丹後の地名

森(もり)
舞鶴市森


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京都府舞鶴市森

京都府加佐郡倉梯村森

森の地誌




《森は概要》

森は舞鶴市南東部。東舞鶴市街地南部の平坦地で急速に人口がふえた。現在の森・森町・森本町・丸山町・丸山口町・丸山中町・丸山西町などになる。

《人口》14852《世帯数》6180(これは行永と合わせた数字)


《主な社寺など》
式内社・弥加宜神社(通称:大森神社)。
境内に鹿島神社・八代神社。
南に毘沙門堂があり、貞観仏とみられる一木造の毘沙門天像(像高九五センチ)は、平安初期の作とされ、丹後地方の仏像の上限を示すものと注目されている。
臨済宗東福寺派舟越山長雲寺
『倉梯村史』
 〈 長雲寺   臨済宗
 元、森の西南船越にあり。元正の御字…一二○○年前…の草創にして宝永三年…二二八年前…南堂和尚現地に移転再興せりと言ふ。傳へて曰く、當初は船越山浄溜離寺と称し、遠く天平七年…一二○○年前…(又曰く神護景雲元年…一一六七年前…)越智泰澄大師北国渡船の途次霊感によりて草創せりと。本尊薬師如来は泰澄大師が附近の山林より霊木を選び、三拝一列彫刻せしものと傳へ今尚拝木の地名を残せり。境内堂宇庚申堂は天明四年…一五○年前…再建の棟札あり、按ずるに宝永年間…凡二二八年前…長雲寺再建の砌り根立せしものか。現在の厨子は安政七年のもの…七四年前…  〉 

『舞I市民新聞』(89.3.7〜)
 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈95〉*森・長雲寺「森の寺」*奈良時代に発する古い縁起*森村とともに長い歴史歩む*
 東舞鶴公園への大通りから東へ、家なみの間の細い道をたどると、「ひばり幼稚園」の看板が目にはいります。
 蕗のトウが、例年にない暖かさにすっかり伸びきって、しょざいなげに春 の陽をあびている愛宕山ろく。その北側に「森の寺、長雲寺」があります。
 長要寺は、村の禅宗寺院らしく簡素なたたずまいで、東地域では、長雲寺の寺名よりも「ひばり幼稚園」の名で知られています。
 南舞鶴を行永と二分するのが森地域です。藩政時代に、森村といわれたこの地域に、唯一の寺として、「森」の歴史とともにあゆんできた寺が、舟越山長雲寺です。
 長雲寺は、現在、臨済宗東福寺沢に属する禅宗寺院ですが、天平七年(七三五)開基という禅宗以前の古い縁起をもち、奈良時代にさかのぽる歴史を示す寺として、京都府北郡では、数少ない寺院のひとつです。
 森地域は、かつて、倉梯郷(くらはしごう)の中心的位置にあったとみられます。長雲寺をかこむ丘陵南側の愛宕山古墳群、それにつづく妙見山古墳群、また、西方の森白鳥古墳群と、寺周辺は、市内有数の古墳地帯であり、寺の東方は、古代遺物の散布地域であることが、最近行われた舞鶴市教育委員会の、遺跡分布調査によってあきらかにされました。
 森地域のそこここにみられる多様な『お堂』も、その祭祀は、森地域唯一の寺である長雲寺の構えとなっています。
 それらのお堂のなかには、京都府北部最古の仏像といわれる「森の毘沙門天」や、細川幽斎ゆかりの「茶堂観音」などもふくまれています。
 これらのことは、森地域が、倉梯郷の古代からの歴史を深くきざみこみ、今に生きる、今にいきつづけていることを物語っています。
 昭和八年、倉梯村役場竣工を記念して編さんされた倉梯村史に、「倉梯郷森は字船越(ふなこし)を発祥の地とす、元戸数も僅少なりしが元亀天正の頃より漸次現在の森地域を開きて移動したるが如し−略−」と記しています。
 長雲寺も、山号に舟越の名をかかげ、縁起に、昔、寺が舟越の地にあったことを記していて、長雲寺の歴史と森地域の歴史が一体のものである、と信じられてきた様子がわかります。
 私は、昭和三十九年に、中舞鶴つつじヶ丘から森三安通りに居を移し、今も森地域の住民の一人です。この私のような転入者によって、森地域は近年急激にふくれあがり、住宅地が、その主要部を占めるようになりました。こうして、森は都市周辺化し、「ふるさと森」の意識は年とともにうすれ、その歴史も、開発のコンクリートの下に埋めつくされようとしています。
 私は、この長雲寺の「文化財めぐり」のなかで、「ふるさと森」の語りかける声に、耳をかたむけてみたいと思います。  〉 


 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈96〉*長雲寺「寺縁起」その1船越のゆかり*縁起の主役は泰澄大師と法道仙人*仙術で飛行し降りたのが船越の地*
 長雲寺に残る文化財の中で、歴史資料としてもっとも貴重なものは、この寺の起源を語る寺縁起(てらえんぎ)です。
 長雲寺本堂、脇の間の欄間(らんま)に、額装された古文書がかかげられています。
 『丹後国伽佐郡田邊倉梯郷森村舟越山長雲禅寺古道場の記』と鹿し、文末に、「宝永三丙成年(一七〇六)真下政平藤原弘賢」と、花押(かおう)をそえて書かれています。
 これは、江戸時代中期、華やかな元禄文化が、この地方にも影響しはじめたころ、藤原弘賢の雅号をもつ真下政平という人物が、この寺に関する当時の言い伝えを文章化したものであることを伝えています。
 舞鶴市内に現存する寺縁起は、このころに書かれたものが多く、金剛院縁起(元禄十一年・一六九八)はその代表的なものです。また、現存する本尊仏で、このころに祀られたとされる寺院も多く、江戸中期は、田辺藩政が形を整え、民衆のくらしが、幕藩体制の中で、ひとときの安定をむかえた時期であった、と思われます。
 このころの寺縁起は、言い伝えをそのまま文語体で書き記したもののようで、伝説的な内容がそのまま、おおらかに表現されています。が、その中にあらわれる人名や、年代、ことがら、その伝説のかたちなどが、中世や時には、遠く古代の文化交流のようすを具体的に示すことがあり、思わぬ歴史事実を秘めていて、おどろかされることがあります。この長雲寺縁起も、古代につながるいくつかの歴史事実を暗示しています。
 順を追って、その中味をさぐりましょう。
 ″抑(そもそも)当山の濫觴(らんしょう・起こり)を尋ぬるに王統四十五代聖主聖聖武皇帝天平七年のころなり 沙門泰澄(たいちょう)大師と法道(ほうどう)仙人と北海に渡船し給ふ 其時に西南より異香芬々(ふんぷん)として船中に薫り来る故に両人莞示(かんじ・にっこり)として述給ふ 是何の瑞相(ずいそう・めでたいきざし)なるかな 其源にいたり真偽を糺(ただ)し見んと則(すなわち)法道仙術を以て空中に船をはせて終(つい)に此地に来り給ふ 仍而(よって)船越という
 この天平七年(七三五)は、遺唐使の吉備真備(きびのまきび)が帰朝し、興福寺が新装なった堂塔をつらね、奈良の都に盛唐の文化が花を咲かせはじめた年です。が、いっぽうでは、統一新羅(しらぎ)の勢いが都に伝えられ、渤海使(ぼっかいし)のうわさも高く、日本海に強い関心がむけられはじめたころです。
 越(こし)の国にその名も高い泰澄が、妖術をつかうインド僧の法道と、日本海を船で渡っていると、よい香りがただよってくるので、そのもとをたしかめようと、法道の仙術で空中に船をとばし、この地におりたった、そのために土地の名を「ふなこし」とつけた、と記しています。
 現在、船越の地は、舞鶴球場西南の谷をさかのぼり、山ひとつ越えたあたり一帯をさす地名になっています。
 船越の地名が先にあって生まれた伝説ともみられますが、宗教文化史の上で、ともに特殊な位置にある「泰澄」と「法道」の二人が、同時に登場することに、この縁起の特異性があり、謎が秘められています。  〉 


 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈97〉*長雲寺「寺縁起」その2泰澄大師と法道仙人*
 長雲寺縁起に登場する「秦澄大師」と「法道仙人」は、同じ時代を舞台にしていますが、泰澄は、歴史辞典に登場する実在した人物とされるのに反し、法道は、架空の人物とされています。
 法道仙人は、昔、播磨国法華山に住んでいたといわれる仙人で、天竺(てんじく・インド)の人。中国、朝鮮をへて日本に渡来したといわれます。空中に鉢をとばして供米(くまい)を乞い、ことわられると、鉢に従って俵(たわら)がとんだという言い伝えから、空鉢(からばち)仙人ともいわれました。山陽、畿内の寺には、この法道の空鉢の縁起話を伝える寺が散在し、さらに、江戸時代には、浮世草紙(うきよぞうし)や、雑俳(ざっぱい・遊戯的な俳譜文学の総称)に、しばしば登場して庶民によく知られていました。
 ″法道で 騒動 とんだ年貢米″
 『泰澄和尚伝』によれば、泰澄は、白鳳十一年(六八二)越前国麻生津(福井市)に生まれ、十四の年、近くの越知山に登り、十一面観音を念じ修行をつみます。養老元年(七一七)、三十六歳で加賀の白山(はくさん)に登り、妙理大菩薩を感得します。同六年には、元正天皇の病気平癒を祈り、神融禅師の号を賜っています。
 神亀二年(七二五)には、廻国中の行基菩薩と白山で会い、天平九年(七三七)には、大流行した庖瘡(ほうそう)を祈祷によって終息させた功で、朝廷から大和尚位を授けられました。神護景雲元年(七六七)には、称徳天皇の木塔百万基造立誓願に応じて、一万基を勧進献上したといわれ、同年三月十八日、八十六歳で入寂(にゅうじゃく・死亡)しました。のち、越の大徳といわれ、白山信仰の祖となり、多くの伝説を生みます。
 私は、郷土資料館特別展『村里の仏たち』の調査に関連して、白山信仰のメッカ、石川県白峯村の民俗資料館を訪ねたことがあります。
 ここでは、泰澄伝説は、白山を信仰道場とする修行者勢力のなかから生み出されたものとし、実在の泰澄ひとりのことではないようです。
 白山妙理第権現と称する十一面観音をいただき、海と水とにかかわる山岳信仰『白山』をめぐる宗教勢力が、人格的な代表者とし 泰澄の名で白山の伝説や霊験をひろげました。それが、鎌倉時代、虎関師錬の書いた仏教史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』三十巻の中に、泰澄の伝記として書かれたことから、ひろく知られるようになったと説明しています。
 古代日本の自然信仰が、仏教の伝来によって刺激され、神仏習合の形で、各地に山岳信仰の行者集団を生み出します。
 紀伊山地を中心とする『役小角(えんのおづぬ)』、中国山地の『法道仙人』、加賀白山の『泰澄法師』などは、奈良時代前期に活躍した行者で、呪術を用い山にこもることが共通しています。
 役小角(役の行者)が、中世、山伏の祖として、全国に広がったのに対し太市用と法道は、一定の地にその名をを残すことから、古代からの信仰文化の流れをさぐる手がかりとして注目されます。
北陸から近江・東北へひろがる白山(泰澄)信仰は、白山神社、十一面観音、また笠松山という山号などを伴っています。
 この地方では、宮津に笠松山と白山神社があり、舞鶴市内では、冠島と青葉山の十一面観音(白山妙理第権現)、泉源寺の笠松山智性院と白山神社、桂林寺境内の白山神社などがありますが、泰澄開基を縁起に明記する寺は、青葉山高浜側の名刹中山寺と、この長雲寺だけです。
 長雲寺縁起は、「森」の古代が、泰澄に代表される越(こし)の国、北からの文化や人の流れと、法道に代表される瀬戸内方面、南からの文化や人の流れが合わさって、形づくられたことを暗示しているようです。  〉 


 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈98〉*長雲寺「寺縁起」その3湯薬師伝説*船越の谷のおけがうろ*法道の杖でたちまち温泉に*泰澄は大木拝み本尊刻む*
 法道の仙術によって、空中に舟をはしらせ、よい香りを追って船越(ふなこし)の地についた泰澄と法道の二人。
いよいよ『長雲禅寺古道場の記』は、佳境に入ります。
 『爰(ここ)に於てつくづく四方を望みれば何国(いずく)ともなく空中より微妙(みみょう)の音声を発して告たまふ 此地に温泉涌出(ゆうしゅつ)するなり 汝等に守護させんが為なりとしめし給ふ 両人これをうけ給わり忽(たちまち)虚空を仰ぎ見るに瑠璃の光明かくやくたり 三拝合掌して言へらく 命に随(したが)い守護いたすへしと 領掌(りょうしょlつ・引き受けること)し其側(かたわら)の深林鶏函(しんりんけいかん・深い林と谷川)を見れハ・々(せんせん)として滝の落る声あり 法道直(ただち)に柱杖子(ちゅうじょうし・つえ)をもって滝壷を撹廻(かくかい)する事三五度忽温泉となる 尚又泰澄加持(かじ・まじない祈ること)して法道仙人に向て問(とう) 此温泉末世にいたり滅する事なしや 仙人曰(いわく)五百年以後にいたり人心清浄(しょうじょう)なる時は変せず不清浄なる時は必(かならず)冷泉に帰ると 嶋呼(ああ)悲かな今是冷泉に涌出するなり しかりといへど此地温気(おけ)がうろと言へり』
 泰澄と法道の二人は、天からの声によって温泉を守ることを命ぜられます。見ると、滝があります。その滝壷を法道が杖でかきまぜると温泉になります。この温泉は、五百年後になって人の心が悪くなれば、冷泉になってしまう、と法道はいいます。でも、今は冷泉になっている、ああ悲しいことに、人の心が汚れているんだなあ、だのに、名だけは温泉をさす「温気(おけ)がうろ」といわれています。

天からの声により山の木で薬師如来

 『亦(また)側(かたわら)の山を拝木(はぎ)と名づくゆえんは泰澄大師此峰の木不を望み拝して刻(きざみ)給ふ 是当山の本尊薬師如来并(ならびに)日月の三尊を一刀一拝(いっとういっぱい・ノミを入れるたびに拝んで作ること)の彫刻なり』
 「おけがうろ」の南がわの山を「はぎ」というのは、泰澄大師が、天からの声を、東方浄瑠璃世界の主である薬師如来の声と感じ、この山の木を拝んで作ったことからいう、「拝木(はぎ)」からきている、今の寺の本尊薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩がそれです。
 『此堂塔を創建し三尊彫刻の間両人食(じき)を求るに仙術を以て鉢に青布をかけて市中にやり、此鉢空中に飛行するを見るに青布変して青羽のごとし 故に青羽山青羽谷と云(いう)今略して青谷と言亦青葉と書も非なり 古人の詩歌にも羽峰とよめり 天台の山を仙境と言も此法道仙人より言事なり』
 本尊をつくり、寺を建てる聞、二人は、食糧を仙術によって手に入れました。鉢に青い布をかけて人里へとばし、食べ物を集めたのですが、この鉢が空中をとぶ時、さながら、青い鳥の羽がとんでいるように見えた、だから人びとは、この鉢がとんでくる方向の山をさして青羽(あおば)山とよび、青羽谷が青谷になった、いま、青葉と書くのはまちがいで、詩歌にも羽峰とよまれている、天台の山を仙境というのも、この法道仙人にちなんでいると説明しています。

田辺籠城戦で寺壊れ本尊風雨に

 『是当山を舟越となづけ堂を浄瑠璃殿と言(いい)寺を長雲寺となづく 昔往大坂兵乱の砌(みぎり)堂塔破壊して仏は風雨に損するといへとも村里の人家も大半滅亡に及ぶ頃なれば更に修覆の力なく爰(ここ)に放て中興南堂和尚ひとり其貴き事を深くなげき堂庵むすび彼(かの)尊像をうつし奉りて有力の檀信(だんしん)の人々を待而已(まつのみ) 記・(しるしおわんぬ)
 干時宝永三丙戌年
    真下政平藤原弘賢(花押)』
 こうして、山号を舟越とし、堂には浄瑠璃殿、寺に長雲寺と名をつけましたが、大坂の兵乱、慶長五年(一六〇〇)の田辺籠城戦のときに、包囲軍の小野木縫殿介の手勢が乱入し、寺もこわされ、本尊の薬師三尊は、風雨にさら荒てしまいました。
 森の村里も焼きはらわれて、人びとは難儀していたときなので、寺を修覆することもできません。それで、ときの南堂和尚は、由緒尊い本尊がいたむのを歎いて、なんとかしようと、草ぶきの庵をたてて祀りました。
 この縁起の書かれた宝永三年(一七〇六)にもまだ、村の疲幣(ひへい)はなおりきっていなかったために、いつの日か、力のある檀信徒があらわれて、この寺を復興するのを待つしかない、と記して、この縁起の一文を結んでいます。

古代からあったもう一つの青菜山

 現在の森地区の南西、東西舞鶴にまたがる山塊を、江戸の中期ごろは、青葉山とよんでいたことが、この縁起からわかります。
 「青葉」山は、古代語で精霊の鎮まる場所を意味するといわれる「アオ場」から発したと思われます。松尾寺のある若狭・丹後境の青葉山と同じく「アオ場」とよばれる山が、古代から舞鶴にはもう一つあったというのが事実のようです。
 西舞鶴側の山麓にある天台宗の古刹「天台寺」は、山号を今も青葉山としています。また、この長雲寺縁起に書かれる「青羽谷」略して「青谷」の地名は、この山塊を池内側にのびる山稜に「青谷山」の地名として現在ものこっています。
 この「青葉山」の東西の山麓一帯には、五世紀から七世紀にかけての古墳が多くのこっています。上殿(うえどの)古墳、切山(きりやま)古墳、福来丸山古墳、森古墳、愛石山古墳、妙見山古墳などの名が知られていて、古代人が精霊の鎮まる場として「アオ場」の名をのこしたのもうなずけます。

今も美しく水落とすおけがうろの滝

 早春の一日、船越の地を訪れました。舞鶴球場で車を降りて球場を西へまわり、山すその道をたどります。小さい峠を越すと、そこが船越の谷です。さらに、最近整備された新しい林道をたどって進むと、道ばたに「長雲寺発祥の地」の標杭が打たれているのが目に入ります。
 このあたりからは、「人里離れた」ということばがぴったりの、幽玄の気たちこめる別天地となります。
 新しい林道がおわり、不安定な丸木橋を渡ると、その奥が、法道の滝「おけがうろ」で、そのかたわらが、泰澄薬師如来彫刻の地「はぎのだん」です。
 このあたり一帯が、長雲寺縁起にかかわる「湯薬師」の聖地となっています。
 舞鶴にはこの他にも、久田美や青井などに、同様の湯薬師の伝説がのこっていますが、長雲寺縁起の特色は、湯薬師の伝説に、泰澄大師や法道仙人が登場する壮大なドラマ性にあり、″ふるさと″のぬくもりを感じさせます。
 
 青葉のみねから、簾(すだれ)なしておちる白糸。いつの頃からかこの秘境に、人知れず、せんせんと音をたてつづけてきた美しい滝。春浅い陽をあびて光る水玉。透明な水の流れに、私はこころ洗われる思いで立ちつくしていました。  〉 



愛宕神社。
日本山妙法寺。
白鳥古墳(円墳)。
藁谷に一色氏の部将高橋因幡守の居城森城跡。


《交通》
白鳥街道
当村より堂奥村・小倉村を経て松尾寺へ至る西国巡礼街道が通った。

《産業》



森の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 森村
長雲寺竜勝寺末。正一位大森大明神、森、行永、浜村の氏神。この明神之尊体を八百年以前越前之方格へ盗取り民家なげくといへとも行方更に不知ゆへ八幡の尊体を造り京都より下り給う、同日大森大明神帰らせ給ふ之依り二神勧請し奉る由申伝えるなり。鍵取神子同村にあり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 森村 高七百四拾壱石九斗五升
   内十六石壱斗六升三台二勺 万定引
   八十石御用捨高
 愛宕社
  正一位大森大明神 祭六月十四日より十五日
           鍵取 善太夫
           巫  善右衛門 女房
  森村 行永村 浜村 替々振物ヲ掛ル也
細川幽斎卿御時代社領百石有之由 神主モ出雲薩摩卜

テ有シ由右社人末流小左衛門伝記也 是出雲末流也
薩摩ハ絶無
 当社小野木兵乱ノ頃破却依之京吉田家江願勧請ナ
リ 兵乱ノ節巫神体ヲ負奉他所へ逃行ケルニ叩(崇カ)有故
立帰り古宮ニ来ル 其翌京都ヨリ八幡勧請御沙汰済
両社造営ス 正一位ノ末社二十一社ナレドモ跡斗
残造営後掃溜ノ内ヨリモ額ヲ掘出ス
 近衛殿御筆也則社内ニ納ム 今ノ額ハ中山素竹翁
筆之由
   長雲寺 竜勝寺末
   古城  高橋左京  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎森村(清道村より城取嶺を越して森村に至る、若狭街道)
【正一位大森大明神】
大森大明神は天正の頃迄社領百石あり、慶長五年の秋小野木縫殿介田辺を襲ふ時其社焚焼す、於是社司某神体を奉じて若狭に遁る、後に吉田家へ願を出して八幡宮を勧請す、其翌日社司某又神体を奉じて帰り来る、よって二社を合せ祀る。今若狭末野といふ處に泣蛭子といふ社あり、其祭の日に「泣ベスホイベス丹後の蛭子銭が一文タライデ泣モドッタ」といふ歌を児童に至る迄歌う、蓋大森の社司神体を奉じて遁る處なりといふ。
【船越山長雲寺】(臨済宗)
【橋本左京城墟】  〉 

《加佐郡誌》
 〈 森は弥加宜神社の森近くの村であるからこれを名としたのである。昔から変りがない。正親町天皇の天正の頃に一色氏の臣高橋左京(因幡守に作れるもある)が此処に住んでいたやうであるが城址の所在が詳かでない。  〉 

《倉梯村史》
 〈 倉梯郷森は字船越を発祥地とす、元戸数も僅少なりしが元亀天正…凡三六○年前…の頃より漸次現在の森地域を開きて移動したるが如し。鎌倉時代…凡六五○年前…の當地方交通系統を考證するに西池内谷より池の部を越え與保呂川の上流に逆り青路を堂奥に越え小倉に出づるを西国街道順禮路となしたりしを見れば蓋当平坦部一帯は千古の森林にして交通は海路の外にながりしは寺院の移動灌漑用水池の開鑿等によりても略推知するを得べし舊石高七百五十石。
行永は一時幸野村と称し現時の池の部及椿谷に聚落せしが大永年間…凡四百五十年前…古名行永に改め=地名行水は道主命の御母息永水依姫の御名息永より出づとの説あり=この頃より漸次移動を始め、荊棘を開き砂礫を除きて現時の安住地を創めしが如く今池の部に元屋敷と称する處を存じ小字名となれり。舊石高千百四十七石八斗餘 一説に曰く行永部落の池の部より移動したるにあらずして土豪池部重房=此の池部氏は後池田氏と改称せしが如し−一族を率ひて移住したるなりと、併し農耕を主として自給自足の生活を敢てせし往時の往民は交通の便よりも生活の資料を得んが爲めに重に山麓の水利を求めて住居せし傾向に徴しても余は前説を認めんとす。殊に前述の西国順禮道又は與保呂川氾濫のため行永平野は一般に荒蕪地なりきとの説と合せ考へて地名の打木、井関、橋垣、竹道等は往時の住民が或は開墾し或は水を防ぎし名残なりと思ふ時一層前説を首肯せしむるものあり。  〉 


森の小字


森 峠 勘尻 駒谷 ムシウ 三本木 古エ 桃迫 大田野 大橋 井尻 井根口 敷野 羽崎 クツリ 森尻 仁田 川東 川西 大西 池尻 池ノ上 舟越 駒ガヘ 北峠 南峠 大谷 原谷 北舟越 池ノ谷 白土 肥首 丸山 シガニ 奥舟越 南舟越 井祢西 駒 野白 フブロ フケ

関連項目

「鉄の弥加宜神社1」





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福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市





【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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