爾保崎(にほざき)
含:十二月栗神社 |
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京都府舞鶴市下安久二尾 京都府加佐郡余部町下安久二尾 |
爾保崎の地誌《爾保崎の概要》 舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の北東の海岸部。 一色氏の部将・南部氏の匂ケ崎城が置かれた。標高56メートルの匂ケ崎の中央部に明治33年陸軍の砲台設置。練習砲台という。ここは大砲がにらんどったデといわれる。兵隊さんが毎日整列して歌いながら歩いて行きはったそうである。 第二次大戦後は舞鶴市に移管されて、現在は桜の名所・匂崎公園がつくられている。砲台跡はどこにもない。旧軍港市転換法によるものであるがこれは貴重な「舞鶴の近代化遺産」ではなかったようである。何が貴重かそうでないか、何を残して何を捨てるかの基準になるものは舞鶴市さんにはないので、取捨がまったくの行き当たりばったりでデタラメに見える。自分が気に入ったら貴重で世界遺産級の文化財と大ボラを吹き、そうでなければ徹底的に跡形残らず破壊してしまうのである。彼らの言う「世界遺産級赤レンガ倉庫」を二つも破壊したのは誰でもない舞鶴市であった。自分のご都合だけで取捨選択を行う。こうした手前勝手なご都合主義の連中には私はついて行けそうにもない、一体全体どうなっとんじゃい。先にはぶっつぶしておいてあとでは公園として何億も税金をつぎ込み整備するのじゃそうな。誰が見てもとても採算がとれそうにもない。近頃の舞鶴市はこうしたその場の思いつきのだけの大計画が多い。何も全体の町作りと調和しない、ええカッコウだけの町作り。全体ビジョンのない中のその場その場の思いつきで何事も進めてきている。だからバラバラでムチャクチャの支離滅裂。 神崎の浜茶屋のタイショウに聞いてみた。「今年の夏は何億円儲けました」「言わんとってくれ。恥ずかしい。大赤字じゃ。何年したら返せるかわからんほどの大赤字じゃ。もうヤメじゃ。このごろは大きな車に一杯安い材料を買って持参でやってくるのが当たり前。何が金ども落とすかいな。浜茶屋に来るのは湯をくれいうて来るくらいのことじゃ。カップラーメンを買ってくれるのならええで、ラーメンは自分らが買って持ってくる、湯だけくれといいよる。タダでじゃいや。そんなことやで、一銭も落とさんわい」「観光客が来たら大儲できるというようなことを市などは一生懸命に言いふらしてますがね」「アホじゃ。誰が金ども落とすじゃ。落としていくんはゴミだけじゃ。見てみい、そこらのゴミの山を。」という。 そうであろう。わかっていて聞いたのだ。いまどきの観光客はこうなのである。彼ら相手にまともに商売するのがアホくさいようなことである。脳天気なコッパ役人どもやクソ議員どもが考えるほど世の中は甘くはない。確実に発生する大赤字はテメエらが見るのであろうな、まさか一般市民に見ろとは言わないだろうな。ではしっかりやってくれたまえ。オマエらには高い給料を払っているのだ、せめてその何分の一でも稼いでくれたまえ。私は無いゼニで税金を払っているのだ、私はもうこれ以上はよう払わんぞ。 世界的な目でよく見て公平に選択しないと何も舞鶴だけのものではないのだから道を大きく誤ることであろう。公立病院といった市民の命にかかわるようなものですら採算が言われて採算割れならば廃止とすらされようかの時代である。採れるわけもない不要不急のハコなどになぜ億単位の税金を使うのか、舞鶴市は正気かと問おう。根本から何重にも誤っていて今以て気が付かない、そんな者には私はぜんぜん期待などしていないが、一応書いておこう。 二尾の付近は「二翁崎漁舟」として湾内の好景の1つにあげられていた、第2次大戦前は海水浴場であったという。子供の頃私もこの辺りで泳いだ記憶がある。 さて爾保崎は丹後風土記残欠の記録された古代の地名で次のように記される。 〈 爾保崎 爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ潮水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チにほ鳥忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。 十二月栗神、祠無し。木を奉り神と称す。古老伝えて曰く、往昔、稚産霊神の植るところにして、歳毎の十二月朔日に、花生、二十日に至り実を結ぶ。正月元日に其実を取り、大神に奉る。今に至るも其例たがへず。蓋し是れ神験の奇乎。 〉 何字が虫食があるのだが、海部穀定氏の校注に従って埋めてある。難しいというのかパソコンで表記できない字はひらかなにしてある。 まず地名の由来を記している。 「 というのである。 次は十二月栗神社の話である。 「 この二つの話が爾保崎の項目に含まれる。そのほかには虫食の行はなく、爾保崎はこの二つの話だけである。 読めばいくつも単純な疑問が湧いてくる。だからこんなものはデタラメだ、これは偽作だというのが舞鶴の郷土史家たちの大方であるが、私はそんな考えに組する考えは毛頭ないのである。古い資料を現代人の悪癖で、そういった風に思い上がって読むものではない。何を後世に伝えようとしているのか真剣に耳傾けて全理解力を集中させながら聞かぬと超大事な史実を聞き落とし理解できないことだろう。 まず日子坐王の剣が湖水に触れたというが、湖水などはこの周辺にはないではないか。ということである。だから「湖」ではなく「潮」の間違いとも考えられ、そう修正する史家もいる。しかしそうなると今度は「にほどり」がおかしくなる。海にはそんな鳥はまずいない。カモメさんならわかるが、ニホドリはおかしい。 だからニホドリの棲む湖水がこのあたりにあるのかどうかである。現在はないし江戸時代もなかったようである。しかしこの物語はもっともっと昔のを語っているのである。残欠が編まれる、さらに以前の物語である。そんな時代は今とは様子がだいぶに違う。−はずである。 そんな湖が過去にこの周辺に、はたしてなかったか。頭から間違いだデタラメだと決めてかかっているので、誰も探しもしなかったが、実はあったのである。 現在の西舞鶴平野、平野と呼ぶのもおこがましいような猫額平野で、現在の西舞鶴市街地と呼ぶのか中心地と呼べばいいのか、この平野の成り立ちを私費をはたいてボーリング調査をして研究していた人があった。舞鶴にはこうした人もいる。意外と捨てた町でもなさそうである。こうした本当に偉い人の前では私は物言うのも恥ずかしいのだが、氏によればそこは昔は入り江になっていて、淡水湖であった時代があるというのである。 ニホドリの棲む湖水が確かにあった。ぴったりと時代が合うかどうかわからないが、その可能性はでてきたのである。 そうすると爾保は現在の西舞鶴市街地も含むことになる。ニホドリがいるのだから爾保の湖とでも呼んでいたかも知れない。 次はニホドリが行列して飛んできて日子坐王の剣に突き通されて死んだ。という。自主的に突き通されたというような表現である。 ニホドリというの爾保崎に住んでいた人達とも思われるが、彼らは自ら剣に貫かれたようである。日子坐王は土蜘蛛退治にきたのだから、あるいはこの湖の周辺には土蜘蛛がいたことになる。日子坐王は青葉山の土蜘蛛を退治して次はこの湖へやってきたのであるが、青葉山には笠津彦・笠津姫が祀られていた。その親が実はこの湖のほとりにあった笠水神社の祭神・笠水彦。笠津彦の子はこの湖の東の高田神社の建田背命。勘注系図によればそうなり、青葉山と実に関係が深い一体の地である。この三代はこの地のカサ氏の系図のようである。彼らは玖賀耳御笠そのものであったかどうかはわからないが、その主要な一派でなかったのかとも思えてくるようなことになる。 想像だがここで寝返ったのではなかろうか。過去の盟主・御笠をみかぎったのか日子坐王側に付いたのではなかろうかとも思える。日子坐王軍と戦闘になったような記事はなく、ここは和睦になったのかも知れない。これ以来ミカサのカサは禁句となりウケだウケだと無理して言うのではなかろうか。などと私は考えるのである。 このカサ氏の後裔は浦入遺跡出土製塩土器の「笠百私印」(奈良期か平安初期)の笠というこの地の豪族でもあり、たぶん法隆寺の「笠評君大古臣」でもあったと推測される。この氏族は今の西舞鶴湾側は押さえていたし海部氏の祖でもあった。製塩や金属、水銀に精通した集団であった。…古代史の栄光の笠氏の末裔は今の坂根サンや嵯峨根サン。そんな事になるのではなかろうか。 それはいろいろな手持ちの資料をつなぎ合わせてみた推測である。もっと厳密に繋ぐべきだが、それだけの資料もない。しかし下に引かせてもらった小牧氏の論稿も似たような推測なのではなかろうか。(あまり似てないかも知れない…)。 さてそれは於いて、爾保崎の範囲を押さえておこう。残欠の記事から十二月栗神社も爾保崎にあったことになる。十二月栗神社は現在の長浜にあり、ここも爾保崎であったことになる。だから現在の二尾や匂ケ崎の周辺だけでなく、もっと広く西舞鶴の市街地から長浜までを最低含んでいたことになる。たぶんのちの余部郷の範囲くらい、現在の中舞鶴と呼ばれる範囲を超えるくらいはあったのではないのかと思われる。 急いで次にニホに意味を考えてみたい。ニホドリがいたからか、仁王堂があったからか。 ニホは日本語としては超古い、超大切な言葉である。簡単に言えば赤い色(丹)の土のある所がニホ(丹穂)である。穂のように赤土が出ている所の意味。赤色は鳥居がそう塗られているように、古代にはこれがなくては社会が成り立たないような必須の物であった。縄文の時代からそうであった。だからこうした地名が残る所はすべて古いと見て間違いはない。小牧氏が詳しく書かれている通りである。 『丹哥府志』は、 〈 ◎和田村 【海上山長江寺】(浄土宗) 【観音堂】 【赤土】(名産) 赤土に四種の名品あり、一は赤なり、一は紅なり、一は薄紅なり、一は茶色なり、皆壁にぬる極て佳なり 〉 としているが、現在も山肌を削るような工事現場ではそんな色の土を見る。思わず車を止めて驚いて見入るような赤色をしていることがある。 水銀の朱なのか鉄の赤なのかは残念ながら素人目にはわからない。プロでもわからないらしくて、成分分析をしないと確かなことはわからないという。キメテは成分分析しかないが、誰もやっていない。しかし各地のニホ地名の例からまずここも水銀であろう。 この地の朱は少なくとも銅鐸の時代(弥生時代)は採取されていた。もっと古く縄文時代からも採取されていたと思われる。 ニホは播磨国風土記逸文に見られるように、播磨明石郡あたりが本場のようで、ここの神・ 舞鶴のニホにもそんな祭神を祀る神社がないものかと探すがない。和田に薬師さんがあるが、これなどもしかすると古くは爾保都比売であったかも知れないと推測するくらいである。 また和田には慈覚大師の創建と伝わる長江寺(真言宗)があった。慈覚大師・円仁なら天台宗かと思うのだが、彼は下野国の壬生氏の出身だそうで、なにがしかニホと関係があるのかも知れない。 壬生はミブと今は読んでいるが、京都の新撰組で有名な壬生村に引かれたかも知れないが、しかし本来は 丹後竹野郡の「室尾山観音寺神名帳」に正四位上の壬生神社。福井県大飯郡高浜町の木簡に木津郷の壬生国足。鹿原の金剛院を再建した美福門院の美福門はかつては壬生門といった。爾保崎に壬生氏がいても別に不思議でもないと思われる。 十二月栗神社。稚産霊神は豊受大神の親神とされる。ワクもムスも、魚がわいとるなどと今でもいうが、コケムスとかムスコ・ムスメのムスで、ものものが生成してくる盛んなさまを言っているのだと思われるが、生命の元のような生成誕生させる力のようなものをいっているのではなかろうか。豊受の親にふさわしい生命豊饒の神様と思う。 シハスは今の十二月よりも一月か一月半おくれであるから、今で言えば真冬に花が咲き実をつけるのだということになる。 どうみても世界樹の話の断片のように思われるが、爾保崎なら特殊な事情が加わる。水銀は不老長寿の霊薬とされ、細胞を活性化させて新陳代謝を増進する薬効がある、そうした地の木の実はうまいといわれるが、もし地下の水銀が適量であれば、そこにはえる木は真冬に花が咲き実がなるかもしれない。爾保崎なら、あるいはありそうな話というか、なさそうな話と考えるか、そこは人それぞれの受取り方次第。 そうした木々にとってもまことによい作用のある土地であったかも知れない。 爾保=水銀産地を補強するような伝承といえようか。 爾保崎の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 爾保崎 爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ潮水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チにほ鳥忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。 十二月栗神、祠無し。木を奉り神と称す。古老伝えて曰く、往昔、稚産霊神の植るところにして、歳毎の十二月朔日に、花生、二十日に至り実を結ぶ。正月元日に其実を取り、大神に奉る。今に至るも其例たがへず。蓋し是れ神験の奇乎。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(余部温故疏) 〈 十二月栗神社の由緒 長享戌申年九月十日大聖院智海写 丹後風土記残欠 十二月栗神社無祠奉称神古老伝曰往昔稚産霊神所植而歳十二月朔日生花仝二十日結実正(二字虫食)日取其実以奉大神至今其例不差蓋是神験之奇乎 丹後風土記は神亀天平年間(1389−1405)にできた。その一部は今も残って居る。此の残欠写は、長享戌申(二一四八)であるが、延喜式内(一五六一)には洩れてゐるが、それ以前の丹後風土記に記された由緒あるお宮である。 此のお宮は、初め長浜東端の海岸に祭祠されてゐたのであるが、昭和三年、東京瀧の川にあった海軍爆薬部が同地に移転した際、高倉神社神殿の右側にある六角型の石組の台に遷座されたのである。 此所は今もなほ松、栴檀、榎等が繁茂して、千早振神代ながらの俤が偲ばれる。古老の言伝へによると、往昔稚産霊神が諸国巡行の途次、この地にお立寄になって前記の巌上にお手づから、一本の小さな栗の木をお植えになった。 それから永い間、荒い潮風にもまれながら無事成育して大木となり、不思議なことに、毎年十二月朔日になると長い白い花が咲き、二十日を過ぎると立派に実を結んだのである。そこで、里人達は、毎年元旦に、其の実を採って大神に奉り、この木を神木としてあがめ、信仰の対象とする様になったのも誠にと思はれる。 補記 十二月栗神社は、又「せはま」様と云ひ、里人達にしたしまれ、境内は里の子供達の遊び場であった。境内の東側の浜は、遠浅の岩床であって、小浪が立つと瀬になったので、瀬の浜が「せはま」となったのでしょう。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(余部温故疏) 〈 高倉神社。 十二月栗神社。 此の神社は、今から四百八十年前の長享戊申年大聖院智海写の丹後風土記に、 往昔稚産霊神所植 而年十二月朔日生花 仝二十日結実、至今其例不差 云々 と記されてゐる五穀豊穣の神様である。 此の神様は、初め長浜海岸に沿ふて約一粁ばかりの東の端、今の京大水産学部の正門左側にあったが、昭和三年海軍爆薬部用地となったので、現在の所に遷在したのである。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録) 〈 高倉神社。… なお境内に八幡本殿と並び何と右横に「風土記」謂十二月栗社祠有、この旧地は海軍火薬廠辺の海岸に在ったが軍に接収されたため境内に移祠された。ちなみに又ぞろ先に同う十二月栗社の名号勘按すれば、大歳神かともされる、即ち十二月来シハスクる神。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(阿良須神社誌) 〈 豊受皇阿良須神社 四座式祈年 祭神四座五神は秘説 崇神天皇即位十年秋丹波将軍道主王神並白香森に勅祀 天武天皇白鳳十年九月三日里長春部連青雲別命柳原に奉祀 後陽成天皇御宇慶長五年九月望領主細川越中守忠興宮山に奉遷 丹後国加佐郡志楽村一宮に鎮座神殿乾面流造銅板葺 祭神豊受大御神 柳原宮例祭 祭日九月三日 多岐都姫命 左一座 相殿に座す三女の命は天照大神の幽契によりて 相殿神 市杵島姫命 右二座 御伴仕へて垂跡と給ひ即大神を斉ひ祀り奉りて 多紀理姫命 自からも衣食住の守護神として草生を幸へ給へる神とは白すなるへし 往昔柳原未深山の時姫此の土に天降り給ふも人しらす只柳原に顕れしは白鳳十年辛巳秋九月三 祭神 木花開夜姫命 殿内秘座 日夕暮に垂跡す姫命は別て子なき人の祈念に霊験ある事最顕著也因て世人の子なきものし当宮を信し臨産に当っては神殿下の砂を受て産屋に布けは平産すと依て子守宮と崇める由緒也 ○明治四年七月四日太政官達村社列格 ○明治四十年三月廿三日内務省達祭日九月三日確定 ○昭和九年九月二十九日内務省達郷社列格 由緒 豊受阿良須神社の祭神は伊奘諾尊の御孫稚産霊神の御子登由宇気大神に座ます伊勢外宮と御同体に座せり。亦の御名豊受姫命、豊宇迦能売命、若宇迦乃売命、倉稲魂命、御膳津神とも申し奉り、大和広瀬大社、伏見稲荷大社と御同神に座して、百穀発生の原素を司どり、天下の生民に衣食を供し、特に子なき人に懐妊の幸を授け給う御霊徳著しく、又、病の治療・酒造の法を教えて、守り恵みて憐れみ、みそなわし給う御神慮こそかしこけれ。 今其の御事歴を尋ねると、古老の伝に言う神代の昔大己貴、少彦名命国造の時にあたり、この柳原の地は谷間谷間の泥沼より、昼夜雲霧立ち込めて晴れたる時なく、名にしおう霧の海のすざましさ言う言葉なし。 命等これをみそなわして、「この土に神いますや」と言い給いける時、魚井の原より神光海原を照し、白糸浜の十二月栗(しわすぐり)の神の森に着き、たちまち月が浦の御崎にあたかも月光とも物とも見ゆる物現り出でたり。これすなわち幽契によりて、魚井の大神(豊受大神)が降臨し賜えるなり。 この時、天火明命出でて大神を田中の威光山に迎え、天道姫命をして、国家鎮護の大神として親しくこれを祭らしめ賜いき。 これより、一天心よく晴れ渡り、命等勇んでこの国土を経営し、強暴の神を征服し、邪鬼の者等を払い、天香語山命に大神の神饌の為に、月代の神田を柳原に定め、水田陸田を開き、天道姫命に大神の五穀の稲穂を乞い求め、広く生民に施し、耕耘種芸の法を教え、衣食の仕方を授け、又摂生療病の方法を示し、功なるや、二神高志の国に至り、天火明命を召して、「汝、此の国を領知すべし」と詔り給いき。 崇神天皇即位十年秋、丹波将軍道主王勅を奉じて、青葉山の土ぐも陸耳御笠(くがみみのみかさ)を征伐するに当り、天神地祇を祭りて神意を伺われると、神霊たちまち王によいお告を下された。それを倭得王に命じ、たやすく賊首を征服し、国土を平定し、鎮撫の結果を天皇に奏せられた。又、天火明命の孫・笠津彦、笠津姫に、柳原の神並の森に神社を建てて、豊受大神、三女神、木花開夜姫命を祭らしめ給う。これが当社の起りである。 〉 『舞鶴の民話2』 〈 自転車に乗って、長浜の坂を下る。今は住宅地が続き、高倉神社のところから更に東に行く。西に行けば海上保安学校となる。山すその広い道路を更にいくと、京都大学のビルがある。その先は国有地で、雁又といって戦時中は特殊潜航邸艇の基地で、海軍のつわものの夢の跡である。 現在自衛隊のへリコプター基地にしようかどうかの議論が市会でやかましく、海上自衛隊としてはどうしても基地にしたいところだ。 この京大の水産研究所のある当りは、むかし長浜といって、いくらかの家があり漁業、農業を営む人があった。そのむかしこのあたりを爾保といっていた。 ここには十二月栗の神があり、社はなかった、神と称する木を奉じていた。 古老が伝えて話してくれる所によると、むかし、稚産(ワツムス)神の植えるところの木があり、毎年十二月一日に花が生じ、二十日に実をならした。 正月元旦に其の実をとり大神に供えていた。 この神社は今から五百年あまり前の長享戌申の年、大聖院昔海写の丹後風土記に記されている。しかしながらその栗の木もいつのまにかなくなり、京大の用地となってしまった。 一説には、その神は現在の高倉神社にあったというが、どこをさがしてもそれらしきものはない。長浜の古老に聞くが、その話をいってくれる人もない。風土記にかかれているのだからあったのだろう。神のわざの不思議なことだ。 〉 《舞鶴の民話3》 〈 ぬれさぎさくら(和田) 加津良より海沿いにいくと老人に出会った。 「このあたりに長江寺があるのではないですか。」とたずねると、 「えゝありますよ。このごろは尋ねる人もなく無住ですが、あそこの道より南へ坂道を登っていきなさい。すぐですよ。」 すぐと聞いて坂道を自転車をおしながらいく。山すその道、横はたんぼ、畑である。自転車を山側におき、歩いてあがる。紅葉の美しい楓樹がみえた。もう少しだ。坂をくだる和田の古老に出会った。顔見知りだ。 「先生やな、この寺にこられたのか。」となつかしそうに話しかけられた。「えゝ、ここにぬれざぎの桜があるときいたので。」 いい寺だ。昨年和田の人たちの浄財で本堂を新しく造営されたそうだ。古老ときり株に座って寺のいわれなど聞くことにした。 長江寺はここから谷をへだてた大谷の山腹、五老岳の東南の山麓にあたるところにあったが、戦時中の軍用地として買収されて、ここに移転したということだ。 開山は慈覚大師で、慈覚山長江寺という。 仁明天皇承和三年(今から千五百年前)、遣唐使藤原常嗣とともに慈覚大師が唐に使わされて、楊州海陵県に着き、所々巡錫して、天台真言の教えを学んだ。ある時、十一面観音像をほり海中に投じました。唐に留まること十年にして、無事承和十四年に日本に帰国され、清和天皇貞観中に山陰を巡歴中、和田の長江の浜で一夜をすごされました。その夜、三尊の阿弥陀如来が大谷山の麓へ降臨される夢をみられ、大師はその霊夢は、彼の地を霊地にせよとのお告げであると、翌朝おもむかんと、浜辺に立つと、不思議なことに足もとに木片があり、取りあげると、唐にあるとき自分が刻んだ観世音像で海に投じたものであった。 いよいよ奇なり、昨夜の夢、彼の地に開基せよとのおつげ、急ぎ大谷の山腹にいき、漂着せる自刻の観世音像を本尊とし、本堂をたて観世音像を祠られた。東から流れてきたので、東向観世音大菩薩として、和田はもちろん近郷の人たちの信仰の的になりました。その後七堂伽藍を営み、隆興をきわめたが、慶長年間、小野木重勝が細川藤孝を田辺城に攻めし時、寺に援兵を請いしが、住職がこれに応ぜず、重勝おこって寺を焼き打ちにした。仁王門だけ残ったが、丹波の観音寺にゆずりました。元禄七年宗寿法印が再興計ったが果たさず、文化四年浄土宗の僧が一堂を建立した。旧境内には桜樹、銀杏、老杉二本あり。 桜樹を濡鷺の桜といいます。開祖普明国師が長江寺に参詣された折、桜の杖を立てておかれたのが根を生じ成長したという。美しい花が咲き、枝がたれさがり、雨に濡れた白鷺が羽をひろげている姿に似たるによって、ぬれさぎの桜といわれている。 〉 『郷土と美術91』(88.1) 〈 金工史の視点から・古代丹後の伝承地名を歩く・小牧 進 … 朱砂の女神ニホッヒメ 『播磨国風土記』をみると、神功皇后が新羅を討ったため外征の途に就こうとされたとき、播磨国をかためた大神の子としてニホツヒメが出現。「丹波(浪)(になみ)をもって証討せよと教示をうけた。 そこで神功皇后は、ニホツヒメの教示のとおり赤土の神通力によって新羅を平伏ざせ無事帰還することができた。よって神功皇后はニホツヒメを紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に鎖祭したと傳えている。 この峯は、今日の和歌山県下、富貴村東方の藤代岳だといわれる。このニホツヒメのニホは、朱砂のことであるが、松田寿男氏によるとこの藤代岳のふもと一帯は、大和水銀の鉱床群帯の真只中にあってニホツヒメは、水銀採掘者が守護する女神であったと説いている。 松田寿男氏が主張されるこのニホツヒメが水銀のニホにかかわる説にしたがうと『丹後風土記』にもこの爾保にかかわる地名由来がある。 この爾保(ニホ)は、今日の舞鶴市街をほぼ一望できる五老ヶ岳のふもとの最南端。舞鶴湾に望んだ二尾がこれにあたる。この二尾の「勾ヶ崎」から昭和十四年のこと三遠式銅鐸が発見された由緒をもち爾保地名はふるい。丹後風土記によると爾保ヶ崎の由緒についてつぎの風変りな傳承をのべている。 昔、日子坐王が、青葉山(舞鶴)にいた土クモを征討したさいニホの地で祭っていた裸のツルギ(剣)が海水(潮)に触れてサビ(銕精)が生じた。 ところが、そのとき双び飛んできたニホ鳥が、そのツルギに突き刺され、ニホ鳥は皆、死んでしまった。そしてニホ鳥が死んでしまった結果、さきほどまでサビていたヅルギが忽然とよみがえってサビが消え、もとのツルギの姿に立ちかえった。それで「ニホ」という地名である。 ここでは、きわめて不合理で謎めいたニホ傳承をのべている。この物語りを松田寿男氏をはじめ、鬼の研究家若尾五雄氏らが日ごろ主張する金工史の視点でこれをキャッチするとこの物語りは、(1)のサビたツルギ (2)ニホ鳥 (3)サビが消えたヅルギ (4)ニホ(爾保)の四者が骨格となって構成されていることがまずわかる。 サビたツルギ 日本神話がいう三種の神器が、鏡、勾玉、ツルギ(剣)の三セットであることは誰でも知っている。なかでもツルギが古代王権をはじめ、地方首長にとってその支配権を代表するシソボルであることも知っている。久美浜町の湯舟坂二号墳から出土した黄金のツルギ、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した銘文(百十五文学)のツルギ、そのいずれをとっても支配権のシンボルであったことにかわりない。 その支配権のシソボルであるツルギが、海水に触れサビが生じたという背景は、なにものかの力関係によってニホの地の支配権が侵され一時的に奪取されたことを暗示している。海水にふれサビがでたというのは支配権の喪失を語るための比喩であろう。 ニホ鳥 爾保地名の扉をとくカギはニホ鳥にかかっている。ニホ鳥とは一名カイツブリの海鳥をいいこのニホ鳥を地名のニホにかけた語りであることは誰の目にも明白だ。だがこの場合「ニホ鳥」を容易に切り捨て去る訳にはいかない。 ふるくタタラ師と呼ばれる産鉄民たちは、素材を採り尽くし、また良好な砂鉄の素材が豊富にあっても燃料が不足すると一定の地にとどまることなく他郷への移動を余儀なくされた。木器を造る木地師もまた同様で、その様を「飛ぶ」とよんだ。 松田寿男氏が、ニホとは水銀産出を祈る神で朱砂の代名詞だと述べている以上。すると愛び立つニホ鳥とは、一群の朱砂採掘の民(土クモ)がニホ鳥と表現されていることを暗示している。 ニホの地のツルギがサビたという語りも、朱砂採掘の民(ニホ鳥)によってその支配権が一時侵奪されていたことを言いあらわしている。 すると双び飛ぶニホ鳥が、ツルギに突き刺さって死んだという背景は、日子坐の軍事力前にニホ(二尾)の地の朱砂採掘の一群の民がこの地で征討されたことを物語っている。 さらにニホ鳥が死んだためツルギのサビが忽然とかき消えもとの姿にかえったという背景も、ニホの地の首長支配権が復権したことを物語っていると考えるとほぼ物語りは氷解する。 それにしても丹後国風土記の採録者は、一体誰であったか不明であるが、蟻道といいニホといい実に巧妙な語りを設定したものだ。 ところで肝心な問題は、地名のニホだ。このニホは、ニホから二尾へ、さらに二尾から勾ヶ崎の「ニョウ」へと今日まで変化をしている。現在舞鶴市には、この二尾と、女布(ニョウ)とかけはなれてふたつの地名集落が存在するが、タクシーの困惑する混同地名の一つであるという。 松田寿男氏の研究によると、 1山口市 仁保町 2広島県 仁保町 3岡山県赤磐郡山陽町 仁保 4兵庫県三原郡南淡町福良の西仁尾 5高知県土佐山田 仁尾 などのニホ、ニヲ地名の各所からそれぞれ、水銀が検出された実証例がある。舞鶴市のニホ、二尾もその例外ではなかろう。 こうしたニホ、ニヲ地名の特異性と風土記の語りをダプラせてみつめると、西舞鶴のニホ(二尾)は、古代水銀の産地であったと察しられその確立は高いといわなければならない。 古代水銀と土蜘蛛 話を土クモ傳説にもどすと、豊後国風土記にみる土クモと古代水銀、大江町血原と水銀とのかかわり、舞鶴市のニホ、二尾と土クモ。いずれにしても土クモ傳説と、古代水銀産出地との関係はその傳承濃度とその確立が高い。このパーセンテイジは丹後と豊後だけではない。 舞鶴市の大浦半島の大丹生で、多年丹生地名を研究されている村田政彦氏の教示によっても、日本の小京都といわれる飛騨高山市。この近傍にも丹生川村があって土クモ傳説が濃厚に残存するという。 ここで国語・国文学のズブの素人の私がでる場ではないが、土蜘蛛の漢字の構成を分解すると、虫・知・朱で表わされており、朱を知っている虫、となり、つまり土蜘蛛とは、朱砂採掘民をもともと表現する言葉であったのだ。こうした理由で土クモと水銀傳説との傳承濃度が当然ながら高いわけである。 … 〉 《播磨国風土記逸文》 〈 爾保都比売命 播磨の国の風土記に曰はく、息長帯日女命、新羅の国を平けむと欲して下りましし時、衆神に祷ぎたまひぎ。爾の時、国堅めましし大神のみ子、爾保都比賣命、国造 石坂比売命に著きて、教へたまひしく、「好く我がみ前を治め奉らば、我ここに善き験を出して、ひひら木の八尋桙根底附かぬ国、越売の眉引きの国、玉匣かがやく国、苫枕宝ある国、白衾新羅の国を、丹浪以ちて平伏け賜ひなむ」と、此く教へ賜ひて、ここに赤土を出し賜ひき。其の土を天の逆梓に塗りて、神舟の艫舳に建て、又、御舟の裳と御軍の着衣とを染め、又、海水を攪き濁して、渡り賜ふ時、底潜く魚、及高飛ぶ鳥等も往き来ふことなく、み前に遮ふることなく、かくして、新羅を平伏け已訖〈て、還り上りまして、乃ち其の神を紀伊の国管川の藤代の峯に鎮め奉りたまひき。 〉 関連項目「二尾・水銀地名」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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