旧・丸八江村(まるやえむら)
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京都府舞鶴市和江・八田・八戸地・丸田 京都府加佐郡加佐町和江・八田・八戸地・丸田 |
旧・丸八江村の地誌《旧・丸八江村の概要》 八田は舞鶴市の北西部。由良川下流左岸に位置する。和江・八田・八戸地・丸田の4か村が合併して成立した明治22年〜昭和3年の加佐郡内の自治体名である。村名は合併旧村名を合成してもの。役場は丸田に設置した。大正14年の戸数234・人口1、186。明治25年丸八江村ほか3か村の組合高等小学校が設立されたが同41年廃校となり、代わって丸八江村・東雲村組合八田尋常高等小学校が開校したという。昭和3年八雲村の一部となり、村制時の4大字は八雲村の大字に継承された。 《人口》《世帯数》 《主な社寺など》 《交通》 《産業》 旧・丸八江村の主な歴史記録《加佐郡誌》 〈 丸八江村。凡海郷由良庄に属していたもので此の村名は丸田、八田、和江の三ケ字の文字を抽取って作ったものである。今は八戸地を加へて四ケ字から成っている。参考一、八戸地はもと八田の一枝邑であったが桜町天皇延享年間(将軍徳川吉宗及び家重)に独立した。二、八田は細川藤孝が舞鶴に築城の際同町字紺屋在住の農民を移して作った所である。其氏神松尾社又八戸地の氏神白髭神社は当地移民が奉遷して来たものである。八田今はハッタと称へるが当時はヤタと言ふた、全く舞鶴町当時の名を其侭移して用ひたものである。三、本村には麿田、四囲が鼻、門戸、祭田、斎宮、二位座、御座脇、朝宮といふやうな由緒のあると思はれる大小字名を有し丸田、門戸、和江には数多の古墳があって上代の土器が発掘せられる。今後の研究によって仝村の歴史上に於ける地位が明らかになるであらう。四、和江はもと何れの字に属していたか明かでない。或は八田から分離したものであると云ふ。和江の名は後光明天皇慶安年間(将軍徳川家光)からあらはれている。茲に国分寺の址と称へる所があるが廃頽して当時の状を僅に想ふばかりで、村上天皇天暦十年九月祝融の災に罹って、鳥有に帰したのであると伝へられている。三庄太夫の伝説中に白河天皇永保の頃津塩丸が避難所であると見えたのは此処である。けれども之き火災後百二十年余りを経過している。故に当時はなほ幾分昔日の面影があったものと見なければならないか。抑も国分寺は聖武天皇の勅願であって、諸国 た寺院である。記録によると天平十三年から八ケ年の年月を閲して造立を畢ったもので全数六十六箇ある。六部又は六十六部と称へる修業者は是等の国分寺を巡拝して各一部の法華経を納めた 云ふ。旧記に丹後の国分寺は(金経明寺)与謝郡府中村字国分に建築せられたものであるのに見れば和江の所謂国分寺は国分尼寺(法華寺)であらうか。或は往時焼失等の場合には他の定額寺等を以て国分寺代とせられた実例もある事だからそれ等の後身でもあらふか、今俄かに之を断ずる資料はない。 丸八江村 (一)戸数 二三四戸 (二)住民 男 五九六名 女 五九〇名 計一一八六名 (三)生業の状況 本業−農、副業−養蚕、果樹の栽培、竹材造成 (四)主要物産 米、麦、繭、竹材、薪炭、木材 (五)人情一般 勤勉質朴で純農村の特質をもってゐる。 (六)各種団体名 青年団 処女曾 在郷軍人曾 各字婦人会 若葉子供会 和江子供会 八田少年赤十字団 〉 『八雲のれきし』 〈 八田・八戸地の分区 八田村は、古くは由良荘の部内にあって、垣村と称したとも言い伝えられている。 その後幾星霜の永い歳月が過ぎ、百余年にわたった戦国時代の末期、即ち天正八年頃(約四一○余年前)細川藤孝が、田造郷八咫村(現舞鶴市字北田辺)に築城を計画して、その区域内にある民家に移転が命ぜられた。 当時私たちの祖先は、現紺屋町に住み農業を営んでいたが、築城のため田畑を失い止むなくその代替地を求めて、あちこち詮策に当ったに違いない、当時早くから開けていたと思われる大川村地内と丸田村地内とにそれぞれの適地を見定め、永年住みなれた故郷をあとに、この二か所に分れ分れに移転した。 この二つの集落を八田村と称し、凡そ一八○年の間一つの邑として栄えてきた。その後双方とも人口が増加し、また分家等によって戸数も増え次第に大村となった。 そのため、互に勢力的な問題や、そのうえ二つに隔った不便さ等諸々の問題が重ってか延享年間分村の機運となり「八田村」の名称をそのまま継いだ現八田と、新しく「八戸地村」と名乗った現八戸地とに分れ、「八田村」は土地、行政とも完全に二つに分離した。 八戸地村の起りについては詳かでないが、最初この地に八戸の農家が移り住んだので、「八戸の地」即ち八戸地となったとも言われ、また「八田の内」と云う意味から八田内が訛って八戸地となったとも考えられている。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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