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丹波の

老富(おいとみ)
京都府綾部市老富町茅野・大唐地・栃・光野


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京都府綾部市老富町市茅野・大唐地・栃・光野

京都府何鹿郡奥上林村老富

老富の概要




《老富の概要》
市の東北部で、北隅に三国岳(616m)があり、若狭(福井県)・丹波・丹後の国境となっている。上林川が源を発して地内を南流する。丹波高原の一部で、積雪量は多い。
老富村は、明治7~22年の何鹿郡の村。大唐内・市茅野・栃・光野の4か村が合併して成立。同22年奥上林村の大字となる。
老富は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ奥止林村、昭和30年からは綾部市の大字。同年老富町・光野町となる。
老富町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。



市茅野(いちかや・いちかやの)
上林谷の一番の奥、東北端、大唐内村の東で、若狭街道から北ヘ少し入った谷間に位置する。尾根を挟み西の谷を小唐内(こがらち)、東の谷を市茅野という。
谷をさかのぼれば三国岳東方の尾根を越えて、大飯郡高浜町関屋に至る。この峠を寛政11年の丹波国大絵図は「猪鼻峠」と記すが、現在地元では坪坂(つぼさか)という。関屋村の坪に至る峠という意であろうという。「丹波負笈録」は「一ノ端嶺若州坪セキヤ村尓一里間道悪」と述べるが、この「一ノ端」を「猪鼻」と書いたものであろうという。
若狭街道を東進すると長谷(ながたん)(永谷)で若狭に入り、大飯郡川上村を経て本郷(同町)に至る。「丹波負笈録」に「若州川上村へ一里、川原村より山番ニ出たる百姓三軒あり村の事は丹波市茅野村並」とある。現在も県境付近を三軒屋という。
「太平記」(巻三六)の康安元年(1361)の条に「去程ニ尾張左衛門佐氏頼、討手ノ大将ヲ承テ、北陸道ノ勢三千余節ヲ卒シテ、越前ヨリ椿峠へ向フ。仁木三郎横手ノ大将ヲ承テ、山陰道ノ勢二千余騎ヲ卒シテ、丹波ヨリ逆谷(サカサマタニ)へ向ト聞へケレバ…」とあり、逆谷とは長谷の東方の現在「さかしま谷(だん)」(川上村)とよぶ谷のことという。
江戸時代には山家藩領。はじめ於見谷(のうみだに)村の枝村、幕末に分村独立したと見られる。
明治4年山家県を経て京都府に所属。同7年大唐内・栃・光野と合併し老富村となった。


逆谷(さかしまたん・さかさまだに)
若狭街道の峠を越えて川上村の方ヘ下り始めたところあたり、向こう側はすごい下り斜面で急カーブが連続、風景を眺めている余裕はないが、その下り坂の途中の上の方あたりという。トンネルの中は↓県道1号線。
『大飯町誌』(写真も)
一色五郎
字永谷、分水界に近く逆(さかさま)谷と祢する要害の地がある。一色五郎守邦の出城があったと伝えられ、数十㍍の絶壁かそばだち、人呼んで「馬こかし」という。
『佐分利村小誌』に、「川上字永谷山林内の摺鉢形をなせる約三百坪の場所なり…」と、右城砦について述べている。





市茅野のミツマタとシャガの花



村の奥は市茅野杉の超美林が続く。その根元にミツマタとシャガがビッシリ。自生のものというが花咲く頃は美し。ミツマタは桜の頃、シャガはその1月ばかりあと。駐車場あり。

旧・於見谷(のうみだに)村についての記録は見当たらない。光野の熊野十二神社のあるあたりが於見というところである。


大唐地(おがらち)
若狭街道から北に分れた谷間に位置する。

入口にこんな案内板がある↑
北方の三国岳は若狭・丹後との国境。三国岳↓(胡麻岳)の西方胡麻峠を越えて舞鶴市多門院黒部に至る。村の西方木和田峠を越えて市志村に通ずる。養老山↓(大蜘蛛神社の横より写す。私が住んでいる所からすると裏山を越えた反対側で、この道を行けば与保呂の奥に達すると思われる)。唐に胡麻、加羅系の人々か。


「丹波志」は市茅野と大唐内の奥の若狭境に「サントウ山」があると記す。「丹波負笈録」にいう「サントラ山」「三俵山」のことと思われるが、同書はこの山に鬼の穴があると伝えている。また村の奥には鬼の洗濯場の伝承がある。現在地元に「サントラ山」とよぶ地名はないが、鬼の穴は三国岳東方の丸山とよぶ尾根にあると伝えるという。
小唐地の奥にある。府道1号から小唐地へ入るとすぐ正面に見える。生守山(=飯盛山?)と呼ぶらしく、メシをテンコモリのした姿をしている、サンドラ岩と呼ばれる、俵状溶岩(?)のようにも見えるが玄武岩らしい。

子供の頃に、トロイデとか習った火山の姿のようである。釣鐘状火山とか、50年以上も昔のハナシであるが、今は何と呼ぶものか。
かんばやし里山新聞」の第6号以下に詳しい。

市茅野村 民戸三十
市茅野小唐内と云一谷あり 土地悪敷小安許 産宮村
所の名なるべし産神と云うか末にもなし 八代村道二里 本光野の出戸 奥ニ若狭境谷道ナリ 宕州川上村へ一里 川上村より山番ニ出たる百姓三軒口□外村の事ハ丹波市茅野村並同一ノ 端嶺若州坪セキヤ村に一里 間道悪 ○市茅野大唐内二谷の奥サントラ山若州と両境 サントラ山ハ俵積し如 ○丸石ありて一俵宛の如 是ヲサトラ岩と云 俗ニ小浜の市ハ是を見る故繁昌すと云 丹波の方に二ツの鬼の穴と云あり 岩を積重たる岩穴 入口四尺許 二里許奥に入で戸口あり 是より奥へ行人なし 今ハ□を破て入口なしといふ 三俵山ハ海上目当の山なり イモリケ嶽と云 ○丹波ノ方麓大唐内村奥ニ鬼の洗濯場と云ナベガ滝五尺許落 滝壷丸の鍋の形一間半四方 深四尺余 磨て清浄なりと云

大唐内村 民家三十五戸   山家領
山家へ七里 若州小浜へ七里 高浜へ三里 田辺へ四里 同村胡麻ケ嶺丹後黒部村へ一里 ○同村西へキハタ嶺市志村迄一里 ○於見谷(ノォミダニ)村 本ノ□添タリ今の市茅野大唐内ノ事也 光野 栃 市茅野 大唐内 於見ハ惣名也 光野ノ支栃村ハ其央にあり 古キ村也といふ 其内市茅野大唐内二村ハ上林七里谷の奥にて風体かはりし所也
○上林ハ山中にて地面能 百姓城下へ遠 薪出ことなし 村々限にて用杉桧なし 薪山なり 男女本より能業の所也 然ニ家居人品よく 手跡算術 嗜能所と云人の内義京に似
(『丹波負笈録』)

サントウ山     市茅野村奥
大唐地ニ 谷ノ奥若州ト丹波境ノ山ナリ 若州海へン
加賀能登見ル 海上嶋々見晴天ニ詠多シト云
(『丹波志』)

徳雲寺の奥の小字に湯屋谷・湯屋内があり、温泉の跡という伝承があるそう。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「大唐内」とみえるのが初見。
江戸時代は山家藩領。はじめ於見谷村の枝村でのち分村独立。
明治4年山家県を経て京都府に所属。同7年市茅野・栃・光野と合併し老富村となった。


栃(とち)
光野の北、若狭街道沿いに立地。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳(光明寺文書)に「栃谷」と記されるのが初見。
栃村 民家二十五戸   同領
秀吉ノ頃禁裏領京都 渡部越中守 伊予守当村に七郎ハ残りて百姓と成 子孫本家庄屋代々七郎 紋 九ニ三引 同茗荷
(『丹波負笈録』)
天文の頃は栃谷といったが、領主谷氏の苗字をさけて「栃村」と称したと伝える。於見谷村の中央にあるにもかかわらず、高を別にしているのは「丹波負笈録」にいうように「古き村」だからであろうという。
明治4年山家県を経て京都府に所属。同7年大唐内・市茅野・光野と合併して老富村となった。


光野(みつの)
上林川上流域、若狭街道沿いに散在する集落からなる。南は小中村、北は栃村、東西は山が連なるが村の中央部から西に支谷があり、光野峠を経て市志村に通ずる。
中世は上林庄の地。村名は天文年間の勧進奉加帳に「壱貫文 満野村」とみえるのが早い。永禄11年の十二所神社棟札に「光野村」とあり、当村の権守が本願となり本殿を建立している。
小中ノ支 光野村
六所ニ合テ光野六ケと云 谷奥ヘ人家アリ五十五戸 山家領
村を隔て奥に小唐地ハ光野の支
(『丹波負笈録』)
「六ケ」とは原口・船迫・尾見(於見)(おみ)・光野・田谷(たのたに)・沢田のことのよう。
江戸時代には山家藩領に属し、はじめ於見谷村の枝村、のち分村独立。文政4年(1821)村内で金山の試掘があり、近郷から排水が作毛の支障となるのではないかとの懸念が寄せらたという。
明治4年山家県を経て京都府に所属。同7年大唐内・市茅野・栃と合併し老富村となった。
光野町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市老富の一部。

《老富の人口・世帯数》 57・30


《老富の主な社寺など》

大蜘蛛神社(聖大明神)(大唐地)

集落の一番奥に鎮守の森がある。
聖大明神     大唐内村
祭ル神 聖リト云  祭礼 九月三日
舞堂 鳥居 森凡五十間四方
当社ノ調往古奥ノ山ニ人ヲ取大蜘住ケル由 草ケ部村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ退治ス 今其谷ノ名大蜘谷ト云 其聖リヲ祭ト云 并藤ノ森ト云社アリ 近江国佐々木郎等住シ其先社也ト云 子孫今有 有安村
(『丹波志』)

藤元七家と聖明神
時代は詳かでないが睦寄の里に、悪な武家くづれが徘徊、暴力勝手の振舞に人々は殊の外に難渋し不安の毎日を送った。
其の頃有安に藤元善右衛門と云ふ弓の名人あり、人々の苦しみを絶たんとして一日山上より矢を放って悪人の胸板を貫き、名声は頓に上った。(射殺現場の有安の畑の一隅には石塚が現存する)。この頃大唐地の大くも谷に大蜘蛛一族が棲み、暴ぎゃくをほしいまゝにした。安住の危機に直面した住民はひそかに善右衛門に救いを請ふた。義侠の雄善右衛門は求めに応じて大くも一族と対決し、終に其の神技によって悪霊を退治した。住民は後難を慮り一社を建立して、ねんごろに其の霊を弔ふ。大くも神社(現在の聖大明神)が即ちこれである。
恩に感じた大唐地内住民は毎年十月一日の祭礼には、善右衛門を賓客として招き最高の礼を尽すのを例とした。其の後年うつり星変って善右衛門の一家は益々栄え一族は七家にまで繁栄したが、このしきたりは連綿として続き、藤元七家と聖明神の奇しき宿縁のきづなをなしている。
昭和の今日、銀輪を連ねて参拝する藤元七家の姿を見る毎に、この香床しい伝承と、往時の伝統を今尚護って生きる大唐地の人達の篤い信仰と純心さが心温かくしのばれるのである。
(『奥上林村誌』)

大江山の 土蜘蛛を思い起こされるが、鬼伝説もあり、薬師観音があり、この聖社であるから、当地一帯は鉱山の地であったと推測される、というよりは確実視される。あとは物的証拠を見つけるだけ、見つかれば確定する。


十二所神社(光野)(於見)

若狭街道とは上林川を挟んで鎮守の森が見える。
永禄2年(1568)8月25日の銘のある本殿の棟札がある。
右に「宮移之時長楽寺光乗院同侍従公両人也、ホウリハ光野村衛門也」、中央に「当村三所権現之宮奉造立所本願光野村権守其外原口船追尾見光野田谷氏子トモ各々」、左に「大工者□(葛カ)田尾ノ大郎左衝門三郎五郎光野々彦次郎也」と記される。
十二所神社   老富町光野
本殿棟札    永禄十一年(一五六八)
 長方形 長さ一〇六・九  上幅一四・五  下幅一五・五  厚さ一・七 (単位センチメートル)
 松材 台鉋仕上

  永禄十一年 宮移之時長楽寺光乗院同待従公両人也ホウリハ光野村衛門也
当村三所権現之営奉造立所本願光野村権守其外原口船迫尾見光野田谷氏子トモ各々
  八月廿五日 大工者□尾ノ大郎左衛門三郎五郎光野々彦次郎也          (裏面文字ナシ)
(『綾部市史』)

十二所神社  於見(熊野三所権現と呼称)
祭 神  伊ざ那岐尊
現有せる棟札の文字を辿ると、「当村三所権現之宮奉再造処本願権守信衡其他原口船迫、尾見光野田各氏中ト毛各々」とあり、永禄十一年と銘記している。(紀元一五六八年)
更らに第二の棟札は文化七年庚午(紀元一八一〇年)の再建を裏書きするもので文に曰く、「三所権現神殿者、往昔何年代奉信敬處不分明、然所去永禄年中中興今文化七庚午年迄凡二百四拾三年星霜積、氏子中並六性発願当社再造諸願成就處也」。遷宮師は不動院阿闍梨法印、大工棟梁は日置村宮口平三良藤原政延と記され、これが今に伝る所の本殿である。
(『奥上林村誌』)

於見のたいこ
  音にきこえた於見のたいこ。
    七里七里(なゝさと)なりひゞく。

これが十二所神社自慢の太鼓である。文化七年(紀元一八一〇)現在の本殿が改修せられたとき、境内の大欅で作られたもので、胴の回り四・四米の偉大さを誇っている。
当時「老の坂」きつての大太鼓と云はれ、祭りともなれば兵子帯を?つちよに結んだ若い衆が、自慢の腕によりをかけて心魂を傾けて打ちならしたものであり、地の底からうなり出すような荘厳な音は谷々を圧したものである。
撥の冴えを誇る練達の士が其の技を伝承して、太鼓打ちは一つのスポーツとして永年若者達を吸収した。其の後幾星霜、野球と歌謡の全盛時代に有つては、流石の大太鼓も若者を引きつける術もなく、徒らに庫の中にへんへんとした腹を携えてうずくまっている。
(『奥上林村誌』)


臨済宗妙心寺派鵬翔山徳雲寺と薬師堂(大唐地)

手前が薬師堂、その右手の黒い屋根は徳雲寺

徳雲寺 臨済宗 文禄年中(一五九二年)の創達、境内に近隣の信仰の篤かった薬師如来を持ち、堂字の壮大さを伝えられている。若丹に交渉の多かった地域だけに、往時の盛大きがしのばれる。現在住職留守。
(『奥上林村誌』)

大唐内の薬師さん
大唐内の薬師如来は、奈良朝時代行基菩薩の作とも伝えられ、一時考古学者の研究資料ともなった。一部補修の痕跡もあって、国宝指定へのきめ手もなく其のまゝ今日に至つている。
薬師さんは耳の病や、乳の病には特に霊験あらたかとも言はれ、お礼詣りには小穴をあけた石を持ちこむ慣はしであつた。この石や納経札に記された所書きを見ると、遠く越前、越中方面からの参拝者もあつたことがが判る。大永四年(西暦一五二四年)某国の愚かた土民どもが、薬師さまのの名声を羨望して、一夜御堂に火を放ち騒ぎに乗じて、これを自国に盗み去らうとしたが、忽ち起った大雷雨に天罰を受けたとの法難記があり、信仰が遠近に及んでいたことを物語っている。
これから後五十年を経た、天正二年(一五七四年)には五間四方のきらびやかな法堂が再建され、?えて文化十五年(一八一八年)金善と云ふ奇特な人があつて四方に喜捨を集め如来の須弥壇を設けると共に、日光、月光両菩薩、十二神将を再建して面目をを一新した。
明治三年、山崩れに不幸倒壊したのを、同二十三年に至って特志の助力によって漸く再建立した。これが現存のさゝやかな薬師堂である。今に残る湯屋ヶ谷の地名や温惹石は、薬師如来の盛大を説く由緒と密接な関係があり、二十五年目毎の開扉に若丹方面から多くの参詣者を見るのも往時をしのぶよすがともなる。行基彫む薬師如来と、ことも無げにつりさげられた古色蒼然たる「わにぐち」には、地元人もより一層の関心を持つべきではたかろうか。
 元治再建の頭文
安置し奉る東方薬師瑠璃光如来は、行基菩薩の御霊作なり、時に天平十六甲申の春より、元治元甲子年に至るまで一千百二十七年の間香煙断えず、今堂宇再疲するに依つて、邑里の善男発願の志を以て、一宇を建立す。甲子十月 仏像を安座し棟上をなす。実に善いかな。
 維時元治元年甲子春
  宝木幽香秀繁々 後嶺松風漂六根
  前河清水潟三業 昔日行基念香煙
(『奥上林村誌』)


薬師堂の扉↑
薬師堂前の広場で「お松上げ」という伝統行事が行われるという。8月24日という。
大唐地のお松上げ


臨済宗南禅寺派灯王山常光寺(光野)

常光庵 臨済宗 応永年中(一三九四年)志馬権頭の開基、現在無住。
(『奥上林村誌』)


あららぎの木
光野のあらヽぎ
上林谷には「あらゝぎ」が愛玩せられ、どの庭園にも殆どと云つてよい位、中枢の位置に其の一木が植えられてある。曲りくねった幹に樹令の深さを包んだものや、抑制された姿態に永年の風雪地をしのぶもの等名木も中々に多い。
そうした中に名木中の名木として有名なのが光野のあらゝぎである。(志馬四郎氏庭園)
樹令は五百年以上とも推定され、仕立上げられた段階は大小合せて百五十にも及んでいる。元より亭々として雲にそびえる巨大さもなければ、?空を覆ふ様な魁偉さもない。併し数百年の自然の繰り返す戦(災害)にも耐え人の施す技巧にもさからはず耐え抜いた??の姿は、見る者をして   ?せしめるのももつともと思はれる。まして徳川時代を通じてこの大庄屋の? いきりたつ代官の心を和らげた名木でもあり、あけ暮れの往民の苦情に苦り切った庄屋の顔に、ゆとりと寛容を持たせたのもこのあらゝぎであらうと思ふとき、百五十のー枝々々に封建の人の世の美醜と忍苦を包んだ「歴史」の漂ふのを想ふとき、こよない親しみと懐古を味はふあらゝぎである。
(『奥上林村誌』)


ワタシは松や竹くらいならわかるが、「あららぎ」はわからない。
たぶん、    この木↑でなかろうか。
常光寺の向かい側くらい、若狭街道上より写す。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


老富の主な歴史記録


おばあさんから聞いた小唐内の話
綾部市・奥上林小 六年 家本広美
私は、おばあさんから昔の小唐内の話をいろいろ聞きました。小唐内には、昔は十四軒、家があったのだけど、昭和のはじめ頃に、三軒ほどへり、昭和二十年頃から四十年頃までに、八軒へり、今では三軒になってしまっています。昔は、工場がなかった上に冬になると大雪が降り、仕事ができないなど、不便なことが多かったので、町へ出られなかったそうです。しかし私の家は、お父さんの兄弟がたくさんいた上、おじいさんの手に職がなかったので出ることができませんでした。
今では、日東の協力工場としての「ネジ工場」を父がしているので、住みなれたここが一番いいとおばあさんは喜んで話しておられました。
次第に少なくなっていく家数ですが、昔と余り変わらないものの一つに年中行事があります。お盆には、八月十四日の朝に家族全員でお墓参りをしていたそうです。それから、お坊さんがおがみにこられるそうです。
今は特別に頼まないとお坊さんはこられません。又お坊さんは、福井県から来られることが多いそうです。そして十三日の晩には、仏様を迎えにいくそうです。お墓では、うめ墓と、参り墓と二つがありますが、二つも墓があるのはとても珍らしい風習だと、学校の先生が社会科の授業で話してくれたことを思い出しました。十四日、十五日、十六日は、町区の人達と一しょに「ばんばおどり」「ぼんのみつぼし」「かどやおどり」をおどったそうですが、今では「福知山おどり」「綾部おどり」をおどっているので、よそとちがわないと思います。昔は花火も店がなかったので、夜の十二時頃まで、おどり、歌の上手な人が歌いながらおどられたそうです。今は十五日か十六日におどります。でもほとんどの人が青年の人ばかりです。
歌といえば、市茅野には「杉のたねぎ」という唄を五十年程前に、大唐内の大塚ほうしゅうというお坊さんが作られたそうです。でも今は「杉のたねぎ」という唄は歌っていません。おばあさんから話を聞いてみると、ずいぶん今とはちがった話しがボンボンととび出しました。時々おばあさんの元気な内に聞いておこうと思いました。
(『由良川子ども風土記』)


老富の伝説


『奥上林村誌』
権之丞の墓
古和木 本谷に有名な「権之丞」の墓がある。これは壇の浦の戦に敗れた平氏の落人の墓だといわれている。古和木部落をはじめ上林谷には平氏の後裔であるという家が多い。源氏の目をのがれて僻遠の地に入りこんだものと考えられる。
古屋部落も同じではないかと考えられるが、京街道の裏街道であったため、戦略的見地から或部将が古屋に幾人かを住まわせ敵情をひそかに知らせようとの意図であったとも考えられる。

観阿弥・世阿弥の奥上林通過
謡曲観世流を始祖といわれる観阿弥と世阿弥が、時の将軍義政の怒にふれ佐渡へ流された。これが米原より北陸へぬけ る道を通らずに北桑田-洞-奥上林-若狭の道を経ていることが最近或書によってわかった。なぜ遠みちをしたのであろうか。これは米原より北陸へぬける道は非常にその時代村と村との間も遠く道も洞峠以上にけわしく難路であったことゝ今一つは中世時代舞鶴・若狭・京都の三方に通じる交通の要地として奥上林は重きをなしていたことによる。…





老富の小字一覧


老富町
スギヤケ 堂ノ下 栗林 初ケ谷 ノガハナ ミノ田 下小谷 仏法谷 ヒシリ 下戸石 有安迫 スギヤケ 堂ノ下 栗林 栗林追 風呂ノ奥 ミノ田 下小谷 仏法谷 迫根 有安迫 茶屋ケ谷 フケ 上小谷 芦谷 上戸石 堂ノ上 シヨウガ谷 奥山 木戸 在中 細ノ谷 西ガチ 池ノ谷 谷山 狼谷 的場 上柳原 下柳原 遊里ノ下 下迫 下奥口 二反田 フラ谷 川原田 上戸石 堂ノ上 シヨウガ谷 奥山 木戸 在中 畑ノ谷 西ガチ 池ノ谷 谷山 上狼谷 大谷 坂尻 本風呂 西在中 下奥谷 下奥口 柳原谷 川原田 遊里ノ上 川原 有安谷 矢黒畑 マヤゴ 西ケ迫 木和田 小谷 広畑 湯屋内 藤木本 欠黒谷 森ケ谷 鳥谷 湯屋谷 有安谷 矢黒畑 マヤゴ 森ケ谷 鳥谷 森ノ上 庵ノ谷 矢黒谷 木和田谷


光野町 田ノ谷 菅谷 山陰 ツキノ木 カウナミ 堂ノ下 柿ノ木谷 遊里ノ木 宮ノ下 門松 イガミ 舟迫 海沢田 向田 岡田 光野在ノ上 滝ケ迫 前田 奥ノ谷 食田 原口 木サシ田 カケユリ 上戸ノ木 下戸ノ木 火ノ谷 才ノ本 沢田 大迫 渋市 松本 田ノ谷 菅谷 山陰 ツキノ木 カウナミ 堂ノ下 モミノ木 布谷 橋谷 川原畑 山陰ノ下 舟迫 舟迫向 舟迫上 光野在ノ奥 光野在ノ上 ジヨウラクボ カミスキ谷 沢田上 大迫 原口ノ上 菅谷中 田ノ谷上

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福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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