丹後の地名 越前版

越前

田結(たい)
福井県敦賀市田結


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福井県敦賀市田結

福井県敦賀郡東浦村田結

田結の概要




《田結の概要》
田結は手結のことで、笠金村の長歌(万葉集巻3)にある塩焼く煙を見た手結の浦にあたる。たぶん土器製塩の煙を見たのではなかろうか。
鞠山遺跡・田結崎製塩遺跡

今の集落は東西に広がり海岸に面した浜田結と、その奥に位置する三方山地の本集落に分かれる。今の本集落は海岸線からは1キロばかり奥地になる。
古代の手結が浦は、奈良期に見える浦名で、「万葉集」巻3に「角鹿津にして船に乗る時、笠朝臣金村の作る歌一首并短歌」として「越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真梶貫きおろし いさなとり 海路に出でて あへきつつ わが漕ぎ行けば 大夫の 手結が浦に 海未通女 塩焼くけぶり 草枕旅にしあれば 独りして 見る験無み 海神の 手に巻かしたる 玉襷 懸けて偲ひつ 大和島根を」の長歌と「越の海の手結が浦を旅にして見ればともしみ大和思ひつ」の反歌を収め、当地における製塩の有り様をうかがわせる。同書巻14には、「多由比潟潮満ちわたる何処ゆかも愛しき背ろが吾がり通はむ」とある「多由比潟」は当地のことかは不明。タイの地名は全国にたくさんある。
中世の田結浦は、鎌倉期から見える浦名。鎌倉期の所見はいずれも歌枕としてであり、建暦3年(1213)の「歌合」(群書12)の「逢事はたゆひの浦の旅まくらこかれそあかす夜半のも塩火」(藤原家隆)、「夫木抄」の「舟とむるたゆひの浦の曙にこし路をいそぐ雁はなくなり」(中御門宗冬)などが知られる。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録に「田結村」と見え、村内の「石橋」に1反、「馬瀬」に3反の善妙寺領があった。また同目録には余座村に田地を持っていた「田結村之吉祥院」という寺院が見える、吉祥庵は敦賀の永建寺の末寺であったが、田結村百姓は13年前に同庵の坊主を追放して以来ずっと同庵の屋敷田畑から米を収取していたという。慶長国絵図では赤崎浦561石余の一部。
近世の田結浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領、享保12年(1727)の家数34(高持29 ・ 無高3・寺2)・人数199、牛17、塩かま屋8・塩高263俵余。製塩の歴史は古く、在所だけでは塩木が不足し、赤崎浦とともに近江国伊香郡中河内(滋賀県余呉町)に請山をし、礼として山手米18俵3斗と塩2俵3斗および肴を振舞った。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数34(全戸農)・人口164,「往古ハ塩ヲ焼き、近世後石灰ヲ焼クノ業デ利益」を得たと記す。当浦の塩の生産高は同年126石に達し、舟便で敦賀町に移出した。同27年塩の生産は廃止された。明治22年東浦村の大字となる。
近代の田結は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町、戸数36、人口は男103 ・ 女103、小船14。


《田結の人口・世帯数》 205・81


《田結の主な社寺など》

式内社・田結神社

境内に幾株かのスダジイの老木がある。市天然記念物という。
『敦賀郡神社誌』
村社 田結神社 敦賀郡東浦村田結字谷 谷
位置と概況 本區は鞠山區の東方に當り、北陸道に沿ひて、田結神社の社標の建てられた所より、東方に通ずる里道、約十四町にて達する。東南北は山嶽囲繞し、西方は北陸路に沿ひて、昔時の鹽田を隔てゝ海岸となつてゐる。
 往古より本區は田結浦又は田井の浦とも、或は手結浦等とも書いた。萬葉集に「越の海の手結の浦を旅にして見ればともとも大和しぬびつ」とあり、壬二集家隆の歌に「逢ふ事はたゆひの浦の旅まくらこがれぞあかす夜半のともし火」(建暦三年内裏歌合旅宿し戀)とある。夫木抄の権中納言冬郷の歌に「たゆひがたしほみちわたるいつゆかもかなしきせろかわかりかよはむ」又「舟とむろたゆひの浦の明ほのにうしろをいそく雁はなくなり」などと、古き歌書にも載せられて、その地名は往古より名だたるものである。昔時は江良五幡區と同じく製鹽業を営んだが、今は石灰製造と農業に従事し、當時の鹽田の趾は、今の北陸道に沿へる海岸に、荒草小草の茂るまゝ廣き原野となって、今昔の感に堪へざらしむ。氏神鎭守は、區の中央より稍々西方に寄った、南端の阪の下山麓にありて、域内は高き石垣をもって二分され、約二十級の石階を上れば、本殿は西北面して鎭座し給ふ。その前面石垣の上には、左右各四間餘の石玉垣が築かれてある。社域廣く自から崇高、且つ地名も古くより名高きに比して、社殿の結構甚だ粗なるは誠に惜しむべきであるが、巨椎の老幹參差枝を交へて、荘厳なことだけは、すがに延喜の古社たるを頷かせる。
祭神 田結大神
由緒 按ずるに、當社は往普よ心若宮八幡宮、又は八幡宮と尊稱し奉つて、夙く延喜の制の神名に列せられ給ひて、式に越前國敦賀郡田結神社とあるは、即ち當社の御事である。明治十一年頃村社に列せられた。
祭日 例祭 三月十四日 祈年祭 三月二十三日
   新嘗祭 十一月二十六日
放生會 八月十五日放生会と稱して境内で盆踊が行はれてゐる。


浄土真宗本願寺派慶長山興隆寺

浄土真宗本願寺派の興隆寺、本尊は阿弥陀如来。開基は月輪浄正。月輪浄正はもと天台宗僧であったが、本願寺淮如巡化の時弟子となり改宗、のち慶長元年同寺は寺号を許可されたと伝える。
『敦賀志』
田結浦
 氏神八幡社ハ式ニ所謂田結神社成へし、吉祥菴〔禅宗永建寺末〕・ 興隆寺〔西本願寺末〕 此浦ハ塩浜也、
 万葉集三巻笠朝臣金村の長歌已二前篇に出せり、其反歌 越海乃手結之浦矣客 為而見者乏 見日本忍櫃
玉吟集 あふ事ハ田ゆひの浦の旅まくら
      こかれそあかすよハの灯   家隆
夫木集 船とむる田ゆひの浦の曙に
      越ちをいそく雁ハなくなり  宗冬


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


田結の主な歴史記録



田結の伝説




田結の小字一覧

田結  滝ケ谷 エビレ谷 ウバ谷 引坂 松尾 シトウド 小坂尻 バンジョウゴ 浄泉坊 コガ谷 仁久条 アラシ口 サブ谷 小久保 上ノ山 村中 川向 間谷 居屋谷 川中 杉ノ本 アトバ 上年ケ谷 宮ノ腰 谷ノ谷 石橋 山腰 奥ヒル谷 中ヒル谷 上三ケ谷 シゝケ谷 椎ノ木 蛭谷 鳥越 畷 中川原 馬路 清水 小谷 馬路畷 坂ノ尻 茶ノ木畑 タン谷 カンコ 白岩尻 奥獅々谷 中獅々谷 新谷 ハザマ 茶ノ木下 シシ谷口 雨見 塚田 今原辻 金剛丸 丁田 伊吹谷口 伊吹谷 小伊吹谷 東伊吹谷 扁平 西伊吹谷 山本 浜田 南浜 南今原 六反田 高竃 金割 ヒル谷 シゝケ谷 清水谷 タングラ山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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