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枯木堂(弥加宜神社境外社) 倉橋池辺寺 才之道神社(舞鶴市行永才ノ堂) 白鳥山(舞鶴市) 堂田神社(舞鶴市八反田) 藤森神社(舞鶴市行永弥加宜) 北斗神社(舞鶴市行永和田垣) 毘沙門堂(舞鶴市森) 弥加宜神社(舞鶴市森)の簡単な概要 御上神社(野洲町三上) 三上山(野洲町) 八代神社(弥加宜神社境内社)
弥加宜神社 概要
弥加宜神社(通称:大森神社)。古代史の謎に充ち満ちた大変な大物神社の出番である。いよいよ取り組まねばならない、東舞鶴地はもとより丹後の古代史を語るには欠くことのできない神社であるし、さらに日本全国の古代史に深く関わる氏族の祭祀神社であり、私の微力くらいでは、この神社は説明をしかねるだろうと思われる。盲蛇に怖じずで行ってみるより手がない。
弥加宜神社を、ごくかいつまんで説明すれば、市の広報紙(H11.6)にあるが、
〈 *ふるさとの文化財と伝承
第26回 弥加宜神社*
*水をまつる社
金属加工の技術集団が開く*
森・行永地区の住宅地の中、豊かな森を持つ彌加宜神社は”大森さん”と呼ばれ、古くから地域の氏神として親しまれています。
また、水をまつる社とし、本殿は井戸の上に建ち、境内から杜清水と呼ばれる霊水が涌き出ることでも知られています。
《祭神の子孫が行永を開く》
開創は丹波道主命で、祭神は、その母の息長水依比賈の先祖である天御影命。同神は”古代製鉄≠フ神で、御上神社(滋賀県野洲町)の神と同じです。丹波道主命の母系の息長氏は、金属加工の技術を持った集団でした。
最近の研究では、東市域一帯を開き、古代倉梯郷を本拠とした製鉄集団・息長氏の神まつりの場が森≠ナあり、”行永≠ヘ息長に由来すると考えられてきています。
《大蛇の尾をまつる》
森・行永地区は、江戸時代までは、与保呂川の豊富な水源から田辺藩内で一番の米どころでした。
しかし、同川はかつて氾濫を繰り返していました。与保呂川筋の有名な大蛇伝説は、治水の祈りから生まれたものとされます。流されて蛇切岩に切られた大蛇の頭は日尾池姫神社(与保呂)に、胴は 堂田宮(八反田南町)に、尾はこの大森さんにまつられたと言い伝えます。
《住宅地の中で貴重な自然》
社殿を包み込む木々は、古いもので樹齢四百年とも言われ、住宅地の中に珍しく残った自然として貴重です。
杜清水が湧き出る池の水面には、古くから大切にされてきた木々が映え、自然の豊かさを今に伝えています。《協力 市文化財保護委員会会長 高橋卓郎さん》
〉
この神社は舞鶴ではめずらしくも金属の神社と公認されている神社である。
ここにも書かれているが、新幹線や名神からでもよく見える有名な神体山、近江富士・ 三上山麓の 御上神社(野洲町三上・名神大社・近江三宮)さんの系統の神社である。
近江でもこの系統の神社はわずかに4社しかないそうであるが、丹後にはここにもあり、古代には丹後道主命とかかわり、案外と言うか、かなり活躍していたと思われるのである。
花崗岩からなる三上山であるが、その麓は大岩山銅鐸24口の出土地である。出雲から多量の銅鐸が出土するまではここが最も多かった。
祭神は 天御影神といい、 天目一箇神と同体とされている。天目一箇神はこのHPでも何度も取り上げているが、一つ目の鍜冶神である。新羅王子・天日槍の別名だという人もいる。
では天御影命とは何物か。『開化記』に記載あるのだが、取りあえずは長いのであとにまわすとして、三上山の神様であろう。
『日本神名辞典』(神社新報社・平7)には、
〈 天津日子根命の子、天麻比止都禰命と同神かと推定される。邇芸速日命の降臨の時、随従した三十二神の一(旧事紀)。滋賀県御上神社(元官幣中社)に祀られてゐる。
〉
丹後海部氏の勘注系図では、三世孫倭宿禰命の注文に、
亦名天御蔭命、亦名天御蔭志楽別命
とある。天村雲命と伊加里姫の子となっている。丹後一宮・カゴ(籠)神社の海部氏の祖でもあることになっている。
御影・弥加宜。「宜」は普通はギと読むが、ここではゲと発音している。だからあるいはミカギ神社かも知れない、そのカゲ・カギはカグ系の名でなかろうかと私は考えている。そうだとすれば、三上山の銅を神格化したものであろう。かぐや姫ではなく、かぐや彦ではなかろうか。
上右の写真はその御上神社。左手の本殿は鎌倉時代のもの国宝であるが、ちょうど修復作業中でごらんのような事であった、本来は中央の拝殿の背景にわずかに見える三上山を拝むための拝殿ではなかったかと言われる。
三上山は舞鶴だと建部山によく似た山である。すぐ登れますよ、杖をお貸ししましょうかということであったが、そんな時間はなかった。行永の人たちの、私もそうかも知れないが、ご先祖の地の神体山である、一度は登りたいと思う。
わたくし事ではあるが、私は丹後の弥加宜神社のすぐ北側にあった長屋で生まれた。今もあるのかどうかよくわからないが、この辺りも50年も60年も以前とは変わっている。
その家の玄関先から見ると、夜ともなれば神社の森の木々が何か不気味に見えたのを覚えている。学校へもまだ行かない私の幼児の頃の生まれて初めて接した神社の記憶と認識である。
それ以来ずっと何十年も気にはしながらいるのだが、今以て何もよくわからない。私の心の中では今以て幼児の頃と変わらぬままに神社の森は不気味に鎮まっている。 さて幼児段階から少しは賢くなっているのであろうかと自問せざるを得ない。
彌加宜神社は式内社であり、残欠にも記録がある。
〈 杜坐彌加宜社
彌加宜社は、往昔、丹波道主の祭り給う所也。(以下一行虫食)杜中に霊水有り、世に杜清水と号く(以下虫食) 〉
一番上の写真は本殿を左脇から見ている位置になる、手前の池が 杜清水である。本殿の左脇に池が二つある。涸れることのない名水と言われ、本殿の右脇にはその水を汲めるようしつらえてある。
西舞鶴の真名井の清水は農業用水としても使われていて、利用する下流の農家が定期的に掃除に入って綺麗にしてあるが、ここはそうしたこともなく神社まかせのようである。
古来の聖水もヤブ蚊の住み家のようにもなっている。与保呂川か椿川かの古い水路にあたっているのでなかろうか。現在はこの程度の水量だが、少し以前まではこの池の石垣いっぱいに満々と水があったという。
書によってはこの清水の上に社殿が建てられているように書かれているものもあるが、かように清水の上に建てられてはいない。慶長十四年(1610)建立の本殿が腐朽したので延享二年に事始めし同四年(1747)完成したとある本殿である。しかし本殿の下には1メートル四方くらいの井戸があるという、井戸の上に建てられているとでも言おうか、そんな建物ならば民家でもあることだが、深くこの杜清水を意識したものとも思われる。
近くの飲み屋さんのママさんに聞くと、上等のお酒はここで汲んだ水で割るそうである。たいへん結構な味となるという。へぇでは安物の酒は…と聞くと、水道の水ですよとのことであった。
弥加宜神社(大森神社)は、古くは6月14日、明治からこちらは7月14日が例祭日である。私が子供の頃と変わらず、大変な人出になり参道は歩けない。舞鶴にもこんなに人がいたのかと思わられたりするのである。
弥加宜神社は初めからこの地にあったのではないと伝えられている。
丹後風土記残欠の神名帳には 杜坐彌加宜社とある。ここで杜坐とわざわざ限定してあるのは、加佐郡内には他にこの杜の地以外にも彌加宜社があったのではなかろうか、…そう推測したくなる。弥加宜社が加佐郡内に複数あったから、弥加宜社だけではどの社を指すのかわからない、だからわざわざ杜坐という接頭語をつけて限定したと想像するのだが、その推測はこの神社については当たっていると思われる。
元々が鉄の神社であり、鉄の採れる所へ移動していき、その地でも祀られたと思われる。鎮座地が一ケ所に固定してくるのは彼らが地着きの農民になってしまってからのことと思われる。
本殿から南へ続く参道がある。馬場参道と呼ばれる、古代からの路だから広くはなく車一台がいっぱいいっぱいの路ではあるが、その参道を逆にたどれば、この神社の故地と伝わる行永椿谷のミカゲ谷に達する。距離にすれば2キロばかりだろうか。(右航空写真参照)
ここには現在は 藤森神社(行永弥加宜183-1)が鎮座している。
地名から見てもここが故地であろう。弥加宜神社があったから弥加宜の地名があるのであろう。
現在の井根口は新しい地名である。井根は現在でも川の水を水田に取り入れる井関の意味として使われているが、たぶんその井根で古代の地名ではない。
先にもどこかで述べたが、杜清水の地の元々の地主神は弥加宜神社ではなく 枯木神社(弥加宜神社の境外に枯木堂として今も残る)であったと思われる。
『丹後風土記残欠』は次のように伝える。
〈 枯木浦は、往昔、少彦名大神と大己貴大神、この二柱神、国造り坐さなとするの時に当たり、海路の順次に所在する諸島を集合しめんと欲し、便ち笠松山之嶺に登り、息限りに号呼んで曰く、彼々来々と。則ち四嶼自ずから来て列り。故に彼来と曰う也。 〉
少彦名と大己貴が主人で、しかも 彼来彼来と、何か 国来国来の国引き神話を思い起こさせられる話で、たぶん産鉄系出雲族が先住者で、彼らが枯木神社を祀っていた地とも思われる。
上の伝説を残したのであろう枯木神社であり、彼らは浜や川で砂鉄を採取していたかも知れない(自信のない話である)。現在もご覧のように社があるから、ここの奉斎氏族はまだこのありたにいると思われる。枯木神社は後述する。
一方、弥加宜神社は鎮座地の 行永という地名からしても近江の 息長系というか、古くは天日槍系と呼ぶか新羅系と呼ぶか、新来の製鉄鍜冶技術をもたらした人々であったと思われる。彼らは直接に山から砂鉄を採取したのではなかろうか。
行永という所はずいぶん広くて、山も広い。茅屋の裏山で、松茸のシーズンともなれば、山々には縄張りがしてあり、「立入禁止・行永区」などと書かれた紙が貼り付けてある。ここも行永なのか、ずいぶんと広いなと思う。
『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)は、
〈 弥加宜神社
森鎮座 郷社
當社は遠く人皇第十代崇神天皇十年…二○二一年前…丹波道主命によってその祖父神、武威広大なりし御影神を祖られしに創る。延喜式…二○二七年前…に「杜坐弥伽宣社在神祇官」とあり。初め現時の行永小字弥伽宣谷に奉祀せられしが、聚落の移動交通の発達に倶ひ再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれども其年代更に謙ならず、果して然りとすれば、土地の沿革聚落の発達交通系統等より考へて蓋永禄…三七○年…以後の事か丹後風土記…一二二○前の物…加佐郡残欠と称する文献に曰く。
「弥伽宣社は往古丹波道義の王の祭り給ふ所也(以下虫喰)社中に霊水あり世に杜清水と號す(以下虫喰)」
と。今の社殿は慶長年間…凡三二○年…領主細川藤孝の崇敬厚く土豪高橋氏の協力によって造営し、延享年間…凡一八五年前…大に修理を加へたるが如し。当事の社領百石摂社二十一を有し、社地の南方遠く馬場参道等を控へたりしが如く、地方住民崇敬の中心たりしは明なり。慶長五年…三二二年前…小野木縫殿介の変に當時の神官出雲守は神霊を奉じて若狭に難を避けたり、依て京師吉田司家の指図により臨時に八幡宮を奉祀せりとの記録あり、社殿の左右に森八幡宮神前と刻せる石燈籠あるはその爲か。細川忠興の寄進せりと傳へる大鳥居は神域を飾りしも遂に朽ちて大正十一年別に築造せしは惜しむべし。昭和六年新たに社誘所を営造して社府昇格の機運熟せんとせり。境内千七百五十七坪。
〉
これくらいの森林がなければ鉄の神社・弥加宜神社はやってはいけないであろう。砂鉄はともかくも燃やす燃料を切り尽くしてしまえば、何十年周期かで衰え、木々成長してくればまた盛んになったりした神社と思われる。故地の弥加宜谷と新天地の杜清水の間を行ったり来たりするのはそうした原因があったのではなかろうか。
こんな事を書いていると思い起こすのだが、9条変えて戦争をはじめようと言うが、兵糧も考えずにどうする気なのであろうか。大企業と大金持ちだけを儲けさせるために農業は犠牲にしている。お陰で穀物自給率28%、カロリーベースで41%しかなく、さらに年々減り続けている、異常に低い国、おまけに借金1000兆円、国家のテイも為さないような国である。中国が、全世界が笑うであろう。さらに少子高齢化の日本ではないか。おまえらの頭では長期戦にはとても勝てんな、最初ののるかそるかの勝負では運よければ勝つかも知れんが、それから先の戦略がない、戦争など起こせばまたまた日本国民は飢えに苦しみ国は確実に破産するだろう。歴史は繰り返す、お前らは必ず負ける、と。どこから9条を変えようなどの発想が出てくるのであろうか。国民がいいだしたわけでもなく、出所はやはりアメリカだろうな。日本の事情は何も考えずに言っている空論だ。
弥加宜神社の故地と伝わる ミカゲ谷とはどんな所であろう。ここが行永の村々の故地でもあったと思われるが、案外と狭い小さな谷である。茅屋からなら裏山の小さな峠を越せばこの谷に出られる。椿谷と呼ばれていて、その谷の小さな枝谷に藤森神社が鎮座している。
椿谷には現在は人家はなく、一面が畑地になっている。田はない。私の父の実家の畑がこの椿谷の一番奥にあるそうである。
あそこは何もとれん、たまにとれたら、猪が先に全部いただいてじゃ。ということだが、肥えた土地ではないようである。
しかし古代の発祥の地というのは意外とこんな所が多い、エライ遺跡が出たとかいう話で行ってみれば、こんなに狭い所か、とまず驚く、現代人感覚では遠い過去は理解できにくい。
写真は椿谷。高速は近畿自動車道若狭道。右手に曲がる入り込んだ暗い小さな谷間に藤森神社がある。行永のたぶん近江系の人々の先祖はこの地にまず住み、弥加宜神社を祀っていたと思われる。残欠の頃もたぶん元宮としてあったと思われる。弥加宜坐弥加宜神社とでも呼ばれたのかも知れない。この椿谷の全体がミカゲ谷なのかそれとも藤森神社のある小さな谷だけがミカゲ谷なのか私もわからないのである。
ともかく手前の道を手前側にずっと歩いてゆけば、杜坐弥加宜神社の本殿に着く。
ミカゲという土地はミカゲ神社があったとするなら、ここだけではなく、ミカゲの小地名は残されている。大江町河守に見掛、弥栄町溝谷や外村にミカゲ、夜久野町畑にミカゲ、京田辺市河原に御影。
京田辺は山背息長氏の本場のような所だから、この地名があるのは不思議ではない、河守はまちがいなくいたようだが、そのほか新羅明神を祀る丹後の溝谷にもいたのかも知れない。ついでに地名でいえばヤスのつくような所もあるいはそうかもと考えたりするのだが、ところがこれはやたらに多い、何とも判断がつきかねる。
現在の 藤森神社である。 椿天王社とも古くは呼ばれたようである。社前に案内がある(下) 。
『ふるさとのやしろ』は、
〈 亀岩橋西詰めから府道舞鶴和知線を菅坂峠方向へ約七百メートル、京月団地のはずれに石仏の塚と、その前に、「左 椿天(以下不明)」の石標がある。椿川の橋を渡り、山すその道を回ると、杉木立の中に古びたお宮がある。拝殿には、牧野家八代目の藩主、節成(ときしげ)の弟作成(たつしげ)筆の「崇道(すどう)天王」の額がかかっている。
倉梯村史には「藤森神社ー崇道天王ヲ祭ル。大永年中(1521−28)村人池部重房ナルモノ山城国紀伊郡(京都市伏見区)藤森神社ヲ当地ニ歓請スト云フ」とある。崇道天王とは光仁天皇の第二皇子の草良親王の諡(おくりな)。長岡京時代の延暦四年(七八五)藤原種継暗殺事件に連座して、桓武天皇の皇太弟の地位を廃され、淡路に流される途中、絶食して亡くなられた。死後そのたたりを恐れ、「崇道天皇」と諡し、御霊神社や藤森神社にまつられた。
一方江戸時代の郷土史『丹哥府志』の行永村の項には「牛頭天王」として記載されている。今も同社をお守りする行永元字(もとあざ)会では、六月二四日に疫病払いの「湯上げ祭」をするが、戦前には、着飾った牛を引いて若狭あたりからもお詣りする人があったしいい、牛頭天王との関係を示すものでないかともいう。「天皇」と「天王」では全く意味が変ってくる。
〉
藤森という神社は舞鶴市京田の伊加里姫神社が、勘注系図では天御影命の母親を祀る、その神社が同じ藤森神社である。
船井郡和知町の和知太鼓で有名な 藤森神社がある。『京都府の地名』は、
〈 …広野の南西部に鎮座する 藤森神社は、草尾・大成(現在無住)および立木にあった藤森神社を、広野にあった藤森神社に統合して昭和三五年(一九六〇)新築されたものである。広野の氏神であった藤森神社には、源頼光が大江山の鬼退治の帰りに当地で雨にあって休憩し、鬼退治の話を聞いた村人が勝利を祝って太鼓を打ったという伝説が残り、現在も和知太薮として知られている。
かつての大成集落の奥に観音堂があり、堂の裏壁に大根・人参・牛蒡・茶碗などの日用品が彫られている。昔、長者某の家にいた牛の好きな女中に暇をだしたところ、女中を追って牛が小屋を破り、女中を背に乗せ谷間の道で姿が消えた。人々は女中と牛は神仏の化身であったと思い、消えた所に小堂を建て、女中が日頃使っていたものを刻んで祀ったといわれる。 〉
伝説の世界では一般に、退治された者と退治した者は本来は同じ、と考えてよいことが多く、和知の藤森神社もまた鬼の神社なのであろう。まことに面白い話だが不可解かも知れない、外務省の公安調査庁が実は最も安全を脅かす団体であった…。保険庁どころではない。蛇を退治した者が実は蛇で、鬼を退治した者も実は鬼と見てまず間違いなさそうである。
伝説の世界はまだしもセオリーらしきものが読み取れるが、クソ役人の世界にはそれはない、要するにメチャクチャのお子ちゃまである、何をやっているのか自分でもわからないのではなかろうか、あきれた者どもとしか言いようもないが、その親は我々である。ウチの子に限っては…などと考え甘やかしていれば、こんなザマとなる。
また藤森と金属は関係がありそうである。フジとあれば金属を考えていいようである。
弥加宜の 藤森神社は、崇道天皇を祀るとしたり、『丹哥府志』は、
〈 ◎行永村(森村の東南)
【牛頭天王】
【瑞雲山竜勝寺】(臨済宗)
竜勝寺の境内に護摩堂といふ千年の堂あり、堂の内に天平前後の仏像あり、図を左に出す、又一色氏の位牌あり。
【地蔵堂】(小野篁の作)
【降龍山怡雲庵】
【黒川丹波城墟】 〉
『舞鶴市史』は、
〈 …農耕にかかせない役牛の守護神としては、行永と女布のテンノウサン(牛頭天王)が有名であった。行永の天王は椿のテンノウサンといわれ、近郷の村々のみでなく若狭地方の人たちにまで信仰されていた。与保呂では、田植えが終わり大休みになると、農民は首には飾り繩、背中にはござを負わせた晴れ姿の牛をつれてお参りし、境内の笹をもらって帰り食べさせた。登尾では、代参者が神札を受けて帰り、これを各マヤ(厩)小屋に貼って祭った。 〉
弥加宜神社の故地に崇道天皇は不似合いである。彼も御霊なので、一つ目の五郎が御霊となり、御霊が崇道天皇となったものかも知れない。紀伊郡深草は秦氏の拠点である。湯上げ祭りとはどんなものであろうか、この湯というのが何か気になる。
「椿」というのも何か鉱山と関係がありそうな地名である。はたして樹木の椿かは疑問である。
柳田国男も秋田県の、もう青森に近い椿鉱山について、『定本柳田国男集』「椿は春の木」に、
〈 …其次は南秋田郡で、男鹿半島の南磯に椿浦、花の頃は朝日夕日に映じ、海の波も紅に染まったといひますが、私の見ましたのはたゞ二本か三本になって居りました。是が北緯三十九度五十何分の地點であります。それから愈ゝ四十度以北となって、青森県の境に近く、又一つの椿といふ村があります。一頃非常に柴えた椿鑛山の所在地で、是も村の名になったほどの椿が、近年は殆と無くなりかけて居ります。
〉
「椿鉱山」(秋田県発盛鉱山)
伊勢一の宮の 椿大神社(鈴鹿市山本町)については、『古代の鉄と神々』(真弓常忠)は、
〈 日野と鈴鹿
日野から東へ、鈴鹿山脈の水沢峠を越えると「水沢」である。谷川健一氏はここにヤマトタケルノミコトが歩けなくなったことに関係ある足見田神社のあることや、『地名辞書』に「黄鉄鉱と交り、辰砂現出す」とある記事を紹介されている(同氏『青銅の神の足跡』)が、事実、鈴鹿山麓のこのあたり一帯には文字通り水沢が多く、かついたるところ赫色土の露呈しているのが眼につく。佐藤信景の『山相秘録』によれば、
鉄多く凝結したるは大抵赭色になる者なり、其赭色土の下に鉄あるに非ずして、赭色土は皆鉄なり。
とあり、これが水沢の植物の根に沈澱堆積して「スズ」を生成したものと推察することができる。
「鈴鹿」とは「スズ」の在り処(か)にほかならなかった。
そこにはまた猿田彦神をまつる伊勢国一の宮椿大神社があり、椿鉱山がある。そして鈴鹿の山から発して四日市市で伊勢湾に注ぐ川が朝明川である。壬申の乱に際して、大海人皇子が天照大神を望拝したという迹太(とほ)川で、ここに朝日町があり、また日野町もある。日神の祭祀を想わせる名であるが、そこで鈴鹿山脈から運ばれた「スズ」、すなわち鉄が得られたに違いない。朝日町の東、大矢知から銅鐸が出土し、この付近は鍛冶金工に関係のあることは谷川氏の著にも詳しい。ともあれ日野といい、朝日という地名が製鉄地に結びついている。
金屋子神降臨伝説でも「朝日長者がお宮を建て、神は村下となって朝日長者が炭と粉鉄を集めて吹けば、神通力のいたすところ鉄の涌くこと限りなし」と伝え、朝日長者、朝日山、朝日松等、朝日夕日の伝説が製鉄冶金に結びついているのである。. 〉
「椿鉱山跡」(鈴鹿山脈) 「椿鉱山跡」
舞鶴の椿も鋳物師がいた所である。ここから北の方向へ2キロばかり行った現在、 金屋と呼ばれている地へ移ったそうである。この周辺も古くからの金属生産(須恵器も)の地であったと思われる。
中世から近世にかけての資料しか残らないが、『市史編纂だより』(55.10)「式内弥加宜神社の周辺と流出鰐口考(3)」編纂委員 井上金次郎・鋳物師 椿氏について に、
〈 …この神名帳が書写された元亀三年は、倉梯郷では丹波より進出してきた上羽丹波守が、与保呂の亀岩山域を本拠として大浦地方にまで勢威を張った時代で、田井地区の豪族倉内越後や、同民部と共に「大工.藤原朝臣家次」として同地の海臨寺に梵鐘を鋳造させて寄進した年でもあった。
この梵鐘は、其後破損して天和三年(1683)の再鋳時の大工は「冶工 藤原朝臣家次 五代孫椿八兵衛」と称して同寺の「鋳鐘施主勧化之分」と墨書した冊子にその名をとどめた人である。もともと加佐郡の鋳物師は、室町から江戸中期にかけては倉梯郷の字「椿」地区を本貫地とした椿氏が、藤原朝臣を称して斯業に従事していた。これは西地域の見樹寺の現住鐘銘に「寛文三癸卯年正月七日
冶工 丹州加佐郡住 藤原朝臣 椿甚兵衛」と刻していることからも推測することができる。
この冶工椿氏は倉梯地区の椿谷に鎮座する椿天王社(藤森神社)や椿川とも何等かの関わりをもっていたと思われるが、今なお鋳造に由来する地名の金屋(金谷)地区に土着して、鋳物師の伝承を残しているものの、関連文谷は既に散亡してこれらを証することができないのは遺憾である。
一応、以上僅か四個ではあるが、その遺存資料を総括すると、倉梯地域の鋳物師の編年事跡は次の様になるが、この椿氏は江戸期になってはじめて居住地を苗字としたらしく、それ以前は作事地名の「金屋」または単に出自氏姓の藤原朝臣とのみ刻名したとも考えられる。
@氷禄4 金屋藤原朝臣両大工 鰐口 1561
A元亀3 大工藤原朝臣家次 梵鐘 1572
B寛文3 丹州加佐郡住
藤原朗臣 椿甚兵衛 楚鐘 1663
C天和3 冶工藤原朝臣家次
五代孫 椿八兵衛 文書 l683
この事例を見ると、氷禄四年の鰐口は、その銘文にある「金屋藤原朝臣両大工」の一行だけを採り上げて、若狭国金屋地区の鋳物師所製とする「小浜市史紀要」の所説は、多少強引に通ぎるきらいが残る。(「田辺藩寺社史料案その三」所収)。…. 〉
『まほろば逍遙』(平成17・高橋聡子)に、
〈 …鋳物は古くなれば鋳直されることから製品が残らないのですが、梵鐘などに刻まれた銘により由緒や冶工を知ることができます。舞鶴市田井海臨寺の記録に、一五七二年に鋳た鐘が百余歳を経て破損したので、五代の孫椿八兵衛が冶工として一六八三年に鋳造したとあります。近江から来たと伝えるこの一族は、一六六三年に椿甚兵衛が瑞泰寺の鐘を鋳ており、はじめ行永村椿谷に住みやがて北に移り(金屋・金谷)、倉梯山の西麓を仕事場として、江戸時代を通じ鋳物を作ってきたようです。行永村には、明治の初め片山の麓で農閑期に鍋釜を作っていた人もいました。. 〉
かように現在は猪君の縄張りのような椿谷だが、ここには鋳物師がいた。それはたぶん古代からであろう。現在倉梯第二小学校のある地には妙見山古墳群があった。6世紀末〜7世紀初頭のものと言われるが、二号墳は竪穴式だそうである。縦穴は舞鶴には2基しかない。ハソウも出ている。鉄鏃・鉄剣・鉄斧・金環など出土した。これら周辺の古墳出土の鉄製品からも推測できる。直刀が作れる鍜冶技術を持った人々のように思われる。
弥加宜神社の地らしく面白い土地で、『舞鶴市民新聞』(89.2.14)の「松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈89〉*龍勝寺「窯跡と大般若経」古代しのばす6〜7世紀の 窯跡*毎年3月9日に大般若経の転読*」には、
〈 竜勝寺の東、金谷の山から南の愛宕山頂下まで、舞鶴霊園として新しい墓地が開発されています。
S字にカーブした道を登るにつれて、第一霊園から第二、第三と、愛宕神社下の第四霊園までつづいています。
昭和五十一年三月五日、この第二、第三霊園間の曲がりかどを削り落としたとき、多くの土器片とともに、木灰らしい黒土をふくむ、穴の断面があらわれました。これは、後のしらべで、六〜七世紀の須恵器を焼く登り窯の跡とわかりました。
この愛宕山頂から東へ、尾根沿いに倉梯山の高い山稜がめぐっています。
丹後風土記に「庫梯(くらはし)山は倉部の山の別称なり」と記し、「高橋郷」を記す一節に、「高橋と名づくるゆえんは、天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)倉部山の尾の上に、神庫(ほくら)をたてて、くさぐさの神宝をおさめ、長き梯(はし)をもうけ、その庫に到る料(しろ)となしませり。故に高梯(たかはし)という。−略−」とあり、倉梯山の古代をものがたっています。
竜勝寺には、大般若経が伝世され、今も、三月九日には大般若経の転読(てんどく)が行われています。
転読とは、大般若経各巻を捧げ、パラパラとくりながら、神名(じんめい・神社の名)を唱え、その神社にかかわるいっさいの悔過(けか・罪障の消滅)をはかり、新しい年の幸せを祈るものです。密教の呪術的な修法が、神仏習合のなかで、古くから行事化したものとされます。
竜勝寺のこの転読に際して唱えられる神名の初めには、必ず「にゅうちょう天王」「弥加宜(みかげ)神社」「愛宕神社」の三社があげられます。
弥加宜神社は、丹後風土記に「往昔、丹波道主(みちぬし)の王のまつりたまう所なり−略−杜(もり)の中に霊水あり、世に杜清水となづく」と記されます。祭神の「アメノミカゲ」は、近江の古代豪族息長(おきなが)族の先祖神とされます。
道主は四道将軍の一人とされ、その父、彦坐(ヒコイマス)王とともに、この地を征服した大和朝廷の武人とされます。
にゅうちょう天王は、今の椿天王社のことで、行永南奥のこの地がミカゲ神社の故地で、いまも小字名に「みかげ」と残っています。
昭和八年に書かれた倉梯村史には、「人皇十代崇神天皇の十年、丹波道主命(みこと)によって与保呂川支流椿川の上に、弥加宜大神の奉祀あり「行永は道主命の御母息長水依(みずより)姫の御名息長(いきなが)より出づとの説あり」と記されています。
竜勝寺の大般若経の転読は、古代、この地をひらいた神の名が今も読まれることから、行永(息長)の古代と竜勝寺の深いかかわりをにおわせています。
竜勝寺縁起には、ただ「開基は天平二年(七三〇)」とだけ記されていて、事実は謎につつまれています。が、この竜勝寺周辺の地域は、古代、倉梯の地をひらくもととなった窯業や、金工などの渡来技術集団、息長族のなかの一族が、住みついた場所ではないでしょうか。
〉
「にゅうちょう天王」とは何なのであろうか。丹生まではわかる、或いは丹生地かも知れないが、あとの「よう」というのがわからない。丹生中だろうか、椿谷・ミカゲ谷の古い呼び名であろうか。
今でこそ忘れられたような山中の小さな谷なのだが、交通の要衝でもあり、行永や森の村々の発祥の地でもある。古代においては杜清水の地よりもずっと中心の地であったと思われる。
『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)は、
〈 倉梯郷 森は字船越を発祥地とす、元戸数も僅少なりしが元亀天正…凡三六○年前…の頃より漸次現在の森地域を開きて移動したるが如し。鎌倉時代…凡六五○年前…の當地方交通系統を考證するに西池内谷より池の部を越え與保呂川の上流に逆り青路を堂奥に越え小倉に出づるを西国街道順禮路となしたりしを見れば蓋当平坦部一帯は千古の森林にして交通は海路の外にながりしは寺院の移動灌漑用水池の開鑿等によりても略推知するを得べし舊石高七百五十石。
行永は一時幸野村と称し現時の池の部及椿谷に聚落せしが大永年間…凡四百五十年前…古名行永に改め=地名行永は道主命の御母息永水依姫の御名息永より出づとの説あり=この頃より漸次移動を始め、荊棘を開き砂礫を除きて現時の安住地を創めしが如く今池の部に元屋敷と称する處を存じ小字名となれり。舊石高千百四十七石八斗餘 一説に曰く行永部落の池の部より移動したるにあらずして土豪池部重房=此の池部氏は後池田氏と改称せしが如し−一族を率ひて移住したるなりと、併し農耕を主として自給自足の生活を敢てせし往時の往民は交通の便よりも生活の資料を得んが爲めに重に山麓の水利を求めて住居せし傾向に徴しても余は前説を認めんとす。殊に前述の西国順禮道又は與保呂川氾濫のため行永平野は一般に荒蕪地なりきとの説と合せ考へて地名の打木、井関、橋垣、竹道等は往時の住民が或は開墾し或は水を防ぎし名残なりと思ふ時一層前説を首肯せしむるものあり。 〉
『角川日本地名大辞典』は、
〈 …椿川の上流の弥加宜に大森神社が奉祀してあったが、開拓により現在地の森へ移転したという。大森(弥加宜)神社に通じる馬場参道といわれる旧道沿いには才之道神社が、椿には崇道天皇(光仁天皇の第2皇子草良親王の追号)を祀る藤森神社がある。池ノ辺は永延年間花山院西国巡幸の経路で、地内より与保呂へ出て、堂奥から小倉へ向かう西国巡拝の順路であったという。
〉
『京都府の地名』は、
〈 …与保呂谷の谷口集落で、与保呂川の沖積平野に派生する丘陵上に位置する。小字名に下深田などその地形をしのばせるものがある。
伝承によれば行永は一時、 幸野村といって小字池の部および椿谷に集落をつくっていたが、大永年間(一五二一−二八)吉名行永に戻したという。小字池の部に土豪池部重房の屋敷跡があったといわれる。集落の西にあたる愛宕山に円墳三基、その南の妙見山に円墳五基がある。 〉
現在は近畿自動車道が通る。古代はだいたいこの高速の通るルートが交通路であった。
椿谷の西の谷が 池の辺( 池部)という所である、このあたりが行永村の故地であり、そこから北へ入った小さな谷が、森村の故地と伝わる 船越である。今はいずれも人家は一軒もない。田もない畑すらもないような所である。
京月団地の先の菅坂峠の登口という方が今の人間にはわかりやすいと思う。ここで農業をしていたというわけではなかろう。本来は農業の村ではないのである。農閑期にナベカマを作っていたというよりは、鉄閑期にイネイモも作っていたという方が正しいのではなかろうか。
「 倉橋池辺寺」の僧侶二人が丹後国分寺再建の金堂落慶法要に参加している。建武元年(1334)のことである。「はっきりしたことは言えない」「小律宗寺院であった可能性がある」と市史いうが、その寺院はここ倉橋郷の池辺にあったのではなかろうか。律宗といえば鑑真の教えの唐招提寺が本山のお寺である。
[律宗の歴史と教え]に次のように書かれている。
〈 中国の唐時代に道宣によって、大成された大乗仏教の宗派の一つで、鑑真によってつたえられました。仏教の教義研究を主とする学問仏教の宗派です。 鑑真は東大寺に日本で始めての戒壇院を設け、又戒律を修める根本道場として唐招提寺を開き布教につとめました。
戒律にもとづいて身・口・意の三つの行為において実践していくことが仏に至る道、と説かれています。一時期には、真言宗に包括されたことがありますが、
後年独立し、又一部が真言密教と融合して、真言律宗として独立し西大寺を総本山としています。 〉
馬場参道にある神社など。
与保呂の大蛇退治伝説に登場する神社である。参道に近い所にある。もともとが今の位置にあったものかどうかわからないし、正体がわからないが蛇を祀るのなら鉄関係でなかろうか。
「蛇切岩伝説」
参道からは西側になるが、丸山公園(東舞鶴公園や高校野球の予選が行われる舞鶴球場がある)から北側へ続く谷あたりもやはり鉄だと思われる。新興住宅地となっているが、丸山町を南北に流れる川(川というのかトブというのか)、それはカナ川という。
丸山というくらいだから、あるいは古墳だろうと思われるが、ここから須恵器の窯趾が見つかっている(小丸山窯趾・行永菅谷)。6〜7世紀のものという。破壊寸前に子供たちと高橋卓郎先生によって拾い上げられた遺跡であった。製鉄と須恵器はいわばラジオ屋とテレビ屋のようなもので、作る物は違っていても関係深い技術である。
昨年だったか、ここを通りかかった時の写真である。駐車場を作る工事をしていたのだが、この斜面、これは鉄滓ではないのだろうか。教育委員会が来て見ているような様子はなかった。
私は専門家でないのでわからない。写真を出しておくのでわかる人は判断してください。このあたりの自然の地層は火山灰の茶色であるが、この一画だけがこんなありさまであった。
妙見山・北斗社(舞鶴市行永和田垣)
右の写真でいえば、ユンボの右上の竹藪の山が妙見山である。ここに今は北斗社が祀られている。
「サイエンスカフェ神戸」というHPには、
〈 ○妙見山(みょうけんやま):
妙見とは「北極星」のことで、これも金属の神様。兵庫県多可郡中町の妙見山付近は、全国でも有数の銅鉱床が存在していました。
○虚空蔵山(こくぞうさん):
金属の神様である虚空象尊を祀る山。高い山でこの名前が付いていたら、ほぼ間違いなく、近くに鉄や銅の鉱山跡があるはずです。 〉
とある。まことにそうであろうと思う。神戸大学大学院のHPだそうである
。溝尻の貴布禰神社にも妙見社があった。このHPは『山の名前で読み解く日本史』(谷有二・2002)を参考図書に挙げている。この書は西舞鶴の愛宕山の虚空蔵社で、すでに引かせてもらったので、そちらを見て下さい。
「虚空蔵のもとに金属あり」
こうした社が今もあるということは、ここがそうした金属の地であることを証明している。
参道に才之道神社がある。巨大なタブの木のある社である。
才之神は塞の神で、邪悪なモノの侵入を防ぐだめに村の境、入口あたりに設けられる。…といわれる。
しかしここは行永村のど真ん中である。元宮と結ぶ参道だから村の境であるはずがない。メーンストリートである。左側の祠は愛宕と秋葉である。何かもっと深い意味がありげな社に見える。『古代の鉄と神々』(真弓常忠)に、
〈 サヒ・サブ・サビ
テツの語に対して、サヒの語群がある。八岐大蛇退治のときスサノヲノミコトが使用された剣を 韓鋤剣といい、 鋤持神という。サヒはサヒ、サブ、サビ、サムとも転化し、寒川・寒田という名の神社や、寒河江、祖父江の地名もこれに由来する。塞神というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。雑賀、才賀、造賀、草加、相馬もそうであろう。朝鮮半島では蘇伐(そぼる)、所夫里(そぶり)、卒本(そほる)、忽本(そほる)、首露(すうろ)、草羅(さうら)となり、ソウル(京城)となった。サビ・サブ・ソブ・ソボ等、この語類のサ行音は、元来砂、小石を意味する言葉で、砂鉄が精錬されて鉄となり、普通の砂や石と違った貴重な性質を帯びるところから、サ・シ・ソの一音だけでも鉄を意味することになった。曽尸茂利(そしもり)はソツムレで鉄の山、高千穂の添山峰(そほりのやま)は砂鉄のある山、日向の襲(そ)の国、熊襲の襲(そ)もやはり鉄の産地を意味した。以上は福士幸次郎の早く指摘したところである。.
〉
意外とそうした古い意味を持つ神社なのかも知れない。
毘沙門あるところ黄金ありといわれる毘沙門がいる。毘沙門とはどんな仏様かについては先に触れたのでそちらを見られよ。
「毘沙門」
馬場参道、もう100メートルも行けば大森神社(弥加宜神社)の鳥居に達する所、少しだけ広くなった所に森の 毘沙門堂がある。
『舞鶴市民新聞』(89.3.28)に詳しい。私が説明するより早いし正確であろうから、引用させてもらうと、
〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈101〉
*森・長雲寺「森の毘沙門堂」その1*府北部で最古の仏像を安置*村人たちの身近な祈りの中心*
長雲寺を東へまわり、旧森村の本通りを大森神社にむかってさがると、『長屋門(ながやもん)』をもつ屋敷など、江戸時代の名ごりをとどめる家並みが見られます。その中に、京都府北部最古の仏像をまつる「森の昆沙門堂」があります。今は、森日之出町になっていますが、毘沙門堂と灯籠と木立ちのあるこの界隈は、古くから森村の広場として、子どもたちの遊び場や、村人の集まる場所として親しまれてきました。
村のよろず屋のなごりは、この広場前に、「二谷みせ」(通称)としていまも残り、旧村落のなかでの「村のひろば」のもつ大切な機能を伝えています。
このあたりは、古くは「馬場参道」とよばれ、大森神社「弥加宜社」の参道の一部であったと伝えられます。その名のとおり、騎馬武者による流鏑馬などもおこなわれたと言い伝え、中世、有力農民が結衆した武力集団の練武の場所であったと考えられます。
享保二十年(一七三五)の丹後旧語集は、次のように記しています。
「森村古城 高橋左京
一、正一位大森大明神 鍵取
善太夫、巫(みこ)善右衛門女房森行永浜村之氏神也」。
また、長雲寺にのこる「舟越山浄瑠璃寺過去帳」は開山泰澄大師の名のつぎに、寛永二十年(一六四三)にはじまる、高橋氏の「因幡、弥右衛門、九兵衛」などの名を記しています。
森にあったという古城は、現在の丸山西町の上の丘陵をさし、地元では「臼(うす)の目城」とよばれ、先年行われた舞鶴市教育委員会の遺跡分布調査で、その実在が確認されました。
この臼の目城に拠(よ)ったといわれる高橋氏は、中世に、在地の農民が力をたくわえ、古代の郷名「高橋」に名をかりて氏(うじ)となし、結束して土豪化したものと思われ、その他、「藁谷(やらたに)城」によった崎山氏などとともに、「大森さん」と長雲寺に深くかかわった形跡がのこされています。
現在も、毘沙門堂の管理は、高橋氏によっておこなわれています。長雲寺の境内には、「施主」に同じ名をのこす『三界万霊等(さんがいばんれいとう)』があり、元禄十三庚辰歳(一七〇〇)の字がよまれます。これは、竜勝寺の上羽氏寄進の万霊等(塔)と同じく、中世土豪との関連をうかがわせるものです。
棟札(むなふだ)によると、大森二社宮(弥加宜社、八幡社)のために、延享四丁卯歳(一七四七)に、『宝殿』としてこの毘沙門堂が建てられたようです。竜勝寺を筆頭に、得月庵、怡雲(だいうん)庵が導師となり、大般若経転読の祈祷が行われ、このとき、長雲寺は「社僧 長雲寺」と別記されています。このことは、長雲寺が、大森二社の別当寺として、「大森さん」と一体であったことを示しています。
その後、この堂は、明和二乙酉年(一七六五)に高橋弥右衛門正勝を願主として、朝代(あさしろ)町に住む大工(だいく)、水嶋忠四郎によって「毘沙門堂」として建てられ、現代になって、昭和三十年に、同じ氏(うじ)願主によって改築されました。
この森の毘沙門堂は、「大森さん」と長雲寺をむすぶ、村人たちの身近な祈りの中心として、長い年月を生きてきました。が、わらべたちのペイゴマや、手まりに興じる声がきかれたのも、今は昔がたりとなりました。
森の毘沙門堂は、京都府北部最古と思われる毘沙門天立像のために、文化財関係者には注目されています。
この毘沙門天は、一木造(いちぼくづくり)の木像で、後補の両手先をのぞいて、平安時代初期、貞観・弘仁期の仏像の風格をただよわせています。
表面が風化したために木膚(きはだ)が表れ、一本の木から彫り出したというより、木の中がら毘沙門天が生まれ出たようにもみえ、造像当時の見事さをしのばせます。
この仏像は、舞鶴市郷土資料館の、昭和六十二年度特別展「村里の仏たち」に出展され、来館者に深い感動を与えました。
毘沙門天は、東西南北を守護する四天王のうちで、北方の守護神多聞天が一尊として祀られたもので、奈良時代に日本に伝わり、平安時代になって、密教とともにひろがりました。天台宗の寺院では、不動明王と毘沙門天を一対(いっつい)に、脇侍(わきじ)として祀ることがおこなわれていました。
毘沙門天のそばに安置される一木造の如来形(にょらいぎょう)もまた、平安中期らしい古様(こよう)をとどめています。
全体に磨耗風化していて、造像当初の姿は想像するしかありませんが、両腕の形から、あるいは薬師如来であったかもしれません。
古老の言い伝えによると、森の各地にのこされている仏像は、昭和八年に書かれた倉梯村史からもうかがえるように、江戸中期に、森の故地とされる船越から、運び出されたものがほとんどといわれます。
宮津の国分寺にのこる文書「建武中興記」に、加佐郡池辺寺(いけのべのてら)の名があり、十四世紀に、この地方を代表する大寺が「池の辺」の地にあったらしいことを記しています。
この池辺谷は、現在の椿川、京月付近から菅坂峠の下を西へ入る谷です。平安後期に観音霊場をひらいた花山(かざん)法皇は、池内から山をこえてこの池内谷にいたり、与保呂、青地(あおじ)から堂ノ奥、小倉をへて松尾寺に巡幸されたと伝えます。
船越谷は、この「池の辺」の奥にあり、舟越山長雲寺は、古記録に「舟越山浄瑠璃寺」と書かれています。浄瑠璃浄土は、薬師如来の浄土であることから、かつては、薬師信仰の古代寺院であった可能性が高く、「池の辺の寺」は、長雲寺の前身であるかもしれません。
これらの毘沙門堂の古仏は、平安初期の有力な寺院の存在を思わせ、幻の廃寺「池辺寺」をさぐる手がかりになるかも知れません。
この毘沙門堂は、大森神社にかかわる大般若経六百巻を納める経堂(宝殿)であったともいわれます。中世の頃は大般若経の転読は、一年の悔過(けか)をはかるために、神仏習合の行事として、神社の神名もとなえ、寺社一体で行われていました。
この地方では、河辺の八幡神社などにも大般若経がのこされています。この毘沙門堂の大般若経も、大森八幡社の森清水をすすり、「一味同心(いちみどうしん)」の誓いをたてたにちがいない森の武力集団にとって、重要な意味をもったものと思われます。
現在は、森の高橋正勝氏と高橋光雄氏宅に、それぞれ大般若経が伝えられていて、その間の事情をものがたっているようです。
もう一体の仏像は如来坐像で、阿弥陀の印(いん)を結んだ両手先は後補のものです。この像はヒノキづくり、彩色をわずかに頭部にほどこすだけの檀像(だんぞう・香木などの素木・しらきの像)です作風から、この堂が大森神社の宝殿として建てられたときに納められたものとみられます。
彩色をほどこさないのは、神仏習合の祈りからくる神像をかねたものとも考えられます。
森の毘沙門堂は、さまざまな時代のかげを映しながら、森の歴史を伝えてきた最古の語り部ともいえましょう。 〉
いたるところに鉄が顔を覗かせている話である。せっかくの鉄の神社の鳥居前にいながらもその鉄は門前払い。これだけの文化を生んだのは産鉄者の信仰であろうし、鉄の経済力以外ではなかろう。多くを学ばせていただける郷土では最良の文書の一つと思うが、従来からの史学や民俗学上の農業一元論的なドグマの分析に立つ限界と一面性、停滞性があるとも思う。これは乗り越えられるべき直前の最高の到達点を示しているかも知れない。ここを乗り越えて進まなければ古い語部たちの声は正しくは再現されないし、郷土が未来を見いだすこともできないであろう。
弥加宜神社の鳥居の前にやってきた。このあたりはもう町の中になる。白鳥通り(府道)は交通量が多い。これを越えれば、大森神社と称されるように、社叢の大きな森の木立で、欅の巨木が立ち並ぶ、途中で折れているものもある。
赤い鳥居があるが、その鳥居前に小さな祠がある。「枯木堂」と書かれた弥加宜神社境外社である。社とあるように神社である。
境内から追い出されているので、これこそが本来のこの地の弥加宜神社以前の先住の地主神と私は判断している。それはともあれ、さてその「枯木」とは何であろう。
カレキと読むのかカラキと読むのか、これは世界樹のこの地の呼び名であろうと私は考えている。東舞鶴の故地・行永や森は『倉梯村史』が拾ってくれているようになぜか巨木伝説の多い地である。天目一箇神や世界樹・薬師・毘沙門などと現代人が考えるように別々のものではなく、ずいぶんと古い、たぶん仏教以前のこの地(といってもずいぶんと広い範囲だが)の宗教世界を今に伝え残す一つのものと思われる。
「長雲寺」など参照
御アレ木という神木が立てられるという上賀茂神社。みあれ祭は宗像神社にもあるという。これらのアレであろうと思われるが、その変化のカラキ。軽樹村坐神社(橿原市・名神大社)が大和にあるが、そうした神社と共通したものでなかろうかと私は思う。
弥加宜神社の近くには 大倉岐命を祀る志楽の小倉のようにクラキという名もある、現在は 阿良須神社と呼ぶので、カラキとクラキは同じAR系の名なのかも知れない。荒木などと呼ばれるものに、大きいを意味すると思われるKの接頭語が着いたものかも知れない。
これらは何かということは大学者たちがすでに述べている。それらが当たっているかどうかはわからないが、当たらずとも遠からず、かも知れない。日本語で解けば現在のアルにつながる言葉で「 生れ」「 顕れ」ということになる、神が生まれるということだが、もっともっとさかのぼる人類共通の言葉でなかろうか。…と私は考えている。英語のareといった言葉ともあるいは繋がるのではなかろうか。
丹後国造 大倉岐命は『勘注系図』によれば、始祖・彦火明の16世孫ということである。この人から丹波国造の肩書きがある、その注文に、
〈 亦名を大楯縫命。稚足彦天皇御宇癸丑年夏五月、桑田郡大枝山辺に大蛇有り、而人民被害を為す。則此命直方市愁い、群臣を率い之の征伐を将いた時、大山咋命が現れて之を助けた。群臣と之を斬る。此時孤独窮口を憐撫する状が天聴に達した。故楯桙等を賜り而して丹波国造を賜った。加佐郡志楽郷長谷山に葬った。 〉
とある。
国造本紀に、
〈 丹波国造、志賀高穴穂朝御世尾張同祖建稲種命四世孫大倉岐命定 二賜国造 一 〉
とあるそうである。本系図には見えず、国造を賜ったのは健振熊宿祢のこととなっている。
〈 此若狭木津高向宮尓海部直姓定賜弖楯桙賜国造仕奉支品田天皇御宇 〉
の注文がある。
また、勘注系図、『勘注系図』の十八世孫丹波国造建振熊宿祢の注文には、
〈 息長足姫皇后征伐新羅国之時、率丹波・但馬・若狭之海人三百人、為水主、以奉仕矣。凱旋之后、依勲功、于若狭木津高向宮定賜海部直姓、而賜楯桙等国造奉仕。品田天皇御宇。故海部直、亦云丹波直、亦云但馬直矣。葬于熊野郡川上郷安田。 〉
大倉岐と建振熊が重なる。成務・神功皇后・応神の伝説の時代とされる人たちである。彼らも伝説上の人物なのであろう。
退治した者と退治された者は同じという伝説の理屈に従えば、蛇退治をしたのだから、彼も蛇であるし、新羅退治をしたのだから、彼もまた新羅系の人であることになる。勘注系図は彼らが新羅系産鉄民の大将だとまことに正直に伝えているわけである。だからクラキやカラキは本来は渡来系産鉄民の信仰上の語であろうと思われる。
枯木とは本来は世界樹であろうと思われる。笠松山(たぶん三国山)の上に生えていた天の御柱であった。この柱の下で少彦名と大己貴が国作りをしたのであろうかと思われる。そのごく一部の物語が枯木浦の伝説として残った、…と私は考えている。
枯木神社の祭神は何であろう。それさえ判明すればこの社の正体がわかろうというものである。
枯木堂の内部はご覧のようなことである。大江町枯木峠の枯木延命地蔵を思い起こすが、そんなものなのかも知れない。
『舞鶴市民新聞』に連載された「松本節子の舞鶴・文化財めぐり(103)森・長雲寺「森村めぐり」」(89.4.4)に、
〈 …この大森神社入り口の東側に一堂があり、通称を「 枯木堂(かれきどう)」といいます。
昔は、八月三十一日に、この堂前で、その夏最後の盆おどりが青年男女によって踊られました。そして、この枯木堂の祭りがすむと秋風が吹く、といわれていました。
堂内の本尊は愛染明王で現在、厨子内には如来形石仏が祀られています。愛染明王は、愛情・情慾の煩悩(ばんのう)を、そのまま菩提心にかえる仏とされます。古代インドのバラモンの性神が仏教にとりいれられ、平安初期に、密教とともに日本に伝わり、男女の愛の究極を祈る仏として、人びとの心をとらえました。
むかし、森村の若衆たちが、ひと夏の終わりに枯木堂の祭りを司祭してくりひろげられた盆踊りは、秋を前にして、豊かなみのりと若者たちの愛への祈りを重ねた、聖なる行事であったと思われます。
枯木堂の横に、三bあまりの大型の石灯籠あり、文久元年(一八六一)の銘と、建立にかかわった森村の住人、久左衛門、市左衛門、喜八など多くの名が記されています。 〉
延享四丁卯歳九月三日の「大森大明神本社再興之記」には、
〈 枯木之宮者西宮夷三郎也 〉
『丹哥府志』に、
〈 志楽の庄
◎森村(清道村より城取嶺を越して森村に至る、若狭街道)
【正一位 大森大明神】
大森大明神は天正の頃迄社領百石あり、慶長五年の秋小野木縫殿介田辺を襲ふ時其社焚焼す、於是社司某神体を奉じて若狭に遁る、後に吉田家へ願を出して八幡宮を勧請す、其翌日社司某又神体を奉じて帰り来る、よって二社を合せ祀る。今若狭末野といふ處に泣蛭子といふ社あり、其祭の日に「泣ベスホイベス丹後の蛭子銭が一文タライデ泣モドッタ」といふ歌を児童に至る迄歌う、蓋大森の社司神体を奉じて遁る處なりといふ。… 〉
こうした資料からボヤーともうろうと頼りなく推測するより手がないのだが、現在は畑すらもない地であるが、古くはその船越の地にいた「森族」が枯木神社の奉斎氏族かも知れない。
彼らは若狭の末野(遠敷郡上中町末野)あたりとつながりのある氏族のようである。そんな名だから須恵器の生産者でなかったかと思われる。小丸山窯趾や金屋窯趾が思い当たる。
若狭国式内社の須部神社は今は恵比須大神社と呼ばれてこの地にある。
国道に案内がある。この辺りも鉄であり、膳氏の本拠地、若狭の発祥の地。大変に気にはしていた所である。
恵比須大神社のあるあたりは倉見峠という峠で、これを越えれば三方郡式内社の 闇見神社がある。
多門院の三国嶽は倉部山ともいう。何が言いたいかといえば、枯木、森の人々はあるいは出雲の闇見国と繋がることはないのかということである。
いよいよ大きな地下の堅い岩磐にぶち当たったという感じもある。
私にはそれをぶち抜く力も時間もない。興味が湧いた若い人達に挑んでもらうより道はなさそうである。
丹後の枯木はここだけではない、すべて彼らがいたかも知れない。
一度訪ねながら考えてみよう。
ふっとばして説明不足かも知れません。ほんまかいな、と思われる方は、れっきとした民俗学者の金田久璋氏の論稿を読んでください。
「闇見神社」
弥加宜神社社前を通り東舞鶴と西舞鶴を結ぶ府道(28号線)は 白鳥街道と呼ばれている。この道は江戸期の若狭街道であり要路であった。この峠の山が白鳥(城取)山である。現在はテレビの中継アンテナなどが立てられている。中舞鶴側は採石場となっていて、かなり山の姿が変わってきた。
東・西・中の舞鶴の三地域が接する点がこの山である。中舞鶴の麓は才ヶ谷という、サビということかも知れない。 宇柳という所もある。大蛇がいたという伝説もある。
「大蛇の話」
『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)は、
〈 舞鶴城及白鳥
その昔一色氏當地方を平定するや城を築かんとして今の白鳥…城取り…峠に立ちて要害を案じたる時西に當って数羽の白鶴舞ひ下りしを見て吉兆なりと勇みち立遂に城廓を梁きて舞鶴城と名づけたりと、依てその峠を城取り峠と名づけたりとかや。 〉
一色氏としたり細川幽斎としたり伝えられるが、あまりあてにはならない話である。白鳥という所は全国に多い。白い鳥とは何で誰が信仰したものだろうか。
網野町の白鳥伝説が有名だが丹後にはこの伝説や地名はあまり見当たらない。京都府熊野郡久美浜町 布袋野と 市野々に白鳥の小地名が残る。
『丹後の伝説』で引かせてもらったのだが、再度ここに引かせてもらう。『丹後の民話』(萬年社・関西電力・昭56)に、
〈 白鳥伝説
この話は垂仁天皇の二十二年のことと言いますから、今から千八百年も前のことであります。
垂仁天皇にホムチワケノミコという皇子さまがありました。大きくなられても物が言えません。それで天皇はこのいたわしい皇子がかわいく、たいへんうれえていられました。
ある年の九月のある日、天皇が皇子を連れて宮殿の前に立たれますと、その時、白い大きな鳥が鳴きながら空を飛んで行きました。皇子さまはこれをごらんになると、はじめて口を動かしなされて、何か片言のようなことをおっしゃいました。どうやら、「あれは何の鳥か」と言われたようであります。天皇さまはたいへん驚かれ、そして喜ばれて、宮殿に帰ってから臣下の者たちに「誰かあの鳥を捕えてくる者はないか」と、お尋ねになりました。そのときアマノユガワタナ(天湯川仮挙命)という方が前に進み出まして、「私がかならず捕えてたてまつります」と申しましたので、天皇はこの人に鳥を取る役をお命じになりました。
この鳥は鵠(くぐい)といって、今コウノトリと言われている鳥であります。ユガワタナはこの鳥の飛んで行った方を追ってゆき、ついに出雲の国まで行って捕えたとも、但馬の国で捕えたとも言いますが
丹後の網野の言い伝えでは、ユガワタナの神は但馬から松原付(今の網野)へ来られ水の江に網を張り、日子座命(網野神社の祭神のうちの一柱)のご神霊においのりして、ついにこの白鳥を捕え、都にのぼって十一月二日に天皇にたてまつったのであります。
ホムチワケノミコはこのクグイをもてあそばれていたが、ついに物を言うことができました。天皇はたいへん喜ばれユガワタナに厚く賞与され、鳥取造という姓をたまわりました。
網を張った土地だというので、それ以後この地を網野というようになったのだといいます。
【 註 】
網野にはこのユガワタナを祀った神社が、境内社をふくめて四社もありますが、丹後では網野以外には祀られていません。
但馬では但馬三江駅の近くにある久々比神社の祭神がこの神を祀り、この神社は延喜式内社であり、社殿は国指定の重要文化財となっています。このほか豊岡市森尾の安牟加神社、八鹿の和奈美神社も祭神はこの神であります。八鹿地方の伝承でユガワタナの神がここの水河に網を張って白鳥を捕え、天皇にたてまつったので、その後この地を網場と言うようになったのだとも言い伝えています。
網野に接して鳥取部落があり、そのほか鳥取県鳥取市などの地名もみなこの物語に関係があるということです。 (俵野・井上正一様より). 〉
垂仁紀にある有名な話で、先学たちはすでにいろいろと語っている。
「白い鳥」とは鉄の霊だとも言われる。それが当たっているのではなかろうか。鳥だけでも鉄の霊、だから鳥取とは鳥を捕るのではなくて、鉄を採るという意味になる。網野の隣の鳥取郷には古代の製鉄コンビナートと呼ばれる遠所遺跡がある。
垂仁は片目の天皇、ホムチワケは火ではなかろうか、火が白鳥(=砂鉄)を見つけてようやく一人前に口がきけるようになった、鉄が生産できるようになった、ということを伝説的に語っている(騙っている)。…と私は考えている。。
舞鶴に白鳥という地名が残るということは、こうした物語をもった古代産鉄氏族がいたと推測できる。今もいるのだろうか。それはたぶん倭文神社(舞鶴市今田・式内社)の氏族ではなかろうか、と考えているようなところである。
一の鳥居を入って境内になる。
八代神社(弥加宜神社境内社)
鳥居を入った最初の境内社である。
『京都府地誌』に、
〈 八代神社。社地四履欠ク面積二十五坪村ノ北方字井根口ニアリ素盞鳴命ノ五男三女命ヲ祭ル。 〉
とあるそうである。
ヤシロというのだから、屋代で、本来の意味は家屋(神を祀る祠)を建てるためにわざと空けてあるサラ地のことである。
古くは神は常設の社殿で祀るということはしないで、神体山か神体岩か木か何かそうした神の降りてくるものの元で神を祀ったのである。弥加宜の神もそうして祀られたので、建物ははじめはなかったのである。
建物が必要で建てる場合は、あくまでも臨時で、その屋代の地に建てられたもので、そこをヤシロというのである。
だから、この地にもともとあったのなら、杜清水の地の弥加宜神社のもっとも古い社地であり、もっとも古い祭祀者の祀ったものと思われるる。
さて福来隣保館発行の「丹後国福来史第二部花くらべ」(昭57)にここの八代神社の話がある。
鉄にかかわるような地は、差別問題が残っていることも多い。古代文化を築き上げた栄光の産鉄族も鉄を取り尽くし、最新の技術に遅れ、優秀な安価な鉄が生産できなくなると、国内の競争に負けて仕事はなくなり落ちぶれる、もともと鍛冶屋はマジシャンでもあるので、零落した一部は宗教者の下層のもの、鉢屋とか鉢叩きとか呼ばれる者にもなっていく。近世以降にこうなってくるのではないかと私は判断しているのだが、極貧の彼らを時の封建権力者(彼らも出自を洗えばたぶん鍛冶屋)は厳しく差別してくるようになる。それが現在にまで尾を引いて難しい問題を再生産したりしているのだが、21世紀の現在でもこうした地についての不用意な発言は人権にかかわるようなことにもなりかねない問題もいまだ持っている。
鉄の弥加宜神社の地であれば、そうした地もあったわけで、その分かれが福来でもあるという。これは図書館にある本なのでそのまま引かせてもらうことにしよう。差別者側に立たないで読んでください。
〈 …大森神社に八代(はちだい)様という摂社というか、小祠が御座います。この宮についても行永衆が面白い伝承をもっています。行永の兄弟衆は永年不調で、税金滞納を咎められて、それまで祭っていた小祠(堂)を或夜ひそかに社殿ごと、連中で担いで大森神社の一の鳥居脇に運んだと、勿諭、遥かなるその日の一コマだけが伝承にあるだけで時代は不明とのこと。但し大森神社にいま八代(はちだい)なる摂社があるとのことです。若し八代をヤシロと読んだ場合、問題は大きく展開します。その前に神社は権力者に依って造られたり、廃棄にもなります。勿論祭神もその例にもれません。明治政府の廃仏毀釈もその実証です。全国の神社統令などもその例です。
信徒の意向で神社や祭神の附会など自由であったとおもいたい。もし八代(はちだい)が八代(やしろ)であったなら、一般にその筋用語で八代(やしろ)社とは熊野十二社権現社を意味するとの活字を見たことがあります。一応これで論を進めますと、往時の熊野十二社権現を祀るものは被差別者と見て間違いがないらしい、之を祀る熊野比丘尼は、熊野御礼と売り.また勧進を生業とし俗に謂う、熊野山伏と同居する者多く、戦国時代となると各地方豪族の出陣の後方勤務者となり傷病者の手当、戦死者の始末、敵方頭(かしら)首の化粧直し、などを処置すう特殊任務についたという。その報酬は死体処理に伴う衣類甲冑金子等の略奪私有を許されるという、全くの賤者扱いで、だから天佃女命の裔と謂う猿女族という部族と同様の仕草をもって生業(たつき)となしたとかや…。これは八代(はちだい)を八代(やしろ)という場合の判断です。
尚比の(小)社に就いては、大戦までは行永衆もいたく気をつかって、屋根瓦の補修等も心がけたと伝承に残っているが、御屋根葺を敢行した記録はないらしい。今の古老はこの(小)社に大変気にしていられる向きも御座居すすが、之など解明を急ぎたい。… 〉
この書に従えば、もともとは「行永衆」の地に祀られていた、彼らの社と思われる。行永衆は息長衆で元々は鉄の専門家集団と思われる。
『福来史』は次のようにも記している、
〈 行永の伝承考
神武天皇御東征の砌り天御影命(天目一箇神)が御縁の深い三ツ松の青海(おうみ)神社にお還りになった時、仲々舞鶴にお帰りにならず、森の氏子一同は困惑して総代其の他盛装に礼を尽くしてお迎えに参上しましたが交渉不調の為に大宮の人達が再度参上致す所、之の度は神意目出度、 無事に車駕が今の一の鳥居に致る時、奥の院(?)に在します八代荒神様が、この所まで御出向し、天御影命に正殿をお譲りして自らは次席を撰ばれしとの事、尚、正殿様三ツ松へのお旅出の長引くまま困惑した森の衆は京都より勧請したのが八代荒神と申すとか
一話と二話に違う所は之の所だけですが、一々判断も出来兼ね二話を別個に類推しています。之の通り大宮の伝承に調整がとれていないのも面白い。話者は共に私の知己ですが、今後両者に会話の場はありそうにも思われず、だから奴方を取りました。古来神社の祭礼は前説らも例証を上げていますが… 〉
牧山北麓の高浜町三ツ松の付近は鉄の地だとこのHPでも指摘したが、与保呂の大蛇の尾が青海神社に飛んでいったという伝説もまんざらデタラメではないことがわかる。
天御影命の娘は息長 水依比売という、その子が丹波道主であるが、この水依は三ツ松の 鐘寄という地名と同じ意味なのではなかろうか。 金選りということで鉄穴流しで砂鉄を集めたということであろうし、それは見方を変えれば 水選りでもあったと思われる。鉄穴流しから生まれた丹波道主も鉄と関係深いことになる。
『京都府地誌』に、
〈 鹿嶋神社。社地四履面積欠ク村ノ北方字井根口ニアリ武甕槌命ヲ祭ル創立年代由緒詳ナラズ。 〉
有名な常陸国一宮・鹿嶋神宮の分社であろうが、なぜここにあるのかわからないという。
今は鹿島・香取神社と書かれている。
ここにあっても何も不思議ではない。この社も剣の神、鉄の神社である。 「鹿島神宮と香取神宮」
『日鮮同祖論』は、
〈 常陸国鹿島郡は香島神宮の神号を取ったもの、此地に生れた藤原鎌足の奏請により、和銅二年神霊を大和国春日山に分祀した。鹿島(かしま)と春日(かすが)の両地名のカは大の義、シマ(島)、スカ、スキ、シキ(城)はいずれも一定の城の名であるから、全く無関係のものとは思はれぬが、高田輿清は鹿島を筑前の橿日宮又畝傍の橿原(カシフともいふ)と比較してゐるのは卓越した見識といふべく、更に進めれば、筑紫日向の(木編に患)日(くしび)二上峯とも結びつけるべきであると思ふ。 〉
といかにも氏らしいことを書いている。
あられ降る香島国と言われるくらいである。アラアレフルで、まるで小倉の阿良須神社のように、ARの地だから、氏の説は当たっていると思われる。
『増補改訂・鉄の民俗史』(窪田蔵郎・雄山閣1991)は、
〈 武の神として有名な常陸の鹿島神宮である。私は原始の姿は大陸に源を発する兵主神信仰に近いものと考えているが、ここも同様に武甕槌神の神恩に感謝してフツノミタマ剣を祀ったものである。両者(南宮大社と)いずれも創始の縁起が、神武東征の背後にあって兵器供給という点で関連している。しかし、これらは神話伝説を切り繋いで縁起談として創作されたもので、鹿島も尨大な埋蔵量の砂鉄地帯であるので、おそらくこの付近に強大な勢力を有した金屋の集団があったことを意味するものであろう。 〉
弥加宜神社の鹿島神社を祀る集団は鉄製の武器を製作した集団だったかも知れない。
利根川下流の地一帯は『常陸風土記』が記すように刀剣の製造できる優秀な砂鉄の産地である。香島・香取の香は 天香山の 香の意味だろうから、カグ島・カグ 採りの神社ということになる。
名著といわれる『原日本考』(福士幸次郎・昭和17)は3000部の発行である。覆刻版が幸いにもあるが最近手に入った。次のようにあった。
〈 鹿島の郡は古くは香島とも書き、こゝの大神と相並んで有名な大神「香取」のそれと同じ字である。恐らく古くは前者はカガシマ、後者はカガトリ、即ち「金のある島」、「金を採る處」と言ったものであらう。大利根の水流は、雨毛の山岳地啓から砂鉄を運び、この河口の大潮沼地帯の沮洳劾や、三角洲の適宜な個所に、砂鉄層を所在に堆積したものであらう。この想定は上流から懸けて利根川一帯の沿岸について本論で今後明證の出ることである。其の一番よい産地として鹿島、香取の両地が見出だされ、他とならびない武威赫々たる二柱の大神が、古い神代の時代からこゝに祀られたのであらう。カガが鉄を意味することは、天鹿児矢のカゴ、天香山のカグ、加賀、鹿児島の地名のカガ、カゴ等例證のあることである。 〉
舞鶴には他にもあるが、久田美の場合は、『郷土誌岡田下』に、
〈 鹿島神社 (熊野神社境内東北の南)
祭神 毘沙門天
鹿島神社は近年まで毘沙門山頂に祭られていたが、昭和四十三年八月に熊野神社境内へ遷座された。 〉
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京月は与保呂の地名であるが、目下のところ、お手上げである。見月が面白そうである、ミカゲ神社の秘密が見えてくるような地名である。。見月を何とお読みになるだろうか、ミツキと呼んでいるようであるが…
三日月神社をミカゲ神社と読むのだから、見月もミカゲと読めないか。その辺りから考えてみよう。
現在の藤森神社が鎮座する椿谷のもう一つ西側の小さな誰も無視する谷である。
私の想像説を書いておけば、…
この谷こそが本来のミカゲ谷でなかろうか。元々はここに弥加宜神社は鎮座していたと思われる。現在の藤森神社はここから移ったものと思われ、さらに移って今の大森神社になったと思う。
この谷を遡ると見月峠で、この低い峠を越すと、池内の別所の上流に出る。そこは舞鶴鉱山である。
峠のこちら側も実は鉱山地域ではなかったか、弥加宜神社と鉱山がこれで結びつく。
行永遺跡
大篠原神社、矢放神社の大般若経
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