水銀地名:邇保、二尾、他

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二尾(舞鶴市下安久)

二尾の周辺

丹の産地を示す地名はいろいろと変化が多い。見つけ出すのも困難なほどに変化をしているものもある。二尾(にお)という地名もやはり、水銀産地を意味する地名である。丹後ではここにしか見られない地名である。
 海に突き出した中央右手の櫓のある岬が古代の邇保崎(現在名は匂ケ崎(においがさき))といわれ、その左側の地を二尾と呼ぶ、左手に続く背後の山は五老岳(ごろうがだけ)である。

天乃日矛と安久の地名

二尾におにおにおは古い地名である。残欠に、大内郷爾保崎として登場する。現在は舞鶴市下安久しもあぐしもあぐしもあぐの小字である。
 下安久・上安久合わせて安久村であったという。「神名帳」の正三位阿具明神はここにあったのだろう。

 この安久という地名であるが、全国探してもここにしかない。全国に安久サンという苗字はあるのだから、この地名もたくさん全国にあるのかと考えていたが意外であった。島根県簸川郡斐川町に阿宮あぐあぐあぐという地名がただ一つ見つかるのみである。これは信頼する『角川日本地名大辞典』索引による結果である。そんなことは絶対にないだろうと思って、で安久を検索すると17ヒットした。たとえば岐阜県養老郡養老町安久静岡県三島市安久宮崎県都城市安久が見つかる。

当地の安久の意味は、丹後風土記残欠記事の億計王・弘計王の安宮のこととしていて(『加佐郡誌』)、別にそれ以外の説はないようである。しかしこれはヤスノミヤと読むのであって、アグは付会である。
 私は柳田国男『地名の研究』のアクタ・アクツ・アクトなどの沼のような低湿地の事、すでに解明済みの地名と考えていたのだが、今読み返してみれば、柳田はアグについては何も述べていない。申し上げるまでもなく安宮説は当たらない、舞鶴の安久は説明できたとしても、それでは全国の安久や安久サンの説明ができないからである。

 田辺城合戦の頃の記録にはアコ・アゴと書かれる。しかし先の阿具明神があるのだから、やはり本来はアグであろう。
背後に聳える五老岳(300メートル)は安久山と呼んだというから、かなり広い地域が安久だったと思われる。『旧語集』に、
   安久山ヲ五呂ヶ獄ト云 絶頂ヨリ越前沖若狭海マテ見ユル 佐武ヶ獄ヨリ高山ナレ届道登り安キナリ
とある。
阿具明神は今は上安久にあり、億計・弘計両王を祀るという、古墳も見られる地であるから、本来の祭神を知りたいが今となっては無理である。

応神記の天乃日矛あまのひぼこあまのひぼこあまのひぼこの記事に


 〈 新羅の国に一つの沼あり、名を阿具奴摩あぐぬまあぐぬまあぐぬまといふ。  〉 
とある。アグは新羅語(新羅というが加耶諸国は後に新羅に吸収されるので、加耶も新羅とする場合がある。天乃日矛は加耶ではなかろうか。それなら加耶語か)の沼のことだ。下安久あたりの伊佐津川川口部
 安久は伊佐津川や米田川・天清川が海に流れ込む河口に位置している。川か陸か海か区別のつかない地。ある時は川となり、陸となり、海となる。安久という名がぴったりとする地ではある。右画像は下安久のあたり。橋は国道27号線に架かる相生橋、下の川は伊佐津川。中州にいるの白い鳥はカモメ、沖が荒れるとこんなところで遊んでいる。春になるとこの辺りでイサザという小魚がとれる。
伊佐津川川口のイサザ漁
 柳田が民俗学的な帰納で湿地のこととしたのは誤りではないと思う。
もう少し書けば、こうしたアグ系の地名については本当に帰納かどうかは怪しいと私は思う。柳田は天乃日矛の阿具奴摩の話は本当は知っていただろう。私でも気が付くような事を彼が見落とすはずがもない。新羅語で沼を言うのだろうと知ってはいるが、書かったのだろう。
 彼は日本民俗学の創始者として知らぬ者もないが、本職は帝国の高級農政官僚で、植民地農業政策の専門家であった。植民地朝鮮で「農業近代化」とかの名目で多くの農民を農地から引き離した、土地を取り上げられた小農民が日本へも多く流れ込んだのであった。今に尾を引く在日の問題はここに元がありそうである。
 彼は日本の民俗の解明には多くのヒントを朝鮮から得た、それがタネ本になっているのではないのかと私などは想像しているが、しかしその朝鮮に触れることをいつも避けている。下手人としては犯行現場には触れたくなかったのかも知れない。沖縄はあれほど取り上げるくせにその先の台湾は言わないようなものである。柳田民俗学も意外に頼りなく一面的である。だから柳田は安久は言わないが、安久を私のように考えても誤りはないだろう。

柳田ばかりでなく、また過去の亡霊のような日本人ばかりでもない。帝国の侵略と植民地は見ないという傾向は現在の知識層も含めて多くの日本人が持つ欠陥部分であろうかと思う。現代日本の国民的イデオロギーになっているとまでは私は言わない、だいぶによくにはなっては来ている(そう信じたい)。誰だって見たくはない、触れられたくはないだろうが、見ないと自身も世界もゆがむであろう(古代地名解釈は確実にゆがむ)。柳田は己が自画像としてシカと見ておかねばならないようである。天日槍渡来イラスト

 さて、しかしである、阿具奴摩は阿加流比売あかるひめあかるひめあかるひめ誕生の聖地でもあるらしいから阿加流という語とも何か関係があるであろう。R音はよく脱落するので安久は本当はアクルなのかもしれない。アハラ・アワラも湿地のことと柳田はしているから、安久がアクルであってもおかしくはない。さてしかし何のことであろうか。
「蛇女房」

安久が日矛と深く関係ある地名とすれば、安久は鉄がかかわるだろうと推定はできる。さらにここには億計王・弘計王もいたというのだから金属とは絶対に切り離せない地と推測できる。

アクルはアクル王(悪路王)伝説がある(房総半島)。坂上田村麻呂に討たれたという、蝦夷の阿弖流為を一名アクロ王とも呼ぶ。こうした人物は鉄と関わるともいわれる。

新羅の王子・天乃日矛は但馬一宮・出石神社祭神である。この地の安久は日矛に何か関係があるのではないだろうか。
 地名は歴史の化石というが、本当にそう思わせる地名である。千数百年も前の『古事記』以前の地名がまだ生きている、安久は弥生か古墳時代の渡来系の地名だと考えられる。
 ついでながら、丹後では唯一網野町木津や浜詰に日矛や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝説が残る。右の挿絵は『網野町誌』のものである。網野木津に上陸して、山を越え出石に向かったそうである。そんな一派があってもおかしくはない。この地の売布神社とも日矛は関係ありそうである。
もっとも天香語山命は天日槍の別名という説もある。それならば舞鶴はすっぽり天日槍でおさまるが、その説は今は除いておこう。将来検討してみたい。

出石いずしいずしいずし神社(兵庫県出石郡出石町)
「天日槍伝説」


余分な話かも知れないが、アグリと名付けられた子供がいる。そんな地名もあるという。「アグリ」というテレビドラマがあったとかいうが、私は見てないので知らないのだが、普通は子供がすでに二桁になるほどいる親に、最後に生まれた、しかも女の子だったりしたら付けられたりする名前である。もう一杯に溢れるほどにある飽き飽きした状態を舞鶴辺りでは、時たま「もうアングリするデ」などという人がある。子供で子供でもうアングリした状態の上にさらに追い打ちかけるように追加された子がアグリなのである。一人二人の子供しかいないのに子育てノイローゼになるような、ひ弱な最近の親では想像もできない状態である。当人の責任ではないけれどもあまり嬉しい名前ではないと思う。アグリは余計な子・もういらない子の意味である。もう捨てようかという子である。これが捨てられると捨て童子(酒呑童子)で山姥に育てられてとんでもない強いヤツになったり悪いヤツになったりするという。


二尾と大丹生と浦入:水銀地名

舞鶴銅鐸の出土地(舞鶴市下安久二尾)

敦賀市の名の元となった都怒我阿羅斯等(=天乃日矛)の像(敦賀駅前)

天乃日矛を取り上げるかといえば、ここが銅鐸の出土地であり、日矛集団に関係がないとは言えないからである。
なお先の阿具奴摩に似た話は『書紀』では都怒我阿羅斯等つぬがあらしとつぬがあらしとつぬがあらしとの話として出る。彼は敦賀の語源となった人物で、かの地の越前一宮・気比神社祭神である。西にも東にも渡来人の大親分が上陸している。その名の通りに冶金の技術者集団である。

気比けひけひけひ神社(福井県敦賀市)

丹後はこれまでに七個の銅鐸が出土した記録がある。銅鐸は加佐郡と与謝郡のみである。二尾は銅鐸の二個の出土地である。舞鶴銅鐸と呼ばれる。これは二号銅鐸

昭和十四年に下安久小字匂ケ崎海岸の丘陵東側裾で二個が発見された。これを舞鶴銅鐸と呼んでいる。民家の瓦礫の清掃中に再発見されたものであり、この場所付近にもともと埋められていたものかは不明であるという。尚、出土状況についてはいろいろと報告があり、どれが本当なのかわからない、次のようなものもある。
「舞鶴銅鐸」

 二個の銅鐸(片)はいずれも突線紐3式・六区袈裟襷文と呼ばれるもので、一号銅鐸は近畿式、二号銅鐸は三河・遠江(三遠式)である。
「見る銅鐸」に分類される。この地は三遠式銅鐸の西限になり、高さは二尺内外であるという。
与謝郡野田川町出土の梅林寺(委文神社・比丘尼城)銅鐸(突線紐5式・近畿WC)と同時期あるいはややさかのぼる弥生後期といわれる。宮津市由良出土の二個も梅林寺銅鐸に似ていたそうである(『丹哥府志』)が、現存しない。

写真の二号銅鐸が三遠式と分類される銅鐸である。この銅鐸が多くの情報をもたらしてくれそうである。
これは考古学者たちがそれぞれの自説の証明のためよく取り上げる銅鐸である。銅鐸博物館のパンフより
 三遠式銅鐸は、その名が示す通りに三河・遠江国が分布の中心である。信濃や尾張・伊勢にわずかに見られる。舞鶴から最も近い出土地というか、次の西限の地は、野洲郡野洲町小篠原の大岩山である。
 日本最大といわれる134pの銅鐸はじめ、ここでは何と24個もの銅鐸が出土した(右写真)、出雲の39個もの銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡が発見されるまでは、数においてもここがトップであったが、そのなかの4個が三遠式であった。大岩山、その場所は、東舞鶴の弥加宜神社の本社の御上神社のすぐ北側2キロばかりの低い山である。明治14年に14個、昭和37年に10個は新幹線の建設工事中に発見されたものである。舞鶴銅鐸は地元としては弥加宜神社がある限り、この神社との関係を重視したい。

 近畿式と三遠式が同じ場所から発見された例は静岡県引佐郡細江町と、あとは大岩山と舞鶴二尾の地だけである。
三遠式というのを簡単に見分ける方法は上の釣り手の所に耳と呼ばれる飾りがついてないものである。3個だけでなくもっともっとあるではないかと思われるだろう。そうなのである。古い「聞く銅鐸」ははじめから着いてないので三遠式も何もないし、鋳造した時には明らかに耳が着いていたと思われるのに、わざわざそれを切り落としている銅鐸もある。ニセ三遠式、実は近畿式というのものもけっこうある。写真ではわからないと思うが実物を見てもらうとよくわかる。
尚、野洲郡や西隣の近江国栗太郡は大岩山だけに限らず、守山市新庄町で4個、同市古高町で1個、三上山下から1個。周辺の大津市、草津市などからもいくつか発見されているし、古い物から新しい物まで、日本最小とされる小さい物から、最大の物まで、形式もいろいろ出土している。
このあたり一帯はどうやら銅鐸文化の中心地であったと考えていい所になる。三遠式もここで制作されたかも知れない。(銅鐸鋳型は出土していない)
弥生後期頃には、すでにこの地と舞鶴二尾の間には何やら深い関係があったものと思われる。二個の舞鶴銅鐸はたぶんここからもたらされたものであろう。
 時代が下っているが、残欠の日子坐王の伝えや弥加宜神社の伝え、それとダブルような道筋をたどる天日槍の伝承は、まったくの机上の虚構ではあるまいと考えられるのである。
大岩山銅鐸出土地  野洲銅鐸博物館


尚、『宮津市史』は、 
 〈 舞鶴市匂ヶ崎銅鐸(匂ヶ崎1号鐸・匂ヶ崎2号鐸)は、字下安久小字匂ヶ崎の海辺に面した丘陵の裾部で、昭和十四年に発見された。京都大学の調査結果によると、匂ヶ崎銅鐸は後代にこの地点に持ち込まれたものらしく、出土地点の特定、出土状況の詳細などについては正確に知ることができない。  〉 
としている。京大の梅原某教授に問いたいが、持ち込まれたなどということが何故にわかるのであろうか。誰が何の為にいつ持ち込んだりしたのであろうか。
京大様がそうおっしゃるならばひょっとすると、これが行方不明の由良銅鐸の二個かも知れないと、ド素人には思われるが、そんな考えを抱く専門家もあるようである。『丹哥府志』に、

 〈 先年加佐郡由良村よりも此物を掘出す、其形状此(加悦町出土のもの−引用者注)と異る事なし梢少なる耳、是も大小相重り一は官に納る一は今の家蔵となる  〉 
由良からイレゴ状態で出土したものが官と民に所蔵されてバラバラになり、歴史が繰り返し又もう一度それら二個が異なる場所から一緒に出土するなどということは、奇跡に奇跡をかける、奇跡を二乗するようなものでなかろうか。起こりえない事態であろう。由良銅鐸とは別のものだと私は判断する。

二尾と大丹生と浦入:水銀地名


日子坐王と鳰鳥の伝説


『丹後風土記残欠』に、

 〈 爾保崎。爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ湖水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チ「にほ」忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。(以下五行虫食)(原漢文)   〉 
引用文中「にほ」とひらかなで入れてあるのは、原文は漢字二字なのだが見たこともない漢字である。どちらの字にも鳥が入っており、普通は「にほ」とか「にほどり」とか読んでいる。パソコンで表示させれないでもないが、邪魔なのでひらかなで勘弁して下さい。

邇保崎というのは現在は匂ケ崎においがさきにおいがさきにおいがさきと呼ばれている、このあたりとされる。陸軍の練習砲台が置かれた所であり、現在はこの匂ケ崎の岬全体に市の公園が出来、桜の名所とうたわれている。
 二尾のあたりはずいぶん鄙びたところである、映画のロケにつかわれたりもする。このあたりにやって来ると、「ローカル感じるう、これは真水ですかあ」、などと海辺を見て問う人がある、えっ!ウソー、マジーとつられて言いそうにもなるが、それはこらえてこの記事を思い起こすのである。
これはもちろん湖水ではない、残欠はそんな事くらいはよく知っているだろうに、なぜ湖水などと書いたのであろうか(海部氏は潮水の間違いと考えられたようだが、原文は湖水である)。鳰鳥(かいつぶり)はどちらかと言えば淡水の鳥であろう。もっともカモなどがけっこう舞鶴湾に浮かんでいることがあるから一概にはいえないとしても、しかし舞鶴湾に鳰鳥がいるという話も聞いたことがない。ひょっとすると、琵琶湖のように、舞鶴湾は「ニホの海」とも呼ばれていたのかも知れない。あるいは舞鶴湾は淡水湖であった、そんなことはない、そうすると場所がここではなく、もっと河口に近い所に淡水の潟があって、そこのことなのかも知れない。それは伊佐津川や高野川、天清川、米田川の注ぎ込むの河口であろう。現在の西舞鶴市街地にあたるのであるが、そこは入江になっていて、淡水化していたかも知れない、そのあたりが本来の邇保なのではなかろうか。伊佐津というのは現在の西舞鶴駅の辺りである、ここに津(湊)があったのだから、かなり深く入り込んだ入江であったと思われる。

さて当時この潟を何と呼んだのだろうか。記録にはないので大いに想像の羽根を伸ばしてみよう。タ潟というのではなかろうか。この潟の東のほとり近くに式内社・高田神社があったというからそう想像するのである(あてにならない話ではある)。
ここを邇保の海、あるいは現在風に書けば女布の海とも呼んだのだろうと残欠から想像できる。ここまで日子坐軍は舟を使って侵入してきたのである。目指す憎き敵・土蜘蛛はどこにいたのであろう。
さらに空想に空想を重ねてみよう。タ潟のタとは何のことであろうか。高田神社には兵主神社が祀られている。そうならタ潟のタはタタラのタでなかろうか。たぶん正式にはタタラ潟であったと思われるのである。土蜘蛛はどこにいたか。舞鶴市引土(引土はずいぶんと広い地名だが、ここは西舞鶴高校の前あたり)

『稚狭考』に、丹後田辺にてひをきむらあり、とある。「ひをき」はよく書かれるのは日置だが、これはヒキとかヘキとかよぶのが本来のようである。土を朝鮮語でヒキと呼ぶ、ヒキガエルのヒキ、これはたぶんつちくれによく似ているのでひきひきひきカエルであろうかとおもうがそのヒキである。そうすると地名から考えれば引土ひきつちひきつちひきつちのあたりこそが土蜘蛛の根拠地であったのかも知れない。引土は天香語山の東麓。天香山のかねかねかねとりて…と『古語拾遺』にあるし、朝鮮語でも銅はカグとかカリいうらしい、カゴ・カグは銅のことである。天香語山(愛宕山)は地名から考えれば海人あまあまあまのミミ族かも知れないが、その銅山である。銅鐸が出土するように、ここだけではなくタタラ潟の周囲はすべて金属と関係が深そうなところであるから、このあたりの金属資源をねらって、平和と民主主義のテロ対策戦争を、自称・道義ある正義の戦争をしかけた者がどこかの超大国とその手下の同盟者、混乱してしまったが、日子坐王なるものではなかったろうか。

混乱しているのだが、「陸耳御笠という土蜘」と残欠が書くから、陸耳御笠は土蜘蛛と思われているが、本来は両者は関係がないと私は考えている。残欠は川守郷血原で土蜘匹女を殺したと書いている。匹女は土女ひきめひきめひきめだろう、土蜘蛛集団の本当のボスはこの土女と呼ばれる女性である。土蜘蛛は女性の首長に率いられた集団であり、この女首長を土蜘蛛(ヒキカミ。蜘蛛は朝鮮語ではカミ、日本語なら「かみかみかみ」ととられて首長の意味。ヒキ族の長)と漢字では書いたのだろうと思う。陸耳御笠のミカサはミカゲとも呼び替えられて、どちらかといえば日子坐王系の集団の人であろう。もし土蜘蛛ならミカゲ集団からの匹女のもとにに入婿のようなかっこうで入った人であろう。本来は日子坐王や海部氏と近い人ではなかろうか。あの手この手でヒキ族の資源を奪おうと苦労しているようだ。

「空想から科学へ」というエンゲルスの書があった。我らの時代は高校生の愛読書のトップテンの何位かに入っていたものであるが、いつからか本屋を覗いてもこの手の書籍はまったく並べてない。マルクスもレーニンも姿を消した。こうした政治思想は現在もあろうが、彼らはもう本を読まなくなったのだろうか。こんな書を読むような若者は優秀だった。優勝すぎるようなものだった。本が消えて彼らも姿を消した。どこへ行ってしまったのだろう。マニフェストといえば近頃は政党の当てにもならない選挙公約のことであるが、昔はマルクスのこの書もこうした高校生の愛読書になっていた。
空想と科学は人間のもつ優れた能力であって、科学はある程度はコンピューターで代行もできようが、空想はコンピューターではできない。人間様の科学が万能であるはずはない。あまりにこれに頼り切ってはなるまい。閉塞状態の中では空想はおおいに大切にしたい能力である。空想をバカにしてはならない。飛行機も月ロケットも100年ほど前には空想であった。我らの時代は「空想から科学へ」であったが、新しい世紀は「科学から空想へ」の空想の世紀にしてはどうだろうか。

(下の図は試みに「カシミール」で、海抜5メートル地点まで海にしたらどうなるか、言い換えれば現在の表土から5メートルの堆積土を取り除いたらどうなるのかを作図してみた。みごとに幻の「邇保崎の湖水」「タタラ潟」が浮かび上がる。たぶん3〜4000年くらい前はこんな海が広がっていたと思われる。
西舞鶴駅の辺りで高層建築物を建てているのを見ていると、地下20メートルばかりまでは全部ヘドロである。ヘドロと呼ぶのがぴったりで、砂よりも粘土よりも真っ黒のヘドロである。たぶん地下20メートルばかりになる基盤に達する杭を打ち込んでから建物を建てているようである。
下の図では濃い水色が海抜5メートルまで、緑色が10メートルまでになっている。この海の南のヘリの公文名には中島の小字があり、この辺りから丸木船が出土したと何かで読んだ記憶がある、江戸期まではこの辺り一帯は大湿地であったと言われる。東のヘリは余内小学校の線でだいたいまずいいと思われる。ただ単純に一路陸化をたどったわけでもなく、海になったり陸になったりしながら、現在のようになっていったと思われる。
日子坐王の時代はどうだったと問うてもわからない。ゼニをかけて細かくボーリング調査してもらうより手はない。ボーリングはどんな安くとも1メートル1万円だったとか、私のような超安上がりの方法ではなく、巨費のかかるボーリング調査を私費をはたいて調査されていた研究が確かあった、見たことがある、どこかにある。すごい人がいたものである。郷土史の研究は金と情熱だ。個人の好意まかせにしてないで、宮津市教委が宮津湾周辺をボーリングしていた、舞鶴市教委もよく見習うがよろしかろう。
舞鶴市民新聞の記事を引いておくので見られよ。東舞鶴湾や由良川河口も同様に作図してみた。「丹後の伝説4」

 「…三五〇〇年前の縄文時代後期のころには、再び海水の侵入が進み、湾入り口には砂州が西から東へと延び、やがて、砂州は完全に内湾をふさぎ、湖が出現した。」 「貝化石が海水性から淡水性へと変化していったことでも、この環境の変化がわかる」と塩見さん。その後河川からの堆積物で湖は狭くなり、また、海進、海退により内湾の拡大、縮少を繰り返し、江戸時代中期頃に現在の平野ができあがった…」と書かれている。貝化石から見ても、やはりここは淡水潟であったようだ。残欠の「湖水」でいい、「潮水」ではないようだ。ここまで日子坐王は侵入してきたのであろうか。

 西舞鶴駅をまっすぐに西へ突き当たるとそこが円隆寺だが、その南100メートルの場所に住む人の話によれば、裏の畑から中国の銭がよく出るという。宋銭ちゅうもんなのだろうかという。当時はここまで中国の船が高野川を遡ったのだろうかと。宋銭は中世日本の銭貨幣の主体である。お寺の関係ではないだろう、中国船ではなく、日本の船だろうが、たぶん中世のいつの頃かまでは、そこまでが海であった、ここに港があり、すぐ脇に商館があり、そこの銭と思われる。また倉谷遺跡から平安期の緑釉陶器が100点も出土している。当時の郡役所の跡ではと言われるが、この湖の東の端になり、港の商館跡かも知れない。)

 この海があると邇保と女布が繋がる。邇保はかなり広い地名ではなかろうか。
爾保の湖水(西舞鶴市街地の大昔)
日子坐王ひこいますおうひこいますおうひこいますおうとは何者なのか。崇神の弟になり、開化記は日子坐王記ではないかというほどにこの王のことばかりが書かれている、ごく簡単に関係ありそうなところを書けば、この王は丸邇氏の出自で、野洲郡の三上山の天之御影神の女、息長水依姫との間の子が丹波道主命である。先の曙立王は孫である。
 土蜘つちぐもつちぐもつちぐもとあるのは、単なる蔑称か、あるいは先着の先住民でたぶん鉱石の採集を行っていた集団であろうか。この地の地下資源を奪いにやってきたのが日子坐王集団である。

和邇氏と息長氏という、近江を代表するというよりも、古代日本国家を支える二本の背骨のような渡来系とも言われる両氏族の連合軍である。三上山麓の安氏も加わっていた。
 大義名分なき侵略戦争であったのだろう。残欠が伝えるところによれば、土蜘が人民をそこなそこなそこなうので勅を奉じて、やってきたそうである(甲岩の頃)。
「陸耳御笠の伝説」のページへ

どうやら侵略者という者どもはいつの世も同じ古くさいネタの割れた口実を使うようだ。イラク人保護のために、イラク人に民主主義を、土蜘フセインを討つ。笑えてくる話である。どんなバカでも信用しそうにもない口実である。討っても軍隊は一兵たりとも撤退しない。コイズミまでルビコン河を渡る。テロ撲滅とされるこの戦争の真のねらいは何か、私が言うまでもないことである。世界の誰もがシカと承知しているとおりであろう。フセインのフも出てこない、彼などダシに過ぎないかのように、まったく問題でもないようだ。
 勅を奉じているだけでも日子坐王の方がましかも知れない。手前勝手な「大義」でしかないが、侵略者でもそれなりに心が痛むのだろう、まだしも名分を立てようとはしている。

勅ではなく、現在は憲法が大義名分である、これ以外には大義はない。錦の御旗は憲法、次は国連決議だろうか。どこぞの大国の大将が言ったからなどは問題ではない。どこの国もやっとるから、お付き合いで、では大義にはならない。憲法を変えたらどうか、となるともう歴史認識ゼロ、戦争責任意識皆無であり、まともな者とは私は判断しない。
 そもそも自力では自国が守れないから米軍が駐留している、占領しているのではなかったのか、世界第二位とも言われる莫大な金をつぎ込みながらも、自国すら守る力のないとされる自衛隊が何を勘違いして、要請もされていない他国へ自衛のために鉄砲かついででかけるのか。
ちまたの声一人のアホがおって、世界が狂ってしまった(040514採集)

御上神社(野洲郡野洲町三上)のHP

天之御影神=天目一箇神、この一つ目の産鉄神・鍛冶神・冶金の神を祀るのは東舞鶴の式内社・弥加宜みかげみかげみかげ神社(舞鶴市森)である。東接して行永ゆきながゆきながゆきなが(=息長)の地名がある。行永から東の小倉にかけての地が丹後息長氏の拠点である。弥加宜神社、普通は大森神社と呼ばれる、当郡きっての巨大な社叢を持つ。この神社は先の残欠の35坐の列記法では、他の神社とはまったく別格の神社か、あるいは西舞鶴に位置するような並びかたになっている。西舞鶴方面の諸神社はこの弥加宜神社から時計回りに示されるのである。現在の西舞鶴・東舞鶴の分け方ではとらえきれない、信仰圏のあり方が過去にあったと見られる。詳しくは先のページでみようと思うが、とりあえずは、西舞鶴方面にも強い影響力を持った神社だったらしいと考えておこう。
 明治6年の豊岡県発令の祠官任命によれば、弥加宜神社は長浜・上安久・倉谷・福来・天台・上安・境谷・与保呂・堂奥・多門院・溝尻各村の神社の祠掌も兼ねている。現在もそのようである。もっともこれが古代からの歴史的な事情を反映したものなのか、単に明治初期の地図から定規で線引き区分けしただけのものなのかはわからない。
 さてその東舞鶴森に西接して上安うえやすうえやすうえやすがある。本来はウヤスと読むそうである。よいヤスというような意味になる。
そうすると、この安は野洲郡のヤスだろう。先の安宮のヤスである。野洲郡には邇保にほにほにほ郷(有南北)がある。爾保崎とはこの邇保郷ではないだろうか。野洲郡は天乃日矛とも関係の深い所である。野洲郡邇保郷とはどんな所だろうか。

『滋賀県の地名』は、
(邇保郷)
 〈 「和名抄」は諸本とも訓を欠くが、後世の文献に仁保とあることから(「東山塔頭略伝」「輿地志略」など)、ニホであろう。平城平城宮跡出土木簡に「野洲郡爾保郷□」とみえ、伴出した木簡の年紀から神亀年間(757-729)までのものと考えられている。「和名抄」諸本とも南郷と北郷があったと記すが、他の文献では確認できない。邇保庄は当郷の荘園化したもので、天福二年(1234)八月の慈源所領注文(華頂要略)にみえる邇保寺は当郷に建立されたところからの寺号であろう。「輿地志略」が野洲郡内に仁保庄としてあげる「仁保村・小田村・江頭村」はいずれも日野川右岸の現在近江八幡市域だが、同書は蒲生郡内にも仁保村を記す。同市江頭えがしらえがしらえがしら地区などを流れる日野川下流を別に仁保にぼにぼにぼ川と称する。「和名抄諸国郡郷考」は江頭を「輿地志略」のいう仁保庄にあて、「日本地理志料」「野洲郡史」はその北東から東方にわたる地域を、「大日本地名辞書」は日野川対岸の中主町北部を含める。郷名の起源について「野洲郡史」は「迩本杼理能」の淡海とすることから(『古事記』仲哀天皇段)、この「迩本」が起源だとするが、確定はできない。
鳰鳥説しかないようである。現代人は残欠の時代から何も進化していない。
鳰鳥のHP和邇易(湖西線)
舞鶴からだと、琵琶湖の西側を滋賀郡志賀町に入り、和迩わにわにわに川(和邇氏の根拠地)を越え、小野(和邇氏と同族の小野氏の根拠地)を越えて行く。次の真野も和迩氏の同族である。ここから琵琶湖大橋を渡った所が野洲郡邇保郷である(たぶん。というのは郷域がはっきりしない他郷もあるからである)。近江富士とも呼ばれる、ムカデ退治で有名な円錐形をした三上山をめがけて、国道8号線に突き当たるまでの10キロばかり、右側は草津市境までの4キロばかり、左側は近江八幡市境の4キロばかりの土地である。和邇浜と和邇川(志賀町)
 舞鶴の二尾は狭い所で車の通行も難しい地だが、ここは実に広大である。現代の地名であろうが、地図で拾ってみると、野洲郡中主町に仁保橋、守山市に鳰の森会館がある。式内社の上新川かみにいかわかみにいかわかみにいかわ神社(守山市立入町)・下新川神社(同市幸津川町)が鎮座する。

息長おきながおきながおきなが氏の根拠地はここから北の坂田郡近江町である、ここを流れる天野川はかつて息長川と呼ばれた。能登瀬という所に息長小学校がある。近くに碇の地名もある。天野川の支流に丹生川がある。
天乃日矛の末裔に神功皇后がいる。彼女は息長帯日売おきながたらしひめおきながたらしひめおきながたらしひめ命という。従って息長氏は天乃日矛の後裔氏族であろうといわれる。
 天智・天武の父親の舒明の諡号は息長足日広額天皇といい、息長の名が付いている。これだけに限らず、記紀の天皇系譜にはくり返し息長の名が登場する。これは舒明から見ればおじいさんのおじいさんの継体天皇がどうやら息長傍流の出自であろうからとされる。:継体以後の天皇氏(天皇の称号はまだない、オホキミ氏とでも呼ぶのか)その氏自体が息長氏でない限り、これだけ多く息長の名が見られることはあり得ないとされる。継体は現在の天皇家の直接の祖先であるが、父系は息長氏の出自らしいのである。
 息長は舞鶴では行永ゆきながゆきながゆきながの地名となって残っている。オキナガ、さて何の事であろう。『坂田郡史』は、「新羅語なるべし」としているそうである。私は読んだことがないから、本当にそう書いてあるのか知らないが、卓見ハッキリクッキリシャープにとらえていると思う。郡誌でなく郡史、しかも七巻あるという、それだけでも興味のわく書である。ここは彦根藩だから、これだけのものが出来たのかも知れないが、だいたいその地の文化力を知るバロメーターである。丹後では『与謝郡誌』の二巻が最大であとは一巻のみである。日子坐王の名にしても何かそんな感じを受ける、古代朝鮮語だろうと思われる。彦王・男王とでも訳するような名だと思われる。

ついでにつまらぬ話。三上山西麓の野洲川左岸の地が当地加佐・九社の故地ではなかろうか、などと私は考えている。三上山と野洲川(右岸側)
先の邇保郷には守山市笠原、小島町には阿比留という地名がある。鳥インフルエンザの家鴨ではない、金沢庄三郎ならこれはクシフルと転訛と必ず言うであろう地名になる。南接する栗太郡の草津市には、まず草津(東海道の宿場町)のクサ、同市南笠は笠氏の創立になる笠寺があった、笠山遺跡がある。上笠・下笠は中世の笠庄の地。和名抄の栗太郡梨原なしはらなしはらなしはら郷の地である。芦浦というのは安閑紀の蘇斯岐屯倉と同じ記事に見える近江国葦浦屯倉の地に比定されるが、このアシウラ。
古くはこのあたり一帯はクシフルとかカサとか呼ばれた地であったと推定できる。この地が西舞鶴九社の故地、カサの直接の故地ではなかろうか。

御上神社前から近江太郎とも呼ばれる野洲川を10キロばかり遡ると甲賀郡水口町である。東海道の草津宿、石部宿、そしてこの水口宿である。『舞鶴市内神社資料集』によると、麻良多まらたまらたまらた神社(市内丸田・式内社。八幡神社と呼ばれていたが明治期に変更)の鰐口がこの町の秋葉神社にあるそうである。式内・麻良多神社(舞鶴市丸田)
(麻良多神社の鰐口)
 〈  この鰐口は、もともと丹後国加佐郡祇薗寺庄丸田村八幡宮(現・舞鶴市)に奉納されたもので、文明6(1474)年の刻銘がある。 その後、改めてここ水口の美濃部天満宮に、江戸時代初頭の元和6(1620)に、美濃部同名中により奉納されたものである。 「甲賀武士」の結束を知る上で、貴重な遺品である。
 (水口町立歴史民族資料館  (展示)甲賀水口の歩みと暮らしより)

  径二五糎
(表)  施入奉  丹後国祇薗寺庄丸田村 八幡宮 御宝前 鰐口 文明六年甲午十一月日  願主 敬白
(裏)  江州甲賀美濃部天神御宝前  元和六年庚申二月廿五日 美濃部 同中名  〉 
美濃部天満宮は現在の綾野天満宮である。その東に秋葉神社があるが、この社であろうか。どうした由縁でこの町とつながるのであろうか。単に盗難品が偶然にこの地の者に購入されただけだろうか。麻良多というのは鉄関係だろうし、天乃日矛を思い浮かべる社名である。

もう一つ。阿加流比売のアカルと地名の阿比留は同じであろう。KとHはよく入れ替わるからである。赤玉から生まれたから阿加流比売というのか、それとも本当はアヒル比売でクシフル比売なのか。この判断はできない。しかし安久というのもアカル・アヒルであるいはクシフルかも知れないと考えられることにもなる。そうすると五老岳もクシフル山であったということにもなる。
あるいはアカル姫のアは接頭語でカル姫というのが本名だろうか、勾大兄広国押武金日(=安閑天皇)のマガリのカリと同じで、カルとかカリは朝鮮語で金属の刃物・あるいは本来は金属の銅を意味する言葉である、天香山とか籠神社のカグ・カゴなどもこれだとも言われる。赤玉から生まれるのだから、こちらの方が正解かも知れない。まさかりまさかりまさかりかついだ金太郎のマサカリのカリもその意味である。
沼をアグルと呼んだのではないかと思われる伝説がある。
「丹後の伝説3」の「蛇女房」参照
垂仁紀の天日槍の条には、菟道河うぢかはうぢかはうぢかは(=宇治川)をさかのぼさかのぼさかのぼり、近江国の吾名邑あなのむらあなのむらあなのむらに入りて、暫く住む。とあり、近江国の鏡村の谷の陶人は、則ち天日槍の従人なり。ともある。鏡神社(竜王町鏡・紀の書くとおり窯趾があるという・天日槍を祀る・額田王の出生地ともいわれる)
この吾名邑はどこであろうか。例によっていろいろと比定地があるが、鏡山と近くとすれば、草津市の穴村であろう。ここには天日槍を祭神とする安羅やすらやすらやすら神社がある。お灸はここから始まったそうである。日本が工業国の豊かな国になれたのも、お灸もあるいは天日槍のお陰かも知れない。
ヤスラと呼んでいるようだけれども、本当はアラだろう。アナ・アラ・アヤは同じで、加耶諸国の安耶国のことである。隣の綾部市のアヤは漢氏のアヤであるが、元はこの国名のアヤである。
鏡山は、三上山の北東4キロのところにある。舞鶴なら千石山と佐武ケ岳の距離である。その鏡山の北麓に、いつか書いたと思うが、天日槍を祭神とする鏡神社が鎮座する。その南西1キロばかりの所に竜王町須恵という地名がある。
上安のヤス。野洲郡のヤスとは何のことであろうか。東舞鶴には安岡やすおかやすおかやすおかという地名がある。古くはヤスカとかアスカと呼ばれたそうである。安川神社がある。これもそのように読むのだろう。日本国家発祥の地・明日香のアスとも同じかも知れないヤスである。
誰か解いてないかと調べてみたが、手元には神功皇后紀の心安ししかない(筑前国夜須郡のこと)。私はヤスも安原がフルネームだと考えている。野洲郡中主町に須原という地名がある。ヤが取れた地名だ。ここまで当HPを読まれてきた諸兄には、何を意味するかはもう説明もいらないだろう。
野洲郡篠原郷。笠原・阿比留。守山市の服部は古名を津紫原つしはらつしはらつしはら。草津市の上笠・下笠は中世の笠庄の地で、和名抄の梨原なしはらなしはらなしはら郷である。日槍有縁の地だけあって、スハラ・シハラばかりの地であるようである。
水銀・玉・鏡・銅鐸・それに製鉄遺跡がある。大規模なもので、国家経営の製鉄コンビナートでなかったかされている。須恵器生産。さらに湖上交通と日本海の海上交通、先には朝鮮と中国がある。それに陸上交通の要衝の地をしっかり押さえている。後の近江国府の地でもある。

二尾と大丹生と浦入:水銀地名


二尾は水銀産地の地名


 『丹生の研究』は、二尾バス停(舞鶴市下安久)
 〈 近江の仁保
 琵琶湖の東南岸にも仁保がある。いま滋賀県近江八幡市十王町という。この仁保は、同種の地名が鈴鹿山脈以東のいわば東日本においてはまだ見出されていないために、私はこれを仁保群の東端と考えているし、とくにこの地点は「倭名抄」国郡部に伝えられている近江国野洲郡の邇保郷にほかならない。
 ここはもと野洲郡北里村に含まれていた。「野洲郡史」(昭和2年・同郡教育会刊上巻p.82)はいう。「現在北里村大字十王町を仁保(にぼ)俚称し、同村大字江頭には仁保寺なる小字がある。仁保川は蒲生川の末にして蒲生郡綿向山より発し日野町・鏡山村を経て江頭に至り湖に注入す。今日の北里村が大体に於て邇保郷の地域に当ることは明」かであると。しかし同音が、この郷名を相模国二宝郡(実は高座郡二宝郷)と併せ考うべしとしたのは仄示に富むとしても、この名を「古事記」(中巻)の忍熊王の歌に見える“鳰鳥の淡海の海”における邇本杼理(にほどり)で解こうとしたのは、絶対に賛成しがたい。
 現在、郡境を超えて近江八幡市に編入され、市の西端部に孤立している十王町は、国鉄東海道線の篠原駅から北に、日野川(郡史にいう蒲生川)を渡って水田地帯を行くこと2km半に位する。町の北はずれの江頭には日吉神社があって“長命寺船道”の標石を留めている。これによっても、また江頭という地名から推しても、郡史がいうように往古この地点が湖に臨んでいたことは明白であるのに、現在の湖岸線はさらに2km以上の北にある。そのように、もとは日野川(蒲生川)河尻の三角洲に所在したこの土地も、地情の転変がはげしく、かつ周辺が悉く水田化されているために、往古の表土は求めがたい。私は昭和39年11月2日にここを訪れてみたものの、茫然として空しく手を組むばかりであった。思いなおして私は、日野川の上流にむかって直距離6kmを距てている鏡山(385m)に着眼し、その南裾の入町および出町から鏡の部落にかけて調査を進めてみた。これは成功であった。花崗岩から成る鏡山の山肌には、水銀鉱染の土壌が点々と露頭していた。また花崗岩が水銀ガスのために腐敗してカオリン化した部分も顕著であって、手に入れた試料からは実に0.0027%の水銀が検出されたのである。なおこの鏡山は、その東裾の山面(やまづら)および西裾の小篠原からそれぞれ銅鐸が発見され(「野洲郡史」上巻p.47)、古代文化の一中心がこの一画にあったことを告げている。思うに、この鏡山の朱砂が日野川の水に運ばれて河尻に堆積するのを、採取していた一群の民があって、その住地を邇保と呼び、のちにそれが仁保と書かれたのであろう。しかも往古の邇保郷がいかに広大であったかは、「倭名抄」にこの郷に“南北あり”とし、邇保南郷と邇保北郷が存在したと告げていることから推測できるであろう。  〉 
同書はニホについて、匂崎公園(舞鶴市上安久)

 〈 水銀ないし硫化水銀は、彼らの生活に密着していた鉱物であっただけに、採掘地の開発は、今日では想像もできないほど、おびただしかったにちがいない。そのような地点が“にう”あるいは“にほ”と呼ばれていたのである。  〉 

 〈 日本の古代文化に極めて大きな役割を演じた朱砂の採掘地は、ニフ(にう)またはニホと呼ばれた。  〉 

 〈 もちろん地下の水銀鉱床は、表土に多少なりとも鉱徴を見せる。そのうちとくに鉱徴が著しく、古代人の眼を奪った部分には朱砂の利用があり、それには朱産を意味するニフ・ニホ・ニイなどの名が与えられた。それらが漢字で表記されるようになると、ニフは仁布・仁宇・仁歩・壬生と書かれ、なかでも丹生氏が開発に関与した地点には丹生の名が残された。またニホに対しては仁保・迩保・丹保・丹穂・仁尾・丹尾などの漢字名が起り、ニイは仁井・二井・仁比と表示された。しかし鉱徴は顕著でも、それが利用されなかった部分には、ただその景観の異様さから赤穂・赤生などの漢字地名が生まれるにすぎなかった。ニフというコトバに山・谷・野などの地形を指すコトバが添えられた場合には、自然発露的な地名の簡略化から、また地名は2字に統一するという政府の原則やそれに基く慣習から、ニフが“入”の1字と化したものもあった。  〉 
『京都滋賀古代地名を歩く』(吉田金彦・京都新聞社)は、

 〈 丹生はニウ、正しくはニフといい、文字通り丹(に)を生ずる土地という意味である。全国的にも多い地名で、たいてい古代において辰砂を産出した所だったという。
 今では珍しい地名となって、漢字も入・乳・遠敷(小丹生)などに変ったり、ニホ・ニイ・ニヲ・ミブなどに語形が変っているが、基になった地名ニフは、極めて古い日本語だったのである。  〉 

舞鶴市和田

二尾が鳰鳥でなく、水銀であろうと見当がつく。
 二尾という土地は古来から今のように下安久内の小字ほどの広さだったのかどうかわからない。残欠に記録されるくらいの地名であるからもっと大物で広かったかも知れない。

 和田は含んだのでないだろうか。
二尾に北接する和田わだわだわだについては、『丹哥府志(巻之八)』(丹後史料叢書第七輯)に次のようにある。、
(和田村)
 〈 ◎和田村
【海上山長江寺】(浄土宗)
【観音堂】
【赤土】(名産)
赤土に四種の名品あり、一は赤なり、一は紅なり、一は薄紅なり、一は茶色なり、皆壁にぬる極て佳なり  〉 
ずいぶん知ったように水銀をいうが、私は鉄や鉛の赤と見分けがつくかどうか怪しい者ではあるのだが、この紅・薄紅というのが水銀ではないかと思うわけである。ついに水銀発見!。紅色土壌について、先に引いた『丹生の研究』をもう一度引いておく、

 〈 私は越前の中央部から若狭にかけての一帯、さらに舞鶴湾の周辺をふくめて丹後半島に及ぶあいだで、水銀の鉱徴を示す紅色土壌を至る所で目にした。きわめて特異な朱砂地帯であるといってよかろう。このような地方で古くから朱の採取と使用が見られたことは確実であり、そのうちの若干部分には丹生氏の植民が行われたにちがいない。
辰砂の色(1)(2)のHP辰砂(大和水銀鉱山産)
右は辰砂。生野鉱物館に展示してあった。水槽の中に漬けてあった。水銀の母岩なのだがこうした辰砂は若狭湾岸には見られないという。
 和田は江戸時代からの地名で、慶長の頃は西浦と呼ばれていた。その以前は二尾浦だったかどうかわからない。ここも邇保であったろう。
香川県三豊郡仁尾町のHP

爾保という地名は意外と由緒正しい地名のようである。『丹生の研究』を引こう。
(丹生都比売・爾保都比売)
 〈 朱砂(辰砂)の産出を支配する女神としてニウヅヒメ(丹生都比売)が我々の注目を浴びる。この神は、その名称自体が神格をはっきり教えているうえに、女神であることは、その祭祀の由来の古さを告げている。しかも八百万神のなかで、あまり例を見ない鉱物の神として、まことに特異な存在であり、カナヤマヒメが銅の女神として誕生したのと、まさに双璧というべきであろう。かつ、カナヤマヒメは、後代にカナヤマヒコという男神が誕生して夫婦神とされ、ついには男神の方にややお株を奪われた形になった。しかしニウゾヒメは、男神ニウゾヒコと配祀された一二の例外はあるにせよ、だいたいにおいて単独の女神のまま祀られつづけた。ただし、この女神の運命は、まことに数奇を極め、水銀鉱業の消長にともなって浮沈を示しつつ、結局はカナヤマヒメほどの栄えを長く持続できなかったのである。
 ニウヅヒメの性能を知る手掛りは、「釈日本紀」巻11に引用されて残った古い「播磨風土記」の逸文に見出される。それには、
  播磨国風土記に日く。息長帯日女おきながたらしひめおきながたらしひめおきながたらしひめ命は新羅の国をことむことむことむけんと欲して、下りましし時に、衆神に祷りき。その時に、国を堅めし大神の子の爾保都比売にほつひめにほつひめにほつひめ命は、国造の石坂比売いわさかひめいわさかひめいわさかひめ命にかかりて、教えて日く、「好く我が前を治め奉らば、我はすなわち善験を出して、ヒヒラギのヤヒロホコの根のソコツカヌ国・ヲトメの眉引の国・タマクシゲカガヤク国・コモマクラ宝アルタグブスマ新羅の国を、丹浪(になみ)もて平(ことむ)けたまわん」と。かく教え賜いて、ここに赤土を出し賜う。其土を天の逆桙に塗り、御舟の艫舳に建て、また御舟の裳、また御軍の着衣を染め、また海水を挽き濁して渡り賜いし時に、底潜る魚、また高飛ぶ鳥ども往来ゆきかよわゆきかよわゆきかよわず、前を遮らざりき。如是して新羅を平伏ことむことむことむけおえて、還り上りまし、りて其神を紀伊国の管川つつかわつつかわつつかわの藤代の峰に鎮め奉りき。(原文は和風の漢文)とある。この一文こそは、ニウヅヒメを赤土(硫化水銀)を掌る女神、すなわち水銀の女神と判定できる明証といわねばならない。なおこの引用文に神名を爾保都比売とあるのは、むろん丹生都比売のことである。そしてこの方が原形に近い。丹生の2字を用いるのは丹生氏との関連において考えるべきである。このことは後文にゆずる。
 現在、爾保都比売すなわち丹生都比売を主神とする神社として、誰しも認めているのは「延書式」神名帳にも載っている紀伊国伊都都2座のうちの丹生都比女神社(ただし延喜式の原文では生字を欠いている)であって、和歌山県伊都郡かつらぎ町の上天野に鎮座している。  〉 
いよいよ頭がおかしくなってきそうである。内容があまりに多くて、私の頼りない頭では一度にはついていけそうにもない。
つぎの事だけにふれておこう。丹生都比売の「ツ」は上代語の格助詞とされるもので、「〜の」の意味である。丹生都比売は丹生の姫ということになる。爾保都比売すなわち丹生都比売とすれば、丹生=邇保となる。また所によっては爾比都売にびつひめにびつひめにびつひめとなる。爾比都売神社(備後国奴可郡式内社・廃社。同名の神社が広島市二保町本浦にあるそうである)がある。丹生=邇保=爾比であり、みな水銀産地を指す地名である。
管川という地名が何か水銀と関係がありそうだという事、息長帯日売・あるいは息長氏は水銀と関係が深そうだとしておこう。雨引神社境内の兵主神社
高田神社境内社の兵主神社
上にも書いたが舞鶴市上安の式内社・高田神社の境内社に兵主神社(左写真)がある(『加佐郡誌』)。兵主神は日矛そのものだともされる。丹後には私の知る限りにおいては数が少ない、ここと城屋の雨引神社(右写真)、桑飼下の式内社・伊智布西いちぶせいちぶせいちぶせ神社(摂社の祠がいくつかあるが、どの祠がそれかわからない)くらいのものである。女布では氷上郡春日町黒井の兵主神社の宮講があるという。ほかはたぶん他の名で祀られているものかと思われる。

兵主大社(野洲郡中主町)のHP
 兵主神社と天乃日矛のHP

二尾と大丹生と浦入:水銀地名


長浜(舞鶴市)は邇保崎
十二月栗しはすくりしはすくりしはすくり神社(高倉神社境内)

想定通りに、和田はもちろんのこと、ずっと北に位置する長浜辺りも邇保と呼んだという。
「丹後の伝説2」の「しはすくり神社」を参照のこと。
京大水産試験所(舞鶴市長浜・右手の塀の中)

 「京大の水産研究所のある当りは、むかし長浜といって、いくらかの家があり漁業、農業を営む人があった。そのむかしこのあたりを爾保といっていた」とある、これは地元・長浜の言い伝えのようであるが、それは過去の地名を正確に伝えているのでないかと思われる。
 残欠には「邇保崎」の項が立てられていて、その先頭部分が先に引いた日子坐王の伝説である。実はこの部分にすぐ続いて次のような記事がある。
(十二月栗神)
 〈 邇保崎
 (先に引いた日子坐王の伝説)
 十二月栗神、祠無し。木を奉り神と称す。古老伝えて曰く、往昔、稚産霊神の植るところにして、歳毎 の十二月朔日に、花生、二十日に至り実を結ぶ。正月元日に其実を取り、大神に奉る。今に至るも其 例たがへず。蓋し是れ神験の奇乎。  〉 
この文章の並びから考えると邇保崎に十二月栗神社があるように思われる。では実際にはどこに十二月栗神社はあるのだろうか。残欠の神名帳にも同社の名が見える。
 『余部温故疏』に、十二月栗神社(舞鶴市長浜・高倉神社境内)
 〈 十二月栗神社の由緒
 …
 此のお宮は、初め長浜東端の海岸に祭祠されてゐたのであるが、昭和三年、東京瀧の川にあった海軍爆薬部が同地に移転した際、高倉神社神殿の右側にある六角型の石組の台に遷座されたのである。
 此所は今もなほ松、栴檀、榎等が繁茂して、千早振神代ながらの俤が偲ばれる。古老の言伝へによると、往昔稚産霊神が諸国巡行の途次、この地にお立寄になって前記の巌上にお手づから、一本の小さな栗の木をお植えになった。
 それから永い間、荒い潮風にもまれながら無事成育して大木となり、不思議なことに、毎年十二月朔日になると長い白い花が咲き、二十日を過ぎると立派に実を結んだのである。そこで、里人達は、毎年元旦に、其の実を採って大神に奉り、この木を神木としてあがめ、信仰の対象とする様になったのも誠にと思はれる。
 補記/ 十二月栗神社は、又「せはま」様と云ひ、里人達にしたしまれ、境内は里の子供達の遊び場であった。境内の東側の浜は、遠浅の岩床であって、小浪が立つと瀬になったので、瀬の浜が「せはま」となったのでしょう。


此の神様は、初め長浜海岸に沿ふて約一粁ばかりの東の端、今の京大水産学部の正門左側にあったが、昭和三年海軍爆薬部用地となったので、現在の所に遷在したのである。
  〉 

 『神社旧辞録』の高倉神社に、案内板(十二月栗神社)

 〈 なお境内に八幡本殿と並び何と右横に「風土記」謂十二月栗社祠有、この旧地は海軍火薬廠辺の海岸に在ったが軍に接収されたため境内に移祠された。ちなみに又ぞろ先に同う十二月栗社の名号勘按すれば、大歳神かともされる、即ち十二月来る神。  〉 
師走などと書かれると江戸期の文献かなと思ってしまうが、十二月でよかった。なぜ一二月をシハスと呼ぶのかはわかっていない。師走と書くのはずっと後世の当字である。

本当に残欠のいうような栗があったのかどうかはわからない。岡山県川上郡川上町(現・高梁市)に臘数しわすしわすしわすという少なくとも中世には見えた地名がある。地図でみるとずいぶんと山の奥だが、何の意味かはわかっていない。私は年のハテかも知れないという連想から何か地のハシ・ハテの方を呼ぶのでないかなと思ったりしている。もとよりアテにはならない。栗というのは栗石のクリで石のことではないかとも考えているのだが、これもアテにはならない。


右写真は坂根正喜氏が捉えた現在の長浜の様子。高倉神社は中央の人家の建ち並ぶあたりにある。
 高倉神社の氏子圏は下安久・和田・余部あまるべあまるべあまるべ上・余部下村・北吸きたすいきたすいきたすいであり、本来の邇保崎というのは、最小でもこれくらいの広がりがあったかも知れないとも思われる。
尚、北吸は現在の所(糸谷)ではなく、今の三宅団地のある三宅谷である。女布から匂ケ崎・二尾、北吸あたりまでが古代の邇保かも知れない。


これらの一帯は海軍用地として大規模に接収せられ過去の姿はほとんどない、大海軍の心臓部へと姿を大きく変えた所である。
日清戦争の二億両とかいう巨額の賠償金などをもとにして、舞鶴の近代化・軍事基地化はこの辺りを中心に進んだので、その時代の「文化遺産」はここに集中する、将来へ伝える舞鶴の近代化遺産としてはこんな戦争ものばかりである。海軍の心臓部となる以前の地図
 取るのは真剣にふんだくる、恐ろしいばかりの強盗ぶりである。二億両というのは三億円と書かれているが、それは当時の日本円に換算しての話である。当時の国家予算が八千万円だったそうである。国家予算の四倍である。現在は80兆円であるから、現在に換算すれば、二億両は300兆円くらいになるか。しかも金だけではない、朝鮮も台湾も遼東も取った。換算すればいくらになるか見当もつかない。これで戦争がやめられなくなったのであろう。
だがしかし今時の侵略戦争のあとのように、出す物はビタ一文出さない、ご立派なものですワ、我が事ながらあきれますナ、こんなのが隣人だったら、きっとうれしいでしょうデ。しかもアメリカのプードル犬。隣国としては安保理の拡大常任理事国に推薦したくなることだろうと思う。

 この超巨額賠償金のほとんどは軍拡につぎ込まれたという。中国民衆の汗と涙と多くの罪なき老人や子供たちの命の代償が舞鶴軍港である。(日露戦争に勝てたのも、本当に勝てたのかどうかもかなり怪しいが、この中国民衆の金のお陰である)

 戦後生れにも戦争責任があるだろうか、そんな事は考えた事もないかも知れないが、他国特に多大な被害を加えた非侵略国との付き合いのある舞鶴の市民なら考えておかねばなるまい。まだ生まれてもいない時代の責任を問われても致し方もない、一般的には考えられない話ではあるが、しかしこうした過去を忘れないでおくこと、過去の歴史を忘れずに現在と未来を建設してゆく責任は、戦後生まれにもあるであろう。(換算は「日清戦争…」によりました。)海自の航空隊(舞鶴市長浜雁又)

長浜に雁又かりまたかりまたかりまたという所がある。長浜の一番東寄り、造船所から言えば北側の山を越えた北の海岸部である。造船所の資材置き場のようになっていたり、最近は海自の航空隊ができている。雁又というからにはそうした地形があるはずなのだが、今の地図を見る限りそうした所はない。
 この辺りも埋め立てられ過去の姿がなくなっていた。右は明治20年頃の当地の地図である(『舞鶴市史』)。矢尻の雁又がよくわかる。右手上のまさに雁又として呼びようがない所である。

二尾と大丹生と浦入:水銀地名


旧日本軍が残した赤れんが建造物群(舞鶴市北吸)


               旧日本軍の兵器庫(舞鶴市北吸)
軽いのぅ、軽すぎるのぅ。
()
日露戦争の直前から多数が現在にまで残る軍事遺産、或いは戦争遺跡と呼ばれるもの、要するに旧日本軍の残した遺物である、毒ガスなどの困った物までアジアの各地にいまだにほったらかしになっているのだが、はたしてこれらが「郷土の文化遺産」とか「舞鶴の近代化遺産」などと呼べるのかどうかをまずは考えてみよう。

 ××市や観光××などか懸命になってご宣伝されるほどに、そんなに舞鶴市民にとって親しみのある建物であったであろうか。
常識としてはそんなことはあろうはずがない。人殺し道具に親しみを覚えるほどに舞鶴市民は非人間的な人でなし市民だというのか。こんな者どもの言うことを聞いていると、当方まで頭がおかしくなりそうである。戦後60年をへて、日本国憲法を変えて人殺し戦争のできる国にしようとする動きがいよいよ活発である。アメリカのアジア支配戦略と関わってアジアでは、特に中国であろうが、もうちとアメリカ言うことをきく国にするために是非ともに日本人の血を流させようというわけであろうか。そんな愚かすぎる動きに同調するかにも思えるような××市や××市教委などのこれら建造物に対する熱い熱い思い入れ、税金を湯水の如くに投入する。戦争に大きな被害を受けてきた舞鶴市民として、日本国民として、アジアの民衆として、ここはきびしくきびしく見なければなるまい。端的に問題をたてよう。ナチスの残した戦争遺物を文化遺産とか近代化遺産などと呼ぶだろうか。そんな呼び方をすれば、かの国ではたぶん歴史の捏造者、ナチ賛美者として犯罪者になるのでなかろうか。舞鶴市史でもこの戦中の時代を舞鶴市の暗黒時代と呼ぶ。人口のまともな統計すらも残されてはいない時代であった。 たぶん18万人くらいでしょうとしか言いようがないのである。戦後すぐに書類は焼却処分にされて残されてはいない時代である。まさにその舞鶴の暗黒時代を象徴する心臓がこれらの「郷土の文化遺産」「舞鶴の近代化遺産」なのである。
赤レンガ倉庫群(舞鶴市北吸)
赤レンガ建造物の建つ地の一帯は鎮守府(舞鎮)内の一番の心臓部であって、市民が、臣民と呼ばれたのだが、立ち入れるような地ではなかった。付近の山や海からこのあたりを覗くことも禁じられていた。今の海自とは違う。どうぞどうぞ、写真ですか、ああどうぞどうぞ、と叩かれ続けたお陰でもっとも腰の低い官庁であると思うが、それとはまったく違う。こんな所を勝手に見て写真でも写そうものなら、敵スパイか何かとされ、死刑であったであろう。死刑によって見ることなどはできない堅くガードされた帝国軍部の建造物群であった。臣民にはそんな建物があるということすら知られていなかったと思われる。知っていても知らぬ顔していなければならなかった、知ったかふりして、そのあたりで吹聴していたら「ちょっと来い」はまちがいない。子供達が学校の写生で付近の山を写しても駄目、海岸に行くことも、海岸や海に浮かぶ軍艦を描いたりしたらもちろんしかられた、学校の作文で事実に基づいて舞鶴の海軍は少しやりかたがおかしいのではないかなどとでも書けば、上の学校の入試は落ちたともささやかれた。『大江町誌』は、.

 〈 舞鶴要塞地帯(陸軍管轄)
  軍港を防衛掩護するため、軍港周辺を要塞地帯としている。大江地方の一部が含まれていた。
 要塞地帯は、要塞地帯法と軍機保護法とによって、特別警戒措置がとられていた。
 地帯内の水陸の形状測量・撮影・模写その他軍事機密の漏洩には重刑が科せられるほか、堆土・開墾など、地表の変更をする農業・土木工事には、要塞司令官の許可を要するというような私有権の制限まで付いていた。小学生の風景写生さえ模写にあたるとして禁じられた。
  それらの監察取締りには、一般警察だけでなく、中舞鶴に置かれた憲兵分隊も当たった。憲兵分隊は、丹後五郡を管轄し、平時にあっても、軍事警察のみでなく、行政・司法警察をも兼ねた大きな権限をもち、戦時には、人権無視の監視や取調べも行い、地帯住民の自由は常に束縛をうけていた。  〉 

仮にも文化とか文化財と呼ぶからには軍事化とか軍国主義化、帝国主義化、軍事財・軍用財とは正反対の方向をめざすものだと考えるのだが、明らかな旧日本軍の遺物建造物を文化財と呼んでいる場合もあるようで、何とも私はよく判断がつかない。軍用財ではないが広島原爆ドームは世界遺産である(これも負の遺産と分類される世界遺産である)。

 この町の町作りの主体者である舞鶴市民は戦争責任をどのように受け止め、それを少しは負おうとし、世界の平和を築こうとしているのであろうか。舞鶴市民にとっては、特に東舞鶴・中舞鶴に住む舞鶴市民たちにとっては己が原点、出発点にもかかわる建造物群の問題である。
経日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)実はここまでも行かないかも知れないと密かに私は恐れている、そもそも戦争があったという認識は確かなのか、「戦争は悪」もっと言えば「殺すなかれ」といった価値判断は確かなのか、その辺りまでも心配になるような情けなく悲しい話をしなければならなくなるかも知れない。国民がどこの国の国民であるかという以前の、まずは人間としての根幹部分が怪しいようではこの国は亡びるぞ。
「テロは悪」。それでは超大国による「テロに対する戦い」という名の巨大テロ戦争はどうなのか。その辺りの判断となると、大抵の日本人には大変に曖昧であろう。そもそもテロが生まれる原因をそのままにしておいて何がテロ対策だ。テロ対策という名のテロ支援対策、それを目の当たりにする場所にこれらの建造物群がある。ここにも匪賊が!?(舞鶴市内)

 これらの旧日本軍の建造物がその本来の機能を果たしていた60年前はテロとは呼ばなかった。身の程知らずにも匪賊ひぞくひぞくひぞく・ヒゾクと呼んでいた。匪賊といった言葉を知らない若者もあろう。他国の植民地支配に抵抗する現地の愛国者を侵略者である日本では匪賊と呼んでいた。匪賊とは悪者のことである。世に害を為す悪者を匪賊と呼ぶ。それなら日本軍こそが一番の匪賊であったろう。本当の巨悪匪賊が匪賊とよぶのだから、彼らこそが真の愛国者、誠の平和勢力であった。あれから60年、その匪賊退治支援にイラクへ、支援と呼ぶよりは実質はイラク参戦に再びこの基地から出撃するようになった。

かつてのアジア最大の大日本軍が敗北にまみえたように、武力では何も解決できない。歴史が教える通りである。その数は1万発以上、何度も何度も敵国を消滅させられるといわれる世界一の核保有国、人類史上最大最強の軍事超大国アメリカ。しかし皮肉なことにこの国が世界で一番にテロにおびえている。アメリカよい国つよい国。日本も小アメリカになりましょう。何か怪しい話になってきた。こんな物では安全は手に入らない。剣を取る者は剣にて亡ぶ、何かそんな何千年の昔の賢者や宗教者の言葉がやはり生きている。政治屋ではなく、我々人類の過去からしっかりと学ばねばなるまい。まことに優れた教師がいる。学ぶ気持ちさえあるならいくらでも教えてくれる。頼りない冷笑をあびせられるような政治屋からではなく、我らは歴史から学ばねばなるまい。賢者はみなそうしてきたのである。賢者は歴史から学び、愚者は政治屋や権力者のケツを付いていった。

現在はこれらの旧日本軍の赤レンガ建造物群はあたかも戦後平和舞鶴の象徴でもあったかのようにして、舞鶴の観光宣伝ポスターにも、市の公式HPにも平然と使われている。一度解禁となると何でもカニでも使われるように最近はなってきた。悲惨な戦争の真実を次代に伝え、世界平和につなげるのだといった趣旨とか使命感や、またまた戦争が愚かにも繰り返されるかも知れない、それを防げるのだろうかなどといった危機感、そんなものはこれらからはまったくみることはできない。

いったいどうしたのだろう。憲法の示した戦争の放棄と平和国家建設への道はもう忘れてしまったのであろうか。まだ60年ほどしか経っていないではないか。もう忘れたのか。舞鶴市民とはかくも情けないデキソコナイものであったのであろうか。

(これらの建造物群は、もし人間ならばヒットラーや東條や××以上の生まれる前からのA級戦犯であろう。戦争だけを推し進めた戦争マシンである、我らの町の超ド級戦犯である。これらプロの戦犯屋には時効などはない。こんな物に時効などがあればやがて人類はお互いの戦争で自滅してしまうだろう。徹底的に地獄の底の底までも追いつめてその大罪を問わねばならない。)
 私がこのHPで少しだけ使っているような可愛いものではなく、忘れられていた大事な観光スポット資源の一つくらいのカル〜イ扱いをして、どうもないのであろうか。郷土の観光化とは簡単に言えば古い資産でゼニ儲けをしようということである。これら戦争遺跡・旧日本軍の遺物をゼニ儲けに使っていいのであろうか。

HPは全世界から見える、見られている、全世界が注目している。いくら何でも私はこうした建造物をそのように使える神経はない。法律的にもこうした建造物を「文化財」と定義するだろうか。誰も考えもしないようだから、ここらで一度よく考えてみようではないか。
旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)
文化財と呼び、多少なりとも(多少といった額ではない、何億円だが)税金を投入する対象ならば、多少なりとも周囲とは異なる文化の高い香りがただよい、人類の文化を高め平和と幸福と繁栄のために役立ってきたし、これからも役立つだろうと郷土の納税者の誰もが誇れるものであろうし、基本的には皆の浄財を集めて作られたものであろう。死刑によって秘匿され続け、帝国の解体後に始めて市民の目に触れたようなものがはたして「郷土の文化財」なのであろうか。

 ここにあるものが市や市教委が(だけかも知れない)賞賛するようなそんなに立派な「文化財や歴史的な財産」なのであろうか。学者先生は精一杯持ち上げてくれているようである、私は正気かと疑う。謝礼のゼニさえはずめば何でもありなのか。学者先生方に正確に問いたい、学者としての良心をもしお持ちならば、それを思い起こし胸に手を当て、次の質問に正確に答えられよ。答えは舞鶴市民が読めるように、当サイトの掲示板に書き込まれたし。
「これら旧日本軍の遺棄した建物が文化財か。2000万人が犠牲になった愚かな戦争、愚かすぎる戦争を引き起こした旧日本軍の残した遺物が、人類の、舞鶴の文化財なのか。
先生方ご自身は、戦争放棄と平和国家建設の町作りの主体としての新しい知的リーダーのように考えられているようである。自らの戦争責任の意識はどうおありになるのか。おありになるのか、それともお持ちではないのか。
ここは元軍港だ、元海軍の基地の町だ。普通の町とは違う。海軍あって初めて誕生した海軍の町である。この町では町作りの主体者の戦争責任意識が絶対に問われる。かつては当然にも何がご目的ですかと何をしても問われたし、今後も同じ質問が市民からでるであろう。それを一体どう考えておられるのか。また再び舞鶴を軍港にする気なのか、それとも否なのか。」

「赤レンガ建造物を、ふるさとの貴重な財産として見直そうという動きが市民の間で活発に行われるようになりました」と市長は書いている(「舞鶴の近代化遺産」パンフ)。
 本当であろうか。この町にはそんなにもカル〜イ市民がいるのであろうか。2000万人も犠牲になったのだ、これら超多数の犠牲者に心からの弔慰や鎮魂を捧げるでもなく呼びかけるでもなく、戦争に対する、加害責任に対する問いが何もないままに、何を「活発に見直す」のか。そんなカル〜イ市民でも、この町の町作りの主体となれるのであろうか。自分自身のカル〜イ頭の中味を少しは活発に見直したらどうだろうか。

 よその町の赤レンガ建造物ならば戦争に対する問いは不要であろう。だが舞鶴の赤レンガ建造物では決して欠かせられないではないか。これらは明らかに戦争目的で建造されたものだからである。それ以外には目的はなかった建物群であった。
 これらの舞鶴の赤レンガ建造物は後世の観光資源のために建てられたものであろうか、それとも侵略戦争のために建てられたものであろうか。まずその当然の問いが欠落している。ここが舞鶴の大問題である。ここでいま舞鶴人の中味が問われているのである。

旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)
  軽いのぅ、軽すぎるのぅ。

これらを負の遺産として伝えるのなら、たとえばアウショビッツ収容所のように、まだ文化に踏みとどまれるであろう(人類の恥ずべき負の遺産として世界遺産になっている)。あるいはこのままで戦争遺跡として、次代に戦争の惨禍の真実を伝えるために残すのならばそれは人間の文化と呼んでもよいであろう。
 そんな哲学のかけらすらもなしに、ちょっと珍しい物だからというだけで、もっと明確に言うなら、観光資源に使ってゼニ儲けになるかも知れないので、他の文化財と同等の役割を担った価値あるものかのようにごまかして、アジア近代史のなかでどうした役割をはたすべく建てられたものか、その巨大な大量破壊システムの一画として建てられたかの検証もなく、認識もなく、舞鶴の近代化遺産です、大切にしましょう、これらを生かして町の活性化をはかりましょう、観光客を呼んできましょう。

 「地域資源を再認識し、まちづくりを進めることが、住むことに誇りがもてる、そして愛着を育むことのできる『ふるさと舞鶴』の創造につながるものと考えます」(同パンフ)などといわれても、私としては頭をひねらざるを得なくなる。軽いのぅ、軽すぎるのぅ。何を言っているのかわかっているのであろうかのぅ。
 先の侵略戦争が残した遺物、何度でも書かねばならないが無辜の2000万人のアジアの民を虐殺した旧日本軍の遺物、そんなもので町の活性化をはかるだと!?。そんなに普通には考えられないほどに能天気がすぎる、軽はずみがすぎる、軽薄がすぎる町がどこかこの地球上に存在するのだろうか。ああー、舞鶴の町以外のどこかに。

もしそんな町が地球上にあるのならば、誠にもって恐ろしい話であろう。極端な話をすればよくわかろう、核兵器は文化財であろうか、人類の「すぐれた叡智」が結集されているではないか、広島・長崎は文化財を投化されたのであろうか、北朝鮮は文化財を開発をしているのであろうか。単にそのときの見た目に文化財的、そこまですら行かなくても何かアンティークなレトロな物、あるいは骨董品趣味に対する憧憬を少し満たしてくれそうな感じに見えるのでは、というだけでは駄目であろう。次のものをよく読まれよ。
「文化財とは」 「文化財とは」 「文化財とは」 「文化財とは」 「文化財とは」


歴史を捨象することはできない、これらの建築物群には歴史が刻まれている、その歴史が無いものかのごとく扱い、単に明治の建築物としてだけ見ることなどはできないではないか。どうしてもしたいのなら、それは歴史ある財として見ることを否定するという矛盾につきあたろう。それともわずかばかりの良いところだけを見て、巨悪の面は見ないという手前勝手な見方をしろというのだろうか。

 どこかよそから呼ばれてきた大先生たちは決してふれないが、これら舞鶴の赤レンガ建造物は戦争目的の建物である。それ以外の目的はなかった。その目的を遂行・達成するために大変に立派なもの(工学上の技術上の)が建てられていった。よく人殺しや破壊ができるように「大変立派な貴重なもの他には見られないもの」が建てられた。舞鶴の赤レンガ建造物の歴史とはそういったものである。「歴史を活かしたまちづくり」という場合の歴史とは、この歴史しかない。何かほかにもっとよい歴史が本当はあったのではない。
 このきびしい悲しいつらい歴史を忘れてしまうこと、すなわち私たちの郷土の本当の過去を忘れてしまうこと、私たちの郷土の戦争責任を加害責任を忘れてしまうこと、そうしてついでに未来も忘れるならば、あるいは簡単かも知れない、しかしそうしたわけにはいかないではないか。

旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)

 軽いのぅ、軽すぎるのぅ。

こんな事をいうのは私だけであろう。しかしこれは一人だろうが半人だろう言わねばならない。しかしいつもいつもかなりに空しい気持ちになりながら言わねばならない。各地のHPなどを拾い読みするかぎりは、こうしたことを問題にするのは私だけのようである。
これはまことに大変な名誉な話である。私には身に余る感激に耐えられそうにもない気がしている。
 冗談でなく本気で書いているのであるが、さて全国の町作りのチャレンジャーの皆さんにも問おう。戦争責任を忘れていて本当の話、町作りができるのであろうか。町作りとは当然にも平和で安全な町作りであろう。自分の町にとっても、他国の町にとっても平和な町でなければなるまい。いつミサイルが撃ち込まれるか、あるいはいつ他国にミサイルを撃ち込むかわからないような町にするために皆さんは日夜努力されているのではない。当然に平和な町をこの地球上にひとつ築くために粉骨砕身の努力をされ、それだから賞賛もされ感謝もされておられる。
こんな事を書くのはまことに恥ずかしい、当たり前のことなのである。当然であり、それを当然として「町作り・村作り」という場合の当然の前提と、町作りの主体者たちが理解していたのは20年くらい前までだろうか。こんな事は常識であった。しかしその後はこの「当然の常識」さえもがかなり怪しくなってきたように感じられる。

 何かもうとうの過去の精算の終わったことであったかのように、これら戦争の過去を忘れてしまった、あるいは初めから知らないような誠に頼りのない主体でも、本当の町作りはできるのであろうか。平和の町作りができるのであろうか。
 皆さんは大切なもの、忘れてはならぬものを忘れてはいないか。もう一度しっかりと町作りに平和というテーマを再度加え考えることが大切なのではなかろうか。そうでなければ、いつの間にかそんな気ではなかったのだが、戦争準備・戦争協力の町作りをしてしまうかも知れないことになる。再度強く意識して平和の町作りに取り組もう。
改憲してもう一度戦争できる国づくり、国破壊をめざす勢力には、まさにそうした戦争協力の「市民運動」を必要とする時代をいまちょうど日本は迎えているのである。
また舞鶴は海自がある。ここでばらまかれる金は市役所がばらまく金よりも多い。この町は町作り運動を買収できる条件がある。何も買収されているといっているのではない。正当な利潤以上の甘い汁を吸わせて町作り運動をコントロールできる財政的な条件が存在している。これは年々増加して政治的にも文化的にも、日本の軍事化がすすむ大きな経済的条件となってきている。

私の知り合いは左が多い、少なくとも自分では左の闘志のように思い込んでいる人たちである。そうした知り合いが、「ナニ。結婚式か、市政記念館はどうだ、あそこはいいぞ」、などと言うのである。市政記念館は海軍兵器廠の雑品庫であった、そんな事くらいはよく知っていようはずではないか、お前は平和の闘志ではなかったんか、軍国主義者に成り下がっていたのかといいたくもなる。軽いのぅ、誠に軽すぎるのぅ。彼にも戦争はなかったのだ。右も左も真っ暗闇でございませんか。人類史上第三発目の原爆はまたもや我国に投化されるかも知れない。
 はっきり申せば彼などはまだまだいい方である。もっともっとお粗末な左翼がゴロゴロしている。何とか申した最大最強を誇った労組がここで定期大会を開催していたし、大会へ挨拶に来たという何とか申した野党議員がここはエエとこだと感心感激してHPに書いている。お前らな、平和勢力の内なんだろが、もうちいとしっかりせいよ、などと遠慮しつつ申し上げれば。まずナニっと来る。いや、そんなことないで、ワシらはしっかりしとるで。よその旧軍港町いうたらな、もっとひどいで、ホンマに舞鶴なんかましなもんなんやで。と。
左翼は死んだ、自滅だなと愕然として悟ったものである。当分の間は右の翼だけで飛ばねばなるまい。いつ墜落するか知れないヤバイ状態である。福知山線の方がだいぶに安全ではなかろうか。旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)ホンマに左翼がこれではもう間違いなく「改憲して戦争」だぞ。右翼がその気になれば何でもできる国会議員数ではないか。「改憲すなわち戦争」の時代になっている、もう戦後というよりは新たなる戦前状況である。頼むからチイと真剣になってくれよな。もっともっとピリピリしてくれよな。

仮にナチスの元軍事施設内で結婚式や仮にも労組が定期大会などを挙げて、ナチの賛美に、あるいはつながるかも知れないようなことをすれば、ドイツ国内だったら、「反ナチ法」に抵触するのではなかろうか、犯罪行為になるのではなかろうか。もっとも私はドイツのことは知らないから自信をもっては言えないが、普通のドイツ国民なら、まずそんなことはしないと思う。少なくとも私がドイツに暮らしていたなら、絶対にそんな事はしない。日本国内でも絶対にしない。
 ドイツは、西の方だが、同じような侵略虐殺敗戦の歴史を共有する旧同盟国ではあるが、短い年月の間によくぞここまで負の歴史を克服できたものと、私は賞賛を惜しまない。日本が馬鹿すぎるバブルに狂っていた時代である。彼らは当然の事をキチっとやっていた。偉い、偉すぎる。
 それに引き替え、どこぞの国は…ヒットラーを神に祀り、国の元首がそれを参拝する…、度か過ぎてブラック・ユーモアにもならぬ話だ、何ら実行の伴わない口先だけのその時だけの「反省」、いいやそれならまだしもましだ、実行が言ってることの反対を向いているではないか、いったばかりのその足下から何度も何度も本音の暴言が繰り返される、そんな「反省」と「平和」ばかり…、何ぞ一人前のことでも言うのかと思えば昼間から寝言か、そんな人をバカにしたようなことを言っていればいいというものでもなかろう、何か勘違いしているようだが、平和というものは命がけの大事業だぞ、私はブッシュと大喧嘩しても朝鮮半島の平和を守るぞ。それにひきかえ貴国は正気なのか、大事な隣国相手に儲け話にしか乗ってこないではないか、それも談合付きで。そんな者はドクズだぞ。と…。
 そんな正論をあるいはいいたいのであろうかもしれないが、そう隣国大統領にまでも言われるまでもなく、これはとてもとても空疎なお子さまの空洞未熟国家・日本ではなし得ない大事業である、想像すらできない話であろう。お坊ちゃま・お嬢ちゃま国民には、天地がひっくり返っても出来得ない、私は情けなく悲しく、誠にみじめに泣くより手がない。悲しいのぅ。誠に悲しすぎるのぅ。

北朝鮮や中国なども「未熟な国」と呼んだりして、日本一国は何か大人のようないい気になっているわけにはいかないのである。「未熟な国」=中国・朝鮮などの言う反日などまともに聞けるかといったような態度も一部に見られるがこれも気になる。加害国が被害国に対してとるような態度ではなかろう。どんな国でも完璧ということなどはない。中国や韓国・北朝鮮が完璧でないから、あるいは日本の方が完璧に近いからなどとといって、まともに耳も貸さない態度はいかがなものであろう。涼しい顔をしたこんな人物が日本にはけっこういるものである。旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)

「戦後60年のあいだ私どもは戦争はしていません。その間には中国こそあちこちで戦争をしてきたではないですか。民主主義もありませんね。私どもは中国を信用できないのです。」とテレビでしゃべるジャーナリストがあった。ベッピンさんのジャーナリストが涼しい顔してしゃべる。舞鶴人のだいたいはこれくらいの水準にとどまっている。こうしたところが舞鶴人の平均値的な声でなかろうか。これを越えるような意見の持ち主はもうごく限られたものである。中味はじつにつまらぬもので、あほくさいがすこし反論しておこうか。
 たまたま何かの事情で60年間戦争がない国などはいくらでもあるだろう、それだから信用できるとかできないとか言った話にはならないだろう。60年間は確かにそうであったが、現時点ではサマワがあるから、いつ殺されたり、殺したりするかも知れない。照準はとうの昔に合っているので、イラク人がその気になりさえすれば、いつでも日本軍兵士を殺すことは可能のように思われる。
日本のあの侵略戦争と、国境線の小競り合いや台湾問題などと同列に見て、どっちもどっちというのはミソクソの区別もつかぬらしい。
信用関係はこちら側から築いていくべきものであろう。被害者を捕まえて加害者が信用できないなどというものだろうか。21世紀のアジア世界との友好をどう築くのかという大事な時に、我国にはこれくらい低水準なジャーナリストしかいないのであろうか。
そして彼女はいう。「日本は民主主義でいい国です。中国や北朝鮮に民主主義はありますか。」。これは舞鶴人もよく言う。確かにいい国だよな。何でもしゃべれる、これほどに詰まらぬ意見でも。しかし大抵の多くの日本人はアンサンのようにはしゃべれる機会はない。アンサンはそのしゃべれない多くの日本人に代わってしゃべるべきなのだ、もうチイとまともな話を。
 日本だって60年前までは天皇制軍国主義の国であった。好きな意見が発表できた国ではなかった。天皇制や軍国主義、帝国主義戦争に反対するような者は非国民と呼ばれて、そんな思想を持つ者は特高に何人も虐殺された。アンサンのお仲間のジャーナリストやクソ以下の政治屋どもが命をかけて低国と戦って民主主義を勝ち取ってきた、のだっただろうか。
低国が中国はじめ周辺諸国人民の命かけた必死の抵抗・闘争のお陰で倒されたために、それが倒れた後に、生まれ変わった日本では、自由にしゃべれるようになったのであって、何も初めからしゃべれる民主的国家だったのではない。
 どれだけの日本人が言論封殺のために憲兵や警察に虐殺されたかも知らないのか。大本営発表の大ウソばかりを報道しつづけたアンサンの先輩ジャーナリストどもが、今日の民主主義を築いたのではない。日本の腰抜けジャーナリストなどクズどもは民主主義のためには何の役にも立たなかった。天皇制軍国主義日本を支えていく力になること以外は。今後もこんな事ではそうでしかないであろう。
日本の民主主義の正面の敵がアンサンの腐った先輩どもであり、戦後日本の民主主義を築いた本当の勢力はアジア諸国人民の闘争であっただろう。
アンサンが大嫌いな汚いくさい下層のアジア諸国人民である。彼らこそが日本の戦後民主主義を生み出した本当の親だぞ。日本が「民主的ないい国」になれたのは彼らのお陰だぞ。今後は汚いくさい足を向けて寝るなよ。これくらいもわからないのが涼しい顔でテレビでしゃべる。そんなレベルの民主国家なのである。こんな彼女の歴史認識欠如の発言を平気で放送しているということは、現在の民主国家平和国家日本を建設した者は、日本の報道言論界では絶対になかったという過去を証明するようなものである。どうやら日本国民の力ではなかたのではないのかという疑いも生じる。現在は過去の集積である。平和国家日本にとって、その誠の与党がどこで、戦争はじめようとする勢力がどこだか、過去と現在につながる勢力がだいたい見えてくる
 旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)
   軽いのぅ、軽すぎるのぅ。

「戦争を知らない子供たち」と呼ばれた私たちの世代も、いつの間にか戦争を知らないオジイ・オバアになりつつある、大切な教訓は何も身につけず、生まれたままの幼児のような裸で、精神はお子ちゃま級、幼児病が癒えぬままで、年齢だけは重ねていく、情けない話ではある。
 ましてその子や孫たちは戦争など知るはずもない、悲惨な記憶が社会から薄らいでいく、確かに確かに怖い所へさしかかってきたようである。左がこれなら他は推して知るべしか。右も左もなくぜんぶが軽いのぅ、軽すぎるのぅ。



(しかしこれはあまり政治的な思想としての、というかむしろ自称としての、自分の勝手な思いこみとしての右・左は関係がないようで、その人の歴史感覚によるようである。こんな頼りない左もいれば、戦争反対を言い、それなりに実行するしっかり者の右も多い。

 発掘調査の現地説明会などにたまに顔をだすとたくさんの人が来ている、こんな所へ来るような物好きは私だけかと思っていたら、そうではない、歴史好きとは言われる日本人ではあるが、歴史感覚としてはどうした集団なのであろうか。特に隣国との関係で歴史性をもっているのであろうか。歴史感覚というのか、歴史認識と呼ぶのか、歴史から教訓を引き出して未来をつくるといったような態度で歴史が好きなのだろうか。単に知識を見せびらかしたい見栄のため歴史学や古い置物が好きでといった水準の歴史好きに留まるのではなかろうかとも思われるのである。日本軍と戦った米軍は日本人は同じ失敗を何度でも繰り返すと分析している。歴史好きだけども歴史性は欠ける、とでも考えておいた方があるいはよさそうである。過去に学ばない人間というのは動物にも劣る愚かな弱い生き物である。これは早く克服すべきである。
権力の象徴の城門を復元してみたり、時の太鼓櫓を復元したり、「こんなショモナイモンをつくりやがって」とこきおろされる。莫大な聞けばあほくさくなるほどの税金を平気で投入する。これは親方日の丸の無責任人間どもでなければとてもできる事業ではありえない。さらに丁髷姿の侍の行列なんぞや、何になるのだと高校生が笑うようなことばかりで、どうしてそう支配者ばかりに目が行くのであろうか、当時の農民民衆たちがこれら支配者どもにどれくらい絞られたか忘れたのか、全藩百姓一揆も何度かあっただろうが、奴隷根性が根についていて情けない、こんな奴隷根性者に町作りができるのか。こんな城門の復元に5億円だそうである。誰もこんな物を復元してくれなどという市民はないだろう。こんな物でも褒めたくるようなHPばかりで、本気で怒る市民がいることを書くHPがない。私も頭にくる。こんなものを税金クソ遣いの税金ドロボーとよぶのではなかろうか。

 下に新潟県新発田市の市会議員が視察に訪れた報告のHPを引かせてもらおう(写真も)。この市の議員さんのようである。2000年のことのようだ。5億円もかけた割には観光や町作りのタネになるとは思えなく感じて早々に次の視察地に向かったと、復元田辺城城門をもっともよく見たHPと思われるがアクセスがたった500とは寂しい。ご覧のように私だけが無茶を言ってこき下ろしているのではない。こんな物に5億円。もったいない過ぎる。「市議会議員活動報告・視察活動報告」


 〈 京都から舞鶴経由の福知山へ田辺城城門(舞鶴市三の丸)
 研修二日目、蒸し暑い朝をむかへ早速舞鶴の田辺城に向かう。予定通り西舞鶴の田辺城に到着した。平成5年に完成した大手門と二階隅櫓のみが復元されており特別な案内表示もなく観光施設としての位置づけが乏しいと感じた。お城へは自由に誰でも出入りでき、勝手に二階隅櫓に入ってみたが展示物はなく寂しいものであった。大手門の二階が展示場として常設されており管理人の方がお一人おられ話を伺った。この田辺城は明治の城郭取り壊しの後、一部石垣に土を被せたこんもり盛り上がった大きい築山風になっていたところを発掘調査した結果、城郭跡が確認されたことで、ふるさと創生資金を基にして5億円の予算で建設されたものであることを伺った。 完成当初は観光施設として入館料を頂き管理に当てたが、入館者が減少したことから最小限の管理とするため現在の姿になったとのことであった。復元されたものは木造で造られ資料による復元でなく、想定されたお城であり、平城ゆえ街を一望する天守などなく二階櫓とわずかな歴史資料では観光や街づくりの糧になるとは思えないと感じ、早々に後にして福知山へ向かう途中、昼食を宮津の天橋立で摂ることした。天橋立は舞鶴湾の西端の奥に位置し奇怪とも云うべき現象で、入り江が一直線の松林でふさがれ両サイドの山の展望台からのみ観ることが出来、日本三景の一つに数えられる風光明媚なところであった。展望台では特設の股のぞき台が設けられ、観光に訪れた方々は皆股のぞきで楽しんでいた。我々も堪能した後福知山市へ向かった。 (記:長谷川晃)  〉 
一方、同報告は福知山城については次のように書いている。

 〈 福知山城は、織田信長の命を受けて、明智光秀が丹波、丹後の平定に着手し平定した後、丹波を与えられた光秀が築城(1580)したと伝えられている。光秀以後の城主は転々と変わり、1669年朽木植昌(たねまさ)が藩主となり、明治に至るまで朽木氏が十三代に渡り統治した城郭である。
 福知山城には、三層四階の天守閣や広大な二の丸御殿など多くの建物があったが、明治四年の廃城令により次々に取り壊され、わずかに銅門番所(あかがねばんしょ)が天守台の隅櫓として移築されて残り、城郭の面影を偲ばせる状態であった。戦後、地元の人たち福知山出身などから、街のシンボルであるお城の再建が強く要望されるようになり、昭和45年郷土資料館建設基金条例が制定され、お城復元に向けて基金の積立が始まった。しかし、その後、オイルショックで一時中断された時期もあったが、昭和59年、福知山城再建期成同盟会が設立されるなど、それまでに集まった資金と積み立てた基金を合わせると約5億円が確保され、一気に復元に向けた機運が盛り上がり、日本城郭研究の第一人者である、昨日も伺った長浜城の計画も担当した文部省文化財保護審議会専門委員の藤岡通夫東京工業大学名誉教授に設計監修をお願いし、建設することが決定された。
 決定がなされた後は、市民一人一人による瓦一枚運動など自治会を通じた運動もあり寄付金が集まり、昭和61年福知山郷土資料館と一部産業館として完成した。天守台の石垣は、自然石野面積(しぜんせきのづらづみ)の穴太(あのう)積と呼ばれる積み方で、約400年もの歳月に耐えているものであり、五輪塔や宝筺印塔(ほうきょういんとう)の転用石がたくさん使用されているのがめづらしいものであった。天守台の前に掘られた井戸は今も清水をたたえ50bもの深さがあり、井戸の底は海水面より下にあるというものであった。
 管理運営については、三人の職員嘱託三名、窓口業務をシルバー人材に委託され、土日と祝日のみ展示物警備を警備会社に委託されている。三万人前後の年間入館者があり、街のシンボルとしての役割は充分に果たしているが、今後の課題として内部が狭く展示品が少ないので、隣接している美術館との総合利用や周辺の公園との関連効果等によって入館者増を検討する必要性を感じた次第である。  (記:小川徹)  
明るい郷土の明日を作るためには、民衆こそが主人であることが何よりも大切なことです。いやいや何か大昔の青年団時代の話のようなことを書くのも何だが、郷土の民衆の歴史に学んでるな、民衆を主人にしているなと感心させられるようなものは現在ちょっと見当たらないと私は思っている。そんなことで町作りができるのであろうか。いや、西舞鶴では最も多くの人が集まるイベントなんですわ。あほかいな。人が集まればいいのか。中味だろうが。さらに悪いことには、…、書かないでおこうか。大変なことになっている。書かないが気がつく人も多かろう。すぐ改められよ。町作りの主体者がどうもおかしい。

明倫館の門(江戸期から伝わる)

復元する価値のあるものは明倫館やその校門であろう。これは明治初期に田辺城が破壊されても破壊されなかった門である。これは残そうと判断したものであろう。偉いではないか。明治人は学問の門は残した。学問こそが郷土をつくる、これは残そう。今も残っている。
城門を復元するような者よりは、明治人の方が千倍は利口だと思う。
 これを各市立小中学校の門に復元してはどうか。現在のこれらの学校の門、あれは学校の門というような物ではない、刑務所の門である。全国同じような門であるが、よくもこんなお粗末な物が作れるなと驚くような物である。学校は刑務所ではない。学問の門とはあんなものではない。明倫館の門を復元して各学校に建ててやろう。これが学問の門だここから入って学べと。後世の舞鶴人が残したくなるような立派な学問の門を我々も作ろうではないか。それに近頃はこのお粗末な刑務所の門は閉じられている。明らかに我国は狂っている。情けないことにますます狂いが悪化している。誰が悪いのだろうか。悪者さがしをしていても仕方がない。一人や二人が悪いのではなさそうだ。みんなが悪いのだろう。気付いた者から手を貸すより方法はない。)
閉じられているのは舞鶴市だけかも知れない。ふと気になって通りかかった折にはこのごろ学校の門を見るようにしているのだが、隣町の綾部市の学校は門が開いていたように記憶している。だいたい門そのものもないような学校もあったと思う。門を買う金がないのか、それとも門で子供の安全が守れるはずがないと考えているのか。
町作り村作りとは、ハコ作りミチ作りのことくらいの認識のようだが、それならせめていいハコやミチが作られるかといえば、そういうわけにもいかない。町作りにかける思想・哲学が頼りない、あるいはないのだから、どうころんでも大したことはないようである。舞鶴市境に立つ案内板(舞鶴市真倉)
何とも使い勝手が悪い建物ですな。使う市民の事などは何も考えていないんでしょう。作ったというだけのモンですな。ほんまのお役所仕事ですな。こんなもんで舞鶴の方はよう辛抱してはりますな。と思わずお褒め頂くことになり、恥じ入って市民は顔を赤らめなければならなくなる。これは舞鶴市(もう一つこんな話を聞く市が近くにあるが書かないでおく)の長き悪しき伝統のようになっている。右も左も一般にそうである。例外は私は知らないのである。

                     

           軽いのぅ、軽すぎるのぅ。

次のようなことも言えよう。サイパン島の観光が人気があるそうである。沢山の兵士や一般人が死んだ島である。遊びたかった若い人たちが遊べずに死んだ島で、それも遺骨さえ拾ってもらっていない、こんな島へ行って、そのお骨を踏んで、あなたたちが遊んではいけない、と若い娘が観光に行くのに強く反対した母親があったという。
 若い兵士が沢山死んだ海軍の遺産ですよ、深い海に沈んで遺骨さえ拾ってもらっていません、お葬式すらまともに出せていないではないですか、石ころのお葬式だったんですよ、そこで何が結婚式ですか、何がジャズですか、何がフェスティバルですか、何が赤レンガ博物館ですか、そんなことはほかでやりなさい、とその母親ならば言うのではなかろうか。
ママゴンのお門違いのヒステリーなどといわずに深く反省してみるべき意見だとおもわないだろうか。別に特に歴史にこだわれと言い立てる気はないが、何か一種の墓場荒らし、あるいはユダヤ人の遺体から金歯など値打ちのありそうな物を引き抜くナチと大して変わらないような、後ろめたい気持ちもしてくる。
 頼みもしないのに勝手に戦争の話をする人が少し前まではあちこち私たちの周囲にもいたものである、その当時は若い私にはよくその意味すらよく理解できなかったものである。2000万人の死者の亡霊が生きていて、よく私たちの進路に立ち現れた。おかげで私たちはそんなには大きくは道を間違えなかったと感謝しているのである。
 今となっては私たちの世代が言わねばならないのかも知れない、私たちの世代は戦争は知らないが、上の世代の多くがが鬼界へと去ったために知ったような顔して話をしなければならなくなってきたのだろう。町作りに燃える、誰かに燃やされているのかも知れないが、そんな若い人たちが理解できないのも当然かも知れないし、そんな事をいう人はこの世を去ってしまっているかも知れないが、しかし一人前の舞鶴市民なら確かにそうした歴史認識も必要不可欠なことなのである。
 上は国土交通省が建てたものである。国道27号線を走る者からよく見える、何を考えているのであろうか。過去に侵略戦争があったということすらも知らぬのであろうか。
舞鶴市民の名誉のために、もっとも問題少なげなものをここに写しておいたのである、もっともっと頭も心も痛くなるようなものが量産されている。悲しいのぅ。悲しすぎるのぅ。



水雷庫(これは国道筋にある)基本的には物理的耐用年数が来れば廃棄するより使い道はないだろう、深く深く黙祷を捧げ平和を誓って廃棄しよう。平和目的以外の二次使用は許されない。アメリカ人は戦場で拾った遺品や、戦利品を何十年経ても日本へ返還してくる。テレビでもよく放映される、「アメリカ人の偉いところだな、当然といえば当然だが、日本人なら絶対に返しよらへんで、ひとのもんを盗んだという罪悪感すらあらへん」、とテレビを見ながらは言う。もし中国が返せと言うなら返そう。しかしどうしても郷土の未来に本当に役立てたいのなら、道はなくはないかも知れない、多少は道が残されてはいるかと思われる。しかしそれにはもっともっと深く深く考えねばなるまい。この地に残された建築物は非常に魂を使う必要のある代物ばかりである、市民の頭でもっともっとよく考えることであろう。平和憲法下の現在もこの地は不思議な矛盾に充ちている。ご苦労だが舞鶴人にはそうした役割が託されている。軍港の町・引揚の町の舞鶴人だから出来るのである。
 似たような赤レンガ倉庫なども横浜にも小樽にもあり活用されていると聞くが、それらは軍事用途に建てられたのものではない、戦争遺跡ではない。仮にそれらがうらやましいほどに活用されていたとしても、それとこれは一緒にするわけにはいかないでないか。
ミソもクソも一緒にすれば金太郎アメ式の町作り、サルマネの漫画なものになる。舞鶴は舞鶴の歴史を踏まえた町作りをするべきであろう。軍港の歴史しかない。平和の港の歴史はない。

はっきりと書いておこう。××会議所や観光××あたりのいいかげん流の歴史認識ではもとより無理だ、無理すぎる。何もけなしてやろうとか誹謗中傷しようとするのではないが、××市や××市教委でも無理だ。全世界から大笑いされるだけだろう。もうすでに大笑いされていることであろう。情けないのぅ。悲しいしのぅ。これら大きな大き過ぎる戦争の負の遺産が扱えるほどの人間的力量がないことはすでに十分に明白である。
 これまでも一度も本気で世界の戦争と平和などについて考えたことも実行したこともなかろう。やる気のない、市民の声無視の××府や市、府・市教委には荷が重すぎよう。
 「何ぞというとすぐによそから人を呼んできよる。自分で判断ができんのやな。呼んできたかて、それがはたしてそれが適任者かどうなのかも(一般市民には)わからへん。何とか検討委員会とかいうてな。あれらはほんまにたよりない仕事しよるで。あれらが近代的文化人という奴やな。」とはいう。どういった人なのか私もよく知らないのだが、見たところはそこらのおっさんであった。何かヨボヨボみたいなところもあったが、行政批判と近代文化人批判ができる、魂はハンパじゃないね。すごい舞鶴市民はアホでないぞと思った、よく見てるな、京大・東大の教授といったような立派な肩書きの大先生方もいるのだが、こんな調子でボロクソである。超有名大学でも腰抜けはいくらでもいるもので、肩書きだけで信用するのは愚かでありすぎよう。全国のあちこちでご活躍らしい工学系の町作り教授や講師さんであるが、確かに余り意味のない人選であり、本気で我らの町の町作りを考えたものとも思えない。

本気の町作り・村作りとはこんなものとは違う。こんなものではまったくない。どっかから人を呼んできてできるようなものではない。そんなことで町作りができれば誰が苦労するか。町作りの基本がわかっていないし、主体も成長もしていない、私には主体が見えない。旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)主体の舞鶴市民が見えない。
 おかしな話である。これはまず間違いなく官製の運動であろう。官製以外にはあり得ない。官製町作りの無理を重ねても駄目である。もう限界であろう。破綻が来た。
 本当の舞鶴市民の声とはこうした声である。このおっさんの言う通りで私は書くことがなくなってしまうが、軍事赤レンガ建造物を「活用しよう」などといった話はこれまで一度も私は舞鶴市民の間で聞いたことはない。舞鶴は悲惨な引揚げを体験した「岩壁の母」の町であり、その体験からは、これら赤レンガを、おかしな具合に「活かそう」などといった発想はまず生まれない。よい方向へ何とか活用できればいいとは市民の誰もが考えてはいたであろうが、さてこれといったような妙案もなかったのである。このままひっそりと余生を送らせよう、これくらいのことであったと思う。
 ここでジャズ演奏や肉ジャガなどを販売しようとか、まさか市の公式HPのトップに置くようななどといったような発想は、舞鶴市民にはなかった。そこまではまだいかれてはいない。これは歴史を活かすとは普通は言わない。歴史を殺すとか、歴史を忘れるとか言うのであろう。憲法を変えて戦争をしよう、の大きな政治の動き。舞鶴行政主導のこれは、歴史を忘れて、変えて、殺して、戦争をしよう、の文化版というか地方版でなかろうか。
まあ考えられない反応であり、戦争体験のない戦争を知らない世代の一部の超デキソコナイどもが悪のりしたか、悲惨な体験を経ても何も魂に感じることのなかった、超クズのような人間であろうか。2000万人の犠牲者に対してどう申し訳を立てるつもりであろうか。福知山線のあのマンションでジャズ演奏をしたり、肉ジャガを売るか。尼崎市のHPのトップにあのマンションを置くだろうか。そんな事をして町作りと呼ぶか。誠に申し訳のないことである。

昔はそんなことはなかったのであるが、いつからかこんなおかしな事が行われるようになってきたのである。舞鶴市民も実は困っている。ちょっとあそこへは子供を連れては行けませんね。などとささやかれることになった。市の施設がである。まったくのところ町破壊である。どうしたことだったのか、何かどこか調子が狂ってきている。またそのあたりへ来れば再度書いてみよう。
 これらは軍港舞鶴の原点であり、変更を加えることは許されない。これらの建物が残っているかぎりは、絶えずここへ立ち戻り、進むべき方向を点検してきたのであった。
また舞鶴市も舞鶴の町作りの主体は一体誰なのかをもう一度明確にすべきである。舞鶴市民が町作りの主体なのか、それとも行政機関の舞鶴市が主体なのか。どちらが主でどちらが従か。甘やかされた犬は自分が主人だと勘違いしている、犬失格である。オール与党の超甘やかされた行政もあるいはそんな意識をもつのかも知れない、いつの間にか失格者にはなってはいないだろうか。
                      旧日本軍の軍用遺構(舞鶴市白杉)
まずははっきりと軍事建築物とか戦争建造物とはっきりと軍事とか戦争を冠して呼ぶべきだろうと考える。単に「赤レンガ倉庫」と呼んだのでは歴史が忘れられよう、「軍用赤レンガ倉庫」とか「戦争赤レンガ倉庫」とでもすべきであろう。再利用する場合は平和目的に絞られよう。これからリサイクルするというならば、世界の平和と友好、軍事化を抑えて文化力を高める、それ以外の目的に使うことは許されないであろうと考える。
 「赤レンガ博物館」に落ちぶれた旧日本軍の魚雷庫が文化財であるそうである。舞鶴市指定文化財と書かれている、いくら目をこすっても確かにそう書かれている。
そうすると倉庫の中味の海軍が誇った九三式酸素魚雷は重要文化財くらいの値打ちがあるのか。そんな魚雷もあったようにも記憶しているのであるが、私が小学生の頃にはまだこの辺りには機雷があちこちに幾つもあった。いつの時代のどこの国の物なのかはわからないが、火薬を抜いた機雷が官庁建物(海自だったと思う)の玄関脇などに飾りのようにして置いてあったと記憶している。いろいろな形があったとおぼろげに思い出す、かなり大きな、たぶん3トンはあるだろうというような物もあれば、小さい300キロくらいの物もあった、本体から何本も信管が飛び出して、大きなウニのような物であった、今思えば惜しいことをしたものである、、たぶん愚かな奴らが平和の時代にはこんな物を置いておくのはふさわしくないと考えて撤去、処分してしまったのだろう、貰っておけばよかった、あれも重文だったのだ。誘導装置付きの核魚雷なら国宝だろう。原潜搭載の水中発射できる多核弾頭各自誘導弾道ミサイルは、まちがいなく世界遺産だ。郷土の文化と教育に責任を負う教育委員会がやることである、郷土の未来がかかる教育委員会である、もちろんそうしたことではないであろうが、平和と戦争はもっともっとキチッと線を引き厳しい態度をとらないと駄目であろう。軍が親方日の丸で経済性を無視して作った物である。普通の建物なら三つも四つも建てられるほどの金をつぎ込んで建てている。そんな物は調査するまでもなく、安物とは較べものにならないほどに上等で立派な建物に決まっている、しかしそれが本当に人間の文化なのであろうか。人間を人間に育てる文化力、教育力をもつのであろうか。郷土が誇る文化財なのであろうか。ちと真剣に考えられよ。
 とてもこうしたような考え方には私は同調できない。そんなわけで私は当サイトではこうした民生用と区別がつきにくくなった遺物は軍事××と呼ぶこととしたい。厳密に書いていけば舞鶴の近代遺産はあれもこれも軍事ばかりである、誠に暗い悲しい話ではあるが、当地の哀れな情けない歴史であるからいたしかたがない。二度とこんな歴史を繰り返さないように念じたい。


「東門」のバス停(舞鶴市北吸)
北吸に「東門とうもんとうもんとうもん」というバス停がある。市役所のすぐ近くである。このあたりを東門と呼ぶ。私は三笠小学校だったので、この地名を聞くとずいぶんとなつかしい思いがする。東門東とか東門西とかいった分団名があったように記憶している。現在もあるのであろうか。
 さて東門とは何の門であろうか。西門という門もあったのであり、それとセットになっていた。下の写真はその西門の現物であるが、元あった場所から移動しているし、門の看板も変わっている。なかなかに格好もセンスもよろしい、刑務所の門のようだが、花崗岩と煉瓦でできている。こんな立派な風格ある門はきょうびは作れないのではなかろうか。元々は余部下にあったそうである。
 東門から東側の東舞鶴市街地内を通る国道27号線は「大門おおもんおおもんおおもん通り」と呼ばれる。これは軍艦名ではない。普通なら当時の一等戦艦名が付けられたはずなのに、これはどうした事なのだろう。大門とは東門のことなのである。東門へ続く道だから大門通りということらしい。西門の西側もやはり大門通りと呼ばれたそうである。
                        西門(舞鶴市北吸)
これが舞鶴鎮守府の門である。だから現在の舞鶴市役所はまったくの舞鎮の中になる。「海軍軍需部本庁舎」が市役所の前身であった。旧日本軍の解体ののちに占領軍が一時接収し、その後中舞鶴にあった市庁舎がこの地に移ったのである。私が子供の頃はそのボロっちい建物をまだ使っていた。現在でもこのあたりはすこし地面を掘れば、思いも寄らぬ所から鉄道線路が出てきたりする。「何が出てくるかわからんな」とささやかれている。まったくの秘密軍事基地であった。赤レンガ倉庫の建造物は14ばかりあったのであるが、全部舞鎮内の一等地にあり、倉庫内にまで鉄道が引き込まれた超重要軍事施設であった。もちろんそんな大切なものは市民の目にふれたりはしなかった。そんなものを付近の山や海から見て、己が手帖にだいだいの様子を写したりすれば死刑かもしれない。そんな舞鎮の心臓に今の市役所がある。これがしっかりと周囲の貴重な戦跡にも注意を払って大切にすればいいのだが、口先では歴史を大切にしましょう、実際には一生懸命に歴史を破壊するだけである。
 舞鶴市役所は元々が舞鶴鎮守府内の心臓部にあたる地にある。これは現在も同じで右も左も旧日本軍の赤レンガ倉庫群であり、裏を見れば掃海艇が何艘も停留しており、東へ東へと拡張を重ねた自衛隊桟橋はとうとう市役所と接するところあたりまで伸びてきている。市職員の毎朝の話題といえば、「大きな船が入ってるな。あれは摩周か。艦橋が偏ってるから違うな。輸送艦というのか、補給艦というのか。」などと役所のすぐ隣にとまっている自衛艦の話である。何千トンあるとか、よく知っていて私などよりはよほどに詳しい。いつから海上自衛官におなりになったのであろうか。もう完全にまともではない。市職員に採用されてよりずっとそうであったために、ご当人の気付かぬままにじわじわと麻痺し発狂しているのである。そんなことではまもなく「あれは戦艦かそれとも重巡か」、「あれは原子力空母かそれとも原子力輸送艦か」、「あれは弾道核ミサイル原潜かそれとも攻撃型原潜か」といわねばならなくなることであろう。憲法違反の既成事実つくりにせいを出す勢力からみれば、こうして表だっては頼めもしないことを、自発的に社会風潮つくりをしてくれる人や団体が基地の町の自治体の中や周囲に買って出てくれるということは大変に喜ばしいことであろう。きっと大泣きして喜んでくれていることであろう。
これらの赤レンガ建造物群が世界遺産級の文化財という話をする専門家(建築の専門家だが)もある。広報紙が懸命に宣伝している。「専門家から 世界遺産級の価値を持つ建造物」の見出しがある。それでは「無知なド素人から 世界遺産は本当か」をここに書いてみよう。
 世界遺産級などといった最大級の宣伝文句は市や観光協会の作成した観光パンフなどにはいっさい見られない、こんなことこそ宣伝するべきではないか。市史にもその他の文化財関係の市の刊行物にもない。仮に本当に世界遺産ということであれば、少なくともここの建物の幾つかがすでに国宝に指定されていて、国の内外によく知られた人気の観光地であるとか、最低限でもそうした幾つかの厳しい条件が揃わない限りはありえないことである。ひとつでも国の文化財に指定されている建物はあるだろうか。ひとりでも観光に訪れた他国からの訪問客があっただろうか。今から重文指定をめざすのではなかったか。舞鶴人ですらたいして興味も示さないし、内部を見た者はそんなにはないのではないか。
本気でいっているとも思えないが、世界の良識を備えた人々を納得させるに足るような、何も知らない田舎者相手の軽いつもりのばかにしたような冗談話は置いて、正気で世界遺産登録をめさすのであるならば、これらは人類の負の遺産としてではなかろうか。
 世界遺産なんかは大ボラ話ですよ、これは何も私が言うまでもなく、当事者の市教委自身が暗に言っていることである。赤レンガ倉庫1棟の「重文指定をこれから目指します」と言っている。なぜ重文かといえば、国の係官がやってきた時に、下見をしてもらったそうで、その時の感触から市教委がそう判断したということらしい。何も係官が明言したわけでもないので、本当に重文はいけるのかどうかは正確にはわからない。こうした具体的な話なので実現性はあるかも知れない。しかし実現したとしても重文である。
その国の国内の最高のランク付け(国宝)のないような、その国の国内ですらいわば二流かそれ以下の評価しかない二流品の文化財が世界遺産になれたりするものだろうか。国宝でなければ、世界遺産などは夢のまた夢なのではなかろうか。市教委は世界遺産などの話は実際にはあり得ないと判断しているのでなかろうか。あり得るのなら全棟の国宝指定をめざすべきではないか。重文なら舞鶴にもすでに十数点ある、国宝も一点ある。鎌倉期あたりまでの仏教文化に関するものである。そのころまではわれらの郷土は高い文化を持っていたのであろうか。しかしこれらが世界遺産ではないように、指定されたばかりの重文一点は世界遺産にはなりえないだろう。それが赤レンガの精一杯の実力、甲斐性である。牛のマネした蛙の愚を演じるわけにも行くまい。と市教委はいいたげに見える。
市教委の判断が正しいと私も思う。舞鶴鎮守府の全体が残っている、あるいは舞鶴要塞のすべてが残っている、そうしたことならまだ負の遺産として可能性が探れるかも知れない。重要なものはすでになく、倉庫だけが残っていても、さてどうであろうか。
 四角いレンガをどう積むかの話である。子供の積み木遊びや庭の塀のコンクリートブロック積みと同じでそうやたらと積み方があるとも思えない。天才が自由に積んだのでもない、軍の注文でレンガ職人が、それも伝統もない国での急ごしらえの職人が倉庫という用途のために積んだものである。いくら天才がワンサカといたとしてもその天分を生かせる余地は多くはなかっただろう。そうした職人は渡り職人であろう。彼らは他の地ではその腕前を発揮せずになぜ凡作ばかりをつくり、ここ舞鶴だけで存分に世界遺産級の文化財的価値を創造したのであろうか。他の旧軍港にも同じような建造物が残されているが、わが町以外に世界遺産などといった話などはきいたことがない。
重文級の積み方といってもどんなものを言うのであろうか。ましてや国宝級の積み方とか、世界遺産級の積み方といったものが本当にあって、それがここにあると言われても、専門家ならよくわかるのかも知れないが何も知らぬ無知なド素人としてはまことに理解に苦しむ話であって頭をひねらざるをえないのである。外から見る限りは何もそのような物とは見えない、ホンマかいや、もしホンマならわけのわからぬ御託をいうとらんと、市民にようよう見せて、具体的にほらここが世界遺産、ここが国宝、ここが重文ですよと、ワシらみたいなアホウな市民にもようわかるように説明してみいや、こんな不況時に税金を5億も使うなら当然にそれくらいはせいやと、正直いってド素人のオッチャン市民には疑いの方が先にでるのである。
 事態は悲惨だ。悲惨すぎる。私としても世界遺産であればと、夢には希望している。子供の頃からよく知っているこれらの倉庫群がもし世界遺産であればと、文化なき地域に住む人間の劣等感がひっくり返った妄想かも知れないが、そうであればいいがなと、舞鶴人ならば笑われるかも知れないから口に出さないだけで、願っているには決まっている。
さて仮にめでたくも全棟が国宝指定を受けたと仮定してみよう。さあ次が問題である。次は世界の良識ある人々の賛同が得られるかである。こんな建物であるから、隣国の特に2000万の犠牲を生んだ被害国の賛同が得られるか。ここが問題になる。舞鶴人が自己満足の運動をしていても駄目である。被害国の推薦状がもらえる理念を持つものでなければ無理であろう。2000万犠牲者の賛同がえられるか、推薦状がもらえる運動になっているのか、そこに目を向けて本当に世界遺産とするためにはここを厳しく自己点検、自己改革をしたいものである。
田辺城が近世舞鶴の核であったように、舞鶴鎮守府は近代舞鶴の生みの親であった。戦後生まれの舞鶴人には己がふるさとの原点、原風景としてここの赤レンガがある。専門家氏の指摘されるバルト三国独立は知らないが、世界史との関わりで考えれば、ロシア革命(1917)の成功にいくばかりかの影響をもったかと思われる。多分に我田引水的な話ではあろう、何も当時の日本支配者が求めたものでもなく、もっとも恐れた結果ではあったが、まさに世界の現代史の幕を切って落とす大きな大きな時代の進歩に、端役として偶然にも加わっていたと思われる、そんな時代の記念館でもある。
重文も国宝も文化財である。世界遺産も文化遺産である。この地に住む人類の文化の力を世界に誇ろうというのは、これは誠にいい夢である。同じ舞鶴人として立派な目標をもつ運動だと誇れるものである。武力を誇ろうといえば「殺されても」阻止しなければならぬだろうが、世界遺産に向ける運動は、そうした近頃の憂慮すべき世の流れとは逆のものであり、そうした流れを止めようとするベクトルをもつものである。それ本来の物としては文化運動であり、平和運動であろう。全人類の平和と友好交流のための文化と芸術と教育の拠点を気高くも築いてゆこうとするものである。木に竹をつぐようなちぐはぐなことでなく、自分が進めている運動がどうしたものなのかの自覚、自己認識を深め、運動の理論を磨いてその理想の旗を高く掲げて進まれよ。全世界の賛同が得られるであろう。幸いにも、幸いかどうかわからないが、すぐ目と鼻の先には引揚や浮島丸もある。これらと合流してゆけば、いつの日にか、世界遺産も幻ではない。ノーベル平和賞も夢ではない。
建築の世界的なご専門家様に一つお尋ねしたい、旅客機が突っ込んだニューヨークの世界貿易センタービルの崩壊である。飛行機が高層ビルに衝突するとあのように崩壊するのであろうか。素人に理解ができない。衝突より上の階部分がポキっと折れて落ちてくるのならわかるが、あのように下まで崩壊していくというのは合点がいかないのである。飛行機がぶつからないまでも途中の階で火災が起これば鉄筋のビルは下まで崩壊してしまうおそれがあるのだろうか。ニューヨークの消防士たちは逃げなくてもビルは安全だからその場に居てくれと呼びかけたというが、それがこれまでの常識であった。そんな避難の見直しというのも聞かない。
さらに合点がいかないのが、これらに隣接した47階建て(だったと思うが)ビルも崩壊させという点である。ここにはCIAやFBIも入っていたというが飛行機がぶつからないでも、隣のビルが壊れたら、ビルという物はお連れで危険なのだろうか。あるビルが崩壊したら隣のビルの人たちは避難しなければならないものなのか。
あれはアメリカ政府のインチキ芝居ではと専門家のあいだですら、ささやかれるがニッポンの建築専門家としてはいかがお考えだろうか。

二尾と大丹生と浦入:水銀地名

高倉神社(舞鶴市長浜)


「室尾山観音寺神名帳」に正三位高鞍明神と見えるのがこの社であろう。『舞鶴市史』と『京都府の地名』を引いておこう、高倉神社(舞鶴市長浜)


 〈 高倉神社の狛犬 長浜の高倉神社には慶長十八年(一六一三)作陶の狛犬一対があり、市の指定文化財になっている。同社は「高倉八幡宮」(旧語集)と称して、誉田別尊(八幡神)、天児屋根尊、菅原道真を祭神とする。創祀の由来は定かでないが、天文六年(一五三七)の棟札が伝存している。祭神はともに垂迹神である点、また菅公は天神と習合したこと、および天神を天満宮とせず天照大神と考えられる可能性もあって、三社託宣の影響がこの社の創祀に及んでいるかも知れない。そうした場合は、在来の地方神が新しく宣揚され、流入した神と奉祀上の変化など祭神の交替があったことになる。というのは、現今は同社境内に据えられている神様石が同社の原初的形態ではないかと考えられるからである。恐らくこの石も磐座の類であったかも知れない。  〉 

 〈 高倉神社 現 舞鶴市字長浜
 長浜集落のほぼ中央、舞鶴湾に面した山麓にある。祭神は春日大神(天児屋根命・八幡神(誉田別尊)・天満天神(菅原道真)。旧村社。近世までは高倉八幡宮と称した。
 草創についてはつまびらかでないが、古くは現在地の後方山上に鎮座していたのを、付近を航行する者が神威をおそれて今の地に連座したと伝える。
 当社に現存する棟札の一に、
  (表)従五位 橘氏親
       鳥羽弥三郎栄秀
                下代小林伊賀守行忠
  (裏)天文六年丁酉十月十四日
             願主 南部修理売源膳行記
とされたものがあり、また社蔵文書に
   余部之内長浜八幡宮へ寄進之事、
    合田壱段者
    合畠弐百四拾五歩者、在所ハ池尻ニ在之、
  右之田畠者、拙者仁永代被下領知之内たりといへとも、八幡宮へ寄進申候、然上者御社之修理・神事等之御供已下、無由断可被執行事専一候、子々孫々異儀有間敷候、仍寄進状如件、
  天正十弐甲申     岡本主馬助
      八月吉日      元幸(花押)
       余戸六ケ村百姓中
とあって、若狭高浜(福井県大飯郡高浜町)の城主岡本主馬助が当社に田畑を寄進している。なお、右文書に「永代被下領知之内」とあり、また「余戸六ケ村百姓中」とあるので、この頃、余部里庄六ヵ村は岡本主馬助の領知となっていたものと考えられる。
 江戸時代には長浜・和田・下安久・北吸・余部上・余部下の氏神であり(旧語集)、おそらく中世にも余部里庄の荘鎮守であったと推測される。江戸時代の祭礼は八月一四日、旧語集に「毎年順番ニ振物狂言踊ヲ勤、九月十日東吉原町ヨリ振物ヲ掛ル」とみえる。
 当社には「あこ村におきひせんつばやき衆 きしん仕申候、慶長十八年八月十五日」と銘のある、安久焼狛犬一対(市指定文化財)がある。  〉 
此の地の長い歴史が一点に凝縮されているような社であるが、この神社の元の姿、もっとも古い形態を留めているのが、境内にある「神石」である。神石(高倉神社境内)神石(高倉神社境内)・クリックすると拡大します
 シハスクリとか高倉いうのはこれでないかと私は考えたりしているが、それはともかく岩に魂が宿り、それが神様であると考えられた時代の化石である。こんなものがあるから、ずいぶんと古い歴史のある社であることはまちがいがない。
岩石学を勉強しておけばよかったと悔やまれるのであるが、この石は私の頼りない見立てでは蛇紋岩である。五老岳の石である。何億年かの昔、ハワイの太平洋底でできた石と思う。舞鶴の背骨である。高倉神社の絵
 日本の本来の神様は皆こんな姿をしていたと思われる。もちろん屋代というような建物はなく、あっても一時的なものであった。人々はこの岩の前でお祭りしたのである。いつも神様はここに居られたわけではなく、一時的に天から降りてこられたのであった。この岩が海岸にあった時代の絵がある。「海のいのり」(郷土資料館85.11)というパンフに載せられているがいつの時代の物かわからない。
「高倉神社」

 尚、この神社の古い帳幕にはアシカの乗った船の絵があるそうで、「舞鶴地方史研究会」のマスコットになっているそうです。かつては舞鶴の近海もトドやアシカがいたのであろうか。
「舞鶴地方史研究会」 「高倉神社舞台幕」 「高倉神社」

タカやクラという名から推測すれば本来はこの神社もまた金属集団の祀ったものと思われるが、そうした資料は見当たらない。

二尾と大丹生と浦入:水銀地名


五森神社(舞鶴市長浜)


高倉神社前をの東側へ行けば雁又かりまたかりまたかりまたで、海自の航空隊ができている。西側へ行けば五森いつもりいつもりいつもりとよぶ地のようである。この市道を余部下五ツ森線という。海自の白浜火薬庫があって行くことはできない。
私の子供の頃は知らずに行くと鉄砲を持った兵士がでてきたものである。舞鶴人なら皆そんな記憶があるのでないかと思うが現在はどうなのか知らない。海上保安学校(舞鶴市長浜)
 そこまで行く手前に海上保安学校(舞鶴市長浜無番地)がある。無番地というのが舞鶴には多いが、番外地で国有地である。だいたい軍用地であったところになる。昭和26年にここに開校しているが、元は海軍防備隊があったという。
ここ恒例の学校祭を「いつもり祭」(7月4日)というそうである。この地の地名か神社名なのではなかろうか。
『舞鶴市内神社資料集』(渡辺祐次編)に、

 〈 五つ森の起源について
五つ森は古いから小宮さんが五つある。
一、加戸の森というて石地蔵様が十三、四あり、古いお札の納め場所としてみんなここに納めている。
一、荒神さんという小宮さん。
一、天王さんという小宮さん。
一、たもの木さまといって、ここにも石地蔵が四、五ある。
一、恵比寿さまという小宮さんがある。
 各宮ともに祭りこんだ年代は不明だが、みな回りが一丈から二丈位の大木が二、三本ずつあり、小さな森を作り、そり森が五つあるから字の名も「五つ森」と名付けたものである。
               (中舞鶴尋常高等小学校「郷土調査」から)  〉 
親切に地図がついているが、それがどこだかわからない。はたして五つ神社があったから五森なのであろうか。私はほかに大事な意味が隠れているのではないかと考えているが、よくわからない。何か金属かあるいは交通が隠れているような気持ちがしている。行積(福知山市)
イツモリという名は全国にありそうだが、見当たらないのである。福知山市の行積いつもりいつもりいつもりと久美浜町函石浜はこいしはまはこいしはまはこいしはまのイツモリ長者の伝説しか私は知らない。
「いつもり長者」

福知山市行積は天津から与謝峠越えで、加悦町に出る峠の途中である。加佐郡に接する土地であるが、ここはいち早く『続日本紀』に登場する有名な場所である。このサイトのどこかで引いたかもしれないが、再度『続日本紀27』、天平神護2年(766)7月26日条に(東洋文庫による)、


(昆解宮成、丹波の華浪山に白鑞に似た鉱物をみつける)
 〈  散位で従七位上の昆解宮成は、白臘に似た鉱物を入手して献上した。言上した。「丹波国天田郡の華浪山より出土したものであります。その品質は唐の錫に劣りませんでした」と。そこで〔その証拠に〕真の白臘で鋳造した鏡を呈上した。その後、〔宮成に〕外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人の〔労役〕で十斤余りを得た。ある人は、「これは鉛に似ているが鉛ではない。どういう名前か知らない」といった。〔そこで〕その時、鋳工たちを召して宮成と一緒になってこれを精練させたところ、宮成はどうすることもできず、悪いたくらみをなすことができなかった。しかし、それが白臘に似ていることを根拠に、〔宮成し錫であると〕強く言いはって屈伏しなかった。宝亀八年、遣唐使の准判官の羽栗臣翼がこれをもって、楊州の鋳工に見せたところ、〔どの鋳工も〕みな、「これは鈍隠(鉛)だ。こちらでにせ金をつくる者が時々これを使っている」と言った。  〉 
 この昆解こんげこんげこんげ氏はどうみてみ日本語とも思えぬので渡来系でなかろうかと思っていたのだが、『天田郡志資料』にあった、昆解氏、百済帰化族也、…百済国人夫子之後也トアルとある。金山小学校(福知山市行積)
 この辺りは中世は金山郷と呼ばれたところで、現在も金山小学校跡というのもある。校舎も校庭もプールもあるが生徒の姿はない。金山簡易郵便局の趾だと思われる建物も隣に残っている。角川日本地名大辞典は、

 〈 「続日本紀」天平神護2年(766)7月の条に、丹波国天田郡華浪山に白臘を産し、それをもって鏡を鋳て献上した記事が見える。この華浪は、市内大呂から長尾へ越す現在の花浪峠付近と想定されるが、この付近から北部にかけた地方は、鎌倉期から近世までは金山郷と呼ばれ、近代に至るまで錫・亜鉛・銅・鉄などを産し、鉱物の神である天目一箇神を祀る社が多かった。  〉 
 大江山の麓の行積の近くである。花浪駅もみえる。この辺りから与謝峠を越える丹後への官道があったのである。この学校の前の路がそれかも知れない。『京都府の地名』は、

 〈 花浪駅(はななみえき)
 「延喜式」九条家本「兵部省」に丹波国駅馬の一としてみえるが、設置・廃止時期とも不明。同書によれば駅馬五疋。所在地は瘤木に花並はななみはななみはななみ花並山・花並峠があることから当地辺りと考えられている。なお同書享保八年(一七二三)刊本は「前浪」に作り、これを小田(おだ)にあてる説もある。
 古代から中世にかけては、由良川沿いの丹波と丹後を結ぶ道は開かれていなかったと考えられ、京から丹後国府(現宮津市)へは、山陰道の星角(ほしずみ)駅(現兵庫県氷上郡春日町)から、一ノ貝峠−正明寺−今安−大門−大内−大呂を経て当駅を通り、長尾−雲原−与謝峠越で勾金駅(現与謝郡)へ向かっていたと思われる。いわゆる山陰道丹後別路である。
 「能因歌枕」は丹波国に「花みの里」、丹後国に「はならみち」をあげるが、いずれも「はなゝみの里」の誤写と考えられる。「和泉式部集」に次の歌がある。
  はなゝみの里としきけば物うきに君ひき渡せ天橋立
  よさの海の蜑の数多の真手形にをりやとりけむ浪の花浪
 また「和歌初学抄」は丹後、「和歌色葉」は丹波として、各々「駅」の項に「花なみのむまや」を載せるが証歌はみられない。
 なお仁安大嘗会屏風歌に「花並里衆花競綻」とあって、この付近の春の風景を詠んだ歌が内裏紫宸殿の屏風に書かれていた(大和絵史研究)。
 現在瘤木から長尾へ越す花並峠は幅一メートル足らずの山道で、明治の中頃までよく利用された。  〉 
二尾と大丹生と浦入:水銀地名


余戸郷(加佐郡余戸郷)(舞鶴市余部上・余部下)

「ここが余部ですか、鉄橋はどこですか」などと問われることがある。こんな人はまだましなほうである。「ヨベという所はどこですか」とか問われる。
『世界大百科事典』には、次のようにある。
(余部)
 〈 日本古代律令制下の地方行政村落の一種。令制では50戸を1里(郷)として編戸し、国・郡・里の3段階からなる地方行政組織の末端に位置づけたが、各郡内の山間僻地などでは、この原則にとらわれず、便宜に里が設置されることになっていた。その際の最低戸数について、〈大宝令〉の注釈書である〈古記〉は25戸としており、これに満たない場合は里長を置かず、5戸を単位とする保の長に里長の職務を代行させるものとしている。これが余戸で、正式な里ではないが、それに準ずる特殊な行政単位としてやむなく置かれたものである。したがって、その後の戸数の増加等により、これが正式な里に昇格することもあったわけで、その実例とみるべきものも知られている。その際、出雲国神門郡伊秩郷のように固有名をもつ里となった場合もあり、《和名抄》に多く見えるように単に余戸郷と称される場合もあった。現在も各地に余戸、余目などの地名となって残っている。
  〉 
 全国に百箇所以上は知られている。昭和61年に転落事故を起こした余部鉄橋があるのは兵庫県城崎郡香住町で、但馬国美含郡余戸郷である。アマルベとかアマリベと普通は読む。
 余部(あまるべ)という地名が現在も生きて残っているから、ここが丹後国加佐郡余戸郷の地であろう。当時は50戸に満たなかったというわけである。この時代の1戸は現代の核家族と違って大きく10名以上はいただろう、だいだいの人口は推定できる。現在は中舞鶴と呼ばれる地一帯になる、厳密にどこからどこまでだと言われてもわからない、東は倉梯郷まで、西は大内郷までである。中心の神社は高倉神社だろうから、郷の中心は長浜あたりにあったと思われる。
舞鶴鎮守府跡(舞鶴市余部下)

この地が、というか舞鶴の地が大きく変わるのは、明治34年(1901)の舞鶴鎮守府の開庁による。海軍の町として整備され発展していくこととなる。

 舞鎮は現在の余部下の国家公務員住宅の地にあった(左画像)。国道27号線で言えば、余部下の大きな三叉路に郵便局が建っているが、その後の山の上に建っていた。

 舞鎮の建物は私の子供の頃にはまだあった。だから昭和30年代の中頃はまだ残っていた。(昭和39年に取り壊されたという)
 低い山なので下の道路からすぐに登って行けた。白い大きな立派な建物が草ぼうぼう木ぼうぼうの中にあった。舞鶴鎮守府跡地(小山の上)
私たちはこれが舞鎮とは知らなかった。高い壁に手で触ると白いペンキが剥げて落ちた。床にもゴムのような敷物が敷いてあるのだが、劣化していてボロボロと剥がれた。立派すぎる建物なのに誰もいない、放棄されてだいぶに経ていた、勝手に入れた。勝手に入ってもし火事にでもなれば大変だろうなどと友と話したものであった。この巨大な建物の奥(北側)後に池のような庭のような場所もあったと記憶している。ここが東郷邸であったのだろう。




 下は子供の私たちが侵入した舞鎮である。こんな建物だったようにも思われる。上の階も下の階も全部ひとつ残らず見てあるいた、たぶん何かいいものが落ちてはいないかなあと思いながらだっただろう。何もみごとに何もなかった。 私たちの小学生の時代までは舞鶴にはこんな戦争遺跡がゴロゴロとあって、よい遊び場というか探検場になっていた。火薬なんかも落ちていたりした、私などより少し年上だとそんなものと遊んで指を飛ばすような大ケガをする者もあったという。舞鶴鎮守府
 子供たちよ、これらは旧日本軍の物だ、よく見ておけよ、将来何か役立つだろうなどと教えてくれる人は誰もなかった。我が町には立派な平和運動家ばかりがいたのであろう。これらの建物はこの時に保存しておけば、今も立派にこの世に存在したことであろう。
 ゴロゴロと戦争遺跡の残る中で私などは少年時代を過ごした。落書きの出来るような白壁のある建物などは、落書きだらけになっていた。立派とはいえない内容の落書きでビッシリと埋まっていた。どんな関係のある方なのかはわからないが、それらを見て泣いている大人があった。戦後まだ十数年で、まだ戦争の記憶が強く残る時代ですら、そんな事であった。
小学校でも教えるべきだとか、確かそんな話も少し前には政治屋からあった東郷平八郎、バルチック大艦隊を完膚無きまでに徹底的に打ち破った世界史上の超英雄であるが、彼はここの初代長官であった。
東郷はもっとも薩摩のひとだが、元々が軍人ではなかったと記憶しているのだが、どうだったか、定かではないが、大変に運の強い男とかの評判が高く、ここに2年間いた後に連合艦隊の司令長官に転任していった。長官邸
 運も実力のうちで、運がよくない男は使えないそうである。戦争のように博奕の面もある大仕事は任せられないのである。
 月月火水木金金の猛訓練と大枚をはたいたイギリス製の最新鋭の巨艦群、夜間戦と奇襲戦、時間当たりの発射回数と火薬の性能、ピンポイントの正確さで稼ぐといった、半分の艦船と砲門で二倍する敵艦を打ち破る海賊の戦術、知られている限りの勝利を得るためのすべてを組み合わせる、七段にも構えられた撃破の秘策、そして最期は運頼りで敵大艦隊と差し違える覚悟であったろう、恐ろしい悲しい話である。ひとつ運悪ければどうなったのだろうか。敵にもっと運のいい将がいるかもわからない、勝ち負けは時の運である。
上の写真は現在の鎮守府跡地、正面奥の白い建物あたりに鎮守府があり、右手の木立の中に長官邸がある。ちょうど100年前にはここらあたりを東郷が歩いていた。地球を半周して来るバルチック艦隊、その撃破の秘策を練る彼がそこらでうめいていそうな気がしたので、この長官邸へ立ち寄ってみたが管理者めは入れてはくれなかった。



少しタイムをさかのぼってみようか。ちょうど100年前の(1905)5月27日が日本海海戦の日であった。
どの海路をウラジオへ入ると読むかがまず大きな掛けであった。この日の未明、あちこちの海域に貼り付けた索敵哨戒船の一隻(信濃丸)が対馬沖で立ち登る煙影を発見した。はるばると日本へ向かうバルチック艦隊
水平線に煙のように何かわずかに見える、何だろう、あそこに一本、また一本、また一本、何本も何本もある。
うわぁぁ、来た、来やがった
、敵の大艦隊が来た。

タタタタ モ456 YRセ」。

456海域ニ我敵艦見ユであろうか。そんな電報が三笠にすぐ発せられた。
ロシアバルチック艦隊は当時世界最強最大を謳われていた。我が連合艦隊に倍する艦船と砲門を備えていた。ぐるっと地球を半周していよいよ対馬沖に、堂々たる姿をみせた。
しかし実は彼らは味方の国が少ないために寄港できる港が少なかった。水や食糧の補給もままならぬ長い航海を経てヘトヘトに疲れながらここまでやってきたのだ。

敵艦見ユトノ諜報ニ接シ、連合艦隊ハタダチニ出撃、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレド波高シ。三笠艦上で指揮を執る東郷

極度に緊張高まる中に、こうしたなかなかに美文調の電文である。ここに来るに決まっとると、すでに対馬沖に手ぐすね引いて待ちかまえた連合艦隊旗艦・三笠から、次々に東京大本営に飛び込みはじめた。

この電文の次によく描かれるのはたいてい旗艦マストに翩翻と翻ったZ旗である(左の絵でも左上に見える、マストのもっと高い場所に掲げるものと思うのだが、絵だから仕方ないのか…)。

皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、全員一層奮励努力セヨ

の意味を持つ。簡単にいえば戦闘開始である。

 カッコいいな。カッコよすぎるな。私とてエエ年コイテも、パソコンの前で血が騒ぎ肉が踊る。男と生まれたからにはオレも戦いたい。
敵前大回頭、トーゴーターン、ヤレー、イケー、ウテー、別に私はロシア人が嫌いとか言うのでは決してないが、男の子なら仕方ないのか、それとも単にアホなのか、前頭葉の活動が停止して知能としては水準の低い動物脳・爬虫類脳味噌モードに切り替えられてくる。アドレナリンが放出され、人は人でなくなり興奮した気違い状態になってくる。戦争を美化する者が後をたたなくなると困るのでここらでやめておこう。興味のある方は司馬遼太郎でも読まれよ。坂の上に雲が光り、日本海軍が本当にカッコよかったし、幸せであったのはこのあたりまでであろうか。あとはどんどんどんと駄目になる。今ではアメリカ海軍も然り。世界史上最悪の艦隊であろう。
戦艦三笠(『舞鶴市史』より)
 別に強い事が悪いわけではない。それだけでは立派なことである。密かに誇るのはいいであろう。東郷は淡々としていて誇るようなこともなかったそうである。人殺しのうまさを誇っても仕方のないことである。
武力を奢る、さらには弱い国をバカにしてその強い武力で侵略する、こういう国がどこかにあるようであるが、こうなると何の値うちも失う。

 命運尽きようとしていた古いロシア帝国と新進気鋭の日本帝国のいずれ劣らぬ帝国主義同士の東北アジア植民地の分捕りあいの己が帝国の命運を賭けた戦いであった。神はどちらの味方であったろうか。どちらの味方も嫌であったであろうが、ここはとりあえずは東郷の味方をしてくれた。

三笠(このあたりの写真などは出所がわからなくなりました)
左は一等戦艦三笠、15000トン・15000馬力・18ノット・12インチ砲を4門持っている。ド級戦艦の直前型とでも呼ぶのか、まだ主砲は少なく、中心線上にはない、だから片舷方向にしか撃てない、構造上能率の悪い中口径砲(6や3インチ砲が合計34門)がひしめいている。
当時世界の最新鋭艦。舞鶴鎮守府所属艦であった。後の日本の軍艦の高い強そうな艦橋を見慣れた者にはあれがないと何となく頼りなく思えるが、こうした艦船が舞鶴湾のこの辺りに浮かんでいた日もあったのである。


東舞鶴市街地の三笠通(舞鶴市浜)
なおこれら当時の連合艦隊の艦船名が東舞鶴の町の通りの名前に使われている。三笠などの当時の一等戦艦の名も使われている。戦艦六重巡六の六六艦隊の軍艦名である。右は三笠通りの名を記した案内板。駅を降りて北側の最初の東西の大通りが「三笠」通りである。以後は順に「初瀬」、「朝日」、「敷島」、「八島」、大門、「富士」と続く。
「…連合艦隊主力」


右のド派手な旗が「Z旗」である。
 今も使っているのか知らないが、総監部で貰ってきたなどといって市内の経営上の危機に瀕した中小零細企業がこの旗を掲げているのを私は何社か見たことがある。この旗があれば勝てると考え違いをしているように思われる。大変な努力と運もついて何とか勝てたか、というものであって、旗があれば勝というものではない。壁に描かれたZ旗(舞鶴市北吸)そんな物神崇拝が本当にある。倒産は避けられまい。
今の海自の使っている倉庫群のコンクリート壁にもこのZ旗が書かれている(写真)。

神は東郷というよりは本当はレーニンとヴォルシェビィキの味方であったのかも知れない。現代史が動き始める巨大な予兆に充ちていた。この地にたてばロシア革命史もやらなければならなくなってきそうである。ロシアからアジアの現代革命史を学ぶ必要が当然にでてくるし、こうして初めて文部省や市教委あたりの腐って死んだ史観を真に克服でき、市民のというか労働者のというか、働き汗する民衆の歴史が展望できるのではあるが、当HPとしては、偉そうには書くけれども、とてもそこまでは手が伸びない。どなたかやって下さい、お願いいたします。また東郷のちょうど100年前はネルソンのトラファルガー沖の海戦があった。ナポレオンは海を渡れない。これも何か面白い歴史だが、触れることもできない。

これは日清戦争の遺物である。




舞鶴鎮守府にも危機がやってきた。こんな空から丸見えの所はヤバすぎる、地下へ引っ越す準備を始めたと思われる遺跡がある。東山(掃海艇の裏)
ここから見て東なのでそう呼ぶのでないかと思われるが東山大防空壕がある。「防空壕」とみんなが呼んでいたから防空壕と書くが、これは防空壕などといったものではないと思われる。地下要塞化しようとした舞鶴鎮守府であろう。この遺跡は週刊誌なども何度か取り上げていたことがある、案外に全国的に有名な防空壕であり、戦争遺跡活用の全国研究会などにもよく報告される。舞鶴東山地下壕とか呼ばれているようである。ここは東山とか前島とか呼ばれるが、本来は名の通りに島であった。いつの時代にかつながりしっかりと海軍が全体を基地とした。写真でいえば、一番右手の方に海軍橋が架かっていた(現在はふさわしくないと考えたのか夕潮橋と名を変えている)。


 子供の頃の私たちも入ったことがある。このあたりの子供ならみな入ったことがあるだろう。どこから入ったらどこへ出るといったことは皆知っていた。どこか爆破されていて、狭くなっているか、どこに人骨に似た枯れ木が落ちているか、みな知っていた。東山防空壕入口
 上の写真の中央の小さな山が東山と呼ばれる。市役所のすぐ北側である。本当はもっと高くて頂上に放送局があった。この山の中には巨大な地下壕が掘られている。中央に掃海艇がいる。その向かって右手、少し高い所に白い公務員住宅が見える(実際は三棟ある)。その裏に入り口が三つあった。この山の裏(北側)にも入り口があるが、国有地につき立入禁止の看板が出ている。


『舞鶴の近代化遺産』はもちろん触れないし、下に記した岩波さんも落としているが、落としてはならない戦争遺跡である。一部爆破されているが、ほとんどそのままに残っていると思われる。子供時代以来の何十年ぶりかで行ってみたのが上の写真。ブロックを積んで完全に塞がれていた。ここには何もなかったのである。一部畑のように利用されていた。もっと広いところだったように記憶にはある。それに地下壕入口、こんなに小さかっただろうか。この入口は西側の端っこにあった小さい方の入口ではなかろうか。中央にこれよりもっともっと大きな入口があったが、小さい頃だから何でも大きく見えたから、もっと大きかったと記憶しているだけだろうか。もっと大きかったと記憶にあるが、ここから中へ入れた。入るとすぐに突き当たる、左に曲がると屋根も壁も毀されている、寝そべってカビのにおいのする土の山を越えてゆく…。今でもだいたい思い出せそうである。東山防空指揮所

『舞鶴市史』(写真も)は、

 〈 東山防空指揮所を爆破
 舞鶴海軍が本土決戦に備へて築造した東山防空指揮所は一山くり抜いてコンクリートで固め中央の一番奥には優に畳古畳敷ける大会議室も作られ完全な地下要塞をなしてゐたが進駐軍の手でこのほどから爆破作業に着手地軸をゆるがすやうな大爆音は帝国海軍の覆滅と平和の招来を告げる梵鐘のやうに全市に轟き渡つてゐる(略)(昭和二一・一・四朝日新聞)  〉 

 低国軍の残した戦争遺産の破壊音は平和の梵鐘のように全市に轟いた、とある。当時の世界精神のスポークスマンの書いたような記事である。
一般市民にとっては、アジア人にとっては、全世界の人々にとってもなつかしい誇りの持てる郷土の文化財なんかではぜんぜんない。それを破壊する爆破音こそが、喜ばしいおとずれをつげた音であった。
 赤レンガ倉庫もまた同じなのである。その破壊の音のみが舞鶴市民にも全世界の人々にも喜ばれるであろうものなのである。「なつかしい赤レンガのまち」などとは大ウソである。馬鹿げた無責任な観光用キャチコピーをつくってはならないと思う。市がつくったものだから本気に信じて観光に来る人もある。本気で怒って帰る。中国や韓国が怒るのは当然として、頼みの綱のアメリカだって怒ることであろう。何のためにアメリカ兵士は犠牲になったのか、憎むべき日本軍国主義から世界を解放するためにこそ彼らは命を捧げたのである。日本の軍国主義を賛美するようなことは書いてはなるまい。
本当は市史の引用するそうした歴史的建造物なのであり、こうした物を活かして町作りなどはできるはずもない。そうとうなペテン師でも無理であろう。ただひとつの活かせる方法はこれらを二度と繰り返さないという全市民の決意をこめた記念として後世に引き継ぐことだけである。
観光とは字の如くに「光をる」ことである。「他国の文化を視察する」と辞書にあるが、他国の光を、他国の人の光を観ることであって、低国軍の軍事施設が光であろうか。いくらどう見てもこれからは闇、無明の闇、底のない闇しか私には見えない。光などはハナクソほどもない。ここには人間の悟ることのない、無知迷妄の心しかない。はじめから観光化などはできない思案なのである。
観光といえば一昔前は温泉と女であったという。温泉もなく女もいないといった所は誰も相手にしなかったのである。だから各地の小観光地は観光客を集めるのに大変に苦労をしたそうである。傍目には楽そうに見えるかも知れないが、現在だって観光で喰っていくというのは大変な苦労の連続なのである。そんな事をこんな田舎で言うたかてどないにもなりませんで。ということであるが、そう言ったらもう観光客はなかった。近頃は観光客の資質も高くなり、温泉と酒と女よりはよほどにレベルが高くなったのであるが、さて、では何を求めているのだろうか。何に癒しを見つけるのであろうか。どんな光を求めているのだろうか。
「小さい子供を安心して遊ばせることのできる楽しい安全な施設がないので造ってくれませんか」と私は知り合いの市職員や市議などに話してみたが、誰一人としてまともに相手にはしてくれなかった。へへへくらいである。「あちこちに似たような施設があるでしょう、少子化のなかですでに採算割れになってます。もし新たに舞鶴に造っても採算はとれないでしょう。造ることは難しいです」。これが一番まともに答えてくれたものであった。彼は元青年団員であった。その通りなのである、そんな事くらいは私だって心得てはいるが、馬鹿げたものに莫大な税金を投入するくらいなら子供に投資してはいかがかと問うたつもりなのである。少ない観光客を取り合いしてみても仕方のないこと。まともな神経ならば採算割れは誰にでも予想がつくのである。一般市民が言えばすぐにその当然の良識が働く頭脳はあるのだが、上の方や大勢が言えば働かないのか。市職員も市議も己が頭脳を確かかと疑うべきだろう。舞鶴市の人口はここ減り続けて、私が子供だった時代から大江町一町まるなる一つ分が消えた。そこに住んでいる住民にとってすら、去っていかねばならないような住めない、魅力のない地には誰も来ないしカネも来ない、のではなかろうか。

 さて幾つか写真を見て頂きたい。

地下壕を調べる(岩波本より)

これらは私たちの時代よりずっと下った頃になるが、中学生たちになるが、そうした戦争地下壕の調査をしている。こんな怖い場所すら調査に入っている。残念ながら舞鶴のことではない。これらを保存して平和学習の場にしようとしているのだそうである。『戦争遺跡から学ぶ』(岩波ジュニア新書)、最近本屋へ行ったら並べてあったのでびっくりして買って帰ったものである。
これが戦争遺跡の正しい本当の使い方である。戦争体験のない者はこのようにして何とか残された遺物から戦争を体験し、そこから文字では言い表せない貴重な何かを得ようと努力し世界の平和構築に貢献できる人間に成長して行こうと努力するのである。
地下壕と中学生(岩波本より)
 下の写真はどこだろうか。誠にそれに引き替えても恥ずかしい。どこの旧日本軍の残した史蹟・赤レンガ倉庫群であろうか。一人前の大人が一体何をしているのだろう(『舞鶴の近代化遺産』の写真)。まずこれらが戦争遺跡であるという当然の認識がまったくないのではなかろうか。これらの戦争遺跡は何も舞鶴人だけのものではない。これらをどう社会に役立てるべき責任が舞鶴人には課せられているものなのか、などといった当然の問いもない。従ってここには平和もない。戦争のセもない。学習のガもない。何もないのであろう。何もわかっていないのであろう。能天気「舞鶴人」の笑うべき悲しき空しき姿の好見本であろう。
 賢い中学生たちと比較されよ。誠に恥ずかしい、私にも愛郷心があるのでさすがにこのHPに取り上げるのもためらわれた。戦争体験が風化する上にすぐ近くに係留された自衛艦はイラクへもう何度も出撃している。何度出撃したか私も忘れてしまったほどに頻繁である。戦争の足音が迫ってくる、そんな地にあって、何の危機感もない、あきれた呑気さである。ジャズはよく原爆忌と日程が重なっているように思われた、こんな日と重ねたりしたら先輩たちの大叱りにあったものだが、彼らには先輩もいないのであろう。何も教育されてこなかったのであろうか。
 この歴然とした大きな大きな落差は一体何なのだろう。人間としての魂のデキの差、人間の倫理観の差がこうあらわれるのか、匹夫と神様の差のように見える。この傾向は右も左もだいたいは同じようなことである、保守も革新もない、だいたいが皆そうなのである。全員がとはいわないが、ほぼすべての舞鶴人はこうした問題に大変に鈍感な所をもつのである。いえば渋々口先だけは反省してみせたりもするが、根本ができない、これはどうとも致し方がない。
 おそらく注意した人はあったであろう、そうした人の意見に耳も貸さず、私は正しいのだと愚かにも確信した舞鶴行政あげての迷走・暴走特急電車、はてさてどこへ行くのだろう。
このままでは中学生たちにますます笑われるだけであろう。まともな町作りなどはできるわけもないといえよう。これら赤レンガ倉庫群を舞鶴の子らの平和学習の場にしてやろう、などと考える者は今も舞鶴にはいないのであろう。戦争を知らない××市教育委員会さんよ、これ以上に全世界の中学生から笑われたくなければ、一つまともにこんな中学生対象の学習会を開いてみてはいかがか。
何かできかけるのであるが、このようにおかしな物へ行ってしまう。悲しいのぅ。悲しすぎるのぅ。

赤レンガ戦争遺跡の使われ方


赤レンガ博物館に落ちぶれた戦争遺跡(アンネのバラである)

日本海に面して、これだけの戦争遺跡が集中する地はたぶんここ以外にはないであろう。使い方次第でここはアジア世界の平和の中心都市ともなれるだろう。舞鶴の中学生たちに期待をしよう。

 舞鶴だけではない、自治体の青年将校団による町破壊という事態があちこちで聞かれるようになっている。私もあちこちで何度も目にしてきた。ここ20年ばかりの傾向である。私たちの時代は自治体の職員になどには成りたいと考える若者はなかった。ところが今もそうなのであるが、一番いいあこがれの職となりつつさえあり、運良くなれたりすると本人達はもうエリートにでもなったつもりでいる。馬鹿げた話ではあるが、これらが町作りをしているつもりで実は町破壊をする。何が大学を出たくらいで町作りができるだろうか。笑える話である。何の基礎認識もなく、実際にはこんなにショモナイ万歳くらいのことしかできないのである。住民達のいうことは何も聞かず、勝手な実際に町作りの敵である。本当の町作りにはまずは官庁職員の、幹部職員の若い職員の再教育をしっかりやらせよう。徹底してやらせよう。特に戦争と平和の問題については徹底してやらせよう。それがないかぎりは町作りはありえない。
もっともそうしたメンバーが各自手弁当で、身銭を削って本当に世のため人のためを願い活動しているというなら、何もそうは事荒立てる気持ちは私にはない。ちょっと道を踏み違えていないかというくらいであろう。そして自然に間違いに気付かれよう。しかし実際はそうではないではないか。一体こんなことにいくらの税金を使っているのか。信じられないほどの大金である。普通一般の自治体の町作りとい予算にしては信じられないほどの大金がつぎ込まれてきた。何も絶対に必要なものではない、こんな物はなくとも誰一人舞鶴市民は困らない。無ければ市民が困るという物から金を使うべきであろう。こんな道楽仕事に税金を使うな。「舞鶴」なのだろうが、「鶴舞」というHPがあった。これは舞鶴の人ではなく、どこかの大学院生のようである、舞鶴へも来られて舞鶴市職員にインタビューされて、それを中心にレポートされたという内容のようである。この運動に最初から関わってきた市職員の告白のようである。次のようにある。正直で良心的である。私がそうではなかろうかと想定したような話である。語るに落ちるとはこのこと、彼の声を聞いてみよう。本当にそう考えるのならば返還されよ、せめて来年からは辞退されよ。舞鶴市民は誰もこんなに貰っていないのだから。
「ジャズ祭」には市役所から500万円の補助金が出ている。最初は300万円の補助金であった。これだけ市からお金をもらっていいのか、という気持がある。10年間役所から金をもらい続けているが、今後は自立的な活動をしていかなければならない、と思っている。
私も500万円だったか600万円だったかも貰っているというウワサを聞いたことがあったように記憶している。こんなに貰っていいわけがない。こんなに市から補助金がでるような組織(舞鶴市内のNPOとか文化団体)はほかにあるだろうか。もう1億円に近いほどの税金が湯水の如くに官製の団体につぎ込まれている。一般市民による一般市民のための一般市民の大抵の文化団体なら、これくらいの活動なら名義後援のみで金はゼロ、古い活動実績のある、多く貰っている団体でもこの100分の1であろう。いくらジャズ券を売っても500万円にはなるまい。半分以上が税金で賄われたということであり、建前上の主催者など関係なく、これなら実質は市の事業であり、ふるまいであろう。誰の目にも超不公平な公金乱用、行政の私物化ではなかろうか。これだけではないのではなかろうかという疑いが涌いてくる。隣の綾部市には市民による「団体補助金見直し委員会」だったかあるそうであるが、舞鶴も即やるべきだ。一般市民による市政の監視指導機関を立ち上げるべきときのようである。ある程度の公平さと平等がないと誰もまじめに町のためには働いてはくれなくなる。世のため人のために何ぼきばってもこんなものの百分の一しかくれないとなれば誰が努力するだろう。
旧日本軍の軍用倉庫(舞鶴市北吸)
莫大な税金を投入し、自画自賛し、歴史を誤魔化し、提燈持ちの学者先生からヨイショしてもらっているのではあるが、詰まる所はデキソコナイの作ったものであるので、赤レンガ博物館はその内容もデキソコナイである。一体何を展示して何を訴えようとしているのであろうか。そもそも何ぞ世界へ向けて訴えるような精神があるのであろうか。戦争を切り離せないという気持ちをもつまともなメンバーが一方ではいるように感じられるが、それが徹底できない。半端でデキソコナイ博物館そのものである。こんなトコはもう二度と来ン、そういって立ち去るよその町からの観光客ばかりを目にするのは、たぶん私だけなのであろう。赤レンガ博物館に咲いているのは「アンネのバラ」である。この日は一輪だけが咲いていた。アンネが生きていてこの博物館を見たら日記に何と書くかと問うかの如くに。


上は魚雷倉庫改造の「赤れんが博物館」である。こんな鉄製塀やガス灯などはもちろんなかったものである。たぶん朽ちた高い板塀であったと記憶しているが、砂利道の西側に三棟のれんが建物が並んでいた。このあたりは「市役所裏」と呼ばれたワル餓鬼どもの秘密の海水浴場であった。生活排水が流れ込まないためか、ここの海は綺麗で自然の色をした畏敬の海で、ここで禁を破って泳ぐと野生に返ったような気持ちがしたものであった。
 「換骨奪胎」とよぶのであろうか。何でもありのなりふりかまわぬリサイクルとよぶのであろうか。歴史的建造物のこんな無歴史哲学風な無内省の焼き直しを目の当たりにすると、あきれて言葉も出にくい。昔を知る人には情けなくて泣く人があるのでないかと思う。ここに残されている100年前の旧日本軍の建物群がネガティブなものであり、これらの否定の上に現在の戦後と呼ばれる社会が成り立っているのだといった基本的な歴史認識すら怪しいように私には思える。
先の岩波の新書は次のヴァイツゼッカー大統領の言葉で締めている、私もそれを引かせてもらう。この言葉を煉瓦に焼いてこの建物の入口にデンと掲げておかれればと思う。

過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者はそうした危険に陥りやすい。

日本の左右の政治屋どもと較べると、この倫理観はほとんど神様レベルに感じられる。現在ではそうなのだが、何時の日にか日本でもこの水準の倫理観の政治家が当然となる日が必ず来る。
過去を忘れる者は、未来も忘れるものです、と彼は言っている。まことにその通りで恐れ入る。旧日本軍の建造物である過去を忘れた者、その彼らには当然にも舞鶴の未来像が描けない、未来に対するカオス、混沌状況、その見本のようなものが赤レンガ建造物をめぐって見られる。こんなあほくさい低レベルなものは舞鶴市民は求めてはいない。こんな風なことならびた一文も税金を使ってくれるな。すべて民営化して勝手にやってくれ。
市政記念館の窓もう一つは批判がないという大問題であろう。これは巨大組織にもやはり致命的である。じわりじわりとボデーブローのように効いて、死に至る。批判を恐れ封じた低国やその大日本軍がいかに低水準な組織であり、弱いものであったかということを思い起こせば足りる。内部批判を封じた私企業がどんなものであるか。ドロでできた足の巨大人形。曲がりなりにでも批判の自由をもった者が実は強く生き残れる。頼りなげではあるがそれが強い。戦後のある時期にスーパーマン型から何型と呼ぶのか、ノビタ型とでも呼ぶのか、マンガのヒーロー像も代わった。頼りなげな主人公である。批判を恐れては破滅だけである。かっこいいヒーローの時代ではない。税金で作られるような発刊物ハンプの類は当然にも市の政策に反対の意見なども公平に無視せずに取り上げなければなるまい。そうしなければ、ごまかしの、まやかしの、ねじまげの、世論あやつりのパンフになってしまう危険性は高まる。
先だって赤レンガの市政記念館中にはいる機会があった。土の中にいるのは何か精神的に落ち着くようだ。遠い先祖は土の洞穴に生活していたからかも知れない。それとも何か有害に宇宙線が遮断されるのかも知れない。
 しかしこの俗悪な改造にはいつ見てもあきれさせられる。侵略戦争の遺跡をこのように使った町は地球上にここだけであろう。この大事な時に方向性を見失った哀れな現代舞鶴人の魂の咆哮の低俗な記念碑としては訪れてみる価値はあるかも知れない。こんなものを「いい」と感じてしまう感覚はやはり現代人の狂いと思う。
市政記念館の窓私は子供の頃からお前のすぐ近くで大きくなってきた。毎日お前を見てきた。そうしてもう何十年にもなる。しかしいまだにお前をどうしたらいいのか思案が着きかねている。お前自身はいったいどうしてくれと願っているのだろう。
彼は次のように語った。

私は役には立たないし、役立ってはならない宿命だ。
私を破壊してくれ。こなごなに爆破してくれ。死刑を執行してくれ。
私はそれをずっと待ち続けてきた。
そして私の粉々になった煉瓦のかけらを集めて、作ってくれないか。
アジア人の平和と友好ための大きな殿堂を。

市政記念館写真の窓の向こうに写っているのが、舞鶴倉庫社から市が寄贈を受けたという旧日本軍の赤レンガ倉庫である。この倉庫を5億円ばかりかけて「知恵藏」として整備活用するという。この写真をみれば××市や××市教委が旧日本軍の赤レンガ倉庫をどのように使いたいかの、その方向が窓に透けてみえそうである。見たくもないが、向こうが勝手にさらけ出してくれる。換骨奪胎して、侵略戦争の歴史を風化させて、かっこよく活用したいのであろうかも知れない。
 しかし赤レンガ倉庫ばかりに何をそれほどにこだわるのであろうか。これだけが戦争遺跡であろうか。私は舞鶴は「丹後の沖縄」「京都府の沖縄」と考えている。基地の中に舞鶴があった。現在も少し木立の中を覗けばそれらは転がっている。別にわざわざ薄暗い所を覗かなくともいい。私が今住んでいる所は海軍関係者の住宅であったという。市役所も府の出張所も、警察も検察庁も税務署も、病院も老人施設火葬場も、工場も倉庫も道路も橋も鉄道も町も、学校も図書館もグランドも公園も体育館も、興味のある人は調べてみらるといいが、これらも戦争遺跡の上にある。舞鶴人の足の下が戦争遺跡である。戦争遺跡はずれては現在の舞鶴人の生活は一日とて成り立たぬことだろう。
先だっても市内に残された防空壕の調査が行われたそうだが、その数は153箇所。次が、宮津市の15箇所だそうだから、府内では舞鶴というところは突出した数という。本当はもっとあろうが、この日までには少なくとも確実にそうだけはあるという。「丹後の伝説3」

 何も赤レンガ倉庫群だけが「貴重な郷土の文化財」や「近代化遺産」なのではない。第三火薬廠の記録人々の記憶や遺跡が永遠に失われてしなわないうちに、今緊急の調査整備活用をまつ「貴重な郷土の文化財」や「近代化遺産」が、舞鶴にはごまんと残されている。
 左は今年発刊されて話題になった朝来谷の第三火薬廠の記録である。これは決して××市や××市教委が作ったものではない。民間の人々がその歴史を掘り起こし明らかにしたものである。村の半分を軍に強制的に奪われてしまった、こころならずも火薬工場へ動員された地域の人々の60年ぶりの記録である。まことにすばらしい。歴史というものはこのように活かすものなのであろう。××市や××市教委はジャズ祭の100分の1くらいの補助でも出したのだろうか。調査したのだろうか。市と市教委が発行した『舞鶴の近代化遺産』は、表紙絵にあるような朝来谷に数多く残された「近代化遺産」については何も触れない。朝来谷についてはいっさいふれていない。超大規模な土地強制取り上げと火薬廠の建設稼働によってともっとも変貌のはげしかったと言われるこの谷に触れずしてどこに触れるのだろう。何かあれば大浦半島全体が吹き飛ぶとうわさされた、これがその実体である。市と市教委にとって都合のいいところだけに触れたのだろうか。どうせ自分の都合の悪いところには触れない官僚のお役所仕事だといっても税金を使ってやっているのだから、もうちいと公平なしっかりした仕事をしてもらいたい。
 まことに幸いにもここの記録は何とか残る。しかしこうしたことは例外中の例外である。そのほかの地は現在のままでは残りそうにもない。私の住んでいる住宅地のかつての農地の強制取り上げなども何も記録がないようだ。市民の中でもそんな歴史を知らない者ばかりである。ますます過去の記憶は失われる。市史の中に悲劇のかけらのかけらがわずかに残されるだけであろう。平和のタネ、本当の意味の「貴重な郷土の文化財」や「近代化遺産」が永遠に消えてしまう。
今求められるものは5億円もかけてさほどの必要もない「知恵藏」などに集中することであろうか。それともこうした舞鶴各地の戦争の記録をつくり後世に伝えることなのであろうか。行政ならびに市民たちの姿勢が問われている。
『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』が正式な署名。2005.8.1発行。A4版223頁。付図も付けられいている。1200円。欲しい方は関本長三郎氏まで。大波上348。TEL・FAX 0773-62-5736とあります。氏は私の古い知り合いなので勝手に宣伝させてもらいますが、できすぎといいたいほどによく出来ています、ぜひお買い求め下さい。この書で終わりではなく、この書からスタートしようではないか。この書の概説で戸祭武氏が書かれているのを引かせていただこう。第三火薬廠を赤レンガ倉庫群と読み替えて読まれるといいであろう。
 〈 第三火薬廠の歴史は、数千の涙と慟哭によって書きつづけられなければなるまい。そして、大方の見方をまとめるならば、過酷な犠牲の多くはまさに無益な「戦争」に、何ら報われることのない代償をはらわされたにすぎなかったと結論づけられよう。何のために土地をとられ、生業を失い、死を寸前にした過酷な労働と圧制であったか、何の意義あって家郷をはなれ、異郷に骨をうずめた朝鮮人の労働であったか。
 「つわものどもの夢のあと」と感傷で片づけるのはたやすい。しかし、果てしない国帑の投入と人間の前途と希望をふみにじった戦時動員が、まったく空しい、何の成果も残さない、大いなる無駄と浪費であったことは、どれだけ強調しても過ぎることはない。
 第三火薬廠を語ることは、単なる感傷と懐旧に終わってはなるまい。まさに人間に無限の犠牲をしいる軍国主義の悪夢として、その悪業を永久に語り継がねばならないのである。
 第三火薬廠の記録を集めること、更には学術的な分析、調査の続行は、この視点をはなれては何の意味もないであろう。  〉 
二尾と大丹生と浦入:水銀地名


北吸(舞鶴市)



三宅神社(舞鶴市北吸)






海上自衛隊舞鶴総監部と自衛艦係留岩壁



海軍工廠と5トン爆弾
このあたりを書くのは何とも気が重い、重すぎる。戦争で多くの人が死んだ。殺しもしたが殺されもした。わずか60年ほどの昔のことである。こんな歴史は二度と繰り返してはならぬ。そんな思いをもって気の重い歴史を書いてゆこう。もしかすると過去のできごとではなく、明日のできごとになるかも知れない、そんな危険をかいま見せてくれそうな最近の動向である。
旧海軍舞鶴工廠








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二尾と大丹生と浦入:水銀地名





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