丹後の伝説:酒顛童子伝説
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大江山酒顛童子伝説

丹後の伝説:7集

大江山伝説、酒呑童子伝説

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びんささら

【丹波の伝説】

『天田郡志資料』に、鬼瓦(鬼の交流博物館)
びんさゝら
           金山村

 今から凡そ千年程昔、一條天皇の正暦元年の春、美しく咲いた桜の下枝から、一つ二つと花びらが散り初める頃、突如、丹波の国から武部といふ男か都へ上り、
「丹波の国に酒顛童子といふ悪者が、鬼共多く引つれて大江山にたてこもり、金銀財宝をかすめ、女をさらひ悪事の数々、今に都へも姿を表すことでせう、何卒早く征伐をして下さいませ。」
と注進しました。桜かざして遊ひたわむれてゐた大宮人たちは、どんなに驚いたことでせう。
「酒顛童子が来る」「鬼がか出る」「娘よかくれよ」「子供を外へ出すな」「宝物を床下にかくせ」
とまるで湯のわきかへるやうなさわぎです。この事がいつか天子様のお耳に入りました。天子様は大層御心配遊ばされ、重臣とおはかりになった上、その頃、日本一の源頼光といふ武士をお召になって、
「丹波の国、大江山の岩屋に悪い鬼共多くすみ、近国の良民をいぢめてゐるさうだ。お前はこれからその悪鬼を退治せよ。」
と仰せになりました。そこで頼光さんは、大軍を従へて、花咲く都を後に、大江山をめざして、雪どけの丹波路へ向ひました相手は名高い酒顛童子、神通自在の魔力をそなへ、しかも家来には雲つくやうな赤鬼.青鬼……少しの油断も出来ません。

 それで大軍を塩津峠にとゞめおき、鬼共か都へ逃げいやうに守らせ、頼光さんは腕のすぐれた渡辺の綱や、坂田の金時等六名の勇士をえらび、山伏姿に身をやつして、岩屋へ近づくことにしました。頭に兜巾をいたゞき、身には鈴懸をまとひ、冑.甲、太刀等を入れた厨子を負ひ、金剛杖を手にして、法螺の音も勇しく、峠を下って行きました。

 由良川を渡り、そのかみ丹波道王命の媛のなくなられたといふ是社の宮を過ぎ、瘤の木から春まだ浅い花浪の峠にさしかゝりました。通る人もない山道を、熊笹を分け分け進むと、前面が急に開けて、形やゝ富士ににた美しい山が表れました。頼光さんは此の山に登り、大江山はどちらであらふと見立てました。中腹は雲にかくれて、頂をくっきり浮べた大江山は、鬼が住んでゐるとは思れない程です。頼光さんは此の山を見立山と名づけて下りました。日暮れ近く、頼光さんは杖をとめて、
「村人の話を聞けば、大江山のふもと野條の荘といふところである。今夜はこゝで休むことにしやう。」
と、厨子を下さうとすると側のくさむらの中で、一心に祈ってるろお爺さんかあります。頼光さんは不思議に思ひ、近づいてわけを聞くと、
「私にはたった一人の娘かありましたが、去年さらわれてから、何の便りもありません。せめて無事で生きてゐてくれるやうにと毎日願をかけてゐるのです。」
と答へましに。そばにはほんのちっぽけなお宮があります。
「それは気の毒なことだ。然し酒顛童子は女の生血をすゝるとの事.願をかけても、もう生きてはゐまい。あきらめたかよからふ。」とすゝめましたが、
「いえいえ、此のお宮に願をかけたら、きつとかなへて下さいます。ですから娘もきっと今に帰ってくるでせう。」
「ほゝう、なるほどな。全体このお宮は何と申すのか。」
「名前とてはございません。とうの昔からこうしてあるのです。」
とお爺さんは答へよした。頼光さんはお爺さんをいたはりながら、鬼の悪事の数々や、大江山への近道などもたづねました。老人を帰してから.頼光さんは家来達と共にお宮の前に坐り.静かに目をつむつて、
「今度、天子様の仰せによって、頼光、大江山の悪鬼を退治に参りました。生きて再び帰らふとは思ひませんが、酒顛童子をうちとるまで、どうぞ私達をお守り下さい。」と祈りました。そしてお宮の前でたき火をしながら、一夜を明すことにしました。翌朝一行は清水や身をきよめ、最後のお祈りをして、勇しく出発しました。聞きつたへた村の人々は、あちらの谷からも、こちらの谷からも見送りに来ました。そして
「どうか敵をうって下さい。」
「娘をとり返して下さい。お願ひです。」
「御無事で帰って下さい。これは勝栗です。これは草の汁でつくった毒酒です、まにあつたら使って下さい。」
と眞心こめた品々をくれました。頼光さん達は大変喜んで、きっと村人の仇を討ってやらふとなぐさめました。山伏姿の一行はなれぬ山道に苦しみながら、登尾といふ所へ来ました。これからいよいよ大江山へ登るのです。風になびくすゝきにも、落ちる木葉の音にさへ、気をくばりながら登って行くと、ふとざわざわといふ音。「鬼かな」と注意深く進むと、一人の美しい少女が表れました。近寄って行くと少女は、
「助けて下さい。助けて下さい。お願ひです。」
といつたまゝ聲をあげて泣くのです。
「これはきっと鬼にさらはれた娘にちがひない。」
と思ひ、頼光さんはやさしく尋ねると、少女は泣きながら、
「私は遠い都の娘、酒顛童子にさらはれて来ました。鬼の岩屋にとらはれて、毎日悲しい日を送ってゐます。すきを見てこゝまで逃げて来ました。」
「さらはれた娘はたくさん届るのか。」
「二三十人もゐましたが、いましめの繩がとかれる度に一人へり二人へりして、どうやら今宵は私の命が……」
「安心しなさい。山伏姿に身をやつして、都から征伐に来た頼光といふもの、今宵は必づ助けてあげやう。」
「いゝえ、それはいけません。鬼の目のとまらぬうちに早く山を下りて下さい。」
「いやいや天子様の命によって退治するのじゃ。娘、案内をしなさい。」
少女は仕方なく山奥を指して、
「この谷を奥深く進み、大きな岩から左へ登ると頂につきます。」
と教へましに。頼光さん達かやうやく頂につくと大きな岩の扉の前に、赤鬼と青鬼とが見張りをしてゐました。頼光さんは家来に命じて、土器にお酒をついで、そっと岩の上にのせておきました。
「おや、こんな所に変なものがあるぞ。」
赤鬼か見つけてかぐとお酒です。「これは有難い。そうだ。青にはこっそりと…」すると青鬼かさとりました。一杯の酒を前にして二人は喧嘩を始めました。そして組み合ったまゝ、谷底へころげおち、頭をうって死んでしまひました。
 入口に近づくことか出来た頼光さん達は、そっと様子をうかゞひました。暗いほら穴のずつと奥に、ボーッと燈火か見えて何だかさわいでゐるやうてす。みんなはじっと息をこらしながら、岩の壁に体をすりつけて、奥へ奥へと進んで行きました。燈火の近くまで来ると、大広間が見えます。正面の岩の上には酒顛童子が、皿の様な目をして酒を飲んでゐます。体には熊の様に毛かはえて、眞赤な顔をしてゐます。そのぐるりには青鬼、赤鬼、白鬼が、大きな盃で酒をのんでゐます。
 家来達に耳うちした頼光さんは、酒顛童子の前へ跳り出て、「望みかなへ」の笛を吹くと、家来も一斉に跳び出して、物も言はず、面白く舞を舞ひ始めました。鬼共はあつけにとられて、一心に見とれてゐました。その舞の面白さに、酒顛童子もすっかり上機嫌になって、ざるの様な大盃で何ばいとなく飲みました。舞終ると頼光さんは用意して来た酒を出しました。毒酒とも知らず鬼共は一杯二杯と飲むうちに、とうとう倒れてねてしまひました。さすがの酒顛童子も高いびきです。御勝八幡神社(福知山市上野条)
 頼光さん達はすぐに用意の冑甲に身をかため、すらりと抜いた太刀先に、鬼は片つぱしから斬られて行きます。頼光さんは酒顛童子をけり起し、うろたへたる所を見事にズバリと斬りすてられました。

 目出度く征伐をした頼光さん一行は、喜び勇んで山を下りました。そして酒顛童子の首塚を、堂城につくり、魔除けの爲に合図の笛を村人に与へました。村の人達は野條に集って凱旋将軍をねぎらひました。頼光さんはここにしばらくとまり、あの名もないお宮に、御勝八幡と申す御神號を奉り、にぎやかにおれいのお祭りをしました。そして、その頃都で行はれてゐた紫宸殿田楽踊を奉納いたしました。村の人達に命じて、ふくらしばをはいで八十八枚をつゞり、ささらをつくらせて手振り身振りも面白く、踊り納めて都へ帰られました。びんささら踊(たぶん平成3のもの)

 村人達は、このゆかしい踊を忘れかねて、事あらば神前で踊ったといふことです。そして誰いふとなく「びんささら踊」といって伝はって来ました。

 金山村字上野條の御勝八幡宮では、二十五年目毎に祭禮が行はれて、このびんささらで踊ります。氏子から選ばれた十二名の踊手は、めいめいにささらを手にし、榊の葉を口にくわへて.合図の笛のさびた昔に合せなからチャラチャラチャラチャラと荘重なささらの昔をひゞかせて、立居もしとやかに踊るのです。
 かつては鬼か住んだといふ大江山も、今は静かに眠ってゐます。ふもと金山の里では、言ひつぎ、語り伝へられた此のゆかしい踊が、千年の神秘をこめて今に残ってゐるのです。
猩々舞(上の写真と同じ市教育委員会の調査報告書による)

附記

大江山の伝説


 この物語は平安朝の一條天皇の御代の事であります。貞元年中から引績いて顔の美しい年の若い娘は五人十人と京の都から消えて無くなるのです。過ぐる昨夜も池田中納言国方卿の姫君が姿を隠されたと云ふことで、父君母君の御嘆は非常なものでした。この姫君はとり分け顔も心も勝れて美しい評判の方でありました。家族の方々は神仏に祈願して無事に帰って来るやうにと祈りました。又、當時都で名高い安部晴明に占って貰ひますと、都から遠く離れた丹波の大江山千丈嶽に岩屋を作って住む鬼が攫って行ったのであるが、姫君はその中無事に帰られるだらうといふことでした。
国方卿は取り敢ず其の由を奏聞されますと帝も叡慮を悩ませ給ふて、すぐに御前に御詮議あることになりました。
其の時丁度丹波の目代藤原保友と云ふ者は早馬に打ち乗って注進に参りました。
「丹波の国は言ふまでもなく近国のもの若い男女が澤山紛れ失せますにより、其の父母家族の者達は、普く尋ね廻りますが一向その居所か分りません。その中に富国の大江山に城を構へて異形の者が澤山集ってゐることが分りました。この城はたゞの城ではなく石を畳んで塀を作り岩を穿って門として居ります。其の首領は神変不思議の術を使ひ、宙を飛び形を隠し、俄に風雨を起し刀を使はずに人をつんざき獣を殺す等眞に人間とは思はれません。何卒早く強い討手を下されます様、さもなくは天下の大事となりませう。」と申しました。
諸卿は会議せられて.當時天下に又とない強い大将として知られた源頼光に退治させるがよいと定まりました。

そこで帝は直に頼光を召されて大江山鬼退治の宣旨を腸はりました。頼光は勅命を承って急いで我家に帰り一族の者どもを集めて軍評定を開きました。酒顕童子は変化なれば先つ神佛に祈をかけ、神の力を頼むがよいとて、頼光と保昌は八幡宮へ、綱、金時は住吉宮へ、貞光季武は熊野宮へ参籠して、祈願をこめ、別に家来達は大井の光明寺に詣でて願書を捧げて一夜祈り明しました。また都の社や寺々は皆様々の秘法を修して大江山鬼退治の御祈を行ふのでした。

年號も改めて正暦元年とせられ、その三月廿二日源頼光は長男下郎判官源頼国、右京権太夫藤原保昌、瀧口蔵人渡辺綱、勘解由判官卜部季武、主馬佐酒田金時、靭負尉碓井定光其の他の郎従家人千二百余騎をつれて光明寺をたって丹波路へ向ひました其の日は老の坂を越えて無根坂あたりまで来ましたが、頼光は俄に頭痛がして進むことが出来ませんから此の地に一泊することになりました。其の夜は夢に八幡大菩薩が現はれて、此度鬼を退治るには多勢で行く時は勝利覚束なし頼光自ら数人の家来をすぐって忍び入り謀を以て之を討つがよい、鬼共は幻術を使ひ通力を持ってゐるが、神の加護によって汝は必ず勝つであらうとのことでありました。
そこで翌日頼光は藤原保昌並びに四天王の人達を集めて夢の示現を話し軍議を開きました。
渡辺綱は進み出で、
「頼光公の御夢の通りで、大江山の城は実に堅固な構であるとの事、又立て龍る賊は皆枝葉の手下ばかり、張本酒顛童子は大江山の奥に連る千丈嶽に居るとの事、若し大江山の城を陥れても落城したと聞いたならば酒顛童子は千丈嶽から又他の山へ逃げてしまふであらう。所詮は我等数人が大将頼光公に随ひ千丈嶽に忍び入り賊の張本を打ち殺すに限ると思ひます」
と申上げました。保昌も聞いてその意見に賛成しました。
そこで軍議は一決して多くの軍勢は野州判官殿を大将として、大江山を囲みて攻め立てることゝし、次の日の夕方丹波の国府津に着きました。當国の目代藤原保友は四百餘騎を引き連れ、喜び迎へて案内者となりました。三月廿四日の早朝には大江山に着き城の廻りを取巻いて閧の聲をあげました。賊は高い城に立て寵り力に任せて大岩、大木など抛かけて谷底にある味方を防ぐのです。味方の心はやたけにはやるのですが、高山の頂きにある城を見上ぐるばかりで進むことが出来ません。然し乍ら別動隊となった頼光朝臣以下数人の人達は大江山を向はずして、廿三日午の刻過ぎ無限阪を立って千丈嶽に向ひました。その日は丹波の国福知山と云ふ所へ着きましたが由良川に沿ふて草屋根の家が二三十もありましたので、こゝに泊り、用意して来た山伏の姿となり翌日早く出立しました。藤の衣に笈をかい、頭巾眉半ばに着なして、金剛杖をつき、都方の山伏が伯耆の大山に詣る様に見せ、藤原保昌か五十八の年長であったので先達となりました、卜部季武四十一、渡辺綱三十八、碓井定光三十七、源頼光三十七、坂田金時三十六など主従六人打連れて歩きました。二十五日には三岳郷に着きまして三岳権現に夜もすがら祈り明し一紙の願書を奉納しました。

  帰命頂禮.富社権現者.住吉大明神之変座而.国家鎮衛と寳社 (中 略) 爰頃年丹州前後之間、在魔道成就之者。徒悩人民。恣乱国家。其幻術自在 (中略) 頼光苟生於弓馬之家。適応於朝廷乙選将赴於千丈悪魔之巌窟忽拝於四所和光社壇
  (以下略)
     正暦元年(=990)三月廿五日
                      左馬権頭 源朝臣頼光

夜か明けて奉幣して神前を出ましたか行手の道もわかりません。どうしやうかと思ってゐる時幸にも柴刈り行く木こりに出あひましに、頼光は、「此の国の千丈嶽はどうして行くのか教へてくれ」と申しました。
「この山の峯を向へ越し谷を隔てゝ向ふに見えるのが千丈ヶ嶽でありますが鬼が住んでゐるので人間は行けませぬ」
と答へましだ。それなればこの峯を越えて行かうと老木の繁る峯や谷越えてゆく程に向ふの岩の間に庵を作り三人の老人がゐるのです。頼光は此の人達の前まで行って、
「もしあなた方はどうしてこゝに居られますか、又何をする方ですか」と尋ねました。
「私達は迷ひ変化の者ではない。一人は津の国の者、一人は紀の国音無し里のもの、今一人は京近い山城のもの、此の山の向ふに住む酒顛童子に妻子をとられた無念さに、その敵を討たんと此頃に来た者、お身達を見るに常の山伏ではなく勅命によって酒顛童子を滅す爲に来られたものと見える。私等三人の爲にも敵討ちの出来ることなれば先達となって案内致さう」
「仰の如く我々は酒顛童子に向ふもの、山路に踏み迷ふて難儀を致します」
と頼光の答に翁達は喜びの色を顔に浮べて、
「それなれは充分に疲れを休めて忍び入る用意せられる様、又彼の鬼は常に酒を好み酔ふて伏したら時は前後も知らず眠るのである。私達は此處に不思議な酒、神便鬼毒酒と云ふのを持ってゐる。お身達が此酒を飲む時は却って力を増し鬼共の飲む時は飛力自在の力も失ひ切るも突くも自由になる。それ故、神便鬼毒酒と云ふのである猶又こゝにある星鎧は御身之を着て向はれなば鬼は恐れて飛び掛れぬであらう」
とて頼元に兜を渡された。六人の人達は先刻からの有様や言葉によってさては八幡、住吉、熊野の三社の御神の導きと感涙にむせびました。翁達は先達せんとて、山を越え谷を渡って細谷川まで来ました。翁は此處で止って、
「此河上を登って行くと、十七八の姫に出会ふであろう。それに詳しく聞かれよまた鬼に向ふ時は援け得させん、我等は眞実は三社の神であるぞ」
さてかき消す如くに行かれました。六人の主従は後伏し拝み河に沿ふて登る程に教の如く十七八の姫か血のついた着物を洗っては泣いてゐました。頼光はこれを見て、
「お前はどこの人か又なぜ泣いてゐるの」と尋ねました。
「私は都の者でございます。或夜酒顛童子に掴まれて是まで参りましたが、恋しい二人の親達は今はどうしていられるかと思ふて泣いて居りまする」
「お身は都で誰の姫か」
「私は花園中納言の獨娘、妾の様な不幸な人か岩屋の中に十餘人も居りまする。此の程は池田中納言国方卿の姫君も捕へられて参られました。皆始めの程は可愛がって置くがその後は身の中より血を搾って鬼共は酒だと云って飲み肴だといって四肢を裂いて食べます。側に見てゐる妾達は気を失って倒れる事もありまする。堀何の中納言の姫君も今朝血を搾られ給ふたので.その着物を妾は洗ってゐるのです」
と云って泣くのでした。日本中で強者として知らぬ者もない六人の主従もこの憐れな話を聞いて共に涙にむせびました。
頼光は
「様子はすっかりわかりました。私達は天皇様の命によって鬼を打ち平げ御身達を救ふ爲に参ったものですから道案内をして下され」
と云ひました。姫は之を聞いて夢かとばかり打ち喜び河上をさして、
「これから河に沿ふて行くと鉄の門を立てその入口には鬼共が集って番をしてゐるのか見えます、その門へ忍び込まれると鉄の御所と云って立派な館を作り張本酒顛童子か住んで居ます。夜になると私達を集め手足をさすらせ、臥してゐます。常にその周りには星熊童子、熊童子、虎熊重子、鉄童子といふ四天王童子に番をさせます。酒顛童子は色赤く、せい高く、髪は総髪で昼の間は人ですが、夜になると一丈にもあまる姿となり恐しい限りです。彼は常に酒を好み酒に酔へば眠ってしまひ何事があっても知りません。あなた方は何とかして岩屋の中に忍び込み童子に酒を飲ませて酔ふて眠った時に討ち取って下され」
そこで六人は姫の教へた通り河上へ進んで行きますと程なく鉄の門に着きました。番の鬼共はこれを見て
「これは面白い近頃人を喰はぬので、欲しいものだと思ってゐたに、飛んで火に入る夏の虫とは此者共いざ引き裂いて喰ってやろう」
「いやいや、あわてゝ事を仕損するな、かくめづらしい客人一応頭へ申してからのこと」
「それもさうか」
と二三人は奥をさして駈け込み、かくと酒類童子に告げました。すると童子は、
「それは不思議、先づ内へ入れよ。対面せん」
と申しました。そこで六人の主従は内へ入れられました。程無く童子か来るのを見ると色赤くせい高く、髪をみだし大格子の着物に紅色の袴をはき、鉄棒を杖にして大きな眼であたりを睨みました。酒顛童子は言ひました。
「この大江山千丈ケ嶽は空高く聳えて、谷深く道もない、鳥獣さへた易くは通れぬ山、お身達はどこから何しに来たのか」
頼光は静かに
「私達は道の修業、役の行者の跡を幕ひ、道なき山々踏み分けて法の力を験すもの本国は出羽の黒羽昨冬より大峰山に年ごもり、やうやう春になったれば都を一見しそれより伯耆の大山に越えんと.ゆふべ夜をこめて立ち出で山に踏み迷ひ是まで来ましたが、幸にも童子殿のお目にかゝる事何よりの仕合せ、一樹のかげ一河の流れも多少の縁今宵一夜の宿をかし給へ。酒もあれは童子殿にもさしあげ私達も頂いて終夜の酒宴を仕ろう」
童子は之を聞いて打ち喜び、
「偖は面白い山伏達、共に酒を飲むも面白く話を聞くも興あろう。それ四天王童子達酒宴の用意を致すやう」
頼光はこの時座敷を立ち、翁に貰ひ受けた酒を取り出し.「これは都から持参の酒、召上り下されよ」
とて毒味の爲頼光盃一つさらりとのみほし酒顛童子にさされました。童子も.盃受けて飲みましたが実に不思議の酒で其味は甘露の如く此上なき良酒と喜びました。そこで六人の主従は代る代る盃を進めて童子に飲ませましたが童子は此上は美しき酌人に酌させん。我か最愛の女見給へとて、国方卿の姫君と、花園卿の姫君を呼ひ出し酌させました。終ひに童子は喜びの餘り我が身の上を語り聞かせんとて言ひ出しました。
「我か生れは越後の国、山寺育ちであったが法師共数多の者を刺し殺し、流れ流れて此山に立て籠り都より思ひのまゝに金銀財貨姫女まで召しよせて、思ひのまゝの暮しいかなる者も此の上の暮しはあるまひ、然し乍ら心にかゝるは都の中にかくれなき頼光といふ武士、力は日本にならびなし、又その郎党に貞光、季武、金時、綱、保昌、何れも文武二道の達人これ等六人は常に我が目の上のこぶ、すぎし春にも我が手下茨木童子を都に上らせた時、七條の堀河で彼の綱に渡り合ひ綱か髪むづととりつかんで来らんとした所綱は三尺五寸の腰刀ぬく手も見せず茨木が臂を打ち落した。其の鍔漸く策略によりかひなはとりかへしたが恐るべきは彼のやから」
と廻らね舌に語り続けました。今は童子も安心して盃さし受けさし受けて飲む程に神便鬼毒酒は五臓六腑にしみ渡り、心も姿も打ち乱れて、前後も知らぬ程でありましたが、
「そこらに居る手下ども客僧達に舞を一さし舞ふて慰めぬか」
との事に、石熊童子は立ち上り、
「都よりいかなる人の迷ひ来て
    酒肴のかざしとはなるおもしるや」
と繰り返し二三度舞ひました。渡辺綱はこれを見て
「年をへし鬼の岩屋に春の来て
    風さそひてや花を散らさん
と面白げに舞ふのでした。かくて次第に鬼共も酔ふて倒れ童子も今は苦しげに、
「それがしも酔ひ過ぎた我が代りには二人の姫を残しお相手させる。ゆるりと飲まれよ」
とて奥の一間に入りました。頼光は後見おくりて姫君達を近く呼び、
「今宵こそ鬼共を平げて、お身達な都へ返しまゐらせん。これより鬼の伏しどへ連れ行かれよ」
姫達は喜び乍らいそいそと案内する事となりました。頼光始め六人は笈の中より鎧兜を取い出し剣を持って心の中には三社の神を祈り乍ら奥の間さして行くのでした。石橋を渡って広い座敷を一つ通りぬけるとそこは酒点童子の寝所となってゐます。
四方には燈火を高く立てて、逆鉾か立てならべてある中に一丈に餘る童子は倒に髪の間から角を出し、手足を四方になげ出して寝てゐます。その時不思議にも亦老翁か何處からともなく現はれて、
「六人の者達よくも参った。童子か手足は痺れさせてあるから働くことは出来まい。頼光は首を切れ残る五人は前後にたち廻りずたずたに切り捨てよ」
といふ言葉の中に消えて無くなりました。六人は全く三社の神の御援けと教への通りに太刀をぬき一度に寝所にかけ込んで.頼光は眞先に酒顛童子の首を切り落しました。すると恐しい大きな首は眼を剥いて、天地もひゞく様な、うなり聲をあげて空に舞ひ上り頼光めがけて只一噛みと飛ひかゝました。しかし頼光の兜は三社の賜ひし神の星兜の事とて鬼の牙も通りませんでした。渡辺綱以下五人の者は、酒顛童子の太聲に驚いて集り来る手下の鬼共を切りまくりました。然し鬼の第一の手下茨木童子は中々強く渡辺綱と渡りあって負けさうにも見えませんでしたが終に頼光のために斬り殺されました。其の他の多くの鬼どもは酒顛童子茨木童子の殺されたのを見てとても駄目と思ったか、一目散に逃げてしまひました。頼光は総べての鬼を平けて姫君達を助けだし、大江山に向ふた下野判官の軍勢を引きしたがへ、都へ帰られることになりました。

酒顛童子の首を槍先に貫き仲間六人でさし上げて其の後には騎馬の武者二百人が従ひ行く勇ましい姿を見んとて近国から集る者は道の両側に押し合ひました。京へ入って見ると東寺、朱雀、大宮、六條の辻々は今日こそ鬼の首を見ようと待つ人ばかりで通行も出来ませんでした。
かくて童子が首は六條油小路から東へ通って河原に出し検非違使の手で曝し首にせられました。頼光始め鬼退治の人達は直に参内しましたが、一條帝も叡感よしまし、左馬頭源頼光は肥前守に兼任せられ五人の人達もそれぞれ叙位がありました。また捕へられてゐた姫君達は再び合へねと思ふてゐた父母の人達に迎へられ嬢しさのあまり只泣き人るばかりでありました。
           「前太平記及びお伽草紙に據る」



 大江山

(1)昔丹波の大江山    鬼共多く籠り居て
   都に出ては人を喰ひ  金や寳を盗み行く
(2)源氏の大将頼光は   時の帝の詔り
   お受け申して鬼退治 勢よくも出かけたり
(3)家来は名高き四天王 山伏姿に身をやつし
   険しさ山や深き谷  道なき路を切り開き
(4)大江の山に来て見れは 酒顛童子か頭にて
   こわがる姫を引つとらへ 舞へよ唱への大騒ぎ
(5)予ねて用意の毒の酒 めて鬼を酔ひつぶし
   笈の内より取り出す   鎧兜に身を堅め
(6) 驚きまとふ奴輩を 一人残らず切り殺し
   酒顛童子の首を取り 目出度く都に入りにけり

   (公手喜代史詩編両丹物語十種)


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酒顛童子の子・鬼童丸(福知山市雲原)

『京都の伝説・丹波を歩く』に、(探訪も)


酒呑童子の子・鬼童丸

    伝承地 福知山市雲原

酒呑童子を退治した頼光は、岩窟に捕らえられていた美女をすべて解放した。しかしその中の美女伊予掾経友の奥方と伝えられる女は、心も病んでおり、そのうえ酒呑童子の子を身ごもっていて、故郷へ帰ることも出来ず、雲原南東聚落へ住みついた。里人はこれを不潤に思い、食べ物を与えたり、要らない衣類を恵んだりしたという。やがて女は男の子を生んだ。これが鬼童である。

 鬼童は生れながらにして歯はすべて生え揃い、食べ物は何でも口に入れたという。七、八才になると力は里の大人以上で、毎日山を駆け登り、いのしし、鹿など見つけ次第に石を投げてこれを捕り、肉をさいて食うという粗暴な振る舞いに、村人はひどく恐れ近づく者もなくなった。

 食べ物も恵まれず、里人から見放された鬼童は、いつのまにかこの里から姿を消してしまった。そののち都へ出て、頼光を父の敵として、その仇を討つ機会をうかがっていた。ある日、市中の市原野というところで、死んだ牛の腹に隠れ頼光を刺そうとしたが、家臣に見破られてその場で切り殺された。

 そのころ鬼童の母は、病気にかかって日々衰弱が激しく、可哀想だと思う里人が、これまで以上に食べ物を運んだ。が、ついに回復することなく、ひっそりと死んでしまった。鬼童が殺されてから百日たらずのことである。里人はこの亡骸を南東聚落の小高い七曲りの畑の片隅に葬り、山石を置きその傍らに「サヤゴ」の苗木を植えた。

 目印にと植えた「サヤゴ」の苗はすすきの中で大きく育ち、その墓石を包むかのように根を張り、常緑樹は周囲を大きく覆った。里人はこれを鬼童の母の精ではなかろうかと言い、生前の美貌からこれを桜御前の墓と呼んで、ときどき供花や供物を持っていったという。  
    「語りつぐ福知山老人の知恵」

【伝承探訪】

 伝説は鬼童丸を酒呑童子の子だと語る。しかし同じく鬼童丸の逸話を載せる「古今著聞集」は「盗賊」とするのみで、その何者なるかを記さない。一説には鬼童丸は比叡山の児だという(『山城名勝志』)。山を追われて八瀬の西北鬼が洞に住んだと伝えられる。世の人はそこを酒呑童子の洞と呼び、その村人を鬼の子孫と称したと記す。また八瀬の村人は頭を唐輪にわげて自ら鬼童と称していたともいう(『菟藝泥赴』)。つまり、鬼の子孫とは、山の神(鬼)に従う誇るべき侍童を職掌とするものであった。
 それにしても頼光をねらって、鬼童丸はなぜ牛の腹に潜んだのか。雲原の伝説も『古今著聞集』もともにそう伝えている。『著聞集』などは「牛の腹をかきやぶりて、其の中に入りて、目ばかり見出して侍けり」とまるで見てきたように書いている。しかしこの疑問もまた鬼童丸の出自にかかわる。八瀬の村人は牛飼いをその職掌としたのである。朝廷から牛車に乗ることを許された叡山の僧は、その車を八瀬の村人に預けて牛を飼わしめ、入洛の折りには、八瀬の者を牛童として牛車に乗ったという(『雍州府志』)。鬼童丸が誇るべき八瀬童子、いわば鬼の子孫であるならば、牛の腹に潜むのもたやすいことに違いない。大歳神社(福知山市天座)
 牛の腹に隠れてまで頼光を討たんとする鬼童丸の姿は、その怨念の強さを通して山の神の恐しきを語るものであろう。彼の父酒呑童子は大枝山に首塚大明神として祀られた。その怨念の強さゆえに、神と祀られねぱならなかったとするのだ。すなわちこの伝説は、鬼童丸の姿を借りて、親子二代にわたる怨念をもって、鬼に通じる山の神の怖さを語るものであろう。それならば頼光に斬り落された鬼童丸の首が、頼光の馬の胸懸に喰いついた 「著聞集」 と語られるのも納得がいく。
 雲原の里に隣する天座・大歳神社には、頼光が戦勝祈願のために書写したという大般若経六百巻が所蔵されている。大正の頃まで村人はこの経箱を担いで村を歩いた、とこの地の古老は語られる。魔除けのためである。山の神信仰に鬼道を見出した修験の唱導にしたがったものにちがいない。

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天座の大歳神社は臨済宗の大日山普光寺の隣にある。写真の右手下の小さな建物に六百巻の大般若経が治められている。白い案内板が見えるがそこに次のように書かれている。

 この神社に伝えられている宝物に紙本墨書大般若経六百巻がありますが、これは市の指定文化財になっております。
普光寺の寺伝によると、源頼光が大江山の鬼退治の際、大歳大明神の加護によるところが大であったので、頼光以下七人の主従が大般若経六百巻を書き写し、この神社に寄進したといわれています。
 書風で大別するとほとんどが藤原・鎌倉時代のもので、このように古いものが極めて多いのは珍しく貴重な文化財であります。
福知山市教育委員会

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『京都新聞』(97.3.29)に、大歳神社(福知山市天座)

*ふるさとの社寺を歩く〈228〉*
大歳神社(福知山市天座)*
*鬼退治とかわり*



 福知山市北部の大江山連峰のふもと。草の生える急な坂道をしばらく登ると、竹や杉に囲まれた本殿が静かにたたずんでいる。「四月中ごろには、周囲の山々に山桜が咲き、新緑に映えます」と、地元の人は話す。
 建立の時期は記録が残っていないためはっきりとしないが、大江山の鬼退治とかかわりが深いという。
 境内の保管庫に収蔵する大般若経(福知山市指定文化財・五百八十六巻)の縁起などによると、今から千年以上の昔、天皇から鬼退治の勅命を受けた武将源頼光が、渡辺綱、坂田金時ら四天王を連れて大江山に向かう途中に天座を訪れた。一行は天照大神が降りられた御座宕の上で七日間一心不乱に祈願、すると天から、大般若経六百巻を書写し、大歳(おおとし)神社に奉納すれば本願が成就するとお告げがあり、首尾よく悪鬼を退治したと記す。
 大般若経は、書風から平安、鎌倉期の書写経を中心に後世の江戸期のものも含むとされる。人々の想像力が鬼伝説と結びつけたのだろうか。
昔は悪疫がはやると、村人はこの大般若経を持ち、唱えながら各戸を巡り、疫病退散を祈願したという。
 境内には江戸時代に建てられた古い舞堂がある。その中に安置される大日如来座像は坂田金時の作と伝えられている。
 地元にこんな話がある。大般若経は無事に鬼退治から天座に戻った頼光一行が返礼に書写をして大歳神社に奉納したもの。しかし、金太郎で知られる坂田金時は、字を書くのが苦手。かわりに愛用のまさかりで、この大日如来を彫り上げたのだという。
 高さ一・五b、太いヒノキの一木から彫りだした素朴な仏像だが、千年もの間、地域の人々を見守ってきた優しい表情がうかがえる。
 舞堂は、回り舞台もあって昔は農村歌舞伎が演じられたというが、今は床の傷みも激しい。天座文化財保存会の小原博会長(七四)は「歴史にはぐくまれた天座の人は信仰を大切にしてきた。過疎化のなか、有形無形の文化財をなんとか後世に伝えていきたい」と語る。

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『丹哥府志』に、

鬼童増補府志云。三但の境に雲原といふ一郷あり、千丈ヶ獄の西南に当り、雲原より鬼の岩窟に至る凡二里餘源頼光既に夷賊退治の後国々より捕われ来る婦人女子の輩各々故郷に帰る事を得たり、然るに一人の婦人狂気となり故郷を忘れ雲原の里に留り、民家に食をくらふ。是歳の秋其婦人男子を産む。其子生れながらに歯尽く備わりてよくものいふ、七八才の頃より力人に勝れ毎に石をうって猪子猿などを捕り裂て以て之を食ふ、元より一郷の人実に鬼の子なりと怯れたれ共、かゝる者を殺しなぱ祟にもならめやとまづ其儘に拾置たり、され共日夜に遠ざけて遂に食も與へざれば頓て鬼童も其處を去ていづれの處にか行にける。其後都に出て頼光は父の敵なりとて毎に之を討んと図る、一日市原野に於て死牛の腹にかくれ将に頼信を害せんとす、頼信早く之が備をなし、遂に之を捕ふ事は野稗史に見へたり。抑鬼童の母は伊豫掾経友の弟経成の女にして或堂上に仕へし女房なり、酒顛童子の捕へ来る婦人中の美女なりとぞ語り伝ふ。

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『丹後旧事記』に、

雲原里。両丹の境に雲原郷成魔村と云伝ふ山家有千丈ケ嶽の山裏にて酒呑童子へは二里半あまり彼兇賊退治のこと終りて国々所々より盗取し人の妻子成もの銘々本国へ帰し玉ふ中に一人狂気の女ありて帰る所を知らず久しく此雲原の里に居残り民家の門の先に立ちて食を乞ひ相住事十七ケ月を経て一人の男子を生めり。此男子生れ出ると歯生か髪たけにのびて物いふ事大人の如く立居自在にして力強く酒呑童子が種を身に宿せしなりと俚民恐れて云て曰くもしかかるものを殺し侍らば酒呑童子の霊出て一村に仇をなさんと鬼童子と名付て十一歳の春まで養ひ育てけるが生れ出るより力大人に勝り大石大木を以て猪猿を殺し引裂食ふことの人に替り荒牛の吼るごとくなれば俚民恐れて食をくれざる故鬼童にもすべき様なく山に篭り川に遊び有けるが終に此里を立退行衛知らず成にけり。其後鬼童子成人して父が敵は源頼光なりと付ねらひけるとかや又都の市原野にて牛の腹に隠れ居て頼信をさして搦とられし事諸軍記に見えたる如し此鬼童子が母は或御所に仕へし女房にて酒呑童子が盗みし美女の中にもまたとなき姿形なりけると永井増補府志に見えたり。

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面白いことに雲原には桃太郎がいる。

『天田郡志資料』に、

郷土物語  ちから桃

 丹波雲原村字佛谷の路傍に、秋なれば尾花の花か一面に路を行く人を招く草土手の中に雨風に曝されて碑面も明瞭と分らぬほどの、自然石の碑か立ってゐます。よく見ればその碑には、
「力士君ヶ獄大五郎の碑」
と書いてあるのか読まれます。
 この君ヶ獄と言ふのは、ずっと昔のそのまた昔、まだ電話だの汽車などと言ふものは勿論形さへ見ることの出来なかった頃この雲原の村か生んだ強い強い角刀取だったさうです。君ヶ獄か強かったお話は沢山残ってゐます。村のお寺の鐘撞堂か新らしく建てられた時、そのお祝が明日だと言ふので、村の人か十二三人も寄り集って、縄で鐘を縛って、棒を通し、エッサエッサと懸命に吊らうと苦心してゐ時、其處へひょっこり来た君ヶ獄が
「よし皆の衆引き受けた」
と言ひなり、片はだ脱いだと見る間に その鐘を抱へて、「ヤツ」と懸声諸共に何の苦もなくちゃんと吊ったと言ふ話や、ある夏の夕方、ザッと夕立か来たので。ある家の庭へ飛び込むと、丁度其の家の老人か外の裾風呂へ這入ってゐて、この雨でまごついてゐるのを見て、行きなり其の老人の這入った儘の風呂桶を抱えて家の中に運んだと言ふ話など、その外色々の恐ろしい此の力士の力を表した話か伝ってゐます。何にしても大した力があったらしく、こんな力があったし術も優れてゐたので、丹波は申すまでもなく、丹後但馬から中国の辺まで、この力士に勝つ者は無かった相です。この力士について次の様な面白いお話が伝へられてゐるのです。
 こんな強い力士でしたか、君ヶ獄は元からこんなに強い力持ちではなかったのです。君ヶ獄と言ふ名前も角力取になってからの名乗で、元は仙吉と云ふ名前でした。仙吉さんの家は貧しい百姓家で、一人息子でしたか十一の時に不幸にもお父さんお母さんに続いて亡くなられて、仙吉さんはほんとに世に一言ふ孤子になって仕まったのです。それで仙吉さんは其處此處の家に傭はれて百姓の下男等をしてゐたのです。ところが十三の時、仙吉さんは傭はれてゐた主人のお供をして上方に行った、生れて初めて大角カと言ふものを見ました。土俵の上で肉と肉と火花が散る様な勇ましい有様を見た時から、仙吉さんは逆止た様になって「俺も男と生れたからには一度あんな立派な角力取になりたいものだなあ」と寝ても醒めても恩ひ初めました。しかしこんなことは誰一人話してみませんでした。何故かと言って、仙吉さんは脊こそ小し高かったが、力は同い歳の子供に比べて、まあ半分の力もなく、おまけに病身で、なんかと言へば直ぐ頭痛かしたり、一寸働いても息が苦しくなるほどですから、若しこんなことを仙吉さんか人に話したら、それこそほんとに気狂にしられたでせう。然し仙吉さんの此の望みは毎日々々募るばかりでした。とうとう思ひあまった仙吉さんは、この村、氏神さんに願をかけて「どうぞ強い力を下さい」と二十一日の間、毎朝夜の明けきらぬうちに氏神様のあの八幡山へ登って行って、真裸身で宮さんの周りを二十五回も走り廻り、境内にある大きな立石の前まで来て、エイエイ掛声をしてその石を抱きかゝえました。そしてびくとも動かぬその石の前にひざまづいて「どうぞこの石が一センチでも地から離れるだけの力を下さいませ」と一心に頼みました。丁度二十一日目の朝、それは美しい春の一日でしたが、いつもの様に走ってから、その石の所へ来て「今日こそ最後の日、どうぞ私の願を叶へ給へ」と念じて其の石を持ち上げ様としましたが、石は相変らかピクともしません。仙吉は失望と疲労が一時に出て、かわいさうにその儘其處にばったり倒れた儘、気か遠くなってしまひました。八幡神社(福知山市雲原。山の頂上である。)
 ふと「仙吉々々」と呼ぶ声に彼は頭を挙けて見ると其處には真白い髯をふさふさと垂れた、見るから神々しい老人が、仙吉を見下ろして、その石の上に立つてゐました。
「お前の望を叶へたくば.桃太郎の桃を喰へその桃のある所を知りたくぱ、明日烏の鳴かぬ先にこの眞南の山の奥一里の所まで来い」
と言ったかと思ふと老人の姿はすうと消えてゆきました。仙吉さんは妙に其の夢とも現とも分らぬ言葉が胸に灼きつけられてそれを強く信ずる心が湧き上って来ました。翌日まだ夜も明けきらぬ中に飛び起きた仙吉は、半分は夢の様な気で、それでも足は南の方に向いて一生懸命歩いてゐました。凡そ一里程も……田と言はず林と言はず……めちやくちやに歩いて行くと、ふと其所の路傍に一人のお婆さんが石に腰かけてゐました。丁度其のお婆さんの腰かてゐる直ぐ横に幅五米ほどの浅い清水が流れてゐます。仙吉がその流れを二飛び程で渡らうとすると、そのお婆さんか急に声をかけて、
「おい若い衆、此處を背おって渡せ、わしや九十九才だ」
と言ひました。仙吉はその言葉がいかにも癪にさはったので、
「われ這って渡れ」
と言つて後をも見ずに急がうとしました。その時空高くカァーと烏の鳴声がしたかと思ふと、昨日のおぢいきんの声が何處からともなく「駄目だぞ!」と雷の様にひゞきました。
 仙吉は「あゝしまった」と思ったが仕方がありません。ふと振り返って見ますと先つきのお婆さんの姿はもう其處には見えませんでした。
 その晩仙吉は寝てから、明日はもっと早く起きて、もつと急いで行かう、と思ひました。ふと其の時あのお婆さんの顔が思ひ出されました。「九十九」と言ったな、渡してやればよかったとすまぬ様な気がしました。
 明くる朝もっと早く起きた仙吉は.昨日よりはもつと足早に、丁度あの流れの所まで来ると、今日も昨日と同じ石の上にあのお婆さんが腰かけてゐて、仙吉を見ると
「おい若い衆.此處を背おって渡せ、わしや九十九だ」
と言ひました。仙吉は今日は
「よし来た」
と言ってお婆さんい方に背中を向けると.お婆さんは直ぐ手を肩に掛けました。驚いたことにはお婆さんのその重いこと石の様でした。向ふへ渡してお婆さんを下すと、お婆さんは「有難う」とも言はず、
「おい若い衆、わしのこの鼻水拭いて呉れ、わしや九十九だ」
と言ひました。見ればお婆さんの鼻からは汚い鼻水か垂れてゐます。
「われ舐れ」と腹を立てた仙吉は後をも見ずに行き過ぎました。その時空で一声カァと烏の鳴声がしました。そしてあの老
人の声で「駄目だぞ」と雷の様な声かしました。ふと振り返って見ますと其所にはもうお婆さんの姿は見えませんでした。
 その晩仙吉は床の中でよし明日こそと思ひました。その時ふとあのお婆さんのことか思ひ出されて「折角渡してやったのだ
鼻水も拭いてやればよかった。九十九だ」と恩ひました。
 明くる日、もっと早く起きて今度は走る様にして、昨日の流れの所まで来ると、矢張あのお婆さんかゐました。
「若い衆、此處を背おって渡せ、わしや九十九だ」
と言ひました。仙吉は直ぐそのお婆さんを背おって渡りました。昨日とはもっと重い様に恩ひました。向ふへ着くとお婆さんは礼も言はず
「わしの鼻水ふいて呉れわしや九十九だ」
と言ひました。仙吉はよし来たと言って手拭をとり、その鼻水を拭いてやり、おまけに手拭を水で濡らしてお婆さんの顔をすつかむ綺麗に拭いてやりました。そして又急いで行かうとすると、仙吉き吃驚しました。それは昨日まで少しも見えなかったのに、目の前に、それはそれは美しい目も醒める様な大きな赤い桃に似た実がなった木があったからです。君嶽大五郎墓(国道176号線脇にある)
 仙吉か吃驚してゐると、その木の下にあのおぢいさんか立つてゐました。そして
「仙吉よ、よく来た。これが桃太郎の桃だよ。日本一の桃太郎の生れた桃の種は此處まで流れて来て、こゝで生えたのだ。さあ 此の桃化一つおたべ其してお前の力を試してごらん」と言ったかと思ふと姿は無くなりました。
 仙吉は夢の様な気で手のとゞくところの一つを取って一口噛みました。そのおいしい事、それに大人の頭ほどもあったので仙吉は一つ喰べ終るとお腹一ぱいになりました。ふと仙吉はおぢいさんの言ったことを思ひだして、そこのあのお婆さんの腰かけてゐた石の側へ行って、其石に手をかけて見ました、なんとどうでせう。その大きな石がまるで綿の固まりの様にわけなく動くのでした。仙古のよろこびはどんなでしたらう。これか君ヶ獄の不思議な力の源だ相です。
その後誰一人としてこの桃太郎の桃に出曾つた者はありません、仙吉も二つも食べてもつと力をつけようと思ふ程慾ばりではなかったから二度と其處へは行かなかったそうです。
   附記 君ヶ獄太五郎の碑は雲原村役場より三百米佛谷区の路傍にあり


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頼光とびんささら踊り

【丹波の伝説】
『京都の伝説・丹波を歩く』に、(伝承探訪も)

頼光とびんささら踊り

      伝承地 福知山市上野条

 今から千百年ほどの昔、一条天皇(九八六年)の頃である。御勝八幡宮(福知山市上野条)
池田中納言のお姫様が大江山の酒呑童子にさらわれた時、一条天皇は源頼光に「酒呑童子を退治して、姫を救い出せ」と勅命を下した。勅命だから、断わることもできず、頼光は覚悟をきめて、渡辺の綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武の四天王を供に連れ、山伏姿に身をやつして三岳山に登っていった。
 三岳山地の頂上を御岳山といい、ここに行者が建てた御岳権現があり、少し下った山腹には八幡神社がある。頼光の一行はこの八幡神社におこもりをして、三七、二十一日間もの間、戦勝の祈願をしたという。満願の朝、山頂から大江山を見下ろして偵察した。三岳山が大江山より六メートルだけ高いからだ。すると大江山に上る一条の煙を見つけて、酒呑童子の住み家の見当をつけることができた。
 勇んで大江山へ向かう途中、下野条までくると一人のお婆さんが現われて、縁起のよいかち栗(勝栗)と、鬼のしびれる酒をくれた。ひょっとすると、八幡様のお使いだったかも知れない。おかげで無事に鬼退治をした頼光は、帰り道、また八幡宮にお参りして、御礼を申し上げるとともに「御勝(みかつ)」の名を献上して、「御勝八幡宮」と唱えたそうだ。
 また、鬼の霊をとむらうために大般若経六百巻を写経して、天座の大歳神社にお供えしたと伝えられる。
                      (『福知山の昔ばなし』)

【伝承探訪】

 三岳山を望む山麓に御勝八幡宮は鎮座する。この山はかつて蔵王権現(現三獄神社)を祀る山岳修験の道場であり、いまに多くの頼光鬼退治伝説を伝えている。たとえば頼光は大江山に討ち入る前に三岳山の蔵王権現に戦勝を祈願、そこから北東の方角、眼前の大江山に出発したので、この山を「見立て山」ともいうと伝える。
 もちろんこの地を鬼退治の舞台とするのは口碑ばかりではない。近世中期の書写と伝える『大江山酒典童子』(巻子本)では、鬼が城に棲む酒呑童子を討ち果たした頼光は、麓の 「いつもりあまさ村」に下りてくる。この村こそ三岳山麓の行積天座(てつもりあまざ)の聚落であった。そして天座の大歳神社の縁起は、またひとつの頼光伝説を伝えるのである。この大歳神社の加護によって鬼退治を成就することができたので、それに感謝して頼光以下六人の主従が大般若経六百巻を書写し奉納したとする。その大般若経はいまも大歳神社に保存されているという。
 このように三岳山は大江山とともに頼光鬼退治譚のメッカである。眼前に大江山を望む山岳修験の霊場として、山伏姿の頼光主従の活躍譚をはぐくむ土壌を有していたと考えられる。
 さてその御勝八幡宮にも、頼光は詣でて戦勝祈願をしている。無事鬼退治を果たした彼は、その感謝のしるしに祭を行ない、舞楽を献じたと伝える。それが二十五年に一度だけ行なわれて今に伝承される「びんささら踊り」である。この田楽神事の踊り手のなかに、木太刀をはいた山伏姿の者、あるいは甲冑を着する者もいる。その甲冑は、麻呂子親王が大江山鬼退治に着用した遺品だと伝えるのだ。ここにも鬼退治の別伝が生きている。
 一昨年の祭礼に「びんささら踊り」が奉納されて、台風のなか多くの参詣者でにぎわったという。今その境内に立つと、鬼の活躍する舞台とは思われない穏やかな静寂のなかにあった。

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酒呑童子のつの

『舞鶴の民話5』に、

酒呑童子のつの (大江町)


  むかし 丹波の大江山
  おにども おおく こもりいて
  都にでては 人を食い
  金や宝をぬすみいく

わしの小さい子どものころは、よくこんな歌をうたった。その歌の鬼ども多くこもりいてのおには、ありゃおにでなくて、体の大きい毛の茶色の、シベリアから流れついた人間やったそうだ。
大江山というのはここから登っていくのや。丹波でも高い山だった。
 鬼ヵ茶屋というのは、ふもとからのぼったところにある茶店で、そこに鬼のものがのこっているのや。
 山のてっぺん近く、童子屋敷というのがあって、池があったり、どうくつがあったり、なるほどここに酒呑童子がすんでいたと思われる屋敷あとがのこっているんや。
 この鬼といわれたのは、シベリアから流れついたというが、もとは越後の国か、越前のほうから来たので日本人かも知れない。頼光の腰掛岩(大江町仏性寺)
 人の話でわからないけど、酒呑童子は、生まれるとき、おっかあのおなかの中に十六ヶ月もいたそうで、生まれながらにして大きかった。小さいときはやんちゃもので、よく人をいじめたらしい。それでこの子を心配のたれだとお寺にあずけたんやって。
 寺で修業するうち、童子は、うつくしいりっぱな男に成長した。そうなると村のむすめたちがさわぎだしてな、「あの人と夫婦になりたい」と毎日のようにむすめたちがくるので、童子はとうとう寺を追いだされてしまった。
 ところが、村むすめの中で一番美しいのが、童子に恋こがれ、むりやりに仲をさかれたかなしさに、とうとう池に身をなげ死んだ。
 それからというもの、童子は、ほうぼうの山をあるいて修業した。高野山、比叡山にもいったがだめで、とうとう大江山にやってきて、どうくつに住むようになった。
 いくら修業をつんでも、身なげして死んだむすめのことがわすれられん。そんなある日、山をおりた童子は、あの死んだむすめとそっくりの村の女にゆきあった。童子は、その女をさらって山へにげかえった。ながいあいだの山くらしで、まっ黒、ひげぼうぼうの童子をみておどろいた女は、やさしくする童子の心がわからず、逃げまどううちに、あやまって谷におちて死んでしまった。
 それからの童子は、夜な夜な京の都へあらわれ、町のむすめ、公家のむすめをさらって、毎夜酒びたしになった。このことは都じゅうにひろまった。
 「酒呑童子いうて、大江山にすむおにやそうな」
 「さらわれたむすめは、生血をのまれるそうやで」と夜になると戸をかたくしめた。
 「酒呑童子をこのままにしておくわけにいかぬ。せいばつせよ」と天子さまのめいれいに、源頼光、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、人部秀武の五人のさむらいが、大江山にいくことになった。
五人は熊野神社、難波の住吉神社、京都の八幡神社にまいった。
 大江山にいく途中、白衣の三人の老人に出会い、食べもの、道案内の世話をした。大きなつぼをわたし、童子にのませるという。酒がちゃぶちゃぶいっていた。谷川で、一人のむすめがせんたくしているのに出会い、
 「京から酒呑童子をたいじにまいった」と道案内をたのんだが、むすめはふるえるだけで、山の上の方を指さすだけだった。
 山をどんどん登っていくと、大きなほらあながあり、童子のけらいが大ぜいいた。
 「なにしにきた」ととがめたが
 「酒呑童子様という、えらくめっぽうおつよい方がおられる。ぜひお知りあいになりたい。こ
のかめの酒は天下一品です」
 「それならとりつごう」
 酒呑童子を中心に、美しいむすめがおしゃくして酒盛がはじまった。
五人のさしだす酒はまっ赤で、味もおいしそうであった。童子をはじめ、男たちは、これはおいしい、生まれてはじめてだと、ぐいぐいとのみほし、又食べるに食べた。しばらくすると、童子や男たちはよいがまわって、ぱったりたおれてしもた。
 「よし今だ」
 頼光のあいずで、さむらいたちは、いっせいにきりかかった。しびれ酒のために童子たちは動けず、いのちをたってしもたそうや。
 頼光はじめ五人のさむらいは、意気ようようと、むすめたちをともなって、ふもとまできたが、たいへんな忘れものをしたことに気がついた。童子の首をもってかえるのをわすれたのだ。考えながらいくうちに、牛をひいた百姓に出会った。大金をだしてその牛をゆずってもらい、首をきってさげてかえって、京の町を歩いた。ほんとうに酒呑童子は二本の角のあるこわい顔だとおどろいた。

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酒呑童子

『舞鶴市史』に、


酒呑童子 「お伽草紙」鬼の足跡

 むかし丹波の大江山に鬼が住んでいて、日が暮れると近国に出て珠玉財宝をかすめ取り、都に出ては美女を連れ去った。そのころ、中納言国隆の十三歳になる一人娘が行方知れずになった。中納言夫妻は悲歎の涙にくれていたが、占いによって大江山の鬼どもの仕業であることを知り、直ちに参内してその由を天皇に申し上げた。
 朝議が決まり、源頼光に鬼退治の命令が下った。頼光は碓井貞光、卜部季武、渡辺綱へ坂田金時、藤原保昌を集めて相談し、なお八幡、住吉、熊野の神社に祈願をこめた。そして主従六人は、山伏姿に身をやつして丹波の国へ急いだ。大江山に着いて千丈獄を指して進んで行くと、途中、三人の翁に会ったが、一人は摂津の国、一人は紀の国、もう一人は山城の国の人であった。この三翁は先に祈願した三社の神であって鬼を討つ方法と、鬼を酔いつぶさせる酒を授けた。
 川に沿って行くと、血のついた衣を洗っている姫がいた。姫の教えに従って行くと、ほどなく厳重な鉄の門に着いた。そこで頼光は、自分達は羽黒山の山伏で、大峰山に参籠して都に上る途中、道に迷うてここに来たものである。どうか一夜の宿をかしてくれよ、と頼むと、番の鬼どもが酒呑童子にこの由を告げた。童子は、これは珍しい、こちらへ通せという。頼光ら主従六人は童子の前に通され、童子は自分を害する敵とは知らず饗応し始めた。頼光は彼の神翁から授かった、人が飲めば勇気百倍し、鬼が食めば五体の自由を失うという不思議な酒を笈(おい)の中から取り出して、自分も飲み、鬼どもにも勧めた。鬼どもは良い酒である、珍しい酒であると非常に喜んで飲んだので遂に、酔いつぶれてみんな眠ってしまった。源頼光一行の像(酒呑童子の里)
 頼光ら主従は、ころやよしと互に笈の内から甲冑を取り出して身を固め、童子の寝所の鉄の座敷を窺うと、童子の姿は昼とは全く変わり、身の丈、二丈(六メートル)余り、髪はあかく、髪の間から角が生え、鬚も眉毛も茂り合い、足手は熊のようで見ただけで、身の毛がよだつほどであった。
 頼光は神々を伏し拝み、刃を振って、まず童子の首を斬った。首は跳ね上がり、頼光を目がけて噛みつこうとしたが、甲冑の威に恐れをなしたので頼光は事無きを得た。これを知った鬼どもは上を下への大騒ぎをしたが、頼光たちにみんな征伐された。
 頼光は、とらわれていた姫君達をそれぞれ親に返し、参内して悪鬼平定の旨を報告した。これから後、国土安全長久に治まる御代になったという。

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酒呑童子由来

『大江町誌』に、

酒呑童子由来    (字仏性寺・藤原家蔵)鬼ケ茶屋(休業中なのかな?)


 大江町字仏性寺の通称鬼茶屋 藤原卓氏宅には、二組の版木が伝わる。この木版刷が鬼茶屋本「大江山千丈ケ獄 酒呑童子由来」である。大江町における唯一の大江山鬼退治伝説にまつわる古資料である。この鬼茶屋本については、小川寿一氏が、「大江山絵詞の研究」(昭和十年一月発行「歴史と国文学」第十二巻第一号掲載)の中に詳しく論考しておられるので、これによって鬼茶屋本成立の経過を説明しておく。

 鬼茶屋本「酒呑童子由来」は、京都府中郡大宮町谷内にある岩屋寺に所蔵されていた「大江山鬼退治絵巻」の詞書を写したものである。その根拠は、岩屋寺本の末尾に
   桝屋宇右衛門 願により此の由来うつし遣
   す也
   (1848)
    弘化二年 乙巳 五月  黙知軒光研とあることによって明らかである。光研とは岩屋寺十世大僧都法印光研阿闍梨であり、一方の桝屋宇右衛門は、卯右衛門とも書き、仏性寺鬼茶屋の主人である。桝屋(当時の鬼茶屋の屋号)の鬼茶屋板の初刻本は、半紙よりやや小型で、上三枚、下三枚から成り、一面が一五行、この初版本は、絵も書も光研阿闍梨の筆と思われる。
 この岩屋寺本「大江山鬼退治絵巻」の絵は、古法眼本「大江山絵詞」を写したものである。古法眼本は、大江山絵詞の中で最も新しいものとされ、酒顛童子絵巻、酒顛童子物語とも呼ばれる。この初版の本文は、岩屋寺本と全く同じものではなく、下巻に二か所の省略がある。弘化二年といえば江戸時代も末期に当たり、そう古いものではない。
 版木が磨滅したためか、その後二回復刻され、第二板と第三板がつくられた。文章も異なり、内容の構成、字句などに相違があり、何よりも挿絵の入れ方が大きく異なる。初版をもとにした作り替えであろう。現在鬼茶屋に残る版木は第二板、第三板である。
 ここに掲載されているのは、第三板で上七枚、中下八枚から成り、第二版が表紙のほか挿絵がないのに対し、第三版は初版の絵が入り、初版本にない一行の凱旋図が入る。これら第二版、第三版もすべてその奥書きには 弘化三年桝屋版と記されている。三岳山(仏坂より)
 江戸時代から明治時代にかけて、頼光の鬼退治物語は、広く民衆の間に流布し、この物語の舞台となった大江山は、丹波丹後境の大江山だ、いやそうでなく丹波山城境の大枝山(老の坂)だといった論争が、まじめになされている。鬼茶屋本で興味深いのは、この点について、大江山、老の坂の二者択一の立場をとらず、両者を結びつけて、酒顛童子を首領とする鬼たちは、老の坂から大江山にかけての一帯を支配し、すみかとしていたと想定し、鬼退治に当たっても、頼光の長子源頼国の率いる一二○○騎の軍勢は老の坂を、頼光ら六人が大江山千丈ヶ獄にいる首領酒顛童子を討ち、討たれた童子の首は、火煙を吹きながら空を飛び、老の坂に落ちたという構成になっていることである。

   大江山千丈ケ嶽
     酒呑童子由来 上

 抑 酒顛童子の事蹟をかんがふるに 生国は越
後の国蒲原郡中村にて百姓の子なり 胎内にお
ること十六ケ月 生れながらにして歯を生じ能(よく)
ものいい歩みはしること五六才の小児のごと
し 父母大に驚き思ふやう 是まさしく俗にい
ふ鬼子(おにご)ならん そだつべきにあらずと 然れど
も さすが親子の恩愛 ふびんむねにせまりて
けふやあすやとゆうよする内 同国久上(くがみ)村の山
寺に外法成就の僧あり 童子これにまじハリて
邪法を伝へ 暴逆日々にさかんなるゆへ 親族
に見かぎられ 終に強賊の張本となりて大江山
にたてこもる 時に人皇六十六代一条院の御宇
永延三年丑の八月七日辰の刻より 一天かきく
もりて烈風ふきおこり 洛中洛外の民家を始め
神殿仏閣やねをくずし舎(いえ)をたをす 瓦榑をとば
すこと嵐に木葉のちるがごとし 比にあたりて
疵をかふむり 或は死するもの数をしらず よ
って禁廷に於て詮議あって 国々の諸社へ奉幣
し除災安全をいのり給ふ 博士阿部晴明卜して
いわく これ正しく西山に妖鬼あって王法をか
たむけんと謀るなり と占ひ奏しける 折から
丹後国目代藤原保友 はや馬をとバし注進する
やう このたび大江山に異形の賊徒たてこもり
人民を悩し みめよき女をぬすみとることおび
ただし 酒(しゅ)てんどうじと名て党類をしたがへ通
力自在にして 人を殺すことかずをしらず はや
く官兵をさしむけられ誅戮あって万民のうれい
をやすめ絵へと奏しける これによって月卿雲
閣御評定あって さればこそこの頃より大内の
官女数輩うせたまふことも かの童子が所為な
らん はやく武将をゑらんで追討あるべしと
すなわち当時の武将源の頼光 おなじく一子頼
国 知勇兼備の名将なれば すみやかにはせむ
かって誅罰致すべしとの勅定なり 頼光つつ
しんでうけ給ハり 急ぎ御調度あって頼国をは
じめ 千二百騎の軍卒を引卒し鬼ケ城へよせ給
ふ しかるに頼光 心中におもい絵ふハ 此た
びの敵は通力自在の悪鬼なれば 猶さら神仏の
冥助にあらずんば勝利得がたし と日頃丹誠を
こらし給ふ所の 八幡熊野住吉の三神にふかく
勝敵の応験をいのりつつ 軍慮かんたんを摧(くだ)き
ながら まどろみ玉う 夢の中に 八まん大菩
蔭あらわれ給ひ このたび悪鬼退治の義 大勢
おしよせなぱ勝利なかるべし かやうかやうの
策(はかりごと) を用ひバ決定して勝利あるべし と正しく
霊夢をかふむり 夫より頼光は不快と称して
摂州多田の城へ帰国の躰にもてなし 一子頼国
を討手の大将として大江山をせめさせ 頼光を
はじめ藤原の保昌 碓井の貞光 卜部の季武
渡辺の源吾綱 坂田の公時等主従六人 大峯
修業の山伏に姿をやつし 各々藤の衣にとき
んをいただき 手に金剛杖をつき 智略の武具
を笈(おい)にしこみ 正暦元年寅の三月廿一日丹波
路へ発向し まず三岳山に攀蹐(よぢのぼ)り 蔵王権現を
拝し 一紙の願文をささげて大般若経を書写せ
んとちかひ 四方を眺望し給へば艮(うしとら)の方にあ
たりて 霞のひまより岩石すこし見ゆる所に
かすかに畑り立ければ あれこそ童子が栖(すみか)なら
んと 夫より保昌を先達として丹後路へさしか
かり 元神明へ奉幣し 祈念をこめつつ 千丈ケ
獄のふもとに致り仰ぎ望めば 峨々たる巌石
深林に聳へて崩るるかと疑ひ 俯して眺れば谷
水岩に咽んで胆を銷(け)す いずれを道とも分ざれ
ば しばらく疲をやすめ玉う 折節老翁三人
しほしほとして行過るを渡辺声かけ それへ行
給ふハいかなる人にてましますや 老人答へて
いわく 我々ハ此辺のものなるが妖鬼に妻子を
とられ  悲のあまり共に取れて死出の道づれ
と存じ 鬼ケ岩屋へまかるなり と語りければ
保昌申様(やう)我等もその鬼に用事有て尋る者なり
何とぞ御案内頼入と申ければ 老人 然ば我に
随て来給へと先にたつ 六人の者つづいて行
程に嶮岸絶壁の渉(わた)りがたきには大木を投渡し
桂を引てこれをみちびく 凡麓よりは三里ば
かりも過ぬと覚ゆる深山 肝をけし 眼をくる
べかすばかりの岩のはざ間に 匂いこぼるる遅
桜いとも屋さしく咲乱れたるさま まことに
友人に窪たる心地して 山高の人もすさめぬさ
くら花 いたくなわひそわれ見はやさんと 古
歌の風情をおもひ出し しばらく花をながめて
憩ひける 扨 三人の老翁つげていわく かた
がたみられよ 向ふの巌窟こそ童子がすみかな
れ この鬼つれに酒をこのんで酩酊顛倒する故
に酒顛童子と名づくるなり さてまた我々が持
所の酒は神変奇特酒と名づけて 此方に用ゆれ
ば敵倍の勢力をまし 鬼賊にのましむれば 毒
となって働き得ず 又この御冑は神明守護の御
かぶとなり 各々鬼賊に用事とあるハ必定追討
の御使者とこそ見まいらすれ しからば童子は
我々が為にも敵なれば 此品をゆづり申なり
是をもってはやく本懐を遂げられよ と宣しが
たちまち一陣のかぜ起って霞と共に去玉ふ
これ正しく三神の御たすけならんと渇仰の泪(なみだ)を
押つつ 御迹(おんあと)を拝謝し勇気をましてゆくほどに
二瀬川 又血しほ川といふ にいたりて見れば 川水血を
流せり これぞ童子が残暴のしるしならんと 怒
りをふくんでゆくさきに 官女と思しき婦人の
衣をあらふを見て頼光こゑかけ 君はみやこが
たの人にてはましまさずや との玉へば 婦人
も親にあひしここちして  歓給ふこと限りな
く 扨たがいに始終を物がたり 童子が栖のや
うす委くたづね 官女を案内に先へ立て 見へ
がくれに岩窟にいたって見れば 骸骨算をみだ
して積捨たり 穴道をゆくこと十間ばかりにし
て石門あり 高さ二丈許横はば四間の石を戸び
らとし 石を削り鉄を巻て閂とす かかる深
山の事なれば 石門とざすことも稀なりと見へ
て ただ安然たるありさまなり


   酒呑童子由来 中・下

斯(かく)て六人の山伏 石門の内にいらんとするに
門番のけんぞく大にいかりののしるを 人々勢
をかくし詞をつくして是をなだめ 岩窟の奥の
かたを 覗(うかがひ)見れバ 童子と思しき丈八尺ばかり
の大男 髪ハ禿(かぶろ)に撫下たるが 一丈ばかりの鉄
捧を取 眼をはり声をいからして 罵ていわく
汝等なにものなれば此所に来るや 人間のいた
らざる所へ 心ふとくも来る事奇怪也 必定我
に敵する討手ならん いかにいかにとつめかく
れバ 頼光はすこしも動ぜず 御うたがひ御尤
に候へども わが修験道の行と甲ハ 法の為に
はみちなき山谷をも踏ひらき 毒獣悪鬼の嶮難
をもいとハずと申せば このたび大峯三山をし
ゆきやうし 伯州の大山へ登らんと存ずる 路
次暦日をしらざる深山がくれの遅桜 今をさか
りと咲満し様見すてがたく 都よりたずさへし
猟酒(れいしゅ)くミかはし 不計(はからず)も花のもとにて黄昏に及
ぬれハ 麓へくだる間もなきまま この岩窟の
烟をめどに攀蹐れり 何卒御疑をはらされて一
宿の御芳志にあづからバ 夜もすがら酒宴をま
ふけ御物語りもうけ給ハリたし 一樹の陰一河
の流も多生の縁とやら承ハれぱ 幾重にも御芳
志の程たのミ奉る と辞をやわらげ身をへりく
だって宣ふにぞ 忍辱の色面にあらわれ 童子
も 殆 ゑみをふくミ 眷族共も酒宴と聞より詞
も和らぎ 客僧ちかふとすすむれば 皆々した
りとすすみより 四方山のものがたりに童子も
打とけ 扨某 もとは越後の国のものなりしが
子細あって此山に竄捷(かくれすみ) すがたは夜叉のごと
くなれども 心はまったく木石ならず 都の酒
ときけば馴(なつ)かし 定てかくべつの風味ならん
昔をおもひいださるると語りければ しからば
一献めしあがられよ と渡辺酒を取出し童子が
まへにさし出せば 先客僧たち試給へと言け
れば 頼光おうと引請て 童子にさし給へぱ
丁とうけてのむ  味かんろもかくやと舌うち
し 我未かやうのあじわひ此界にあることをし
らず 扨々古今無双の香醪(よきさけ)也としやうくわんし
引きうけ引うけ数杯をかたむけ 夫より次第に
呑流し けんぞく共ハ猶更此味に気をとられ
手のまひ足のふミ所をもしらず 童子大に興に
入り 肴をもてといひければ 眷族ども指心得
鹿猿のやきたるを持出れば 童子これをヒキサキ頼
光にすすむ 頼光受て何気なく賞翫して喰ひ
給へぱ 童子ハ気色改めて  最前よりウカガヒ見
るに我をはからんため 姿をやつしてこの所へ
きたる者ならん 皆々油断いたすなといふを聞
より五人の面々 はっとおもへど頼光は少しも
騒がず わが根本行者のいましめハ 人の意と
やぶらず柔和忍辱を肝要とし 施食ならバいか
なるもの也とも食すべし 又五穀なき地に至て
は鳥獣鱗甲のたぐひを食すとも 大乗の法門を
成就す認へしと説給へりと泰然として仰座るを童
子つくづく打眺め 扨々恐れ入たる客僧の心ば
へかな この方の意におそるる所あるゆへに
さもなき客僧たちを疑ひつるものか南 と打笑
ひさいつおさへつのミしむれば 頼光も扇をひ
らきかい立て 舞の袂をひるがへし 興じて時
をぞうつしける  扨童子ハ ふしぎの縁にて
快酒宴し 大に酩酊いたしたり 各々がたも
暫くやすみ給へと会釈して奥の一間へ入けれバ
 眷族共も性体なく ここかしこに酔臥けり
時分はよしと六人は 甲冑に身をかため 頼光
ハ神よりさずかりし甲を冠 鬼切丸の名剣を帯
し 童子が枕辺に立寄たまひ いかに酒顛童子
 たしかにきけ 四海の内に身を置きながら王
威をおそれず 国民を悩乱す 其罪をたださん
ため清和源氏の嫡流多田満仲が一子摂津守源の
朝臣頼光 勅撰を蒙 て追討に向ふたり つつ
しんで覚悟いたせといひさま胸板つきとふせば
 苦むこゑにおどろくけんぞく 逃出んとする
所を はやりきったる四天王右につき左に切ふ
せ残るものなく討取ける 童子ハいかりのはが
ミをなし、おきあがらんと心ハ矢竹にはやれど
も 急所のいたでと神酒のなやミにはたらきゑ
ず これ迄とやおもひけん 頼光をはったとに
らミ 斯(かく)運命つくる上ハぜひにおよばず 設(たと)ひ
命はくちる共 見よ見よ魂魄首にとどまり 禁
廷へ飛入てうらみをはらさん 思ひしれと罵る
くびを打落せば 忽ち頼光の御首にくひ付を
心得たりと切はらへば 八枚かさねの御兜 鬼
神の歯ぶし七まい迄ハ徹るといへども ふしぎ
や神明守護の御兜はさはりなく 御身にあやま
ちなかりけり 佐鬼の首は怒の火烟を吹ながら
 虚空に乗じ都をさして飛行しが 王城の威に
やおそれけん 丹波山城のさかいなる 大江の
坂にて落たりけり 頼国は数日鬼ケ城をせめな
やまし 悪党のこらず打亡し 鬼ケ城をやきす
てて 凱歌を上る折こそあれ 鬼の首の落けれ
ば 千丈が嶽の首領もほろびしことをさとり
悦び玉ふこと限なく 鬼のくびを鎗につらぬき
厳重にまもらせ 父頼光をまちうけて相互に
吉左右を祝し、おのおの隊伍をみださず 行列
美々しく武威をかがやかし帰京あるこそゆゆし
けれ 洛中の諸人ハ申に及ばず 近国の人々迄
鬼の首見物せんと道すじせばしと群集をなす
さて鬼の首は 京中大道を引渡し 七条河原に
七日さらし 大江の坂にほふむりて首塚明神と
名づけ地蔵堂を建立し かの亡魂得脱の冥福を
修せられ 永く悪鬼のたたりハ止にけり 扨ま
た近国よりとらはれしあまたの婦人 ことごと
く古郷へおくり玉へば 死たる人の甦たる心
地して 万民のよろこび大かたならず 誠にか
かるおそるしき通力自在の悪鬼まで退治し給ふ
こと前代未聞の名大将 遖(あっぱ)れ四海の父母なりと
たのもしく各々喜悦の相を流してうやまひけ
る 帝王御感浅からず 大に頼光を御褒美あつ
て 肥前守に任ぜられ 保昌は丹後守に補せら
れ 頼国ならびに四天王保友そのほか軍卒ども
功にしたがって勧賞をたまハり 四海太平国
家安寧に治りしハ 実に神国のいさほし 目出
たかりける次第なり


    大江山名所
  石に鬼のあしがた

  頼光こしかけ石
  三神みちびきの二瀬川
  官女のせんだく石
  千丈がたき
  五入道かいけ
  公時よきとぎ石
  酒顛童栖の岩窟
  右名所一覧被成度御方者
  御案内可申候


      桝屋卯右ヱ門

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酒呑童子伝説

『由良川考古学散歩』に、


(酒呑童子伝説)

【平安王朝に叛いた鬼】
 時は平安朝、一条天皇の頃である。
西暦一○○○年前後、京の都は栄えていたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていた。
そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から、姫君たちを次々とさらったのである。
 姫君たちを奪い返し、酒呑童子を退治するため大江山に差し向けられたのが、源頼光を頭に坂田金時、渡辺綱ら六名である。
 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会う。
一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着く。
 酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待するが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼にも飲ませて酔い潰し、童子を討ち、手下の鬼共を討ち果たす。捕らわれている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上るのである。
 討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすため、持ち帰られるが、途中、丹波・山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたのである。


【由良川流域の伝説】

 酒呑童子伝説の最古の伝本「香取本大江山絵詞」(逸翁美術館蔵)では山の所在について、「大江山は都の西北」「鬼隠しの里は深山幽谷」とあるだけである。謡曲「大江山」では舞台が老の坂を思わせるが、酒呑童子伝説を民衆へ広めた「御伽草子」では明確に大江山になる。鬼の岩屋(たぶん加悦町温江)
 「御伽草子」以降、酒呑童子伝説の舞台となる大江山周辺には、鬼の足跡、酒呑童子屋敷跡、鬼の岩屋、酒呑童子供養塔など数多くの関連する伝説を残しているが、福知山市三岳山一帯にも数多く残っている。頼光一行は三岳山に登って大江山の鬼の有様を見たといい、ゆえに「見立山(みたてやま)」ともよばれたという。また、山頂近くの蔵王権現に一行は七日七夜鬼退治成功の祈願をし、そのおりの祈願文は麓の喜多にある金光寺の寺宝として伝えられているほか、頼光が地面にさしたところ根をおろしたという大杉「頼光の逆さ杉」(昭和三十四年倒伏)など多彩である。
 その中でも、上野条の御勝八幡宮に伝わる「紫宸殿田楽舞」(びんささら踊り)は、頼光が鬼退治に向かう途中、この宮に詣で鬼退治の祈願をし、帰途再びここに立ち寄りその加護に感謝し田楽舞を奉じたことに始まるといい、二十五年目ごとの祭礼に奉納されるものである。鬼の岩屋

写真は鬼の岩屋。まさかオニはいないだろうがクマゴローに出会わないかとビクビクしながら行ってきた。加悦の小学生の遠足コースだそうで、遠足と言えばここであったそうである。もっとも50年も昔の小学生の話で今はどうなのかは知らない。暗くて見えにくいので赤い色が付けてあるがストロボの光である。大人一人がなんとか入れる程度の天然の穴である。ここからは眼下に加悦町がよく見えて郷土の時空が一点に集中しているような最高の遠足コースだと思う。左の鉛筆が展望台、右の鉛筆の指す少し低くなったところに鬼の岩屋がある。この岩屋は意外と深い穴で、私が一人で入るには危険なので入らなかったが入った人の記録を紹介しておく。

【酒呑童子の原像とは】

 酒呑童子の原像をめぐっては山の神、疫病神、異国の漂流者、山人などさまざまな説があるが、伝説の舞台が大江山・三岳山ということから、次の二つの説が魅力的である。この辺りは大江町ではないのだが、ご親切にありがとう
 まず、「鬼伝説のあるところ鉱山あり」と言われるほど鬼と鉱山の結びつきは全国的にみられ、「鉱山師」「製鉄民」の説が考えられる。酒呑童子伝説の中では、酒呑童子の住処は鉄(くろがね)の築地に鉄の門とある。大江山一帯にも古いタタラの跡が残っており、現在でも北原の「魔谷」では鉄滓を拾うことができる。そして、古代丹波から丹後へ向かうルートのひとつとして大江山を越えて行くルートの玄関口に位置する段遺跡(大江町字関)では、鎌倉時代初め頃のものと思われる鍛冶生産関係の遺物が出土している。また、大江山の不甲峠にはかって布甲神社があり、「天吹男命(あめのふくおのみこと)」が祭神として祀られていたといわれ、「吹男」はタタラを吹く男、つまり製鉄の神とも想像される。
 一方で、酒呑童子伝説には修験の色が濃いことが多くの人に指摘されている。酒呑童子の生い立ちで、もともとの住処である比叡山を追われ、大江山へたどり着くまでに遍歴する山々は、すべて修験の霊峰である。また、頼光の一行が、酒呑童子を欺くために山伏姿に身をかえたことはよく知られている。
 大江山は古くから三岳山とともに修験の山であり、現在も修験の遺跡・遺物は多い。宮本正章氏は、酒呑童子物語の作者は修験ゆかりの人、そして、大江山に鬼伝説を定着させたのも、修験者たちではないかと推測している。

【鬼としての酒呑童子】

「鬼は人の心を映す鏡である」などといわれ、日本人の心や文化の深層に潜み、生き続けている。そんな鬼の系譜の中で酒呑童子はどのような鬼なのだろうか。
 鬼の原型はやはりモノであろう。モノとは、神とも妖怪ともつかぬ精霊、超自然的な力をもち、人に災いをもたらす。しかし、日本の鬼は時には福をもたらすのである。オニの語源が隠人なのか大人なのかそれとも外来語のアニなのか全く分からないが、こうした漠然としたモノの中からオニが生まれたのであろう。
 中国から「鬼」(キ=死霊)が入り、仏教とともに鬼神が伝わる。さらに陰陽道や修験道も鬼を多様で複雑なものにしていく。こうして、形づくられた鬼は「隠なるもの」姿なきものであり、信仰との結びつきが強かった。
 中世になると、鬼より怖い武士の出現により鬼は落ちぶれていく。酒呑童子伝説が成立した南北朝は動乱の時代である。大酒を飲み、王権に叛き、暴れまわる。しかし、鬼の神道力もうすれ、毒酒を飲まきれ結局退治されてしまう。武士の武勇を賛美するイケニエとされてしまう。酒呑童子はそうした中世の鬼の典型であるといえよう。
 酒呑童子伝説は、あくまでも悪者としての酒呑童子を描写しているが、一方で同情的描写が随所にみられる。
そのきわめつけが、酒呑童子の最後の言葉「鬼に横道なきものを」といいう叫びである。横道とは、悪いこととしりつつ行うことである。
 この物語の作者も支配者達の前で鬼の芸を演じさせられた人々も時代の勝者ではなかった。だからこそ、討たれる酒呑童子に哀感を込めて、敗者にも正義のあることを訴えたかったのであろう。

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鬼の洞窟探検記

『大江町誌』に、(三編とも)

の洞窟探検記
     (昭五二・九・六 毎日新聞の記事)(図も)

 (前略)今では地元の人も寄りつかぬ洞窟を探検した結果、洞窟の構造は、縦横穴混合の不定形で奥行き約四十メートルもあることがわかり鬼が住んだという伝説もなるほどと、うなずかせるだけの神秘性を漂わせるものだったという。鬼の岩屋の図
 大江山は丹後丹波国境に、主峰八三三メートルの千丈ケ獄を中心に赤石獄、鳩ヶ峰、鍋塚、鬼の岩屋からなる連峰。室町時代の「お伽草子」に書かれた鬼退治の話は、正式の史実にはないが、藤原氏の政治に反抗、山陰から京の都への道をはばんで貢物などを横奪した酒呑童子一党を、朝廷の命で源頼光が坂田金時ら四天王とともに討伐したという見方をする向きがある。伝説によると、酒呑童子は越後の生まれとされており、当時、反藤原の一党が全国にたむろしていた一つの証拠とみなされている。
 岩屋の入口は上下二カ所あり、探検隊は上の方をかがんで入った。まもなく落盤跡があり、天井が吹き抜けている。吉井さん(吉井教授)は十数年前、一度この辺まで調査し、ムカデに似たヤスデ科の新種 ヨパネルコドスを見つけ、学界に発表している。約十メートルで縦穴があり下へ落ち込む。
 高さ約三メートルの縦穴を降りると窟道が開け、奥行き約十メートル、幅約二メートル、高さ約五メートルの千畳敷が広がる。地下水が流れ泥質、隅に犬の白骨死体があった。この辺までは地元でも入った人は多い。
 突きあたりには高さ約五メートルの岩盤が切り立つ。ロープを使い、降りかけたところで、蚕が卵を生みつけた種紙を保存する横木(一・五メートル)が見つかった。同町の古老、大江松助さん(九四)の話では「綾部の養蚕業者が卵保存用の天然冷蔵庫として使っていた」といい、実証されたわけで、吉井さんも「大正中期には全国至る所の洞窟で蚕の種紙を保存していた」と、鬼の岩屋もかっては人間生活と深い関わりがあったことを裏付けている。
 岩盤を降りると立って歩けるほどの横穴、続いて上りこう配の窟道が約八メートルあり、ここで行き止まり。しかし、隅に実測不能の深い縦穴が落ちくぼんでおり「下部にもっと深い穴があるらしい」と吉井さんは次回探検の必要性を説いた。
 吉井さんは千畳敦で体長二ミリメートルほどの薄茶色の虫を採取、生物学上貴重な拾い物ではないかと研究室での鑑定に心をはやらせているが、地学的にも、蛇紋岩地帯の大江山で洞窟付近だけ石灰岩質が分布しているなど、多くの発見をした探検だった。しかし、窟道は真っ暗な上に、せまく、常時落盤の危険もあり、同町の期待に反しておよそ観光利用はできないことが判明したばかりか、危険なため「絶対なかに入らないように」という警告が出て、目標とはうらはらの皮肉な結果となった。(後略)

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加悦町文化協会の機関誌「土塊」に野田川町の小牧(改姓小池)進三氏によって紹介された「鬼の洞窟探検記」である。筆者はだれかよくわからないという。鬼の岩屋入口

…洞穴の口は漏斗状に開き、左右の石壁さながら人工を加へたるが如く、頭上を圧する岩の光りに首筋ちぢめて窟の中を窺うと、ほのかに日光のさし込む明り窓、真下には一抱へにも余る大岩が横ざまに穴を塞いでいる。地震か何かでくずれ落ちたものらしい。一行は手に手に用意し来たれる百目掛けの大ローソクをたよりに、シャツ、ズボンの下構へして腹這いしつ、くの字なりにすぐりもぐりして奥へ奥へと手探り寄る。清水の滴り、赤泥のぬめり、ローソクの光は力なければ四肢の感覚ひとつにて斜に一丈ばかり滑り下ると、背と胸とがギッシリ岩間に狭まれて身動きもならず。高さ二間ばかりの岩間をよじ、天井石のブラ下ったところをまたもや斜に二間ほど奈落の底へ引き入れられた所に枝つきの木の幹が梯子にしてある。枝を足場に下りてはまた岩角に取りつき、二丈ばかりも突立ちたる二本の丸太に足をかけると、左手の穴の下はローソクの光の及ぶ限り底知れぬ深みの恐ろしさ。向うの岩角へ手をかけると、馬の背のような三丈ばかりの岩に木口の四角な橋が架っているが、穴の狭いのと身内の冷えまさるのとで身動きもならず。この橋さへかろうじて渡り尽くせるものならば、その奥の方は少しは広く窟の中へ出られるらしく思はれた。僕も中ほどまでは入って見たが、そこまでは足が届かず、お先へご免蒙りて洞穴の口に休んでいると、跡からでてきた一行の人々は、頭の先まで泥だらけになりて皮膚には血さへにじんでいる。そのさま今福の爆発騒ぎを目撃した遭難者よろしくの体たらく。
 かくまで狭苦しい穴の中では、どうして鬼が棲まれよう筈はない。大蛇のすみかに適当した窟であるから、酒呑童子の立こもったといふのは必定作り物語りに過ぎない。その根城はやはり来がけに望んだ山塞に相違あるまい。一行の跡を追うて来た群馬県からの探検隊を後詰とし、付近の実景を写真師の手に任かせて、帰路につき、千丈ケ獄の方向に道をかえて凱歌を奏した。…

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舞鶴市で発表された「水兵さんの旅日記」である。この記録は明治四十一年夏、当時海軍軍人であった木下裕佐久氏が、休暇を利用して東舞鶴−藤津−高津江−二俣−元伊勢内宮−大江山−生野鉱山を歴遊した旅日記である。全文が『市史編纂だより』にある。

…時ニ午前八時、直チニ探険準備、鬼の岩屋から見る加悦の町
 衣ヲ脱シ蝋燭ニ火ヲ点ジ燐寸、ナイフ、携帯綱、襦袢、脚絆、足袋、腹巻、下帯ナド締メ穴口ニ向フ。岩ト岩トノ口何トナク気持悪ク身ノ毛ノヨダツ位、洞穴探険穴口二、三間ノ内ハ稍々身体モ自由ニ夫レヨリハ胴丈ヨリ通ラザル岩ト岩トノ間ヲ下ニ降リ、此所ノ長サ四、五尺幅二、三尺ノ所在リ。夫レヨリ岩ヲ登ルニ滑ル故二、三尺ノ丸太縦ニ立テアル、其レニ足ヲ掛ケ、漸ニシテヨジ登リヨジ登リ、曲リ曲ツテ入ル事一丁余ト思シキ時、上ヲ見テモ下ヲ見テモ人間ノ身ヲ横ノ儘ニナラザレバ動ク能ハザル場所、モー少シ奥ニ入ラント思ヒシカド、最早時間モ割合ニ消シ後ノ行程モアレバ是ニテ中止シ、元来シ穴ヲシタイザリニ出ズ。
 此度ハ入リシ時ヨリモ困難、之レ燭火ヲ手ニ以テ頭ヨリ先キニ出ズル事得ザレバナリ。若今燈火消へシナレバ前後ニ動ク事モナラザル始末、中々燈火ガ大切ダ。漸クニシテ穴ロニ出ズ。身体ハ土力泥カ一面ニ泥、唯泥ノ付カザルハ下帯卜腹巻ノ裏ノミ、水ニテ洗ハントスルモニ千尺以上ノ山上故水一滴モナク、大ニ困ジ手拭ニツバ付ケ身体ヲ粗々ニ拭ヒ意ナラズモ衣ヲ着シ腹巻ト下帯ヲ雑嚢ニ納メ、綱、襦袢ハ穴口ニ捨テ未ダ空腹ヲ感ゼザリシモ見晴宜キ岩ニ腰打掛、弁当ノ握飯三個ノ内一個ヲ食シ残り大切ニ納メ探検ノ理由、年月日ナドヲ蝋燭ノ蝋ヲ以テ記シ元来シ道へト向ヒヌ。…

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酒呑童子伝説

『大江町誌』に、

  第二章 酒顛童子

  第一節 鬼ヶ茶屋本


 酒顛童子は越後国蒲原郡の百姓の子で胎内に一六か月もいた。生まれながらに歯が生えそろい、よくものをいい、歩み走り、五〜六歳の幼児のようであった。成長するにしたがって乱暴をはたらくようになり、親からも見はなされていたが、同国久上村の悪僧から邪法を学び悪事をかさねた。ついに賊の頭目となって大江山にこもり、妖術をつかってあばれ廻るようになった。
 時は一条天皇の永延三年八月七日辰の刻、都の空にわかにくもり、風がおこり、民家の神殿仏閣の屋根が飛び、家がたおれ、おびただしい死傷者が出た。人々みな驚き、朝廷では国々の神社へ使を出して祈願をした。博士阿部晴明は、「西山に妖鬼住み、王法をたおそうとしている」と占った。そこへ丹波国目代の藤原保友から、大江山に酒顛童子という賊がこもり、通力自在の手下をつかい、多くの人を殺し、女をぬすんだが、首領は同月上旬茨木童子にその城をあずけ、七〜八人の手下をつれて丹後国千丈ヶ獄の岩窟へうつったことを知らせ、すみやかに官兵をもって討たれたいと言ってきた。
 そこで鬼賊追討の勅令が、源頼光に下った。頼光に縁故のある藤原保昌は、願い出て行を共にすることをゆるされた。頼光は、一子源頼国をはじめとし一二○○騎の軍卒をひきつれて出発したが、道々思うには、このたびの敵は通力自在であるから神仏のたすけがなくてはかなわじと、途中軍をとどめ、日頃念じている八幡・熊野・住吉の三神に祈願した。そして、しばしまどろんだころ夢の中に八幡大菩薩が現れ、「今度の討伐は、小勢で奇策を用いよ」との神託をさずかった。それで頼光は病気と称し、軍勢の総大将には一子頼国を任じて軍を進めさせ、自分は、藤原保昌並びに四天王の面々確井貞光・卜部季武・渡辺源吾綱・坂田公時を伴い摂州多田の居城へ帰る風をよそおった。こうして主従六人は、大峰修業の山伏に姿をやつし、首領酒顛童子のかくれすむという千丈ヶ獄に向かったのである。時に正暦元年三月二十一日であったという。一行はその日のうちに福知山につぎ、そこから三岳山によじのぼり、山上の蔵王権現に願文をささげ、四方をうちながめたところ、東北の方はるか彼方に岩山がありかすかに煙が立ちのぼっていた。あれが童子のすみかにちがいないと道をいそいだ。途中元伊勢外宮・内宮・岩戸へも祈願をこめて山を分けて進んだ。谷をわたり岩壁をよじのぼり、どこが道ともわからぬまま、しばらく休むところへ三人の老人がしおしおと通りかかった。渡辺綱が怪しんで声をかけると「われわれは、このあたりの者であるが、妖鬼に妻子をとられ、あまりの悲しさに共にとられて死出の道づれにしようと思い鬼ヶ岩屋へ行く。」とのこと。保昌は、「われらもその鬼に用事あるもの。案内を頼む」と老人を先に立てて道をいそいだ。老人たちは、深い谷には大木を渡して案内した。麓より三里ばかりも来たと思うところの岩かげに、遅桜の咲きこぼれる下で花をめでながらしばらく休んだ。その時三人の老人は、「向うの岩窟が童子のすみかである。この鬼酒を好み顛倒するゆえ酒顛童子というのである。さてまた我等が持つ酒は、神変奇特酒とて、こちらが用いると力を増し、鬼賊が飲むと毒となって動くことができない。またこの兜は神明御守護の御兜である。それぞれが鬼賊に用があるというのは追討ちの御使者と思われる。しからば童子は我らが為にも敵なれば、この品をゆずるものである」といいおいて一陣の風と共に消え失せた。これまさに三神のお助けと勇気を増して進むうち川のほとりに出た。川の水が血に染まっているので不思議に思いながら川に沿ってしばらく行くと、官女と思われる婦人が血に染まった衣を洗っているのであった。頼光が、「都の人であろう」とたずねると、婦人は大いによろこび様子をくわしく語った。そこから官女を案内に岩窟についた。そこには高さ二丈ばかりの石門があり、扉は石で囲ってあった。怒る門番をなだめ奥の方をうかがうと、身の丈八尺ばかりの童子と思われる大男が、髪はかぶろになで下げ、一丈ばかりの鉄棒を杖にして立っていた。そして、「こんなところまでやって来るのは、きっと討手であろう。」と、頼光をにらみつけたが、頼光は少しも動ぜず、「山伏修業の道は、深い山や毒獣悪鬼の難もいとわないものである。このたび大峰三山で修行をおわり、伯耆の大山へ参るのであるが、途中、岩かげの桜に心ひかれ都からたずさえた酒をくみかわすうちに日暮れとなり、この岩屋の畑をめあてによじのぼったのである。一夜の宿をたまわれば、夜もすがら酒宴をして御物語を聞かせてほしい。」と、言葉をつくして頼んだ。酒宴ときいて童子たちの心もやわらぎ、一夜の宿が許され酒もりとなった。六人は笈の中から酒をとり出してすすめた。鹿猿のそのまま焼いたものなどが出され、頼光も扇子をひらいて舞をまうなど、みなみな興じて時をすごした。やがて童子は奥の一間に入り、手下どもは正体もなく酔い臥してしまった。この時主従六人甲兜に身を固め、頼光は神から授かった兜をかむり、鬼切丸の名剣を抜いて童子の胸板を突き通した。あわてて逃げようとする手下共は、待ちかまえた四天王がなんなく討ちとった。童子も、もうこれまでと頼光をハタとにらみ、「かく運命尺くる上は是非に及ばず。たとい命尽くるとも魂魄首にとどまり、禁廷へ飛び入り恨みを晴らさん」と叫んだ。頼光が首を打ち落とすと、その首は空中に舞い上り、舞い下り、頼光の兜にかみついた。頼光がそれを切りはらうと、首は再び空中に舞い上り、火烟をふきながら都をさして飛んでいった。そして丹波山城のざかいの大江の坂に落ちた。頼光の兜は七枚まで鬼神の歯がとおっていたが、あと一枚で無事であったという。
 一方、源頼国も茨木童子をせめて、これを打ち亡ぼし、鬼の城を焼きすて凱歌をあげて帰路についていたが、鬼の首の落ちたのを見て、千丈ヶ獄の首領も亡びたことを知った。その首を鎗の先につきさし、厳重に守らせ、父頼光を待ちうけ、共に都へひき上げた。首は京中の大路を引きまわし、七条河原に七日間さらし、大江の坂に葬り、首塚明神と名づけ地蔵堂を建立した。
 この功により頼光は肥前守に任ぜられ、保昌は丹後の国守に補せられた。(鬼ヶ茶屋本大江山千丈ヶ獄「酒呑童子由来」による)


    第二節 源頼光と酒顛童子


     (一) 源 頼 光


 大江山の鬼退治物語はあくまで伝説であって史実ではない。しかし、この伝説に登場する一方の主人公である源頼光は確実に実在する人物である。頼光は、源氏の正系満仲の長子として、天暦二年(九四八)に生まれ、治安元年(一○二一)に七四歳で没した。父の満仲は摂津国多田荘に本拠をもち、いまこの多田には満仲・頼光を祀る多田神社がある。頼光は、一般には摂津守頼光と呼ばれるように、満仲のあとをうけて摂津多田の地へ入ったといわれており、父ゆずりの一定の武力は持っていたであろう。しかし、頼光の生涯をたどるとき、そこに明確に武士団の存在を認めることはまず無理で、大江山で鬼退治をした話をはじめとして、頼光は武略にたけた人物という印象を与えるが、これらに要するに検非違使や衛府の官人として盗賊を捕えたという域を出るものではなかったといわれる。
 頼光が史料に出てくるのは、永延三年(九八八)「日本紀略」にみられるのが最初であるといわれるから頼光四○歳のときであり、それ以前の頼光については不明であるが、その後備前・美濃・伯耆・讃岐・尾張・但馬・伊予などの国司を歴任している。歴任した国司の大半は遥任(実際には任地に行かず収入だけを得る)で、自身は平安京に住んでいたことが多く、京都市松原堀川の来迎堂町は頼光堂の転じたもので、ここに頼光の邸宅があったのだという。
 頼光の壮年時代である十世紀末から十一世紀初の時期は、道長が栄華を極めた藤原氏全盛の時代で、国司の任免権も摂関家である藤原氏の手中にあった。頼光の生涯は、諸国の国司を歴任することによって得た財力で藤原氏にとりいって、都にあって摂関家の警護役を果たし、武士としてよりもむしろ貴族生活になれ親しんだ生涯であったといわれる。このことは、頼光の三人の娘が摂関家若しくは上級貴族と結婚していることでもうかがえる。後一条天皇即位のときには、正四位下に叙せられ昇殿を許されている。
 このように、頼光の一生は摂関家との関係の密な平安京の貴族としての生涯であり、酒顛童子退治の物語に登場する武勇衆にすぐれた名将とは程遠い人物像が浮かびあがる。ところが、「平家物語」や「源平盛衰記」の時代になると、武勇たぐいなき名将として描かれるようになる。人物叢書「源頼光」の著者鮎沢寿は、その中で大江山鬼退治伝説の成立にふれ、「御伽草子の作者が、その物語の最後を『かの頼光の御手柄ためし少き弓取とて、上一人より下万民に至るまで感ぜぬ者はなかりける』と結んでいるところから察せられるように、源氏の嫡流の頼光を賞讃することに主眼をおいたのではなかったろうか。作者は、そのために「源平盛衰記」や「太平記」などを参酌しつつこの物語を創作したものと考えられる」として、大江山鬼退治物語を源氏の功名譚として位置づけている。


     (二) 酒顛童子


 もう一方の主人公である酒顛童子であるが、これはもちろん創作された想像上の存在である。そうした仮空の存在に考証を加えるということもおかしな話であるが、酒顛童子については、江戸時代から現在にいたるまで、多くの人々によっていろいろな解釈がされてきた。
 酒顛童子について考える前に鬼について考えてみる。鬼の概念は多様であり、時代によっても変化しているので簡単な説明で片づけることには無理があるが、中国では、古くから死者の魂がかえってきたものと考えられていた。しだいに怪力にして人の禍福に影響を与えるものへと具体化していった。こうした中国の鬼の概念が日本へ入り、固有の思想と結合して日本独自の鬼を生んでいった。日本古来の鬼は、「記紀」などでは、「服従をよろこばぬ邪しき荒魂(あらたま)」とされ、麻呂子親王伝説の中の鬼にもみられるように皇威に帰順しないものを指していた。しかし民衆の間では、子孫を祝福にかえってくる祖霊や、士地に長くすみついて地域に影響を与える地霊なども鬼と考えられていた。鬼は「隠(おん)」の訛りであるといわれ、こうした鬼の拠点は山岳とされた。山塊の威容と霊力が信仰されていたからであろうが、鬼は神に近いおそるべくつつしむべき力をもって山を支配するものと考えられていたのである。
 平安時代に入ると、鬼の概念は変化し、醜悪にして畏怖すべき形相と変化自在なる怪力をもった超人間的なおそろしい怪物となる。大江山の酒顛童子や羅生門の鬼などはその典型であって、凶暴な怪異性をもつと共に、どこかに疎外、脱落といった暗黒の人生を感じさせる半面をもっている。鬼の形については、陰陽道で「艮」を鬼門とするところから、牛角と虎皮をとりあわせたものだといわれるが、こうした語呂あわせとは別に、耕地を持たぬものの文化的なおくれと精神的な飢が象徴されているのだといわれる。
 ところで、酒顛童子の名の由来であるが、酒顛は、酒呑・酒天・酒伝・酒典などとも書かれている。酒顛は、酒好きを通りこして酒狂、酒乱に通じるとされ、はじめは酒呑童子と書かれていたのが、江戸時代に入り酒顛童子となったといわれる。鬼の首領としては酒呑より酒顛の方が凄味を感じさせたのであろう。その名が酒に縁のあるところから、昔朝鮮から渡った酒造りの一族、酒君を祀った社が、丹波丹後山城摂津などの各地にあり、天酒大明神、酒殿社などの名で呼ばれているところから、酒顛童子は、そうした社に縁の深い、移民族間にいいはやされていた酒好きに対する一種の愛称で、それを同じく大陸から渡ってきた猿楽師たちの古曲に、しゅてん童子の古名が出ていたのを、謡曲作者が踏襲したのではないかという説もある。
 童子というのは、寺小姓の年長けたものというのが定説で、寺の長老たちの供をつとめる稚児は、修行後得度して僧となるものが多かったが、僧になりそこない大人になっても稚児と同じ仕事に甘んじている人々をさす言葉であった。僧になり損ねた人であるから、不満と無気力な気持があった。その上一応の読み書きはできるし、行列の供として護衛をしなければならぬから、武道の修行もつんでいたことであろう。このように酒顛童子の名の由来をみると、貴族政治の腐敗から社会の混乱がその極に達し、群盗が暴れまわった平安後期の混乱期に出現する暴れものに冠する名として、まさにぴったりの名であったといえる。
 酒顛童子を何者とみるのかについてはいろいろな説が出されている。伝説の主人公について、これほどまでに議論されているのも珍らしい。その中で、最も一般的なのが越後国出生説で、「御伽草子」はもちろんのことほとんどがこの説をとる。大江町仏性寺鬼ヶ茶屋に残る「酒呑童子由来」もこの説にたつ。越後国蒲原郡島上村(新潟県西蒲原郡吉田町)に生まれ、同郡の国上寺の寺小姓となり、長じて比叡山の童子となったというもので、国上寺には酒顛童子絵巻をはじめとした寺宝や縁起があって、酒顛童子の生いたちが伝えられており、童子屋敷と呼ぶ住居跡も残るという。童子といえば、大江山の鬼は酒顛童子以下、次将の茨木童子・鬼の方の四天王とされる熊童子・虎熊童子。ほしくま童子・かね童子など、童子の名がついていて、童子上りの鬼の集団として描かれ、鬼の現実性を出そうとしているかにみえる。丹波国と越後国が結びついているのに奇異の感じがしないでもないが、後述するように、大江山鬼退治物語が全国に散在した鬼退治伝説の集大成として成立したことと深いかかわりがあるように思える。
 そのほか、比叡山延暦寺の稚児説、漂着外国人説、不平貴族の反抗説帰化人の酒造業者説など、それぞれに興味深い考え方が出されているが、近年になって注目すべき説が提起されている。それはこれら鬼とよばれる集団が、鉱山開発と関係があったのではないかというものである。この説については後述する。


    第三節 物語の成立


     (一) 物語の時代背景


 次に、この物語の時代背景であるが、この物語に出てくる鬼退治の年代には二つの年代がある。一つは正暦元年(九九○)説で、「武家評林」には「正暦元年三月、源頼光丹後千丈ヶ獄に於て夷賊を誅伐す」とある

といわれ、「御伽草子」をはじめとする多くの書物もこの年のできごととしている。もう一つは寛仁元年(一○一七)説である。これらの年月に客観的根拠があるとは思えず、各地の願文なども、恐らく「前太平記」十九の巻「頼光朝臣打越丹波事付籠宮権現願書事」の条に付会しての偽作であろうといわれており、そう意味のあることではない。ただ、この十世紀末から十一世紀にかけての時代は、表面華やかな摂関家全盛の時代であるが、民衆たちは、政治の乱れによる飢饉、疫病の流行や天災、それに盗賊の横行になやまされ苦しい生活を強いられており、こうした不公平な暮らしに対する不満は大きかったであろう。一方、貴族たち支配者の側からすれば、次から次へ起こる天災や地変、盗賊の横行など悪いことはすべて鬼のしわざとして民衆にいいふらすことによって、自分たちの失政をごまかそうとしたのかもしれない。そして、圧政に抵抗するすべを知らぬ民衆たちは、朝廷の貢物を奪い、貴族たちに抵抗する鬼に自分たちの果たせぬ夢や願を託しているのではなかろうか。平安中期は、鬼を出現させるにふさわしい背景をもっていたといえる。


     (二) 酒顛童子物語の成立過程


 次に大江山鬼退治物語の成立過程について考えてみよう。この伝説が日本を代表する鬼退治物語となったのは、室町時代に出版された「御伽草子」がそのきっかけであった。「御伽草子」以前にその母胎となった作品があったことについては後述するが、この物語の成立について注目すべき考え方があるのでまずこれを紹介しよう。それは、中国の古書「白猿伝」の影響を強く受けているのではないかという説である。江戸時代中期の思想家として有名な貝原益軒も、「扶桑記勝」の中で 丹波大江山の酒顛童子は古の盗賊なり。鬼の形をまねて、人の財をかすめ、婦女を盗みとる、もろこしの白猿伝といふ
書にしるせる白猿の所作と相似たり(下略)
 とのべている。参考までに「白猿伝」の概要を記すと、

  梁の武帝の大同二年に、欧陽コツというもの山中を通るとき、妻を鬼に奮われたのでその行方を尋ね、兵三十人を従えて山谷に分け入り、葛をつたい、木をよじ登ると石門に出た。そこには婦女数十人が遊んでいた。コツらをみて驚き、来意をたずねたので、コツがそのわけを話すと、その婦人は病に伏して床にあるという。女たちは、私たちも鬼神に奪われて、こゝにつれてこられたものであるが、今、私たちに美酒二斛、犬十匹、麻数十斤を与えられるなら、必ず謀って鬼神を討たせよう、かの鬼神は、犬を好みて喰い酒を飲み、酔うふと自力をためすといって五色の練(ねりぎぬ)で手足を床に結いつけさせ、やがて一度におどって練を断つのを例とする。いま、その練の中に麻を入れ縄にして結いつければ、断つこともかなわないだろう。また彼は、膚は鉄のように固く、刀槍も及ばないが、臍下だけは肉身だから、そこを刺せば必ず死ぬだろう。しばらく待ちなさいという。コツは、いわれるまゝに家に帰り、酒と犬とを携えて再びやって来て、酒を樹の下に置き、犬を林の中に置いてかくれた。鬼神はとんできて、犬を引き裂いて食べ、酒七、八斗を飲み泥酔してしまった。女たちが手をひいて洞につれて入った。しばらくすると女たちが出て来てコツを呼ぶのでコツらが洞中に入ると、大きな白猿が四足を床につながれていた。そして縄を解こうとするのだがとけずにあばれている。そこでコツらは鬼の臍下を刺して殺し、妻をはじめ婦女たちを助け出し、鬼の貯えた財物をもって帰った。

確かに酒顛童子物語と類似点が多く、その成立に影響を与えているように思える。
「鬼の研究」の著者知切光蔵は、酒顛童子の話が巷間に流布されはじめたのは室町中期以降であるとし、近江伊吹山の弥三郎伝説につながる「伊吹童子」や越後の「国上寺縁起」にある鬼子伝説などの口碑伝承をもとにまとまっていったもので、作品となった最初のものは謡曲「大江山」であろうと推定されているが、「御伽草子」の酒顛童子物語は、前述の中国の説話の影響もうけながら、日本各地に残る鬼に関する伝説の集大成という形でまとめ上げられたものではなかったか。
 「御伽草子」は、室町時代から江戸時代初期にかけて作られた短編小説の総称で、 「一寸法師」や「物ぐさ太郎」など、いわゆるお伽話が集録されており、庶民を対象とした文学作品のはじまりである。次の江戸時代に入ると多くの読本や絵本が出版され、浄瑠璃や歌舞伎にも演じられて、酒顛童子伝説は広く世間に伝わった。なかでも元禄の大文豪近松門左衛門の、「酒呑童子枕詞」・「傾城酒呑童子」・「当世酒呑童子」・「鬼城女山入」などが、この伝説の伝播に大きな役割を果たしたといわれる。ところが、この御伽草子より早く大江山伝説を物語化したものに香取本「大江山絵詞」(酒顛童子雙紙ともいう)がある。
  香取本大江山絵詞 絵巻二巻、別巻詞書のかたちで伝わる絵巻物で、下総国、香取神宮の大宮司家に伝わってきたので香取本という。作者は兼好法師という説もあるが不明。成立年代は、南北朝時代から室町初期といわれる。なお大江山絵詞には香取本以外に古法眼本、守信本があるがこれらは御伽草子以降のものといわれる。
  「大江山絵詞」(以下「絵詞」と略する)は、いわば絵巻物の解説であるから、読み物である「御伽草子」のように複雑な劇的構成はもっていない。その大筋は、頼光とその家来の四天王と藤原保昌の六人が大江山にすむ鬼賊を退治したというもので、「御伽草子」と全く同じである。しかし部分的にはかなりのちがいがみえる。まず、(一)鬼退治の発端が御伽草子は池田中納言くにたかの姫がさらわれたことになっているのに対し、「絵詞」では、御堂入道大相国の子息の失踪が原因となっている。(二)頼光を加護した神々が、「御伽草子」の八幡・住吉・熊野の三神のほか、日吉らしい一神が加わる。(三)「絵詞」では、摂津守頼光と丹後守保昌の両人に退治の勅令が下され、鬼賊征討の功により頼光は東夷大将軍に、保昌は西夷大将軍に任命されるというふうに、頼光と保昌が主従関係でなく対等に扱われている。(四)酒顛童子が、「絵詞」では貴公子のごとく優美にして気品ある一面をもち、「御伽草子」の酒顛童子が中世的残虐性をもつものとして描かれているのと大きく異なる。そして、(五)最大の相違点は、ともに大江山での出来事としながら、「絵詞」は、大江山という名をもっておればどこへでも定着しあてはまる内容をもつのに対し、「御伽草子」になると、千丈ヶ獄、大江山の麓なる下村といった具体的な地名が出て、いまの大江山での物語となっている点である。
 この(四)と(五)のちがいを中心にして、大江山伝説の成立について注目すべき説を提起しているのが、福知山市出身の宮本正章である。氏の著作になる「大江山伝説考」によって、その説の概略を紹介する。
 「絵詞」の成立期には、まだ酒顛童子鬼退治の舞台が必ずしも大江山に限定されていなかったが、「御伽草子」の成立期になるといまの大江山での出来ごととして定着してくる。この伝説の舞台となった大江山については、江戸時代から、大江山説と老の坂説があったことはよく知られているところであるが、 宮本氏は、古文献や古歌によって地名の考証を加えつつ、老の坂(京都市西京区大技町)は、「万葉集」に「丹波道之大江乃山」と書かれているのをはじめ、古来「大江山」「大技山」「大江ノ坂」「大技ノ坂」などと書かれており、一方現在の大江山は、古くは「与謝の大山」と呼ばれるのが普通で、十三世紀後半まで「大山」の称がつづいたとされる。そして、現在のように大江山と老の坂の区別がはっきりしてきた時期は天正〜寛永の間とされるところから、このような大江山と老の坂の判然たる区別が十五世紀にはできていた。「絵詞」の大江山は今の老の坂をさし、老の坂に鬼が住むということは、平安末期の世の乱れと共に、しばしこの山を巣窟とした賊徒のあったことから生まれたものであろう。こうして大江山に鬼が住んだという伝説ができあがり、いつかそれが当時の人々に武略の人と語り伝えられ、数々の英雄譚につつまれていた源頼光や彼の郎党四天王と結びつき、大江山鬼賊譚が生まれた。この老の坂に定着していた伝説が、今の大江山に移っていったのであろう。それを運んだのは、山伏たちではなかったか。山伏たちが在家の者に宿を世話になり、食を給してもらった礼として各地の見聞を話し、加持祈祷の仕方を教えるといった、山伏とこの地方の人々の交渉によってこの伝説は大江山周辺にばらまかれていったのであろう。
 以上が宮本説の概要であるが、別章「郷土の修験道」で説明されているように、大江町には修験道に関する遺跡や伝承が多いことからみても非常に興味深い説である。
 鬼退治の行われた山が大江山であったのかそれとも老の坂であったのかという論議は、江戸時代から盛んで、例えば、伴蒿蹊は随筆「閑田耕筆」の中で、大江山説を展開しているし貝原益軒は老の坂説を主張している。大江山、老の坂のほかに伊吹山(滋賀県)が酒顛童子物語の舞台となっている絵巻や本もある。史実でなく伝説にすぎない物語の舞台をめぐって論争されていることは、一見滑稽にさえ思えるが、江戸時代にはこんな論争が好事家の間で白熱するほど、この伝説は人々に親しまれ広がっていたのである。
 大江山伝説の本拠について多様な見解を紹介したが、本来、大江山は凶賊のいるところならどこでもよかったのである。そのどこでもよかった大江山が、御伽草子の成立する時期に、ここ大江山での出来ごとだとされたのにはそれなりの理由があったのであろう。室町時代には、老の坂は鬼のすむところとしては都に近すぎ開けすぎていたのかもしれないが、やはり、ここ大江山は古代から丹後と都を結ぶ要地であり、権力に抵抗する鬼が出没しそれを退治する場所としてふさわしいところと考えられたのであろう。特にここ大江山には古代に鬼賊征討の伝説があって、それが民間伝承として生きつづけていたと思われる。前節でみたように、日子坐王が陸耳御笠を与謝の大山で討ち、麻呂子親王が英胡・迦楼夜叉・土熊の三鬼を三上ヶ獄で討った伝説は、ともに朝廷の威光にそむく鬼を討った伝説であって、こうした伝説の残る大江山は、鬼退治物語の集大成である酒顛童子物語をうけ入れるのにふさわしい場所であったのであろう。
 注目すべきは、頼光の鬼退治物語と麻呂子親王の鬼賊征討伝説との混同が目立つことで、なかでも如来院縁起で、麻呂子親王の三上ヶ獄鬼賊征討とかかわってこの寺の開創された由来を述べた末尾に、「正暦元年九月八日 仁王六十六代帝一条院の御宇也」とあり、頼光が鬼退治をしたとされる年号と一致していることをはじめ、同じくこの縁起で、麻呂子親王の四天王として、黄披・双披・小頭・綴方があげられ、頼光の四天王と対応していること、また兵庫県氷上郡市島町の清園寺に所蔵する絵巻物に、勝利を祈って老婆がかち栗を出してもてなしたこと、三人の老翁があらわれて道案内をするなど両伝説が交錯する場面が描かれている。こうした重複混同は、麻呂子親王伝説の流布が、酒顛童子物語をここに索引する一つの要因となったことを物語るものではなかろうか。

     (三) 郷土の鬼退治伝説

 酒顛童子物語が大江山に定着してから、私たちの祖先が、大江山伝説をもつ山にふさわしい舞台装置をつくり出すために費した努力は大変なものであったと思われる。その一例を、いま大江町に残る唯一の酒顛童子物語の古文献である鬼ヶ茶屋本「酒顛童子由来」にみることができる。鬼ヶ茶屋本の由来については、小川寿一の「大江山絵詞の研究」(歴史と国文学第一二巻第一号掲載)にくわしく述べられているのでこれによってその経過を紹介しよう。
 小川寿一の研究によれば、鬼ヶ茶屋本「酒顛童子由来」は、京都府中郡大宮町谷内にある本城山岩屋寺に蔵する「大江山鬼退治絵巻」の詞章を写したものとされる。その根拠は、岩屋寺本の末尾に、
  桝屋宇右衛門願により此の由来うつし遣す也
    弘化二年巳五月  黙知軒光研
 とあることによって明らかである。岩屋寺は現在山号を朝日山と改めているが、神亀三年(七二六)、僧行基によって開創されたという寺伝をもつ古刹である。ここの鬼退治絵巻は全二巻、一巻の長さが一六メートルにも及ぶものであるが、作者は不明、安土桃山時代から江戸初期のものであろうといわれる。あざやかな彩色、精巧な筆致、鬼が極めて人間的に描かれ、鬼の所持する武器が青龍刀に似た中国系の武器であることが目をひく。この絵巻の箱の表には、「大江山絵伝上下」とある。黙知軒光研というのは、この寺の十世僧都法印で黙知軒光研阿闍梨といわれ、非常に絵が上手で、壇家にはいまも彼の手になる掛軸が残されているという。そして、大江町にほど近い綾部市西方宝満寺で病没したという。この絵巻物の詞書に当たるといわれる「大江山千丈ヶ獄酒顕童子由来」も、鬼ヶ茶屋本とほとんどちがわない。
 小川寿一の研究によれば、この岩屋寺の「大江山鬼退治絵巻」は古法眼本「大江山絵詞」を写したものであるという。(古法眼本「大江山絵詞」は、大江山絵詞の中ては最も新しいものといわれ酒顛童子絵巻・酒顛童子物語・酒顛童子追討図などとも呼ばれる) また、鬼ヶ茶屋の鬼退治の襖絵を書いたのもこの光研阿闍梨であるという。桝屋宇右衛門は、卯右衛門ともいい鬼ヶ茶屋の主人である。彼は、当時盛んであった西国三十三か所めぐりの巡礼たちが成相寺へ向かう途中、最大の難所であった普甲峠の茶屋の主人として、大江山鬼退治伝説を郷土に定着させようと努力した。彼の手によって、いま鬼ヶ茶屋本といわれる「大江山千丈ヶ獄酒呑童子由来」の初版が出版されたのは、弘化二年(一八四五)のことであった。小川寿一によれば、この鬼ヶ茶屋本の初刻本は半紙よりやや小型で、上三枚、下三枚から成り、一面が一五行であって、絵も書も光研の筆であったとされる。この初版のほか、相次いで第二板、第三板が刊行されている。第二板の裏表紙に、

 大江山名所
 石に鬼の足形、頼光腰掛石、三神導の二瀬川 血しほ川と云 洗濯岩、千丈ヶ瀧、五入道ヶ池、公時斧研石、干丈ヶ獄酒顛童子栖岩窟
 右名所御覧被成度望之御方ハ其段営所二而御尋被成候得ハ委敷御案内致させ申候尤巡礼衆廿八番成相寺江かけぬけニ出わずか半道之廻りニ御座候
    丹州大江山麓仏生寺村赤坂 桝屋卯右衛門再板
とあり、いち早く観光開発に着手している様子がうかがえる。頼光杉(一本杉)のあった一の鳥居。背後の山が三岳山
 酒顛童子伝説は、大江山の北麓である加悦町、西麓に当たる福知山市にも残る。なかでも雲原、金山、三岳地区(いずれも福知山市)に残されているものは比較的民間伝承の色が濃いのが注目される。その概要を紹介しよう。

 頼光の一行は、まず三岳山に登り、ここから大江山を見立てたということで、この山を見立山とよび、のち三岳山と転訛したものだという話は広く知られているし、上佐々木から登山路と喜多からの登山路が合するあたり、鳥の尾というところには、「頼光のサカサ杉」の伝承がある。頼光が使った杖を逆さに立てたところ芽をふいたという話である。頂上には、「ごとく岩」といって頼光たちの一行が飯を炊いたと伝える石も残っていたという。よほどに有名だったのか一本杉の碑が建てられている。昭和34年の台風で倒れたという
 上野条には、往路頼光が祈願し、鬼退治ののち、再び立ち寄って「御勝」の神号を奉り、紫宸殿で奏されていた田楽舞を献じたという故事により、今も二五年ごとの大祭には、この紫宸殿田楽舞の奏される「御勝八幡宮」、頼光にかち栗を献上した老婆を賞でて頼光が愛用の笛を与えたものと伝える堂城家の「山透しの笛」、そのほか、「鬼の首塚」「頼光の御手洗池」などが伝わる。
 大江山の西裾に当たる天座にも多くの伝承が残る。坂田公時が斧で彫ったという仏像(大年神社蔵)、頼光が書写したと伝える六○○巻の大般若経(福知山市指定文化財)、頼光らの一行が背負ってきたという熊野十二社権現をまつると伝える尾崎神社などが有名だが、最も興味深いのが、「東光望ばんと鎌止め」の伝承である。この地にあった頼光が、ある夜、怪光を見たので、その光の方へ行くと大きな岩があり小祠があった。
ここで二一日間祈願した満願の夜、天照大神、大日如来らが夢枕に立ち、八月十日をもって鬼退治をせよとの啓示を受けた。そこで頼光らは勇んで大江山へ進み首尾よく鬼退治に成功する。この岩を今も御座岩という。天座の地名もこの故事から出ているといわれ、天座につづく大江町の橋谷は、頼光に地名をきかれた古老が、御座岩のある峠の下には天の浮橋のようにつづく谷があるといったところから由来した地名だと伝える。御座岩から橋谷へ通ずる古道には、御座岩を拝するところ、ハイバラ(拝原)という地名が残るという。
天座では、酒顛童子が討たれた日といわれる旧暦八月十日を「鎌止め」といい、この日は一切鎌を使わない日となっており牛も小屋から出さない風習があった。これは昔、里人が大江山へ草刈りにいったとぎ、真赤な顔をした怪物があらわれ逃げかえったという故事によるもので、鬼の亡霊をしずめるためにはじまった行事であると伝える。
 このような大江山周辺の鬼の伝説をみるとき、それらは大筋において当時流布していた物語の枠内にとどまっており、作為の感が強く、宮本正章が指摘するように、修験者たちと在方の人々との交流の中で育まれたものとみるのが妥当なように思えるし、麻呂子親王伝説との混合を感じさせる部分も多い。しかし、反面で、例えば酒顛童子らの鬼たちへの親近感が基調にあって、鬼に対する敵視感情があまりみられないこと、かつて地域で素封家といわれた家と伝説とのかかわりがみられることなども注目される。
 ところで、最近、鬼退治伝説を鉱山開発、特に採鉱冶金の視点から検討してみようとする試みがなされている。従来の伝説研究が、主として人間の精神的な面を中心になされてきたのに対し、いわば、人間生活を支える物質の面から捉えようとする考え方であるともいえるわけで、非常に興味深いものがある。
 酒顛童子のたてこもったとされる大江山も、頼光の本拠摂津の多田荘も古来有名な産銅地帯であった。偶然の一致といってしまえばそれまでだが、酒顛童子伝説を色濃く残す大江町仏性寺は、つい最近まで日本鉱業河守鉱山があったところだし、旧三岳村にも古い鉱山跡が残る。また上野条や天座の含まれる地域は、鉱山を連想させる金山郷と呼ばれたところである。最近出版された「鬼伝説の研究−金工史の視点から−」の著者若尾五雄氏は、こうした点について、興味ある提起をしている。特に注目すべき点を抄記する。
 酒呑童子は、シャチノミ童子である。シャチは幸(サチ)と関連がある。幸とは海幸、山幸というように宝物の意味で、中部日本の一部では幸をシャチといい、東北では、シャチノミは獲物の肉のことを示す山詞となっている。このようにシャチは、狩人の幸運に関連のある言葉であり、鉱山師も狩人と同様山人であり、鉱山を採掘することを狩るというように、金銀銅をとることは、鉱山師にとって狩人の獲物に当たり、酒呑童子は幸の実童子なのではないか。
というものである。同氏は、さらに徳川家康御判「御山例五十三箇条」を紹介し、その中で興味ある事例として、
  一、山師、金掘師を野武士と号すべし
  −、山師、金山師は、人殺しのものも逃げこんだものは働かしてもかまわぬ
  一、鉱山をはなれて在所に下ったものは、三日以上里に居ってはならぬ
  一、見立山−これは試掘の山である。
ことなどをあげ、当時の山師、金山師は修験者であって、総本山大峰山を金峰山ともいい鉱産が多いのをはじめ、修験の山々には鉱山が多いことを例証している。山師、金山師は人殺しをしたものも届け出せずとも働かせてよいということは、逆にいえば、大昔の鉱山は犯罪者のかくれ住む場として好適なところであったといえる。山を降りても三日以内に帰れということは、山師、金山師が一般の人々と隔離された存在であったことがうかがえ、鬼の集団=鉱山労働者説がそう奇想天外な考え方ではないと思われる、
 こうした観点から大江山をながめるとき、その中腹大江町字北原に古いタタラ(製鉄所)の跡が残るのが目をひく。このタタラの跡は、奥北原から大江山へむかう旧道東側の谷の奥で、通称魔谷(またに)といわれるところにある。付近には鉄をふきわけたカナクソが残り今もかすかに確認できる。この北原は、別章「郷士の修験道」でふれているように、修験道の遺跡や伝承を多く残しているところである。
 ところで、「関東御教書」に次のような記事がある。
  侍所沙汰篇追加八
  鈴鹿山并大江山悪賊事、為近辺地頭之沙汰可令相鎮也、若難停止者 改補其仁 可有静謐計也 以此趣相触便宣地頭等
  可被申散状也、以仰執達如件
   延応元年七月廿六日
        前武蔵守泰時判
        修理大夫時房判
   (北条重時) 相模守殿
   (北条時盛) 越後守殿
とある。延応元年(一二三九)といえば鎌倉時代であるが若尾氏は、「鬼伝説の研究」の中で、こうした公文書があるのだから、鎌倉時代に、大江山に賊がおり、討伐があったことは間違いない。この悪賊が少人数の追剥ぎ程度のものでないことは、もし退治ができない時は役人を替えてやれというのだから賊の数もたくさんいたと考えざるを得ない。そうだとすると、そのようなところは、何もない山中でなく、多数の無頼の徒が集まるべき要素があるところ、たとえば鉱山のごときものが付近にあったのではあるまいか。大江山も鈴鹿山も鉱山地帯である。鉱山は、屈強な無宿の若者たちが集まるところであって、こうした者が賊に変ずることはあり得ることである。時の政権に反抗する実力は備えており、ことに宗教的訓練を受けた修験者に率いられていた人々は、少々のことで屈服するものでない。盗賊という言い方は、時の政権をもった方から言うことであって本当に盗賊であったかどうかわからない。」と述べ、鎌倉時代に大江山の悪賊退治があり、その対象となったのは修験者に率いられた鉱夫たちではなかったかと暗示されている。
 以上、大江山鬼退治伝説をいろいろな角度から見てきたが、この酒顛童子物語は、中世に御伽草子で世に出て以来、近世には浄瑠璃や歌舞伎によって民衆の間に流布していき、近代に入ると小学校の国語の教科書にのせられて全国的に広がっていった。そして時代によって、この物語の果たした役割もまた異なっていたように思われる。中世には、源氏の功名譚という色彩が強かったと考えられるし、近世の民衆たちは、苛酷な封建支配のもとでの不満や抵抗の心情を、人間くさい酒顛童子に託していたのではないかと思われる。また、この物語は、一種の宗教説話的な性格も持ち神仏の加護のおかげで鬼を退治することができたとして、神仏への素直な信仰の必要を民衆に浸透させようとした面もあったのではないかと思われる。近代に入って小学校の教材となったのは、天皇制のもとで幼ない子供たちに、おもしろい不思議な物語として興味を持たせながら、社会の秩序を乱した酒顛童子が天皇の命によって討ちとられ、めでたく世の中がおさまっていく内容と結末をもっていたことが、時宜を得たものであったからであろう。
 現代では、大江山伝説を知らない人がふえいまや大江山伝説は忘れられたものとなりつつある。伝説は、民衆がつくり育てたものであり、民衆の夢や願望が秘められているといわれることの意味をいま一度問い直しながら、祖先が育み受けついだ伝説をさらに後世に語り伝えていきたいものである。

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美多良志荒神(大江町仏性寺)

 鬼ケ茶屋のあたりは旧宮津街道が残されていて、観光用に整備されている。山といってもこのあたりは大石ばかりゴロゴロした所で全山大石だらけである。旧宮津街道は江戸期の開通といい、当時のままに美しい石畳の道が保存されている。その道を少し歩けばそこに美多良志荒神が祀られている。下はその案内。旧宮津街道(仏性寺付近)


酒呑童子の里
美多良志荒神の由緒

 大江山といえば、源頼光が酒呑童子を退治したところとして知られているが、もっと古い時代にはもう一つの鬼退治があったと伝えている。
 今から約千四百年前、聖徳太子の弟麻呂子親王が、英胡、軽足、土熊らにひきいられた鬼神たちをここ大江山で退治したという。
 鬼神たちは、妖術をつかい、姿をあらわしたり、かくれたり、自由自在で親王軍は苦戦におちいる。そのとき、額に鏡をつけた二頭の白犬があらわれ、鬼神たちを照らすと、鬼神は姿がかくせなくなり、ようやく退治することが出来た。鬼神を退治すると白犬は死んでしまったので、山頂近くの池ヶ平(いけがなる)に葬り、この白犬、鬼退治を祈願した元伊勢の神の化身だったとのだと残された鏡を、加悦とここ仏性寺にまつった。
 この美多良志荒神は、この白犬のつけていた鏡をまつった宮と伝え、「みたらし」は「み照らし」からきているのであろう。古くから「闇を照らし、光を与えてくれる神」「困難なものごとの見通しをよくしてくれる神」として、人々の厚い信仰を受け、「恋愛の成就」、「難病の治療」、「学問をすすめて試験に合格する」など霊験あらたかな神と伝えている。美多良志荒神
 尚、すぐ近くの如来院はもと仏性寺といい、親王が鬼退治の成功に感謝し鬼神たちの菩提を弔って、護持仏と兵法の鎌、愛用のむちを納めて開基した寺と伝え、今も山号を鎌鞭山という。また下を流れる二瀬川渓谷の「鎌渕」は、親王が鬼を斬った鎌を投げこんだところと伝え、「馬留め」は、突如嵐がきて、親王軍の馬が立ち往生してとまったところ、「赤坂」は白犬が鏡を照らして嵐の中に光が差し込んで道のひらけたところという。

大江町・大江町観光協会
美多良志荒神社中
平成十二年五月吉日


岩岩岩岩岩…大きな岩ばかりがごろごろしている、この社の裏も大岩ばかり、二瀬川渓流の姿そのものがこの山の中に展開している。さて「白い犬」は山の神の使いとも言われるが、白い猪(日本武尊が伊吹山で遭遇したこの山の神)、あるいは白鳥というのもそうなのかも知れないが、これは本来は山の神そのもの、鉱石そのものと思われる。二瀬川の渓流(この辺りの河原が御手洗川か)
「白い」というのは現代の白ではなくて、白昼色の白で太陽のように耀いていてまぶしい白なのではないかと思う。現代風に言えば太陽のようにまぶしく輝く犬なのでないかと考えるのである。だからこの社は大江山の本来の地主神で、ここの山の神を祀ったものではなかろうか。『大江町誌』は祭神不詳としているが、山の神、銅鏡が神体だから、大江山の銅が祀られたのではなかろうか。
白犬明鏡を祭神とするのは加悦町の式内社・阿知江神社などもそうであって、それはまた少童命ともなっていて、やはり小人でもあると伝わるようである。酒呑童子も茨木童子も童子である。
ミタラシというのは、
御手洗団子みたらしだんごみたらしだんごみたらしだんごとか御手洗川みたらしがわみたらしがわみたらしがわと書くように、神社の詣でる前に手を洗うというか、それは省略された形であって本来は全身を二瀬川の淵で清めてから神前に詣でたのだと思う。だからこのあたりを御手洗と呼び、その名を採ったのだと思われる。二瀬川というのもたぶん御手洗川の転訛かと思う。荒神と呼ばれるのは、古い神社でどうやらこの山の神であるらしいが、祀る人ももう絶えてよくわからないということではなかろうかと思われる。鬼茶屋さんだってこんな様子。岩の上に建っててござる
 この二瀬川という名を聞くと足尾銅山(栃木県)の渡良瀬川を思い起こす。たぶんどちらも御手洗川の転訛ではないのかと思うのだが、先方は鉱毒公害事件で有名な川である、開発・公害問題の原点とも呼ばれる川となってしまったが、幸いにも河守鉱山は此の地で精錬を行わなかったためであろうし、時代が違った、おかげで公害の問題は聞いたことがない。二瀬川は美ししままに残された。

しかしここには過去のいつの時代にか、それとは別な大変な公害が発生していたと思われるのである。山肌の全体がまるで河原である。大きな岩ばかりが重なり合っている。まるで石でできたピラミッド。そんなことは河原ならありえても自然な山肌ではありえない景観である。普通ならいくら岩山といえども、その岩が風化した表土と呼ばれる土に厚く覆われていて、その地下の何メートルかにある岩は直接には見えないはずである。河原まで降りていかなければ、母岩は見えない。ところがここでは見える。
表土が押し流された、としか考えようがない。なぜ押し流されたのか。それは木を切ったからであろう。木を切ったため山が荒れたのである。そして大雨に表土が一気に押し流された。ものすごい土石流が下流を襲ったと思われる。バットマウンテン。人間がやたらに木を切った。バット人間の仕業である。何のために木を乱伐したのか。銅を造るため、ではなかろうか。現在は木々が生えている。自然がわずかずつ回復しつつある。もう切るな。道路を作るな。観光客を呼ぶな。あと何百万年もすれば、普通の山に戻れるかも知れない。
左の写真は超有名な鬼茶屋さん。いつ行っても開いている様子はない。もしかして入り口は裏側に隠してあるのではと思い、裏側へ行ってみようかと建物の横の方へ行きかけるとこんな光景であった。鬼茶屋さんも大岩の上に建っているのだ。


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河守鉱山と仏性寺鉱山、東山鉱山、北原カラミ散布地(大江山一帯)

鬼の交流博物館(大江町仏性寺)鬼鬼鬼というけれども、一体ここ大江山とはどんな場所なのだろうか。伝説の鬼の正体を知りたくなるわけである、古来諸説あれども正解はどれなのだろうか。しかしそれはすぐわかる。「鬼の交流博物館」のある所の一帯、ずいぶんと広い場所だが、そこが河守鉱山の跡地だからである。博物館のある場所そのものが鉱山を抜きにしては鬼はありえないと語っているように思われる。簡単に謎解きをすれば面白くも何もないかも知れないが、一応は押さえておかねばならないと思われる。


『大江町誌』に、

(河守鉱山など)

第二節 鉱床と鉱山
 金属鉱床の大部分は、火山の噴出・深成岩や半深成岩の貫入など火山活動に伴ってできたものであるが、当町内の鉱床はすべてこれである。
 現在町内で採掘を続けている鉱山は皆無である。

   (一) 大江山地域
 この地域の鉱山開発の歴史は比較的新しい。明治四十年ごろ広島県の人某が、作業員一○人ばかりを投入して、金時斧砥石付近の山申で金山開発を試みたが成功には至らなかった。この地に本格的な鉱山が出現したのは大正期以降である。
 河守鉱山は、大江山岩体を母岩としており、銅を主とする鉱床とクロム鉄鉱鉱床を有し、埋蔵量もかなり多かったのでこの地域の代表鉱山としてさかえた。河守鉱山の南に隣接する仏性寺鉱山では銅鉱とモリブデン鉱を産出した。
 また、大江山岩体は東側の地域で蛇紋岩化が進んでおり、蛇紋岩化の著しい部分は熔成燐肥の原料として採掘されている。中ノ茶屋では、河守鉱山閉山の昭和四十四年ごろから蛇紋岩の採掘が開始ざれ現在に及んでいる。
 (註)@大江山岩体
   大江山連峰に沿って分布する超塩基性岩には三つの岩体がある。その最大のものが赤岩山千丈ヶ原の岩体で、下見谷層を貫き宮津花崗岩につらぬかれたいも状のレンズ体をしている。最大幅五キロメートル、最大延長一○キロメートルに及ぶものである。
ここがかつての河守鉱山の入り口

 (イ) 河守鉱山   大江町字仏性寺に開かれたこの鉱山は、大きな鉱床を持った町内唯一のもので主として銅鉱とクロム鉄鉱を産した。
 沿革  鉱山入口左側の山際道路ぞいに「藤原吉蔵氏碑」がある。碑には、大正六年、千丈ケ原に発電用貯水池建設工事が行われた際、同氏によって鉱脈の露頭が発見され、河守鉱山が誕生し発展したいきさつが記されている。
 この鉱山は、大正六年大江山鉱山と称して銅鉱石を採掘したのに始まる。昭和三年に日本鉱業 (当時久原産業)の手に移った。創業以来業界の不況などによって再三休山に追いこまれたが、昭和八年十一月操業を再開すると共にクロム鉄鉱の採掘も開始した。河守鉱山が新しい技術を導入し、朝鮮動乱の経済好転の波に乗って着々と業績を伸ばしたのは昭和二十六年ごろからである。昭和二十八年には、月産二○○○トンの生産能力を持つ比重選鉱場を設置している。最盛期を迎えた昭和三十六年には、月産八○○○トンの重選併用全泥優先浮遊選鉱場を新設し、昭和二十六年に開さくを開始していた搬出入用の第六竪坑は四四○メートルの深さに達した。この竪坑が、目標の地下五○○メートルに達したのは翌昭和三十七年のことである。向山の竪坑は昭和三十九年に開さくをはじめて四十年六月に終了している。
 このように鉱山の規模は拡大され、従業員住宅は山内にたちならび鉱山人口は増加していった。売店・映画館・グランド・保育園・医療機関などの諸施設も整備されて、河守鉱山は京都府第一の銅鉱山として活気に満ちあふれたのである。鉱山の趾なのだろうか。
 昭和三十八年の年間産出粗鉱量は一一万八○○○トンにも及んだ。昭和四十一年の河守鉱業所「採鉱慨要」によると、従業員数は二一九名で世帯数は一六二である。坑道延長は六万九九二四メートルに達し、産出した精鉱の累計(昭和一二〜昭和四一年末)は、銅鉱一四万四三九四トン、硫化鉱三万四一六六トン、クロム鉄鉱二六○○トン、銀推定一四トンとなっている。これらの精鉱は主として九州の佐賀関精錬所に送られたのである。
 やがて河守鉱山では主要鉱脈を掘り尽くすこととなり、懸命の探鉱も効なく折からの鉱山合理化の影響を受けて、昭和四十四年遂に休山となった。休山後は兵庫県猪名川町多田鉱山の鉱石処理のみを続けたが、同四十八年閉山した。残っていた鉱山諸施設の撤去を行い、坑口処理を完了してから十有余年が経過したが、幸いなことに鉱毒の流出やその被害を聞かない。現在この鉱山の社宅跡に大江町山の家が開設されている。
 (註)A比重選鉱  比重の違いを利用して鉱石と脈石を分離する選鉱方法
 (註)B浮遊選鉱(浮選) 細かく砕いた各種鉱物の混合物から、目的の鉱物だけを、水、又は他の液体の表面に浮遊させて分離回収する方法。起泡剤・捕集剤などが使われる。
 地質・鉱床 河守鉱山の南には、粘板岩・珪岩・輝緑凝灰岩などからなる古生層(下見谷層)があってこれが鉱床の下部に張り出してきている。北側には、鉱床の母岩である蛇紋岩・橄欖岩があり、さらにその北側には花崗岩類がほぼ東西に広く分布している。鉱山の趾のようだが
 銅を主とする鉱床 鉱床は、蛇紋岩の中のさけめをうずめてできた鉱床(裂罅充填鉱床)と、輝緑岩岩体を鉱染した鉱染鉱床からなっている。鉱脈は、古生層と蛇紋岩の接触部付近にもぐりこんだ斑糲岩岩体の周辺に発達しており、東西一五○○メートル・南北七○○メートルの範囲が開発された。斑糲岩岩体を挟んで北側に位置する鉱脈群を本鉱床、南側のものを向山鉱床といい、本鉱床は東西一二○○メートル・南北三○○メート化 向山鉱床は東西四○○メートル・南北二○○メートルの範囲に分布した。鉱脈の主要なものは二十数条あり、走向延長はそれぞれ約二○○メートルで、脈幅はところによっては一メートル内外に及ぷものもあったが、平均一二センチメートルの細脈であった。銅の品位は良好で八〜一○%程度のものが多く、場所によっては一五%前後のものを産した。
 鉱染鉱床は、短径五〜一五メートル・長径一○〜六○メートル・上下に五○〜一五○メートルの輝緑岩岩体が部分的に鉱染されたもので、大小種々なものが広範囲に分布していた。鉱染部の銅品位は○・五〜三・○%であったが、鉱山では一・二%前後以上のものを採掘の対象とした。
 クロム鉄鉱鉱床 鉱床は二つの鉱床に分かれ、橄欖岩・蛇紋岩岩体の南縁部付近に産した。埋蔵量少なく、昭和八年に採掘を開始して同十七年には終了している。
  産出鉱物 主として黄銅鉱・磁硫鉄鉱・クローム鉄鉱であったが、次に産出鉱石を列記する。
・鉱脈鉱石
 黄銅鉱・磁硫鉄鉱・キューバ鉱・硫砒鉄鉱・鉄閃亜鉛鉱・方鉛鉱・合ニッケルマッキーノ鉱・含コバルトペントランド鉱・自然蒼鉛・輝水鉛鉱・黄鉄鉱・磁鉄鉱・銀鉱物・クローム鉄鉱
・鉱染鉱石
 黄銅鉱・磁硫鉄鉱・含ニッケルマッキーノ鉱・鉄閃亜鉛鉱・チタン鉄鉱
・脈石鉱物 滑石(タルク)・石英・方解石・板温石・緑泥石・その他粘土鉱物.



(ロ)仏性寺鉱山 大江町字仏性寺及谷を千メートルばかり登った山中にあった小規模な鉱山である。水鉛採掘坑四 銅採掘坑一があったが坑口の崩潰が進んでいるので、現在では坑口を確認することは困難である。ただ水鉛第四坑のみが谷川近く坑口を開いている。
 沿革 昭和八年仏性寺の人岩間源蔵が輝水鉛鉱の露頭を発見したのに始まる。翌昭和九年この鉱山が操業を開始した当時は手掘りであった。昭和十一年から本格的な採掘を行った。昭和十七年には浮遊選鉱場が設置されたので、従業員一五〜二○人であったが、その生産能力は一挙に月産五トンとなったという。製品は、二五キログラムを袋詰にして、集荷場までの約一キロメートルの山道をすべて人力で搬出したのであった。
 水鉛(モリブデン)は、工作機械や兵器生産に欠かすことのできない特殊鋼の原料であった。第二次世界大戦遂行のための重要資源として脚光をあびたのである。したがって鉱山も従業員も特別に優遇されたという。昭和十九年の夏選鉱場が過失によって焼失したときも、軍の命令で急遽復旧が行われ、同年十二月には早くも運転を再開したほどであった。やがて昭和二十年の終戦を迎えると同時に閉山となった。
 地質・鉱床 この鉱山の鉱床は、大江山岩体の南に隣接する古生層中にあることは前に述べた。「京都府鉱物誌」には、この鉱山の地質及び鉱床に関する青山昌忠氏の論文がある。以下はその要約である。
 鉱床付近では、古生層の粘板岩は熱による変成作用を受けて珪化し堅くなり暗紫色となっている。鉱区の西北部には蛇紋岩が認められる。
 水鉛鉱床は東〜西に走り、鉱脈は十数条あったが幅は二〜一○センチメートルと狭く、輝水鉛鉱は、石英脈の両側あるいは石英と母岩との境に○・三〜一センチメートルの幅をもって集まっている。
 銅鉱床は、輝水鉛鉱鉱床の上方約一五○メートル付近の粘板岩と蛇紋岩との接触部に存在しており、鉱脈付近では、蛇紋岩は変質して粘土鉱物の滑石や絹雲母などを生じ、粘板岩は珪化作用が一層進んでほとんど白色となっている。銅鉱脈はただ一条であるが酸化作用が進んでいるため輝銅鉱・赤銅鉱・孔雀石など二次的生成にかかる鉱物が大半を占める。
  産出鉱物 仏性寺鉱山の産出鉱物は、自然銅・輝水鉛鉱・水鉛華・輝銅鉱・磁硫鉄鉱・黄銅鉱・硫砒鉄鉱・赤銅鉱・石英・孔雀石・滑石・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄鉄鉱・方解石であった。


 (ハ)東山鉱山 大江町字橋谷の谷深い橋谷川沿いの右岸にある。大阪の人、鈴木久兵衛が昭和八年に採鉱許可を得て前後三回ほどにわたって試掘を行っている。最後の採掘は事務所なども設けて力をいれたので、坑道は橋谷川の下をくぐって対岸にまで達しているというが、埋蔵量も少なかったので一年程で中止した。試掘の坑口は四〜五みとめられ、ズリは極めて小規模である。
  産出鉱物 方鉛鉱・閃亜鉛鉱・金銀鉱


 (ニ)北原カラミ散布地 北原には、古く製鉄が行われたという伝承がある。
  その昔、奥北原の奥平(おくだいら)にタタラがあった。タタラで鉄を熔かす炎が赤く夜空を染めたので、土地の者はその地を魔の谷として恐れた。すなわち今の魔谷(まだに)である。このタタラで働いた人々を葬ったところが千人塚だという。
 奥平は、奥北原から大江山へ通じる登山道が北原川を渡ったあたりで登山道とわかれ、しばらく谷沿いの林道を進んだところにある。
 ここは現在杉の植林になっているが、かつて水田であったころのことである。水田改修のため表土を取り除いたところ、約一メートルに五メートルの長方形をした焼土の炉跡が現れ、この田の床土と谷川の河床一帯にはおびただしいカラミの堆積があった(大隅源造)。 そのカラミは鉄を吹きわけたと考えられるものであり、今もこの付近にはカラミが分していて、タタラ伝承を裏づけているかのようであるがこれ以上のことはわかっていない。

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天座のカマドメ行事

『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書−三岳山をめぐる芸能と信仰−』(2002市教育委員会)に、


(カマドメ神事)
天座では、八月十日にカマドメという鬼の伝承にまつわる行事がある。牛を連れて大江山に草刈りに行った人が、山から帰れなくなり、大きな真っ赤な顔のえたいの知れないものに出会った。そして、動かなくなった牛を叱りながらなんとか村に帰ることができた。村の人たちに話をすると、「鬼の亡霊だ」「きつねに化かされた」「ちゃんと供養しなしといけない」といわれた。そこで、八月十日を「東光坊」といい鬼を供養する日となった。この日は、「鎌を使ってはいけない」「刃物も使ってはいけない」「牛をマヤから出してはいけない」とい禁忌がある。前日の夜からモヨリのものが一堂に集まり、般若心経を上げて、日待ちをする。二月十日にも行われていた。
天座(福知山市)


八月十日や二月十日が本当は何の日なのかがわかればだいたいの謎は解けると思われる。何か大切な神が降臨する日なのだろうと推測できる。須代神社の茗荷祭は2月11日だが、それくらいしか私のデーターベースにはない。この日は建国記念日で古い正月である。そうすると2月10日は年の暮れである。たぶん新年の年神様が来るのではなかろうか。年神を迎える物忌であったかも知れない。

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『定本柳田国男集』『日本の祭』物忌と精進に、

…盆には蝶や蜻蛉を捕ってはならぬとか、正月三ヶ日から兄弟喧嘩をすると、一年中喧嘩をして居なければならぬなどゝ謂ふのも、何れもこの例示教育の一つで、さういふ教へ方をしたところで、もとは決してただそれだけを守って居ればよいわけではなかった。さういふ常には構はない事すら戒めなければならぬ大切な日だといふことは、是を言って聴かせる女や年寄の挙動を見ても元はよくわかったのである。今日はたゞ其事だけを慎めぱそれでよい様に、覚えて居る人も多くなったが、針取らず水汲まず、鎌止め犂止め、さては肥精進・鶏精進などいふのも皆同じことで、曾ては之に件なふ外廓空気のあることを、言はず語らずのうちに我々が学んで居たのである。…

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酒顛童子伝説の家々
頼光の手下かそれとも鬼の子孫か。

『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書−三岳山をめぐる芸能と信仰−』(2002市教育委員会)に、

(酒顛童子伝説の家々)

この地域には大江山伝説以外にも、興味深い家伝承がいくつか見られる。その一つが、用明天皇の皇子麻呂子皇子の鬼賊退治伝説である。『丹波志』には次のようにある。
   一、小田家 子孫  野端村
   先祖ハ麻呂子親王ノ臣ト号ス内也ト云。河口郷小田村ニ子孫住ス。(中略)
   分家、同下小田村中西氏、長田村高橋氏、丹後国加佐郡河守町住ス公午デ
   氏、又公庄氏・塩于氏・松陰氏、皆麻呂子親王臣ノ筋也。
 これによれば、野端(福知山市上川ロ野花)の小田家をはじめ、多数の家が麻呂子皇子の家臣の家筋を主張していたことが窺える。この小田家は麻呂子皇子から拝領した鎧を家宝としているが、この鎧は紫宸殿田楽で前立の武者役が身につけるものである。
 また、天座の田楽で猩々の舞を務めるのは桧屋の武田一族であった。武田氏武田信玄ゆかりの者がこの地に移り住んだものという。
 上野条の山中家も大変興味深い伝承を伝えている。
 山中家は屋号を「あらた」と称した。ある夕暮れの雪の中、旅の僧侶が一夜の宿を乞うた。「あらた」の老婆は快く招き入れたが、お出しする食べ物がないので、他人の畑のものを盗んできてお膳に供した。ところが「あらた」の老婆は足の指がなく摺り粉木のようであったため、足跡から老婆の所行が村人に知られてしまう。そこでお大師さまは老婆の信心に免じて、足跡を隠すために雪を降らせた。陰暦十一月十七日には必ず雪が降ると言い伝えられている。この雪を「擂り粉木隠し」とか「あと隠し雪」と言っている。「あらた」では、毎年陰暦十一月十七日には食事とお布団を用意して待っている。翌朝に近所の人たちが集まってきて、そっと布団に手を入れるとぬくもりがある。「あったかいなぁ、やっぱり今年もお大師さんが宿っちゃったなあ」と言って喜んだという。この行事は昭和十年頃まで続けられていた。
  こうした家伝承については、今後の研究がまたれるところである。   (西尾正仁)



酒呑童子伝説と田楽
この酒呑童子を退治に赴いた源頼光の伝説には、「田楽」という芸能が付随して伝承された。
 たとえば前述した南北朝期成立の絵巻物「大江山絵詞」には、源頼光の一行が大江山に赴く前に、勝利祈願として、都の神社(日吉神社)に田楽躍を奉納している場面を描くし、大江山の酒呑童子配下の鬼たちもまた、田楽(芸態的には風流田楽)に興じている場面を描いている。
 この伝承は、御勝八幡宮の田楽を大江山伝説に結びつける上で、非常に有利に働いたに違いない。現在でも源頼光の一行が宿とした家で、栗の饗応をしたところ、頼光は「勝ち栗」に通じると喜び、笛一管を下賜したという話が伝わる。その家が堂城家と名乗り、「山透の笛」と名付けられたこの笛を、今に伝えているのである。
 なお別説には、堂城は童城であり、この田楽を伝えたのは、酒呑童子配下の鬼たちの子孫であるという話しも伝わるが、これらの伝承は、いずれもこの田楽が、大江山の酒呑童子伝説と結びついて解釈されるようになって以降に、生じたものであることはいうまでもない。
 地元の伝承は別にして、中央においても田楽という芸能には、平安時代中期に都で爆発的に流行し、興舊の坩堝に巻き込んだ「永長の風流大田楽」をはじめ、鎌倉時代末期には、幕府を滅ぼすとまでいわれた禍々しい流行など、一種の妖怪性がつきまとって語られていた。南北朝期のころ、源頼光一行の大江山の酒呑童子伝説が生まれる過程で、田楽という芸能が付随して語られるようになるには、それなりの時代的背景があったに違いない。
 その意味では、頼光一行が大江山に赴く街道上に位置する御勝八幡宮の田楽説話の成立においては、なにより格好のものであったに違いないのである。
 しかし頼光一行の酒呑童子退治説話が、事実でない以上、現実の御勝八幡宮の田楽の歴史には、もう少し複雑な経緯があったはずである。


なお『丹波志』は、野条の田楽を伝承する家のうち、代々笛役を担当する家のことを、
   一、茨木子孫 下野条村
    (中略)此家ニ頼光笛卜唱へ横笛一管有之、是説非ナリ、恐クハ金山備    後守元実所持之笛ナルヘシ、(後略)
と記している(前述した堂城家)。すなわちこの家は、頼光の四天王の一人である渡辺綱が退治した鬼「茨木」の子孫という伝承である。しかし『丹波志』の著者はそれを否定して、この笛は金山氏からの拝領品と推察している。


鬼は悪いヤツだと思っていれば何もわからない。支配者どもの偏見妄想、己自身の姿を大江山に見たということであって、そのまま受け入れることはまったくできない。鬼は金持ちで金銀財宝を持っていた。鉱山で得た富であろう。堂城というのも童子のことであり、茨木童子の子孫というのも本当かも知れない。退治された者と退治した者は同じものの伝説のリクツがここでも成り立っているのでなかろうか、皆鍛冶屋さんであろう。
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小林家(野田川町石川)

『おおみやの民話』(町教委・91)に、


(小林家の伝説)
日天(にってん)さんがあとずさりした

      周枳 坪倉花枝

 石川の小林家は加悦谷でも名の知れた豪農だったで、村人たちは、「山田橋出て石川見れば、門が見えます小林の…」とうたわれとった。
 昔、源頼光が大江山の鬼退治に行くとき、この小林家の薮で(むち)をこしらえて行ったと伝えられている。それからは小林家を「鞭小林」とよんで、栄えていたそうな。
 その小林家にある年、いつもと同じように、子方が大勢で田植をしておったところ、その日はどうしたことか、陽が入るまでに田植が終わりそうになかったので、日天(太陽)さんを、おたまじゃくしで、おいで、おいでと陽が沈まんようにまねいてまじなったら、急に日天さんが一尺ほど、後ずさりしたそうな。それから栄えていた小林家は、どんどんと貧乏になってしまったんだそうな。


私の母も小林である。ここの小林ではなくて、福井県遠敷郡名田庄村の小林である。式内社の苅田姫神社がすぐ近くにあって、どうも穴師系の鍛冶屋ではないのかと考えていたのであるが、こうした話を聞くとますますその思いを強くする。

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鬼ケ城地名

『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄・1981)に、

岐阜県吉城郡神岡町、神岡鉱山

この鉱山は、最近では公害を起こすので有名になっているが、そのもとの起りは、この地に鬼ヶ城という山があり、この山を越中の方から越して来た鉱山師が、この鬼ヶ城から銀鉱が出ることを発見したのが、神岡鉱山のはじまりであると伝えている。つまり鬼ヶ城と鉱山の関係を如実に示しているものであって、最初に述べた吉備津神社の鬼ヶ城と同一の関係である.鬼ヶ城という地名は鬼城(陸中)、鬼城(因幡)、鬼城(豊前)、鬼城山(安芸)、鬼城山(伊予)、鬼箇城山(丹波)、鬼城(高天原)などが吉田東伍の『日本地名辞典』にあげられており、これらはすべて鉱石の出る所である。鬼ヶ城という地名はこのほかに諸国に沢山あり、だいたい鉱石と関連性をもっている。ただし紀州の新宮に近い鬼ヶ城のように、海水によって出来た洞穴で、鉱石と関係ないものもあるが、鬼ということは鉱山に関連があり、『和名抄』の隠(オニ)とあるように、本質的には鉱山の坑穴が隠(オニ)であることから出来たもののようである。

鬼の地名をひろえば、(『角川日本地名大辞典』の小字一覧より)
鬼ケ城(峰山町荒山)・鬼ケ城(舞鶴市佐波賀)・鬼ケ城(福知山市安井)・鬼ノトイシ(宮津市獅子)・鬼屋敷(宮津市奥波見)・鬼栗(舞鶴市田井)・鬼山(宮津市大島)・鬼山(野田川町石川)・鬼住(舞鶴市岸谷)・鬼石(宮津市国分)・鬼谷(宮津市上司)・鬼池(宮津市国分)


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