丹後の地名

和田(わだ)
舞鶴市和田・白浜台


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京都府舞鶴市和田

京都府加佐郡中舞鶴町和田

和田の地誌




《和田の概要》

和田は舞鶴市の中央部。五老岳の北側麓の海岸にある。海は西舞鶴湾に面していて乙礁(おとぐり)と呼ばれる浅瀬・岩礁があるが、この付近は埋め立てられコンテナ船用に「和田埠頭」が建設中である。
和田沖の乙礁
西浦とも称した(慶長郷村帳)。地名の由来は海浜を意味する曲浦(わだ)によるという(加佐郡誌・府地誌)。まるく入り込んだ和田浦がある。
古代は余戸郷、中世は余部里庄に含まれていたと考えられる。
和田村は江戸期〜明治22年の村名
はじめは余内村、明治35年余部町、大正8年中舞鶴町、昭和13年東舞鶴市、同18年からは舞鶴市の大字。種井に昭和51年起立した白浜台がある。



(右が和田と白浜台。左は加津良)

《人口》859《世帯数》513(現在の和田と白浜台の合計)

《主な社寺など》オトグリの祠(取り壊されるとか)
氏神は長浜の高倉八幡宮(現高倉神社)
真言宗醍醐派慈覚山長江寺
慈覚大師作の千手観音を本尊とする観音堂
荒神社
稲荷神社
和田中学校

《交通》


《産業》

和田の主な歴史記録


《丹後風土記残欠》
 〈 余戸

十二月栗社

十二月栗神、祠無し。木を奉り神と称す。古老伝えて曰く、往昔、稚産霊神の植るところにして、歳毎の十二月朔日に、花生、二十日に至り実を結ぶ。正月元日に其実を取り、太神に奉る。今に至るも其例たがへず。蓋し是れ神験の奇乎。  〉 


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 和田村
観音堂田辺松林寺構なり、慈覚大師の作、古来繁昌の伽藍所なれども退転す、元禄年中道心者宗順と云う者観音木像尊身の内僅朽残りたるを以て新仏に造りこみ小庵を取立居住する夫より諸人歩みをはこび信心弥増にしたがいて利生を祈るに願望をかなへ給故今に怠事更になし。  〉 


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ七分
和田村 高二百七拾四石九斗五升
    内五石七斗九升三合 万定引
    五石御用捨高
 観音堂 本尊千手観音 慈覚大師作
 同庵 境内長十七間余 幅十四間余
    此所古来より色々説有不審  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎和田村
【海上山長江寺】(浄土宗)
【観音堂】
【赤土】(名産)
赤土に四種の名品あり、一は赤なり、一は紅なり、一は薄紅なり、一は茶色なり、皆壁にぬる極て佳なり  〉 


《加佐郡誌》
 〈 中舞鶴町。昔の余戸里又は余戸谷の殆んど全部に相当する。舞鶴鎮守府設置以来余部町と呼んでいたが大正八年から今の名に改められた。今は余部上、余部下、長浜、和田の四ケ字から成っている。参考一、余部上及下は古来二字であって分合変換がない。二、余部下に高田平之進と言ふ郷士の居城があったといふことである。城址は明かでない。当字に神龍山雲門寺がある。天龍山鹿王院末で、昔境内に枯池があって此処に龍が棲んでいたから山号としたといふことである。新舞鶴湾内の蛇島に其霊魂が祭ってあるから此島にある二つの小池を龍眼水又は蛇ノ目池と呼ぶと古書に出ている。三、和田は曲浦即ち海浜の意味である事に疑がない。(旧称西浦)  〉 




和田の小字


和田 乙グリ クリワキ エソ谷 杉ノ木 姥ケ谷 浜田 中田 大畑 墓ケ谷 岡 ジケ ムク 小橋 橋詰 堂浜 寺谷 和田 森ダン 森 山ノ神 ダン 安ガ 瀬崎 エノト ワケジ クゴ 五反 小谷 横枕 香良 荒神 奥祢 大杉 イモ谷 タモノ木 峠 深田 種井 滝ケ奥 日ノ口 三反田 日ノ迫 白浜 坂ノ下 家ノ上 花ノ木 城山 サビ 小向 大谷 下ケ迫 清水 和田ノ谷 川ノ上 西ノ谷 明谷 長シ キュフン ケブ谷 薬師 イノオク リンズイ ヤケバシ ナゴ 前田

関連項目

「二尾、水銀地名」





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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