丹後の地名 越前版

越前

阿曾(あそ・あぞ)
福井県敦賀市阿曾


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福井県敦賀市阿曾

福井県敦賀郡東浦村阿曾

阿曾の概要




《阿曾の概要》
東は高い「嶺」(鉢伏山761・8メ-トル。鹿蒜山)、西は一気に敦賀湾、の傾斜した山腹にある。国道8号が南北に走る。
中世は阿曽名。戦国期に見える(みょう)の名。敦賀郡葉原荘のうち。永禄元年(1592)5月5日の河端紀吉寄進田地請文と同年6月5日の善妙寺領常住分新寄進注文案に、天文16年(1547)に河端民部少輔が「葉原阿曽名」の公事銭1貫文を善妙寺に寄進したとある。慶長国絵図には阿曽浦と見え高203石2斗2升3合。
近世の阿曽浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1661)小浜藩領、天和2年鞠山藩領(1682)、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数109 (高持76・無高29・寺4)・人数606、牛35、舟2、塩かま屋10・塩高443俵余。タモは(たぶ)の異名で暖地性常緑喬木。海岸に多く実から油をしぼる。塩高は東浦10か浦の中では赤崎浦に次ぐ高で、明治初年まで製塩が続けられた、当地方産の塩は魚を加工する四十物(あいもの)用に使用された。当浦ではミカンの栽培が盛んであった。天明5年(1785)当浦生まれの金井源兵衛が摂津池田から良苗を求め、その子源三郎や孫源兵衛も改良に励み栽培が本格化し周辺地域の各集落にも普及した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治9年敦賀から杉津に至る海岸道路が開通し当浦にもトンネルが貫かれ利椋峠越えが廃止された。この阿曽トンネルは福井県における最初のトンネルであった。この時金ケ崎七曲道にかわって永厳寺裏から田結に出る道もつけられた。「滋賀県物産誌」に、戸数123 ・ 人数642、瓦200坪・地覆石89間・割石550を産出、ほかに産物は繭150貫・桐実300俵・蜜柑3,500貫・柿350貫・割木2万5,000貫・薪5,500束・桑1,000貫・杉板518間など。同22年東浦村の大字となる。
近代の阿曽は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北6町余、戸数123、人口は男334 ・ 女342、学校1、小船7。同28年7月29日大洪水により堤防が決壊して濁流の氾濫は敦賀郡全域に及んだ。当地の被害は最大で、溺死者38・重傷者18、小学校流失、流失家屋47 ・ 土蔵18、全埋家屋23・土蔵5などの被害を受けた。明治26年敦賀~福井間の鉄道布設工事が開始され、同29年開通した。この工事中前記の大洪水に遭い、隧道は土砂で埋没、線路や資材も流失した。


《阿曾の人口・世帯数》 187・73


《阿曾の主な社寺など》

式内社・利椋(とくら)八幡神社


集落内を東西に通る大道の山側に鎮座。右隣は小学校の跡地か? さらにその右に安養寺がある。祭神は応神天皇。利椋大神が合祀されている。八幡社の後ろ側に利椋社の社殿がある。利椋峠に鎮座していた利椋神社の大神を明治42年8月に当社に合祀し、利椋八幡神社と改称した。
「延喜式」神名帳敦賀郡の1座に「阿蘇村利椋神社」が見え、利椋峠に鎮座していた利椋神社に比定されている。
小浜市犬熊の得良(とくら)神社は、社記に宝治元年(1247)5月に越前国阿蘇村式内利椋明神を勧請して建立したという。もしかすると、当地からの移住地かも…
トクラの地名や社名は、小浜犬熊に限らず、丹後でもあちこちに見られる。これらももしかすると、当社と何か繋がりがあるのかも…。利椋や阿曾は渡来元の地名を意味したものと思われる。
利椋八幡神社には毎年9月15日に宮相撲が奉納され、平相撲から三役相撲に入る中間の休み(中入り)に、相撲甚句が踊られる。踊は七七七五の大踊と、七五七五の小踊とがあるという。県指定無形民俗文化財。

『敦賀郡神社誌』
村社 利椋八幡神社 敦賀郡東浦村阿曾字堂ノ上
位置と概況 本區は役場の所在地にて、南方十七町餘を隔てゝ舉野區に、北方も十六町餘にて杉津區に隣して、人家の多くは北陸道に沿ひ、當村第二の大區にて、戸数は九十五戸に及んでゐる。氏神利椋八幡神社は、區の中央より北方に當りて、國道に沿ひ、南方は阿曾尋常小撃校に隣接してゐる。社域は平坦地にて、これを三區分し、即ち國道より直に境内に入つて參進すると、數階の石段が設けられてある。これを上つて拝殿の前面に至り、その側から更に五六級の石階を上つた土地に、本殿は西面して鎭座し給ひ、末社はその左右兩側に座す。域内の各所には、幾圍もあるタモ・欅の大幹老枝が天を掩ひて千古の気分を漂はせ、到底永禄年代の近き創立と見るべきでなく、實に神さびた古き社域である。
祭神 應神天皇 合祀利椋大神
由緒 按ずるに、當社は明沿四十年八月一日同區利椋峠に座す延喜式内利椋神社を、八幡神社に合祀して、利椋八幡神社と改稱し奉ったのである。抑々當神社は、若宮八幡宮又は正八幡宮と尊稱し、永禄十年四月の創立なりと云はれ、明治十一年頃村社に列せられた。
 利椋神社は、往古より利椋大明神と尊稱し奉ってゐたが、何時の頃にか社殿が廢絶した。氣比宮祀記に「無神殿峠ノ平坂神樹松是謂利椋明神往来者拝祀之一」とある。敦賀志稿に「式内今は御社はなく、利椋峠の大樹の松を神と稱して是を拜む、前に鳥居一基建り」とあり。又曰く「利椋峠の古松其趾也といふ」とある。明治三年九月鞠山小濱兩藩併合の際に、鞠山藩より小濱藩に移牒した書中「阿曾浦利椋神社鳥居二箇所御上より被成候旨云々」と記すを以ても、武家並に郷土の崇敬厚かりしを知らるゝのである。明治四十年八月一日、同區堂ノ上地籍に鎮座の八幡神社に合祀し奉り、同四十四年五月五日、神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 列祭 九月十五日(八幡神社は天正元年より八月十五日を例祭日と定めたと云ふ。
而して太陽暦となり一箇月後の九月十五日に定めたのである。
祈年祭 三月二十一日
新嘗祭 十一月二十三日
祭禮特殊行事 九月十五日の例祭の前夜、即ち十四日の夕刻から、青年會員は荷車の上に松と竹を立て、赤い小提燈十個をその枝に吊し、又御神燈額に燈火を點じ、之に砂利を積んで、各自袢被を着て、手拭鉢巻を締め、伊勢音頭に、太鼓と笛の囃し勇ましく車を引きつゝ、社頭に来て、その砂を敷き均して、斎場を淨化するのである。この御砂持の行事を、郷民は「ニハカ」又ハ「ニハカヤマ」と稱へてゐる。この時、氏子の多數は社頭に参集して「ヨミヤ酒」(宵宮酒)とて、青年の砂を運搬し来るを待ちて、御酒を神前に供へて、共にその神酒を戴く。この行事が終ると、青年曾員は、寺の境内に参集して盆踊りに夜を徹するのが、恒例になってゐる。
角力 當村では、阿曾の祭と稱して有名であるのは、毎年必ず例祭日に「晝角力」の催があるからであつて、近郷の人等は勿論、敦賀町からも見物に来る者が多いとのことてある。
特殊神事 明治二十九年から、毎年七月二十九日に、水害休みと稱して、區民は一日業を休み、老若男女は競つて、氏神八幡神社に參拜して、祭典を行ふてゐる。これ明治二十八年七月二十九日の大洪水は、實に天柱折け地維缺けた惨状であつたが、不思議にも御本殿は何ら御別絛もなく、慘憺たる光景の中に、儼然として御座しましゝは、全く御陵威の尊きに由ることゝ、畏み奉り仰ぎ奉つて、再びかゝる事のならざる様に祈願する神事である。當時の状況は當區に保存されてゐる惨況記に明である。一読三嘆慄然膚に粟を生じた。又編者も此に奇瑞を感じた一事がある。そは編者か本誌編纂のため、實地調査に同地に至りし日の前日、年代不詳の石造狛犬一基、富區海濱の土砂中より發見し、之を鳥居前に運搬してあつた、これが恰も往年の惨害と同月同日にて、且つ偶然にも實地踏査の前日であつたのは、これ全く神明の示現し給ふ處に外ならぬと、感慨無量であつた。よりて特に慘況記を読誦して、其の全文をこゝに特載することゝした。
水害當時の當社見聞 當社の末社中で、神明社の外は五社共に流失し、鳥居や石燈籠までが倒れ、或は流失したが、背後の山林中にあった巨巌転落して、殿後の高所に留まつて堰き止めたので、水勢俄に之に遮られて、本殿及び拝殿が無事なることを得たのである。區民中には、一速に神社に馳せて、御救護を祈らんと、鈴の緒や御拜柱・勾欄等に縋り付いたものもあったが、これ等は幸に九死に一生を得たとのことである。この巨巌転落のことたる、誰か之を偶然と看過することがあらう。區民はこの水害あつて以来、全く天佑神護の奇蹟を感激し、愈ゝ敬神の念が舊に増して厚くなったと云はれてゐる。


浄土宗安養寺

浄土宗鎮西派安養寺は、もと真言宗で、衰退していたのを原の西福寺の開基良如が再興した寺院、本尊は阿弥陀如来。正覚寺も同宗同派で、応永9年知水の開基と伝える。「朝倉始末記」は元亀4年(1573)8月、近江へ向かう朝倉義景が「十八日ニ敦賀ニ着陣アリテ、安養寺ニ暫ク逗留被成ケリ」と記す。
『敦賀志』
阿曾浦
氏神八幡社阿蘇浦利椋神社〔式内、今ハ御社ハなし、利椋峠の大樹の松を神と称して是を拝む、前ニ鳥居一基建り〕 安養寺・福寿院・正学院〔共ニ浄土宗西福寺末〕正随菴〔禅宗永嚴寺末〕 此浦切石〔色青質にして甚経密なり〕 杉檜其他良材を出す、


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


阿曾の主な歴史記録

裏山の「嶺」は、風化した花崗岩で、もろく崩れやすい。災害は避けられそうにない…
『敦賀郡神社誌』
大洪水之慘況
于時明治二十八年七月二十九日は是れ如何なる凶月ぞや、嗚呼如何なる天災ぞや古昔より本村に数回の洪水あるを聞と雖ども如此き一大洪水は實に前來未聞にして後世子孫永く記憶の爲書して記念となす同七月二十三日より降雨となり晝夜連続同二十八日の朝より大雨頗リに降り夜に至り降勢甚しく地撃てる音轟々として天地に應へ物凄じく人心恟々として寢に就く能はず翌二十九日未明より村民田畑に出で浸水の防禦したりと雖ども一面に泥水湧出で道路は河川の如く已むを得ず眥家に帰り家屋に浸水するを防禦する者或は家財を持運ぶ者あり暴風猶已まず恰も覆盆の勢にして鉢伏川及諸川水量俄に漲溢して道路に流れ堤防を缺潰し橋梁を流すを以て非常警鐘を撞ち村民をして先づ鉢伏川の沿岸に集め堤防缺潰の個所を防禦盡力せしめ老若婦女驚駭逃走する騒擾たる折柄正に午前九時遽然一聲百雷の一時に落つるが如く轟々激烈なる一大震動をなすや大海を覆すが如く怒濤天に突き空に漲り渦巻き来るや付民必死となり東西に逃走するあり或は遁路を失ひ海中に突き出さるる者或は八幡官々殿安養寺堂宇にて九死に一生を得たる者あり瞬間にして如此き襲來二三囘家屋を流失破損するもの多く圧死或は溺死するもの十三名(因に記す茲時北陸鉄道起工中にして鉄道史員及坑夫等四五十人圧死す)午後二時頃漸く水勢減じ時山警察署長も災に邁ひて當地にあり大に奔走して一時五幡區より炊出の救助せらるゝなど村民大に利便を得たり然りと雖ども鳴動止まず四方を望めば山嶽所々崩壊し田畑宅地は一面の泥海と化し其間巨嚴起伏し喬木は倒れ家屋は潰れ屍曝す悲惨の境界に接し心魂瀕倒殆ど狂気となり午後九時頃より翌三十日の朝に懸け船に乗り難を五幡江良に避けて救助せられたり翌八月一日或は二日にして歸村し難に偶ざる十二三名内に雑居なしたれども茲に悲しむべく嘆ずべきは着るに衣なく食するに食なく聊かの其の筋の救助米を施與せられ糊口を凌ぎ唯だ業となすは鉢伏川を掘鑿し死骸を探し焼棄するのみ爲めに日夜火葬場は烟煙絶えず號叫の聲湧き其惨状夢中の如し同七日に至り降雨巳む今其の被害概況は左の如し
全流家屋 四十七戸  土蔵 十八棟
半流家屋 十一戸
全埋家屋 二十三戸  土蔵  五棟
半埋家屋  十九戸  土蔵  四棟
浸水家屋  九戸
 其計   百〇九戸  土蔵 二十七棟
 其他建物納屋雪隠等数不詳
 兔租となりたる被害地所は左の如し
一田  二十五町七及五畝六歩
一畑  一町一反八畝十六歩
一宅地 二町六反六畝十一歩
一雑種地 一反九畝七歩
 反別計 二十九町七反九畝十歩
然るに叡聖至仁なる 天皇陛下「明治大帝」より片岡侍従を派遣して實地検分あり内務省よりは水野参事官及荒川福井縣知事檢分の結果として皇室より二百〇四圓二十二銭貳厘下賜せられ國庫よりは一千〇五十五圓〇三錢六厘を小屋掛料・農具料・炊出料として支給せられたり後鉢伏川復舊工事も金二千有餘圓を補助せられたり以上村内被害概況如斯とある。

阿曾の伝説

『敦賀郡神社誌』
舊利椋神社の松の傳説 利椋神社を俗に男宮・女宮と稱へてゐる。その年代は詳でないが、安永年代以前より、この神社は當區の利椋峠に鎭座されてゐて、社域には男松・女松の兩株があったことは文献に徴しても明かである。この松につき傳説がある。往昔敦賀町に角上與兵鵆と云ふ人があり、その娘が婚期になり、良縁を求めて嫁入りしたが、年月ならずして破鏡の・憂目にあひ、爾来幾度か嫁ぎしも、琴瑟の和を得ないので、父母の心配は一方でなかった。或時又再婚の約が成立して、彌々輿入の日となつたが、父母は世間への手前、夜中密かに人目を遐けて、娘は父親に守られ、この利椋峠まで來た、そして別れる時、松の小枝二木を神前に供へて、夫婦の和合とその幸福を祈願し、若しこの松に根芽を生ずることあらば、今度こそ破鏡の悲しみを見ざるべし、松よ榮えよ、夫婦二人もまつ代榮えよと、心願をこめて社前に挿した、その松が根芽を生じたものであると傳へてゐる。

舊利椋神社傳説の松 男松 幹圍約五尺、明治四年五月十八日夜の巽り暴風に倒れたが故に、その趾へ植ゑたものであると、女松幹圍一丈五尺餘、この女松は往時のものであると云はれてゐる。

鉢伏山城趾 朝倉の臣印牧(カネマキ)能信の城趾である。城域は南篠郡に屬してゐる。能信は大正元年八月織田軍に捕へられて死んだ。




阿曾の小字一覧

阿曽  利椋 峠 金付畠 早上り ジャバミ 滝ノ谷 生姜窪 小屋谷 ノタノ尾 河内 年寄谷 上小林 下小林 中ゴウラ シノベ 笹ノ尾 卜ゞが原 横地 南荒谷 北荒谷 荒谷 裡倉山 北コウチ 小丸若 丸若 渡上 打落 コクボ 桑原 菖蒲元 一ノ正 中藪 上河原 下河原 鳫田 下中野 上中野 ヒキコ 松尾 グチ 丸山 鮒ケ谷 イワシガ洞 芹原 中島 海道口 種毛原 コムクロジ 柳畑 ソロジ ウシロ谷 木実川 鳥越 小鳥越 馬路 平ノ越 猿壁 猿落 北田 下鮒窪 南長谷 中長谷 浜田 花木 ヲバカ 北ノ庄 中ノ庄 山ノ庄 堂ノ上 相田 岩屋 殿本 道違 平町 甘水 上皿谷 下皿谷 安ノ上 竹原 南ノ荘 モウヅ 滝ノ下 口無 鉢伏 轟谷 大原 黒崎

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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