丹後の地名

吉田(よしだ)
舞鶴市吉田


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京都府舞鶴市吉田

京都府加佐郡四所村吉田

吉田の地誌




《吉田の概要》

吉田は舞鶴市の北部。西舞鶴湾の西に位置する。北は青井、南は大君。東の入江の口に年取島がある。天正年間中院通勝が勅勘によって吉田入江南の無人島に幽閉されたが、ある年細川藤孝との歓談が除夜におよび元旦を迎えたので、藤孝が年取島と名付けたともいう。
大正2年捕鯨会社の基地が置かれた。昭和21年からの引揚げ初期には吉田沖が臨船検疫の錨地になった。
瑠璃寺のしだれ桜

 吉田村は江戸期〜明治22年の村名。同22年四所村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。

《人口》111《世帯数》42


《主な社寺など》
奥上神社
曹洞宗桂林寺末金剛山瑠璃寺、境内に樹齢300年のしだれ桜(市天然記念物)
7月に弁財天を祀る年取島で雨乞い祈願の祭が行われる。

《交通》
府道由良金ケ岬上福井線


吉田の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 吉田村
金剛山瑠璃寺曹洞の禅、桂林末寺、吉田、大君両村の寺なり。九社明神社あり、村中産宮なり。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免八ツ三分
吉田村 高弐百拾三石九斗四合
    内壱石三斗三升九台六勺 万定引
    拾五石御用捨高
  九社明神 九社之内
  瑠璃寺 金剛山 桂林寺末
  年取嶋 本書ノ文昔中院殿配流之由歌有略スト記ス
  語園曰中ノ院中納言通勝卿先帝之勅勘ヲ蒙リ流浪シ細川玄旨ヲ打頼ミ十九年星霜ヲ送リ給ふ 其内ニ剃髪シ玉ヒ也足軒素然ト号シ世棄人ノ如クナリシヲ賢才ノ誉レ有ニ由テ御陽成院ノ仰宇ニ勅免ヲ蒙テ帰京其時詩ヲ賜テ曰
  旅雁北飛残搏V 今宵話旧思欣然
  前身蘇武去来否 一瞬居諸十九年
也足奉和之倭歌ニ
  おもひきや 雁の便りをしたひにし
    雲井にかへる身もことしとは
  伝織洽聞古人ヲ恥サレハ常二龍顔ニ近キ奉テ有職
和歌之秘奥ヲ常談シ給フ其余略之  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎吉田村
【九社明神】
【金剛山瑠璃寺】(曹洞宗)
【年取島】(出図)
天正年中中院通勝卿勅勘あるによって此島に左遷せらる、剃髪して也足軒と號し素然と称す、毎に玄旨法印と風流の交を結ぶ、伊勢物語闕疑揃、百人首拾穂抄、顔大概抄、太平山家記などの編集あり、焉居十九年後陽成院の御宇に至り勅免ありて京師に帰る、其時七絶一首を賦し給ふ、其詩に云
旅雁北飛残臘天。今宵話旧岡肇然。前身蘇花去来有。一瞬居諸十九年。
家集 也足軒素然勅勘を蒙りて数年丹後に在国ありしに此度めしかへさるへき勅諚あるよし勧修寺大納言より申送られけるに程なく帰洛なししかは
忘るなよ翅並へて友鶴の  独り雲井に立帰るとも  (玄旨)
かへし
思ひきや雁の便をしたひしに  雲井にかへる身をことしとは (素然)
帰るへき雲井にたとる友鶴の  元の海辺を立ははなれし (仝)
先是除夜に玄旨法印瓢然として扁舟に棹し素然を訪ひ至る、其夜の雅談限りなければ頓て東も白みて元旦とはなりぬ、よって玄旨法印此島を年取島と名づける。東海談に曰。岷江入楚といふ源氏物語の弁百廿巻は也足軒素然と玄旨法印両人の手になる、始め此書を編集せんとて多く書籍を集め、一句一言源氏物語に関渉するはこれを抜萃す、今世に行はるる岷江入楚元は鑑觴無庭抄といふ、鑑觴無庭の字孔子家語に出たれども、也足軒は黄山谷の岷江鑑觴入楚の無庭といふ句より名づくるといふ、其楔次亦年取島左遷の頃の事也。  〉 

『青井校閉校誌』
 〈 年取島と吉田のしだれ櫻
嵯峨根宏尚
子どもの頃、夏が近づくと何よりも待遠しく思われたのは、辮天祭でした辮財天を祠る島へお参りする日なのです。舟を二隻カラ組(組合せ)一番船、二番船と太鼓を打ちながら参拝者を島へ送るのです。船の前後を飾る青竹の葉がさやさやと鳴り、中央より前後に吊るした赤い提灯は海面を照らし、実に幻想的なものです。この島が年取島と呼ばれる様になったのは、四百数十年前の事です。丹後旧事記によれば、「天正七年中納言中院通勝の息女、時の帝につかへまつりて寵恩に浴しけるが、いかなる事にか逆鱗にふれ、その事にて通勝も勅勘を蒙り、天正八年官を辞し、浪々として、藤孝(田辺城主)を頼み、十九年の星霜を送れり。」とあります。この十九年間とはどの様な時代であったでしょうか。通勝が吉田に隠棲して二年目(天正十年)、本能寺の変が起こりました。幽斎の子・忠興の妻の玉は光秀の娘であり、細川家にとり、あってはならない大事件でした。しかし、光秀の誘いを拒絶、幽斎は宮津城を忠興にゆずり、剃髪し、丹山隠士幽斎玄旨と号し、田辺城に穏退し、そればかりか、忠興は妻を丹後の奥深い味土野に幽閉したのです。やがて時代は秀吉の天下となり、幽斎は京と田辺を幾度も往還し、文事に遊び、またこれにより通勝も長く幽斎に師事し文事に精励する事が出来ました。中院家は古来より朝廷に隻る名家踊ですが、突然、天正十五油年出家し、也足軒素然と号し、幽斎の養女と結婚され、翌年、通村が生まれました。(通村は後に、後水尾天皇の信任深く、武家伝奏等活躍しました。)そこで、この様な小さな島では、生活するには余りに不便であり、瑠璃寺の出来る前の敷地ではないかと、平成六年、文化財保護委員・松本節子氏、同委員会資料部会長・高橋卓郎先生、市教育委員会・吉田主任を島や寺へ御案内しました。その時は、大変参考になるお話を拝聴し、感謝している次第であります。
更に、郷土誌によると次の様に伝えます。
住吉入江から舟出してーー(省略)匂崎の一角を行くと程なく蓬莱山とも見ゆる小島が年取島である(丹後旧年記に年取島は田辺江中の島村也とある。)また、他誌には(有島村)とあります。天正十年中院通勝卿左遷せられ、この島にあった時、国主藤孝は庵を結んで住はせーー(略)ーーある時、藤孝は卿を伴い舟を浮かべてこの島に遊び閑談清話、時の移るを忘れ遂に、初陽を迎へたので幽斎が「年取島」と名づけたとあります。
時は移り、天正十八年に秀吉の天下統一、その後の八年後の慶長三年、醍醐の花見(その年、秀吉死去)、その翌年に通勝ゆるされて京へ帰ります。通勝四十三才、通村十一才でした。その翌年に関ヶ原の決戦となり、有名な田辺城の篭城となります。その篭城戦とは、関東に出陣中の忠興の留守を守る田辺城を西軍(三成)兵」一万五千が包囲し、幽斎は五百人ばかりの残りの兵をまとめてたてこもったのです。その時、桂林寺の大渓和尚が長年の恩義に報いるべく、弟子の僧十四・五人を引連れて入城したのです。この和尚が後に瑠璃寺を開山されたのです。幽斎の篭城を知らされた朝廷は、古今伝授の正統を伝へる幽斎にもしもの事があればと憂慮され、八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)は、七月二十七日使者を送り、和睦を勧告しましたが、幽斎は受け入れず、親王に古今集の証明状と、次の有名な和歌を贈ったのです。
いにしへも今もかわらぬ世の中にこころのたねをのこすことのは
天皇には「二十一代和歌集』を献上しました。更に親王は八月二十一日も再度調停を試みましたが、またしても受け入れなかったのです。そこで、天皇は幽斎の心の種をのこす言葉の歌は、疑いもなく「古今和歌集」の心を後代に残すことの出来る喜びを詠み、この世に思い残すことはありませんと云ふ事也と、この伝統の絶える事を惜しまれ、九月三日、勅使を田辺に下向させる事を決せられたのです。この勅使の一人が中院通勝卿です。三人の勅使は亀山城主を従へ田辺に入り『幽斎公は文武の達人で、特に、朝廷の師範であり、神道・歌道の国師である。今、幽斎がことあれば、古今集の秘事伝統は永遠に絶えるであろう。すみやかに、その囲を解くべし…』と。西軍は兵を引き勅使は入城、その意を伝え、勅命を受けた幽斎は、九月十三日、城を明け渡したのです。関ヶ原決戦の二日前の事でした。後日、家康はこの六十日に及ぶ篭城で一万五千余の兵を関が原に参陣させなかった事を大きく見て、丹後の三倍以上の九州豊前豊後三十九万九千石を与え、忠興は小倉へ移封されました。同時に幽斎は京都吉田山に随神庵を建てて閑居します。その時、吉田の室の木が多く使われたと伝えられています。小倉に移封された忠興は茶人ですから何か有るのではと思っていた時、『幽斎、忠興の史跡事典』永尾正剛氏編に「小嵐山」の項あり、それは幽斎が京都嵐山に似ていると嵐山の桜を移植させた事から、この名で呼ばれるようになったとあります。(北九州市小倉南区字徳力)古来、桜は特別な場合に植えるもので、あの大渓和尚の瑠璃寺創建の時か、それとも中院の結婚ーー。しかし、三百年前に大火で寺は焼失、この老樹の桜のみが知っているのではないでしょうか。この老樹の桜は、私の子供の頃に大風で(落雷した)主幹が倒れ、片方の左側の枝三本を残し、昭和三十年代に枝を張り、やや回復し今の姿になりましたが、同時に二代目の桜は大きく成長しました。この二代目は、門前の嵯峨根堅治氏(一洋氏の祖父)が、大正の末、苦心の取木で、その古木と若木が織りなす景観は素晴らしく、昭和五十二年、天然記念物として市の指定を受けました。更に、瑠璃寺総代・嵯峨根正利氏が京都府緑化センターに依頼され、三代目の育苗に成功。平成十三年三月十六日、市長や関係者多数出席され、盛大に植樹されましたが、正利氏はすでに他界されており、惜しまれてなりませんでした。その後、大君、吉田を中心に総代・神田昭夫氏を会長に「吉田のしだれ桜を守る会」が発足し、色々と行事が行われている。そして、特記したい事は、その三代目の予備の一本が、平成十六年二月に、京都吉田山の吉田神社の末社、大元宮に『里帰りの桜』として、植樹されました。床しく実に丁重なる命名です。感激致しました。
吉田神社と吉田家は幽斎と縁深く、兼見の子の兼治の妻は、幽斎の娘なのです。幽斎・忠興関係年譜(諏訪勝則編)に、「天正十一年三月一日、幽斎女の輿入れの荷物、吉田家に届く、同月二十八日婚儀。」とあります。この桜の事と云い遠い昔から約束されていたのでしょうか。私の外祖父・神田繁次郎が、「この吉田の地名は殿さんが京都吉田山に隠居されたので、そう呼ぶようになった」とも云うと、云った事を想い出しながらペンを置きます。後記、参考資料として、丹後資料集、丹後旧事記、高橋先生、松本節子氏の説も参考にさせて頂きました。  〉 



吉田の小字


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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