与謝野礼厳
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京都府与謝郡与謝野町温江 京都府与謝郡加悦町温江 京都府与謝郡桑飼村温江 |
丹後が誇るキラキラ星、与謝野町出身の歌人。 (同町の観光パンフより↓)
「与謝」と名乗るのはあと与謝蕪村だけ、礼厳は知られてないが、鉄幹の父である。鉄幹も知られているとは言いがたいが、♪妻を娶らば才たけて、みめうるわしく、情けあり… の歌は一度くらいは聞かれたことがあろう、その作詞者。その才たけて云々の嫁さんが晶子で、超有名歌人、名前くらいは知っているのではなかろうか。 このページは礼厳だけの紹介。 与謝野礼厳温江の虫本集落の入口↑、大虫神社参道入口→ 大虫神社参道入口にある「与謝野礼厳追念碑」↓
↓道の駅「シルクのまちかや」の入口 主に『与謝野鉄幹』(中晧・桜楓社・昭56)によりながら、若干年代などが書により異なるが、どちらが正しいとも私には検証もできないので、そのままにしてあるが、その略経歴を紹介すれば、だいたい次のようなことという… 礼厳は文政6年(1823)9月13日、与謝郡温江村の細見家の二男として生まれた。幼名長蔵、元服後は儀十郎。 (礼厳が一時養子に入った福井県高浜町の専能寺の記録では、温江村細見七郎左衛門三男礼広、法名礼岩とあるとのことである) 礼厳が生まれた温江村小字虫本は、名神大社・大虫神社が鎮座する、その参道入口に追念碑↑があるが、大江山西麓、鬼の岩窟への登り口の小集落で、急斜面に棚田を設けて、車もあまりの斜面のために転げ落ちそうになりそうな(失礼)と私などは思った地の零細農業が専門、家内がちりめん機業に携わるというふうなところであったという。この集落は細見サンだらけである。 元はさらに山腹の上の、大虫・小虫の両名神大社の元の鎮座地と同じ池ヶ成という場所にあったと思われる、この集落は農業ではなさそうに思う、与謝郡神戸郷はたぶんここだろうと私は推測する。 礼厳は利発であったから、僧にさせたという言い伝えがあり、十三歳の冬、加悦村の西本願寺派紫雲山浄福寺↓の礼洞に養われた。 礼厳の戸籍では、与謝野礼道、母不詳二男となっているとか、「与謝野」という姓は礼厳が立てた明治になってからの新姓で、この姓は今の政治家の与謝野馨氏など、この家族だけである。 (馨氏は礼厳のひ孫に当たられる、別にこんなところで悪口を言おうというのでもないが、元は日本原子力発電の社員だけあって、原発推進派、福島の原発事故は神様の仕業としか説明できない、津波対策は人間としては最高の知恵を働かせたと思っていると超無責任発言をした。神や悪魔や黒犬や変な声の仕業などと本気で言うとすればこれまで通産大臣などとして原発の責任を負ってきた正気の者の言葉とも思えず背筋も凍る、この分野の信じられないレベルの頽廃ぶりをうかがわせ、天罰だ知事とか、10万人以上の避難民はもちろんとして、おおかたの国民の顰蹙を買って記憶には新しい…。二度もの被爆国の背筋も凍る政治屋やゼニ儲け屋は何もこの二人だけに限られているのではない、口先は別として本心で国民の命を守ろうとする者はまずいないと見ておかねばならない、いよいよ危ない肝心な事実は隠してしまう日本になってしまったという感じが強い。防潮堤などハード面安全ばかりに目が向いているようにも見えるのだが、技術は本来中立で、何事も使う者の心得次第の面もあり、たとえ防潮堤やベントなどハード面の安全対策が万全だとしても、日本原発は今のままの管理体制では安全ではあるまい、何度も同じ失敗を繰り返し過去の惨事に学ばないのが日本人の体質DNAで簡単には安全にものに変革できない、メルトダウンは原発のハード面だけではなかった、わずかをのぞいて日本人のほとんどもメルトダウンを引き起こしていた、津波をきっかけにその背筋も凍る裂け目が表面に表れたのであるが、早急にやらねばならないことは多くある、日本だけの原子力ムラなどの解体を急ごう、原発ハードと政治や地方の政治経済などの財界に支配されたままだが、そうしたソフトの両面を厳しくチェックしていかなければ、経済だってよくなったりはしない。安全でもない原発を安全ですと専門家でもない政治屋(後に財界)が判断して再稼働させる国、政治屋(背後に財界)の勝手な「現実判断」が専門家の安全判断の現実より優先する国、そんな国の経済がよくなり、本当に国民の幸せを実現できたりするわけは本当はありえない。国民はエネルギーも大事だがそれ以上に日本の政治をどうするのか、の問題に真剣に取り組まねばなるまい) ついでながら「与謝野」は今では町名にもなっていて、2006年3月1日、与謝郡の岩滝町・野田川町・加悦町が合併し与謝野町が誕生した。その由来は、「3町ともに与謝郡に属しており、「野」は豊かな自然を表している。また、日本を代表する俳人歌人の与謝蕪村、与謝野晶子、与謝野鉄幹ゆかりの地でもあり、「与謝野」という名称とすることで、文化豊かで心豊かな町というイメージアップが図れる」ということという。 弘化2年(1845)五月西本願寺において得度。仏典、漢学のみでなく、国書、歌文をも学んだ。八木立礼が師であった。 八木立礼は幕臣、国学を本居春庭に学んで、国語および音韻の学に造詣が深く、和歌にもすぐれていた。一方、陽明学を学び、慷慨家で、気節を尚び、常に皇道の衰えを嘆いていた。梅田雲浜等の志士と交り、志を得ずして彦根で客死、亨年四十七歳であった、という。 礼厳はこの八木立礼から学問だけでなく、人格的にも深い感化を受げたようである。立礼夫妻を奉じて、丹後国に帰り、岩滝村の西光寺↓で講席を開いたという。 礼厳が若狭高浜町の専能寺七代の住職是讃の四女衣枝(絹枝)と結婚して、八代住職となったのは、嘉永元年(1848)のこととされている。↓ 衣枝との間には、二歳で天折した峰野と大都城響天とを儲けたが、嘉永3年(1850)離婚したそうである。高浜はわずか2年間だった。だから鉄幹には異母兄がいる。
再び京都に出て、本願寺の役僧となり、次いで、岡崎の願成寺に入り、山崎惣兵衛長女ハツヱと安政5年(1858)に結婚する。ハツヱは天保10年(1839)生まれで19歳であった。礼厳は35歳であった。 与謝野町立江山文庫に与謝野鉄幹が著した『礼厳法師歌集』復刻版などが販売されているが、中に「礼厳法師歌集の初めにしるしおく文」が納められていて、彼の動向が語られている。このあたりからは丹後と関係がなくなってくるが、時には生まれ故郷へ姿を見せることもあったという。その後の動向などを簡単に触れておけば… こうした直後に安政の大獄(安政5年・1858)が起こり、吉田松陰や梅田雲浜などが刑死した。尊王と、佐幕運動の対立相剋は一挙に激化し、国内は騒然となった。 幕末の情勢急迫の中で、本願寺は教団維持のために、新しい政治勢力として拾頭してきた勤王側に付いて、朝廷支持に精力を傾注するようになる。 安政3年(1856)には、勤皇僧月性を登用し、文久3年(1863)朝廷へ一万両を献じたのをはじめ、慶応・明治初年にかけて多額の献金を行い、朝廷の命によって荒神口に御幸橋を架橋し、また、僧俗数百名で宮廷の守護に当った。さらに、門末にも屡々勤王報国の直諭を発した。 勤王側の中心勢力であった薩摩藩との和親には心を砕いた。従来、薩摩藩では真宗を嫌って、布教を禁止するなど本願寺とは友好的でなかったから、特に和親に努めたといい、末寺の中には勤王運動に直接挺身するものも輩出した。 そのような本願寺の動向を背に負うて礼厳の活動が行われたのであろう。という。 礼厳は薩摩藩邸に常に出入して、京都の形勢、諸藩の動静を内報し、薩摩藩のために種々の周旋をし、策を授ける、など薩摩の利便を図り、薩藩との和親を図ることが、その主なものであったという。 礼厳の勤王事蹟中、最も花々しかったのは北陸鎮撫使に随従して、宣撫工作に当るとともに、北陸諸国の情勢を探り、あわせて、軍用金の献納を勧め、大きな成果を挙げた、ということである。 西本願寺は真宗大谷派の本山で、親鸞の子孫である大谷家が代々継承してきた。鉄幹の『史談速記録』は、「愚父は即ち京都本願寺の申さば役僧と申しますが云々」「其時の本願寺は御承知の通り門閥の式法でありましたから、親爺は俗家から起つて僧侶となつたものであるから、僧侶としての身分は極く低いので云々」と書きしるす。そうエライさんの高僧であったわけでなかった、ごく低いもののようで、今で言えば身分保障もないパートやアルバイト、派遣や契約といった扱いのようなものか。 礼厳は、平日は機務にあずからないが、臨時、あるいは地方に出て御用を勤め、御用僧と称せられ、別院を主管して、輪番と名づけられ、本山の禄を食むをもって家来僧とよばれた、「呼び寺号」階層の僧であったとされる。 礼厳の勤王事蹟というのは本願寺の御用僧としての事蹟であったらしいが、修羅場での接衝役のこととて、胆力と事態を迅速明晰に把握し、的確な予測を立てる才智とを必要としたであろう。さらに、誠実さと勤王報仏の信念とを必要としたであろう。礼厳はそれらのものを十分に備えていた、有能な優れた人物であったようであるという。 明治になってからは、療病院、小学校、舎密局、博覧会、鉱泉場等の創設に卒先して尽力した、という。 しかし明治12年には、礼厳が公益のために計画した諸種の事業に失敗して、その為に寺院と家財は競売に附せられ、土地は悉く債権者に帰し、礼厳は家族をつれて願成寺を去らねばならなくなった。 明治13年4月、開教師として鹿児島へ下った。礼厳57歳であった。 明治17年一家は礼厳の病気を機に京都に帰った。宇治に入り、宇治から一乗寺村の養源寺に入った、本願寺掛所養源寺の留守居となったのは、62歳である。 明治27年、養源院を去り、愛宕郡田中村に仮住し、29年の冬洛東の清閑寺に寓居したという。 明治31年8月17日、山ロ県徳山村の照橦(二男)の養家にて歿す。亨年75歳。大正6年、生前の功により従五位を贈られた。 鉄幹は父の才能と気慨とを承け、その薫陶をうけた、礼厳は歌人としての原点であった。次のような詩歌がある。 父はやく我に誨へて歌よめと叱るばかりにのたまひしかな 今にしてつくづく知るは歌よめと誨へたまひし父のみこころ 世に圧され時に醜くまどへども父を思へば一すぢとなる 礼厳の妻=鉄幹の母ハツヱは、天保10年(1839)生まれ、明治29年歿。享年57歳。 檀家のない寺の住職であり、極度に貧しい家であった、「母は加茂川から沙を拾って来て、剥げた膳にそれを入れ、その上でいろはを書くことを教えてくれた。筆の代りに箸、紙の代りに沙であった。膳を揺すって沙を平にして、くりかえしくりかえし字を習うのであった」と、鉄幹は書いている。 貧しさにくじけて卑屈になることなく、独立独歩の気概をもつようにと子供たちを身をもって厳しく育てたようである。 貧しい家に生まれた者は、人よりも早く、はっきりとした生活目標・態度を確立することや気力が必要なことを厳しく教えている。賢明な婦人であったようだという。 礼厳の子たち=鉄幹の兄弟たちは、いずれも文才に長けている。 長男は和田大円、諱は心鏡。安政6年(1859)生まれた。六歳の夏、礼厳とハツヱとも親交のあった蓮月尼の斡旋で随心院門跡和田智満の室に入り、剃髪。若年にして泉涌寺の執事となる。 その頃与謝野は極度の貧困の中にあり、若い大円が父母弟妹を養った。後、岡山市安住院住職を兼ね、真言宗法務支所長に任じ、学林の長をも兼ねて育英に従った。この安住院には、養家から脱出した鉄幹が一時身を寄せていたことがある。その後、高松市の真言宗法務支所長、日清戦争の従軍布教師、宗会議長、真言宗布教練習所長、高野山大師教会本部長を経て、大正6年真言宗山階派管長勧修寺門跡に挙げられ、翌7年真言宗八宗管長総代としてシベリア出征軍を慰問し、朝鮮各地を数ヵ月にたって布教して歩いた。本山において伝法灌頂、受明灌頂を再三修行し、久しく中絶していた具支灌頂、瑜灌頂を再興し、その他、勧流、随流、安流、諸法流等伝授の開筵数回に及び、その熱心さ古大徳の面影ありと評せられた。また大円は、書、和歌、漢詩もよくしたという。 鉄幹の次兄は赤松照憧。24歳で赤松連城の長女安子と結婚し、山口県徳山市徳応寺に住んだ。照憧は山口県積善会を設立し、また、妻安子とともに徳山婦人講習会を創設し、さらに、それを拡張して、私立白蓮女学校を創立した。明治23年私立徳山女学校と改称拡張されたが、この女学校で若き鉄幹が教壇に立ったことがある。 また、育児所を設け、主として女囚のかかえていた乳児および孤児の保育に当り、女学校附属鳳雛幼稚園を設立する等、仏教の布教活動のみならず、教育、社会奉仕活動を積極的に行った。 大正10年急逝。亨年五十九歳であった。 照憧も漢詩を好み、漢詩を作ることを楽しみとし、また、和歌も折にふれて詠んだ。 弟は与謝野修、鉄幹より三歳年下、早くから文才を発揮し、明治26年ごろから30年にかけて、「婦女雑誌」「少年文庫」「文庫」、少年園発行の『詩藻』・『新体詩集』等に和歌、漢詩、新体詩、評論、考証等をしきりに発表し、多彩な創作活動をしている。 妹のシヅは、鉄幹より六歳下で、歌こころのある婦人であった。「婦人雑誌」などに投稿している。 与謝野礼厳の主な歴史記録『与謝野町史資料編』
『丹後路の史跡めぐり』
関連情報「与謝野鉄幹」「与謝野晶子」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『加悦町誌』 『加悦町誌資料編』 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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