大江山(おおえやま)
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大江山 作詞 石原和三郎 作曲 田村 虎蔵 むかし丹波の、大江山、 鬼どもおおく、こもりいて、 都に出ては、人を食い、 金や宝を、盗みゆく。 源氏の大将、頼光は、 ときのみかどの、みことのり、 お受けもうして、鬼退治、 勢いよくも、出かけたり。 家来は名高き、四天王、 山伏すがたに、身をやつし、 険しき山や、深き谷、 道なき道を、切り開き。 大江の山に、来てみれば、 しゅてんどうじが、頭にて、 青鬼赤鬼、集って、 舞えようたえの、大さわぎ。 … 京都府福知山市大江町 京都府加佐郡大江町 京都府加佐郡河守上村 2 |
大江山の概要《大江山の概要》 「♪昔、丹波の大江山、鬼ども多く籠り居て…」と歌われる、その丹波の大江山。 三歳の子でも知っているといわれる、赤鬼・青鬼どもの山である。 鬼は人間界にはいくらでもゴロゴロいるし、あなたの心の中にも一匹くらいは隠れ棲んでいるかも知れない、人とは実はそんなコワ〜イ生き物でもある、どんな人とも無縁のものではない、この山にも昔は群れでいたというのである。 大江山は狭い意味では大江連山の主峰・ 平成19年8月3日には、新規の国定公園としては17年ぶりの誕生となるという「丹後天橋立大江山国定公園」 となる。いよいよ恐怖の鬼の住処らしくなくなってきて明るい山になってきている。 (大江山登山) 大江山はあちこちに登山口があるが、大江町側から宮津街道(府道9号線。綾部大江宮津線)を外宮・内宮と来て、二瀬川渓流沿いに登るのが一番鬼の山・大江山らしい風景があるし、また楽な登り方になるかも知れない。 河守鉱山跡の「鬼の博物館」から、 それから北へ尾根伝いの縦断コースの道に沿って鳩ケ峰(746m)、さらに鍋塚(763m)をへて鬼の岩穴へ(ここまで全部で2時間少々)。ここからスキー場へ出るともとの宮津街道へ出ることもできる。この道は変化にとみ、土地が痩せているためか、すぐ下が岩のためか低木しかなく、丹後・丹波、日本海を眼下に一望にする大眺望が展開して、ただただ酔うばかりと定評がある。 また、鳩ヶ峰と鍋塚の間の鞍部、尾根筋に「休憩所」があるのだが、そこまでも車で行けるのでこれも便利である。 宮津側なら普甲峠のスキー場から航空管制塔の所まで車で行ける。鬼の岩屋のすぐ近くで、これも便利である。 これらは登山と呼ぶかハイキングのようなもので、不精して登りたい人向けである。 →鳩ヶ峰から鍋塚へ続く尾根通り。学校の遠足とか、にぎわう。 新国定公園とか観光で売り出す魂胆にふさわしいほどかは別としてまあまあ尾根通りを中心に種々の施設も整えられてきている。 大江山は広い意味では、大江山連峰の全体を指していて、南から赤石ヶ嶽(736m)、千丈ヶ岳、鳩ヶ峰、鍋塚までを呼ぶ。南の 大江山は鬼の伝説ばかりで有名だが、そうした歴史的文化的な景観。国定公園にもなっているように優れた自然景観。また人と自然との関わりにより形成された里山などの景観がかろうじて残された山である。大江山麓の大江町は全町で5000人台の人口、新たに今年小学校へ上がる子の数は恐らく50人くらいではなかろうかと推測されるが、未来に伝えたいこうした貴重な景観がいつまで保ち続けられるものか心配にもなってくる。別に偉そうに言うのではないが、大江町全町で舞鶴あたりの大きな小学校の半分の人口、与保呂校下の倍の規模でしかない(与保呂校は新入学生は毎年30人までで、それに基づいての推測です)。 地質学的には大江山一帯は超苦鉄質岩と呼ばれる岩でできている。苦土はマグネシウム、鉄という字があるように鉄分が多い、重い黒い岩石で地下のマントルの使者と呼ばれ、4億6千万年前に作られたという。 「大江山一帯は古生代後期に形成されたと考えられる変質古生層地帯で、内宮から仏性寺にかけては塩基性の火山灰が固まった輝緑凝灰岩や角岩などが母岩であるが、ほとんどが変成してきわめて固い頁岩状の岩になっている。しかし鬼ヶ茶屋以北は緑色がかった橄欖石がほとんどで、大部分が蛇紋岩に変質し、大江山蛇紋岩地帯といわれる。橄欖岩の隙間に板状に含銅硫化鉄鉱床(黄銅鉱・磁硫鉄鉱など)が存在する。昭和初期から採鉱が続けられたが、昭和43年閉山した。また加悦谷側ではニッケル鉱を採掘していた。」(『京都府の地名』) 「岩石の年代は約四・六億年前(古生代オルドビス紀)で、日本で最も古い時代のものです。また、同じ性質の岩石が兵庫県出石や関宮地方にもみられ、舞鶴帯北縁に沿って細長く分布しているのです。日本のような造山帯に帯状分布するものはオフィオライトとよばれ、海洋地殻の下部を構成する岩石だったのです。海洋プレートの移動によって海洋地殻が大陸にもぐりこむ際オフィオライトが断層によって岩石中にはさみこまれ固結した状態のまま押し上げられたものが地表に現れているといえます。 約四・六億年前、パンゲア超大陸より一つ古いロドニア大陸が分裂をはじめた時、揚子地塊縁辺での沈み込みの事件が記録されているのです。その頃にはヒマラヤに匹敵する山脈がそびえていた可能性があります。大江山岩体の一部は蛇紋岩に変わっている部分がみられます。これは地下深くに押し込まれた際、水と圧力によってかんらん石が蛇紋石に変質したもので、樹脂状光沢をもつ暗緑色、暗灰色の岩石です。地表付近では風化して褐色粘土質の土壌になっています。この土にはリン、ニッケルなどが集積しやすく、大江山鉱山は風化層中のニッケルの濃集部を地表から露天掘していたのです。また、大江町の河守鉱山は銅や銀を含む石英鉱脈を大量に坑道掘していました。」(『前方後円墳とちりめん街道』) 大江山は遠い遠い大昔の大ヒマラヤの小さな小さなカケラのようなもの。長い長い風化に曝されて、大ヒマラヤもこんなお饅頭のような形になってしまう。土饅頭の連続。墓場に土饅頭の墓碑を築くのはこんなことなのかも知れない。すべての形あるものがやがては行き着く最後の姿かも知れない。 マントルから出た物は金属分が多いので、気も遠くなる時間の流れのなかで、それら岩石が風化分解し、さらに風水作用で選別蓄積濃縮されて、人と鬼どもはそれら金属成分の多い所を鉱石と呼び、古くから利用してきたわけである。大江山に鬼どもが棲むのもこうしたわけというのが最も説得力がありそうに思える。 大江山酒顛童子伝説は、「丹後の伝説7」など参照。 大江山は修験道の霊山で、千丈ヶ嶽の「せんじょう」は、行場であるような高山の頂上を意味する修験道関係の「禅定」という言葉であるという。鬼嶽稲荷のある千丈ヶ岳は特にそうでなかったかと思われる。こうした修験山伏もまた金属と関わっている。大江山伝説もまた彼らによって広められたかも知れない。 ↓ウカツにも電池切れ。電池を買って再度チャレンジの予定。国定公園・大江山連山のほんの一部だけです。 大江山の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 【二瀬川】(中の茶屋の次是より内宮へ一里余既に加佐郡に属すされども前段の次なれば爰に合せ) 二瀬川といふは二川合流の處なりよって名とす。一は千丈の瀧より流る一は千歳嶺より流る。在昔源頼光夷賊征伐の日於赴人の死骸川に流るゝを見る、よって夷賊の住處既に近を知る、是より西に向ひて大江山に登る。 【千丈ケ原】(二瀬川より西へ入) 千丈ヶ原は人家僅に八九軒斗なり、相隔てゝ疎に住す。死人ある時は皆集りて夜を守る、さなければ亡者失ふ事あるよし、如何なる訳にや。 【千丈ケ滝】 瀧の広サ三間餘凡二三十間斗岩にそふて流る、瀧の下に不動堂あり。在昔源頼光夷賊征伐の日一老婆の流に於て血に染みたる衣を洗ふ、頼光之を見て夷賊の所在を問ふ。 【五入道の池】 池の広サ凡四五十間四方此處奇径の説話多し、奇跡談といふ書に此池の事を載せて五入道といへる、此池に生たる魚の名なりとて其図をも出せり、昔は斯の如さものありしや今はなかりし。 【大江山】(一名千丈ケ嶽)。 羅山文集云昔叡山ニ一童アリ、僧徒其美ヲ愛ス、酒ヲ勧テ一歓ニ交ル。時々人…略…。 兵家茶話云。酒顛童子といふもの丹波の国大江山に住したると語り伝ふ。然共慥と記したるものなし、大江山今は丹後の国に属して宮津領となる。童子屋舗は大江山千丈ケ嶽に在りて七十間に40間の礎石残る。此屋舗跡より百十間斗隔て池あり、十三間にして深サ八尺余り、又屋跡より山道廿五町斗行て岩窟あり窟の深サ七間程もあるべし、其先はいか斗あるや知りがたし、広サ四間四方程あり、屋敷の左に三間に五十間の馬場あり、右の脇に深サ一丈斗の空堀あり、屋舗より十三町程て二瀬川あり、又左え一町程て不動の滝高サ二丈斗下に七間に十間斗の石あり、屋敷跡迄凡十七八町。 武家評林云。正暦元年三月源頼光丹後国千丈ケ嶽に於て夷賊を誅伐す、既にして渡辺綱を以其由ょ国司経教卿へ注進す、国司経教卿自から五百騎を率ひ岩窟を実検すといふ。 前太平記云。大江山の兇賊既に誅伐の後其賞として源頼光肥前守に任ぜらる、保昌は丹後守に補せらるゝといふ。 安永四年乙未六月近衛殿御虫干の日三井寺の院家?鷲院権僧正適ゝ参上して、御古記を拝覧する事を得たり。其中に源頼光の事ありよって私に抄録す、後に是を書写して其実兄豊泉源五右衛門え示す。源五右衛門より伝写して今に至る其文如左。 一、渡辺右舎人綱酒田主馬公時碓井靫屓掾貞光卜部勘解由判官季武藤原保昌源朝臣頼光蒙 勅命近日趣丹州大江山早討亡朝敵欲令帰路宜頂執達。(原書討亡の二字朝敵の下にあり路の字の下に条字あり達の字下に侯あり今侯条の二字を省き討亡の顛倒を正す) 一、源頼光平井保昌臣等願之通旅中山伏装束御免之御礼。 家翁延庵先生云。古より鬼と称するもの往々少からず、吾丹後に於る昔に在ては麿子皇子の誅する三上山の鬼中古に在ては源頼光の戮せらるゝ大江山の鬼是なり。他邦に在ては鈴鹿の鬼羅生門の鬼如斯の類挙て数ふべからず。永禄天正の頃鬼某鬼某といふは古の所謂鬼と異り保平の頃悪某悪某といふがごとし、蓋強勇の名なり。古の所謂鬼といふもの髭髪剃らず、言語通せず衣服人に異り、飲食を恣にして人を殺すを事とせず、好で人民を害す。いかなるものや詳ならず、或曰古の鬼と称するものは蓋日本の人にあらず、蛮夷の諸海浜より遂に陸に上り大に賊を行ふ所謂海賊なり、是以海国に最多しといふ。後に集古十種の載せたる大江山より獲たる所の刀剣の図を見るに蓋日本の刀にあらず、又成相寺に納まる頼光の書に夷賊追討とあり、竹野斎宮の緑記に麿子童子を北狄守護神と崇め奉るとあり、是等を以て参考にすれば二の説是に近しとす。源頼光大江山の夷賊を追討せしは皆世の知る所なり、されども正史に之を見ず、由是之を観れば史に泄たる事も多かるべし、中には惜しむべき事も定而あるべしとぞ覚ゆといふ。 百人一首 大江山幾野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 (小式部内侍) 日本史云。小式部内侍即道貞之女也亦仕二上東門院一(歌仙伝十訓抄)幼善二和歌一時人謂二内侍一有二佳句多一是其母和泉式部之所二潤色一也、母式部従二保昌一趣二丹後一既而后会二禁中一有二歌会一中納言藤原定頼卿曰丹後行季還来否願二内侍一労思耳於レ是小式部即起採二定頼?一賦二和歌一首一乃チ大江山之歌也、自此才名大著(著聞集) 愚按ずるに小式部のよめる大江山は丹波の大江山今老の阪といふ處なりと往々註者の説あり。実は左もあらんか知らねど丹後の大江山も名高き地所なれば天の橋立に対して穏なるに似たり。今大江山の麓に生野大明神あり、喜多村といふ處の氏神なり。喜多村の古名生野といふよし、是等も参考の一つにならんよって記す。 【鬼の岩窟】…略… 【鬼の屋敷跡】(同前) 〉 《大江町誌》 〈 大江山 大江山は、丹波丹後の国境にそびえる当地方切っての名山である。その姿は美しく雄大で、古くから伝説の山、信仰の山、交通の要路、レジャーの山として親しまれてきた山であると共に、動植物や地質の面でも極めて興味深く学術的にも貴重である。 「大江山」は、大江山連峰の主峰千丈ヶ嶽・鳩ヶ峰・鍋塚・鬼穴と続く一群の山塊を総称する場合と、単に千丈ヶ獄を指している場合とがある。 「丹後風土記残缺」・「夫木集」・「丹州駅志」・「西北紀行」(貝原益軒)・「秋山の記」(上田秋成)・「太邇波記」(北村継元)など、大江山を記した古書は数多くある。これらには、「与謝ノ大山」「与謝大山」「大山」「大江山」「千丈嶽」「御獄」などと書かれているが、丹後風土記残缺の「与謝ノ大山」が最も古く、江戸時代の「西北紀行」や「秋山の記」では「大江山」である。 この山には、二つの鬼退治伝説がある。その一つは、用明天皇の第三皇子麻呂子親王のそれであり、他の一つは、中世のお伽草子「酒呑童子」や、謡曲「大江山」などで知られる源頼光の鬼退治伝説である。これら伝説にまつわる伝承の地が数多く残されていて興味深い。 寺屋敷には古刹普甲寺跡があり、千丈ヶ嶽の頂上に近い山腹には、鬼獄稲荷神社が祀られている。大江山はまた、山岳信仰修験道の山でもあったのである。 古くからこの山の東には元普甲峠があり、西には与謝峠が開通していて、この地は、丹波・丹後を結んで都に至る陸上交通の要路でもあった。宮津市小田から辛皮に通じる元普甲峠は、遠く平安・中世を通じての公路であった。江戸時代の初期京極氏の支配時代に、岩戸(がんど)、中ノ茶屋、仏性寺を通る普甲峠が新しく開かれた。 〉 《図説福知山・綾部の歴史》 〈 鬼に横道なきものを ●大江山の酒呑童子伝説 「昔丹波の大江山 鬼ども多くこもりいて 都に出ては人を喰い 金銀や財宝を盗みゆく」 童話「大江山鬼退治の歌」の一節である。年輩の者には懐かしい歌である。大江山は、「酒呑童子」という鬼を、源頼光や、昔話「足柄山の金太郎」こと坂田公時らが退治した山として広く知られてきた。 大江山一帯には、酒呑童子や頼光、それに金太郎の伝説がたくさん残っている。 福知山市では、大江山の西南麓にあたる雲原・金山地区、それに三岳地区に集中している。頼光が鬼退治を祈願した御座岩、頼光一行が書写した大般若経、金太郎が斧で彫った仏像のほか、鬼の首塚もあり時に香煙が立ちのぼる。山頂近くの山間には酒呑童子の供養碑もあり「酒呑童子断迷開悟」と刻まれている。天座には、酒呑童子の討たれた日は村中仕事を休み、刃物を使わず、大般若経をあげて酒呑童子を弔う「鎌止め」という風習まであった。雲原の鬼童子伝説も興味深い。悪者イメージの酒呑童子が、これらの地では親しみをこめて、同情の眼で見つめられているのが面白い。 一方、近くの御勝八幡宮で二五年ごとの大祭に演じられる「紫宸殿田楽舞」は、頼光が戦勝の加護に感謝して奉納したのが始まりと伝えている。川北の頼光寺も鬼退治のゆかりの寺である。 大江町側にも、酒呑童子屋敷跡・頼光の腰掛岩・鬼の岩屋・公時の斧研石、それに頼光愛用の水筒、酒呑童子の盃などロマンあふれる品物まで残る。鬼ケ茶屋の「鬼退治襖絵」も見事なものである。 綾部市では、私市にある頼光の休み石・物部新庄の長楽寺、三和町では頼光一行が寝ずに一夜をあかした不寝の森など、伝説はかなりの広がりをもっている。 酒呑童子の話は、伝説というより物語の成立の中で生まれたもので、南北朝時代初期の作品である「大江山絵詞」(大阪府池田市・逸翁美術館蔵)が最古の伝本である。以来、謡曲「大江山」・御伽草子「大江山」に受け継がれ、広く民衆の中に流布していった。江戸時代には、小説や歌舞伎、文楽、それに錦絵版画として人気を集めている。 物語の中で、大江山が明確な形で鬼退治の舞台となるのは御伽草子以降であるが、当地の酒呑童子伝説は、こうした酒呑童子話の流布する中で、先人たちが夢とロマンを託して育てていったものであろう。この地に伝説を運び定着させていったのは修験者たちだったのではないかとする意見が有力だが、そうした伝説を共有することによって、地域の精神的な絆を強め合おうとしたのではないか。 酒呑童子は、その最期に「鬼に横道なきものを」と叫んだ。横道とは、悪と知りつつ悪事を働くことである。討たれゆく鬼に、人間をののしる言葉を吐かせているのは何故だろう。(村上政市) 〉 《大江町風土記第三部過疎のあらし》(1973・大江町教育研究会編) 〈 大江町の自然 大江山は、赤石岳にはじまり、主峰千丈岳、鳩峰、鍋塚、鬼穴をへて普甲峠に至る大江山連峰と、仏性寺地区へのびた支脈及びその山ろくの内宮山、岩戸山を含めた複雑な山であり、動物植物の種類もゆたかです。この山は、そのほかにもいろいろと興味深い山なのですが、ここでは植物を中心に述ぺてみようと思います。 大江山の大江町側には、内宮山・岩戸山・稲荷山の三つの自然林がありますが、この自然林は、府下でも数少ない貴重なものです。ぜひ大切に保存しなければなりません。又鬼茶屋から千丈原、千丈岳頂上、普甲峠にかけては、大江山蛇紋岩植物といわれる特有の植物が生育しています。 ●内宮山・岩戸山自然林(暖帯植物林) 内宮山は、標高二一九メートル、岩戸山(日うら岳)は四二七メートルで、共に秩父古生層の山です。内宮山は、元伊勢の境内一帯から関西電力内宮発電所のダムまでの地域であり、岩戸山は、岩戸神社から五十鈴川の谷深い流れをへだてた急な斜面をもつ山です。どちらも神域でしたから、やたらに木をきられることもなく、植林もされをせんでしたので、小範囲ではありますが、自然のままに残ってきたのです。この地方では唯一つの暖地植物が残っている場所として、学問の上でも風致上でも貴重なところなのです。 スギ・ヒノキ。シラカシ・アラカシ・ツブラジイ・モミ・カエデ・イヌンデなどの大木が昼でもうす暗くおいしげっていてその中に ヨコグラノキ・メグスリノキ・オオバタロモジ・オオウラジロノキ・ソガイコマユミ・コショウノキ・ユクノキ・コンテリギ・バイカツツジ・ハナカガン等 草木では イナモリソウ・アツミカンアオイ・ムョウラン・サイハイラン・オオハンゲ・オオツヅラフジ・コケイラン・ヤマホウズキ・ハダカホウズキ・オオキヌタソウ・ツチアケビ 等 シダでは ウラボシノコギリンク・シラガシダ・コタニワタリ・ハカタシダ・サイゴクベニシダ 等 樹上植物では ヨウラクラン・クモラン・シシンラン・コウヤコケシノブ・ムギラン・オジヤグジデンタ・サジラン 等 などの植物が生育しています。 ●大江山蛇紋岩地帯(大江山蛇紋岩植物) 大江山蛇紋岩地は、橄欖岩の変化した蛇紋岩でおおわれている地域で、土地が極端にやせているので、木は上にのびずせが低くなっています。ここには、ヒュウガミズキ・タンゴグミ、マルバマンサクなどの大江山蛇紋岩植物と呼ばれる特有の植物が生育をしています。これ等蛇紋岩植物は、力の強い植物にその生育の場所をうばわれて、ぎりぎりのところで生き残っているものなので、環境が少しかわってもあっという間にねだやしにたってしまうおそれがあるといいます。 ●稲荷山自然林(温帯植物林) 標高六○○メートル〜七○○メートルの稲荷山附近一帯は、植物の垂直会布からいえば温帯植物帯にはいります。ここも、稲荷さんの神域であるので、人工の全くはいらない自然林として残ったところです。天にそびえるブナの林にトチの大木はみごとです。 ここでの重な植物は、 ブナ・ミズナラ・カツラ・トチノキ・サワグルミ・ムシカリ・ハウチワカエデ・コミネカエデ・ユキザサ・クロタキカズラ・チシマネコノメソウ・フウリンウメモドキ・ヤドリギ・オシダ・ヤマソテツ・ユズリハ・ナガバノタチツボスミレ・オオヒロハノタマツリスゲ・ヒゴスミレ・ハクウンボク・タイミンガサ・スハマソウ などがあり、大へん興味深いところです。 ●頂上から尾根 赤石−頂上−鳩ケ峰−鍋塚−鬼穴−普甲峠の尾根づたいの道は、展望がよく大江山らしい高原の感じを味わうことができます。そして、尾根の草原や雑木林の中には、 ムラサキ・オキナグサ・コウリンカ・ヒメモチ・コゴメウツギ・レンゲツツジ・キユウシユウコゴメグサ・オオナンバンギセル・ヒゴスミレ・ミヤマシグレ・ムカゴソウ・フシグロ・サンインヒキオコシ・イワカガミ・タンゴグミ・エゾイボタ・メギ・ホツツジ・オオバギボウン・キクアザミ・ヒメヒゴタイ などが、風雪にたえて季節を待ちかねたように、可愛らしい花や実をつけます。 山の家と大江山 河守鉱山が閉山になったのが、昭和四十四年の春。それ以後、山の中復まであった社宅の、赤や青のトタン屋根もほとんど取りこわされて、見るからにさびしい山となってしまいました。 その当時、小学生だった私は、友だちが、一人二人と移転していくのを、ただ、悲しく見送ることしかできませんでした。 間もなく、そのあとを利用して「大江山の家」という名前で、大江町経営のいこいの場所が開設されるようになりました。設備も決して立派ではありませんが、澄んだ空気に、濃い緑が、りっぱにその役目をはたしてくれています。 主に、夏の利用で、都会の子ども会を始め、キャンプや林間学校などに、中高生、青少年のクラブなどと、毎年利用者がふえています。 山の家開設中、食事などは、地元婦人会でやっており、母も、隣近所のおばさんと、いそいそと出かけます。今年の夏も活気づくことと思います。 山の家の利用者で、大江山へ登山される人が多いようですが、昨年の夏休みに私も登山をしました。 しかし、途中、ゴミが散らかされたりして、せっかくの自然美を、こわすような場面を見つけました。みんなで注意をしてほしいと思います。 (大江中3年 谷口暁美) 〉 関連項目「元伊勢2」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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