三宅神社(みやけじんじゃ)
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京都府舞鶴市北吸糸 |
三宅神社《三宅神社の概要》 三宅神社は大門通りを西へ突き当たった、北吸三差路の西の少し高い山腹にある。舞鶴市役所のすぐ北側の山腹で石段があって下からでも「三宅神社」と書かれた看板が見える。 元々からここにこうしてあったのではなく、もう一つ西側の谷である現在の三宅団地にあった「三宝荒神」だったのだが、明治の神仏分離令によって「北吸神社」となり、さらに同十五年に「三宅神社」と改称したという。これは延喜式神名帳所載の三宅神社に比定したためで、今も石段下には「式内三宅神社」の石柱が立っている。祭礼の幟にもそう書かれている。 明治二十四年、元の北吸は軍用地(射撃場)になって立ち退かされた、全戸が糸谷(現在の北吸谷)や浜地区に移住した。元「三宅神社」も同時にここに移ったのであった。 《祭礼の様子》 私は元ここの氏子であった。7月10日が祭日なのでちょっとのぞいてみた。もう50年も昔になってしまったが、この急な石段が歩けないほどの人出で賑わっていた当時と較べてもずいぶんとさびれた(失礼)お祭りになっている。 本来の祭神は不明であろう。問題はこの神社が本当に式内社の三宅神社に当たるのかどうかという点であろうか。 ただ三宅そのものがよくわかっていないので、この社の比定の決着は当面はつきそうにもない。どの社もそれなりに正当性があるのだが、式内社は一社だけだろうから、今は言った者勝ちというところか。 式内・三宅神社は三宅郷の総鎮守であろうから、三宅郷との関わりから考えていくより方法はないと思われが、その三宅郷もわからない。郷がつくれるほどの人口がいたというなら後に余戸郷となるのは苦しくなる。 残欠に河辺坐三宅社とあり、これが後の式内社であろうから、現在の河辺八幡社がこれに当たるという説もある。「河辺坐」と限定されているところから逆に推測すれば三宅と名乗る社は他にもあったのではないかとも思われる。 「室尾山観音寺神名帳」には「従二位三宅明神」と「正三位三宅明神」の二社が書かれている。重複しているのではなく、少なくとも似たような神階をもつ同名の社が二社あったとも思われる。 『丹哥府志』は、 〈 【三宅神社】(延喜式) 三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日 〉 『ふるさと岡田中』は、 〈 猪倉神社の…境内社として大川神社・三宅神社あり、三宅社には荒神社と祇園社・稲荷神社がある。昭和四十年字内の六社を迎えることになり、山王神社・愛宕神社・秋葉神社・妙見宮・八幡神社の五社を一宇に分祀、稲荷神社は三宅社の稲荷社に合祀した。 〉 三宅はかなり広い範囲にあったもので、これは稲ではなく、鉄の屯倉であろう。稲の屯倉では運賃のほうが高く付いてしまう。少量で高価なものでないと商売にはならない、屯倉をつくる意味がない。大王は稲よりも鉄が欲しいのである。鉄を制する者が国家を制するのである。 鉄を求めて移動するので彼らは農民のように同じ所に定着していたわけではない。行ったところで祀っていたと思われる。あちこちにあるのはそうした理由と思われる。北吸以外は皆鉄のありそうな所である。 古記録を見ていてもわかるまい、経済面から見てみよう。仮に稲の屯倉とすれば、耕地が狭すぎ問題にならない。鉄は今のところは不明である。余戸というのか古くは恐らく邇保と呼ばれた所で銅鐸の出土地でもあるから、水銀や鉄もがあったかも知れない。水銀なら鉄よりも高価だが、はたして多くあったかどうか。 三宅神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 三宅郷 河辺坐三宅社 〉 三宅郷は「本字前用」として、高橋郷と大内郷の間に書かれている。最後から二番目に余戸も書かれている。 《丹後旧事記・別名丹後細見録》 〈 三宅神社。河辺中村。祭神=稲倉持命。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(京都府地誌) 〈 北吸神社。社地東西六間南北九間面積五十四坪。村ノ西ニアリ豊宇気姫命ヲ祭ル相伝ヲ往古ハ儼然タル大社ナリシヲ何レノ頃カ衰微ニ就ク今本社傍近に字神子屋敷字宮ノ平等ノ地アリ蓋シ其遺址ナラン境内末社一宇アリ明治十五年十月三宅神社ト改称ス (夏祭り)八月三日、(秋祭り)十一月三日、子供神輿が出る。今はなし。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社調査書) 〈 一、神社所在地。京都府加佐郡新舞鶴町字北吸小字三宅谷鎮座。 二、社格神社名。無格社・三宅神社。 三、祭神。豊宇気姫命 多遅摩毛理 四、由緒創立時創立 〉 《地名辞書》 〈 三宅神社は倉橋村大字北吸に在り、又式内社の一也。 〉 『丹後史料叢書五』所収「丹後国式内神社取調書」 〈 三宅神社 【考案記】北吸村是ナラン【道】同【姓録】三宅連新羅国王子天日桙命之後也【式考】天眞名井孝ニ公荘村ニアリ今村中ニ三社アリ其中ニ熊野若宮社イト古シ社伝記ニ麻呂子親王ノ臣等ヲシテ御造営アリシ由其後今ノ地ニ遷座云々) (志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志 〉 《舞鶴史話》(昭和29年) 〈 三宅神社(祭神三宅達祖か。渡辺延経の「神明帳考証」は豊宇気娠命としています。所在北吸。) 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(北吸邑旧事記一輯) 〈 三宅神社私考 三宅神社が今から千年前の延喜格式にのせられている。その格式の内にのせられてゐるために式内社と呼ばれ、式内社である事はその神社が古くからあったと言ふ証拠になるので、どこの町でも村でも式内社の奪ひ合ひが多いのであらう。所が一千年の歳月を隔ててゐるために確実な証明を得る事は仲々難しい。又一、二の材料で決定しても後から証拠が出ると又換えねばならぬ様な事になり、又その決定の材料の確実さも充分に研究してかからねばならない。 現在問題になっている北吸の三宅神社が式内社でない。あれは全く誤りであると説く人もあるが、併し明治の初年、徳川時代を通じて吾々新舞鶴町民の先祖が、この神社を三宅大荒社と呼んで地方の崇敬をあさめてゐたには必ず何か據る所があったもので、明治の初年に軽々に式内社に定められた訳ではないと思はれる。以下私は昭和四年十二月末から冬休み一週間の間に見聞した三宅神社問題に就いて感じの侭を書きつけて見る。勿論、この書きものは三宅神社計りでなく、明治二十二年五月、舞鶴軍港開設によって、軍港内より現在の地に移転した事などを書きつけて滅びんとする北吸の旧い事を書きしるさうと思ふのである。 三宅神社は北吸村にありと言ふ説 (一)内務省蔵版 特選神名牒は最近の考証にかかる最も信用するに足る神名牒であるが、この書の中に三宅神社に関して次の様な文句が引かれてある。 三宅神社 祭神、今按姓氏録に三宅ノ連ハ新羅ノ国ノ王子天日桙命之後也。又古事記に三宅ノ連等之祖名多遅摩毛理云々と見えて其族類の但馬国に住りしことあり。丹後は其の隣国なるを以て同じ氏人の此国にも移り住めるが祭れる社なるべし。 祭日、 社格、 所在。今按式内神社道志流倍ミチシルベに三宅神社北吸村と見えたるを明細帳に合せ考へるに北吸村北吸社とあり、此社なるべし。されど明細帳に三宅神社なる由を云はねば、いかにとも定めがたし。 『この論から推して考へると、三宅神社を祀る人々の先祖は朝鮮の貴族の末裔と言ふ事になり。但馬ノ国から此辺へ海に沿ふて移住して来たものである。又三宅神社を祭ってある場所はよほど海に接した場所であると推定してもよい。旧北吸村の三宅神社の御神域は海浜を去る約四町の処である。』 (二)式内神社道志流倍には三宅神社は北吸村にあり。と明記されてたる由、特選神名牒にあり。 『この式内神社道志流倍を私は見ないのであるが、私の記憶では丹後一宮神社の禰宜であった特志の式内社研究家が諸書を渉猟して明治初年に書いたものと記憶してゐる。所が今問題になってゐる丹後風土記加佐郡残欠が古くから一宮神社に所蔵されてゐた事は疑ふ事は出来ない。その著書を参考しなかった理由はどこにあるだらう。この問題も軽々に看過してはならない。』 (三)大日本地名辞書 吉田東伍博士著 椋橋郷 和名抄に加佐郡高橋郷とあり。高橋は椋橋の誤ならむ。高山寺本に椋橋に作れり。今の倉梯村 与保呂村に当る。志楽郷の西。三宅神社は倉梯村大字北吸にあり。又式内社の一なり。 『吉田東伍氏の地名辞書は学界に相当の権威を有する書物である。東吾氏の地名に関する論断は科学的で吾々の信用してよい本である。三宅神社は北吸村にありとの明快な断定の基礎になって居る材料についての研究は今後の研究問題とせねばならぬ、又東吾博士が和名抄に高橋郷と書いたのは恐らく誤りであらう。古写本を多く残してゐた点で名高い京都北山にある高山寺本には椋橋とあるから、と論じて居られるるのを見ると、吾々は吉田説に賛成して、倉梯はもとから椋橋で高橋郷と書いた書物は誤った和名抄から索強附会したものではないかと疑ひを挟みたく、丹後古風土記加佐郡残欠がほんとに古い時代に作られたものであったら、椋橋とあるべきと私は信じる。高橋と書いてお伽噺の様な説明がしてあるのが吾々の研究問題として残る。』 (四)加佐郡室尾谷観音寺に在る神名帳扣 観音寺蔵の神名帳扣には、従二位三宅明神と記し、正三位河辺明神とある。三宅神社と河辺神社とを区別し、奥書の年号には于時元禄十二年卯十二月十二日 室尾谷観音寺明王院 先住慶等上人御筆ナリ。とある。 『時代によって隆替盛衰は免れない。現在はともかくとして元禄年間には公平な第三者の眼には、北吸の三宅神社は従二位であり、河辺明神は正三位であった事は疑ひ得ない。元禄と言へば約二百五十年を隔ててゐる。』 (五)大日本史 徳川光圀 徳川光圀卿が諸国の学者を召して編纂された大日本史に中にも堂々と式内社三宅神社は北吸村にあり。と論断してゐられる。ここに大日本史の信用価値を喋々と述べる必要はないと思ふ。 (六)神社覈録 神社覈録にも北吸村に式内三宅神社あり、と論じたる由なれど、その書を見ざれば今茲に意見を述ぶる事が出来ない。 〉 《舞鶴市史・各説編》 〈 三宅神社 三宅神社もまた所在地に異説がある。ミヤケを屯倉であろうと解釈する場合、これは大化改新(六四五)以前の皇室領を指す。この領内には穀倉としての屯倉が建ち、倉に収納した穀物を神格化するところから神社が成立する。これがミヤケの社である。一方、三宅は「三宅達等之祖多遅摩毛理」(古事記)とか「三宅連。新羅国王の子、天日桙の後なり」(新撰姓氏録・右京諸蕃下)、または「三宅史。山田宿称と同じぎ祖、忠意の後なり」(同。河内国諸蕃)として中国(魏)の出自であるとする。 北吸の三宅神社の祭神は豊宇気姫命である。同社は軍港設置に伴い現在地へ移転したもので、近世には三宅荒神または単に荒神と称えていたが、明治五年に北吸神社、更に十五年に三宅神社と改称した。もちろん「神名帳」所載の三宅神社をこれに比定したためである。祭神を豊宇気姫命としたのは、三宝荒神が台所の守護神(竃の神)であるところから、明治の神仏分離令によって同じ食物に関係深い神を祀ったものである。 この三宅神社を式内とする考え方に、河辺中の八幡神社側から異議が唱えられ、この神社を式内三宅八幡神社と改称するよう府知事へ許可を求める運動が派生するなど、一時期世間の耳目を集めた。 八幡神社 河辺中の八幡神社を「神名帳」所載の三宅神社とするなら、「延喜式」編集以後に八幡神を勧請したことになる。同神社をもって三宅神社とする最大の根拠の一つは、「丹後風土記」残欠に「河辺坐三宅社」とする一行があるからであるが、この残欠に対する史料検討が完全ではない現在、直ちに河辺中を所祭地とすることには無理がある。また八幡神社がなぜ三宅神社でなければならないのか、この説明も十分ではない。同社は江戸期「正八幡」(旧語集)と称しており、この名称は大浦地区に多い。境内に貞治三年(一三六四)北朝年号を刻む石灯籠があって、当市の文化財に指定されている。 八幡神は早くから仏教と晋合したが、民間に流布するのは本地垂迹説(思想)の完成する中世以降とされるから、同社の起源については、「神名帳」所載の三宅神社が、八幡神の流布によって祭神が替わったか、あるいは創建当初より八幡神を祀ったか、検討の余地が多い。 また更に、喜多に鎮座する宮崎神社をもって三宅神社に当てる書(丹哥府志)もある。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収長浜宇平言行三束抜刷 〈 三宅神社の式内号に就て 九、三宅神社の式内号に就て 之は受け太刀であり、固とから私の目論んだことでなく、中途に話を聞いて気の毒に思って相談に乗ったまでのものであるが、多少携はった事だから後考の為めに買いて置く。昭和五年四月の初旬に新舞鶴町北吸の梅垣隆茂、奥田忠芳両君から三宅神社の式内外に関する文献に就てお尋ねがあり、亜で来訪に接して文献を蒐集するに至った事情を聞く「式の三宅神社が旧と北吸村にあったのが軍港創設によって、今の地に移転して来たけれども勿体ないことながら祭祀が怠りがちで、つひ先年まで漸く雨露を凌ぐ程度の粗祠を構へて仮鎮座のままになってゐたのに、大正十五年境息を拡張し社殿を修築し、社頭に式内三宅神社の標柱を建てた処が、東大浦村字河辺中の八幡神社から、式内三宅神社といふのはこちらであるのに、新開地の新舞鶴に新に創建した式外の神社に式内を呼称されては、将来に紛更を胎すものであるから、八幡に式内の二字と三宅の社号を冠せて、式内三宅八幡神社と改称方を出願した。当然の行き掛り上我が三宅神社に式内を呼称する資料の提出方を命ぜられたが、資料の蒐集も意の如くに捗らず、府庁相手に勝手も判らぬので何分にも」といふのであった。一体加佐郡の式内神社中、三宅神社は或は河辺中だと云ひ或は北吸だと云ひ或は喜多村だと云ひ、或は公庄だと云ひ、諸説紛々として一定してゐない。私は其の全体に渉っても亦個々に就ても深く穿鑿した事も無いし、随って其の孰れが是であり非であるかを判断するの明もない。「其の内審べて御返事しやう」と約束して分れた。事実両君は同社に関する大部分の資料を既に漁っておゐでた。私の知っている範囲の文献ではあと二、三点に過ぎないまで採録されてゐた。是れより曩き大正十四年九月三日、橋立新聞第一二六二号に此の神社のことが見えて居たので、兎もあれ其の新聞紙を保存する気になって今日に至ったので、いの両君の話を聞けばまん更初ぶでもなくて、何んだか馴染があるやうな気がした。同紙曰、三宅神社には立派な由緒がある 新舞鶴町北吸区では出雲、三宅両神社の合併が、上下両者の寄付金の多募から最初三宅神社を出雲神社に併祀する筈であったのを、下方面の寄金が多いと云ふ理由で三宅神社へ出雲神社を併祀し?と云ふ説が出て、やつさもつさと不景気の中で揉み合ってゐたが、此の紛擾の真つ只中へ局外者から一つの新しい議論が持ち出された。と云ふのは三宅神社は余程古くから祭祀されてゐたもので、度会延経の神名帳考証を初め、神社覈録、神祇志料、大日本神社志、地名辞書、地理志料等にも記載されてゐる程の神社である。斯かる由緒ある神社を大した理由もなしに僅々十数年以前に祭られた出雲神社に併祀して了ふと云ふことは怪しからぬ。郷土史跡保存の意味から言っても執らぬ処である。若し一区に二個の氏神あるを不適当とするならば、多少の利害問題を抜きにして、出雲神社を三宅神社に移すべきものである云々。 と、是れは今度の事件に直接関係の無い事であるが、間接には幾分の聯繋もあり又それが誘因の一つになった様な点も無いとは云へないから、概説すれば維新前此の辺には近郷数ケ在を引つくるめて、一氏神を祭る習慣があって、例へば倉梯谷三ケ村は森の大森明神を氏神とし、池内谷八ケ村は布敷の池姫明神を氏神とし、祖母谷三ケ村は堂奥の山口明神を氏神とし、大内谷九ケ村は今田の倭文神社を氏神に仰いでゐやうに此の北吸村も余部上下、和田、下安久、長浜の六ケ村が長浜の高倉八幡を氏神とし、村々各自には夫々鎮守の社があって其れを産土神とし、其の産土神は隣りの鎮守の産土子と共に其の一郷の氏神の氏子となってゐたもので、明治維新の政変に神祇官が復興し、大小の神社に社格が制定された際に村々の鎮守は概ね無格社に落され、村々を包括した一郷の氏神が概ね村社に列せられ、此所のも高倉八幡は村社に列せられ北吸の鎮守は無格社に落とされて列格せなかった。延喜式内社が無格社になって式外の神社が有格社になったのは、前項久理陀神社も同様で他にも類例はある。当時北吸には三宅神社の外に出雲明神があって明治二十二年軍港指定地に編入されたとき、孰れも逐ひ出されて山超え谷超えして、今の地に移転したもので、夫れが双方とも一時送りの仮鎮座のままになってゐた。所がそれでは明神に対して相ひ済まぬからとて、社殿を新築して両社を合祀しやうといふ事になった迄は良かったが、祭祀の位置に就て両社確執が起り双方意気張りになって、寄付金を纏めた結果三宅神社は意外な資金が出来たので、境域の拡張も行ひ社殿の建築から賽道の改修、其の他の施設に至るまで実際面目を一新する工事が行はれて、前の話のやうに昭和二年一月式内三宅神社と彫った大石柱も建てられた。其れが誘因となって今度の事件が起ったもので、河辺中の八幡側の言ひ分を聞けば能く解かる。即ち概要を抄録すれば、神社社号改変ニ付許可願 当神社社号ヲ式内称テ冠シ左記ノ通改変致シ度候ニ付御許可相成度此段相願候也、年月日、 神社、 府知事殿 記 式内三宅八幡神社 理由 敬神崇祖ノ思想ヲ啓培シ我国家観念ヲ益々堅固タラシムル事ハ、現時思想ノ趣向ニ鑑ミ極メテ緊要ナルハ言ヲ俟タズ。敬神崇祖ノ思想ヲ啓培スルニハ地方ニ鎮座セル神社ノ氏子又ハ崇敬者ニ其ノ神社奉祀ノ歴史的智識ヲ与ヘ、如何ニ祖先ヨリ伝統的ニ之ヲ敬仰崇拝シ、是ヲ以テ道徳ノ中心トシ思想ヲ醇美ニシ良俗ヲ醸致シ来リタルカヲ普ク知詳セシムルハ最モ有力ナル方法ト思料シ、即チ氏神ヲ中心トシテ思想善導ニ努メタル結果著シク敬神ノ念高潮シ来リ、近時氏子並ニ崇敬者ヨリ社号ヲ奉祀当時ノ号ニ改メ益々敬神ノ実ヲ挙ケントノ希望切実ナルモノアルニ依リ、本願ニ及ビシ次第ナリ。抑モ当八幡神社ハ之ヲ文献並ニ実物ニ徴スルニ古ハ「三宅神社」ト号シ中世(武家時代ノ末期)現号ニ改メタルモノニシテ今其文献ノ著シキモノヲ挙ゲンニ、 一、延喜式神名帳ニ「三宅神社」トアリ 二、丹後風土記所載「河辺坐三宅社」トアリ 三、丹後旧事記所載「三宅神社河辺中村」トアリ 四、加佐郡祭神秘録所載「三宅社祭神見風土記在河辺岩津森」トアリ 五、加佐郡誌所載「当社ハ往昔三宅八幡宮ト称シ云々」トアリ 六、氏子保存ニ係ル古幟ニ「式内三宅神社」ト記セルアリ 等ニシテ実ニ千有余年前ヨリ三宅神社ト号シタル事歴然タリ。依テ中世改変シタル現号ニ古称ノ「三宅」ヲ冠シ「三宅八幡神社」ト改号シ古称ノ保存ト共ニ益々神威ノ尊?維持ニ努メントスルモノナリ。 大体斯んな願書が八幡から提出せられた処、社寺課で一応調査の上学務部長の名を以て東大浦村長に対し「貴部内村社八幡神社名変更願進達相成候処左ノ廉御調越相成度、追テ「式内」ノ二字ハ不必要ト認メ候条再考相成度申添候」と言って、其の調査の廉として往年三宅神社と称せし文献及び現号「八幡神社を称へし因由並にその古記録の提出方を通達して来た。此れに対する答申が、 一、式内称ノ事 式内称ハ社号ニ非ラザルモ之レヲ冠称スル事ヲモ願出デタルハ、今回変更スル社号ハ延喜式神名帳ニアル社号ト異ルモ、式内社タル事ヲ後世ニ至ルモ明白タラシメ現ニ当郡新舞鶴町字北吸ニ「三宅神社」と称スルアリテ近時右社号ノ上ニ式内ヲ冠シ大柱石ニウテ彫リ社前ニ樹ツルアリテ、異口彼是正否混同ヲ盛リタルニ因ルモノナリ。 と、謂って北吸の三宅神社の社頭に建てた式内神社の標柱が事件を誘発したことを明かにしてゐる。八幡が式の三宅神社だといふ文献は願書記載の通りであり、中世以後現号の八幡と呼ばれるに至った因由や古記録の傍証として、神社造営の棟札、石燈篭名、鰐口銘、写真その他数点提出されたけれども、先方の神社のことであるから此には省く。それから社寺課長の実地調査となり、三宅神社へ式内を呼称する証拠書類提出方の下命となったもので、三宅神社は思はぬ黒艦に御鎮座以来太平の夢を破りに来られた訳である。其の文書に曰、 四社第二一二四号 昭和四年十一月二十五日 京都府学務部長 印 加佐郡新舞鶴町長殿 神社式内称号呼称ニ関スル件 貴部内字北吸三宅神社ニ於テ式内神社ノ称号ヲ呼称致シ居リ候趣ニ候処、調査上必要有之候条之ガ立証記録並ニ関係文書ノ写提出セシメラレ度 右照会候也 式内社だといふなら、其の式内たるの証拠が有るだらう?有るなら出せ!は無いなら式内だと云ふな!と、云ふ意味を含んでゐる様にも読める。私の産土神三重神社の式内に就て前述の如く、明治二年に与謝郡金屋村の国守神社から式内の棚卸しに来られ、明治三年以後森本の大屋神社から又棚卸しに来られ、殊に大屋神社のは明治十三年五月社頭に式内を冠する社号標識を建設して、翌年八月式内三重神社の尊厳を窺観するは不届けだとあって撤却を命ぜられた先例があるにも拘らず、大正七年九月に復た又「明治九年」と偽刻した式内の石柱を建てた位で、式内の社号を窺観することは何も三宅神社に限った事では無く、栗田村の式内久理陀神社が式外の住吉神社に明治二年から大正二年まで、鼻毛を読まれてゐたのも同じことである。三重神社にしろ栗田神社にしろ、相手方の意志が通るものなら式内の呼称に熨斗をつけるのが至当であり、其れは三宅神社に取って容易ならぬ恐怖である。東奔西走資料の採訪に労するは神社に忠ならんとする産土子等当然の義務であらねばならぬ。が、何所の神社でも典拠が其処らに転がって居る訳では無いから、文献も中々見付からず提出も自然遅延する。仕方がなしに三月末日迄延期願を出し、更に三月末に九月末日迄の延期懇願書を出した。処が四月十五日に、 四社第二一二四号 昭和五年四月十五日 京都府学務部長 印 加佐郡新舞鶴町長殿 神社式内呼称ニ関スル件 客年十一月二十五日四社二一二四号ヲ以テ標記ニ関シ照会致シ候ニ対シ本年一月二十七日社発第三七号御回答並ニ今回神社ヨリ提出アリタル懇願書御進達ノ次第モ有之候処本来本照会ハ立証記録並ニ関係文書ノ写ヲ提出アリタキ趣旨ニ候ヘバ斯様ニ遅延スル事由ニ乏シクニ付現在ニ於テ?リ居ルモノヲ至急提出セシメラレ度候也 追テ此際提出無之トキハ当該物件無之モノト承知致スベキニ付御伝示ノ上可然御取斗相成度申添候 提出せざるに於ては無きものと読む!宛然欠席裁判その侭である。被告は原告の主張を認めたもの也では、神様に対して申訳けないから退つ引きならぬ破目であり、兎も角蒐め得たる文献を提出し、人事を尽くして天命を待つの外は無い。最も府庁が斯かる態度に出た裏面には、政党政派の暗闘が介在してゐる事を耳にした。それは新舞鶴町は大部分民政党宮内一派の勢力範囲で、舞鶴町は之れに反して政友会水島代議士の地元である。然るに三宅神社関係の有力者小川甚之助君を始め、誰れ彼れは政友会の陣笠であるから彼等が骨折ってゐる三宅神社は、頭から潰して彼等の鼻柱を挫いで遣れ。と、足元から鳥が立って某方面に頻りに或る種の運動が行はれたといふ。神社の問題が政争の具に供せらるる等は以ての外で、流石に本省では其の方面に超越してゐる。其れか府庁で民政党内閣の時の天下の鼻息を覗ふのは、当然ながら、神聖なるべき神社の問題にまで、煽り風を受けてゐるといふのだから、聞くだに遺憾の極みである。が、夫れを撥ばいて見た処で仕方無いから有り丈けの資料を出す。 昭和五年四月二十六日 新舞鶴町鎮座 三宅神社 右社掌 梅垣隆茂 印 京都府学務部長殿 三宅神社式内呼称ニ関スル古記録並ニ関係文書提出方御照会越相成早速取調進達可申上ノ処資料散逸等ノ為メ彼此延引甚ダ申訳無之義ニ有之候不取敢現在迄ニ相分リ候分取纏メ別冊の通提出申上候間宜敷御高配賜リ度候 参考資料 第一号 延喜式第十 (藤原忠平等) 加佐郡十一座 大一座小十座 三宅神社 左記亦タ同文 神祇神名記 (卜部朝臣) 神名帳考証 (出口延経) 同 (伴 信友) 第二号 丹後国式内六十五社垂迹并熊野郡神社本源考 (佐治正遊) 加佐郡十一座 三宅神社 三宅村 祭神 豊宇気持神 第三号 丹後旧事記 (田中如幻) 但シ京都府庁文庫所蔵本十冊モノノ内神祇ノ部 三宅神社 延喜式 並小社 以下所蔵亦タ同文 丹後旧事記(小松国康)中郡三重村 長浜宇平氏蔵本 同 与謝郡与謝村 砂野米太郎氏蔵本 同 同 石川村 白須重右衛門氏蔵本 丹後細見録(編者不明)国幣中社 篭神社蔵本 同 与謝郡岩滝町 小室万吉氏蔵本 丹後一覧集(山根道沢)与謝郡宮津町 山本三省氏蔵本 同 舞鶴国書館蔵本 第四号 特遷神名帳 (内務省蔵本) 三宅神社 祭神 今按姓氏録に三宅ノ連ハ新羅ノ王子天日桙命之後也、また古事記に三宅連等之祖名多遅摩毛理云々ちみえて、其族類の但馬の国に移りしことあり、其の隣国なるを以て氏人の此国にも移り住めるが祭れる社なるへし。 祭日 社格 所在 今按式内神社道志流倍に三宅神社北吸村とみえたるを、明細帳に合せ考ふるに北吸村北吸社とあり此社なるべし。されど明細帳に三宅神社なるよしを云はねばいかにとも定めがたし。 第五号 丹後加佐郡東西村々神社取調帳 (高田昌督) (略)同国同郡長浜村鎮座 産土神 一、高倉社 此氏子 千二百貮拾人 家敷 貮百五拾三軒 長浜村 二十六軒 百五十三人 和田村 三十一軒 百四十六人 下安久村四十九後 二百二十人 北吸村 四十六軒 二百二十人 余部上村五十軒 二百二十五人 同 下村五十一軒 二百五十六人 一、奥谷社 一、稲荷社 下安久村鎮座 一金刀比羅社 余部下村鎮座 一、北吸社 北吸村鎮座 (略) 右之通御座候 以上 壬申三月 高田数馬 印 右者明治五年壬申三月従豊岡県之砌則神社並家人書上可申候旨御沙汰ニ付取調差出之者也 第六号 神社改称御願 丹後国加佐郡北吸村 字宮ノ奥 無格社 北吸神社 一、明治五年神社御改称之際係役員御改ニ相手成候、夫迄ハ古ヨリ三宅荒神ト称シ尊崇致居候処、其節御役員ヨリ不取敢地名ヲ称シ差出シ候様御噂モ御座候ニ付北吸神社ト改称仕候仕差出候、追々村内信徒ノ者協議御座候処古ヨリ右該社ニ付由緒モ有之亦タ村老之申伝モ有之式内三宅神社ニ相違無之候ト奉存候、其証ニ宮裏ニ字三宅段ト申凡貮百坪斗社地旧跡有之亦横ニ字三宅谷ト申方三町斗空地有之所々ニ年数ノ大木モ御座候、前述ノ次第ニ付三宅神社ニ改称尊崇仕度奉存候、右ニ付今般信徒協議ノ上右場所神官ヘモ調査為致候依之信徒惣代神官述署ヲ以テ此段社号改称ノ義奉願上候也。 明治十五年七月三十一日 信徒惣代 平民 堀家伝左衛門 印 山崎利右衛門 印 堀家新吉原 印 丹後国加佐郡森村 弥加宜神社祠掌兼務 田中照海 印 前書ノ通リ相違無之依テ奥印仕候也 右村戸長 山崎梶五郎 印 京都府知事 北垣国道殿 (以下朱古) 庶第四三一号 書面願之趣聞届候事 明治十五年十月三日 京都府知事 北垣国道 印 第七号 田辺城主御家老迄御調ヘニ付書上控 (田辺藩組内大庄屋池内村布敷辻三千象氏家ニ蔵セシ古文書) 書上 一、三宅太荒神社 壹間ニ五尺 祭神 相知不申候 一、出雲大明神社 五尺ニ五尺 祭神 大黒天・三保明神・天満天神 一、御地内厄神牛頭天王 但シ社人別当無之氏子百姓持 一、祭礼 十月十五日 当村 荒神ケ迫 一、勧請ノ儀ハ何分大昔の事にて相知不申候ヘ共伝ふる処、北海岸鎮護国家安全の為祭神せし事申伝へ候、天正年中の事細川幽斎公田辺管領せらるるにより、当所陣ノ上と申処処に於て神異ありて社殿を修理せられたり、年々祭礼に御参詣に相成りたりと申伝へ候也。 宝暦酉三年貮月十四日 北吸村庄屋 某(判) 立合人 (判) 第八号 土地台帳 (新舞鶴町役場保存北吸村ノ部) (イ)字三宅谷第五拾四番地 壹等 一山林段別七畝歩 堀家カ子 此地値金貮拾銭七厘 此地租金六厘 沿革ノ部 沿革事由欄ニ云 明治廿二年六月一日官有地第二種地ニ編入同年八月割テ以テ地租金参厘納ム (ロ)字三宅谷第五拾五番地 壹等 一山林段別貮段六歩 此地値金六拾四銭五厘 此地租金壹銭六厘 沿革ノ部 沿革事由欄 明治廿二年六月一日官有第二種地ニ編入同年八月割テ以テ地租金七厘納ム (ハ)字三宅谷第五拾六番地 壹等 一山林段別壹畝拾三歩 此地値金四銭六厘 此地租金壹厘 沿革ノ部 沿革事由欄 明治廿二年六月一日官有第二種地編入同年八月割テ以テ地租金−−−−納ム (ニ)字三宅谷第五拾六番地ノ一 四等 一郡村宅地段別貮畝九歩 村中 此地値金壹円五拾三銭三厘 此地租金三銭八厘 沿革ノ部 沿革事由欄 明治廿二年六月一日官有第二種地編入同年八月割テ以テ地租金壹銭六厘納ム 第九号 神名帳 (加佐郡室尾谷観音寺所蔵) (略)加佐郡七十七前 従二位三宅明神 (略)帳内帳外高名有勢無勢宦知未宦知一切諸神冥道成仏菩提故 般若心経一切誦 国内神名帳 本云于時元禄十二年卯十二月十二日 室尾谷山観音寺明王院 先住慶算上人御筆ナリ 天保十年亥十二月吉日 当山教王院ニ而 亨観書写 第十号 神社明細帳(三宅神社蔵) 京都府管下丹後国加佐郡北吸村字三宅谷 無格社 三宅神社 一、祭神 豊宇気姫命 一、由緒 創立年代不詳ト雖モ往昔近郷崇敬ノ大社ナリシニ、自然盛衰アリ最モ村老ノ口碑ニ遺説ヲ存ス即接地ニ神子屋敷ノ字アリ字宮ノ平ト云フハ貴官某ノ館跡ト申伝ヘ、古跡残レリ然ルニ明治五年ニ至リ当社式内三宅神社ナラント官検ヲ受ケ、遂ニ明治十五年十月官許ヲ得テ式内三宅神社ト改称ス。 一、本殿(以下省略) 第十一号 大日本史神祇志 (水戸家修) 丹後 加佐郡十一座 三宅神社 ○今在二北吸村一蓋シ是 第十二号 神祇志料 (栗田 寛) 加佐郡十一座 三宅神社 今北吸村に在り 第十三号 大日本地名辞書 (吉田東伍) ◎椋橋郷 和名抄 加佐郡高橋郷 ○高橋ハ椋橋ノ誤ナラン。高山寺本ニ椋橋に作レリ、今ノ倉橋村ハ与保呂村ニアタル、志楽ノ西、三宅神社ハ倉椅村大字北吸ニ在リ、又式内社ノ一也。 第十四号 日本地理志料 (村岡良弼) 余戸 訓義見レ上 正応田数目録、加佐郡余戸里田六十町八段二百九歩、今有二余戸上余戸下二村一、亙二和田、長浜、北吸、浜村、森村諸邑一為二其故区一。祝典所レ載弥加宜ノ神社在二森村一祀二天御影ノ命一、按彦坐王、娶二天御影ノ女息長水依比売一生二丹波道主命一、崇神帝時道主鎮二撫山陰諸国一、有レ功、因祀二其外祖一也。三宅神社在二北吸村一為偽風土記有二三宅郷一恐妄。舞鶴軍替在二余戸村一以備二風魚之変一。 第十五号 神社覈録 (鈴鹿連胤) 三宅神社 三宅は美彌気と訓べし ○祭神三宅連祖歟 ○所在詳ならず。 第十六号 丹後国式内神社取調書 (京都府庁文庫蔵) 三宅神社 頭註「考案記」北吸村是ナラン「道」同(以下省略) 有るなら出せ出さぬなら無いものと認定すると、厳重な通達の神社式内外の考証に参照すべき文献が兎も角これ丈け出せた。採るに足るか足らぬかは本省考証官の判断に俟てたなければならぬ。河辺八幡提出の資料が採択されれば北吸の三宅は式外になり資料の採択が反対ならば、結果も反対となって現はれることは言ふ迄もない。一か六か私も判らねば人も知るまい。要は神様の稜威に頼るの外は無い。其の後私も上京の序に訊いて見たり又本省へ伺って見たりもしたが、八月に入ると宮地考証課長が可なり長い日程で九州地方へ旅行の趣を承はって、考証の速かならんことを頼みもした。八月九日京都に伯父の墓を啓いた序に亦府庁に立寄った松村課長に会ひ、高田主席にも会ひ山本属にも佐藤博士にも会ふ。談偶々八幡の社号問題に及び、課員諸君の意見も聞き批判も承はったが、本省からの指示が明治三十幾年に既に訓示が出してある通り、斯様な式内争奪の詮議は罷り成らぬとあるので結局願書却下と決定、但し北吸の三宅神社は調査の参考上単に資料の提出を命じたのみに過ぎないから、此の際何等の通牒は発せまいと。問題は之れで埒が明いたので社寺課を出て統計課に浜谷課長を訪ね、昼前に退出して西陣局から三宅の社務所に打電した。十一月午後三時何分二条発の列車で帰国し、夕景社務所に立寄る。区長、総代、組長其の他関係者が続々集る右の談をする。而し府庁からは三宅に対して通牒を発せぬといふのだから、私の電報や今の話の頼りない事夥しい。信ず可きか可きにあらざるか「幸ひに信じて下さるなら式内三宅神社の本家は本領安堵と謂ってよい」と、斯んな多愛もない談を聴かされて否定する人も無いまま真実とせられ、不逞の言懸りを憤慨するもの、公明な判断に敬服するもの、事件の善果に歓喜するもの神威の尊厳に畏敬するもの一座昂然、時の移るも忘れて談じた。翌十二日は神前報告祭終って白糸樓で祝賀会とプログラムが極まり、私を主賓にと持ち上げられる。栗田の田井と同じく私の顔見た時にといふのであるが、事実私は此の件に何等功績のあったもので無く、畢竟此の結果を示したのは産土子諸氏の熱誠と神徳の発揚に外ならないので、私は只だ好機に邂逅したといふのみに過ぎない。私に対して左まで歓待される訳もないのに厚遇を受ける。誠に冷汗の至りであるが無下に断るのも如何がと?ばゆい様な感じのするまま席に列した。数日の後頼りない話も史実となって現はれ、同月十四日夕刊両丹新報第四〇七号に「式内社は北吸の三宅神社が本家」と題し、 新舞鶴町北吸鎮座の三宅神社は、もと軍港構内三宅谷の北吸村に鎮座されてあった延喜式内の古社であるが、明治二十二年軍港用地に決定するや一村全村立退きを命ぜられ、移転して来たのが今の新舞鶴町北吸区であり、神社も同時に遷座されたもので、随って社頭の森厳は旧時の面影もないが、先年氏子等が社殿を再建し社地を整備し式内三宅神社の標柱を建て面目を一新した所が、東大浦村字河辺の八幡神社から丹後風土記に河辺座三宅神社とあるから、式内三宅神社の本家はこちらだと式内本家の争ひとなり、客年十一月社号変更を其筋に出願し府からは松村社寺課長が実地を調査し、三宅神社には式内を呼称する資料の提出を命じ内務省に送って、詮議中であったが此の程神社局考証課から斯る詮議は罷り成らぬと突戻して来たので、府庁から願書は去る十一日八幡神社に却下された。 河辺中の八幡神社に取っては気の毒であるが、私は三重神社や久理陀神社の前例に顧み神様は正直だなと痛切に感じた。 〉 『中舞鶴校百年誌』(昭51) 〈 大化改新(六四六)より氏族制度崩壊し従来族長の手に依って治められていたのが、国司郡司の下に里を定め、里長を置いて整然たる行政組織に変った。余戸郷の定められたのはこの時である。当時の余戸郷の古域は余部上、余部下、和田、長浜、下安久、北吸を含んでいた。 北吸には三宅神社が祀ってあったがこの北吸村は明治の中期、余部下村と同様舞鶴軍港設置のため全村移転したので神社も今の地に奉遷されたものである。 この神社は「式内社」とされているが北吸在住の山崎久蔵氏(元北海道教育大学教授で大正の一時期本校の職員奉職)の説によると「式内社」に格付けするため河辺の「三宅八幡」と混同したものらしいとのことである。 本編の種本「郷土調査」(昭和12年中舞鶴尋常高等小学校編)には余戸郷の氏神はこの三宅神社ではなかつたかの疑問が投げかけられているが、山崎氏説のとおり従来の慣習や古文書(写真361)に見る限りにおいては、長浜の高倉神社が余戸郷の氏神であるように思われる。 〉 関連項目「二尾・水銀地名」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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