南有路
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京都府福知山市大江町南有路 京都府加佐郡大江町南有路 京都府加佐郡有路上村南有路 |
南有路の概要《南有路の概要》 南有路は由良川流域の右岸に位置し、福知山市大江町の中央部。河守町方面より東流してきた由良川が、北方に流路を変える蛇行部一帯に発達した集落。中央部を北流する枯木川が由良川に流入し、主要地方道舞鶴福知山線が由良川に並行して走り、枯木川との交差地点付近で主要地方道綾部大江宮津線を南東へ分岐する。 由良川は当地で大きく湾曲、その湾曲部に由良川流域最大の大雲橋が架かり、対岸の北有路とを結んでいる。自治会は1〜4区に分かれる。 古代の 南有路は当地方では河守町に次ぐ主邑である。西は千原村、北は二箇村に接し、由良川を挟んで北有路村。東は矢津峠・古地峠で丹波国何鹿郡西方に、枯木峠で西坂に通じる。対岸へは舟渡があった。 天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年宮津藩領、元和8年からは田辺藩領。田辺藩領の代官支配組は川口東組、大庄屋差配組は川口上組に所属した。享保18年田辺藩全藩にわたる惣百姓一摸に当村民も参加した。宝暦6年の百姓一摸では村民6名が追放の処分を受けた。 南有路村は江戸期〜明治22年の村名。南有路は明治22年〜現在の大字名。はじめ有路上村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 《南有路の人口・世帯数》441・163 《主な社寺など》 古墳1基 由良川畔の高川原遺跡では縄文・弥生・古墳時代の各遺物が出土し、7世紀の住居遺構も発掘 戦国期の山名与九郎長頼または矢野五郎左衛門が居城したと伝える中世の山城跡 古地谷には欅の老木に周囲3mにも及ぶ6本の山藤がからんだ歳の神の藤があり、かつて国天然記念物の指定を受けたこともある。欅の下部の洞穴に八衢比古命・八衢比売命・久名戸神三柱の道祖神を祀る。 有仁小学校 十倉神社2社 曹洞宗普門寺 臨済宗妙心寺派長橋寺 来寿森神社 愛宕神社 八幡神社 「才之神の藤」から左手の小さな谷を福料寺といい、かつて尼寺があったといわれる 藤棚から道を隔てて前方の小山付近を吉祥寺といい、西方にある吉祥山宝満寺(高野山真言宗)の故地と伝える。 《交通》 府道舞鶴福知山線 《産業》 南有路の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 南有路村は 高瀬舟を以て丹波福知山上下の荷積み。円通山普門寺天祥山長橋寺 禅宗なり。 十倉五社大明神社あり同神矢津谷にあり、愛宕山柴の庵あり、くるす森文字知らず十倉五社大明神の御母なりと云伝へり、権現堂、釈迦堂あり、矢野五郎左衛門むかしこの所を領したる由城跡あり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免八ツ二分 南有路村 高六百弐拾五石九斗 内六石九斗九升弐合五勺 万定引 三拾石御用捨高 古滅 矢野五郎左衛門 十倉五社明神 氏神 鍵取 横屋 十倉云社明神 同村矢津谷 氏神 クルスノ森五社明神 御母神之由 権現 釈迦堂 愛宕山 柴庵 弁財天 鎮守 長橋寺 天祥山東山寺末 二ヶ村南有路村ノ寺 普門寺 円通山 桂林寺末 和尚寺四ヶ寺之内 二ヶ村 南有路村之寺 住持ヨリ来書左之通 本尊十一面観音 但普門寺ヨリ拾丁余り東 矢津谷之内円通寺ト申古キ寺地在之 往古兵乱之時諸堂縁起宝物等不残類焼ノ由 境内ニ大榎残此木夜々光晃々タルヲ時ノ人打寄拝覧致し候処正敷円通寺本尊ノ御首榎ノ枝ニ掛ラセ給フ 難有再興致シ普門寺本尊ニ致申則寺号山号改メ用申候 往古余程ノ寺領モ有之候へトモ慶長年中御検地之砌ニ御年貢地ニ相成境内斗御検地ニ而御座候 〉 《丹哥府志》 〈 ◎南有路村(二箇村の南) 【十倉大明神】 【円通山普門寺】(曹洞宗) 【天祥山長橋寺】(臨済宗) 【矢野五郎左衛門城墟】 【付録】(愛宕社、岡住森社、釈迦堂) 〉 《大江町風土記2》 〈 死んだ人が蛾になって出るはなし 「むかしむかしなあ 南有路の引地の山に城があったのじゃ。その城と北有路の阿良須の城とがいくさをしたそうな。そのいくさは一日だけで、引地の城がまけたそうな。そのとき引地の城といっしょに死んだ人たちは、まいねん城のおちた夜になると、白い蛾になっててて、大雲橋のあたりでいくさをするんじゃ。その夜橋の上をちょうちんをつけて通ると、蛾があつまってきた灯が消えてしまうんじゃ。あくる朝は橋の上は死んだ蛾でいっぱいなんじゃ。ふしぎに橋の南がわ半分のおちていたものじゃ」 これはお父さんが、おばあさんたちからきいたはなしだそうです。 今から三十年ほど前、お父さんが河守の蚕業学校へいっていたころ、ひと晩のうちに蛾がとんできて、あくる朝は雪が降ったように蛾の死がいがつもったことがあるとはなしてくれました。 有路小 5北野敦子 6倉橋光男) 〉 《図説福知山・綾部の歴史》 〈 由良川に映える帆の群れ ●由良川水運と有路高瀬舟 由良川流域には、藤津・高津江・常津・天津・高津など、「津」という港を示す地名が多い。また、舟着場を意味する「ふなと」(舟戸・舟渡)という所も各地に残る。これらの地名は、由良川が早くから水路として重要な役割を果たしていたことをうかがわせてくれる。 江戸中期、当地を旅した貝原益軒は、その著『西北紀行』の中で「福知山に着く。山上に城あり。城下、町ひろからず。(中略)大川其東北に流る。川舟多し。是より舟によりて丹後の由良に下るといふ」と述べている。この時代に由良川を往来した舟は、河口から有路(大江町)までは五〇石規模、有路から福知山・綾部間は二〇石規模の高瀬舟であったという。高瀬舟とは喫水の浅い平底の小舟のことだが、有路高瀬舟の場合、長さ八間(約一六b)・幅一間半(約二・五b)、積み荷は、上り六〇〇貫(約二・二トン)・下り一、二〇〇貫とある。 江戸時代、この由良川舟運に強い関心を寄せたのが、下流部を領有していた田辺藩(舞鶴市)で、物資輸送を管理することで運上(営業税)を確保し、舟航を規制することで民衆を統制し治安の確保を図った。この田辺藩の舟運統制の拠点として栄えたのが有路港であった。田辺藩は享保一九年(一七三四)布告を出し、(1)他所舟の由良川遡行は、河口のうし嶋を限りとし、これより上流への航行はさし止める。(2)上り荷は塩を除き、すべて有路で高瀬舟に積みかえること。(3)運賃・船宿・往来証文改めなどは藩の規定に従うこと、を取り決めた。 藩の命をうけ、具体的に舟運の管理に当たったのが「舟役」「舟改」と言われた役職で、有路の有力者が任命された。古文書によると、享和年中・弥五右衛門、文化年中・吉左衛門、天保年中・弥五右衛門などの名が見える。このうち、吉左衛門家に当たると思われる北有路の平野家には、掟・約定書・通船切手・廻米控など、約二〇点の舟役文書が残されている。当時の由良川舟運の概要を知る貴重な史料である。 有路港、そして有路高瀬舟は、こうした田辺藩の舟運管理の拠点であるとともに、丹波方面への荷の積みかえ地として、また由良(宮津市)・福知山間遡航二日行程の休泊地・舟宿の地として賑わいをみせた。しかし、有路高瀬舟の栄光も、時代の進展とともにかげりをみせはじめる。天保年間(一八三〇〜四四)以降、経済圏の拡大とともに、由良・神崎舟が大型化し、川舟とは名ばかりとなり、越前・加賀から因幡・出雲にまで就航するようになった。藩の思惑を越え、商業資本と船主の専属契約の動きも起こり、中継地としての有路高瀬舟の役割は弱いものとなっていく。 有路港を真下に見おろすように建つ旧平野家は、豪壮な建物に舟役として活躍した往時の面影をとどめている。現在、同家の好意により、その建物が大江町へ寄贈され、有路地区活性化の拠点とするべく、交流促進センターとして整備計画が進められている。(村上政市) 〉 南有路の小字南有路 野上 森安 枯木 九日 古地 矢津 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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