与謝野晶子
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府与謝郡与謝野町温江 京都府与謝郡加悦町温江 京都府与謝郡桑飼村温江 |
丹後が誇るキラキラ星、与謝野町出身の歌人。 (同町の観光パンフより↓)
このページは晶子だけの簡単な紹介。 付 真下飛泉「戦友」 与謝野晶子↓これは大内峠の歌碑 大内峠の一字観、天橋立が横一文字に見える紅葉の名勝。今では使われることが少ない峠道だが、かつての丹後幹線道の峠でよく知られていた。芭蕉、蕪村、頼山陽、中島棕蔭、五升庵、蝶夢、高浜虚子、など文人墨客が引きもきらず、与謝野寛、晶子の歌碑をはじめ、蝶夢、樗牛、洗心、碧梧桐の句碑、小室信夫翁の記念碑、一字観公園の碑など数々の石碑が草むしている。何の形なのかわからないが、こうして与謝野夫婦の歌碑もある。 海山の 青きが中に螺鈿おく 峠の裾の岩滝の町 晶子 楽しみは大内峠にきわまりぬ まろき入江にひとすじの松 寛 昭和5年に丹後を訪れた時のものという。 明治11(1878)年.12.7〜昭和17(1942)年.5.29。 明治〜昭和初期の灼熱の歌人として知られる。しかしそれだけにとどまらず、古典研究や女性の自立を求めた評論活動、教育と社会活動など多様な分野に及んだ優れた万能選手で、私は日が三つの名と詠んでいるが、ホントにそんな女性である。 11人も子供がいるのだが、写真を見れば夢二の美人画のトロンと夢見ているようなお嬢さんに見えるのだが、周囲の猛反対をおして風呂敷1つで、知らぬ他国の定収入なしの貧乏文士(失礼)の元へ飛び出して、彼らを育てた母でもある。単に文学愛好女性であるはずがない、八面六臂の仏様のようなスーパーレディーで、1人でも育児ノイローゼになるようなひ弱な母、いや普通のどんな女性でも真似のできない活躍をするのであった。 本名は鳳晶(ほう・しょう)。中国人かそれとも宝塚スターの芸名かと思えるような本名だが、そうではない。何か現在でもモダンな名として通じそうな、最初の名からして大スターとして生まれたような人だが、家庭内では「おしょうはん」などと呼ばれたという。 江戸末期からの和菓子商、練羊羹が売り物の老舗・駿河屋、鳳家の3女として生まれている。 堺は古い歴史を持つ自治都市で、「もののはじまりみな堺」といわれる、新しい情報がいち早く入り、あたらしい物事を生み出してきた、そうした堺商家の出であり、一種の強い反骨精神を生きぬいた人々の多い市民自治の町で育った。 鳳はホウではなく、本当はオオトリと読むのだろうと思うが、近くの神社か地名から取った明治の新姓だろうといわれる。近くに和泉一宮・明神大社の大鳥神社があるが、そこから取ったものではなかろうか。大鳥神社は鳥取神社で、ひょっとしたらホウでなく鳥取とか倭文とかの姓になっていたかも知れない。戦災で焼失後、戦後の区画整理で生家は道路(紀州街道)となったそう、そこには今は生家記念碑があるという。 海恋し 潮の遠鳴り数へつつ 少女となりし 父母の家 の歌碑があるそうだが、その海も埋め立てられて潮の遠鳴りをかぞへることはもうできないそうである。 宿院小学校に入学、その高等小学校、さらに新設の堺女学校に転じ、補修科二年を過ごした。ここは裁縫や家政学を授ける学校で、文学・芸術・学問的なものは求めにくく、卒業後に「家にありて自学独習す」生活が続いたという。 兄は、早くから秀才の誉れ高く、三高を経て東京帝大卒業、翌年には同大学助教授に任ぜられ、英・米・独に3年間留学した電気工学の泰斗であるそうだが、晶子もそんな兄と才能を分け合っているのか科学や理数系も強かったといわれる。今なら3万とも4万ともいわれるほどの秀歌を量産するかたわらにスーパーコンピューターを悲鳴をあげるほどに使いこなすような女性でもあったようである。 彼女としては兄と同じような高等教育が受けたかったようだが、おまえは女だし、兄ちゃんはもう帰ってきそうにもなく、姉ちゃんたちは他家へ嫁いでいるし、おまえがこの家の大事の跡取りになるかも、そんなことで箱入り娘にされて、親元を離してはもらえなかったかも。それは知らないが、彼女自身が求め満足するような高等教育は受けなかった。この兄は殊に晶子の結婚に反発したり抗議したりするのだが、元はと言えば長兄のくせに自分が跡取りしないからであろうが、勝手なことを言うだけの資格があるのかと、ワタシは思ったりする。 ふだんは帳場に坐って店番の手伝いをしながら、独学で古典を勉強し、あるいは新刊の小説類を読む、12時には消える電燈の下で両親に隠れながら、1時間か30分の明りを頼りに清少納言や紫式部を読みふける「本の虫」の文学少女だったという。 春浅き 道灌山の一つ茶屋に 餅食ふ書生 袴つけたり 「読売新聞」に載ったものというが、こうした鉄幹の無造作に率直な詠みぶりに刺戟されたという。このあたりがまいりはじめか。 明治32年、浪華青年文学会堺支会への入会。その機関誌が「よしあし草」で、明治30年創刊、末期に「関西文学」と改題され、34年まで続いた。堺支会中心の短歌会に「新星会」があり、後には鉄幹も加わり、山川登美子らもいて、晶子もこのグループ仲間になる。 明治32年は鉄幹が新詩社を結成した年で、翌年に機関誌「明星」が刊行される。晶子も加わる。大阪がこのグループの地方誌なら、明星は中央機関紙になるが、「明星」2号には、「会員中に妙齢の閨秀で晶子と云ふ人の近作の中に」などとして8首を以て登場した。 明治33年、鉄幹は大阪などの地で講演をして歩いたが、晶子は山川登美子らと共に鉄幹を旅館に訪ねている。このとき、 あひ見れば優しの君よ歌みればをたけび男与謝野鉄幹(赤堀花蔭) と詠まれているが、『東西南北』のますらをぶり以来、「虎の鉄幹」の異名をとる男の、会ってみれば想像とは180度異なる優しい物腰と新しい自分の詩を歌えと説くさわやかな弁舌に、すっかり心を奪われ、晶子はもう降参やわの気分だっただろうか。 鉄幹の家庭は危機であった。 石よりもつめたき人をかき抱き 我世むなしく 沈むべきかな この年の秋には林タキノの実家からは離別をいわれている。その帰途大阪に寄り、晶子・登美子を誘って、京都で小遊を試みた。 3人の話題は登美子の気に染まぬ縁談の話であったというが、それからすぐに登美子は結婚する。 明治34年の早春、京都粟田山の思い出の宿へふたりで再遊する。『文壇照魔鏡』が出版され、鉄幹の私行をあばき、中傷や誹謗を加えた。両親や兄の反対が予想され、晶子の苦悩は深い。晶子の上京は6月、タキノの去った鉄幹の宅に入る。 8月、歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で東京新詩社より刊行。 秋には、木村鷹太郎の媒介で、内妻林タキノと別れた寛と結婚。おめでとうございます。 だが、寛はタキノに未練も残しているし、山川登美子もいるし、まだまだほかにも…。多感で繊細で新派浪漫派を打ち立てようとする時代の期待の旗頭だから、それはある程度は詩人稼業の「職業病」のようなものか、ヨメはんがむこうから飛び込んできても、そう急にはココロは変われないというのか、立派すぎるヨメハンがあせってココロを独り占め奪おうとすれば、彼の才能を殺してしまうことになるかも。悪妻の方が彼の場合はいいかも、ソクラテスの如くに。良妻・悪妻は見方次第で、良すぎると、たいていダンナは死んでいる、息子も死んでいる、もう使い物にならない、あまりにしあわせ過ぎるのだろうか、それはジワリジワリと確実に最愛の周辺の人々を殺してしまうと、そんな感じをうけるのだが… 『みだれ髪』は、上のような恋愛体験をふまえて出来たものであったが、大ヒットして大成功を納めた。 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在の翅なからずや 罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながく作られし我れ 何版というのか短冊のような細長い本で、新しい酒は新しい革袋に、というわけだろうか、なかみだけでなく装幀・挿絵の造本もすばらしさいできばえであった。今本屋にあっても、えっ、ナニコレという感じで思わず手に取りそうな本に盛られていた。 舞鶴ならそれまではユウサイ様的なものが和歌だとばかりに思っていたところへ、うら若き女性によるこうした歌集である。ワタクシのような年老いた品行方正な聖人君主は横向いてふるえおびえかも知れないし、多くは読みもしなかっただろうが、この書のウワサくらいは皆が知っていた、三、四版と版を重ね、若い文学者達必読の愛読書となり、学園の禁断書とされながらも、新しさを求める当時の若者たちの脳天へガン!と大変なショックと深い影響を与えるものであった。 ワタシの場合は、伝記で興味あるのは、世に出るまでの物語で、出てしまってからはどうでも別によい。晶子の場合も同じで、この後は簡単に切り上げた紹介としたいが、さらにさらにと追い打ちかけて続々と注目すべき秀作のものすごい量の発表は続いていて、そうもいかない人である。抜け落ちるものも多かろうが、もう少し続けてみよう。 明治37年『小扇』、『毒草』(寛と共著) 明治38年『恋衣』(山川登美子・増田雅子と共著)。 『恋衣』の長詩「君死にたまふことなかれ」は、前年の「明星」に載った作。 日露戦争のさなか、旅順口包囲軍に参加したときく弟の籌三郎の無事を祈る情愛をこめた詩とされる、軍国主義天皇主義下の右傾化強めた当時の明治帝国の中で、神様である天皇とその軍隊と国家をよくも堂々と正面切って批判し謳ったものと、その勇気に大拍手。後には暴動も起きているが、ここでは99%以上の国民はまだ考える力はなく、時勢に呑まれている。どんな反作用がふりかかるものかは想像もできない。大の男も真似できない、民衆を先頭で導く、反戦平和の女神である。 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや 堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり … 姉が弟の無事を祈るのは当然ではないか何が悪いか、ということであろうが、しかしあなたできますか、原発だって表だって批判する者は最初はなかった。「乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と極論した者もあったが、自分だって息子が確実に戦死する攻撃軍にいれば、そんなことが言えるのか、ひとの息子だからタテマエ的寝言をいっているのではないのか、本当に国民のためにやっているものか考えてみてはどうか。 避難としている人は今でも34万人にもなるそうだが、いつ戻れるかは不明である。半分は原発事故の放射能汚染ためであるが、どこかの原発を持つ電力会社の課長とかは死者は一人もいないから原発は安全で、今後も稼働させるべしだと本来なら遠慮すべき会で信じがたいアホを言っている。擁護するもっとましなリクツがないのだろうか、返ってこうした連中の信用をまたしても落としてしまったようだが、日露戦争の死者は85000、負傷者は15万ほどであったとされている。弟君はその1人には入らなかったようだが、跡取り息子だったからかわからないが、もし女神のこの歌声をもう少しキチッと全国民が受け止めていたならば、後の戦争の2000万人犠牲の大惨禍は発生しなかったことであろう、痛恨の極みの思いを込めて、今からでももう一度読み返してみたいものである。 明治39年、『舞姫』と『夢之華』。40年に『黒髪』を、41年には『白光』。同年11月に、100号を以て「明星」の廃刊。42年『スパル』が生まれ、寛は引退した。同年『佐保姫』。44年『春泥集』、45年『青海波』。 英太郎東助と云ふ大臣は文学を知らずあはれなるかな といった、大臣や「駄獣の群れ」の議会に対してボロッチョンの批判歌も発表している。今に至ってもそうした文学知らずどころか、原発を知らず、国民の生活を知らず、何も知らず、あわれなるかな、の極地をいくクソ政治屋ばかり、子供を知らず守らず、自己保身だけ、あわれなるかな、の教委と学校、本当にあわれなのはその国民や子だが、有権者よしっかりと選べよ、孫子のあわれを本気で思うなら。なかにはよいのもいるかも知れないから。 次々に華やかに発表は続くが、生活は火の車、針金のソクラテスであった「わたくしの物質生活が極めて貧困であった時代で、わたくしは外出着に、冬は一枚の銘仙の羽織と、夏は縮の浴衣が一枚あっただけである」「子供の牛乳に入れる砂糖も五銭以上は買ひ得なかった」というが、落ち込んでノイローゼになっている寛の気分転換を計り、再出発に備えるべく、ヨーロッパ外遊の旅費の工面に「百首屏風」を作って売り出す、なかなかのアイデア人、商機を逃さない商人感覚もある人でもあった。 明治44年寛の出発。翌45年晶子も子供を残して、単身旅立つ。ウラジオストックまでは船旅、シベリヤ鉄道を経由、パリに赴いた。晶子は観光客ではなく、十冊もの歌集を持つ日本の代表的女流詩人として遇され、ロダン、レニエ、ヴエルハーレンらの詩人とも親しく会うことができた。パリ祭も見物し、ルーヴル美術館その他名所・史蹟を訪ねた。 寛は往路のシンガポールの見聞記中、「貧乏な日本の現状で実生活と懸け離れた骨董道徳を楯にけちけちする事の非を悟り、内地に於て売れ口の無い女をどしどし輸出向として海外に出す事の国益である事を主張するであらう」と、オイオイ大丈夫か、まだノイローゼが治らないのかと思えることを書いたりしていて、どうも進歩が見られないが、晶子は4ヵ月の渡欧中、見るべきものを見、学ぶべきものを学んでいる。欧米女性の生き生きと活動している姿をまのあたりにみて、婦人問題や社会・政治面への関心を一段と強めて、評論を寄稿するなど目を見はる積極的な活動を始めた。 大正4年『さくら草』、5年『朱葉集』、『舞ごろも』、6年『晶子新集』。8年『火の鳥』、10年『太陽と薔薇』。 同年は、文化学院創設、第二次『明星』創刊。 11年『草の夢』、13年『流星の道』、14年『瑠璃光』 母性保護論争に加わったりして積極的に活躍し「人及び女として」(大正5)、「激動の中を行く」(大8)などの評論集を多く著している。 12年は関東大震災で、 十余年わが書きためし草稿の跡あるぺしや学院の灰 駿河台の文化学院に預けてあった「源氏物語」の訳註の原稿が焼失した。 大正末期から昭和初めにかけて、寛・晶子は、『日本古典全集』の仕事に没頭。 晶子ほど多くの旅をした女流歌人は少ないといわれるが、沖縄をのぞいて全国を旅行もしている。 昭和3年『心の遠景』 5年、『満蒙遊記』、丹後へも足を伸ばした。新詩社最後の拠点となった『冬柏』創刊。 9年、那須で晶子は大患をし寛は必死になって看護につとめている。 人の屑われ代り得ば今死なん天の才なる妻の命に 翌10年、そののぞみ通りとなったか寛の死去。そのあと、改稿決定版『新新訳源氏物語』が成った。 17年5月晶子永眠。 大江山の西麓、与謝野町の江山文庫では「与謝野晶子童話の読書会」が毎週開かれているとか、晶子は20年以上にわたって童話や童謡も書いているた。現存する作品は、童話が長篇、短篇あわせて100篇以上、童謡は「少なく見て百二十篇、多目に見積れば二百篇」と見られているという。 ←館内の晶子の掛軸(パンフより) 皐月風与謝の入江をわたる日に 大内峠の新道を行く 晶子 同文庫中庭の晶子の歌碑↓ 直筆の色紙を信楽焼で再現したという。 いと細く香煙のごとあでやかに しだれざくらの枝の枝の重なる 新築した自宅の庭に友人から桜樹を贈られたという、そのときのものだそう。 与謝野晶子の主な歴史記録『丹後路の史跡めぐり』
関連情報「与謝野鉄幹」「与謝野礼厳」 真下飛泉(ましも・ひせん)鉄幹夫婦の影響を受けた若者が当時の丹後にいたのかどうか記録がない、たぶん一人もいなかったのだろうと思われる、一般には低水準の文学レベルではなかっただろうか、若者よ勉強せえよ、努力せえよ、特に文学などは今でも低い蛮国で、よそから来る人はかばんに文学雑誌など忍ばせてたりしていることがあるが、舞鶴人ではこのトシになってもいまだ見たこともない。文学は文化全体の中でも最も基礎になる欠かせない重要部分だから、学校科目で言えば国語の位置だから、これが弱いと何事であれ先行きむつかしい、そうしたことで文化のレベル全体が低いと、お目当ての観光客などは引き込めまい、ゼニ儲けできまい、地域は発展できず滅ぶことになる。文学はバカにできない、弱いとボデイブローのごと効いてくる。 良くても悪くても歴史が残る、生きたあかしは残される、おこない悪いと子孫に恥ずかしいぞ。 しかし唯一の例外的な若者がいる。 ここはお国を何百里 離れてとほき満洲の 赤い夕日にてらされて 友は野末の石の下 思へばかなし昨日まで 真先かけて突進し 敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか ああ戦ひの最中に 隣にをつた此友の 俄かにハタと倒れしを 我はおもはず駈け寄って 軍律きびしい中なれど これが見すてて置かれうか 「しつかりせよ」と抱き起し 仮繃帯も弾丸の中 折から起る突貫に 友はやうやう顔上げて 「お国のためだかまはずに おくれてくれな」と目に涙 あとに心は残れども 残しちやならぬ此からだ 「それぢや行よ」と別れたが ながの別れとなつたのか 戦すんで日が暮れて さがしにもどる心では どうぞ生きつてゐてくれよ 物なと言へと願うたに … (5) 戦友 - YouTube と14番まである長編の「戦友」の作詞者・真下飛泉は、鉄幹の温江からなら大江山を東に越した、大江山東麓の福知山市大江町河守小字新町に生まれている。明治11年生まれだから、晶子と同年、鉄幹より5歳年下で、「明星」の熱心な投稿者、鉄幹の数多い弟子の一人であった。 日露戦争の時代に一世を風靡した与謝野晶子の長詩「君死にたまふことなかれ」と真下飛泉の爆発的国民歌謡「戦友」がいずれも丹後と関わり深い人によるものだったことはわれらの郷土の誇りとしよう。 「戦友」は、敗戦直後の頃はよくフツーの軍歌と混同され、かの侵略戦争を煽動鼓舞した悪魔どもの歌のように思われて、排斥忌避され、母校の小学校に建立されていた「ここはお国を何百里」と刻んだせっかくの碑面までわざわざ削られたりもしている。飛泉や「戦友」について地元では一般にはその程度の認識しかなかったことがよくわかる、もっともこれには当時でも「これは違うぞ」の反対の考えも強かったとも聞いたが、しかしどうやら削った連中は何も本気で戦争を反省して平和を求めてではなかろう、進駐軍が怖いだけであろうか。 読めばわかるように、飛泉の非戦、悲戦、否戦、避戦、疲戦の思いが込められた「軍歌」で、野戦叙事詩とでも呼ぶようなものである。幾人もの実戦体験兵士に聞き取って彼らの立場に立って作詞した、戦場の一瞬先の命もわからぬ激しい戦闘下での下級兵士たちのココロが詠まれた叙事詩である。聞くものはいきなり砲弾飛び交う戦場へスリップさせられ、軍記物を語る琵琶法師を聞くごと、聞く人みなすすり泣いたという。机上でデッチあげたアホくさい戦争の賛美歌などではまったくない。 以下『大江町史』によれば、 本名は滝吉、文筆名を飛泉、滝郎、タキロウ、飛泉郎など。男ばかり四人兄弟の次男で、小学校卒業後長兄と共に2年間隣家の糸問屋「丹要」に奉公した。進学は困難な環境にあったが、英才を惜しむ師小墻近太郎の勧奨によって、明治25年新設の河守町外五か村立高等小学校三年生に編入、卒業後京都府尋常師範学校入学、明治32年卒業、以後教育界に挺身する。活躍地は主に京都市内になるので、出生地の大江町とはかかわりは多くはない。 明治33年ごろから短歌を与謝野鉄幹に師事し、鉄幹主宰の「明星派」の影響を強くうけたといわれる。 国を出てて高きにのぼりふりかえり 誇るべき地のせまきを見たり 明治37年5月、師範学校附属小での学芸会に、5年生を担任していた飛泉は、自作の「出征」という唱歌劇を出演させた。この年2月日本はロシアと戦端を開き、町から村から赤襷をかけた応召の兵士が、兵営をめざして陸続とつづいた時代のさ中であったという。 歌曲の進行と共に大きな感動が観衆(父母たち)の心をとらえ、満堂寂として声なく一様にすすり泣くという情景を現出した。(田村真男手記、「追想断片」)断ち難い家族への愛惜をふりきって、戦場にゆく吾が子わが父友人の悲傷の思いは、明日はやがて自らの運命でもあったのだから、その共感が皆の涙を誘ったのである。 この歌は忽ち各地にもてはやされ、「…中には軍人遺族の家庭ではこの歌をうたって毎日涙だとききまして、作者たる私は望外のことと思うのであります…」と飛泉自身をも驚かせた。 この第一作を契機に38年9月、第三作「戦友」が生まれる、歌詞は別掲のとおりで、作曲者三善和気の曲を得て忽ち爆発的な流行をみ、国民歌謡となって全国を風靡した。 三善和気はこの時20歳、市内小学校に勤務しており後年宝塚歌劇学校に転じた。飛泉の下宿へバイオリンを抱えてきた彼は、爪弾きでこのメロディーを飛泉に伝えたという。 飛泉はこの曲が世に受けない時のために、別にヨナ抜きの兵隊ぶしも用意したが、今この方は全く用いられていない。 宮川河畔の記念碑はなくなっていて、今はKTR「大江駅」に彼の記念室がつくられている。 「真下飛泉資料室」 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『加悦町誌』 『加悦町誌資料編』 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2012 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |