山崎神社(やまざきじんじゃ)
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京都府舞鶴市十倉 京都府加佐郡中筋村十倉 |
山崎神社の概要《山崎神社の概要》 山崎神社は舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の南のはずれ、もう山にぶつかるという、山崎橋の手前でにある。 国道27号線のすぐ脇で、境内にレストランがある。舞鶴の人なら誰でも知っていると思われる。 何でもないような見過ごしてしまう小さな祠に見えるが、深い深い面白そうな謎がある。 現在は山崎神社と呼ばれている、このあたりの地名を採ったと思われるが、それは明治以後のことで、… (1)江戸期は一宮と呼ばれているが、なぜ田辺一宮と伝わるのか。 古文献には砧倉社とあるが、それはこの山崎神社を指している。 (2)砧倉は何と読むのか。 …しかし誰も答える人はない。過去何百年間もない。このままでは未来永劫ないかも知れない。 (1)については、私はすでにある程度の答えは書いたのであるが、それは「田辺郷」参照して下さい。 未解決の問題の(2)である。砧倉はどう読む。 砧倉は普通はトクラと読んでいるが、そう読めるのか。ずっと過去からそう読んできたのだから、そう読めといわれれば、文句言わずにそう読めばいいのだが、しかし読めないではないか。これは何か秘密が隠れていそうだと、そこをない知恵絞って何とか考えるのが郷土史家の悲しいサガである。ご先祖はいいものを残してくれている。地名はウソをつかない。インディアンと同じ、鬼と同じ。現代社会に蔓延するクソ役人やクソ政治屋やクソセンセの言うこととはワケが違う。真剣に受け止めてド真剣に考えてみなければならないものである。こうした村の神社もまたそうである。ご先祖様に深く信頼寄せて何を子孫に伝えているのか考えるより手はない。 岡野允氏の神社旧辞録ではトウクラとルビをふっている。しかしトウとも読めない。 漢字辞典では「砧」は訓はキヌタであって、音はチン。キヌタはキヌイタの転訛で、石や木の台と棒があってキヌを叩いて皺を延ばし、艶を出す道具だそうである。昔はどんな家にも一つくらいはあったのだろうが、現在はこんな物はもうない。私は見たことがない。 中国語や日本語ではトとは読めない。朝鮮語かと調べてみると砧はタドウミと言うそうである。「砧講演原稿」 占は占領とか独占の占だからセン、しめる。卜ならうらなう。苫はセン、店はテン、帖はチョウ、こうしたような音なのではなかろうか。 十倉にあるから砧倉もトクラと読むのかどうかは何とも私は判断できないのである。トクラと書きたいのなら砥倉とか書けばいいではないか。トントンと叩くからトンクラなのか。 ある時代にはそう読まれたかも知れないが、それは転訛で、本来はチンクラでなかったか。 恐らく先学たちも初めは漢字辞書通りにチンクラと読んだのだが、それではどうもおかしいと考え、無理してトクラと読もうとしたのだと思う。 チンクラではおかしいか、そこを考えてみよう。 TとSは交替するので、どちら系の音もでてくるわけであるが、そうすると現在の 私の所にはもうそんな子供はいないので試してみることができないのであるが、しゃべれるようになったばかりの幼児に「シンクラ」といわせてみられるとよい、たぶん「チンクラ」というだろう。おチッコとかタクチーといい、シは発音しにくいようである。 真倉のシンクラは武蔵国新座郡のシンクラと同じでもともとは新羅を意味していたと思われる。だから真倉もまた新羅の意味と思われる。そのシンラ(新羅)の意味のシンクラ(真倉)が転訛してチンクラ(砧倉)となり、それが転訛してトクラ(十倉)ともなった。 チンクラ・シンクラはタクラともタナクリともタナクラともあるいは十倉ともタツクリ(田造)ともタナベ(田辺)とも転訛したと思われるのである。 あまり確かな話ではなく私の記憶なのだが、真名井の五合池と三合池から流れ出て笠水神社の御手洗川となる流れを「新原川」とする地図があった。この記憶は間違いがないと思ってはいるのだが、その地図を未だ再発見できずにいる。しかしこの地図は「新原川」を誤っていたかも知れない。真倉川が池内川と合流される以前は、真倉川はまっすぐに北流して高野川と合流していたという。だいたい現在の国道27号線からもう少し西側を流れていたというが、その流れが「新原川」なのではなかっただうか。真倉川=新原川でなかろうかと考えるのである。シンクラ=シンハラでなかろうか。シンクラがソフルであることは、おおい町の佐分利川上流に新鞍神社があることでわかる。 北有路の式内社・阿良須神社は十倉神社とも呼ばれていた。 舞鶴は明治以後の新地名で、古くは田辺である、そしてこの山崎神社のあたりに発祥としたと思われる。その田辺は 記憶だから正しくないかも知れないが、笠水神社の御手洗川は新原川といい、吉原は新裏町とも言ったそうである、だから真倉や砧倉はこれらの地名と同じで、ソフルのことである。加佐郡のカサとはクシフルの省略で、このシフルと同じである。そうすると加佐郡あるいは笠水のカサはどうもこのあたりの地名と思われのと一致する。加佐郡の舞鶴市とはソフル郡のソフル市という意味だったかも知れない。 またソフルとは新羅国の一名なので、新羅と理解しても大きな間違いではなかろう。山崎神社=田辺一宮は元々は新羅神社であったとも推定できる。 十倉は有路の十倉神社ともにトクラと読み慣わしているが、以上のようなことを考えると本来はジュウクラと呼んでいたと推測される。 これは叔羅川や淑羅駅のシュクラと同じで新羅のことである。 真倉と一村であったと伝わる十倉も新羅村の意、十倉神社もジュウクラ神社で新羅神社であったと推定してよいであろう。 山崎神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 砧倉社 〉 《室尾山観音寺神名帳》 〈 正三位 砧倉明神 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 十倉村 医王寺、山号十倉山本寺丹波安国寺一宮九社明神十倉真倉の氏神なり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 九社明神。一ノ宮 真倉村 真倉村十倉村ノ氏神。九社之内。 〉 《丹哥府志》 〈 【一宮九社明神】 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録) 〈 山崎神社 祭神 天照皇太神荒御魂 同市字十倉 往昔より真倉及び十倉の鎮守であって一ノ宮様で罷通った古社である。田辺郷九社明神の一、「一ノ宮」郷司の順拝巡位によるともいふ。 社名は喜多村の宮崎神社と同様の意にて、山の前鼻サキに鎮座あるゆゑの呼称と睹られる。土記及び寺記の 『わが郷土まぐら』(嵯峨根一正・平1) 〈 祭神・天照皇太神荒御魂神。例祭日・七月十七日、および十月十七日。山崎神社は通称「一の宮」で通る。『丹後国加佐郡旧語集』(享保二十(一七三五)年)に「一ノ宮真倉村・十倉村の氏神 九社之内」と記されている。天照皇太神荒御魂を祀る真倉・十倉の氏神である。ここにいう「九社」とは、西(舞鶴)地域には、九社明神といわれる神社があった。九社明神とは、九ツの神社の神々を指す言葉で、このことに触れている文献はいまのところ享保十六(一七三一)年の@『丹後国加佐郡寺社町在旧記』が古く、次いで、享保二十年のA『丹後国加佐郡旧語集』があり、それには、「郷中古来より九社明神と云有」として神社、または神名および所在地を列挙している。しかし、数ある神社の中から九社だけをいかなる理由で選び、いかなる待遇を与え何を行ったか、また、この意味するものは何か、などいずれも究明されていない。「一、郷中古来より九社明神と云有。多力雄明神(京田村)笠水明神(公文名村)宮崎明神(喜多村)九社明神(吉田村)一ノ宮(真倉村)日原明神(女布村)胆吹明神(青井村)八幡宮(引土村)下森神社(女布村)。」 現在の山崎神社の名称は@では、十倉村 一宮九社明神、Aでは、真倉村一ノ宮、また、九重神社略記(七日市)には、天照皇太神荒御魂と祭神名を記している。 この祭神について『古事記』より紹介すると、「須佐之男尊は、父親・伊邪那岐尊から根の国に追放されようとしたとき、暇乞いに姉の天照太神に会おうとして高天原に上るが、山・川・国土が震動する。皇太神は非常に驚き国を奪いに来たのかと疑い男装し武器を持って詰問する。そこで須佐之男は暇乞いに来たので他意の無い事を弁明する。この一幕は、崇高温和な女帝のイメージを一掃し不正邪意に対しては、一歩もひかぬ神格が現れているので、これをいつき祀った神社ということである。神社の規模は、『丹後田辺領寺社間数帳』(「牛田文書」)十倉村の項に、「十倉真倉村氏神 一之宮明神社 四尺四方板葺 鳥居通り間八尺上家弐間四方茅葺」とある。お気付きの通り、神社の建物は外と内の二重建築となっている。外観の建物を上家(屋)、内の建物を神社の建物(神殿)と称するようである。また、府地誌の十倉村の項に「山崎神社村社々地東西二十三間半南北四十五間 面積百六坪 村ノ西ニアリ天照皇太荒御魂神ヲ祭ル。祭日七月十七日、十月十七日、境内末社二座アリ。」とある。次に山崎神社の氏子に交付された「氏子札」と神社内に保管された棟札を紹介する。 〈氏子札〉明治四(一八七一)年、宗門改・寺請制にかわる制度(神道国教化政策)の一環として氏子調べが行われた。氏子札は神社が各人に氏子である証明として与えた札で、真倉に残っている氏子札は、同五年、壬申戸籍と時を同じく交付されたものである。木札で表に「十倉村山崎社氏子」とし、名前・出生地・親の名・性別・生年月日が書かれ、裏に明治五年壬申二月一日、神主玖津見弘人と書かれている。 〈棟札〉現在、神殿内に保存されている棟札は九枚である。その内、建物(上屋)の再建に関する三枚を紹介する。「…一宮九社大明神…」表裏。表の寛延四辛未は宝暦元辛未(1751)の誤り。この年に社殿を再建立した棟札と思われる。裏の記述は、古い棟札に書かれていた内容を再建棟上げの際、新しい棟札の裏に書き写したものであろう。慶長四年治部将云々は、石田治部少輔三成が慶長五年(1600年、四年は五年の間違い)七月二十日より九月十二日の間、三成が田辺城を攻めた時の事を指しているようで、その時、三成の軍勢が社殿を乱(リ)ニ打(チ)ヤブリ破壊されたので、村人達に勧めて寄付をなさしめ、先ずは仮りに社殿ょ建立したものと考えられる。次の棟札は、文化十四年(1817)年、上屋再建のものである。「…一宮九社大明神上屋再建立畢…」この棟札とは別に、文化十四年二月十三日奉外遷宮一ノ宮九社大明神同三月八日奉上遷宮一ノ宮九社大明神の二札があるので、この間に建て替えが行われたものであろう。この頃には庄屋に苗字がついている。次の棟札は、明治二十九年の大水害により全滅した上屋を翌三十年に再建したときのものである。「…奉斎 山崎神社御上屋再建…」以上述べたことで、昔は「一ノ宮」神社であったことが分かる。それでは、いつ頃から『山崎』と呼ばれるようになったのであろうか。 前述の氏子札および棟札記載の年代から名称の変わった時期を考察すると、棟札では文化十四年までが「一ノ宮」で、その後は「山崎」の明治三十年までとんでいる。してし、氏子札(明治五年)には「十倉村 山崎社氏子」となっているので、文化十四年から明治五年の間の五十五年間に改称されたようである。さて、それでは山崎神社には「一ノ宮」より古い歴史・記録は無いのであろうか。この件について郷土史研究家・岡野允氏(字上安)は、次の二文献に出てくる『砧倉トウクラ』神社が現山崎神社であると比定されている。 一、丹後風土記残欠(「丹後史料叢書第一輯」所収) 京洛神祇伯吉田家伝襲本を長享二(1488)年、与謝郡篭神社阿闍梨智海僧都筆写のもの「抄」 「加佐郡神社卅五座」の中に、『砧倉社』 二、室尾谷観音寺神名帳(「丹後国加佐郡旧語集」下巻・舞鶴市史(史)所収) 元亀年間(1570〜73)作成といわれる文書。 「加佐郡七十七社」中に、『正三位 砧倉明神』とある。この比定の説明のため、丹後風土記所載の三十五社を分布図で示し、砧倉神社周辺の神社名等を図表で示す(岡野允氏の資料より)… 大正十五年三月上旬、山崎神社境内の地上げが行われた。青年団報「マグラ」に次のように書いている。「中筋村の事業として行われた、十倉川河身変更及堤防築造工事によって参詣道がかわるためと、先年の洪水によって境内に土砂が埋積し、それの整地の為に境内の地上げとこもり堂の移転(社の前、右側南向)が三月に行われた。毎日、真倉と十倉から二十人余りの人がでて上げていった。堂も鳥居も石どうろうも移転した。七月十日には社前に於て祝賀会が催された。」 現在、神社前を通っている国道は昭和十一年、府道新設で出来た道路で、それ以前は現在のうら道となっている市道が唯一の幹線道路(府道)であり、神殿はこの道に正面を向いていたが、新府道建設に伴い神殿の向きを新道向きとした。この時、境内の石の大鳥居が立てられた。区文書にこの神殿移転を次のように記している。「府道綾部舞鶴線ノ道路新設ニヨリ山崎神社境内ヲ貫通シタルニ因リ、神殿ノ移転ノ余儀ナキニ立チ至リ、元中筋村有地(京田十倉両字出費埋立地)ヲ無償譲渡ヲ受ケ、同地所ト元境内地全部埋設シ神殿及舞堂ヲ移転ス。昭和拾壱年拾月拾七日、真倉十倉両字氏子同神社ニ集合ナシ竣工祝賀会ヲ盛大ニ行フ、余興トシテ大神楽ノ演舞アリ。」この工事は、総工費千百余りで真倉十倉の負担は七・三であった。真倉負担分は氏子八十二戸で均等負担した。(『山崎神社関係覚書』昭十二) 本殿は草葺で三回に分けて葺替えられた。材料は葬谷の横津や寺ケ谷のカヤで字人足で刈り、山崎神社の他、善通寺・上檀神社にも使用した。葺替えは神迎えの前の十一月下旬の好天候の日に行われ、当日、真倉からカヤを運搬、十倉からは村中人足が出て葺替えた。昭和四十年頃、本殿屋根は草葺の上にトタンをかぶせた。現在、境内を店舗に貸しているのは「交通センター及附帯事業」という名目を付けて、昭和三十八年十月一日、二十五年の契約で貸しているものである。 さて、なぜ、真倉の氏神が地理的に離れた十倉に祀られているのであろうか。この疑問に答えてくれる二ツの話を紹介しよう。 〈その一〉一の宮は、もと真倉小字サミ田の伊佐津川ぞいにあって、ある時、大水によりお宮が山崎まで流され、そこに再建されたという。流れついてから再建までに次の二説がある。「十倉の庄屋さんに山崎へ流れついたと、夢の中でお告げがあってそれが本当であったのである。そこで、庄屋さんは真倉へ「十倉には氏神さんがいないので十倉の氏神として、ここに祀らせてほしい。」と申し入れをし、それが実って現在地に二村の氏神として祀られるようになった。」という正夢説。もう一ツは、「流れついたお宮さんを伊佐津川の鱒マスが現在地へ背負ってあがった。」という鱒説。この説には、一の宮へお参りする時、また、常にも鱒を食べてはいけない。との言い伝えが残っている。この「流れつき説」、今も信じる人が少なくない。元屋敷の場所も示される程である。なを、夏祭りの護摩焚きは流れついたお宮が寒かろうと火をたいた事に由来するのである。 〈その二〉「昔、山崎までの土地はすべて真倉領分であった。真倉の渡り瀬から山崎までの堤防の完成によりできた東側の土地は、沼や川原など荒地で、すべてを耕地化するのは到底無理と岩淵以北を京田に譲った。」という言い伝えがあり、一の宮は真倉・十倉の旧境界に建っているというのである。この二ツの話には、いずれも文献が残っていないので立証できない。 七月の夏祭りは火祭りであるが、昭和三十八年、境内を店舗に貸してから護摩焚きは巾止されている。秋祭りは、朝代神社から神官を迎えて行われるが、昭和五十七年より真倉の祭り太鼓が参加し祭りを盛りあげている。 寄講の掛軸に「一宮大明神」と「天照皇大神宮」がある。次に、そげぬきさんとこま犬の足の話を紹介する。 〈そげぬきさん〉境内の大きな楠の根元に石を積みあげたそげぬきさんがあった。ここにお酒を供えて真倉の方向を向き、ソゲが抜けるようにお願いすると不思議に治ったという。 〈こま犬の足〉ある時、十倉の庄屋さんが、一の宮のこま犬が「あつい、あつい」といっている夢を見たのが正夢で、神殿内でお乞食さんがたき火をした火が、こま犬の前足に燃え移っていた。幸い大事にはならなかったので、早速その前足が作り替えられ、今は、かわいい草履をはいておられる。(向って右側のこま犬) 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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