通となった。
この日の空襲で軍人、軍属、工員など八三人の死者と二四七人の重軽傷者が出たという。また、字小橋の葛島沖で網入れ中の漁船が襲撃されて四人が死亡し、字三浜にある丸山国民学校校舎も機銃掃射を受けた。
七月三十日に関する記録や新聞報道は次の通りである。.
一、本三十日午前午後にわたり敵小型機約二百三十機数次に分け舞鶴地区来襲、主として艦船及び軍事施設に対し爆撃を行ひたるも被害は極めて軽微なり
二、現在までに判明したる戦果次の如し 撃墜二十機、爆破約二十五機
(昭和二○・八・一 朝日新聞)
〉
撃墜20機。どこからこんな数字をひねり出すのか、全市民が見ているというのに、もしそうだったらいいのになあ、とか全高角砲が放った弾丸の数なのかそんな数字ではなかろうか。これなどは可愛いくらいのもので、軍の言うことは何もかもがウソ八百という感じでうっかりと信用できない気持ちにさせられる。ウソの名人・大本営は今も有名であるが、海軍も決して負けてはいなかった。海軍発表の「戦果」うっかり信用して後の作戦計画にとんでもない誤りを生じたこともよくある。
この時に沈められた船が赤さびになって海中にまだ放置されたままなのが私の幼児の頃にはまだあった、かすかに記憶がある。
しかし仮に本当にそれらが役に立つようなものであったとしても、そこは秘密軍事基地であり、この地域は敵にスパイされないように常時特別な警戒態勢がとられ、一般市民の生活もあれこれときびしく束縛されるという側面をもった。
『大江町誌』は、
〈
舞鶴要塞地帯(陸軍管轄)
軍港を防衛掩護するため、軍港周辺を要塞地帯としている。大江地方の一部が含まれていた。
要塞地帯は、要塞地帯法と軍機保護法とによって、特別警戒措置がとられていた。
地帯内の水陸の形状測量・撮影・模写その他軍事機密の漏洩には重刑が科せられるほか、堆土・開墾など、地表の変更をする農業・土木工事には、要塞司令官の許可を要するというような私有権の制限まで付いていた。小学生の風景写生さえ模写にあたるとして禁じられた。
それらの監察取締りには、一般警察だけでなく、中舞鶴に置かれた憲兵分隊も当たった。憲兵分隊は、丹 後五郡を管轄し、平時にあっても、軍事警察のみでなく、行政・司法警察をも兼ねた大きな権限をもち、戦時には、人権無視の監視や取調べも行い、地帯住民の自由は常に束縛をうけていた。
〉
『京都の戦争遺跡をめぐる』は、
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要塞地帯法と軍機保護法
要塞の防備状況は軍の最重要機密でした。各砲台の位置や性能、形式、また付属施設の大きさなどが知られてしまうと、要塞としての価値がなくなってしまうからです。そこで、要塞の設けられている地域一帯を「要塞地帯」と定め、その地域の中での人々の行動を厳しく制限し機密を守る必要がありました。
一八九九(明治三十二)年七月、「要塞地帯法」と「軍機保護法」が制定され、要塞地帯内での測量、撮影、模写、記録筆記、あるいは開墾、灌漑、公園設置などの土木工事、また堤防、運河、鉄道、トンネルなどの建設工事を無許可で行うことが厳しく禁じられました。舞鶴の場合、現在の舞鶴市はもちろん、東は福井県の和田、南は和知北部、西は宮津をおおう広大な地域が要塞地帯として定められ、中舞鶴におかれた憲兵分隊が、写真撮影やスケッチなどの禁止行為を厳しく取り締まりました。
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『舞鶴市史』は、
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…要塞地帯法と同じく、軍機保護法でも厳しい制限や処罰が定められた。要塞内にある各種砲台の位置、種類、性能、形式、兵備、強度と付属機関の編制、配置が知られてしまうと、要塞の価値が一挙に消滅してしまうからである。
要塞地帯の区域には、その要所要所に「許可なくして云々」(前出)の注意と、区域の要図が公示された。
陸上要塞のみのところは陸軍省の名儀、また軍港、要港のあるところは陸海軍省を併記して掲示した。
要塞地帯内の水陸の形状の測量、撮影、模写、録取などや、堆土、開墾など地表の高低を永久に変更する土木工事、溝渠、塩田、排水、灌漑、公園、育樹場、桑園、畑、耕作地の新設変更には要塞司令官の許可を必要とし、提防、運河、橋梁、鉄道、トンネル、桟橋の新設には陸軍大臣の許可を必要とするなど、土地所有権に関する制限が設けられ、また一般人民の行動を相当厳しく束縛した。
その一例を次の明倫小学校の日誌で、うかがい知ることが出来る。
明治三十七年四月廿七日 水曜 雨
警戒 本日午后三時二十分要塞司令部員中西特務曹長来校 幼稚園児ノ保育満期児童紀念写真ニ建部山ノ如キ山形ノ写レルアリタレバ只今原板ヲバ写真所ヨリ没収シ来リタレドモ該写真撮影ノ場所実見セシメラレタシ云々談示ニ付即時現場へ案内シテ実地ヲ見ラレテ帰部セラレタリ 但写真師撮影ノ時ノ不注意ナルガ為メナリト
明治四十一年九月十六日 水曜 曇
本日別紙ノ通リ本校々庭ニ於テ模型地図作成ニツキ願書ヲ差出セリ
図面模型作成許可証
一 目的 小学児童教養ノ資料ニ供スル為メ校庭ニ於テ左ノ区域内ノ地形ヲ模擬シテ模型地図ヲ作ル
一 区域 原図朱線内
一 期限 明治四十一年九月二十日ヨリ同十月一日迄
右舞鶴町立明倫尋常小学校々庭ニ於テ前記作業致度候間御許可被成下度此段相願候也
明治四十一年九月十六日
舞鶴町立明倫尋常小学校
校長 小木 二郎 印
舞鶴鎮守府司令長官 男爵 片岡七郎殿
舞鶴要塞司令官 永田 亀殿
同 九月十八日 金曜 晴
十六日差出シ校庭模型地図ニ関スル其筋ヘノ願書ハ舞鶴鎮守府ト交渉ノ必要上今少シ詳細ニ認ムベキ旨附箋菱シテ却下シ来リシニツキ予定模型図ヲ添附シテ要塞司令官へ宛テ差出シ置ケリ
同 九月廿四日 木曜 曇
本校校庭ニ於テ模型地図作成ノ件ニツキ兼テ其筋へ願出置キタルニツキ本日許可セヲレタリ
作成ヲ了へタル場合ハ直ニ又事業完成届ヲ差出スベキ旨通知アリタリ其書式左ノ如シ
事業完成届
(本年九月十九日附舞鶴鎮守府第四一五号)
九月廿一日附舞鶴要地許第三六九号ヲ以テ御許可相成候小学児童教育資料ニ供セン為校庭ニ図面模型作成ノ件願
書ノ通リ履行完成仕候問許可証返納御届ニ及候也
明治四十一年九月廿五日
舞鶴町立明倫尋常小学校長
小木 二郎 印
舞鶴鎮守府司令長官 男爵 片岡 七郎殿
舞鶴要塞司令官 永田 亀殿
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↑これらは明治の法についての話であるが、その後、昭和に入ってから大幅に改正されて、一段ときびしくなっている。
写真撮影やスケッチ禁止の区域は基線より15キロとなっている。一番上の地図参照。東は福井県大飯郡おおい町から、西は栗田半島、南は大江町の入った範囲内、これだけ広い範囲が写真などは厳禁であった。犯せば懲役2年。烏が飛んでいるいるのを見ていても、この地域を「観察」していたとされ連行される場合もある。軍港の見える山に登っただけでも連行される危険性があった、何でもみな連行してこい、警告だ、予防だと、自分の山であってもうっかりとは登れなかった。未成年者でもその保護者が罰せられた。子供がふるさとの風景を写生しても、川や海を泳いでいても、要塞地帯を観察していたとされ今のカネに換算して4〜500万円もの罰金となる。赤レンガを作っていた軍需品工場や倉庫などうっかり撮影しようものなら、写真のはしっこに写っていても懲役7年。罰金は7〜800万円ともなる。写真など写つさずとも、レンガは毎日どれくらい作られますか、などとアホな事を聞いたりすれば「探知していた」と警察などが判断して「ちょっとこい」と連行される。安藤広重の浮世絵「阿波鳴門之風景」ですら要塞地帯がわかると発禁となった。
負けがこんできてヒステリー状態である。これが戦争である。
漁業も農業も要塞の近くではできそうにもない。何も補償はない。当時も今も国会議員さんどもは悪法を作ってくれるもののようである。人類史の記録に残すべき超悪法であろう。
人間はたして何も悪いことをせずに生きられるものかどうかは知らないが、仮に生きられたとしても、近くの山を見ていただけでもこれらの法にふれる危険性は十分にあった。
私のように要塞の写真を写し、それを外国へ流す、web上に置いたりすれば、死刑間違いなかろう。
これが市や市教委や大センセどもが美化し、ゼーキンの大無駄遣いをしたがる「舞鶴の近代化」なるものの誠の怖ろしい姿であった。舞鶴市のクソ政治屋やクソ役人どもは誠に怖ろしく発狂しているのであろうか。
「敵はよう知っとって、撃たれるようなとこへは近づかんな。先にスパイが入っとったんかな。」
などと市民は言うが、航空写真を写して、舞鶴要塞の様子は白地図しかない市民よりも熟知していたのである。それら米軍撮影写真は国土地理院のデーター庫に残されていて、web上に見ることができる。丸見えで軍機保護法などはアホらしいような話である。
敵すらよく知っていて、ただ知らないのは納税者だけということになる。もともとが納税者には機密であるし、敗戦時には都合が悪いと焼却しているので、残された資料は断片的なわずかなものもない、米軍さんが残してくれていなかったら何もわからない状態で、今以て納税者はよく知らないままなのである。
地理院の
「空中写真閲覧」参照
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小さな船で長崎の港口近くにある島の老いた漁師をたずねた。その漁師は、憲兵や警戒隊員の眼をぬすんで夜明け近い頃ひそかに雨戸のすき間から、巨大な鉄の建造物が海上を音もなく動いて行くのを日にしていた。日時から推定すると、それは、儀装も終った武蔵が呉へ回航するため長崎港を出港する折のことにちがいなかった。
話し終ってから、ふとその老人は、
「今の話は、だれにも言わないでくれ」
と、顔をこわばらせて言った。
私は、一瞬、その意味が分らなかったが、
「おれが話したなんて言うことがわかると、まずいから……」
と、重ねて言う老人のおびえた眼の光に、私は、漸く老人の言葉の意味が理解できた。
「でも、戦争は二十年前に終りましたし、別にどうということもありませんよ」
私は、苦笑しながら言った。
「いや、まずい、まずいよ」
漁師は、私に話をしたことを後悔するようにしきりと手をふった。
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吉村昭氏の『戦艦武蔵』の一節であるが、戦艦武蔵を建造した三菱長崎造船所周辺住民の戦後20年も経た時点での話である。民家は一人残らず家に閉じこめて海に向いた戸や窓は雨戸・カーテンを引かせ、さらに一戸につき数名の警備隊員を配置して厳重に警戒したしたという。戦艦武蔵は決して見てはならなかったのであった。もし仮にぬすみ見ようものならば…、その結末は戦後20年経て、憲兵もとおい昔にすでに消滅しているにもかかわらず、いまだおびえるほどに怖いものと認識されていたのであった。
さて同書によれば、その造船所内で、武蔵の設計図の一枚がなくなるという超重大な事件が発生した。主砲周辺の設計図であった。もし外国の諜報機関へでも渡れば何人かは死刑だと思われる。
設計場は周囲からは厳重に隔離された密室で外部から誰かが入ってこれる所ではなく、図面がなくなった時に中にいた8名以外には犯人がいるはずもなかった。拷問の超厳しい捜査が1月以上も続くが図面は出てこなかった。思いがけないことで図面はすでに焼却されていたのであり、ようやく事件は解決したという。
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無罪釈放された七名の者のうち、三名は、強度の神経衰弱症におちいって、職場への復帰はかなり遅れた。そして、出勤するようになってからも、図庫のある設計場へは、身をふるわせて近づこうともしなかった。
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さて舞鶴では、「赤レンガの町・舞鶴」の近代化歴史遺産として、行政と市民が一体となって、これら軍遺産を生かした町作りを行う。のだそうである。
一からしっかり見直すべきではなかろうか。
現在の余部上四丁目、国道27号線の信号機のある東側に駐在所、奥にあるのは警察官宿舎というが、そこが中舞鶴憲兵隊の跡である。↓写真のパトカーが留まっている右側に門柱がある、それは憲兵隊当時のものという。(駐在所建物の左側にもある)
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中舞鶴憲兵分隊
明治二十九年九月、舞鶴町字紺屋に初めて憲兵屯所が置かれたが、同三十三年八月に余部町字余部上四丁目(現東舞鶴警察署中舞鶴警部補派出所)に新築・移転し、同三十六年四月、中舞鶴憲兵分隊と改称した。また別に舞鶴町字北田辺に同隊の舞鶴分遣隊を置いた。創設当初は第四師団(大阪)に属したが、後に第十師団(姫路)に所属し、さらに第十六師団(京都)が創設されると共に、この管下に入り京都憲兵隊の指揮を受けた。
憲兵の主任務は軍事警察を司ることで、軍人、軍属の行動を注視し、その体面を汚すなどの行為があった時は、現役および在郷軍人の別なく、これの取り締まりに当たった。
管内は加佐、与謝、中、竹野、熊野五郡で、平時にあっては行政警察、司法警察も兼ねていたので、軍事警察に関しては陸軍大臣、行政警察に関しては内務大臣、司法警察に関しては司法大臣の指揮を受け、さらに要塞地帯法に関しては舞鶴要塞司令官、海軍関係の事項については舞鶴鎮守府司令長官の指揮を受けた。戦時にあってはこうした区別はなく、軍人であると民間人であるとを問わず、不正の摘発、容疑者の取り調べ、公共建造物の監視・保護、スパイの捜索等多様の任務があった。
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