丹後の地名 越前版

越前

神楽町(かぐらちょう)
福井県敦賀市神楽町1・2丁目


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福井県敦賀市神楽町

福井県敦賀郡敦賀町神楽町

神楽町の概要




《神楽町の概要》
市の中央部の市街地の中心地。神楽通りは気比神宮の路巾広い表参道になり、両側が門前町である。

国道8号と交差する神宮前交差点から、西側の突き当たりの運河(笙の川の旧河道)まで、途中に県道33号佐田立石敦賀線が南から入っていて、その神楽交差点(キッヅパークがある)が1丁目と西側の2丁目の境になる。通りの両側町である。このあたりも戦災でみな焼けて、戦災復興道路になるようで、片側4車線分、両側で8車線分はある。1丁目北側の歩道は戦災前の大通りの一部だという。昭和初期まで神楽交差点の位置にあった時宗遊行派西方寺安養院と気比神宮大鳥居とが相対し、1丁目を御影堂前町と呼んだ。この間、三丁縄手という。慶長3年(1598)7月の津内村検地帳(田保家文書)に「みへいたうまえ」とみえる。西方寺を御影堂とよぶことから町名が起こったという。 敦賀町の札場は西町の東の辻にあったが、当町の西方寺の傍らに移された。明治7年、神楽町と改称した。
2丁目は、裏門町(うらのもんまち)と呼んだ。慶長3年の津内村検地帳に「うらのもん」とみえる。「敦賀雑記」は町名起源として、晴明屋敷の占門の誤記説をあげ、「敦賀志」は「昔在し神社の裏門か又ハ法泉寺の裏門のありし跡ならんか」とする。明治7年裏門町は東町と合併し旭(あさひ)町となった。
『敦賀志』
氣比宮西表大鳥居前通りを邑俗三丁縄乎と云、此丁数を量り見るに、大鳥居より西方寺門前迄三丁有、昔ハ此間並松也けらし、今ハ並木通り僅に六十間にして、南側片原町建つゝき、半丁許にして両側の町家建つらなれり、


《神楽町の人口・世帯数》 (1、2丁目合計)328・135


《神楽町の主な社寺など》
時宗遊行派西方寺安養院
今は、松島町の同宗の来迎寺の傍らにある↓

元は神楽交差点のあたりにあった。
今はキッヅパークの傍らに「西方寺跡」の石碑と案内板があるだけである。


この絵と説明がある。
正安3年(1301)、北陸で布教していた時宗の第2世の他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)が敦賀を訪れた時、氣比社の西門前の参道やその付近が沼地となり、庶民が参詣に難儀しているのを知り、海辺より砂を運び改修することにした。この工事に賛同した神官、僧侶、遊女をはじめ多数の人達の参加があり、日ならずして参道は立派になった。
 この参道は三丁縄手であり、現在の大鳥居前の神楽通りとされている。この工事が先例となり、遊行上人の交代時には、敦賀を訪れ、浜から社殿前と中門前との間の参道に土砂を運ぶことを三度繰り返したという。これが「遊行のお砂持ち」として行事化され、現在も続けられている。
 これに因んで、江戸時代に松尾芭蕉は『おくのほそ道』で「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。
 また、真教は氣比社前の護持を願って、自影の像を彫り堂に安置した。やがてこの堂は御影堂と呼ばれ、西方寺をさす言葉となった。さらに三丁縄手は御影堂前町と呼ばれるようになった。この西方寺は、昭和20年の戦災で焼失後、松島町2丁目の来迎寺境内に移転した。          令和2年8月 敦賀市教育委員会

「お砂持ち」の像が、大鳥居と向き合う位置(神楽町1)に作られている。

お砂持ち神事の由来
 正安3年(西暦1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった。)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。
 元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。
神楽交差点より大鳥居を望む↑真正面になる。この間300メートルばかりは鎌倉時代はなおラグーンの名残で完全には陸化していなくて、沼地になっていたという。ここへ砂を運んで参道を作ったという。
像からはかなり老人に見える、頼りなさそうな顔立ちだが、偉い人だね、若いときからこうして世のため人のために尽くしてきた人なのだろう。老いたからといって、その生きかたを変えることはなかった。先頭に立って砂を運んでいる。
何もしてこなかった者に限って、「若い者は何しとるんじゃ」などというが、自分こそ何しとるんであろうか。若いのはオマエさんを見倣ってるだけ、まずは自分が先頭に立って世の中のため、汗水ながして働いてみろ、若い者はほってはおかないぞ。
大事な心がけはすぐに忘れてしまう。初心忘るべからず、で、今もこの行事は続けられているという。→「遊行のお砂持ち

時宗藤沢山西方寺安養院は初め真言宗だったという、正安3年(1301)遊行二世他阿真教廻国の際に改宗した。他阿が同寺に滞在していた時、気比宮の西門と寺との間が大沼で参詣に不便なのを知り、海辺より砂を運び参道を造営した。これがのちの三丁縄手という。以来歴代の遊行上人廻国の際「お砂持の行事」が催されてきた。
「奥の細道」にも
  月清し遊行のもてる砂のうへ
と詠まれる。気比宮守護の寺として代々領主より寺領を寄付され、天正19年(1591)大谷吉継は地子8貫600文を免除したと伝え、酒井氏も寺内の諸役を免除した。第二次世界大戦後同宗の来迎寺境内に移転した。→「西方寺
『敦賀志』
藤沢山西方寺〔時宗藤沢清浄光寺末〕塔頭極楽院・修善菴・延壽菴・法聲菴・千秋菴有〔塔頭追々廃シ名目ハかりなり〕開基ハ常照阿闍梨にて天台宗成しか、遊行二代真教上人巡国の時、氣比宮西表の道洪水の為に壊れ沼と成、大亀住て参詣の舟を脳しを歎き、爰にとゝまりて諸人をかたらひ。浜より土砂をはこひて、本の如く三丁縄手の大道をなし、をはりて、西大手の正面に本堂を建、手つから自像を刻ミ、合掌して 氣比大神宮を拝ミますと云、よて正面の門に閫なし、凶事を執行ふ時ハ、神前を憚りて門を閉る事今猶然り、遊行巡国の時氣比宮ヘミつから土砂を荷ひはこハるゝハ〔衆僧卅余荷是に従ふ〕此例也、打宅()氏の北の浜より唐仁橋町・御影堂前町を歴て、神前并中門の前及大鳥居前と三度はこはるゝ、芭蕉翁 氣比宮にての句に、月清し遊行のもてる砂の上とあるハ此事をよめるなり、其後服改て参詣し拝殿にて勤行せらる、毎月廿六日ハ邑中の婦女西方寺に郡参す、又門前北の方に御禁制の札場有、南に旅人接待の茶所あり〔寺内に兄鷹(セウ)の池と云古址有て故事をいへ共信がたし〕、

『敦賀郡誌』
西方寺 敦賀町神楽に在り、藤澤山西方寺安養院と稱す。時宗遊行派、藤澤清淨光寺末に属す。初は眞言宗の寺院なりしが、正安三年、遊行二世他阿〔眞教〕廻國の時改宗す、他阿西方寺に在る時、氣比宮の西門と寺との間大沼にして、參詣の煩たり。故に祠官等道を作らんと欲したれども力及ばずとして其儘にありけるを聞き、他阿其徒と海邊より土砂を運びて道を作る。近隣歸依の貴賤亦加はり祠官社僧遊女も出でゝ之を助け、日ならずして成る。是後の三丁繩手なり。今の大鳥居前の往来なり。加之、更に宮中に砂をちらし、石を疊み、社内を清淨にす、〔繪縁起〕因て神勅にまかせ、社前護念の爲め、自彫像を刻して、大鳥居の正面に堂を建てゝ之を安置す。是後の本堂なり。〔本尊、阿彌陀如来〕因て本堂正面〔即大鳥居と相対す〕の表門に閫を設けず、亦寺にて凶事を執行する時は神前を憚かり、門を閉づ、表門の北手に不淨門あり、之より往來す。〔両門の間の川を隔てゝ路傍に高札場は設けられたり。〕明治八年、表門今の處に移してより、此亊廢せり。當寺を御影堂と稱するは、此影像を安置するが故なり。町の舊名、御影堂前町の名も此に因る。氣比宮守護の寺として代々國守より寺領を寄せらたりと云ふ。〔天文中朝倉義景寺領を寄進したけれども、其證文永禄年中の炎上に之を失へりと傳ふ。〕天正十九年六月、大谷吉継、地子八貫六百文〔今地子寺納帳を逸し、其戸数等詳にすべからず。〕を寄せらる。〔本書亦逸す、〕
 敦賀御影堂爲扶持、八貫六百文、毎年無相違可相渡者也。
  天正十九年六月廿八日   大谷刑部少輔
                   在判
               下河原宗右衛門殿
酒井氏の時、之に由て寺内の諸役を免除せらる。〔寛文十一年書上〕天正十一年四月五日、遊行三十代有三、本寺にて寂す。其墓、本寺にあるべし。今の本堂は、正徳三年十一月の再建なり。明治八年、境内の一部、小學校敷地として上地處分を受け、堂宇を南、今の處に移す。舊境内千九百五十三坪、現境内約九百五十坪なり。塔頭は正徳の頃は六軒〔延壽庵・修善庵・法聲庵・千秋庵・極楽院・浄頓庵〕ありが、其後漸次癈絶す。〔維新の頃迄に〕末寺も二ヶ寺ありしが、亦皆癈絶せり。 …


浄土宗天筒山善妙寺

神楽大通の一つ南の通りにある。戦災で焼けて、古い寺院も今はこんな姿である。気比神宮の神宮寺かもとか、藤原武智麻呂の創建かもと伝わる。
永禄元年(1558)の寺領目録は中世後期の敦賀郡における所領の在り方や、武士名・寺社名、さらに村名・町名など多くの地名が知られる好史料で、この目録を含む寺蔵の文書29点が市指定文化財という。
『敦賀郡誌』
善妙寺  敦賀町神樂に在り。浄土宗鎭西派、京清淨花院末なり。當寺本尊来由に云後深草天皇正元々年僧空覚〔文永三年六月廿八日寂〕國主の招に應じて來り、天筒山の麓に基を開き、氣比宮の近くに寺を創す云々と、由て山號を天筒山と稱す。應永三年三月、守護斯波義將、寺領を安堵せしめらる。其後守護朝倉敏景及郡司景冬並に寺領の安堵状を給せられたるが〔文明十三年なるべし〕弘治三年三月二十四日、寺家炎上に之を燒失し、永禄元年、郡司朝倉景紀より寺領の證判を附せらる。此時、本堂再建に際し、深山寺御林にて材木二十本を寄せらる。當時の塔頭寮舎は阿彌陀院・正行庵・釈迦院・蓮藏院・賓壽院・潮音軒・成就院・勝養軒・玉祥院・陽栖軒・慈祥院・玉照軒・玉淵軒・清澤軒・永福庵・廻月軒、又其寺領高は本寺常住分米六拾七石一升七合、及銭九貫七百二十二文、常住及塔頭寮舎相共に米百六十四石六斗六升、代納二十二貫四百十九文なり、〔〕今の本堂は寛政二年の再建なり。明治の初年まで、塔頭七院〔釈迦院・玉藏院・持晶院・蓮花院・香松院・鎮護院・定晶院〕ありしが、今皆廃す。境内に忠魂一切経藏あり、明治四十一年の建立なり。現今境内一千〇十坪あり。

『敦賀志』
天筒山善妙寺〔浄土宗浄花院末寺〕、塔頭釈迦院・玉蔵院・持昌院・蓮花院・香松院・鎮護院・定昌院あり、当寺はもと氣比神宮寺中の釈迦寺といひし寺にて、二百年前御所沈子神宮寺中より此処に移れり、今の宗旨に成しハ正元元年にて、空覚上人の時と云、神宮寺ハ右大臣武智麿公の創造にて、天筒山寺尾に在した云、よて今山号とせり、空覚住主たりし時、将軍家より寺領を寄らるとハ伝聞の誤にて〔其比ハ宗尊親王の御時にて陪臣(北条)義時等権を恣にせし時なれハ、将軍ハ名許にて寺領をよせらるゝなとの事有へからず〕朝倉家の沙汰成へし、什物記録等ハ元亀の兵火に焼失し、今僅に寺領有坪を記せる書一巻〔朝倉家の裏印有〕朝倉代々の判物僅に存せり、寺内制禁条々義景の判物有、

『大日本地名辞書』
気比神宮寺址。中世中絶し、今市中なる浄土宗善妙寺は、正元元年空覚上人が神宮寺を転じて、念仏道場と為したる也と伝ふるも詳ならず、此寺は藤原武智麻呂が創始にて、いと古き跡とす。〔越前名勝志、越藩拾遺録〕武智麻呂伝云、公嘗夢遇奇人、容貌非常、語曰、公愛慕仏法、人神共知、幸為吾造寺、助済吾願、吾因宿業、為神固久、今欲帰依仏道、修行福業、不得因縁、故来告之、公疑是気比神、欲答不能而覚也、仍祈曰、神人道別、隠顕不同、未知昨夜夢中奇人、是誰者、神若示験、必為樹寺、於是神取優婆塞米勝足、置高木末、因称其験、公乃知実、遂樹一寺、今在越前国神宮寺也。


真宗大谷派長賢寺


真宗大谷派無量寺

天文元年(1532)創立の真宗大谷派無量寺がある。

真宗大谷派高徳寺

古い本堂や鬼瓦がある。神楽町でも、最も西になるが、無量寺とも、このあたりは焼けなかったよう。案内板に、
(県)高徳寺本堂   一棟
指定年月日 昭和五七年四月二三日
所在地及び管理者 敦賀市神楽町二丁目 高徳寺
時   代 江戸時代
正面一八・三〇㍍、側面一六・○三㍍
入母屋造桟瓦葺
 高徳寺は、明応九年(一五〇〇)祐怡の開基と伝えられる真宗大谷派の寺院である。
 この建物は、すべての柱を角柱とし、三つ並びの押板形式の仏壇をそなえた古式の真宗本堂である。内陣は正面三間(六・二九㍍)奥行一間(二・九五㍍)と非常に奥行が浅く、前述したように三つ並びの押板形式の仏壇とし、後門は開かない。内陣両脇は余間とし、左右対称であり、内陣正面は巻障子、余聞正面は格子戸引違となっている。
 外陣は、梁行の柱列によって三分され、この柱には虹梁と頭貫が組まれている。内陣前一間の中央間桁行にも一段高く虹梁が架けられ、矢来の間的な空間を形成している。柱上には出組斗拱が組まれ、中備えに蟇股を入れ、格天井を支えている。また、正面三方に入側の広縁を廻している。
 このような平面形式や虹梁・組物・蟇股などの絵様の示す様式は古式であって、近世初期の真宗本堂の様子を非常によく伝えている数少ない建物である。
令和四年二月一日     敦賀市教育委員会


浄土真宗本願寺派円教寺

正長2年(1429)教念創立の真宗本願寺派円教(えんきよう)寺。寺内には俵物買問屋会所が置かれていたという。
『敦賀志』
(大乗寺の)西側に無量寺〔東本願寺末〕東側に圓教寺〔西本願寺末〕有、此街西側の裏に道後神の社有て、安陪清明爰に来りて拝礼せし時の坐石と云物遣れり〔吉川某か裏に此石を小祠に祀りてあり〕、其有し社ハ道後神にてハあらし、何の神の社なりしや知かたし、吉川某か裏辺より北の辻子迄幅一間許の参詣道と云物今猶除地也、且其間不浄を忌て厠なとハ皆表へ出せり、東側ハ昔ハ真菰原なりしと云ハ、中橋へ流し柳河の上流成へし、其水ハ木芽川深川其余処々の泉の集れる成へし、
今も晴明神社はある。北隣の相生町になり、そこで取り上げる。


日蓮宗大乗寺

日蓮宗大乗(だいじよう)寺は応永年中(1394~1428)日善の開基で、往古は来迎寺の寺内西南方にあったという。『敦賀志』
大乗寺〔経宗本国寺末〕応永年中日善上人開基の寺也、古くハ迎寺の寺内西南の方に在しと云、若州良民伝曰、享保十七年子秋より、米価俄に貴く、町中の貧民飢に及んとする者多し、時に大乗寺の住寺日延是を歎き、子冬より丑春に至り、日々に町中を託鉢し、得る処の米を悉く粥に焼き、日毎に飢る者に施し救ふ、引つゝいて同志の者八人出来り、銘々尽力して救ひしかハ、飢る者一人もなかりき、依て、邦君より大乗寺へ金五百疋其余云云〔他の八名へも金若干〕を賜ひ、其志を賞し玉へり云云。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


神楽町の主な歴史記録



神楽町の伝説

『越前若狭の伝説』
砂持ちの神事     (曙町)
正安三年(一三〇一)四月九日藤沢の遊行(ゆぎょう)二代上人他阿弥が気比神宮に参拝し、諸国巡回の祈誓をした。そのとき落葉が道に散らばっていた。上人はみずからちりを掃除し、道を清めて、 「神力によってわが宗の回国修行が末代まで退転なけれぎ、世々おん神に参り、きょうのごとく清掃します。」と誓った。
 時に上人は西方寺を建立(こんりゅう)して、そこに住んだ。いわゆる藤沢(とうたく)山である。ここから気比神宮まで歩いて行かれた。気比の西(さい)門口に大沼があり、舟でなければ越えることができない。ここにおいて上人は沼を埋め、道を造った。道はば八メートル、長さ三百メートルである。この大沼は苅菰(かりこも)池といい、水が東南から流て来て、ここに会して海に入る。万葉集に人丸の歌がある。
 他阿弥がこの道を造ってから、代々の上人が気比大神に参り、みずから砂石を運んで、祈誓をすることになった。これを俗に砂持ちの神事という。この日神官が幣を奉って、回国に障害のないよう祈る。落髪の僧は社殿の階段を昇ることは許されないが、遊行上人だけは許されて大床にて祭拝する。この沼は今は田地となり、残る所は鳥居の南の蓮(はす)池だけである。     (気比太神宮俗談)

 気比神宮の西表の大鳥居前通りを俗に三丁縄手(なわて)という。遊行二代真教上人巡国のとき、気比神宮西表の道が洪水のためこわれ、沼となった。沼に大かめがいて参けい人の舟を悩ませた。上人はこれを嘆き、ここにとどまって、諸人をさそい、浜から土砂を運んで、もとのごとく三丁縄手の大道を造った。
 西大手の正面に西方寺本堂を建て、手ずから自像を刻み、合掌して気比大神宮を拝んだ。よって正面の門にしきいがない。しかし凶事を行なうときは、神前をはばかって門を閉じる。
 歴代の遊行巡国のとき、気比神宮へみずから土砂を運ぶ、衆僧三十余人が荷をもって従うのを例とする。打它(うちだ)氏の北の浜から唐仁橋町・御影堂前町を経て、神前・中門前・大鳥居前と三度運ぶ。 (敦賀志稿)

 亀太夫(かめだゅう)・竹太夫のふたりが、えぼし・したたれ姿で砂持ちの行列の先導をする。亀太夫の先達は、大沼の中の大かめが、上人の教化を受け、化生した因縁による。代々三島に住んで、この役を勤めた。竹太夫のことは不明である。
            (敦賀郡誌)

 遊行二代の埋立てのとき、沼にいた大かめか、上人のまくらもとに現われて、「庶民救済のため、沼を埋め立てられるのはよいが、われらの住居を失うのをどうして下さる。」となげいた。上人はこれをふびんと思って、「されば人間に生れさせる。」といわれ、人に化生(けしょう)せしめた。今の三島稲荷神社の南手に亀太夫といって、世々占いを業とする一家があったが、それはこの亀の転生したものの子孫だと伝えられている。明治の末頃までその家はあったが、火災にあってからどこかへ退散して所在不明となった。
 上人はこの埋め立てのとき、今の西方寺に滞留されたが、気比明神の社に正面して、日々祈願をこめられ。この寺に跡を残されるために、自ら木像を刻まれた。そのとき夜々気比明神がおいでになって、これを手伝われた。木像の首は気比明神の御作であると伝えられている。    (福井県の伝説)

西方寺  (神楽町二丁目)
 気比大明神は毎夜十時に西方寺においでになる。御誓願により明け放しの門とて、しきいを入れない門がある。代々の遊行上人の回国のとき、気比の道作りをする儀は今も行なわれている。西方寺に遊行第二代上人の木像があるが、これは気比大明神の作である。この寺に源三位頼政がたかに水をかった堀井戸が今もある。         (寺社什物記)
 註
 西方寺は戦災後来迎寺内に移された。(斎藤槻堂)



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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