丹後の地名 若狭版

若狭

川上(かわかみ)
福井県大飯郡おおい町川上


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福井県大飯郡おおい町川上

福井県大飯郡大飯町川上

福井県大飯郡佐分利村川上


川上の概要




《川上の概要》
佐分利川の一番上流に位置する。県道1号(佐分利街道)が通り、さらに進めば分水嶺を越えて京都府綾部市の上林に通じる。途中に『太平記』の逆谷がある。字宝尾には欽明天皇の頃に36坊を擁したという摩野山一乗寺があったと伝え、その遺物は民家に秘蔵されているという。
川上村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治3年洪水による山崩れで家屋20余軒流失、死者8人。同22年佐分利村の大字となる。
川上は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西34町余・南北12町余、戸数87、人口は男275 ・女233、学校1。

《川上の人口・世帯数》 194・72


《川上の主な社寺など》

新鞍神社

川上集落の下側、県道1号沿いのある。
『大飯町誌』
新鞍(あたくら)神社(元村社)
祭神 大国主命
所在地 川上字神水(一〇八の三)
境内地 二三二六・六平方㍍
氏子 川上、三森 八一戸
例祭日 十月十五日
宮司 上原善太郎
主な建造物 本殿、拝殿、拝所、上屋、社務所
特殊神事 豊年祭、伊勢踊り、宮当祭
由緒・系統 『若狭国神名帳』に正五位賊掠明神とある。九四四年以前の古社 出雲系
〔合祀社〕
愛宕神社
祭神 火産霊神
元地 川上字向曲里
由緒・系統 一五九〇年以前に創建 愛宕系
稲荷神社
祭神 倉稲魂命、大田命、大宮姫命
元地 川上字野瀬
由緒・系統 一五九〇年以前に創建 稲荷系
山神神社
祭神 大山祗命
元地 川上字山神
由緒・系統 一五九〇年以前に創建 山神信仰
八幡神社
祭神 応神天皇
元地 三森字畦高
系統・由緒 一六七五年以前に創建 八幡系 前記三社と共に明治四十四年合祀された。
宝尾蔵王大権現
祭神 神産巣日神
元地 川上字宝尾
境内地 五九〇・七平方㍍
例祭日 九月七日
建造物 本殿・拝殿があった。
由緒・系統 欽明天皇の勅使により本殿建立と伝えられる。山岳信仰 昭和二十七年九月に合祀
〔末社〕
稲荷神社
祭神 倉稲魂命 大田命 大宮姫命
由緒・系統 稲荷系


新鞍神社
字神水にある。三森区にあった八幡神社を合祀して、川上及び三森を氏子区としている。祭神は大国主命で、合祀祭神五柱がある。創建年代は不詳であるが、国帳所載の神社であるから、九四四年より前からの古社である。正五位賊掠明神とあるのが当神社である。盗掠・棟梁・阿多倉などの文字を当てたものもあるが、明治以後現称に一定された。
 明治四十四年(一九一一)三月八日同集落中の愛宕神社、稲荷神社、山神神社、三森区の八幡神社の四社を合併し、後また宝尾神社をも合祀した。『若州管内社寺由緒記』には、「南径山東西寺新鞍大権現、慶長一八年丑年建立と申伝う。由緒知れず」とある。また、同書に、「宝尾山光明寺蔵王権現並釈迦如来、永正五年戊辰年建立、願主左近太夫と申伝う、由緒分明ならず」とある。慶長十八年(一六一三)、永正五年(一五〇八)は改築の年であって創建の年を指したものと断ずることはできない。


『大飯郡誌』
指定 村社 新鞍神社 祭神大国主命外四神 川上字神水に在り 氏子百八戸 社殿三間二間半 拝所一間四尺四方 本社上仮屋 三間二尺四間二尺 社務所五間二尺一間 鳥居 一基 石燈籠二組 獅狛犬一組 制札大正五年五月建設
境内社 稲荷神社 祭神豊受比賣命 社殿 四尺四方 由緒 〔明細帳〕創立年代不詳も神階記に正五位賊掠明神とある神社にして大飯郡内二十一ヶ所の一社なり(大正三年十一月指定)
〔若狭国神名帳〕正五位賊掠明神かとの説〔神社私考〕に見ゆ 全郡神社 〔宝永四年 國中高附〕阿多倉大明神正月十三日八月晦日九月七日御酒供
〔文化四年 雲浜鑑〕棟梁大明神(現在新鞍と変リの称跡歴々可徴)
明治四十四年三月八日次の五社を合併せり。
  無格社愛宕神社 祭神火之夜芸速男神 川上字向曲里
  同  稲荷神社 同 豊受姫尊     同 字野瀬
  同  山神神社 同 大山祇尊     同 字山神
  村社 八幡神社 同 応神天皇     三 字上野
  同社境内社 山神社 同大山祇尊


『大飯郡誌』
無格社寶尾神社 祭神神産巣日神 川上字賓尾に在り 此地百七十九坪 氏子九十四戸 社殿〔一丈二尺一丈〕
〔寛永四年國中高附〕寶尾權現九月七日此區に今も古仏像十三躯(内一小金)徳川初期の掛物五面木製古掛佛二面(径七寸同五寸五分)を蔵せり 縁起は明和頃の物にて霊牌に慶安二十一年(正月九月)二十七日と書せるものあり)。.



新鞍はその元々の意味が不明になって、アタクラ(盗掠・棟梁・阿多倉)と読まれているが、それは誤りである。シンクラあるいはシクラと読めばまだしも、元々の発祥の本来はシンラ(新羅)と読むべき社名である。
舞鶴市の真倉(まぐら)や志楽(しらく)も同じ事情の歴史地名と思われる。ワタシは何度も新羅ですよ、と言うのだが、全く信じられないのか多くはムシしているよう連中ばかりである。
従来日本の官学歴史は根底から疑ってみる時である、そこから派生したような地名論もまた同じである。ここでもう一度とりあげてみよう。
新座郡
多少なりとも記録が残る武蔵国新座郡を見てみよう。新座も真倉も新鞍も漢字は違うがみなシンクラで、同じ意味を持っていると思われる。
新座郡は志木(志楽)郷と余戸郷しかない小さな郡である。新座はニヒクラとかシンザとか読まれている、志木(志楽)はシラキあるいはシキと読まれている。今の埼玉県新座市や志木市のあたりである。
『続日本紀』
天平宝字二年八月(癸亥(二十四日)(758)、帰化した新羅の僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人を武蔵国の閑地に移す。是に始めて新羅郡を置く。
宝亀11年5月11日(780) 武蔵国新羅郡の人、沙良真能ら二人に広岡造の氏姓を賜わった。
これらより以前にも持統紀に、
持統元年3月22日筑紫太宰が投下した新羅の僧尼および百姓の男女22人を献じた。武蔵国に居させた。田を分かち与え穀物を授けて、生業に安じるようにした。
持統4年1月25日 帰化した新羅の韓奈末許満ら12人を、武蔵国に居させた。

とあるが、新羅郡の地であったかは不明。
ところが『和名抄』の時代になると、この新羅郡は消えてしまい、新座郡となっている。こうした漢字を当てるとニヒクラとかシンザと読まれて意味不明の地名となっていくが、本当はシンクラとかシクラあるいはシンラと読み、新羅を意味していたとみられる。

叔羅川
『万葉集』大伴家持の歌(19巻4189番歌)を見てみよう。
天離る 鄙としあれば そこここも 同じ心ぞ 家離り 年の経ゆけば うつせみは 物思ひ繁し そこゆゑに 心なぐさに 霍公鳥 鳴く初声を 橘の 玉にあへ貫き かづらきて 遊ばむはしも 大夫を 伴なへ立てて 叔羅川 なづさひ上り 平瀬には 小網さし渡し 早き瀬に 鵜を潜けつつ 月に日に しかし遊ばね 愛しき我が背子
同じ(19巻4190番歌)に
叔羅川瀬を尋ねつつ我が背子は鵜川立たさね心なぐさに

叔羅(しくら)川は越前の日野川だが、信露貴川、白鬼女川などとも書いて、叔羅はシクラ、あるいはシラキと読んだという。
『角川地名辞書』は、「万葉集」巻19の大伴家持の歌に詠まれる「叔羅川」は「シラキ」または「シクラ」と訓み、現在の武生市街地に所在した越前国府近くを流れる日野川に比定される。

『南條郡誌』
此川(日野川)を古へは叔羅河といひ、後には白鬼女川と呼び、白川〔今立郡舟津村鯖江の一部之も白鬼女川の路〕の渡をも白鬼女渡と稱し古来有名なりき(〔絵図記〕の一本には此渡を丹生南條郡境とせり)
〔萬葉集一九〕
…叔羅河…
 叔羅河…(賀茂眞淵 翁云叔羅川は越前の人云府に白鬼女川有り神名帳に…白城神社ありさればこの叔羅は新羅の誤にてしらき川なるへしといはれき元暦本に叔??とあれば誤字近し
〔古名考〕新羅ヲシラキト読ツケレハ固新羅城ナリシヲ下ノ城ノ字ヲ省キテナホシキトイヒシコトナレバ叔羅ト書シモ城ノ字ヲ省ケル仮字ナラム
〔名蹟考〕 新羅川を叔羅訶と後世誤れる亊必せり
〔梅田笑談〕叔羅ハ新羅ノ同例ニテシラキノ仮名ナリ
〔名所志留倍久佐〕 叔羅河は…今の白鬼女河なることを必せり
〔足羽社記〕信露貴川今云白鬼女川下而謂之日野川石田川奇津川出于信露貴山麓〔今云夜叉池山〕
〔鯖江志〕 白姫川後世誤稱白鬼女川蓋姫鬼音同故謬且略姫之旁爲女也…渦(日野山)麓又稱日野川者土人云稱也或云河之上流往古祭皇女白姫之靈古有其祠因名之云皇女未詳何帝之女云


またこの川上に淑羅駅(しくらのえき)もあった。平安期の駅名で、越前国丹生郡のうち。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に見える越前国8駅の1つ。北陸道の駅家で、駅馬5匹を常備した。鹿蒜駅から当駅を経て丹生駅に至った。鹿蒜駅は式内社の鹿蒜神社があるところ(福井県南条郡今庄町南今庄)であろう、鹿蒜は大村(カフル)のことであろう。今庄町には新羅神社も白鬚神社もあるし、今庄は元々は淑羅とか白城と書かれ、白城はシラキと呼んだという。
こうしたことでシンクラ、シクラが新羅のことであろうことがだいたい理解できよう。
『南条郡誌』
●白城神社 〔古名考〕或云白木浦の社乎、案南條郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。今庄も古く今城と書けり。此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云此即ち古の叔羅河なり。叔羅は即ちしらきなるべし。
南条郡は敦賀郡と丹生郡の間に明治になってできた郡だそうで、敦賀郡式内社・白城社の考證である。天日槍由縁の地、天日槍の本場 だけあって、シラギやその類の名の社は多い、どれが式内社かは決めがたい。「古名考」はどうした書か知らないが、そこには淑羅はシラギだと書かれているという。

若狭も越前も新羅(・加耶)だらけ、天日槍だらけの様子である。この勢力が古代日本の背骨を作っていった。当り前ながら、天から降ってきた人々だったのではない。しかしその当たり前のたいへんな史実すらスコーンと忘れているほどにワレラの史観は狂ってはいないか。
『大飯郡誌』
若狭に外来民族の蕃衍せしは上古に著しく延暦十年九月の太政官符に此國等に牛を殺して漢神を祭るを禁止しあり…
大飯郡誌は昭和6年の発刊だが、このレベルにすらも現在は追いついていない。
『続日本紀』延暦10・9・17=791
○甲戌、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓の、牛を殺して漢神を祭るに用ゐることを断つ。
と見える。漢神は韓神で、桓武は丑年生まれだったので禁じたのだろうと言われる、
皇極天皇元紀(642)7月25日条にも、村村の祀部の所教の随に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭る。とあり、其他にも若干の記録が見える。
敦賀の気比神宮の牛腸祭があるいはこの祭事でなかろうかと言われる。『倭人伝』に、その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲なしとあるが、牛馬は渡来人と一緒に渡ってきたものである。



佐分利川が社前を流れる、川上集落に小字・左分利がある、サブリは川上の中心集落名だったのではなかろうか。左分利はソフルのことであろう。ソフル村の鎮守社が新羅神社であったことになろうか。
しかしまた新鞍はこのソフルの意味であったかも知れない、khの互転で新鞍はシンフラであったとも考えられる、シフラはソフルであろう。佐分利のもう一つの表記法であったかも知れない。
愛知県知多市に佐布里(そうり)という所がある。弥生後期の遺跡があるそうだが、そこがソフル村であったのだろうか。
北九州の背振山脈についてはセブリはソフルだという説があるが、サブリ、ソウリには今のところはそうした説もないようで、焼き畑説くらいしかないが、サブリもソウリもソフルの転訛であろう。
新羅は元々はソフルとも名乗っていたことが知られている。新羅=ソフルなので、どちらでもいいのかも知れない。ものすごく古い名を残す、ものすごく古い過去を有する地であることがわかる。
『三国遺事』冒頭の新羅王暦に、
第一赫居世=姓は朴、卵から生れた。十三歳の甲子年に即位し、六十年間(国を)治めた。妃は娥伊英・娥英。国号は徐羅伐、また、徐伐、斯(盧)、鶏林ともいう。一説には、脱解王のときになって、はじめて鶏林という国号をつけたという。
甲申に金城を築いた。

徐羅伐(ソラボル)、また、徐伐(ソボル)、斯(盧)(シ、シロ)そしてケイリンとも呼ばれていたと記されている。金城もまたソボルと思われる。
上田茂雄氏の『笶原神社考』(昭43)に、
舞鶴市田井区に於ける氏神社の笠縫踊・塩汲踊と佐分利村新鞍神社(宝尾神社合紀)のそれと殆んど同一である点、…
とある。両地は同一の文化圏にあったのであろう。しかしその踊りはもう見られない。


臨済宗相国寺派妙智山善応寺

『大飯町誌』
妙智山善応寺
宗派 臨済宗(相国寺派)
本尊 聖観世音菩薩
所在地 川上字堂渓(九二の一の一)
主な建物 昭和六十三年(一九八八)現地に竣工
境内地その他 境内一、六二七平方㍍、山林四五、四一九平方㍍
住職 五十嵐祖伝
檀徒数 六六戸
創建年代 文武天皇御宇(六九七~七〇七)
開基 三谷、野口
開山 貴山禅師、久安禅師
寺宝 白隠禅師墨跡二幅、仙崖禅師墨跡一幅、維明禅師三幅
     対、伝狩野常信三幅、伝的宗禅師九条伝法衣


善応寺
 字堂渓にある。臨済宗相国寺派に属し、本尊は聖観世音菩薩である。昭和三十五年(一九六〇)落雷による火災で観喜寺が類焼に遭い、現在妙智山善応寺と号し、元の清源寺と合併して寺名を今のとおりに改めた。
 文武天皇の時代、釈導蔵の開基になる法相宗洞済寺、真福寺の二力寺が、慶長十八年(一六一三)臨済観喜寺=開山久安禅師、開基野口家。慶安元年(一六四八)臨済宗清源寺=開山貴山禅師、開基三谷大江家となって合併まで二ヵ寺が存在していた。什物としては白隠禅師墨跡二幅、仙崖禅師墨跡一幅、維明禅師三幅対、伝狩野常信画三幅、伝的宗禅師九条伝法衣などがある。


『大飯郡誌』
歓喜寺 臨済宗相國寺派 川上字野瀬に在り 寺地二百十六坪 境外所有地三町五反七畝歩 檀家三十四戸 本尊聖觀世者 堂宇〔〕土藏〔〕由緒〔明細帳〕文武天皇御宇法相宗洞濟寺釋導藏開基後荒廃慶長三年久安和尚轉禪。
〔元禄五年改帳〕子生谷村歓喜寺開基慶公首座寛永年中示寂建立者諸檀那中名寄一斗五升年貢地也。


『大飯郡誌』
清源寺 同  川上字登龍に在り 寺地二百三十六坪 境外所有地三町六反六畝五歩 檀徒五十五戸 本尊釋尊 堂宇〔〕由緒〔明細帳〕文武天皇御宇法相宗真福寺釋導藏開基後荒鷹元和四年貴山和尚轉禪。
〔同前〕 清源庵開基貴山慶公座元慶長年中示寂建立諸檀那中名寄一斗六升五合年貢地也。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


川上の主な歴史記録


『大飯町誌』
川上
 川上はその名のとおり佐分利川の上流に位置し、京都府と境を接している。山岳部が多く、また谷も深い。
 佐分利川の源流である鳥谷、田井谷、鉱生谷、岸谷、新鞍谷が主な谷であって、全面積五三四町八反、うち山地面積四八七町九反(明治二十二年(一八八九)調べ)である。続屋、子生谷、葛城、野瀬、内谷、左近、水口、永谷、田井谷、高屋、大柳、清水の各小字に分けることができる。
 文化四年(一八〇七)八八戸四六〇人、昭和四十年(一九六五)八八世帯四〇二人、役場から一二・三キロメートル、当町中最も遠隔の地である。
法相宗
 我が国仏教史上の古宗法相宗に属する洞済寺、真福寺があったと伝えられている。共に文武天皇の御宇(六九七~七〇七)釈導蔵の開基という。
 これと関連する宮当講、寺堂講の由来にも天武天皇のころ(六七三~八六)の飢饉のことが伝えられている。天武天皇の御名大海人と、丹後方面の海人部族との関連も考えられる。
一色五郎
 字永谷、分水界に近く逆(さかさま)谷と称する要害の地がある。一色五郎守邦の居城があったと伝えられ、数十㍍の絶壁がそばだち、人呼んで「馬こかし」という。
 『佐分利村小誌』に、「川上字永谷山林内の擂鉢形をなせる約三百坪0場所なり……」と、右城砦について述べている。
 『若狭国志』(野木山の注)に、「応安四年(一三七一)夏五月国人安賀、鳥羽、三宅等の荘に乱をおこす。守護代一色信博の子詮範及び守護代、佐分、本郷、青、神崎、三方、佐野、多太、和田等の郷村の兵士を率い野木山に陣す。二十六日昧爽野木山を下って玉置河原に戦うこと本国守護代記に見ゆ」とあり、ここでは五郎守邦の名は明記されていないが無関係とはいえない。
 五郎守邦が史上に残るのは、『若耶群談』付録の若狭国税所今富領主代々次第一『若狭郡県志』・『若狭国志』・若狭国中興領主代々次第等で、川上の一色氏は石山城の武藤上野介に滅ぼされたとしてあるが、武藤氏に滅ぼされたのは五郎守邦の子孫ではあるまいか。
 なお、川上・杉左近家は一色五郎守邦家の家老であったと伝えられている。
宮当講
 宮当講は、四座四八名の宮座を有する講員により厳粛に引き継がれてきたが、昭和十年(一九三五)ごろを境として追い追い簡素化され、現在では行事が中断されたままとなっているが、その由来書によると次のように述べている。
  ……人皇第四十代天武天皇の御宇、凶作悪疫人身御供の凶変等災厄打続き……人々生くれども生きたる心地せず……只々此の上は神に祈り仏に念じて其御加護に御縋り申さんより他なしと、老も若きも我も彼も六苗六ヶ寺、其の檀寺に参り籠り……祈願の行をなすこと一七日……村人残らず垢離に身を浄め、時の宮寺新福寺に参り集ひぬ。時恰も正月六日まだ夜の明けやらぬ頃なりき。……時の住職は聖の聞え高き釈導蔵僧にて……其式其作法を教へさとしぬ。宮当講と謂ふはここに芽生えしものなり。……
 以上の由来書は古来の伝承を基として後世書き留められたものであるが、「六苗六力寺」という古い時代のことが言い継がれてきたことに注目したい。
大滝
 新鞍谷大滝三九番地にある。新鞍神社より約七丁の山道である。高さ三七・二七㍍、幅三・三㍍、傾斜しつつ落下し、水量はかなり豊富で、毎年九月二十八日大滝祭が行われる。渇水時に滝つぼの水をかい出して雨ごい祭りが行われた。近年、林道新鞍谷線が開発された。滝の付近には、不動明王の石像が祀られている。
砂防
 明治二十六年(一八九三)から同三十四年にかけて砂防工事が行われた。中でも明治三十一年起工のものは大規模なものであったが、昭和二十八年(一九五三)の台風一三号の猛威は、土砂でこれらを埋め尽くし、更にこれらを乗り越えて多くの被害をもたらした。
 災害復旧により永谷三、田井谷三、鉱生谷一、新鞍一(昭和三十三年調べ)等大小の砂防が増設された。
大般若経箱書
「川上村内の什宝の竺典壱百弐拾巻は、龍(清源寺)華(観喜寺)両山の内隔年に預け置くものなり。明治三年庚午仲穐初七(九月七日)古今未聞の疾風暴雨、雷捲電奔、山崩れ谿埋まり、泥砂村落に溢れ、潰れ損じる民屋二十余宇、流亡する者八員なり、田畑山林等は十にして七、八は流失す、この経蔵も其の難に罹りて浸漬す。因って村中の緇素(僧侶と住民)衆議して、大堂の傍に経墳を築き、なほ美なるもの十巻を止めて穣災鎮護の妙典となす者なり。明治七歳次甲戌首春望日これを識るす」
 右の箱書きによって明治三年(一八七〇)の水害の大要を知ることができる。残存の経巻は宋版であるという。
伝説地
 不動岩=字永谷、元の永谷橋の傍らに不動明王と刻した岩があった。弘法大師一夜の作と伝えている。
 鳥岩=字鳥岩の小谷小平家所有の田の中に鳥岩と呼ぶ大きな岩があった。正月元旦にはここから鶏鳴が聞こえ、この岩の下に金の鶏が埋めてあるといった。また、この岩に触れると祟りがあるといわれていたが、災害復旧工事の際取り払われて、今は無い。
 烏帽子岩=字野逕谷の山中に烏帽子岩と呼ぶ烏帽子によく似た岩があった。区内の男子が一五歳になると元服祝いとしてこの岩に参る習慣があったというが、この岩も水害のために流れて、今は無い。
 菅公縁りの地=字須郷谷一帯には、菅郊・菅原などと呼ぶ小字があって、菅原道真公が一時住まれた所という言い伝えがあり、また、福谷の天満宮が元この地にあったのを、山を越えて福谷へ移したものだともいっている。
旧家など
 三谷大江家=大江広元の子孫がこの地に住みつき、姓を三谷と改めたのだという。
 桜井家=『太平記』に出ている名越遠江守(越中)の譜代の臣、桜井権正兼保が、主君の嫡子を守って川上に住みついたという。同家の長男を若狭の守護武田氏の養子に遣わす時系図を添えて出したということである。
 野口家=藤原鎌足の子孫従五位野口左衛門太夫基次が、諸国巡検の途次この地に一泊、その縁故によってここに永住することになった。由来書に「安貞二年(一二二八)秋書」とあるが、紙質、墨色に疑問があるという。
 三谷治右衛門家=四〇〇年ほど前に移住してきた大柳権之守の子孫だという。俗に大堰(いね)と呼ぶ字博城(はかましろ)の田を潤す長い水路は、大柳権之守の手によって成ったものだという。
 六苗六力寺=宮当講の由来書に出ている六苗六力寺中の六苗とは、右近、左近、弥太夫、左太夫、権之亟、軍之亟の六戸であったというが、今のどの家がそれに当たるかは明らかでない。
鳥羽伏見の戦と永谷峠
 慶応四年(一八六七)鳥羽伏見の戦いに、小浜藩は幕府方に属し、山崎、八幡方面に陣を張ったが、官軍に敗れて散り散りに逃げ帰った。中にはたらいに乗って帰った者もあったということである。
 その敗走の道筋が丹波路で、川上の永谷峠を走った者も多かった。
桂の大木
 川上区有林の庵谷の境界に幾抱えもある桂の大木があった。空高くそびえ立った樹姿は実に見事なもので、昔から小浜湾に入港する船舶の目標となっていたが、現在は主幹が枯死して、株の周りから数本の若木が茂っている。

川上の伝説


宝尾伝説
字宝尾(たからお)には欽明天皇の頃に36坊を擁したという摩野山一乗(いちじよう)寺があったと伝え、その遺物は民家に秘蔵されているという。

川上は「伝統的民家保存活用推進地区」に指定されていて、土蔵を備えた古い農家が数多く残っている。県道1号から北ヘ入る岐路にこんな案内板がある。↑↓
宝尾山遺跡
 初めてわが国に仏教が伝わった6世紀中頃、宝尾山に摩野尾山一乗寺が建てられたといわれています。一時、七堂伽藍をもつほどに栄えましたが、やがて仏法をめぐる争いごとで滅び、宝物のほとんどが失われてしまいました。
この地に代々住む藤原家には同寺の遺物とされる平安末期の光背化仏2体等、優れた仏像が今も残され、当時の繁栄ぶりを偲ばせています。


『大飯町誌』
宝尾縁起
宝尾縁起として伝えられているものは、後年明和(一七六四~七二)のころ書き改められたものであるが、その中に「……百済国より始て仏法蔵経沙門等渡り、この山に納め、新に梵台を建立して天下太平万民安全のために、一大法蔵経を読誦しけるに、天皇日夜に帰依をなし給ひ、禄を給ふこと一万石……」とある。当時造寺・造仏の盛んであったことを思わせる記述であろう。
 川上の藤原弥兵衛家に残る宝尾の遺仏のうち、非常に優れた光背化仏二体は、藤原時代末期中央仏師の秀作といわれるが、失われた本尊像は少なくとも丈六を下らぬ立派さであったことをしのぼせるものである。.


宝尾伝説
 鉱生谷より約二キロメートルの山腹に宝尾があり、昭和の初めまで四戸の民家が存在していた。
 この宝尾には欽明天皇の開基という摩野山一乗寺という寺があり、三六坊があったという。宝尾権現や不動堂等もあった。
 伝説中に、「宝尾蔵王大権現は人皇三十代歛明天皇の勅使により本殿建立にて、今に御門の鎮守と云い伝う。拝殿は人皇三十五代舒明天皇の建立。権現の霊剣は天武天皇御所持のもの……天武天皇一乗寺に行幸……暫く止まりて軍陣の用意し給う……」。また、宝尾の藤原家について、「藤原朝臣左大臣の準官にて蔵王大権現の神主の末裔なり……」とあり、本家を左近太夫家という。また『若州管内社寺由緒記』には祝子として署名してある。
 宝尾山の絶破について、縁起は、「大同二年(八〇七)に高野山 (高雄山か)建立、諸国の真言宗僧侶皆集りしが、一乗寺の僧寺格を鼻にかけて驕慢無礼なりしかば、衆僧に憎まれて讒言を受けて、それより漸次衰亡する」としている。
 今・左近太夫家には一三点の仏像が残っている。後背につけられていた化仏の優れた作品が二体、ほかは時代が下るに従って作品の質も下がり、時代が下るとともに衰えていった宝尾の様子を如実にうかがうことができる。
 舞鶴市河原の金剛院に宝尾から移されたという波切不動明王が残り、また、高浜町中山の中山寺との関連も考えさせられる。


『大飯郡誌』
(寳尾山)青郷村及高浜町の山脈に連績せる山にして八合目に人家四戸あり皆姓を藤原と称す是れ往昔藤原謙足公の末裔此の地に来りて居住し連綿として今日に及べりと云ふ此の山地に往昔大伽藍ありだれども年移り物変り今は僅かに舊跡を存するのみ。
七百年前山上に八間四面の高塔あり不動明王を祀りしが寺院滅亡後士中に埋没せり。寳尾山の縁起によれば鳥羽上皇の御代寳尾山の埋不動を祈らはぜ病気全快せんとの夢の告により平弘盛を遣はして発掘京都府加佐郡河原金剛院に移し蛤ひたりとあり。
参考 寳尾山縁起抄録
一、摩野山一乗寺は人皇三十代欽明天皇の開基(佛法百済より渡りし時始めてとの山に納む以後天皇度々行幸ありと)。
一、おなりが谷(天皇行幸門の跡)。
一、山鳥屋敷(殺生を禁じたる山)。
一、堀迫(庵の堂の蓮池の跡)一、舎利迫(百済より肉付の舎利を納めたる舎利塔の趾)
一、三十六坊の祈念堂(本尊は不動蔵王にして滅亡後雨露にさらさる)
一、人皇七十四代鳥羽上皇勅使を遣はされしこと。
一、祠れろ釈迦如来は聖徳太子の御自作。
一、寳尾蔵王大撚現は人皇三十代欽明天皇の勅使により本殿建立にて今に御門の鎮守と云ひ傳ふ拝殿  は人皇三十五代舒明天皇の建立権現の霊剣は天武天皇御所持のもの。
一、天武天皇一乗寺に行幸(暫く止まりて軍陣の用意し給ふ)。
一、権現の脇差の由来(旅人権現の拝殿に休息せしに大蛇来りて旅人を呑まんとす旅人脇差を抜きて大蛇を斬り殺したり依て一命を助かりしは権現の御加護なりとてその脇差の血を洗ひて奉納せりといふ)。
一、寳尾山の絶破(大同二年に高野山建立諸国の真言僧皆集りしが一乗寺の僧寺格を鼻にかけて驕慢無礼なりしがば、衆僧に憎まれて讒言を受けされより漸次衰亡すと)
一.藤原家は藤原朝臣左太臣の準官にて蔵王大権現の神主の末裔なり。.


『新わかさ探訪』
宝尾山縁起と一乗寺  若狭のふれあい第107号掲載(平成10年5月15日発行)
消えた古代山岳寺院 伝説を裏づける仏像
 高浜町日置から、おおい町川上の鉱生(こび)谷に通じる峠道は、昔、高浜の海産物を京都に運んだ、いわゆる〝鯖街道〟の一つです。その町境の峠(標高約440m)は「宝尾峠」とも「日置峠」とも呼ばれ、500mほどおおい町側の山の中(宝尾山〔標高490m〕の8合目付近)には、今は廃墟となった宝尾の集落と宝尾神社(宝尾蔵王大権現)跡が残っています。
 宝尾はわずか4軒の小集落で、みな藤原姓を名乗り、終戦(昭和20年)前後に相次いで山を離れ、村里に下りました。そのうちの一軒、藤原一弥さん(83歳、藤原家第35代)のお宅には、「宝尾山縁起」(江戸中期の明和のころに書き継がれたと伝えられるもの)と、この地にかつてあった大寺院の遺物とされる平安末期の光背化仏などが代々受け継がれてきました。
 藤原家に伝わる宝尾山縁起には、わが国に初めて仏教が伝わった6世紀ごろ、欽明天皇により宝尾山に摩野尾山(まやおさん)一乗寺が建てられ、たびたびこの地に天皇が行幸されたことや、大伽藍三十六坊をもつほどに栄え、峰には高塔がそびえ立っていたこと、本堂の本尊は釈迦如来で聖徳太子の作とされ、高塔の本尊不動明王は、一乗寺が没落したのち、雨露にさらされ草木に埋もれていたのを、平安後期に丹後国河原(現在の舞鶴市鹿原)の金剛院へ移したこと、宝尾蔵王大権現は631年に舒明天皇の祈願によって造営されたものであることなどが記され、さらに一乗寺が滅んだのは、平安初期に空海が真言密教の布教を行ったとき、一乗寺の僧侶がこれと対立したことなどから、朝廷に見放されて全員が山を追われたためで、多くの霊仏・霊画・宝物が野ざらしとなって土と化したと書かれています。
 宝尾集落や神社、一乗寺の跡は、川上の鉱生谷から山道を2㎞ほど登ったところにあります。かつて藤原四家の人たちは、山あいの棚田や、一乗寺跡といわれる宝尾山直下の広大な畑を耕し、猪や山鳥を糧とする生活を営みました。
 一乗寺が栄えたのは、縁起によれば飛鳥・白鳳から奈良時代を経て、平安初期までの約250年間で、その後、山を下りるまでの一千年を超える歳月、宝尾の人々は蔵王権現を守り、山中での暮らしを続けたわけです。
 現在、神社跡は竹林となり、取材の際には、イノシシがタケノコを掘り起こした跡があちこちにありました。4軒の家が竹り添っていた集落跡は、石垣や沢水を引いた水路が人々の暮らしの名残をとどめ、一乗寺跡とされる広い緩斜面には、廃村後に植林された杉が大きく育っていました。
 この一乗寺跡には「庵のだら」「尾だら」、そして昔の蓮池の跡という「堀さこ」など、寺院にちなむ呼び名が残っています。現地の風景の中に実際に身を置くと、何かしら森厳な気配が漂い、この地に大寺院があったという縁起の記述が真実として受け止められる気がします。
 また、舞鶴市鹿原の金剛院は、同寺の本尊・波切不動明王について、永保2年(1082)に白河天皇の病気平癒を願って若狭国川上村宝尾山の一乗廃寺から移されたものであると伝えています。宝尾山縁起では、これを鳥羽上皇の時としていますが、いずれにしてもほぼ同時代であり、このことも一乗寺の存在を裏づけるものの一つです。なお、ここからほど近い高浜町の牧山や青葉山麓の高野にも古代山岳寺院が存在したとする伝承があります。

舞鶴市河原の金剛院の本尊・波切地蔵像や快慶作とされる重文の天部像などもこのお寺にあったといわれる。

『越前若狭の伝説』
宝尾山(川上)
 宝尾山にむかし摩野山一乗寺という寺があった。人皇三十代欽明(きんめい)大皇の開基で、仏法が百済(くだら)国から日本へ初めて渡って来たとき、この山に納め、お経を読誦した。天皇は日夜帰依して、一万余石の禄を賜い、たびたび行幸があった。おなりがだん(谷)というのは、行幸のときおなり門を建てた跡である。
 それより三百メートルほど上に山鳥屋敷という所がある。殺生を禁ずる山であるから、日ごろここに鳥が集まり、往来の人が食べ物を与えれば、食べていた。
 しゃりがさこ(舎利が迫)という所がある。百済から渡って来た肉付きの舎利(仏陀の骨)を納めた金銀造りの舎利塔の跡である。
 峰に観音堂があった。堂は宝形造りで、ぎぼし(擬宝珠)の空は風がはげしく、鳥がとまらなかった。よって鳥とまらずという。山が退転したとき、本尊の観音は、五色の雲に乗って、どこかへ去って行かれた。
 三十六坊のうち祈年堂というのは、本尊は不動尊であった。寺が絶えて後、お堂の跡に草木が茂りたが、その中に不動尊が雨露にさらされていた。人皇七十四代鳥羽院は、久しく病気に悩んでいたが、あるときの夢に不動尊が出現し。「むかし若狭の国宝尾山に大きな寺院かあった。わたしはそこに安置してあった不動尊である。今は寺院は絶破し、人の登らぬ荒れ山になって、雨露を受けている。よって丹後国河原(舞鶴市)の金剛山に堂を建て、不動尊を勧請するならば、三日を過ぎずして病気は平復しよう。」と告げ、北の方に帰った。
 天皇は勅使を派して山を調べさせるに、草の中に不動尊を発見した。天皇はこれを聞き、平の弘盛をつかわし、河原金剛山に寺院を建立して、不動尊を勧請した。
 本堂の本尊である釈迦如来は、聖徳太子の作である。この本尊は、当地の蔵王大権現の本地である。
 蔵王大権現は、人皇三十五代舒明(じよめい)天皇の建立である。今も朝廷の鎮守としている。権現にある宝剣は、人皇四十代天武天皇が納めたものである。大とも皇子が反乱を起し、天皇を殺害しようとした。天武天皇は当山一乗寺に落ちのび、ここで軍陣の用意をして、権現に祈誓して出陣し、悪逆を討ちとめた。よって祈誓のときの剣を奉納した。
 権現に納めてあるわきざし(脇差)の由来は次のとおりである。むかし旅人がこの山を通り、拝殿に腰かけて休息しているうちに眠った。そのとき後から大蛇(じゃ)が来て旅人をのみこもうとした。すると腰のわきざしがおのずと抜け出て、大蛇を切りさき、またもとのさやにおさまった。旅人は目がさめてみると、大蛇が切りさかれており、自分の刀が血に染っているので、事情をさとり、さてこそ権現の加護により危うい命を助けてもらった、そのご恩報謝にと、このわきざしの血を洗い、奉納した。
 荒神に納めてあるやりは、そのむかし大乱のとき、蘇我の大臣が志願あって納めたものである。
 当山が絶破に及ぶゆえんは、大同二年(八〇七)に高野山が建立され、諸国の真言宗はみな高野山に従ったが、当摩野山は、仏法の最初の地であり、天皇の祈願所でもあるので、それを鼻にかけて、諸国の法師を軽々しくあっかった。それで万人の憎しみを受け、高野・比叡の衆僧がおぼえのない悪逆をざん言したので、朝廷の帰依も薄くなり、ついに禄を取り上げられ、追討を受けた。
 宝尾の藤原家は、藤原朝臣(あそん)左大臣の役人で、蔵王権現の神官の子孫である。 (宝尾山縁起)
 参照 一乗寺(高浜町高野)

新鞍(あたくら)神社  (川上)
 新鞍谷を流れる川が佐分利川に合流する所に、この神社かある。この神社は、むかし佐分利川の上流の川上村の奧にあったが、洪水のさい流されて、今の所へ来て止まった。村人は、これを見つけて神様がこの所を好んで、ここにとどまったのだといって、まつった。
 むかし川上の村の奥に老人の夫婦が住んでいた。この夫婦は、川上村の先祖だといわれている。この老夫婦に、数人の娘がいたが、毎年山にいるひひざるに、娘をひとりずつさし出さねばならなかった。この時すさのおのみことがおいでになり、そのひひざるを退治して、老夫婦を救った。このためすさのおのみことをこの村にまっった。
 この神社の祭の日には、お講が行なわれる。このお講は旧正月十二日に行なわれ、料理は主としてゴボウであり、ゴボウ講とも呼ばれている。このお講に招待される人は、かみしもの上衣だけを着て、素足で村中を回り歩き。またこの講に欠席する人の家へは、七回半だけ呼びに行くことにしている。
 十二日は、未成年の娘ひとりが、美しく着かざって、母親につきそわれて、あわがらと酒二升を持って、夜あけに新鞍神社へお参りする。あわがらは、昔あわで作った酒をそのひひざるにさし出したなごりである。(佐分利村小誌)

 この神社は大国主命をまつる。むかし人身をそなえた神社であるが、いつのころからか、旧暦正月十三日の夜半、人の静まった時刻に、酒を供えるだけとなった。今もこの神事を続けている。 (福井県神社誌)

馬こかし (川上)
 川上から京都府綾部市へ越える県境に近いところに、さかまだに(逆谷)とよぶところがある。むかしここに一色(いつしき)五郎守邦(もりくに)のとりでがあったといわれている。そのころ高浜の城山城の逸見(へんみ)や、石山の亀が城の武藤らは、勢力を競いあっていた。
 一色がある年の正月ぞうにを祝っていると、どこからともなく白羽の矢が飛んできて、一色の持っていたおわんにあたった。このことがあって、間なく戦が起り、一色は敗けた。馬はあるじを失って、この谷へころがり落ちて死んだという。それからこの谷を馬こかしと呼ぶようになった。   (三谷銀治)

不動岩 (川上)
 川上のあざ永谷の岩石に不動明王の像が刻んである。弘法大師が一夜のうちに刻んだものである。むかしは干ばつのときこの岩に雨ごいをした。  (本郷湊)

ひじり岩 (川上)
 川上区の山奥に大きい岩石があって、不浄の者が腰をかけたり汚物をのせたりすると、たちまちその人に災いがあるといっている。この岩がひじり(聖)岩である。 (本郷湊)

鳥岩 (川上)
 鳥岩は川上区の字永谷の川んぼの中にあって、周囲六メートル余り、高さ三メートルあまりある。むかし正月元旦にこの岩が鶏声を出した。この岩に触れるとたたりがあるといって、だれも触れるものがない。またこの地籍には金鶏が埋めてあるという。 (本郷湊)




川上の小字一覧


川上  左分利 制札前 水原 永谷 応保谷 鳥岩 妻谷 瀬津亡 日正道 横渓 中野 広畑 薦池 奥庵 滝巌谷 谷山 川合 西端 水口 小谷 左近 左近谷 左近前 下畑 背迫 大谷 菴ノ谷 鈴ケ谷 内谷 内道 乳母谷 宮墻 向山 冷水 渡瀬 多田 護麻ケ谷 畑ケ谷 独民 岸渓 密通谷 漆谷 長畑 五路ケ谷 合瀬谷 岳越 岳間谷 団ノ下 団 向壇 渓水 彩霞 菴壇 孤舘 宝尾 嶺圃 東畑 苔紋 迷路 多巌迫 暖面 前田 堰口 開墾谷 尾坂 行部谷 下尤道 上尤道 梅谷 鉱生谷 椿山 向曲里 桜谷 御幣般歩 曲里 墻内 葛城 片り圃 野瀬 榎谷 野口 泉川原 山ノ神 的場 上的場 塘内一登竜 豊田 坂麓 坂尻 巌端 堂渓 高畠 松野 野逕渓 大柳 清泉 博城 山端 堂便 須郷渓 稗田 菅郊 順郊口 菅原 神田 鈴ノ木 神水 新鞍 鉢窪 八華表 宮ノ下 大滝 小脇谷 妻谷尾 日ノ谷 中ノ原 花ノ谷 左近田 小入道 守田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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