鋳物師(いもじ)
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福井県敦賀市鋳物師 福井県敦賀郡松原村鋳物師 |
鋳物師の概要《鋳物師の概要》 水戸浪士を祀る松原神社があるあたり。気比松原に続く浜堤の南端に位置する。中世は野坂庄島郷に属したか。敦賀鋳物師は中世から活躍していて、「敦賀志」に「鋳物を業とする者の居るより村名となれり」。『敦賀郡誌』に、「鋳物師村は近年迄鋳物師の居たりし處なり」と見える。 中世の鋳師屋は、戦国期に見える地名で、文亀3年(1503)9月10日の西福寺寺領目録に同寺塔頭中興院領として「壱段鋳師屋」と見える。ただし応永13年(1406)2月6日の如心寄進状などに室町期の西福寺文書に見える金屋・櫛河金屋・津金屋などはいずれも当地の古名とみられ、野坂荘櫛河郷に属したと思われるという。 近世の鋳物師村は、江戸期~明治11年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。当初は島郷に含まれていたと思われる。寛永年間の凶作を原因とする年貢未進により当村庄屋与惣左衛門父子が磔となった。享保12年(1727)の家数41(高持25・無高14・寺2)・人数189(男80・女105 ・ 出家4)、入木銀21匁余・牛馬銀10匁余・睦月銀3匁余。雉子札銀1匁・櫛川御山松葉代米7斗7升余・夫役6分・夫米4俵余を負担。江戸期の敦賀鋳物師は朝廷蔵人方御蔵司真継家の支配を受け、敦賀鋳物師筆頭河瀬甚右衛門は世代交代ごとに清涼殿の鉄灯籠を献上していた。平常は釜・鍋・鍬・鋤や梵鐘・鰐口を鋳造していたが、幕末には大砲の銑玉を製造した。文久元年(1861)の諸国鋳物師控帳によれば河瀬甚右衛門・竹中源右衛門・竹中助四郎・竹中忠兵衛の名が見える。武生市本多の常眼寺の梵鐘銘に「延宝六年敦賀鋳物師村藤原朝臣清基」とあり、また富山県高岡市美術館蔵文書に「丹後国宮津之御用、陸上青銅製五貫弾、口径五寸・全長壱丈三尺・重量七六九貫目、河瀬甚右衛門」の大砲四分の一縮図がある。 明治3年本保県、以降敦賀県を経て、同9年滋賀県に所属。明治11年鋳物師五軒(滋賀県物産誌)。翌12年、今浜村と合併して松島村となる。 《鋳物師の人口・世帯数》 564・237 《鋳物師の主な社寺など》 松原神社 「松原神社」 真宗大谷派願通寺 『『敦賀郡誌』』、「願通寺、〔鋳物師〕眞宗大谷派、東本願寺末、舊海津願願教寺末。元治元年十一月燒失、慶應元年六月か假堂建立。」とある。 円満寺廃寺 集落の西方に円満寺があった。真言宗高野山金剛峯寺末、山号は鷺宿山、本尊正観音(市指定文化財)。大正10年頃廃寺。寺跡の門前に小型板碑が約100基あり、年号銘の判読可能なものは応永32年より弘治3年までの15例。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 鋳物師の主な歴史記録鋳物師の伝説鋳物師の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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