丹後の伝説:12集 |
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城屋の揚松明、松上げ、上げ松、万燈、他
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『舞鶴市史』に、 雨引神社(舞鶴市城屋)の揚松明神事の伝説。
揚松明(城屋) 「高野村現勢調査書」による説 「高野村城屋の雨引神社で行われる毎年の行事であるけれども、その起源は詳でない。古老の伝説を聞くと、昔本村開拓の際に田圃稍開けて人民が多く来て住んだ。然るに、日照りが長く続いて少しも雨降らず、遂に五穀は皆枯れようとした。それ故人民どもは非常に因っていた。時に一人の偉人があって之を憂い、自ら日浦ケ岳の水源を探し荊棘を啓き、辛うじて一神池を発見した(現に池ケ谷といって一つの小さな池がある)。また神の吉を得て、一大松明をともし、大に神を祭り雨の降ることを祈った。是から風雨は順調に来て五穀は豊熟した。それで村民はその神霊を安置して雨引神社としたということである。 降って中頃天保年間に大に旱した。旧藩主牧野侯は近郷(加佐郡中部十九ケ村)の民をして、共同して大松明を奉らしめたのに、神霊の感応があって、大雨ハイ然として来た。領主及近郷の者は挙ってその神徳を称えた。それより参詣する者は常に絶えない。毎年七月十四日この大松明を点火して例祭とするのである」。 「舞鶴」による説 「舞鶴町を西南に距る里余、高野村城屋に雨引神社といって水分神を奉祀した村社がある。俗に「蛇神さま」と称え、毎年陰暦七月十四日の夜揚松明の行事があって、その伝説には実に奇妙なるものがある。 今を距る三百余年前、後奈良天皇の弘治年間に一色氏の遺臣森脇宗坡という郷士が、この村字女布に住んでいたが、その長女が何鹿の郷士赤井氏に嫁し、三日の里帰りのため、城屋の日浦が谷を越したところ、この谷に棲む大蛇のため喰われた。そこで宗坡は大いに怒って、直ちに馬に乗って城屋に馳せ、日浦が谷に至り、岩の根に駒の蹄を止めて、谿間に延々たる彼の大蛇を射た。ところが、大蛇は忽ち爛々たる眼を怒らし、毒焔を吐いて宗坂に向って押し寄すると、見る間に暴風は脚下に起こり、霹靂は頭上を掠め、猛雨ははい然としていたり天地めいめい山谷鳴動して、物凄いこと到底名状することも出来ない。宗坡は止むを得ず轡をめぐらして隠迫というところへ退き、その谿間に身を構えて、猛り狂うて追って来る大蛇を射止め、これを三断した。すると、雨ははれ風は収まり、夕陽は赤く宗坡を照らして、さながら勝ち誇る郷士を擁するが如くに見られた。かくて宗坡は大蛇を退治したが、たとい愛娘の仇とほいえ、すでに討ちとつた以上、大蛇の霊は天に帰したのであるというので、その菩提を弔うため三断した頭部を城屋に祀り、腹部を野村寺に祀り、尾部を由里に祀ることにした。その城屋に祀られたのが即ち雨引神社で野村寺のが中の森神社、由里のが尾の森神社であるという。そしてその大蛇の鱗片は、今も宗坡の後裔に伝え蔵せられているとの事。 これから雨引神社が雨乞いの神として崇敬せられ、また宗坡が蛇を退治たという陰暦七月十四日には、大蛇が焔を吐くのに因んだ揚松明の祭典が行われることになったのである」。 雨引神社の「揚松明神事」 「城屋の揚松明'13」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」 「城屋」 「雨引神社」
『舞鶴市史』より 揚松明(城屋)
古くから「城屋の揚松明」として近郷に知られたこの奇祭は、天引・天曳とも称された雨引神社(城屋)の例祭(八月十四日)に奉納される行事で、江戸時代は六月九日、その後は陰暦七月十四日に行われたと史料に記されている。 これは清浄な麻殻で組んだ摺鉢形の大松明を作り、神幣を奉祀して高く掲げ、潔斎した氏子達が手に手に神火をつけたい松明を投げ当てて、点火するもので、大松明に移った火は夜空を焦がして壮観である。 もともとこの行事は、民俗的には農作物の豊凶にかかわる「雨乞い」の信仰的な共同行事で、その中でも古型をとどめたものといわれている。 史料「加佐郡旧語集」にも「大松明の祭、めづらしき祭にて年の豊凶を試」と記していることから、江戸中期には既に行われていたことが分かる。 しかし、この行事は、その日取りから推して盆行事の一環となる精霊供養に共通するものがあって、いつの間にか神仏習合の信仰が、このような形を残すことになったのかも知れない。 雨引神社の「揚松明神事」 「城屋の揚松明'13」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」 「城屋」 「雨引神社」
『加佐郡誌』(大正14年)に、 城屋の揚松明(舞鶴による説)。
舞鶴町を西南に距る里余高野村城屋に雨引神社といって水分神を奉祀した村社がある、俗に「蛇神さま」と称へ毎年陰暦七月十四日の夜揚松明の行事があるが、その伝説には実に奇なるものがある。今を距る三百余年前後奈良天皇の弘治年間に一色氏の遺臣森脇宗坡といふ郷士がこの村字女布に住んでいたがその長女が何鹿の郷士赤井氏に嫁し三日の里帰りのため城屋の日浦が谷を越したところこの谷に棲む大蛇のために喰はれた。そこで宗坡は大いに怒って直ちに馬に乗って城屋に馳せ日浦が谷に到り岩の根に駒の蹄を止めて谿間に蜿蜒たる彼の大蛇を射た、ところが大蛇は忽ち爛々たる眼を怒らし毒焔を吐いて宗坡に向って押し寄すると見る間に暴風は脚下に起こり霹靂は頭上を掠め猛雨は沛然として臻り天地晦暝谷鳴動して物凄いこと到底名状することも出来ない、宗坡は止むを得ず轡をめぐらして隠迫といふところへ退きその谿間に身を構へて猛り狂ふて迫って来る大蛇を射止め、これを三断した、すると雨は霽れ風は収まり夕陽は赤く宗坡を照してさながら勝ち誇る郷士を擁するが如くに見られた。かくして宗坡は大蛇を退治したがたとひ愛娘の仇とはいへすでに討ちとった以上蛇の霊は天に帰したのであるといふのでその菩提を弔ふため三断した頭部を城屋に祀り腹部を野村寺に祀り尾部を由里に祀ることにした。其の城屋に祀られたのが即ち雨引神社で、野村寺のが中の森神社、由里のが尾の森神社であるといふ。そして其の大蛇の鱗片は今も宗坡の後裔に伝へ藏せられているとの事。これから雨引神社が雨乞ひの神として崇敬せられ又宗坡が蛇を退治したといふ陰暦七月十四日には大蛇が焔を吐くのに因んだ揚松明の祭典が行はれることになったのである。 その揚松明は長さ五丈の大木の梢頭に麻殻で組んだ径八尺以上の摺鉢形の大松明に、中央高さ三丈以上の青竹を付けその梢には神帯を奉祀してこれを全村民で押し起こし、時刻になると村内の少壮男子はともに潔斎して各自に小松明を携へて神火を点じ、大松明の周囲を取り巻いて一斉に哄声を挙げ、手にせる小松明が梢頭の鉢内に止まると火は忽ちにして麻殻に移り火焔は天を焦がし爆竹の音深山に谺して壮観実に例へ様がない。そのやがて燃終らうとする頃引き止めた大綱を緩めてこれを地に倒すのであるが、そのさまは恰も火焔を吐ける獰猛な大蛇の最後に似て凄々言語に絶する。竹梢の神幣は火焔の中にあっても常に一点の火傷を受けられる事もなく無事これを神殿に奉祀するのであるが、その神幣の大松明の梢頭から倒れ落ちた時、雨のやうに降り来る火の粉を冒してそれを取り出して神殿に奉祀する名誉ある任にあたるものは、先頭第一に梢頭の鉢内に小松明を止め得た青年で、この青年は全村謳歌の中心になるといふことである。 白雲山城址。位置、高野村字女布中筋村字京田の跨る。事蹟、山頂に平地が四ケ所ある。昔一色家の麾下本郡中筋村の郷士森脇宗坡の城跡であって、細川氏のために攻陥されたと云ふ。其の子孫は農民となって世々高野村に住み末葉が今尚ある。曾て永禄の頃に宗坡は本郡に愛宕の祠を建てた。同山の祠数は舞鶴円隆寺の記録に詳である。又宗坡の女に丹波何鹿郡志賀郷村の郷士赤井氏に嫁しているのがあって、弘治の頃その女が宗坡の宅に帰へる時、嶺を越えて城屋の日浦岳に来たとき、傍にある池から大蛇が出て其の女を殺した。従者は非常に驚き畏れて直ちに帰へって之を告げた。宗坡は之を聞いて大いに怒り急いで馬に乗り其の場に行って岩石に馬足を固め彼の蛇を射た。蛇は屈せないで猛烈に向って来た。宗坡は豁間に寄って其の蛇を三断した。その鱗片は今尚森脇家に所蔵していると其の蛇の出た池跡を蛇が谷といふ。 『舞鶴』(大正12年発行)がよく引かれるが、それには次のようにある。(こまかくルビがふられているが省略) 揚松明
舞鶴町を西南仁距る里餘高野村字城屋に雨引神社といって水分神を奉祀した村社がある、俗に「蛇神さま」と称へ毎年陰暦七月十四日の夜揚松朋の行事があってその伝説には実に奇なるものがある。 今を距る三百餘年後奈良天皇の弘治年間一色氏の遺臣森脇宗坡といふ郷士がこの村字女布に住んで居たがその長女が何鹿の郷士赤井氏に嫁し三日の里帰りのため城屋の日浦か谷を越したところこの谷に棲む大蛇のために喰はれた、そこで宗坡は大いに怒って直ちに馬に騎して城屋に馳せ日浦か谷に到り岩が根に駒の蹄を固めて谿間に蜿蜒たる彼の大蛇を射た、ところが大蛇は忽ち爛々たる眼を怒らし毒焔を吐いて宗坡に向って押し寄すると見る間に暴風は脚下に起こり霹靂は頭上を掠め猛雨は沛然として臻り天地晦瞑山谷鳴動し物凄きこと到底名状することも出みない、宗坡は止むを得ず轡をめぐらして隠迫(かくれざこ)といふところへ退きその谿間に身を構へ猛り狂ふて追って来る大蛇を射止めこれを三断した。すると雨は霽れ風は収まり夕陽は赤く宗坡を照らしてさながら勝ち誇る郷士を擁するか如くに見られた、かくして宗坡は大蛇を退治したがたとひ愛娘の仇とはいへすでに討ちとった以上大蛇の霊は天に帰したのであるといふのでその菩提を弔ふため三断した頭部を城屋に祀り腹部を野村寺に祀り尾部を由里に祀ることにした、城屋に祀られたのが即ち雨引神社で野村寺のが中の森神社由里のが尾の森神社であるといはれその大蛇の鱗片は今も宗坡の後裔に伝へ蔵せられ雨引神社が雨乞ひの神として崇敬せられ又宗坡が蛇を退治だといふ陰暦七月十四日には大蛇が焔を吐くのに因んだ揚松明の祭典が行はれることになった。 その揚松明は長さ五丈以上の大木の梢頭に麻殻で組んだ径八尺以上の摺鉢形の大松明に中央高く三丈以上の青竹を附けその梢に神幣を奉祀しこれを全村民で押し起こし時刻になると村内の少搬男子はともに潔齋して各自に小松明を携へ神火を點じ大松明の周囲を取り囲み一斉に哄声を挙げて手にせる小松明を揚げる、而してその小松明が梢頭の鉢内に止まると火は忽ちにして麻殻に移り火焔は天を焦がし爆竹の音深山に谺して壮観いふべくもあらず、そのやがて燃え終らんとする頃引き止めた大綱を緩めてこれを地に倒すそのさま恰かも火焔を吐ける獰猛な大蛇の最後に似て凄々言語に絶する、竹梢の神幣は火焔の中にあっても一點の火傷を受け給はず無事これを神殿に奉祀するのであるがその神幣の大松明の梢頭から倒れ落ちた時雨の如くに降り来る火の粉を冒して取り出し神殿に奉祀する名誉ある任にあたるものは先頭第一に梢頭の鉢内に小松明を止め得た青年でこの青年は全村謳歌の中心になるといふ。
『京都の伝説・丹後を歩く』に、(伝承探訪も) 楊松明の始まり
伝承地 舞鶴市城屋 今から三百年余り前、後奈良天皇の弘治年間(一五五五−五八)に一色氏の遺臣森脇宗坡という郷士が高野村(現舞鶴市)女布に住んでいた。そして、その長女が何鹿郡(現綾部市・福知山市)の郷士赤井氏に嫁ぎ、三日の里帰りをするために城屋の日浦ヶ谷を越そうとしたところ、この谷に棲む大蛇に食われてしまった。そこで、この宗坡は大変怒ってすぐ馬に乗り、日浦ヶ谷まで駆けてきて岩の根に馬の蹄を止めて谷間に長々と這っている大蛇を弓矢で射た。ところが、大蛇は爛々と眼を光らせ、毒焔を吐いて宗坡に向かって押し寄せた。そして、見る見るうちに激しい風が足元を吹き荒れ、雷鳴が頭上にとどろき、豪雨は激しく降り注ぐ。天地は真っ暗、山谷は鳴り響き、その物凄いことはいいようもないほどであった。宗坡は止むなく馬を返して隠迫というところへ退いてその谷間に身構えた。そして、そこで猛り狂って追ってくる大蛇をついに射止め、それを三つに断ち切った。すると、雨は晴れ、風は収まった。 こうして、宗坡は大蛇を退治した。しかし、この大蛇は愛娘の仇ではあるけれども、討ちとつたということで、その頭を城屋に、その胴体を野村寺に、その尾を由里にそれぞれ祀ってその菩提を弔った。この城屋に祀られたのが雨引神社、野村寺に祀られたのが中の森神社、由里に祀られたのが尾の森神社であるという。また、大蛇の鱗は今も宗坡の子孫が持ち伝えているということである。 このことによって、雨引神社は雨乞いの神として崇敬されるようになり、また宗坡が大蛇を退治したという旧七月十四日は大蛇が火焔を吐くのに因んだ揚松明の祭りが行なわれるようになったのである。 (『加佐郡誌』) 〈伝承探訪〉 この伝説は神社の鎮座・祭祀の由来伝承である。大蛇を退治し、それを祀るというのは、あばれる川を鎮める一方で農業用水を願うという水神信仰に基づく。 高野川は、西舞鶴の町を貫流する二大河川の一つで、初夏にはウグイが群れをなして遡上する清流である。この町の市街地を抜けて、高野川沿いに高野由里・野村寺を通って三キロばかり行くと、城屋の集落にたどり着く。高野田里・野村寺のあたりでは、左岸は山が迫っているが、右岸は平坦で、水田が広がっている。 城屋集落のなかで、川はほぼ直角に流れの向きを変える。雨引神社はその流れが変わる川のほとりに鎮座する。水の勢いのもっとも激しいところである。また、大蛇が棲んでいたと伝えるのはこの川の水源にあたる小池だ。そこから水が流れ落ちる日浦ヶ谷の川のほとりには森脇宗坡が立てた槍の跡を残したという岩や乗った馬の蹄の跡がついたという岩がある。 森脇宗坡は戦国時代、女布城の城主だった人物である。その子孫の一族が女布にあり、その本家森脇清水氏宅には大蛇退治の証の品として大蛇の鱗と古文書(江戸時代後期)が代々伝えられている。この一族は大蛇を祀る雨引神社に参詣することが戒められているという。古代や中世のこのような伝承の場合、祭祀執行の家であることを主張することが多い。たとえば、『常陸国風土記』には草原に標む蛇を山に追い立てて、神の世界と人の世界との境界を定め、代わりに蛇を神として祀るようになったという箭括麻多智という人物の家の伝承が載せられている。しかし、ここでは雨引神社の祭祀とは直接に関わらない。このところに伝承の近世的なあり方がみられよう。 揚松明の行事は京都市北部の花背・広河原や若狭などでも行なわれる夏の火祭りである。舞鶴では久田美などでも行なわれていた。雨引神社では農作の豊凶を占うものとされるように、水と関わる農耕の信仰と結びついたため、この伝説はその祭祀の由来を説くものとして語り出されたのであろう。
『火まつりの里 城屋』より、 一、雨引神社と揚松明
・祭神 水分神 ・由 緒 農耕水利を司る神 古代の先祖は農耕が主であり、水はなくてはならないものであり、早ばつをうれえて水分の神を氏神として祭り豊作を祈ったのが始まりである。又、弘治二年(一五五六年)一色氏の遺臣森脇宗坡という郷士が日浦が谷に棲んでいた大蛇を退治し雨引神社に合祀したことから別名蛇神様ともいう。 雨乞いのため火を焚く習慣は以前から行われていたが、この大蛇を合祀するようになってから揚松明という神事が今に継承されるようになった。毎年八月十四日(以前は旧暦七月十四日)に祭礼が行われる。当日夜の九時頃より宮司の祈とう、太鼓のねり込み、行事に参加する青年の清流でのみそぎ、小松明への神火の点火、大松明へと神事が行われる。この揚松明の行事は舞鶴市の無形文化財(昭和四十年五月三十日)に指定され昭和六十二年(一九八七年)四月十五日には京都府の無形文化財にも指定されている。 ●城屋の揚松明(例祭=八月十四日) この奇祭は江戸期六月九日、後陰暦七月十四日に行われていた。享保二十年(一七三五年)の史料田辺旧語集にも「大松明の祭りめずらしき祭りにて年の豊凶を試」としるされていることから、よほど古い頃からの行事であることがうかがわれる。 又、水分神にかけた雨乞いの神事、揚松明と水にかかわりのある大蛇の伝説が合致して今の行事が継承されるようになったと推測される。 揚松明は当日、早朝より区民全員(今は半数)が出て、高さ五丈三尺(約十六米)の大木に麻殻で組んだすり鉢形を上部に取りつけ大松明を作る。尚、この大松明の上には真竹をたて、その先端に御幣をまつる。境内に出来上った大松明は立てられ倒れないよう三方に大綱が張られる、杆の詰をして出来上る。 午後十時頃、城屋区内の青年達が神火をつけた小松明を手に手に持って大松明のまわりをとりまき一斉に投げ上げる。やがて大松明に点火されるとしばらくして夜空を焦がす壮観な姿となる。数分後、御幣の竹が爆音と共に落下する。この落ちる方角によって古老達は今年の作物の豊凶を占ったという。
『舞鶴の民話1』より、 蛇神様 (城屋)
わたしの住んでいる女布は、もっと田んぼや畑が多く、今の女布のお寺のあるところに家か十五、六軒あるだけだった。 今から四百五十年程むかし、このあたりの殿様は一色という人で、その家来で女布あたりをおさめていたのが森脇宗坡という この人の娘さんは、綾部のさむらい糸井という家にお嫁さんにいっていました。里がえりをするため佐七というお供をつれて城屋の日浦の谷の方を歩いていました。ながい道を歩いてきたので汗がいっぱいで、足がへとへとにつかれていました。山の屋根にさしかかると、体がぞくぞくするような冷たい風がぶゅうと吹いてきます。娘も佐七も何かこわい気持でいっぱいで、佐七は思わず後を見たり、左右をみたりしていました。前よりももっと、なま冷たい風がびゅうと吹いてきました。そのとたん、娘の体かふわりと浮いたと思うと、大風にのったように「アレー」とさけび声と共に、娘は大きな口をあけた大蛇の赤い口の中へ吸いこまれるように姿が消えてしまった。腰をぬかした佐七は、はう様にして城屋、野村寺を通って女布の森脇家へ逃げて帰りました。びっくりのあまり、しばらく話もできなかった佐七は、まっさおな顔でびくびくしていました。宗坡は佐七を落ちつかせ、娘はどうしたのかと尋ねました。佐七は大きな息をふーっとすると共に、日浦が谷であったことを口早にお話をしました。宗坡は自分の娘が大蛇にのみこまれたことを知り、怒った顔はすさまじく、七月十三日の朝早く、山着に身をかため家来をひきつれ、馬にまたがり城屋の奥の日浦が谷に入った。そこには大きな池かある。「娘をのんだ大蛇出てこい、私と勝負せよ……」と声高らかにいうと、ものすごい嵐と共に雨がざあーと降ってきた。 とたん大蛇が二つの目をらんらんと光らせてこちらに向ってきた。家来たちはこわがり、地にかがんでしまった。宗坡は弓をしぼり、弓をつがえて大蛇の目をめがけてひょーといた。矢は頭にあたったが、矢ははねかえるだけ。宗坡は再び一番強い矢をえらんで目をねらった。矢はみごとに左の目にぐさっとささった。しかし大蛇はびくともしない。家来たちも、ようやく気がつくと、「わー」と大きな声をそろえていった。宗坡の乗った馬は前足をあげ進もうともしない。大蛇の片目はまた大きくこちらをにらみつける。宗坡は家に帰ってもっと強い矢を持ってこなくてはだめだと、大蛇をにらめつつ女布の家へとひきあげた。 翌日の十四日、今日こそは娘のかたきを打つぞと、馬に乗った宗坡は、力のつよい家来を従がえて再び日浦が谷にやって来た。 大蛇はまちかまえるように、宗坡の方へ大きな赤い口をあけてむかってきた。宗坡は身がまえ、大蛇が近ずくりを待った。そうそこに赤い口からべらべらと舌が見えるところまで来た。宗坡は満月のように弓をひき、一番強い矢をつかえ、さーつとはなした。弓はねらいたがわず、右の目を射ぬいた。両眼を失なった大蛇は行き先がわからず、頭をあげるだけだ。宗坡は家来たちと共に、大蛇の胴を三つに切った。これで娘をうばった大蛇も天にかえっただろうと、宗坡はその三つに切った胴の一つを城屋に、腹のところを野村寺に、尾のところを由里におまつりした。 頭をまつったのが雨引神社です。この大蛇が両眼なくなった時、空がくもり、どっと雨が降り、娘を天に呼びよせるように七色の虹がかかった。いつの間にかこのお宮さんが雨引神社と呼ばれるようになった。 その後八月十四日夜、ドンドコたいこをならし、大たいまつがメラメラ燃えあがり、身を清めた城屋の若者が小たいまつを投げつけるお祭、火の紛がとび散るなか、村人が手を合せて祈る。 揚松明(あげたいまつ)は大蛇が火をはくのによく似ている。雨の少いときは、この社でおがむと、雨を呼ぶ、お米か豊作になる。今だにこのお祭りはつづいている。
『舞鶴の民話1』より、 雨引の宮 (城屋)
高野川の上流に農家がまだ少い頃、田畑を耕し出来た作物を田辺まで運んで生活をしていた。水に不自由することなく、毎年豊作であった。 しかしこの年は梅雨もほとんど雨が降らず、毎日照の日が続いた。このままでは作物は枯れてしまう稲もできないだろうと村人は心配した。高野川の水もほとんど流れていなかった。今まで水に困らなかった村人は毎日のようにその対策に相談をしたが、これといってよい案が浮ばなかった。 ある貧しい人があった。常日頃は村人からは重んぜられることはなかったが、この村人たちの心配をなんとか救おう、それには水源を作るか、見つけるしかない。昔おじいさんから山奥に池があることを聞いていた。そこは木がおいしげり、道という道はなく、村人たちも行ったことはないし、魔ものが住んでいるというのであった。もしもその池に水があれば、溝を作ったら村へ水を流すことができる。彼はそう思いたったら、山行きの服装をして、日浦ヶ谷の方へ向った。道はなく、木がおい茂り、つるが行き先をふさぐ。ばたばたと山鳥がびっくりしたように飛び立つ。だけどカマで行き先の木や草を刈りながら、峠をあがっていった。 うすぐらいこもれ日がさす、何か魔物がでてきそうである。男は水、水、水と口ずさみながら進んだ。向うの方に木の茂りが少い日の光の明るいところが見える。もしかしたら、男は先をいそいだ。峠の坂が少しゆるやかになった。平らになった。眼前にまっ青な水を一杯ためた池。 「池だ、池だ」 男は思わず飛びあがって喜んだ。神に感謝した。(今も池ケ谷といって小さい池がある) 雨がながく降らないのに、この池の水は一杯である。男は常日頃信心している神に池の水を見ながら「村人を救って下さい、できれば雨を降らして下さい」と祈った。村人たちにこの事を知らせると共に夜になって一大松明をともし、神に水がさずかるように祈った。 不思議なことに、西の空に黒雲かあらわれ、ぽつりぽつり雨が降ってきた。村人達は手をとりあって喜んだ。たいまつは空高く燃える。村人はたいまつを投げ入れた。雨はざあざあと降る。村人は口をあげて雨水を飲んだ。作物はこの一雨で生きかえり、この年は豊作となった。 村人は喜び、その神霊を安置して社を作った。その名を雨引神社と名づけた。 その後再び天保年間に、ひどい干ばつがやって未た。田辺の城下でも困る農民で殿様のところへ何とかしてもらえないかと願いが相ついだ。牧野の殿様は命令し、近くの民を集めて雨引神社に大松明を奉納するようにいった。村人たちは大きな松明に小さい松明をなげつけ、夜赤々と社の前でお祈りした。大松明が燃えさかる頃、雨がぽつりぽつり降り、恵みの雨に村人、近郷の人は喜び、神に感謝し神徳をたたえた。 その後もこの神社は雨の社として参けい者がある。
『ふるさと女布』より、 大蛇退治
今から四百余年前、後奈良天皇の弘治年間(一五五五−一五五七)に一色氏の遺臣森脇宗坡という郷士が女布に住んでいたが、その長女を何鹿の郷士赤井氏に嫁がせることになった。森脇家ではいろいろ輿入れの用意が整った。 ある日、にわかに姫は城屋の「蛇が池」を見物に行きたいと乳母に願った。乳母は、蛇が池と聞くと気味悪く思ったが、姫の熱心に動かされて、とうとう蛇が池へ行くことにした。姫は喜び勇んで蛇が池に行った。静かなあたりの景色を眺めながら、姫は夢中に池の回りを逍遙した。乳母は気味悪く思いながら青み渡った水面を眺めていた。その時、乳母の前を一匹の小さい姫蛇がチョロチョロと横ぎった。乳母は身ぶるいした。そんなこととは露知らぬ姫は 「ばあや、なんといふ静かないい気持のする所でしょう。私はここへ来ると、たまらなくいい気持になります」 「お姫様、でもここは蛇が池といって世間の人々もいやがっております。あまり長くなってはご両親様が御心配遊ばされますから」 「ばあや、ありがとう。私はいい気持になりました。ではおそくなってお父様やお母様にご心配をかけてはすまないから、そろそろ帰りましょう」 「お姫様はかしこうご座います」 姫は名残り惜しげに蛇が池を後にした。しばらく行くと向こうの方から若人がトボトボと登って来る。近づけば近づく程、美目秀麗の若衆です。乳母は池のほとりの蛇といい、又こんな所へただ一人こんな美しい人………。と思えば思う程、気味悪くなって来たが、素知らぬ顔で歩を進めた。姫は何かしらその若人がなつかしくなって一寸振り返った。若人も振り返って姫を見てニコッと微笑んだ。その顔………。 姫は目に見えぬ力に引かれる思いで乳母に従った。忘れようとしても忘れることの出来ないその顔、姫は今一度と乳母に願ったが、乳母は聞き入れなかった。 やがて嫁ぐ日となった。美しく着飾った姫は、今一度蛇が池に、そしてあの若衆に…………と思いつつ、城屋の蛇が池の方角を見守った。とその時、庭の植え込みの中からカサカサと音がして小さい小さい姫蛇が出てペロペロと舌を出し、また植え込みの中へ姿を消した。それを見ると姫は真青になり室の中へとび込んだ。ほどなく出発する時刻となった。と今まで晴やかに澄みきっていた空が急にかき曇り、大雨が降り出した。姫は雨中を賑やかに送られて嫁いで行った。ちょうど日浦が谷まで来たとき、姫の駕篭を担った駕篭かきがコクリコクリと居眠りを始めたが、他の人々に励まされて無事に峠を越し、赤井氏に嫁いだ。 今まで懐かしかった蛇が池も、なんだか気味悪く頭から去らなかった。その中に里帰りの日となった。姫は里へ行くのは嬉しいが、なんだか蛇が池が案じられて、進まぬながら家を後にした。日浦が峠の蛇が池まで来ると、姫は恐る恐る駕篭のすき間から一寸池を眺めた。ばあやと来たときと同じ様に、静かな池の面は波一つ立っていない。「でもまあ気持の悪いこと」と思った。その途端、池の中央が二つに割れて見るも恐しい大蛇が現れ、姫の駕篭目がけて飛びかかった。あっという間もなく姫を丸呑みにした大蛇は、素早く池の中へ姿を消した。供人はあわてふためきつつ森脇家へかけつけた。 これを聞かれた宗坡は烈火の如く怒り、弓を小脇に日浦が谷へ馬を走らせた。蛇が池まで来ると小さい小さい姫蛇がチョロチョロと出て来た。 「己れにくき大蛇め、姫を呑んだは彼奴だろう。姫の仇敵もう一度もとの姿になれ!」と大声に叫んだ。とたんに嵐のような凄さまじい音と共に小蛇は大蛇と変わり、爛々と眼を輝かし毒焔を吐いて宗坡に向かった。宗坡は岩の根に馬の蹄を止めて蜒々たる大蛇を射た。と見る間に暴風が起こり霹靂は頭上を掠めて、猛雨沛然として至り、天地晦瞑山谷に鳴動して物凄いこと到底名状する言葉もなし。宗坡は止むを得ず轡をめぐらして隠迫という所へ退き、その谿谷に身を構えて、猛り狂って追ひ来る大蛇を射止め、その大蛇を三断した。すると雨は晴れ、風は収まり、夕陽は赤く宗坡を照して、ちょうど勝ち誇る郷士を祝福するかの様に見られた。 宗坡は大蛇を退治したが、たとい愛娘の仇とはいえ、既に討ち取った以上、大蛇の霊は天に帰したのであるというので、その菩提を弔う為、三断した頭部は城屋に祀り、腹部は野村寺に祀り、尾部は由里に祀ることにした。そして城屋に祀られたのが「雨引神社」すなわち蛇神様で、野村寺のが「中の森神社」、 由里のが「尾の森神社」である。 その大蛇の鱗片は今尚、宗坡の後裔に伝え蔵せられているとのことである。これから雨引神社が雨乞いの神として一層崇敬せられる様になった。又(旧暦)七月十四日には大蛇が焔を吐くのに因んだ揚松明が行われることになったのである。 (注)揚松明は現在八月十四日の夜に行われている。
明治15年7月の『城屋村誌』正副2冊が西舞鶴図書館に残されている。同じ時に野村寺村、女布村、高野由里村の村誌も作られている。和紙に毛筆で記された、簡単な記録であるが、揚松明と蛇神伝説についての最も古い書かれた記録である。伝説は女布の森脇家系図に見えるものという。 『城屋村誌』(明15.7)
○天山高壱丁五間本村ニ係ル林麓ヲ側ル今八丁五間本村ノ南ニアリ西面ハ本村ニ属シ余ハ十倉村真倉村女布村ニ属シ山脈西ノ方日浦山ヨリ来リ千石山ニ連ナル野山ニシテ本村外六ケ村ノ入会山ナリ登路五條一ハ本村ノ西北女布谷ヨリ上ル高貳拾六丁貳拾六間余ハ女布村真倉村京田村十倉村ヨリ上ル渓水一條深尺ニ充タズ廣壱間則高野川ノ水源ナリ本山ノ嶺ヨリ北百八歩ニ位ヒシテ東西三拾間南北貳拾五間ノ池アリ昔時大蛇潜伏シテ行人ヲ害スル屡々ナリ弘治頃本郡女布村ニ中筋ノ郷士森脇宗坡ノ女丹波国滋賀郷士ニ嫁スルモノアリ談女偶々丹波ヨリ女布村ニ来タルノ途談池ノ辺リヲ過リ大蛇忽チ来テ其女ヲ呑ム宗坡之ヲ聞テ大ヒニ怒リ走リ来テ其蛇ヲ打チ之ヲ三断シテ三ヶ所ニ埋ム則チ頭部ヲ本村雨引社ノ側中部ヲ野村寺村中ノ森ニ下部ヲ高野由里村尾ノ森ノ社ニ埋ムト云夫ヨリ談池ハ草芒茂生シ正中ニ一ノ杉樹ヲ植ユ又談池ニ至ルノ通路ニ大ヒナル岩石アリ馬蹄形アルヲ以テ欠ケテ駒ノ爪ト云ヒ其側ラニ槍建石アリ宗坡蛇ヲ打ツノ際是ノ所ニ息フト云 ○雨引神社村社東西参拾間南北拾壱間面積参百貳拾七坪本村ノ東ニアリ水分神を祭ル一ノ森林ニシテ境内ニ老木アリ「タモノ木」多シ例祭九月十四日村民挙テ松明燈ヲ点火シテ空中飛散セシムル 『女布村誌』(明15.7) 古跡 古城白雲山ノ頂ニ平地四ヶ所有リ古、一色家ノ麾下本郡中筋ノ郷士森脇宗坡ノ城跡ニシテ細川氏ノ爲メニ陥サル其子孫農民トナッテ世々本村ニ住シ末葉今尚存ス曽テ永禄ノ頃宗坡本郡愛宕ノ祠ヲ建立ス仝山ノ祠務舞鶴円隆寺録記ニ詳ナリ又宗坡ノ女丹波国滋賀ノ郷士赤井氏ニ嫁スルアリ弘治ノ頃談女宗坡ガ宅ニ帰寧ス山嶺ヲ越ヘ城屋村日浦谷ニ及ブ頃此辺ラナル池ヨリ大蛇出テ其女ヲ呑ム従者驚キ畏レ直チニ之ヲ告グ宗坡聞テ大ニ怒リ條忽騎シテ其場ニ到リ岩石ニ馬足ヲ固メ彼ノ蛇ヲ射ル蛇猛烈屈セス向ヒ来ル宗坡谿間ニ寄テ其蛇ヲ斫リテ三断因テ其頭部ヲ城屋村雨引神社内ニ埋メ中部ヲ野村寺村中ノ森ニ下部ヲ高野由里村尾ノ森社内ニ埋ムト森脇家ノ系図ニ有談蛇ノ鱗廿許今仝家ニ所蔵ス因テ其蛇ノ出シ池跡ヲ池ノ宮ト称ス又宗坡馬立シ固メシ岩石ヲ駒ノ爪ト称ス石面ニ馬蹄ノ形跡アリ又蛇ヲ斫シ跡を討場ト字ス共ニ城屋村ノ内ノ地名ナリ方今城跡ハ過中京田村ニ属ス テレビ放送されたもの。 札幌テレビ。2013年8月11日9:55〜10:55 『マハトマパンチ』1ROUNDパンチ「日本のユニーク祭り」の1コマ。(↓動画が見られない場合はリンクをクリックしてみて下さい、見られるかも…) ヘビを三断したという話は同市与保呂の日尾神社の伝説「蛇切岩」にも伝わる。何故に三断なのかと以前から不思議に思っていた。日尾は火尾か樋尾、あるいは火男(片目のヒョットコ)で、たぶん鉱山に関する神社であろうかと思う。雨引神社も恐らくもとは鉱山の神社である。蛇といえば水神と決まったように言われるが、まじめに再検討のときである。もっと深い層がありそうに思われる。八岐大蛇を持ち出すまでもなく、ヘビも金属と関係が深い。 伊奘諾が伊奘冊のホトを焼いて殺しながら生まれた軻偶突智を三段に切ったという話が記紀にある。ホトは女性の隠部とされるが、火処であろうか、カグツチのカグというのも銅などの金属を意味している。そしてその切った各々に神が成ったという、その神々が鉱山と関わりそうなものである。こうした記紀神話とものとなにほどか繋がるかも知れない。カグツチのツチはツチノコのツチで蛇のことだろう。軻偶突智とは銅が溶けて流れる様を蛇で表現したものであろう。 元々は世界樹・生命樹の伝説であり、それは蛇として金属と結びつき、泉として水神とも結びつく。のではなかろうか。 『加悦町誌』に、 滝谷の蛇明石の滝谷に草刈りにいった男が、大蛇を見つけ、切れもので、首・胴体・尾を切り離し、棒賀・大代の荒神山並びに須代神社の一本松の下に埋めた。その後、その男の主家は滅んで、その男はここにおられなくなった。 明石というのは赤石のことで、鉄鉱石のことだろうと言われる。明石には蛭子山1号墳(170メートルの前方後円墳)がある、その下を流れる小川は写真のように鉄で赤い。 須代神社には1893年に裏山から出土したという銅鐸が伝わる。そんなように何か金属と関係がありそうな所に大蛇三断の伝説があるようである。ここの北側の野田川町四辻の穴石神社にも大蛇三断伝説が伝わる。 「穴石神社由緒」 この銅鐸について梅原末治の報告を『与謝郡誌』は載せている、 須代神社発見の銅鐸
桑飼村字明石須代神社境内明治三十八年八月発見せるものにて本府大正八年出版史蹟名勝調査報告書第一冊に次の如く載せたり.今同村小学校に保管す。 桑飼村明石須代神社境代発見ノ銅鐸 村ノ共同有ニシテ市田徳藏氏之ヲ保管ス。今同地小学校ニ置ケリ。形妖図版ニ示ス如ク総高一尺五寸二分「内鈕四寸二分」底径九寸六分アリ。質白緑色ヲ呈シ製作精巧ナリ。之ヲ見ルニ普通式ニシテ両面流水紋様アリ。鈕及ビ鰭ニハ一種ノ渦紋ト複合鋸歯紋ヲ現セリ。 此ノ銅鐸ヲ出シダル須代神社ハ同村小字和田ニアリ。延喜式所載ノ古社ニシテ丘陵ノ東ノ傾斜面ニ建テリ。発見ノ地点ハ社殿ノ南方約二十間ノ所ニ富リ、明治三十八年ノ頃境内拡張工事ニ際シ地下ノ大石ノ下ヨリ偶然発見セシモノナリト云フ。今実地ニ就イテ見ルニコノ辺土地緩傾斜ヲナセル所約三十間ノ間削り取ラレアリ、所々ニ大石ヲ含メリ。銅鐸ノ出デタル蓋シカゝル石材ノ下ヨリナルベシ。 京都府管下ニ於イテ従来銅鐸ノ発見ヲ伝フルモノ上記隣村三河内比丘尼城出土ノ遺物ヲ外ニシテハ他ニアルヲ聞カズ。コレハ銅鐸ノ分布ヲ考フル上ニ於イテ注意スベキ史実ナルト共ニ、此種遺物ノ発見ハ此ノ地方ガ已ニ太古ヨリ斯カル器物ノ使用ヲナシタル人民ノ住セルヲ示シ地方開発ノ状ヲ明カニスル黙ニ於テ貴重ナル遺物ナリ。特ニ注意ヲ加ヘテ保存方法ヲ論ズルノ要ヲ認ム。「以上 梅原末治氏」 同社の案内板には、 須代銅鐸出土地
須代銅鐸は明治二六年(一八九三)十月十三日、大雨の後、須代神社の裏山の丘陵南斜面が崩れた場所より露出した状態で発見された。 出土した銅鐸は表面に流水文様がある「扁平鈕式」と呼ばれるもので、高さ四五センチをはかる。 一般的に銅鐸は収穫の豊作をいのり、暮らしの繁栄を願うまつりに使ったものと考えられている。須代銅鐸出土地の前面には弥生時代中期から始まる須代遺跡があり、この遺跡はこれまでの調査からムラのまわりに幅5メートルの溝をめぐらす巨大な環濠集落とみられる。 おそらく、この銅鐸も須代ムラが所有していたものと考えられる。 また、出土地には銅鐸出土地を示す標柱が立てられている。なお、銅鐸は京都国立博物館で保管されている。 平成六年三月 加悦町教育委員会 加悦谷を挟んで西側になる野田川町三河内からも107センチの梅林寺銅鐸が出土。須代神社の南西1キロ足らずに位置する有名な日吉ヶ丘遺跡(加悦町明石)からは写真のような銅鐸形土製品が出土している。 『丹後の民話』(萬年社・挿絵=杉井ギサブロー・関西電力・昭56)に、 勝負橋
明石から一寸いったとこに、まっすぐな道があるでしょ。あの道の明石側へ寄ったとこへ、ちっちゃい、そう…一間半ぐらいの小川があって、橋がかかっておるにゃ。その橋を昔から勝負橋というた。どうで、そんな名がついたゆうと、昔からの話があるんじゃ……。 昔な、明石の大家にある 「な−んだい、こんなちんまい蛇が邪魔しやがって」いうて、ポーンと足で蹴飛ばしたんだって。ほしたら蛇が怒って、おーきいおーきい蛇になったんだって。ほして「お前は、わしを蹴ちらかした。けしからん、お前をとり殺したる」って、蛇がいうただげな。ほしたら男衆は、もう青うなってしもて、 「こらえてくれ。悪かったけど、こらえてくれ」 いうたけど、蛇は、 「なもん、こらえられん」と怒っとる。 ほんで、男衆があんまり頼むもんだで、蛇は、 「なら、こうしたらこらえたる」いうた。 どういうたかいうたら、 「あしたの昼に、あのちいちゃい川の橋の上で、わしとおのれとやりあいしょうやないか」 そういうたちゅう。 どっちが勝つか、まあ、それは分からんけども、やりあいをせんことには、こらえてくれんもんだで、とにかくうなずいて、そのまま草も刈らんと男衆は青うなったまま庄家はんの家へ飛んで戻っただって。 夕方になって庄家はんは、あんまり青い顔をして男衆がうずくまってるもんだて、 「お前、どうしただ」って聞いたんだって。 ほしたら男衆がいうことには、 「今日、わしがちっちゃい蛇を蹴ちらかしたら、にわかにおーけなってもうて、えらい怒ってな、あしたの昼、小川の橋で勝負しょいうんだ。わしは、ほんなもんと勝負したら勝つきずかいないし、心配でめしも食べられんで、どうしたらええか困ってますんじゃ…」いうたちゅう。たら、庄家はんも、 「う−ん、そいつはお前、困ったことができたもんだぁや。まあ、勝負してもお前が勝つきずかいないと思うし……」 庄家はんと男衆が心配顔しとったら、そこへ、ちっちゃい鉦を前へぶらさげて、カンカンとたたいて家々をまわる六部さんちゅう人が来たんやて。六部さんちゅうのは、昔は六角の傘かぶって、鉦たたいて、背中に仏さん負うて家々をまわった行者のような人やて。ほんで、その六部さんが二人を見つけて、 「あんたら、どうしただ」 そういうたんやて。 ほしたら、今日こんなことがあって、何ともでけんで心配しとりますにゃ、ゆうたら、六部さんが、 「よし、そんなら、わしが教えたろ」いうもんやで、「なら、まあ、たのみます」いうて、その六部さんを家の中へ案内したちゅう。 六部さんは、見るからに弱そうな男衆に刀もたしてやりあいしたって勝つきずかいがない思うて、 「一寸の間に習える、ええ方法を教えたる」 いうて、鎖がまちゅうもんをこしらえて、その鎖がまを振り回すことだけ教えたんやて。 「よしよし、これやったら、どんなもんがきても勝つわい。明日は心配せんと、そこ行って勝負せえよ」いうたんやて。 ほんで庄家はんも男衆も、まあ気強うなってえらい喜んで、これで安心だいうて寝たんだって。 さあ、それでいよいよ勝負せんならん、あくる日男衆は、その鎖がま持って蛇のいうた橋のとこへ行ったんやて。ほしたら向こうから、きれーなお侍さんが刀を二本差して、そろそろやってきたんやて。蛇が侍さんに化けたわけじゃ。ほして、 「お、お前きちょったか。よし、勝負じゃ」 「よし、勝負、勝負」 男衆も負けんというて、ぶんぶん振り回す鎖がまと二刀流の勝負が始まったんだって。 最初のうちは、昨夜教えてもろたほど、うまいこと振り回せんで、また顔が青うなって、 「やっぱり、だめだ。勝つきずかいない…」と思ったんだって。ほんで、絶対絶命になって、「あかん」思いながら、目つぶったまんま、振り回した鎖がまが刀にうまいぐあいにまきついたんだって。ほんで、気がついた時は、侍の首をかまで切りおとしとったんだって。ほしたら、侍の姿が蛇にもどったんやて。ほして、その切りおとした首をうずめたのが、いま明石の入口にある、あの荒神さんだって。でその胴体の方は、庄ケ崎の一寸高いとこの、今はもうのうなったけど、おーけな松の木があったとこへいけたんやて。そうして庄家はんも男衆も、ほんとに喜んで長生きしたちゅう話や。 ほいで、それからあのちっちゃい川にかかっとる橋を勝負橋って、いうたんやて。 (三河内・江原重吉様より)
『舞鶴市民新聞』(.050805)に、 *歴史民俗研究会*伝統文化を訪ねて*
*火祭りの里 城屋の揚松明* *−現と幻の交錯する蛇神伝承−* JR西舞鶴駅から高野川上流へ約四キロ、右岸に木製の四脚鳥居に「正一位雨引宮」の額が掛かる神社に着きます。祭神は水利を司る水分神です。雨乞いに火を焚く行事は各地に点在しますが、この神社には怪奇伝承があります。 地元女布に住む一色氏の遺臣森脇宗坡なる郷士が、城屋の日浦が谷で自分の娘を喰つた大蛇と弔い会戦をし、豪雨の中で勝利した。三断したうちの頭部を祀ったのが雨引神社であり、その大蛇の片鱗三枚が今も宗坡の子孫に保管されているとか?住所氏名が明らかな人間が、大蛇という物の怪と戦う奇怪な伝承です。 このことから雨引神社は蛇神様(じゃがみさま)とも称されて、宗坡が大蛇を退治した陰暦七月十四日に、大蛇が火焔を吐くのに因んだ揚松明が行われるようになったというものです。 毎年八月十四日、祭りの当日は朝早くから総出で準備をします。長さ十六bある杉丸太の最上部に径二b余りの竹輪を編み、麻殻(おがら)を組み付けてまず外側の部分を作り、ニdトラック満載分の麻殻を隙間無く詰め込み、杯さ型に成形していきます。節のついた孟宗竹を十数本打ち込み、中心部に建てた真竹の先端に御幣を取り付けると大松明の完成です。 投げ揚げる小松明は長さが三十a。細かく割った檜を二十本ほど束ね、先端は径七a内外で割ったまま、握る側は手に刺さらないように滑らかにし、径五a、重さは約三百cです。 午後十時、投げ手の中心は地区の青年会。身を清め、神殿横の小宮神(こみやさん)の前で小松明に点火し、大松明を中心に輪を描き、リーダーの掛け声と共に投げ揚げが始まります。 同じ手順で投げ揚げられる松明ですが、燃え方は毎年違います。大松明の中心部にうまく乗って、ぎりぎりまで大松明が崩れず、最後の瞬間全部が火の玉となって一度に落下し、その反動で砕け散った麻殻が柱を覆い隠し天に向かって舞い上がり、川の対岸から見物していても思わず後ずさりしたくなるほどの迫力がある年もあります。火勢が進み孟宗竹が爆ぜ、大松明に建ててあった真竹の根本が燃えて垂れ下がってくると、青年会長が火の粉が降り注ぐなか柱に近づき、取り付けてあった御幣を神殿に奉納します。この時は見物の皆様もぜひ声援の拍手を!! 平成十七年は森脇宗坡が大蛇を退治した弘治二年(一五五五)から四百五十年目にあたる節目の年。見たことのない人は無論のこと、何度もみた人も記念すぺき火の祭典にお出かけください。 (岡) 雨引神社の「揚松明神事」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」
『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、 城屋のあげたいまつ
城屋の雨引神社の奇祭あげたいまつには次のような伝説がある。弘治年間(一五五五−一五五七)一色氏の家臣であった女布の白雲山城主森脇宗坡の娘が、何鹿志賀郷の赤井氏に嫁いでその里帰りの時日浦の谷で大蛇に呑まれてしまったので、口から火を吹いて襲いかかる大蛇を退治して娘の仇を討った宗坡は頭を城屋に、腹を中森神社に、尾を高野由里の尾森神社に埋め蛇神様として祀ったという。 八月十四日夜高野川でみそぎをした勢子達は、小松明を一斉に柱高約十七米の大松明目がけて投げあげる。それが燃えて火の粉が舞い散る様は大蛇が吐く火に似て最後に松を引き倒す。四百年続いた大蛇の精霊供養と豊作祈念の奇祭である。この森脇宗坡の居城女布の白雲山であるが、丹後風土記に「真名井は白雲山の北郊にあり」と書かれており、北郊にあたる西舞鶴市内に真名井通があって、与謝の速石里におかれた丹後の国府は加佐の真名井原よりうつされたとも言い伝えられている。 丹後国府は最初はここにあったという伝えがあるという。どこから得た伝えなのだろう。 雨引神社の「揚松明神事」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」 「城屋」 「雨引神社」
『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも) 蛇神様 舞鶴市城屋
どどんどろつくどんどこどん まつりばやしは太鼓から 村のいなせな若い衆 やぐらねり込むどろつくどん(蛇神様雑記から) 八月十四日夜、太鼓がとどろく中、大たいまつがメラメラと燃えあがる。ホラガイも鳴り響き、若衆は大たいまつめがけて、小たいまつを投げ続ける。村人の中には手を合わせて、一心に祈る姿も−。火の粉は方々に飛び散り、暗黒の中に鮮やかな軌跡を描く。舞鶴市内で随一の奇祭・城屋の揚松明。さながら、火と人が織りなす神秘の世界だ。 揚松明が行われる雨引神社は蛇神様とも呼ばれる。いまから四百年以上の昔、弘治二年(一五五六)陰暦七月十四日。一色氏の遺臣で女布の郷士、森脇宗坡が、娘を飲み込んだ長さ一丈五尺三寸(約五メートともの大蛇を仕とめ、ここにまつったと伝えられる。大蛇を退治した瞬間一天にわかにかきくもり、どっと雨が降り、娘を天にいざなうような虹もかかり、いつの間にか雨引神社と呼ばれるようになった。 森脇家の娘は何鹿(綾部市)の郷士、赤井氏に嫁に行ったばかり。里帰りのため、供まわりの佐七と城屋の日浦が谷を急いでいた。玉のような汗をぬぐいながら尾根に差しかかると、あたりは異様な冷気が立ち込め、ザーッと生暖かい風が吹くと、娘は宙に浮いていた。「アレーッ」と叫ぶ間もなく娘は大蛇の赤い口の中へ。腰を抜かした佐七はほうほうのテイで森脇家に逃げ帰った。 怒り心頭に達した宗坡。七月十三日の早暁、山着に身をかため、馬にまたがって日浦が谷にはいった。「すみやかに本性を現し、立ち向かえ−」。宗坡が叫ぶと、地獄を思わせる暴風雨。大蛇がらんらんと光る目を見せた。宗坡は弓を満月にひきしぼり、その左眼をみごとに射抜いた。しかし、強大な大蛇はびくともせず、宗坡はその日はむなしく引き揚げた。翌十四日。「今日こそ勝負」と、再び谷にわけ入り、たけり狂う大蛇に向かった。右眼を射抜き、両眼を失った大蛇をやっとのことで仕とめ、その胴を三つに切り断った。宗坡は「大蛇の霊は天に帰った」と頭部を舞鶴市内の城屋に、腹部を野村寺に、尾部を由里にまつった。頭部をまつったのが雨引神社。揚松明は大蛇が火をはくのを模した祭典ともいわれ、地区ではいまでも続けられている。 (カット=井上啓君=舞鶴市高野校) 〔しるべ〕国鉄西舞鶴駅から西南へ約四キロ。雨引神社の祭神は農耕水利をつかさどる水分神。揚松明の夜は市内一円からの人出でにぎわう。 雨引神社の「揚松明神事」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」 「城屋」 「雨引神社」
真壁
「マカベ」といえば、誰しも久田美の真壁と思われがちだが、実は城屋、野村寺、高野由里にも「マカベ」という小字名のあることが分かり、これには何等かの関係があるのではないかと聞いているうち地元の古老より、次のような興味のある話をしてくれた。 「昔、城屋に大きなマカニ(真蟹)が住んで居た。女布の森脇宗坡の娘が婚家より里帰りの途中、城屋の日浦谷で大蛇に食われたのを大変怒った宗坡は、直ちに大蛇を退治した。その大蛇を三つ切りにしたのが、この大きな「マカニ」であった」といわれている。 この大蛇の頭部は、城屋の雨引神社へ、腹部は野村寺の中の森神社へ、尾部は由里の尾の森神社へと、それぞれお祀りしたと伝えられている。 この「マカニ」が転訛して「マカベ」の地名となったとか。 雨引神社の「揚松明神事」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」 「城屋」 「雨引神社」
蛇神と揚松明(舞鶴市城屋)
後奈良天皇の弘治二年(一五五六)陰暦七月十三日のこと、一色氏の遺臣で女布の郷士、森脇宗坡の娘が嫁入り先の何鹿(綾部市)の赤井家から久しぶりに里帰りをすることになった。供の佐七と登尾峠をこえ、ようやく城屋の日浦が谷にさしかかった。谷には大蛇がすむという蛇が池(池が谷)があり、静かな水面には霊気がたちこめていた。にわかに木々がざわめき、池の面が波立つと、水中から大蛇が鎌首をもたげ、一気に宗坡の娘を丸呑みにして、ふたたび池の底へ姿を消した。腰をぬかしながら、供の佐七は森脇家へ逃げ帰って事の仔細を告げた。宗坡は娘の仇をうとうと弓を小脇にし、日浦が谷へ馬を駆った。みごとに左眼を射抜いたが、大蛇は池の底へ身を隠した。宗坡はいったん隠迫へもどり、翌朝、ふたたび大蛇に立ちむかって右眼を射止め、たけりくるう池の主を退治して、その胴体を三つに切断した。その頭を城屋の雨引神社に、腹を野村寺の中森神社に、尻尾を由里の下森神社(尾の森神社)に祀った。大蛇の鱗は森脇宗坡の末裔が今も所蔵している。雨引神社は雨乞いの神として広く信仰され、大蛇を退治した日にちなみ、旧暦七月十四日(現在は八月十四日)の夜に揚松明の行事が行われる。これは若狭の南川流域から丹波にかけて点在する、松上げと呼ばれる盆の柱松の行事である。 以上の伝説も『京都丹波丹後の伝説』と『ふるさと女布』から要約した。おそらく供の佐吉の名は再話上の脚色と思われるが、『御料所旧記』に「熊野郡 古城跡 壱ケ所 女布村 域主森脇宗坡居住之由申伝候」、また『丹後国加佐郡旧語集』愛宕山権現社に「昔女布村ニ山脇宗坡ト云武士住居此節本堂モ塔モ建之由伝説不慥」とあり、宗坡は実在の人物に相違ない。 六年前に城屋の政木利喜蔵(明治三十七年生)から聞いた伝説は、大筋では合っているが少しニュアンスがちがうように思われた。それは次のような話である。 四百年前、 森脇宗披の末裔とされる女布の森脇清水家(本家)をその折訪れて、いろいろと話をうかがったことがあった。森脇家の裏山には森脇カブでまつる荒神さんの祠がある。カブ(同族)の先祖で守り神とされ、二月十日にカブ講を行う。小祠のなかにはお札が安置してある。 また、庭の築山に龍神さんの祠があり、ジャガミサンのツレアイを祀っている。大蛇の頭を切りおとした跡にあった石が入っているが、小さい割には重い。祭日は特にない。大蛇のウロコは親指大で跡取りにしか見せないことにしていたが、あるときカブ溝ではかって披露をするようになった。専門家に検定してもらったところ、は虫類のものであることが確認された。由来記が伝わっていたが、『女布誌』を作る際に貸出したままになって家にはない。各カブごとに荒神を祀っている。森脇家の血の者という村尾ハツ(大正三年生)によると、下森付近から土器片が出土することがある。また、先年亡くなったオバサンが実家へ帰るたびに龍神さんからよく蛇が顔を出した。けがれた者はジャガミサン(雨引神社)には参拝できない。荒神さんはカブの先祖を祀ると聞いている。 雨引神社の「揚松明神事」 雨引神社(舞鶴市城屋) 「写真館」(揚松明神事) 「蛇ヶ池探訪」(実際に伝説の池はあった) 「デシダル・民間伝承の森」 「城屋」 「雨引神社」 城屋・池内・与保呂の蛇神伝説を調べられて次のようにまとめておられる。
. 舞鶴市に残るこれらの龍蛇退治の伝承を検討すると、共通する次の四点が指摘できる。
(1)退治された大蛇は、頭・胴体・尾に分断され、雨乞いに霊験のある神社の祭神(水神)として祀られることになる。ここには邪悪な神から御霊神への発展が認められる。異類婚の形式を踏まえて、若い女性が池の主にみいられて犠牲になるのは、神の嫁としての入巫儀礼の痕跡とも考えられよう。 (2)これらの伝説は、池内川・与保呂川・高野川という、舞鶴市内を流れる主要な河川の流域に伝承されており、水流と龍蛇の関連がきわめて強い。時に凶暴性を発揮する河川の形象が、龍蛇伝説の起源ともなったことは十分考えられよう。 (3)神社の起源の多くは、巨樹や森、磐座とされる巨岩にはじまる。大蛇の頭・胴体・尾を祭神とする古社が、大森・中森・下森・尾の森などと呼ばれ、古い森神信仰の形態を伝えていることは注目される。特に舞鶴市森に鎮座する大森神社は、大蛇伝説を伝える一方で、湧水の水源を祭神としてその上に社殿が建立された神社として知られている。大森神社に頭を、また京都府と福井県境の高浜町青の青海神社に胴体を、同じく高浜町難波江の小字大森に鎮座する大森さんに尾を埋め、祭神とする伝承もあり、二府県にまたがって大蛇退治の伝承が派及していることがわかる。 (4)大蛇の頭を祀るという舞鶴市城屋の雨引神社では、大蛇の祟りを鎮めるために毎年旧盆の七月十四日(現在は八月十四日)に揚松明を行うが、この柱松の行事は神話の宇宙樹につながる柱信仰の民俗と考えられる。 揚松明の柱は世界樹だというのはまったく賛成できる。誰もそんなことは言わないので不安だったが、強い援軍を得た感じがする。民俗学者ではめずらしいのではなかろうか。 その世界樹=生命樹=ヘビ=ヒロイン=生命の井という認識がないようなのと、大蛇退治と金属は関係があり、鉱山の山々を背景にした伝説群であるのが見落とされているのではなかろうかと考える。 三つの神社は語呂合わせのようにも取れるし、また考えようによっては、もともとは一つの村が三つに分かれたとも取れる。それらは姉妹関係にある集落なのかも知れない。
中山の松上げ
中山に、北ノ坊と 松上げの日は、八月の十六日と二十四日。その日が近づくと、中山の人々はそれぞれ小さな松明づくりを始める。高く投げ上げられるように、丁寧に丁寧につくる。 そして、いよいよ松上げの日。山の峰に夕陽が沈むと、人々は松上げ場に集まる。小さな松明に火をつけ、広場の真ん中に立てられた大きな松明に、まるで玉入れをするように投げ上げるのだ。火の粉を散らしながら、赤い放物線を描くいくつもの松明。やがて大きな松明に火が移って燃え上がり、辺りは赤く照らされる。火の勢いを強くするため、松明が大きく揺すられると、天上からは火の粉が金砂子のように降ってくる。 この火を、中山の人々は北ノ坊は愛宕山に、若泉坊は青葉山にお供えするのだ。稲の刈り入れをひかえ、虫送りのために行われていた行事だったといわれている。
*松明高々と夜空焦がす*
*伝統の「お松上げ」 綾部・大唐内* 豊作を祈願する綾部市老富町大唐内地区の伝統行事「お松上げ」がこのほど、同地区の薬師堂前広場で行われ、高々と掲げられた松明が夜空を焦がした。大唐内は過疎高齢化が進む限界集落。規模を縮小しながらも伝統行事を守り続けている。 福井県境に近い大唐内は、十六世帯二十七人が住む高齢化率約70%の集落。お松上げは二百年以上前から、毎年八月に開いている。近くの山で採った松の根の割り木を束にし、手を広げた形に組んだ五本の竹の先に差し込む。それを高さ約六bの木製の柱に取り付け、大松明とする。 今年も二十四日午後七時ごろ、先達(せんだち)と呼ばれるその年の当番が、薬師堂の灯明から採火した種火を大松明に点火。笛や太鼓の音とともに同松明を広場に立てた。同時に各家から持ち寄った松明をその周辺に並べて点火し、集まった住民が手を合わせた。 大唐内自治会長の西田昌一さん(66)は「戸数が減り、松明の数も減ったが、過疎化が進む集落にあって伝統行事を住民仲良く守り続けています」と話した。
(上げ松)
鶴ケ岡村は郡の北端なれば遺習甚だ多くこれらの祭事の外には、八月二十四日に裏盆と称し「上げ松」の遊せ行ふ、七八間の高さある杉丸太の尖頭に苧殻にて編みたる籠をつけ、杉葉を充てゝこれを立て、夜に入れば下方より松明をほりあげてこれに点火し、鐘笛、太鼓を以て之を囃し火神愛岩山に敬意を表す。蓋し本郡人の愛宕崇拝は伊勢大廟の崇敬と共に古来著しき習慣を有し、郡内各村日を定めて伊勢講愛宕講を行はざるはなく、山ノロ講と共に敬神の二大年行事なるが、崇仏の行事としては纔に観音識の一般に行はるゝがあるのみ。 上げまつ
本村川合、殿、田土、庄田の四区に於ては、毎年八月二十四日各々近傍の川原に至りて炬火を焚く。これを上げ松と名づく。こは予め長十間内外の柱上に竹にて製したる茶筌形のヒウケを造り中に藁鉋屑などを満たし、その中央に高さ約二間の所に御幣の束を結び付く。さてその日薄暮の頃より松明を持ちたる面々はこゝに集まり来り、競うて松明を打ち上げ柱上のヒウケの中に入れんとす。やがて松明その中に入れば煙焔高く揚がりて一時に之を焼き尽す。この折を侍もて柱を倒し御幣を抜取りて捧持し、聲を揃へて祇園囃子を歌ひつゝ、其の年當番の家に入りて神酒を飲むなり。こは愛宕神社に献燈を意味せるなりといふ。
(万燈)
尾崎神社 尾崎神社は村社である。以前は十二社権現といい、単に「権現さん」と呼んでいた。昭和の初め頃尾崎神社と呼ぶようになった。 登尾の岡家が尾崎神社の神主であった。当人はなかった。岡家は、源頼光の鬼退治のときに、金時が泊まった家であるという言い伝えがある。また、岡家では母屋でお産をしてはいけないといわれていた。 祭礼は、大歳神社や有徳神社と同じである。 岡家が、尾崎神社の祭礼にあたっては、料理を作っていた。料理は一膳と脇神さんの分を作る。ゴクツキは宮の世話方が行っていた。大歳神社と有徳神社の当人も手伝った。 祭礼は正月、三月の節句、十月十六日の年三回同じ事をした。今は、正月と秋だけである。山の神祭りはない。 登尾の人は大歳神社と有徳神社の氏子に分かれており、それぞれ、大歳、有徳の当人はつとめる。一方で、尾崎神社の世話もするのである。 夏に万灯という行事を行なう。杉葉や槙や豆がらを入れたものを生木で囲った物を竹で縛る。それを尾崎神社の境内にたててその横手に三本御幣をたてる。夜九時頃に長男のある家が火をつける。燃やすだけで他には何もしない。槍谷地区は昔大歳神社の氏子であった。 この神社の横手に古いお堂がある。ここを古代の官道が通っていたかも知れない。今も綺麗な道が尾根の方へとある。登尾峠を越せば加悦町山河に出る。
《城屋窯跡調査 〜黒色土器出土〜》
専門委員 坂 根 清 之 府の遺跡地図に城屋窯跡は記載されているが、その確実な所在は不明であった。今回新しい情報と資料か得られたので、急ぎ調査した概要を、その位置を中心にまとめ、出土した黒色土器についてもふれてみたい。 この遺跡の発見は昭和26年、当時西高生で城屋在住の壷内一夫氏が「城屋の丘陵で発見した」と数個の須恵器(椀)を持参した時に始まる。この土器は完形でなく、一部破損していたが、形がゆがみあるいは二枚重なって焼き付いたもので、出土地はたぶん窯跡と考えられたが、窯跡は不明であった。 昭和40年、同じく城屋に住む西高生の片倉利彦氏が同所付近で須恵器片を採集し、筆者も一応現地を調べたか、窯を発見し得なかった。しかしその位置か国鉄宮津線の城屋から四所駅へ向かうトンネル人口の右手丘陵であることを確め得た。今年9月27日、片倉氏からかっての同級生の細野氏を通じ、「最近多数の土器片を採集したから見てほしい」とのことで、直ちに細野氏と共に調査に出発した。まず片倉氏の宅へ直行して、氏の採集土器を見る。ほとんどが須恵器の破片で完形品はなく、二つの木箱に分けられていた。大形壷甕・椀・坏杯等で、少しの土師器を含み、中に黒色の椀が注目された。一つの箱は後述のA地点のもの、他の箱は十日程前採集したB地点のものであった。二つを比べると器形などに多少の違いが認められたが、詳細は後で調べることにして、とりあえず窯跡へと向かう。 ○採取場所−窯跡の位置−(図参照) 〔A地点〕城厩から上福井へ通ずる道が線路と交わる踏切りを「楠彌寺(くすねじ)踏切り」という。この踏切りを上福井側へ越えた直後、線路に並行する農道を左折し、トンネル方向に約70メートル進むと、右手に小さな谷へ入る小道が分かれる。ゆるやかな登り坂となって、およそ百メートル、道の左側斜面に土器が散布していたという。以前の調査では丘陵上を調べたが、今回は斜面上で、散布範囲は道に沿う上方斜面、長さおよそ40メートル、幅15メートル、その中間付近に最も濃密であったという。窯跡そのものは確認出来なかったが、ほぼこの地域を窯跡と推定した。片倉氏の話によれば、破片は表土に半ば埋れたり、あるいは木の根に留まっていて、地中は発掘せず、表土採集だけとのことであった。この地域から前述の黒色土器が出土している。 〔B地点〕 A地点より元の鉄道線路沿いの農道に引きかえし、更にトンネル方向に5.60メートルも進むと、右手に第2の谷があり、道がのびている。一段高く登ると小さな畑がひらけ、その奥は谷頭に近く、スギの植林地で、道は急斜面を登る上方へ通じ、谷の方の道は消滅する。谷頭は雨裂となって崩れ、この位置で幅約20メートル、この谷から上の道への斜面こそ土器出土の地点であった。斜面は傾斜約30度、高さ約5メートルで奥の方へ長く続く。斜面の上方は緩斜面で山道らしいものがみられた。斜面のスギは樹齢約14〜5年で、3〜4メートル間隔で立ち、下草もなく、赤褐色に所々黒い土があり、その中に土器片が半ば埋没して散布しているのを採集する。雨後のため土がかぬかるみ、調査に不適当であった。ここは長年の間に元の地形も変わり、土も攪乱されているが、長さ20メートル、幅10メートルぐらいの範囲、特に傾斜面表土上と深さ10センチより短時間に数十個の土器片を採集する。黒色土器 (皿状の破片)や器底部(杯)もあった。上の綾斜面でも十数個採集。最も濃密な分布地域は斜面で、高さ5メートル、幅5メートルの付近を窯跡と考えてよいだろう。 今回の調査は表面採集と観察だけに止めたため窯の正確な位置や数は今後の調査にまちたい。とにかくAB2地点の土器散布地が確認されたわけで、いずれも谷に臨む山腹斜面という点で共通しており、焼き付いて付着し離れない土器や、形の全くゆがんだ破片、あるいは有機物が胎土中にあったため、焼成中にふくらみ、破裂したとみられる須恵器片もあり、日用土器片と思われるものも多く、更にこの地が、古代交通上の要路と考えられる点などを考え合わせるならば、窯が築かれたとしてもうなずかれる。ただ窯跡の確認と使用粘土の問題など将来調べるべき事項に属する。 次に採集土器について簡準にふれることにする。 ○A地点分(片倉氏採集分) 70点 須恵器片が大部で大型壷・甕の破片が多く、少量の土師器もあり、杯、椀、皿、蓋等の破片が多かった。黒色土器は器形ややゆがみ、口縁部と体部の約半分を欠く。口縁部径18センチ、底部高台付きで径10センチ、高台の高さ1センチ、器高6.2センチ、胎土は灰色で瓦器に似る。砂粒が多く、表面をヘラで整え、内面は全面的に黒色で、同心円のハケ目が残り、やや凹凸がある。立ち上がりは半ばまて丸味をもち、上半部はやや外反気味で、その境にわずかな稜かみられ、上半部淡黒色、下半部黒色、底部は褐色で大形の椀と考えられる。 ○ B地点分(片倉氏採集分) 50点 須忠器片等A地点に似る。完形品なし、高台をもつ底部片が多く、ヘラ削りの明らかをものもあり、A地点のものとこの形のちがいか見られる。蓋状のものは径18センチ、高さ2.5センチ、淡褐色である。つまみ付きの蓋のもの淡褐色のものが多い。 ○当日採集品(B地点) 53点 須恵器片多数(壷・杯・皿・蓋等)土師器様片10 黒色土器片3(内杯底部片2)皿状のもの…半分欠損、斜面、表土より10センチの深さより出土・口縁径18センチ、高台径15センチ、器高2.7センチ、口縁部に近い外側にはけ目あり、立ち上がりは口縁部がわずかに外反する。高台ははり付けで、一部離れて欠けた部分あり、器底は糸切りの同心円状の線を残す。焼成良好、胎土は灰白色で瓦器に近く、砂粒を含み内面にも点々とあらわれている。内面は全体的に黒色であ。外面は口縁部に近いところ上半分は黒色、底部及び下半分は淡褐色である。「京都考古第20号」(昭51.10.1発行)で、高橋美久二氏が「丹後地方の平安時代土器」との論の中て、丹後各地の黒色土器について述べられ、久美浜の上末遺跡の窯跡と推定されるところから多くの須恵器のほか、2.3点の黒色土器の出土に及び「竹野都網野町の林遺跡からも黒色土器が出土し、食器類の80%以上を占める内面を黒化する黒色土器を2種に命け、1類は土師質胎土で中段に稜をもち、口縁部で外反し高台をもつもの、2類は瓦器の胎土に似た灰白色であり、いずれにも底面に糸切り跡があり、出土の多いのは2類である」「畿内では内面のみを黒色化するA類土器は8世紀後半に成立し、9世紀では主流を占めるが、10世紀には内外とも黒化するB類がとってかわる」 とあり、城屋出土のものもほぼこのころのものではないだろうか。筆者も将来更に研究してみたいと思う(個々の土器、写真等は紙面の都合で省略する)。 城屋は金属と関係がないわけがないと私は考えている。大蛇退治伝説の地であるし、さらに一つは勘注系図記載の丸子山古墳。マルコはマラコであり、鍛冶屋の大将につくである。もう一つがこの窯趾である。女布ゆ由里という村の隣であるし、さらに坂根サンの発祥の地という。坂根サンは それから最初に人が住み着くのは川上の方から、川口に住むようになるのはずっと近世に近づいてからのこと、村の歴史は奥の方が一般に古い。 |
資料編の索引
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