丹後の地名

奈具神社(なぐじんじゃ)
加佐郡式内社
宮津市由良


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京都府宮津市由良

京都府加佐郡由良村由良

奈具神社の概要




《加佐郡式内社:奈具神社》奈具神社の案内板

丹後の奈具神社といえば羽衣伝説で有名な竹野郡の奈具神社(現・京丹後市弥栄町船木)であるが、加佐郡にも同名の神社がある。
有名な方はこちら奈具神社(竹野郡)
同名ということは両社には関係があろうという推測が成り立つ。奈具神社(宮津市由良)

加佐郡式内社の方は、現在は宮津市由良の由良ヶ嶽の北麓。「奈具の海岸」と呼ばれる景勝を国道が走るが、舞鶴側から行けばその手前になる。少々わかりにくい所なので地図を見て行って下さい。神社までは車は入れないのでは、道は狭く、大きな車は無理と思う。
この神社は如意寺、安寿と厨子王(山椒大夫)伝説や由良銅鐸、真名井伝説などとも関係するであろう重要な、大変おもしろい神社かも知れない。
奈具海岸、ナグの海岸、あるいはナゴの海岸と呼ぶ、美しい海岸↓
多分この神社の名から出た名と思うが奈具海岸という
由良ヶ嶽は花崗岩の山で崩れやすいのか、私が訪れた時はまた台風23号被害の修復工事中であった。


↓昔は右手の山を越えたのですが、今は奈具海岸の道路を車で走れば3分半です。栗田側より走る方が海がよく見えます。この日は天候がよくなくあまり美しくは写っていませんが、光回線の方は繋いでみて下さい。




さて、二三面白そうな話を上げておけば、

『古代の鉄と神々』(真弓常忠)は、
 〈 外宮の鎮座
外宮の鎮座は、雄略天皇の二十二年、丹波国の比治の真奈井原より迎えて、皇大神宮の御饌津神(神饌を掌る神)としてまつったと伝える(『止由気宮儀式帳』)。
 『丹後国風土記』逸文によると、丹波国の郡家の西にある比治山の頂上に「麻奈井」と称する池があり、むかしこの池に降りてきた天女一人が羽衣を失くしてこの地に留まり、不治の病を治す醸酒を造ったがのちに追われて各地を転々とし、竹野郡舟木里に移り住んだ。これが奈具社に坐す豊宇加売命であると伝えている。
 京都府竹野郡弥栄町船木に、奈具神社があり、「奈具」は「佐奈具」の「佐」の脱落と思われる。そこが「船木」の地であることはおもしろい。  〉 
ナグとはサナグのことだという。サナグとは鉄鐸のことであるが、由良からは銅鐸が出土している。

『丹哥府志』三河内村の条に、
 〈 【古代の宝鐸】(梅林寺蔵)
 文化年中寺の後山より古銅器を堀出せり、其状釣鐘の如くにして釣鐘にあらず、まづ宝鐸の類なり、大小ニッ相重り高サ三尺五寸径一尺三寸其厚僅に二分、上に龍頭あり、其左右に穴各ニッ共半腹の下にも左右に穴各ニッあり、金の性は所謂唐金なり。其廻今緑青を塗るに似たり、地紋は日本の模様と見へず。先年加佐郡由良村よりも此物を掘出す、其形状此と異る事なし稍小なる耳、是も大小相重り一は官に納る一は今の家蔵となる。或云。天智帝の御字に三井寺より古銅器を掘り出す、當時尚何物や詳ならず、神代の物と定りたるよし今誓願寺に納まる、此物と異る事なしといふ。

(校者曰) 底本にはこの銅鐸の拓本の模写を牧めたるも茲には宝物の写真銅版を掲ぐ。但しこの鐸の出土に就ては他に異説あり梅林寺所蔵文化五年辰三月の「鐘鋳記録帳」に「此のかね当山の乾にあって比丘尼城といへる城趾有、嶮岨峨々として松柏枝を変へず、そのかみ延享年中大雨降続所々山崩多し、此物彼山の辺りに漸嶺二三寸斗兀山に顕れり樵夫業のひまに彼地に至りあやしみ是を堀出せば異形変物也。早速御地頭青山侯に御覧に入れし處一家中是に号る者なし、其後江戸表に遣し諸家に見せしむれ共一つ以て実号なし、其る稀代の堀出物せしは其村はんねひなる瑞ならん速に椋林寺納宝物と致すべしと御下知を蒙り、夫より犬十餘年の間永く宝藏に納置、今?鋳参詣の衆生へ開扉致所是に名付る人あらば竊に聞かまほしと(中略)然る處、四十八年以前宝暦十辰之九月廿七日之昼八ツ時當寺焼失仕候、其節右の鐘も焼落申侯就夫焼鐘を用候へバ村方不繁昌の由申傳候将共、鳴音格別不劣候儀に御座侯此儀如何事哉、先年比丘尼城  如此之カネニッ堀出し壹ツは當寺什物に罷在候、壹ツは掘出し申候節餘程損し致出来候に付打割鋳鐘へ入申候儀に御座侯、其故歟響能候様言傳ヘ申候」と記載されたるより見れば該銅鐸は文化年中にあらずして文化を遡る六七十年の延享前後青山侯の領知の頃なりしを知り得べく、尚ほ「演津日記」下巻には「同十七年子四月九日三河内村端郷梅カヘト申所ノ城山ニテ釣鐘ノ様ナル物二ツ堀出シ御城へ上ル、長サ四尺斗リ廻り三尺五寸斗カラカネ鋳物ニテ模嫌殊ノ外美敷物也、當時鋳物師等中々可致率難成旨申上ル、其形何トモ名ヲ付候モノアラズ」と載せてゐるが此の同十七年子とは享保十七年壬子のことで延享より十年古いけれども矢張り青山幸侶封知の時である。子四月九日恐らく此の記事信ずべき歟。鐸の内部に「梅枝治郎」と墨書あり惟ふに発見者の其の當時の筆ならむ。  〉 
校者というのは永浜宇平氏である。
入れ子にして二つ出て来たようだが、その現物は伝わらない。
山椒太夫はこの地で金鉱を見付けて金持ちになった、という伝承もある。製塩と金属は関係がありそうで、今のように分業が発達していて塩屋は塩だけ、鉄屋は鉄だけを作ったりは絶対にしない。塩も鉄も何でもやったのであろう。


奈具神社の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 奈具社  〉 

《丹後旧事記》
 〈 奈具神社。由良村。祭神=奈具大明神 豊宇賀能売命。延喜式竝小社。  〉 

《丹哥府志》
 〈 【奈具神社】(延喜式)
奈具神社、今市姫大明神と称す。  〉 
同書は舞鶴市市場の今の八幡神社を奈具神社に比定している。近くの浮島には羽衣伝説はあるのだが、…

『舞鶴地方史研究』(1965)
 〈 吉岡徳明翁
 丹後国神社考證
       加佐郡

奈具神社 (式内小社)由良村(字宮之本)ニ鎮座
祭神 豊宇賀能売神 祭日 九月十四日此社ハ竹野郡ナル祭具神社ヲ移セシナラン(奈具ノ神ハ酒殿ノ神ニ坐が其縁起ハ竹野郡奈具神社ノ条下ニ風土記ヲ引テ委シク説クガ如シ)勧請ノ年月ハ詳ナラネド但馬国朝来ノ郡竹田ノ里ナル宮本池臣ノ老ニ俗ニ由良湊千間長者卜云フ浄瑠璃文句アリ其ハ安寿姫、津塩丸ノ足弟、山庄太夫卜云フ者ニ拘へラレ苦メ遣ハレ甚ガテニ逃去テ尋来ラン事ヲ恐レ陸奥マテ落行シト云フ物記ナリ案ニ此ハ竹野郡奈具神社ノ縁起ナル天女ノ和奈佐翁ガ家ニ子トナリ酒ヲ作リ其家富ニ土形冨テ後ニ逐出サレシ悲ミノ有状ヲ翻案シタル作者ノ功意ナルベシ云々卜云ヘリ然ル事ナルベシ(此処ニ奈具峠アリ今へ長尾峠卜云ヒ訛部しり)  〉 

《丹後国式内神社取調書》
 〈 奈具神社
○【田志】ニ天避社トモ天酒社トモ云ヘリ宇賀乃@命也豊宇気比女神也ト云フ ○竹野郡ニモアリ、可考
【明細帳】由良村【道】同 上俗ニ山庄大夫ノ故事ハ天女ノ和奈佐老夫ガ家ニ子トナリテ酒ヲ作リ人ニ売テ其ノ家富饒ヒ土形広ク大クナリテ後吾子ニ非ズト逐出サレ悲ミノ有状ヲ翻案シタル作者ノ巧意ナルベシ【式考】天女ノコトハ竹野郡ニテ八人天降リシテ一人止リシニテ兄弟二人ニアラズ同社名ナリトテカク附会スベキニアラズ【豊】由良村字宮本豊受比売命ヲ祭ル九月十四日).(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 祭神  豊宇賀売命
由緒  弘化三年三月建立後更に明治14年三月28日改営した。其他の由緒は詳ではない。但し延喜式神名帳所載の神社であるのは明である。
境内神社 大川神社(祭神 五元神)  〉 

《丹後の宮津》(橋立観光協会・昭33)
 〈 七曲八峠と奈具の浜
 …宮津街道へでると、由良神社の少し東の道筋に「奈具神社」の石標がたっている。この石標のそばから山すそへのびている道をはいると、鉄道線路をふみきって向うの、椎の古木がうつそうとしているかげに見える石の大鳥居、ここがかっての式内奈具神社てある。いかにも古社らしく、境内の古木はいずれも幾百年とも知れぬものて、最近この境内の社後にあたる宮山の古木を伐採したことは、ほんとうにおしいかぎりである。この奈具神社の浜がわを、ダラダラの坂道へのぼって行くと、やがて一本の松の木があって、ちょっとした区域を仕切って古い石塔二三基、ここがさっきいった山椒太夫の首挽き松といわれる場所である。文化十一年(一八一四)以前は、ここらから上へずっと人家もあり、茶屋なども数軒あったところで、これからがいわゆる北国街道の七曲八峠にかかる。由良の記録によると、文化十一年七月のこと、二三日も大雨がふりつずいた夜半、にわかに山鳴りがして一瞬、この辺の人家八軒が土砂とともに下へ押し流され、二十人ちかい人命が失われるという大事があった。それからこの峠の人々は、ふたたびもとへはかえらず、おいおいと淋しい峠道となった。
 だが、この峠にたって海をみると、眺望はいちだんとすばらしく、また由良ケ獄のきぜんとそびゆる姿もひときわ雄大である。つずいて峠を栗田の方へすゝむと、やがて平安のむかし、山中の和泉式部におくられた京都朝廷の使で歌の名人といわれる赤染衛門が、
 新古今 なけきたる身は山なから過せかし 浮世の中に何帰るらん
と詠って、式部との別れを惜しみ惜しみ由良の方へくだったという七曲の嶺、それから盲者倒しなどといわれる、いかにもけんそな道となって、おいおい栗田の脇部落にちかづくのである。いうまでもなく、この峠の下が奈兵の海岸て、国道がはしっている。峠道から見えかくれする海岸の美しさ、この道を一日のハイキングコースにえらぶなら、きっとうれしい道となるにちがいない。交通のひんぱんな危い国道を歩くよりも、いっそ海路を浜にそうて舟にするか、それともこの峠の方が、なんぼう安全てたのしみの多い道かしれないからてある。  〉 

《丹後の笹ばやし調査報告》(府教委・昭52)
 〈 由良脇・太鼓踊
        名 称 太鼓踊(笹ばやし)
        所在地 宮津市由良脇
        時 期 十月十日(中絶)
 由良の脇地区の氏神、奈具神社の祭礼には脇の人々によって太鼓踊が行われていた。これは戦前から休止されたままで、わずかに古老の記憶にとどまるばかりだが、以下、佐原善四郎氏(明治四十一年生)からの聞取りにより、概略を述べる。
 太鼓踊は、シンボチ 一名、太鼓 三名、ケイゴ 大勢の構成で、ケイゴが歌いながら踊る。
 シンボチは年配の男子で、羽織姿で右手に榊左手に開き扇を持つ。太鼓は青年の役で、力スリの着物に袴をはきタスキをかける。青年がそれぞれ持ち曲を決めて習い、曲ごとに交替したという。ケイゴは家主(戸主)がすべて出るならいで、羽織姿で扇子を持つ。
 演奏は、大太鼓三丁を神前に向って立て並べ、その向うに神前を背にしてシンボチ、シンボチと向いあって太鼓(打)、その後にケイゴが位置して行う。
 シンボチが「かぐら踊かぐら踊 かぐら踊の太鼓の頭 しっぽりとしょもん申そう」と述べると太鼓が打ち出され、ケイゴが立って歌いつつ踊る。シンボチは音頭をとり榊と扇を振って全体をリードする。一節の終りには太鼓だけの拍子がある。「タカタカタンヘーイ タカタカタンヘーイ…」といったもので一しきり続く。それを「合い打ち」と言った。一曲の終りには「踊り上」があり太鼓の打ち方が変る。このあと「船頭踊」「篠原踊」など適当に二〜三曲を演じ、最後に「お庭に名残りは惜しけれど お庭に名残は惜しけれど 明年参るや又参ろ 明年参るや又参ろ」の踊り上をもって終了する例である。
 大正十年の拝殿完成の祝祭の時には、太鼓踊に棒振をやった。子供二人が、大太鼓の「ヤァトンヤアトンヤ」といった拍子に合わせて、前後しながら棒を振り、ついて逆に組み合って回転したりする芸である。
 また、昭和三年大川神社が府社に昇格した際の祝祭には、「トーザイ」という役が出て口上を述べたことがある。
 太鼓踊のほか、昔は芸屋台が出て地区をまわった。地下の子供たちが歌舞伎を演じ、それを家でやってもらう例だったが、「食事のワリ打ち」があってなかなか物入りであった。太刀振はここでは行っていない。
 太鼓踊は氏神の祭礼に神前で行うほか、水無月さんの旧六月三十日の夜祭にもやった。水無月さんはいま、浜野路と港でお守りし他地区は関係がなくなっているが、その夜祭には由良の全地区が寄り集って一緒になり、太鼓踊を奉納した。その時のシンボチは脇の役であった。また、旱魃にあたって、浜で大焚火をし雨乞いをしてこれを踊ったこともある。
 由良は脇が草分けである。脇はもと七曲八峠の近くにあり、それが由良の脇と栗田の脇に分かれたと聞いている。太鼓踊も脇にはじまったと言い、十五曲あるうち十四曲しか教えず、脇が隠しているといった話も伝聞している。
 大川神社にはここからも祭礼を入れる慣例で、「由良の踊がいかんと神事がやれない」と云われていたとの話も伝え聞く。
 脇では古文書等が一括保存されている由である。あるいはその中に関連史料もあろうが、調査のゆとりを得なかった。拝見しえた歌本には「弘化参年丙午(一八四六)六月・五冊之内・五ヶ邑立会蔵書ヲ」云々の識語がみえ、表紙に「笹囃子躍歌」とある。笹ばやしというのが太鼓踊の古称であることが知られる。
 なお、由良は氏神を異にする四地区に分かれるが、太鼓踊はこのうち、脇と宮本・浜野路・港の両地区にしか伝承のなかったことを付記しておく。

@ 長さ二〜二・五尺の榊の枝で、単にシンボチの榊といった。
A 峰山町丹波のちやあ(笹ばやし)はまさにこの芸に相当する。
B のちには買芝店に変った。中舞鶴にカンダという人が居り、そこに頼んてやってもらったという。屋台は現存している。
C この峠のかかりに山椒大夫首ひきの松がある。
               (植木行宣)  〉 

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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