常(つね)
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京都府舞鶴市常 京都府加佐郡与保呂村常 |
常の地誌《常の概要》 常は舞鶴市の南東部。与保呂川中流域。川上は木ノ下。慶長年間に与保呂村が上村と下村に分村し、さらに元禄9年(田辺藩土目録によると元禄7年)に下村が木ノ下村と常村に分村したという。幕末から明治初期にかけて常村が独立した。44 川下側に地内から独立した京月東町・京月町・常新町・亀岩町の新興住宅地がある。 《人口》223《世帯数》70 《主な社寺など》 氏神は与保呂の日尾池姫神社。 愛宕神社 臨済宗東福寺派大慈山福聚寺 『加佐郡誌』 〈 大慈山福聚院、臨済宗、永正十年竺峯和尚開山、与保呂村 〉 《交通》 《産業》 常の主な歴史記録《丹後風土記残欠》〈 与保呂里 本字仕丁 与保呂と号くる所以は、古老伝えて曰く、往昔、豊宇気大神之神勅によりて、此地に神人仕丁等を置かせらる。故に与保呂と云う。 〉 《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》 〈 一 □□郷 百六拾七町七段内 *これは倉橋郷といわれる □□□一段七十五歩 領家 延永左京亮 廿七町九段八十三歩 与保呂 小倉筑後守 卅一町六段百二歩 地頭 小野寺 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 与保呂村は 三ケ村に分れり上与保呂村、常村、木下村と云う。池姫大明神は三ケ村の氏神、鍵取し上与保呂、木の下村両村にあり。報恩庵余部雲門寺末寺禅宗なり。福聚庵行永竜勝寺(一色氏の菩提寺)末寺禅宗なり、三ケ村の寺なり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免七ツ四分 常村 高三百九石四斗三合四勺 内二拾四石七斗三升九合六勺 万定引 四拾石御用捨高 福聚庵 竜勝寺末 荒神 〉 《丹哥府志》 〈 ◎与保呂下村(与保呂上村の次、是より丹波へ出る) 【青林山福寿庵】(臨済宗) 〉 《加佐郡誌》 〈 常は後陽成天皇の慶長年間に下与保呂村と云ひ、字木ノ下をも含んでいた。東山天皇の元禄九年(将軍徳川綱吉)木ノ下は分離し、自らは単に常村と称する事となった。 〉 常の小字常 亀岩 京月 常 川原田 椿谷 鳥ノ道 木ノ下 和田前 青路 寺垣 菅坂 竹尻 八坂 椿 関連項目「与保呂の里」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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