丹後の地名

南山(みなみやま)
福知山市大江町南山


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京都府福知山市大江町南山

京都府加佐郡大江町南山

京都府加佐郡河東村南山

 

南山の概要




《南山の概要》

加佐郡の南端で東は綾部市、南は福知山市と隣接している。由良川支流の在田川、尾藤川の上流の谷あい山間地。
谷に沿って谷口から金重(かなしげ)森野(もりの)室尾谷(むろおだに)奈良原(ならわら)・広畑・奥山の6集落がある。室尾谷からサオリ峠を越えて丹波国天田郡報恩寺・山野口へ続く。この道は改修されて高速なみの道で、どこかの迂回路として使われるのか、ブンブン車が来る。「道ばっかりようなっても…」と土地の老人はぼやく。「そんな所に立っとらんと田の水を見てえな、年寄りにはわからんで。」ついでにか田も整理、近代化されすぎて自分の田でも水量調節方法が理解できなくなったようである。私も知らないのだが、どうやら農協か、農林課かの役人と間違われたようで、「ちょっと見てみましょうか」などとわかりもせんのに首をつっこむ。
奈良原・奥山からは(そう)峠を越えて丹波国何鹿郡小畑に通じる。宗谷峠とも記したようで、綾部市側では金谷峠とも呼んだようである。ソ=鉄でないのか、と思わせられる峠名であ。サオリ峠も鉄掘(サホ)り峠の意味か。観音寺や小畑六左衛門や私市円山古墳の秘密も見えそうな峠である。(すばらしいブログがある金谷峠」)

室尾谷に行基の開基と伝える町内きっての名刹・室尾谷山観音寺がある。
南山村は江戸期〜明治22年の村名で、天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年宮津藩領、元和8年からは田辺藩領。
享保18年の田辺藩全藩の惣百姓一揆には当村民も参加している。
配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は「日本九峰修行日記」文化11年(1814)12月23日条に、
「此谷は田辺領にて托鉢人一人も入れず、因て托鉢せず、然し乍ら下役と云ふ役の者の宅へ立寄り聞合せ侯処相違なき事也、領主より仰せ出されたる儀ながら、日本国修行者托鉢なくては回国出来ず、信心と云ふ事も絶ゑ果て我欲計りに相成り気の毒なる事也、分けて此の三ケ年より厳しく成りたりと云ふ、若し内証にても修業の人へ手の内施したるを聞付けたらば、庄屋落度仰付けらるゝ旨御触れ毎々ありと云」とあるという。
南山にも鉱山があった。今も鉱毒が出る出るという。
南山は明治22年〜現在の大字名。はじめ河東村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。

《南山の人口・世帯数》158・48

《主な社寺など》
鬼ケ城(545m)に室町後期、内藤尾張守または赤井悪右衛門の居城があったと伝える
鎮守は多喜紀神社・波美神社。
寺院に高野山真言宗観音寺・明応院・安養院・金剛院がある。観音寺は和銅7年行基の創建と伝える大江町きっての名刹。往古11坊を構え近郷の信仰を集めたが、江戸中期には4坊となる。寺領19石余(田辺藩土目録)。なお同寺は夏間・在田・常津3か村の檀那寺でもある。

《交通》

《産業》

南山の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 南山村
鬼ケ城いにしえ内藤尾張と云うもの住り、ここに福知山の城主小野木縫殿之助公知が家臣赤井悪右衛門(戦国時代の武士と思われる)と云うもの居城せしことあり前後を知らず。
室尾谷山観音寺は聖武天皇御宇神亀元年行基菩開基なり。本尊十一面観音 行基の作 元禄十丁丑年まで九百七十余年になる。鎮守熊野権現熊野より勧受年数右に同じ。牛頭天王の社あり貞永二年京祇園より勧受四百八十六年になる 中興開山蓮乗上人年数右に同じ、二王門ありこれまた年数同断、観音院、金剛院、妙王院、安養院四ケ寺真言宗なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 南山村 高百六拾弐石七斗壱升五台    内弐拾石三斗九升六台 万定引
    七石御用捨高
 牛頭天王 氏神
 天神宮
 薬師堂
 弁財天
 三社神
 縁起無之観音院伝来書付持参写之
 観音寺 室尾谷山 本寺高野山実成院
  寺領十九石三斗三升
  境内三千二百九十三坪 但門前在家トモ家数七軒其外山林有リ
  開基行基菩薩
  人王四十三世元明天皇和銅七甲寅年開闢
  本堂 五間四面
  本尊十一面観音 行基作 御丈尺余
  人王四十五世聖武天皇神亀元甲子年大和国
  於宝生山彫刻但長谷寺本尊同御衣木也
  脇立 不動明王 毘沙門天
  弘法大師像
  行基菩薩像
   中興開山達乗上人
  人王八十七世四条院御宇貞永二癸巳歳再興今

  年天福ト改元
 熊野権現 七尺四方
  本堂西ニ有同時代従熊野山奉勧請
 牛頭天王 六尺四方
  本堂ヨリ谷一ツ隔今ハ光リ谷ト云 堂ヨリ四丁
  余
 二王門 三間ニ二間 運慶作
 惣門 二間ニ一間半
  近頃大風ニテ軒傾危ニ付畳置
  往古十一坊在之
  内 愛染坊 弥勤坊 西坊 南光坊 不動院
  教王院 一老寺 此七ヶ寺廃寺今四ヶ寺
  教王院護摩道場在之今ハ無シ 本尊不動像
  下馬札 堂ヨリニ丁今ハ無之
  安養院 八間ニ四間 今三間ニ七間 和田垣村
  明王院 八間半ニ四間 今三間半ニ七間半 夏間村
  観音院 当時ノ書付ニハ教王院卜有 八間ニ四間 常津村
  金剛院 八間ニ四間半 今三間半七間    南山村
                    四ヶ村ノ寺
 往古十王堂 境内ニ在
 宝蔵    同 今屋敷斗
 地蔵堂   同
  本堂ヨリ未申ニ当リ鬼ヶ城有行程拾丁余
鬼ノ窟 左右五尺上下七八尺程茨木童子住シ由
 不慥後内藤尾張守一類居城之由伝説不慥 赤
 井悪右衛門居城共云伝不審
室尾谷観音寺ニ古来ヨリ神明帳有 加佐郡中七
拾七社
 正一位大川明神 正三位千滝雨引 正三位宮
前 同田力尾 有栖 猪鞍 御陰 小嶋 正
二位松尾 大社 志呂 笠売 笠原 奈具 
多礼売 津夫衣 雨引 阿具 嶋満 委文 
船度 筒 正二位上大歳(藏カ) 布留 高田 気比 
太祢 布施 息津嶋 物部 境 伊加利比売 
福徳 従二位葛嶋日原加佐姫 郡立 神並 
芝束 周津 三宅千滝加佐彦 波多 如意 加
和良 丸田添 奈多 神前 介比 正四位中村
千滝市布施 藤津 山口 剱 正四位下天蔵 
湊牧 大字賀 青山 河辺 正五位息津嶋 市
布施伊津岐 高鞍 石+召倉 大倉 従五位上池田

木津 曽保谷山口 従五位上大冨 津社伊加利
布施出雲 伊波井猪半 津嶋
 鬼ヶ城之事穴ノ内へ入見タル人ノ直咄ヲ聞
窟ノロヨリ七八尺余奥へ行当リ右ノ方一尺斗高ク
横二幅狭キ穴道有 身ヲ横ニシテ四尺斗奥へ這入幅
五尺斗ノ所ニ至リ立テ頭モツカヘス行当リ一尺斗潜
リ通ル程ノ穴有リ 四尺斗奥へ入五尺ニ左右一間半
程ノ所ニ至リ左右ニ棚ノ如ク切レテ一段高キ所有
高サ一尺斗程右ノ方ニ又奥へ入ル穴有リ入口ヲ一尺
程宛ノ石ニテ詰テロヲ塞キ入事ナラス 其棚ノ如ク
少シ高キ所ニ藤ノ八九寸廻リ程ノ藤瘤三ツ三方ニ並
へ有人ノ住ヘキ様子ニテ無シ藤コブ枯スシテ有之近
キ比置ダル様子二見ユル不思儀ハ是斗ノ由 穴ノ内
モシメラスカワキタル由
  以上書付之写  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎南山村(有田村の次、是より以南丹波の国)
【牛頭天王】
【室尾谷山観音寺】(真言宗、寺領廿石)
室尾谷山観音寺は開基行基菩薩、神亀元年の開基なり。貞永二癸巳年蓮乗上人伽藍を重修す、此を中興開山とす。塔頭四院安養院、明道院、観音院、金剛院なり。本尊十一面観音は即ち行基菩薩の作なり。堂の面に熊野権現あり神亀元年の勧請なりといふ、本堂より谷一つ隔てて牛頭天王の社あり貞永二年の勧請なり、是より二丁斗りの處に下馬札あり今亡ぶ。昔は寺中十一坊ありとて其名悉く残りぬ。
【鬼ケ城】(出図)
観音寺より坤の方に当りて山に登る凡十丁余丹波の境なり、此處に鬼の岩窟といふものあり、口の広サ五尺斗り、縦七八尺、昔茨木童子といふもの爰に住居す蓋大江山酒顛童子の一類なりといふ、されども其説慥ならず、一説に、平将門の子丹後に遁る恐らくは此人ならんか、後に赤井悪右衛門又内藤尾張守の一族城塁を構へし語り伝ふ。旧語集曰。鬼ケ城にある岩窟へ入りたる人の話に、穴の口より八尺斗り奥へ匍ふていたれば、広サ五六尺斗りの處に至る、其處は立て頭もつかへず、其奥に二尺斗りの穴あり、四尺斗り又奥へ入れば、横五六尺、高サ丈余の處に至る、其處に左右棚の如く一段高き處あり、其上に藤瘤の周八九寸斗りもあるもの三方に並べてあり、抑人の住むべき處とは思はれず、されども藤瘤の今切りたる如きは不思議に思へりといふ。  〉 

《舞鶴市史》
 〈 鉱業
加佐郡内の鉱山は、中世、南山村に銅銀山が存在したことが「田辺藩土目録」によってわかる。すなわち、
 定免四ツ四分
  一 高八石六斗九升     同村銀掘跡
とあり、江戸時代は畠になっている。
 江戸時代は「瀧洞歴世誌」に次のように記している。
 延享元年(一七四四)
  四月ヨリ池の内銀山はしまる 同むろ谷ニ而掘ル同せんげじ村二而ほる昔こわぎ長助と云者の掘し古まぶのよし
とあって、延享元年四月、藩内に三か所の採鉱が始められたのであるが、鉱石は池内の銀と室尾谷・泉源寺も同様と思われる。藩は同二年二月晦日、銀の採鉱との関係は不明であるが銅山札の発行を認めて、すでに発行の下さつ(銅山当分札か)とともに毎月引換日を設けて、札所にて藩札と引き換えるよう次のように触れている。
 銅山札出来仕候付下さつ共町方へ罷出候而
 取替申候ハゝ無滞受取候而 当札所ニ而毎
 月三日九日十三日十九日廿九日の月五日ツ
(「竹屋区有文書」)
当分札、銅山札は銀壱分札がいずれも白色、銀壱匁札は当分札が鼠色、銅山札は赤色の各々二種類であった。藩が同年五月三日、月行司平野屋町孫右衛門に渡した銅山当分札と銅山札の判鑑は写真213の通りである。銅山は何時休山したのか不明である。  〉 


《大江のむかしばなし》
 〈 弓の名人  南山西部 入江 実
 報恩寺に、弓の名人がおったと。
「あのサオリ峠の頂上のあの槍までぐらいやったら、弓の矢はとどく」というような話をしたらしいんですね。
「なにい、なんぼ、ほんなこと言うとったって、あんなとこまでとどくかい。とどくものなら、わしがあがっとるから射てみい」と言うんで、あれ、あがってみたけど、とどいたら、恐いやし、と思て、なんか、俵を丸めて、その木の上にあげといたと。そして、ところが、何の刻ちゅうたか、その時刻がありましたわいな。その、あの、
「何の刻になったら撃て」と言うたったんやと。ところが、そのう、時刻になって、下から、これ、じいっと見とったら、パチッと、あの、弓の矢が来て、当たったちゅうんですね。そして、俵を貫いたと。
ほんで、もう、大あわてで、その俵の綱切って、落としといて、ほして、自分はまたあがって見とった
ら、
「来たやろ」と、
「矢が当たったやろ」と言うんですわ。
「ほんなもん、なにが当たるかいや。さきがたから、こうして、見とるんじゃが、ちょっとも来いせん」というて、話したと。ほで、その人は恥じて、そのう、腹切ったっちゅうんですが。なんか、そうして、その家には、いつでも赤毛の子供ができるんだというような話を、婆さんに聞いたことありますけんね。
それが、今、思うと、あの、山淑大夫の木ですわあ。


夜嵐という名の男 南山西部  室寺 節応
 たいへんの力持ちで、ふんどしも竹でしょられたと。しかも、一町歩の田んぼをね、一晩の間にもう働いてしまいよったと、自分で。まあ、ずいぶんの強力の人やって、しかも、弓の名人でもあったと。
志賀のお寺からね、ずいぶん遠いところの山まで、一キロ五百ほどあったらしいんですけどねえ、またがっても見事にあてたと。ずいぶん弓の名人でもあったと。
(注)夜嵐というのは梅垣さんという家の先祖とかで、その邸宅の一部が現在、室生谷の旧明王院の奥座敷になっているという。  〉 

『由良川子ども風土記』
鉱山の赤い川
 〈 大江町・美河小五年友次美幸
この川どうして赤いの?
私がまだ小さかった時は、お父さんの会社に近い福知山に住んでいました。南山のおばあちゃんの家に遊びに行った日、家の前の室谷川を見て不思議でした。その水はオレンジジュースが流れているのかなとか、赤チンを流しているのかな、と思うほど赤い水だったからです。それに、この川には一ぴきも魚が見あたらないんです。−お父さんとつりに行った由良川にはたくさんいたのに−魚つりが好きな私は、川をうらめしげに見ていました。小さいころは、そういうことをよく思いましたが、別にどうしてかということは聞こうとは思いませんでした。二年生になって、転校しておばあちゃんの家に住むようになってから、やっと鉱山のりゅうか鉄が水や空気にふれて変化して川に流れこみ、こんな赤い川になったということが分りました。魚が住まないのも鉱山のりゅうか鉄のせいでした。
カドミウム
五年生になってはじめて公害の学習をしました。イタイイタイ病、水俣病、まん性ヒソ中毒、四日市ゼンソクなどの公害による病気もならいました。その中で一番私をひきつけたのは、富山県のイタイイタイ病です。この病気は鉱山から流れ出る水の中にカドミウムがとけこんでいて、その水をのんだ人がかかる病気です。その病気にかかった人は、骨が弱くなって少しでも体を動かすと、骨がポキポキとおれて、「イタイ!イタイ!」と泣きさけぶそうです。でも、そんな病気になるということがわかっていたら誰もその水をのんだりするわけがありません。ところが、カドミウムは無色とう明で人間の目では見えないし、水の味もカドミウムが流れる前と別に変わったところがないので、知らず知らずにのんでしまうのでしょう。カドミウムのもう一つ恐ろしいことは、一度体にはいると体の外へ出て行かず、だんだんたまってしまうことです。一回や一日にのむ水の中のカドミウムは少なくても、長い間にたまって、一定の量になると発病してしまうのです。一度発病すると、今の進んだ医学でも完全になおすことがむつかしいという恐ろしい病気だそうです。
でも、幸いに南山の鉱山から流れる川に入っているカドミウムは少なく、りゅうか鉄が流れこんで川が赤くなったのでだれものまなかったわけです。だから南山に住んでいる人は、富山県のようにイタイイタイ病になって苦しんでいる人は一人もおられません。
南山鉱山
南山鉱山は、大正七年から日本鋼管という会社がほっていました。最初のうちは働く人の人数もあまり多くなく、南山のあたりの家で一間か二間をかりて住んでおられたそうです。私の家にも六人住んでおられたそうです。鉱山の中はまっ暗で、その当時は電気もかいちゅう電灯もないので、ガス灯をもって入られたそうです。鉱山の穴は四つ、一つはとても小さく他の三つは高さニメートルニ○センチで、一番長かった坑道は四〇〇メートルです。その坑道の中を一日八時間三こうたいで、夜も働く人がおられたのです。坑道の中は冬あたたかいので、働く人のための弁当作りをその中でされたということです。南山の鉱山で、鉱みゃくは主に黄鉄鉱と黄銅鉱です。坑道にはレールが二本ひいてあって鉱石をトロッコに積んで運び出されたそうです。しばらくすると、鉱山で働く人の人数は千人にものぼり、中には家族ぐるみで働く人も多かったそうです。だから鉱山に平屋住宅を建てて、そこに住むようになりました。私のおじいちゃんの話ですが、仕事をおえてユカタ姿で鉱山の近くを歩く人がすごい行列になっていたといいますから、そのころは全国各地から集まって来られたのです。それから五年たって、鉱山は休山してしまいました。鉱石は重くて安く、ほる人に払う賃金の方が高くなりひきあわなくなったためだそうです。
赤い川とのたたかい
川の色は、ほりかけた日からだんだん赤くなってきて、魚のなどもいつの間にかすまなくなってきました。南山の人も石灰で水をこすことを考えたのですが、石灰もすぐ赤くなって、その石灰を川からとり出すのにひまがかかり、その上水の色は変わらないのです。何度かやっているうちに、南山に住んでいる人のほうが根負けしてやあられたそうです。赤い水を使った田の水は、今では“のり”にする米として買ってもらっていますが、カドミウムが米にもはいっていて、それを食べると前に書いた通りの害があるのです。米作りからなし作りにかえた田は三ヘクタールもありました。今でもなし作りをつづけている畑は、南山に三軒だけで三〇アールです。なし作りは、米作りの三倍から四倍もの労力がかかり、実ったらきずをつけぬようすぐ売ってしまわねばならないので、次々とやめられてしまいました。でも私の家では今でもなし作りをつづけています。鉱山は、休山になってから会社が次々と変わり、間をおいては堀っていかれました。鉱山のボタ山は、鉱石をせんべつしていらない鉱石がほかしてあるそうです。昭和四十五年頃から公害を防ぐための大工事が、国、府、町の力でつづいて行なわれています。また、ボタ山には別に三〇センチのもり土をして種をまく。そして雨水がボタ山を洗って川に流れこまないようにする工事です。それからトラバーチンという沖縄のサンゴを使って水をろかする工事もすすめられています。そのせいか赤い水は少しうすくなってきました。それでも夏になると、ほかのきれいな川は魚がすいすい泳いでいるのに、私の家の前の川はきたない水あかが浮かび上がり、島みたいになっています。その上によごれたカエルがのり、ケロケロといいながら流れていきます。私の家より一キロほどしもの金重では魚も少しいるようになり、泳ぐこともできるようになりました。そこでは「ダム」を作ったりして泳ぐそうですが、目がいたくなったりするので水中めがねをかけたり、泳いだあとは湯かぬるま湯で体を洗うということです。私の家の前の川も、もう何年かしたらせめて金重のようになるのでしょうか。川は、少しずつきれいになっていくかも知れませんが、金重より一つ川下の在田の田の米は、カドミウム米しかとれません。それは、由良川が増水するたびに一時せきとめられてしまう鉱山の水が、在田の田にりゅうか鉄やカドミウムをためてしまったからです。今、由良川の改修で川はばを広げる工事が進められていますが、その土を使って一メートル以上の土をのせ、害のない作物が出来るよう工事中です。府や国の公害対策がもっともっと進んで、一日も早く魚の住む川ときれいな米のとれる田になるように………と、私は思います。

鉱山公害
大江町・美河小五年 浅野満 白銀和浩
ぼくの父は今、南山鉱山あとの鉱害防止工事をうけもって、昭和五十三年十二月から仕事をやっています。工事は今までに三回行なわれました。
第一期工事(46年)は、第二、第三坑をふさいだり、貯水池のうめたてでした。穴をふさいだら、近くの山から地下水がふき出たために第二期工事が始められました。
第二期工事(48年)では三坑から合流点までの排水路にうかそうちがつくられました。けれどもあまりきれいな水にならず、その効果はうすかったそうです。
第三期工事(52年)第一坑、第二坑をふさぐ。沈でん池のうめたて、三〇センチメートルほど土を上におき、しばを植える。今やっている第四期工事班婚まって、父は落差工事を作ったり、ボタ山をバックホーンやブルドーザーでけずり、その上に三〇センチメートルほどの土をかぶせて、木や草を植える仕事をしているのです。
三学期になってぼくたちは公害の学習をし、大江町の公害についても学習をしているうちに、南山の鉱山の事も調べるようになって、役場で鉱山の歴史を調べました。すると、江戸時代からほっていた事がわかってびっくりしました。こんなに古い鉱山とは、これまで聞いたこともなかったからです。
表にまとめると次のようになります。
福知山鉱山の歴史 (大江町役場の資料から)
江戸時代1684〜1700
銀座、山野口鉱山。銀を採掘。銀山奉行所があった。
明治時代中頃
第一坑、第二坑の古い坑口が見つかる。
大正七年
日本鋼管株式会社が鬼ケ城鉱山と名付けて硫化鉄を採掘する。第三坑も採掘、後第一次世界大戦後の世界経済恐慌で休鉱。
昭和二十六年
福知鉱山と称し再開。昭和四十四年閉山。硫化鉄鉱のほか、金・銀・銅・鉛・亜鉛なども採掘した。

役場のおじさんに、当時鉱山で働いていた人がいることを教えてもらいました。ぼく達は土曜日の昼から南山の友次泰之助さんの家へ行き、いろいろ話を聞きました。話によると、このあたりは大江町で一番早く電気がついたそうです。働いている人の宿は、田や畑をつぶして学校の校舎くらいの大きさで三階建てのものだったそうだし、映画館もあり、店もたくさんあったそうです。ぼく達は、「この辺りは、大江町で一番にぎやかになったことがあるんだな」と話し合いました。
いろいろな公害の学習のあとで(昭和五十四年)二月二六日ぼく達五年生は福知山鉱山跡へ見学に行きました。在田川の石は、赤くよごれていました。奥にはいるほど、赤というよりだいだい色に近くなりました。鉱山の手前まで行くと川が二つに分れ、上から流れてくる本流はきれいなのに横から(鉱山の方から)流れてはいる川は全くのだいだいで、白と黒のようにはっきりしています。川の水はそんなによごれているようには見えないのに、石やコンクリートだけがひどくよごれているのが不思議でした。鉱山に登ると、落差工という水の通り道が作ってありました。落差工とは、みぞの変形したようなものです。第三坑につきました。三坑にはいると、水をきれいにする工夫がしてありました。その工夫というのは、水の通る所に水そうのような物を三つつくり、その中にトラバーチンという沖縄のさんごしょうを入れて、パイプから流れ出てくる水をトラバーチンによってろ過するのです。その効果がでてきてきれいな水になってきているそうです。三坑の見学がすみ、一坑と二坑に行きました。両方とも穴がふさいでありました。なぜかと聞くと、硫化鉄鉱が空気で化学反応をおこして変なにおいが出ないように、坑の中にあった空気を全部ぬいてしめきったのだそうです。ぼく達はこの学習を終って鉱山公害のことがよくわかったけれど、これからあと川のよごれた石などはどう処理するのだろうと思ったし、これで本当に0ppmになるだろうかとも思いました。一度出た害は完全に元にかえるかぼく達にはわからない。人間の体に与えた害は完全に元にかえることはないのだから、これからは工業の発達をすすめるのと、公害を出さない新しい技術をすすめるのとを一諸にしてほしいと思いました。ほかの地方でも公害で困っている人が多く、死亡者もたくさん出ているのだから。  〉 




南山の小字


南山 イシダ ランデン ロクロダニ ダン トタミダニ フチガタニ タナカ カタヤマ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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