高倉神社(たかくらじんじゃ)
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京都府舞鶴市長浜宮谷 |
高倉神社《高倉神社の概要》 高倉神社は舞鶴市長浜にある神社。祭神は春日大神・八幡神・天満天神で、旧村社。近世までは高倉八幡宮と称していた。 古くは現在地の後方の山上に鎮座していたのを、付近を航行する者が神威をおそれて今の地に遷座したとの伝えがある。 当社の棟札に中世の寄進状が残る。 江戸時代は長浜・和田・下安久・北吸・余部上・余部下の氏神。 「あこ村におきひせんつばやき衆 きしん仕申候、慶長十八年八月十五日」と銘のある、安久焼狛犬一対(市指定文化財)もある。 境内に ここは氏子圏が広い、神輿は今は日当なにがしの若いアルバイトたちが担いでまわるよう、以前は牛一頭がひいた。 ↑高倉神社は、長浜の海岸に近い三差路に画して鎮座している。古くは、現在地の裏山の上に鎮座していたのを付近を船で航行するものが神威を畏れて現在地に遷座したと伝える。現在、中地区の町内会が氏子となっているが、明治の中期までは中地区のほか下安久や北吸地区も氏子になっていた。同神社の祭礼では、昭和三十八年当時は牛が神輿を引くというのどかなものであった。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも) 高倉神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 十二月栗神、祠無し。木を奉り神と称す。古老伝えて曰く、往昔、稚産霊神の植るところにして、歳毎の十二月朔日に、花生、二十日に至り実を結ぶ。正月元日に其実を取り、太神に奉る。今に至るも其例たがへず。蓋し是れ神験の奇乎。 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 長浜村 高倉八幡宮、長浜、和田、下安久、北吸、余部上、下六ケ村の氏神 八月十五日祭 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 高倉八幡宮。八月十四日祭。境内二拾間四方。長浜、和田、下安久、北吸、余部下村 五ケ村氏神。毎年順番ニ振物狂言踊ヲ勤 九月十日東吉原ヨリ振物ヲ掛ル(注・異本ニ余部上村六ケ村氏神トアリ) 〉 《丹哥府志》 〈 【高倉八幡宮】(祭八月十四日) 〉 《舞鶴》(大正12年) 〈 高倉神社 中舞鶴町の西大門通を一直線に西へ葛街道に分れるところを北に進んだ海辺長浜に鎮座あらせられる、本社は天児屋根命、左側は誉田別尊、右側は菅公が奉祀される、境内は穂波油の如き長浜の海に面し青松白砂の景趣に富んで居るので夏期は納涼や海水浴に適し京阪地方からの避暑客も多数に来るので名高い。 〉 《加佐郡誌》 〈 高倉神社 祭神 (左側)春日大神(天児屋根命) (中央)誉田別尊(応神天皇) (右側)天満天 神(菅原道真) 由緒 創立年代は詳でないが上古は後方山上に鎮座されていて辺海を航行する者が神威を畏れたから今の地に遷座し奉ったと伝えられて居る。当社は本郡著名の古社で維新以前までは旧記も沢山あったということであるが今は何も残っていない。併し天文六年の棟札が今に保存されて居るので古社であるという事は明である。天正12年若狭高浜の城主同国和田の城主岡本主馬之介が余部付近を占領したとき社地壹町六段余を没収して更に田畑壹段余を寄進した旨社記にある。又其後右岡本某社殿を新築したことも社記に見えて居る。次で230余年を経て社殿が廃頽したので文政五年に再建した。 往昔氏子は長浜和田下安久余部上余部下の六ケ村で接近漁師町(吉原)から毎年九月十日祭礼を掛けたこと文化年中行事に記されている。現在の氏子戸数は二千三百九十六戸で例祭は毎年八月14日であったことが近年十月17日に改め私祭は七月30日に行われる。 境内神社 一社 (祭神 保食神 大山祗神 日本武尊) 〉 《舞鶴市史(各説編)》 〈 高倉神社の狛犬 長浜の高倉神社には慶長十八年(一六一三)作陶の狛犬一対があり、市の指定文化財になっている。同社は「高倉八幡宮」(旧語集)と称して、誉田別尊(八幡神)、天児屋根尊、菅原道真を祭神とする。創祀の由来は定かでないが、天文六年(一五三七)の棟札が伝存している。祭神はともに垂迹神である点、また菅公は天神と習合したこと、および天神を天満宮とせず天照大神と考えられる可能性もあって、三社託宣の影響がこの社の創祀に及んでいるかも知れない。そうした場合は、在来の地方神が新しく宣揚され、流入した神と奉祀上の変化など祭神の交替があったことになる。というのは、現今は同社境内に据えられている神様石が同社の原初的形態ではないかと考えられるからである。恐らくこの石も磐座の類であったかも知れない。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収の余部温故疏 〈 高倉神社。 (余部温故疏) 高倉神社の由緒。 明治百年を記念して、昭和四十三年二月十一日編纂 高倉神社蔵版 氏神 高倉神社 京都府舞鶴市大字長浜鎮座 御祭神 (中央)誉田別尊(応神天皇) (左)天児屋根命(春日大神) (右)菅原道真公(天満天神) 氏子 余部上、余部下、長浜、和田、下安久の五字、約三千戸。 御由緒 創立年代は、よほど古く、隋神像が藤原時代(約千年前)の作であることでも藤原前期であると思はれる。鎌倉時代(約六百年前)には既に正三位の神階を敍られた近郷有数の神社である。 弓矢の守護神として、往昔から近郷武将の崇敬も厚く、天文六年(二一〇八)には南部膳行社殿を建立し、次いで天正十二年には、若狭和田の領主岡本元幸が田畠を寄進するなど、奉賽の事蹟が多い。 (昭和三年八月には、現在の拝殿及び社務所、神輿、神輿庫等が造営された。) 氏子は、江戸時代には、下安久、和田、長浜、余部上、余部下、北吸の六ケ村に亘り、神社奉仕に努め、天文六年、天徳五年、文政五年の両三度に亘り社殿を建替し、宝暦四年には入木道(書道)の宗家持明院家に社額の揮毫を請ふなど、社頭の整備に力を尽した。 明治六年には村社に列せられ。昭和十二年には指定村社として認可され、次いで昭和拾九年九月一日を以て内務大臣から郷社に昇格された。 境内社 稲荷神社 御祭神 保食神 大山祗神 日本武尊 十二月栗神社。 此の神社は、今から四百八十年前の長享戊申年大聖院智海写の丹後風土記に、 往昔稚産霊神所植 而年十二月朔日生花 仝二十日結実、至今其例不差 云々 と記されてゐる五穀豊穣の神様である。 此の神様は、初め長浜海岸に沿ふて約一粁ばかりの東の端、今の京大水産学部の正門左側にあったが、昭和三年海軍爆薬部用地となったので、現在の所に遷在したのである。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収の郷土調査 中舞鶴尋常高等小学校 昭和六年 〈 余戸之内長浜八幡宮へ寄進書 合田一段者(壹所八浜中) 合畠二百四十五歩壹所八池尻二壹(所八) 右之田畠者拙者に永代被下賜領知之内たりといへども八幡宮へ寄進申候然上者社之修理神事等出御供已下無由断可被執行事専一候子々孫々異儀有間敷候仍寄進状如件 天正十二年甲申八月吉日 岡本主馬助 元幸(花押) 余戸六ケ村 百姓中 右の寄進状の裏書として 岡本主馬寄進之通得御意候處神方出来ニ候間以検地上壹段五十歩任寄進状之旨不可相違候由ニ候間可得其意者也 慶長二年十月二十二日 里夕(花押) 〉 『舞鶴市内神社資料集』(余部温故疏) 〈 十二月栗神社の由緒 長享戌申年九月十日大聖院智海写 丹後風土記残欠 十二月栗神社無祠奉称神古老伝曰往昔稚産霊神所植而歳十二月朔日生花仝二十日結実正(二字虫食)日取其実以奉大神至今其例不差蓋是神験之奇乎 丹後風土記は神亀天平年間(1389−1405)にできた。その一部は今も残って居る。此の残欠写は、長享戌申(二一四八)であるが、延喜式内(一五六一)には洩れてゐるが、それ以前の丹後風土記に記された由緒あるお宮である。 此のお宮は、初め長浜東端の海岸に祭祠されてゐたのであるが、昭和三年、東京瀧の川にあった海軍爆薬部が同地に移転した際、高倉神社神殿の右側にある六角型の石組の台に遷座されたのである。 此所は今もなほ松、栴檀、榎等が繁茂して、千早振神代ながらの俤が偲ばれる。古老の言伝へによると、往昔稚産霊神が諸国巡行の途次、この地にお立寄になって前記の巌上にお手づから、一本の小さな栗の木をお植えになった。 それから永い間、荒い潮風にもまれながら無事成育して大木となり、不思議なことに、毎年十二月朔日になると長い白い花が咲き、二十日を過ぎると立派に実を結んだのである。そこで、里人達は、毎年元旦に、其の実を採って大神に奉り、この木を神木としてあがめ、信仰の対象とする様になったのも誠にと思はれる。 補記 十二月栗神社は、又「せはま」様と云ひ、里人達にしたしまれ、境内は里の子供達の遊び場であった。境内の東側の浜は、遠浅の岩床であって、小浪が立つと瀬になったので、瀬の浜が「せはま」となったのでしょう。 〉 『舞鶴市内神社資料集』(余部温故疏) 〈 高倉神社。 十二月栗神社。 此の神社は、今から四百八十年前の長享戊申年大聖院智海写の丹後風土記に、 往昔稚産霊神所植 而年十二月朔日生花仝二十日結実、至今其例不差 云々 と記されてゐる五穀豊穣の神様である。 此の神様は、初め長浜海岸に沿ふて約一粁ばかりの東の端、今の京大水産学部の正門左側にあったが、昭和三年海軍爆薬部用地となったので、現在の所に遷在したのである。 〉 『舞鶴市内神社資料集』(神社旧辞録) 〈 高倉神社。… なお境内に八幡本殿と並び何と右横に「風土記」謂十二月栗社祠有、この旧地は海軍火薬廠辺の海岸に在ったが軍に接収されたため境内に移祠された。ちなみに又ぞろ先に同う十二月栗社の名号勘按すれば、大歳神かともされる、即ち十二月来シハスクる神。 〉 境内の案内板 〈 高倉神社由緒略記 氏神 高倉神社(京都府舞鶴市大字長浜鎮座) 御祭神 誉田別尊(応神天皇) 天児屋根尊(春日大神) 菅原道真(天神様) 御神像 鎌倉時代の御神像で丹後地方の神像中、最も古いものの代表的な神像である。 昭和五十九年 舞鶴市第五次指定文化財に指定される。 昭和五十九年度に御神像の保全補修事業を施工する。 御由緒 創立年代はよほど古く随神像が藤原時代(約千年前)の作であることでも偲ばれる。鎌倉時代(約八百年前)には既に正三位の神階(かみさまの位)を叙けられた近郷有数の神社である。弓矢の守護神として、往昔から近郷武将の崇敬も厚く天正六年には南部膳行社殿を建立し、次いで天正十二年には若狭和田の領主、岡本元幸が田畠を寄進するなど報賽(願の成就せる御礼に物を御供すること)の事蹟が多い。氏子は江戸時代には下安久、和田、長浜、余部上、余部下、北吸の六ヶ村に亘り神社奉仕に努め、天文六年、天徳五年、文政五年に両三度に亘り社殿を建替え、宝暦四年には入木道(書道)の宗家持明院家に社額の揮毫を請うなど社頭の整備に力を尽した。 宝物 随神像四体 (昭和六十年に保全補修事業を施工する) 社号額一面 (持明院筆) 宝刀一口 (銘直鋼) 宝槍一本 (銘波平昌行) 高麗犬一対 (木彫) 古文書一括 (天正十二年、宝暦四年等の古文書) 書簡一巻 (社号額揮毫に関する往復書簡) 高麗犬一対 (安久焼、舞鶴市第一次指定文化財に指定される) 棟札三枚 (天文六年、正徳五年等の標札) 出土の壷 (古丹波焼) 境内坪数 千三百十一坪 山林六百三坪 氏子 余部上、余部下、長浜、和田、下安久、北吸の六ヶ村(現在は中舞鶴地区三十自治会が管理) 建物 本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、社務所、篭堂、手洗舎 境内社 稲荷神社 高倉稲荷大明神 五ツ森神社 御祭神 保食神、大山祗神、日本武尊 天満天神社 絵馬奉納社 十二月栗神社(しはすぐり) 此の神社は今から四百八十年前の長享戌申年大聖院智海子の丹後風土記に『往昔、稚産霊神所植、而歳十二月朔日生花仝二十日結実、正月元旦取其実、以奉大神、至今其例不差』云々と記されている五穀豊穣の神様である。 此の神社は初め長浜海岸に沿うて約一粁ばかり東の端、今の京大水産学部の正門左側にあったが昭和三年海軍爆薬部用地になったので現在の所に遷座したのである。 分社 若宮神社 舞鶴市余部上小字四四六番地ノ二鎮座 往昔、余部上村に悪疫がはやり多数の人が日参したり、御百度参りをするのに本社が遠くて不便なので此処に分社を祀り祈願したのが創めである。分社の年代は明らかではないが宝暦十年(二百八十年前)の余部上の古地図には既に誌されている。 記念物・明治二十七年(西暦一八九〇年)日清戦役の咸海衛の海戦に於て敵弾を受けた水雷艇の一部 境内史蹟 神石 往昔より里人この石を以って主祭神の憑依られたものとして崇敬し此の石を跨ぐ事を許さず、之を犯したものは必ず祟ありと言い通行人は之を避けて渚に沿いて歩行したと云い伝える。一名鞍掛石とも云う。戦国時代此の付近一帯が郷土の練武場であった事が社記に誌されている。思うに主祭神が此の石に鞍を掛け馬上姿となって練武を鼓舞せられたのであろう。 此の神石は元裏山近くの海岸にあったが軍の施設拡張の為海岸一帯が埋立てられた際、其の一部を取毀ちて境内に移したものである。 記念物 当地方が舞鶴鎮守府設置に指定されるや有栖川宮?仁親王が現地調査に来られた途次、明治三十一年八月五日御参拝の光栄を記念して此の碑を建てる。 其他 上古は後方の山上に鎮座されていたが近海を航行する船は必ず帆を降すこと、これを守らない船は難波のおそれがありと云う、それであらたかな神威をおそれて現在の所に移したと云い伝えられている。 明治初年迄大祭には北吸、余部上、余部下、和田、下安久、吉原から舟で太鼓、大刀振が高倉神社に練り込み宮本(長浜)も合せて大刀振を奉納し技を競ったものである。 昭和六十一年十月十二日 高倉神社御鎮座八百年記念祭を施工する 昭和六十三年七月吉日 〉 関連項目「二尾・水銀地名」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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