京都府綾部市星原町
京都府何鹿郡吉見村星原
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星原の概要
《星原の概要》
干原とも書く。幾見郷の西北端、小呂村の南から西北に開かれた谷間に立地。幾見郷六箇の一。 八田川の支流小呂川沿いに位置し、村の入口に産土神の星宮神社があり、その森を星原と名付けたところから地名となったという。
星原村は、江戸期~明治22年の村。はじめ幾見村の枝郷、のち分村独立した。はじめ山家藩領、寛永5年から旗本十倉谷氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年吉美村の大字となる。
星原は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ吉美村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年星原町となる。
星原町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。
《星原の人口・世帯数》 77・38
《主な社寺など》
星宮神社
←鳥居の神額
興味引かれる面白い神社、何もワタシだけでなく全国的にも注目されそうなスター社である。星の宮というのだから、星を祀る社で、「星」とあれば鉱山、これは凡世界的に関係深いとされる。この「星」とは、当社の幟から見れば北極星や北斗七星のことか、それなら要するに妙見社や虚空蔵菩薩と同体であろう。
猿でも理解できる鉱山神である。地内、谷の一番奥には別所という小字があるし、その手前は芋野という。高倉の天一さん、すなわち天目一箇神ときわめて関係が深いオトモダチだし(本当は夫婦か)、祭神としている五百箇磐石(いおついわむら)神も鉱山・鉱石神と見てよい。紀の一書に、伊奘諾尊が香具土を十握剣で三段に斬ったとき、したたる血が河原にある五百箇磐石になった。あるいはその血が天空に昇り生まれた星神と言われている。穢れた血から生まれた穢れ神の性格を王権により負わされていたことがわかる。
さらにお寺は真言宗、金福山栄宝寺、金を吹く山、宝で栄えるという寺号。ところが、
院号は明星院というそうで、境内に「北向首取椿地蔵尊」が祀られている。→
明星とは金星のこと、明けの明星とか今もいう、その明星で、太白ともいい、映画スターとか言う場合のスターとはこの星である。私が子供の頃には『明星』という映画スターなど取り上げ専門の雑誌があった、子供にもニセ明星ばかりで、興味が湧かなかったが、今もあるのだろうか、。
北極星(北辰・太一)とは違う星だが、お互いに似合った性格を持つ、もともとはたぶん夫婦星、だろうか。
太一(北極星)は天皇大帝ともされ、天照大神とされ、天皇という称号もこの星から出たようで、天皇とは宇宙の中心にあって全宇宙を支配する神とされた、だからどちらかといえば星神でもまだ王権寄り、皇祖神星だが、こちらの金星が当社の本当の「星」かも知れない。天子南面で、その立場の者はすべて南面しているなかで、、それを北向きでにらみ返している、北向きということは北極星を信仰しているようである。神社は南面して王権に多少なりとも阿諛追従を装い、本当の星、当集落の本当の氏神様はこちらの地蔵さんに祀られ、王権と対峙している、ように思われる。スターとはそうした星で、権力ベタベタのスターでは、心根が腐り切っていて本当はスターではない。皆が仰ぎ見る輝ける☆ではない。である。芸能だけではなく、すべての分野でそうしたものである。
新興の王権側にすれば、自分らが太一を祀る以前にすでに早くから祀る者がいた、先輩格が日本には先にいた、はっきりと言えば天照は皇祖神ではない、明治2年まで天皇が伊勢に参拝したこともない、天照は庶民の氏神であった、太一を横取りした王権とすればこれは困る。いやなヤツ、むけたいヤツ、わるいヤツ、叛逆するヤツ、として葬るよりなかった、リクツに合わぬハナシだが…リクツに合わぬ勝手なことをするのが王権、権力、帝国というものである。
北極星は航海にはなくてはならない星だから、王権は海人系ではないのであろう。
金星は陰陽道の丑寅の金神、凶星邪星で、金星がある方向は避けるがよろしとされるそうである。
里町の久田山にある妙見宮も北向である。
大本教では丑寅の金神は主祭神で、この神が世直しを行われると教える。メデタイ人には何のことやら、かも知れないが、綾部は何かカクメイ理論みたいな所がある。
酒呑童子配下四天王の鬼に星熊童子というのがいた。星とオニも関係がある。星は太一も太白も王権は嫌う、天皇が北極星で、宇宙を支配する最高神なのだ、勝手なことぬかすそのほかの星どもはクソクラエの考え方である。自分の方が勝手なことぬかしているのだが…
北隣は小呂という集落、八岐大蛇を思い起こすが、鉱山とは関係深い地名である。こうした元々からの地元の産鉄鍜冶豪族は地下資源独占しようとする中央王権からはオニだヘビだツチグモだと忌避され貶められ差別され、王権の命に反すれば滅ぼされる運命にあった。中央王権よりも古くても、日本国中王権の私有物とする者どもだから、泣く泣く隠れマリア像のように表面はよくあるごくフツーの社のように装って長い歴史を隠し祀ってきた。今の警察の隠語でもホシといえば犯人のことで、それくらいホシは悪者とされてきた。
そうしたことで今となればその子孫ですらわからないことが多く、残されたもの全体から何となく察するより手もない。
←当社の幟の神紋
大熊座の北斗七星、ツルギの方向と長さがおかしいが、ひしゃくの先をまっすぐに五倍すると北極星である。小学校で習ったが、ツルギの先端が、その「星」である。北極星を北斗七星がツルギで狙っている、ようにも見える。
伊弉諾尊、珂遇突智を斬りたまひし時に、其の血激越りて、天八十河中に在る五百箇磐石を梁む。而して因りて神に化成り、号けて盤裂神と曰す。次に根裂神、その児磐筒男神。次に磐筒女神、その児経津主神。 (『日本書紀』) |
盤裂神・根裂神も鉱山神とされる、星宮神社は岐阜県や栃木県や埼玉県とかに多いが、当地周辺には見られない。
文献はそうしたことには触れない、過去のことでもうすっかり忘れたのか、何か意図的な不明なのか。
星ノ宮大明神 干原村 村入口ニ 産神
祭ル神 高倉明神客神ト云 祭礼 九月九日
森凡五十間四方 是ヲ名付テ星原ト云 高倉祭先立ノ神也
出ルハ星原 帰ルハ多田村先立ナリ 是ヨリ谷向ノ段々 星原ノ壱本松ト云名高松アリ (『丹波志』) |
星宮神社 星原小字土井ノ内一番地
祭神 五百箇磐石神
由緒 不詳
境内社 二社
熊野神社
武太神社
氏子数 四十七戸 (『吉見村誌』) |
星宮神社
星の宮神社 星原町土井ノ内一番地鎮座
祭神 五百箇磐石神
氏子 星原全域
社紋 大態座
祭礼 十月十日
縁起 記録等無不詳
社宝 木彫 狛犬一対
威徳 五穀豊穣家内安全
小宮 熊野神社 武太神社 愛宕大権現 山の神
遥拝所 愛宕大権現
昔は星原町は干原乾くところと書きました。星原には田畑の潅漑用の溜池は一つもありません。別所谷の奥に造成が試られましたが成功しませんでした。
お寺も金福山明星院と星の字を用いられ神仏の御利益を受けて居ると星原出身の四方英夫神官の話です。
吉美の昔のわらペ歌に
小呂小呂ゾスイに
多田バッタイ
クワン星原ヒダルカロ
武家の悪政時代に年貢の取立がきびしかった頃、小呂は畑地多く田の米は年貢で取られても畑作物がありぞう炊が喰べれた。多田は水田が多いから年貢のクズ米をハッタイにして喰べたと思われます。星原の昔の人は何を喰べていたか。
氏神さまの御威徳で五穀豊穣しても代官の目に入れば年貢で取られて喰べる分がないから、その目の届かぬ殿隠し(遠坂田地)を与えられ、又山中には開墾して喰べ物を作って暮らしたが腹一杯にはならずとも何んとか生きて来た。殿がくしで出来た分は公然と喰べ物があるとは言えず、年貢の取立のきびしきに堪えこんな文句が口にされたと思われます。
古老の語を総合すると、お社は小さいが、祀られたのは古く高倉に天一さまがお祀りされる以前から村人達の信仰あり今に続いて居ります。
天一さまが天体界(皇族界)を漫遊し丹波の国吉美の郷に顕われるや星の宮さまは大熊座に剣を託されて天一さまの警護を続けてこられました。高倉神社の秋祭のお旅の道中も天一さまの身近い所で行列に参加した、そこで天一さまは次の様に御神示されました。
神輿馬場与還輿之節式の定の中に
星の宮 「但古格田坂与御帰也」
社紋
星の宮が天に大熊座を使わしめられた時の姿が社紋とされ社の大幡にも星宮神社の文字の上に染めぬいてあります。
前ののぼりは明治の中期に作られ星宮神社大文字は吉美の初代村長猪間一夫氏の揮毫で星宮神社の文字の頭の部分に剣を持った大熊座の紋入りでした。
社殿は外屋と内庭の二重の建て方で、外屋は奥行間口共三間で昔は草葺屋根でしたが今は波トタンです。
お宮の宝物として御神体をお守りしている木製の狛犬一対があり高さ三十二センチで古いもの。
神殿は高倉神社の拝殿の彫物と同じ様な彫りものがあり特に両わき袖には二十四孝の「寒中筍掘り」の場面が彫り込んであります。
神殿再建の頃の昔話に高倉神社再建当時天一さんへ願を掛ける信心深い娘が星原に住んでおり、おすずと言いました。天一さんへお参りするうち棟梁は特に心を引かれ、一日の仕事を終えて晩の帰えりすぐ小呂へは帰らず、おすずのもとへ道寄しました。ある日、おすずが棟梁の腕前をほめたのに気をよくした棟梁は、星宮神社の再建を申出て話定まり夜業に星宮神社の神殿造りをする様になり、棟梁は公然とおすずの所へ通いました。おすずは妊娠して出産の腹痛を案じ御利益の高い天一さんに毎日参拝し御利益を受けて元気な男子を安産しました。男子は丈夫に育ち秋の祭りが来ると一番大きな幡を先頭に立てお旅のお供をしました。その幡が星原の幡頭です。
高倉さん普請の材木の余り木が星宮神殿の普請に使われたといわれています。
熊野神社
祭神 イザナミ命 悪疫除の神さん
通称熊野大権現として、昔は別所谷の奥に祀られ栄宝寺が奥路にあった時はお寺の守り神として寺の管理下にありましたが国の法令に依ったか現在は星宮神社の西側に祀られています。
武太神社
祭神 広峯牛頭天王 牛の神様
武太神社には八坂神社の須佐之男命が合祀されています。村人は天王さんとお呼びして信仰しています。
明治の初め迄は日向組の地神として通称天王山に祀られていましたが、今は星宮神社のすぐ東側の内外二重造りの神殿に鎮座します。
天王さんの神殿は明治十四年に再建され記録も次の様にあります。
再建の世話人
星原村 今井杉蔵 四方八右衝門 柏原善五郎
木挽 白道路村 大槻新太郎
大工 星原村 大槻浅蔵
彫物 福知山市京屋町 相野安右ヱ門
例祭 毎年九月一日であったが、今は九月の第一日曜日に幡を立て氏子一堂に会し、子供達は初作のお祝いのおやつが振舞われる。昔、牛が飼われていた頃は、牛の品評会がこの日行われた。
金比羅宮 金比羅大権現
星宮神社と熊野さんの中間に御影石で一米四方高さ八十センチの石垣の上に銅板屋根の祠に祀られている。大正八、九年の全国的に大流行した感冒で星原にも多数の犠牲者が出たので悪疫鎮静を祈願した。感冒が大流行した当時人々が恐れたことはお寺の過去帳に記されております。
山の神 大山グイノ命 山の安全をお守りする神
星原本谷と遠坂方面へ通じる峠の南上で星頃の谷全体が見渡せるお社に祀られています。昔は毎年秋の亥の子の日には子供の奉仕でお宮がわらで新しく葺替えてお祭されていたが、最近子供の数が少なくなり葦替え中止で祠が無くなり自然石の御身体のみが鎮座されて居りますが、山の神様は特に子供が大好きで子供の事は何んでも神に通じます。良い子を育てたい望みをお持ちのお母さんお参り下さい。
愛宕山の遥拝所 火難除け
子供の家のすぐ西側に自然石の石燈籠があります。梅迫町の山上の愛宕山へ昔は一月二十四日の祭日には全戸一名宛必ず参拝しましたが常の日は此の遥拝所から火の用心をお祈りしました。
星原本道(市道)が出来るまでは繁尾英昭宅の南下の旧道にあったのが移されました。
高倉神仕の遥拝所は星営神社天王さん前の櫛の根本の所に自然石が置かれてあります。
神社奉納の数々
神社の一番下の石段の両側には山石で石垣が積まれて居ります。毎年実りの秋に役人が来てその年の作柄を調べました。役人に石垣を見られると星原は経済的にらくと見られ、年貢の取立がきびしくなるのを恐れて石垣の前に稲架を立てて見えなくして検見の役人を迎えたと伝えられます。
石垣を上った所には出雲石で一対の石燈籠を天保十年に若連中が奉納しました。
石段は昭和三年に御大典記念事業として改造修復を青年会でされました。
常夜燈一基が明治三十四年に今井岩蔵、柏原鳥蔵の二人で奉納され中段の上り口にあります御手洗は自然の川原石に掘り込んだ大きなのが萬延元年に奉納されています。
大鳥居
昭和四十五年に星原町出身の柏原武夫に依り奉納された石の大鳥居は氏神様の風格を上げお宮の誇りです。
参道の高い石段は造られた年代等が刻まれて居り乍ら、古くて読み取りが出来ません。石段を上った右側は柏原順之助、左側は山尾太平と弟で小畑村字中の塩見常右エ門二人で唐獅子の狛犬が明治三十三年に奉納されて居ります。この狛犬は他の神社にある唐獅子とは表情の彫方が珍らしい。お宮の清掃は毎月初めに氏子が交代でして居ります。 (『吉見村誌その2』) |
高野山真言宗金福山栄宝寺
栄宝寺
吉見村字星原にあり、金福山明星院と称す。真言宗にして、星原及高倉の二区之が檀徒たり。十倉陣屋に残る記録を左に掲げん。
一丹州何鹿郡干原村 栄宝寺(高野山宝城院末)
住職 禅猛 五十八歳 干原村生
弟子 淳長 三十四歳 遅岫村生
弟子 慶浄 二十一歳 小呂村生
弟子 栄順 十一歳 干原村生
弟子 本観 十七歳 和木村生
〆五人(寛政四年調査の寺院人別帳)
附記 当時吉美郷の他の寺院を見るに、仏南寺は無住。妙泉寺は一名。善住寺は一名。龍宝寺は二名なるに本寺のみかく多数なるは奇異とする所なり。更に郡内を見渡すに如是寺二名、慈眼寺二名なり。此の二寺は当時より檀徒多く裕福なりといふ。
(『何鹿郡誌』) |
金福山 栄宝寺
真言宗高野山宝城院末に属し、星原小字南谷に在つて本尊大日如来を安置する創立年月不詳ではあるが、往古七堂伽藍の旧跡で仁王堂と云った。伽藍頽廃の後、宝永年間に長祐法師が庵室を創立して後、宝暦十二年に通泰法師が今の栄宝寺を建立したのである。星原及び高倉の二区檀徒を有し、寛政時代は寺僧多く裕福であつたと伝へられる。 (『吉見村誌』) |
栄宝寺
“栄宝寺開基は不詳と雖も七堂伽藍ありしものにて、字大野の奥に熊野三所権現を勧請して鎮守となし薬師堂奥の坊山庵屋敷仁王堂等有り隆盛なりしも天正三7年(1579)明智光秀の兵により烏有に帰し、空しく百余年を経て元禄年中(1688~1703)長祐大法師奥地口に小庵を建立して中興開山とす。”とあり、“元文3年(1738)火災により什器記録焼失せり。再び小庵を営む。第四世通泰師地頭の許可を得て米頼母子を案じて数百石の米を得て宝暦12年、今の地に寺を建立するに至る”という。こののちに高倉大師講中から文珠堂が建立された。
更に“星原村は旧幕時代より重租困窮なるに明治革命を機として久美浜県庁へ願出たる処却下され厳科に処すると叱責されたが5度の嘆願に大蔵省伺出の議を経て多分の減税となりたり、朝廷の厚き思召は有難き旨皆に申開かせ他部落に洩らすべからすと説諭”したとある。現住職は木原妙泰師で15世である。
(『吉見村誌その2』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
星原の主な歴史記録
伝説
星原の小字一覧
星原町
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