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十倉(とくら)
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十倉の地誌《十倉の概要》 十倉は舞鶴市の南部。西舞鶴市街地から南へ続く国道27号線沿い。伊佐津川が山間から平野部へ出る出口に位置する。 中世までは真倉と一村をなしていたと伝える。 十倉村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。 ![]() 《人口》160《世帯数》53 《主な社寺など》 ![]() ![]() 『丹後国加佐郡旧語集』 〈 ![]() ![]() 『加佐郡誌』 〈 ![]() ![]() 『丹哥府志』 〈 ![]() ![]() 『中筋のむかしと今』 〈 ![]() 道元にはじまる曹洞禅宗は、越前永平寺を拠点として地方に教線を伸ばしていきました。なかでも丹波永沢寺を開いた通幻派は朝日が昇る勢いで全国に展開していきました。丹波・丹後で活躍した天鷹祖祐の弟子である竺翁雄仙が、応永八年(一四○一)にもと薬師寺の跡地に開いたのが洞林寺で、宝徳三年(一四五一)桂林寺と改めました。本尊は阿弥陀如来、田辺の地頭などの尊崇をうけました。慶長五年(一六○○)の田辺籠城戦に、ときの大渓万丈が細川幽斎に味方して舊戦しました。以後藩主の庇護を受け、加佐郡全域に末寺をふやしていったのです。 ![]() ![]() 《交通》 国道27号線 JR舞鶴線 十倉の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 ![]() 医王寺、山号十倉山本寺丹波安国寺一宮九社明神十倉真倉の氏神なり。 ![]() 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 ![]() 十倉村 高九十七石四斗九升 内一石三斗三升五合五勺 万定引 拾弐石碑用捨高 一ノ宮 真倉村 十倉村ノ氏神 九社之内 医王寺 十倉山 安国寺末 ![]() 《丹哥府志》 〈 ![]() 【一宮九社明神】 【十倉山医王寺】 ![]() ![]() 十倉の小字十倉 幾白 ズエノシタ 森ノ奥 山崎 ムカイ川 家ノ奥 トチ谷 クロミ キタ谷 ワル谷 上ノ山 丸山 関連項目![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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