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丹波の

高倉(たかくら)
京都府綾部市高倉町


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京都府綾部市高倉町

京都府何鹿郡吉見村高倉

高倉の概要




《高倉の概要》

綾部工業団地の北にある集落。吉見郷の総社である高倉神社が鎮座する。往古は奥谷の村といったそうで、ちょっとわかりにくい所である。地名の由来は高倉神社による。

高倉村は、江戸期~明治22年の村。当初幾見郷六箇の一で、のち分村独立した。はじめ山家藩領、寛永5年からは旗本十倉谷氏知行地。
貞享元年当村を含む旗本十倉谷氏知行地全域で年貢減免などを要求した越訴が起こる。同年参加者は高倉神社で祈願をし、誓書を残した。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年吉美村の大字となる。
高倉は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ吉美村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年高倉町となる。
高倉町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《高倉の人口・世帯数》 104・37


《主な社寺など》

高倉神社



幾見郷6か村の総社、立派な神社である、道案内は文字では伝えにくい、ナビなど参照して下さい。
案内板がある。
高倉神社由緒略記
治承年間平清盛横暴を極め擅に朝権を弄し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は父君を幽閉より救い更に皇室の隆威を挽回せんと源三位頼政に令旨を下し賜ふ、頼政奉じて勤皇の兵をあげ治承の難に至る。逸道の激戦に官軍利あらず頼政は宇治の平等院で自刃、宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流矢に当り薨去と偽り、実は近臣大槻光頼渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸、当地に御着馬の頃から御矢傷次第に重く、治承四年六月九日吉見郷里村で薨去し給ふ。翌養和元年九月九日神霊を奥谷の森今の高倉に(現在地)奉遷し高倉天一大明神と勧請せり。爾来御神徳は四方に輝き世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く腹痛教護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。
降つて元文年間神殿挙て回禄に罹り旧記神宝悉く烏有に帰したが御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。
神殿の再建は延享三年に落成したが建設以来星霜を閲し再が廃頽に傾き明治四十年再建を計画同四十三年八月竣工旧神殿は拝殿に改造、新たに神殿並に透塀を造営神域も拡張した。
更に昭和五十三年奉祀八百年を記念し宮の遺徳を追慕顕彰せん為拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子並に十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得で昭和五十五年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された。
高倉神社社務所

高倉神社は高倉宮以仁王を祭神とし、吉美郷六か村の総社。以仁王が治承の戦乱の際逃れて何鹿郡青野で客死し、その霊を里村で祀り、高倉に移祀したと伝えている。
史的事実ではなかろうが、氏子そのほかに今も固く信じられていて、有名な伝説上のハナシである。
当社は「天一大明神」と呼ばれているから、本来は天一=天目一箇神を祀る製鉄鍜冶の社と思われる、加佐郡名神大社の大川神社や三和町の大原神社なども天一さんと呼ばれている、しかしこの方に触れた論考は当社もそのほかも、見当たらないようである。たまにあってもピントがすれている。

天目一箇神も太一(北極星)に仮託される、星宮のたぶん金星とは、たぶん夫婦神であろう。
本殿の裏に奥宮と呼ぶのでなかろうか、伊邪那伎・伊邪那美神社と書かれた鳥居の奥に夫婦杉が二本ある、その下に「大地主神社」と書かれた鳥居、そして大地主神のホコラ(向かって左側)と伊弉諾とたぶん伊奘冊のホコラが祀られている。

これは本来は地主神として北極星と金星の夫婦神が祀られていたと推測するのである。その参道には天照皇大神社と八阪神社もある、これも名を変えた北極星・金星の夫婦神だろうと思われる。吉見の地がこの神々によって生まれ開発された過去を伝える社なのではなかろうか。
高倉宮以仁王はそれがすっかり忘れられた、あるいは権力によりマッサツされた後の祭神であろうかと思われる。高倉という社名が高倉宮と想像上で結びついたものか、あるいは星神や鍜冶神を祀るあやしいやつらと中央王権のにらみや猜疑の目を逃れる為のアドバルーンデゴイか。

←境内の以仁王近臣という十二士を祀る神社。

そんな事はなかろう以仁王に決まってとる、などと思われるかも知れないむきがほとんどかも知れないが、申し訳ないが、敵を欺くためにはまず味方から欺くことに迫られたのだろう、欺き通したため、本当が氏子にすら忘れられていった、古代においては天一神を本来通り、従来通りに祀り続けるのは厳しい状況が続いたのではなかろうか。
隣の多田町などは地名からもタタラであり、鉱山鍜冶の地であったと見て大きな間違いはなかろうかと思われる。身も蓋もないことを言うが、本来は以仁王は全く関係のない地であり社である。オマエども、アッチ行けと言われそうだが、そう言わざるを得ない。
伝説は伝説として尊重すればいいが、そればかりでなく、先祖が祀った本当の祭神は何だったかにも目をしっかり向けてもらえればと願う、まだまだ未解明な重要な部分がそのままに残されている。


ひやそ踊り(田楽躍り)
それとは別の九月九日(今は十月九日、そのあたりの日曜日)の例大祭。天目一箇神の本来の祭日は九月十七、十八日だが、当社はすこしずれている。祭礼は吉美郷の祭礼として行われ、田楽「ヒヤソ踊」が奉納される。また腹痛諸病の霊験が著しいといわれる。
大祭は朝8:00から始まる。神事と同時進行で、本殿の向かって左脇で奉納される。



男の子25人で踊るのが従来の姿とされるが、今は女の子も加わって、25人に足りない、氏子のなかで、男女を問わずいるだけの、すべての子をかき集めたと思われる。なんとかかんとかカッコウにはなっているが、これ以上少なくなるとヤバイかも。。


「躍り」というが、躍りはない、グルグル左回りするだけである。大あくびの子もいるが、簡単なこと、これならワタチにでもできるかも。。
過去にはもっと複雑な動きがあったのかも知れないが、今に伝わるのはこうした所作だけである。あるいはもっと年取った者が奉納するものであったのかも知れない。中世以来綿綿と毎年毎年続けられてきたものである、最近の動き激しいカッチョイイ踊りとは、歴史の重みが違う、地域にとってとはかけがえのない宝物であることは違いなく大事に次に伝えよう。「郷土の誇り」は日本の誇りであり、世界の誇りであり、人類の誇りである。過去から伝わるものはエエカゲンに考えてはならない、それは人類の宝である。こうしたものを失ったときはクソ社会だったときだけ、もし今から失うなら、クソのような社会となってしまうであろうことは覚悟しなければならない。。
最初にここ本社で2番踊り、里町御旅所で24番踊り、再び本社に戻り12番奉納するという。

高倉大明神    高倉村
 祭ル神       祭礼九月朔日 九日
鳥居ノ額ハ天一大明神 社ハ二間ニ三間三社作 二間六間ノ舞堂 一ノ鳥居ハ村入ロニ石場跡有 則大木有 本社森凡五十間四方 字高峯ト云所ニ奉移社ナリ 氏子高倉村 里村 多田村 小呂村 干原村 有岡村 吉美郷六ケ村 立会神職二人 丹後田辺海ニ塩コリノ行ニ立テ海藻ヲ取帰テ 六ケ村祭礼ノ供二出ス者 流鏑馬ニテ下八田郷渕垣村エ行 川上ニ右ノ藻ヲ漬置 コリヲ取リ神ノ膳郡二十膳四通り 三斗三升ノ供米 十二三歳迄ノ女子新米ヲ拵ル 足ニテ踏事不為 米ハ七度洗フ 火ヲ打テ七度ムシカへシ 其取持ノ者ムシ物ヲ祝フトテ 口ニシキミヲクハヘ 其供一粒戴ケハサイナンヲ除ト云 大切ニ氏子村々高石十石ニ膳部一ゼソ宛イタダク 多田村一人宛ヲ太夫ト名付悪魔払 的持 是ニモ某日ハ供一膳宛神酒遣ス倶等マテ行ニ入ヨリ呑酒ハ酒屋酒ハ不呑 火ヲ清クシテ酒造ト云 多田村ニ往古ヨリ供田除地有 里村旅所御タマヤへ十八町 静 ニ祭礼 地頭山家初分家上林十倉両主ヨリケイ固有之 供人上下一切ハダシ 大雨ニモ笠不着 昔ヨリ降事多ク無シ 高倉天一大明神祭礼出興ノ式 一番獅子頭宮本 時ノ役人有岡村 二番獅子舞 同三番日ノ神 白幣コシヤウト云 冠リ白張装束六ケ村順番 四番神子多田村 五番流鏑馬 白幣里村 六番同断 有岡村 七番同断 小呂村 八番田楽踊幣 有岡村 九番大鞁 有岡村  十番ノボリ村々入込 十一番大鞁 多田村 御先金幣 干原村 天一大明神金幣 高倉村有岡村多田村同様ナリ 鼻高高倉村 鉾干原村 天一大明神一ノ鉾高倉村二三ノ鉾多田村 天神鉾同村 祝詞馬干原村 神職馬高倉村 神職馬有岡村 笛田楽踊二十四人 首ニビンササラト云物ヲ掛 ヒンササラ踊トモ云 此ウツシ天田郡大身村ニモ有リト云 田楽踊ハテンカク串ノ如クナル物ヲ首ニカケ 十二偏踊御出 十二偏細入 都合廿四偏 七人里村 五人多田村 四人小呂村 三人干原村 五人有岡村 干原村笛大鞁旅所正面 右ハ有岡村附 後左ハ高倉村附 宝麿十三癸未年地頭ヨリ祭礼ノ 式無違乱ト書物有リト云 祭礼ハ静ニシテフリワヲシンスルト有 供人ハヤシノ聲ニウリウフワアワアトハヤシ出ス 御帰ハ還御ト云  (『丹波志』)
 …

高倉神社
吉見村字高倉小字奥路にあり。明治六年村社と公定、以仁王を祭る。現在氏子三八九戸、吉見村全部之に属す。例祭は十月九日。徳川時代此の地は十倉領にして天一大明神と奉称したり。
(『何鹿郡誌』)

高倉神社
吉見村字高倉小字奥路 高倉山
祭神 高倉之宮  以仁王
由緒
人皇八十一代安徳天真即位元年(治承四年)に当り、平氏の一族益々驕暴を極め皇威日々賑わず、平清盛檀に朝権を弄して高倉上皇を脅迫し、後白河法皇を幽閉し奉り、その他丞職大臣を貶斥する等凡そ臣下として黙過すべからざる不敬暴状を極めたので、源三位頼政慷慨憤起一挙に平氏を傾け皇威を挽回せんと令旨を仰き、高倉之宮以仁王を奉じて勤王の兵を挙げたが菟道の戦に官軍利あらず、主将頼政始め家門郎党宇治平等院に戦死、宮は南都の方へ御落遷、途中光明山に至り流失の為に薨去と偽り大槻光頼、渡邊俟久等近臣廿四氏を従へ、頼政の所領地たる丹波に終のびさせられ当時杉山和泉守政国の居城地たる吉美郷に迎へんと政国自ら先達となり御供申上げたるも途中綾部王塚に至り俄に御矢傷重らせられ終に治承四年五月九日里村に於て薨去せらる。依って里人此の地に葬り(有岡永源寺に位牌を祀る)霊廟を建てたのが今の御旅所である。その後養和元年九月九日神霊を奥谷の森(元此の地高峰と称)に遷し奉り社号を「高倉天一大明神」と勧請して今日に至つた。降って天文四年社殿挙つて回禄に罹り旧記神宝悉皆烏有に帰し、纔に神像のみ火中より収てめ今に奉安して居るが之等を立証すべき有力な記録なき為只口伝によるのみ、遺憾の極みと云ふべきである。次で延享二年再建に係る社殿は結構荘厳であったが近時腐朽したので明治四十年七月更に社域を拡張、社殿の造営を計画、旧社殿を拝殿に改め本殿世透塀等を建造、明治四十三年十月七日竣工遷宮式を執行、此の造営費一万一千五百二十八円を要した。故に神域と云ひ神木社殿等蓋し近郷稀に見る結構である。尚大祭当日洗足で御供するのは五月田植の最中近隣の百姓達宮を迎へ御供仕りたる古事に習ったものと云ふべく、祭事の田楽踊は宮の旅愁を慰めんとして御覧に供したる踊で、宮は其の説明を聞き「イヤソウ」と宜ひし為後の人誤り伝へて「ひやそ踊」と云ふに至ると云はるゝとかや。而して毎年大祭当日御輿渡御式は地方稀に見る盛儀を極め、遠近より賽者蝟集しその雑踏名状すべからざる状態である。又当社は腹痛諸病の霊験著しとして夏期土用丑の日は大祭当日に勝るの盛況を呈して居る。
当社は大正十一年十二月十五日神饌幣帛料を供進すべき村社に指定せられた。更に昭和十年二月十四日内務省令京社第二四号を以て郷社に昇格した。尚境内に祭る神社五社がある。
天照大神社
八坂神社
金毘羅神社
天満宮社
稲荷神社
氏子数 四〇〇戸

其の二 高倉神社祭礼
一、十月九日午前九時三十分幣帛供進使参向祭典執行。
二、御輿 里高倉神社御旅所へ渡御、午前十一時三十分御御輿御進発。
三、行列 御道筋は往昔より御旅路と称し、高倉地内を西へ小学校下役場鹿子橋を渡って行程二十四丁御旅所に着御小憩の後祭典行事田楽踊り(通称ヒヤソ踊)次に流鏑競馬の御儀終って午後三時前同様路すがらを帰還さる。
古老の言によると、往時御輿渡御に際しては必ず有岡住杉山祖家から参宮御進発の先駆を承ったものであるそうなが、中世に於て有岡から祝詞坊が之に代り近時また之が村長に代った様である。が、こうした事を、想へば宮御落遷の際杉山政国が丹波路へ先駆した因緑によるものであるまいか。尚他の神社に係わらず、有岡二宮神社の金幣高倉神社到着後本殿に於て始めて渡御前の祭典が執行せらるゝのも有岡村と密接な関係にある事を物語るものである。今その行列の状況を視るのも興味多いことであるから茲に記そう。
1渡御の義
前駆(村長) 奉幣(一人)・散米(一人) 獅子頭(一人) 獅子舞(二人) 日の吉白幣(一人) 流鏑馬白幣(一人)流鏑馬白幣(一人) 流鏑馬白幣(一人)田楽踊白幣(一人)大鼓(二人) 高倉神社御旗 星宮神社御旗 二宮神社御旗 三宮神社御旗 天満宮御旗 奥宮神社御旗  大鼓(一人) 御先金幣星宮金幣小台 高倉神社金幣 二宮金幣 天満宮金幣 鼻長星宮鉾 高倉神社鉾 高倉神社二の鉾 三番上鉾(有岡)三番鉾(多田)天満宮鉾(多田)奥宮神社鉾 日の神騎馬一 伶人笛(有岡) 田楽踊(男童廿五人)紅錦 日月の大旗 御神輿(輿丁三十八人)(白丁着用)供奉六人(各区長)神職(騎馬)
御神饌 高倉神社大鼓(三人)流鏑馬(先馬、中馬、三馬)悪魔払(先馬当番一人)流鏑馬各馬毎に口取り弓持 警固各四人宛十二人以上でこれに御供と称し信仰者当日の参拝者数千名が後に続くこととなり続々行列二十丁に及ぶこともあると云う。

2還御式順
前駆村長 御先天満宮の御旗 金幣鉾大鼓 星原御旗 小呂二宮 三面旗太鼓 金幣 獅子頭 獅子舞 高倉神社御旗 金幣 二宮神社金幣 奥宮神社金幣 鼻長 高倉神社 一ノ鉾 二ノ鉾 二宮神社鉾 奥宮神社鉾 三宮神社鉾 日ノ神騎馬 大鼓鈴人 紅錦 日月の旗 田楽師 御輿 高倉神社の大鼓 神職 流鏑馬 還御を終へて奉告式                             以上
3神職

(『吉見村誌』)


日の神

この子が「日の神」様。昔は馬だったが、今は超高級外車。どうした性格の神様なのかわからないが、赤いスポーツカーで巡行に加わる、タマタマ赤色なのか、赤色でないとダメなのかは不明だが、祭礼に何かの役割があるわけではないが、超破格扱いのエライエライ神様のようである。考えられるとすれば、以仁王以前の当社本来の祭神がこうした姿で残されているのかも、日の神なら天照ということだが、皇祖神とされる以前の本来の正史には載らないアマテラスで、海人系の産鉄神か、真っ赤な車に乗り込む姿を見ていて、太陽か鉱炉の「日の神」「火の神」なのかもとも考えた。アマテラスは星では北極星で、この星は太一とか天一と呼ばれる、天一高倉神社の本来の祭神はアマテラスが隠されているかも。今は末社に祀られている天照皇大神社こそが当社の本当の祭神かと思われる。
「白雪姫と七人のこびと」のハイホーハイホーと歌う「こびと」は鉱山労働者、宝石を掘っているそうだけれども、金でも銀でも鉄でもよく、こびとは鍜冶屋を表すことがある。小子部スガルが雷をつかまえたとか、この子はずいぶんと古い凡世界的な鍜冶神かも知れない。。
天照の性別ははっきりしないがフツーは女神とされる、しかし古代でもそうだったかは明確ではない、陽の親玉だから中国では男だろうしエジプトやギリシャでは男性神であることが多い。太陽は男神、月は女神の設定が多い。

綾部の伝承
平氏の残党追捕はきびしく行われたため、生き残った一門は山奥にのがれてかくれ住んだ。いまでも平家の落人にはじまるという村が全国にあり、民俗学者の調査では六、七〇か所におよぶといわれる。綾部市においても黒谷町は平家落人の伝承をもっている。
また市内には、高倉宮以仁王にかかわる伝承もある。それによれば、以仁王は流れ矢のために没したといつわり、実は大槻光頼・渡辺俊久ら十二士がひそかに丹波に案内したが矢疵が重くなり、綾部の吉美の庄で没した。治承四年五月九日のこととしている。そこで王を里村に埋め葬ったが、養和元年九月九日、神霊を奥谷の森、すなわちいまの高倉村に移し、高倉明神としてまつったというのである。現在高倉神社は吉美六か村の総社であり、その祭礼は以仁王伝説にのっとった形式をもって行われている。

高倉神社の祭礼とヒヤソ踊
天一さんとよばれる高倉神社は、高倉町に鎮座する古社で、後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王をまつっている。この神社の起りについては原始古代編で述べたところであり、吉美郷六か所の総社として祭礼が行われてきている。宝暦十三年(一七六三) に記された次の文書は、この祭礼の古式をしめすものである。
 高倉 天一大明神御祭礼御出輿之式
一番  獅子頭 宮本ニ有 持役人 有岡村ヨリ出ル  七番  同 断      小呂村ヨリ出ル
二番  獅子舞      同村に出ル       八番  田楽踊白幣    有岡村ヨリ出ル
三番  日神白幣     六か村 順番     九番  太 鼓      同村ヨリ出ル
四番  神子白幣     多田村ヨリ出ル    十番   幟       高倉村ヨリ出ル
五番  流鏑馬白幣    里村ヨリ出ル     十一番  幟       村々ヨリ入込ニ出ル
六番  同 断      有岡村ヨリ出ル     十二番 太 鼓      多田村ヨリ出ル
      切
 御先
      金幣     星原村    天一大明神 金幣     高倉村
      金幣     有岡村          金幣     多田村
    序 而
 鼻長           高倉村
 御先
    鉾         星原村
 天一大明神 一ノ鉾    高倉村    同 断   二ノ鉾    同 村
 二番鉾          有岡村    三番〃          多田村
 天神〃           同 村    祝詞馬           干原村
 旅宣馬          高倉村    同            有岡村
 笛             同 村
 田楽躍  弐拾四人内   七人 里村 但し高倉は除く
     但シ高倉村除   五人 有岡村
              五人 多田村
              四人 小呂村
              三人 星原村
神輿御供         里 村
             多田村       役人壱人宛
             小呂村       麻上下着
             星原村
支配人 高倉村  役人  但人足差図共兼候事
人足   八人之内    四人 高倉村
             四人 有岡村
 但左右入交り支配人有岡村 高倉村両庄屋 麻上下着用之事
散銭類 高倉鳥居内ハ高倉村付
御旅所之内神輿  正面右ハ有岡村付 後左ハ高倉村付
日神馬  六ケ村順番
    但シ御供物 帳面之通り
神子馬          多田村
天一大明神  太鼓    五ケ村順番 但高倉村除く
流鏑馬          里村
 〃           有岡村
 〃           小呂村
悪魔払          里村 但里村役人麻上下着立合候事
神輿馬場ヨリ還輿之節式
御先  天神       多田村 但高倉於宮御作法御規式依有之也 尤村役人麻上下着用御供之事
二番  星宮           但古格田坂ヨリ御帰也 尤村役人麻上下着用御供之事
天一大明神        高倉村
 二宮          有岡村
 三宮          多田村 但シ有岡村多田村両宮ハ高倉へ直ニ御供ノ事
右之趣此度改被仰付間  末々ニ至迄少茂無違乱急度相守可申者也
                                        源五兵衛
                 万右衛門
 宝暦十三癸未年五月朔日              伝兵衛
       (有岡区有文書)          享 蔵
                                              多  中
 右に記されているように、この祭礼に奉納される田楽がヒヤソ踊である。
 この田楽は吉美地区の六町区から各四人都合二四人のササラと、有岡から出る太鼓・笛各一人によって行われる。裃姿の笛のほかはすべて子供で、カスリの着物にタスキをかけハチマキをしめるのが正装である。ササラが円陣になり、その中央に笛、外に太鼓が立つ。やがて笛が「ヒフヒフ ヒフフヒ ヒフヒヒ」と吹きはじめ、太鼓が脇に抱えた締太鼓を「トンカトンカトントンカ」と打つ……。この間ササラは立ったままで何もしない。やがて笛が急調子にふかれ太鼓が連打されると、ササラは一せいに「ヤソヤソヤソ」と唱えながら右まわりにまわり「まず一番ソーヲ」と言いつつ首からかけたササラの串を一本後背におしあげる。これが一番で、同様に十二番(正式には二十四番) で奉納する。ササラは楽器とは名ばかりで、番数の数取りになっており、それにふさわしく径数ミリ、長さ二〇センチばかりの竹を紐で連ねたものである。
 たいへん単純化されていても、これはやはり田楽である。そのはじまりについて、平氏討伐に敗れた高倉宮以仁王がこの地に落ちて来られたとき、これを迎えた人々が王を慰めようとして始めたものとのいい伝えがある。この田楽は、中世に起源をもつものであると思われる。      (府教委編 京都の民俗芸能による)
(『綾部市史』)





巡行の一部。↑
本社から里町の御旅所まではずいぶんと距離がある。重い屋台など引いていくので、2時間ほどかかるという。

檀那寺は、星原の高野山真言宗金福山栄宝寺


《交通》


《産業》


《姓氏》


高倉の主な歴史記録


ヒヤソ踊り  綾部市高倉町
 綾部市高倉町の高倉神社の秋祭りには「ヒヤソ踊り」と呼ばれる田楽が奉納される。笛や太鼓に鼓が加わり、祭りの呼び物のひとつになっている.この「ヒヤソ踊り」と高倉神社の由来を--。
 いまからおよそ八百年前、世は「平家にあらざれば人にあらず」という平氏の天下だった。平清盛を筆頭にその一門は、ことごとく高位高官に就いていた。これを快く思わないものは、打倒平氏のチャンスをねらっていた。ここに登場するのが、高倉神社にまつられている以仁王。後白河法皇の第二皇子で、この以仁王が、源頼政と謀って平氏討伐に踏み切った。治承四年(一一八○)五月のこと。以仁王は諸国の源氏に「平氏追討の令旨(りょうじ)」を下した。しかし、武運つたなく、源頼政は宇治平等院で自害。以仁王も山城国・光明山で一命をおとした、と歴史の本には記述されている。しかし、このとき死んだのは以仁王ではなく、身代わりの藤原俊秀だ、と綾部ではいい伝えられている。
 丹波国は、そのころ頼政の領地で、吉美郷(いまの吉美地区)は頼政の第六子杉山政国が有岡に城を築いていた。以仁王は、政国の先導でここに落ちのびた、というのだ。それによると、以仁王の一行は六月九日、いまの白瀬橋のあたりで由良川を渡り、吉美郷里村(いまの里町)へ入った。村人は田植えの最中だったが、これを聞いて一行を迎え、歓迎のもてなしに田楽を踊ってみせた。このとき、以仁王も自ら鼓を取って「いやそう、いやそう」と、はやしたてた。「いやそう」とは、戦いや、敗走の旅の疲れをいやそう-という意味で、これがなまって「ヒヤソ踊り」になった、という。
 ここに安住の地を見いだした以仁王だったが、しばらくして戦いで受けた矢傷が悪化して、急死した。息を引き取る前に、「われ後世腹痛の悩みを万民に代わって救わん」といい残したという。それから、二、三カ月後、相次いで、伊豆に源頼朝、信濃に木曾義仲が以仁王の令旨を受けて、平氏追討に立ち上がった。翌年、清盛が死に、平家が壇の浦に滅んだのは、五年後のことだ。
 養和元年(一一八一)九月九日、吉美郷の高峯多谷ヶ森に神社が建てられ、以仁王がまつられた。これが現在の高倉神社で、地名もこれにちなんで高倉と改められた。以仁王は三条高倉に住んでいたので、高倉宮と呼ばれていたという。
 毎年、建立の日に例祭が行われたが新暦になって十月九日になり、いまは体育の日の十月十日に行われ、ヒヤソ踊りも披露。また以仁王の最後の言葉から、腹痛の神として信仰を集めている。

〔しるべ〕以仁王の遺体は里町の本宮(一説には青野町の大塚)に葬られ、ここを掘り起こそうとする者があると、どこからともなく白羽の矢が飛んできて射殺されるなどと、たたりがいい伝えられている。以仁王にしたがった武士十二人は綾部各地に居住、十二士として、いまでは百五十世帯にも増え、十二士講をつくって高倉神社に対する信仰は厚い。昭和四十年には十二士神社を境内に建立している。  (『京都丹波・丹後の伝説』)

高倉のヒヤソ踊
名称  ヒヤソ踊
所在地 綾部市高倉町ほか
時 期 一○月一○日高倉神社祭


綾部の市街をぬけて由良川を渡り、更に北にむかうと丘陵地帯がひろがる。この一帯は旧何鹿部吉美村といわれた所で、高倉町・多田町・里町・小呂町・星原町の六つの集落からなっている。現在は綾部市に編入され、吉美というよび名は住居表示からは消えているが、現実にはこの六部落の結びつきは強く、それらを総称する名称として、吉美地区という言い方は今も生きている。祭礼もこの吉美地区をあげておこなわれる。
祭礼は高倉町奥路に鎮座する高倉神社を中心に六部落全体がおこなうものである。この高倉神社は俗に天一さんの愛称で親しまれ、後白河法皇の第二子、高倉宮以仁王をまつっている。この地は平家追討にやぶれた以仁王が十二士に守られて落ちのびてきた所て、里町までたどりついたが戦傷のためにお亡りになった。そこでこの地に建立した霊廟が高倉神社であるという。そのため、この社に対する人々の尊崇の念は強い。また高倉宮に供奉してきたという十二士の末裔と伝える家が郷内に散在し、格式をほこっている。この地区の祭礼に出されるヒヤソ踊も、高倉宮が、落ちのびてこられた折に、村人が田植姿で踊をお見せしたのがはじまりで、宮はこれを見て「イヤソーイヤソ-」と申されたので「ヒヤソ踊」と呼ぶようになったと伝えている。もとより伝説で確かめるすべはない。


祭礼は一○月一○日、体育の日におこなわれる。もとは一○月九日、さらに以前は旧暦九月九日であったが、新暦に直す際に月遅れとなり、更に体育の日が祝日となって、人々が集まりやすいので一九七二年より一日ずれて一○月一○日になった。当日は午前一○時頃に六部落から関係者が高倉神社(本社)にあつまる。祭典のあと、ヒヤソ踊を二番奉納するならわしであるが、現在は番数を簡略化することもある。また、本来は参道の桜馬場で流鏑馬をおこなっていたか、馬の調達がむつかしく、今はとだえている。別に、にぎやかな太鼓打ちもある。現在は新風のものに変っているが、太鼓打ちはもと、大太鼓を棒に吊し、前後二人でこれをかつぎながら、後のものがバチてたたくものであった。たたき方は奉納の場所によって、それぞれのたたき方があって異っていたという。
高倉神社(本社)での奉納がおわると、神輿を中心に行列が組まれ、三キロほどはなれた里町の御旅所(里宮高倉神社)まで渡御する。御旅所ではヒヤソ踊は二四番が奉納され、再び高倉神社(本社)まで還御して再びヒヤソ踊一二番が奉納される。
田楽は笛一人、太鼓一人、ササラ二三人の三つの役からなる。笛はこの踊りの中てただ一人の大人の役で袴姿に白足袋をはく。六部落中の有岡町より出すきまりであるが、世襲の家ではなく、有岡町の希望者が前任者から習得することになっている。この役は全体の指揮をとる。太鼓は子供の役であるが、年長のものがこれにあたる。首から締太鼓をかけ、左手でささえ右手のバチでこれをうつ。太鼓の役も有岡町より出す。ビンザサラ(踊子)は全部で二三人である。いずれも小学生の男子で、カスリの着物に茶のたてじまのハカマをつけ、頭に白い晒のハチマキをしめ、背中には同じく白のタスキを結んで長くたらし、白足袋をはく。この衣装は太鼓の役も同じである。踊子は首からビンザサラをかけている。ビンザサラは、一本の長さ約二○センチ、幅は一センチばかりの細長い竹二四本からなっており、上端の穴に紐を通して首からさげている。一番舞い終ると一本ずつ後背におしあげていき、二四番奉納すると、全部おしあげるようになっている。つまり楽器としての使われ方でなく、踊の数取りとして用いられている。
ビンザサラの役は各部落ごとに分担があり、元来は多田町五人、里町七人、有岡町五人、星原町三人、小呂町四人の役で、高倉町は昔からこの役を出さなかった。しかし今は各町平等という事で人数割も変化をきたし、高倉町からも出すようになっている。その役ぎめは子供会にあずけられている。
田楽躍そのものは単純である。位置どりは、笛が中央に立ち、そのまわりをビンザサラが円陣を組んで、内側をむき、太鼓はその外にやはり内側をむいて立つ。まず笛が「ヒフヒフ ヒフフヒ ヒフヒヒ」とふき、太鼓は「トンカ トンカ トンカ」とうつ。トンは、ハチで皮をたたき、カはふちをたたく音である。この間ササラは立ったままで動作はない。ついで笛が急調子となり、ササラは「ソーオ」といいながら一歩すすみ、ついで太鼓の連打とともに「ヤソヤソヤソ」と早口にとなえながら右まわりに足早やにまわる。そして「まず一番ソーオ」といいながら、首のササラを一本肩にかげあげる。これで一番である。これを高倉本社では一二番、お旅所では二四番を奉納する。
祭礼の翌日は本来は各部落の祭であったらしい。
有岡町は太鼓・笛・ビンザサラの役が部落の二宮神社をはじめ、小宮や株の荒神をまわるならいであったが、現在は祭礼のおわった午後におこなっている。小呂ではビンザサラの四人が翌日に部落内の各戸をまわり、餅や米をもらって歩いたが、現在はこれも祭礼当日のうちにすまされる。他の地区では伝承は聞けなかったが、各部落でも高倉神社の祭礼の翌日に部落の神々をまつって歩いたものであろうと推定される。
こうした形態はいくつかの部落が集って郷単位で祭礼をおこなう場合によくみられることで注意をひく。ここで吉美地区の祭礼の組織を整理してみると、まず、高倉神社は吉美地区という旧村、もしくは郷全体の神社である。そして祭礼にあたっては各部落が決められた任務分担をもって奉仕する。ヒヤソ踊ではビンザサラの人員が決められており、また笛と太鼓は有岡町から出るしきたりである。後にかかげる江戸時代の記録によれば、この役割分担は多様をきわめ、有岡村の獅子頭をはじめとして、白幣・金幣・幟・鉾、祭礼用の馬、流鏑馬用の馬、神輿かぎなどの役がきめ細かに決められている。ついで各部落には部落の氏神が別に存在する。同じく高倉神社の記録によれば、郷内には高倉神社、二宮神社、天満神社、星宮神社、奥宮神社、三宮神社の六社の名があげられており、祭礼にはこれらの神社からの幟や幣が集まる。それぞれの所在地は、高倉神社が、本社は高倉町に、御旅が里町にあるのをはじめとして、二宮神社は有岡町、三ノ宮神社は多田町、天満神社も多田町、星宮神社は星原(干原)町にある。そしてこれらは高倉神社の祭礼の翌日に各部落単位でまつられていたようである。
さらに各部落内は家株によっていくつかの組織にわかれ、株ごとの株荒神がまつられている。この株荒神も有岡では翌日の部落祭でまわることとなっている。また高倉神社の祭礼にあたってもこの株は役ぎめの最小単位となっていたもようで、流鏑馬の馬宿は一八軒ほどの株が担当していたということである。このように株、部落、郷(旧村)の三つの単位が重層し、それぞれ、株荒神、部落社(二宮神社など)、郷の神社(高倉神社)をもっている。二宮神社、三宮神社という言い方をするところからみると、高倉神社は郷内の一宮であったらしい。
その祭礼を郷をあげておこなうというのは、古い祭礼の形をとどめるものと思われる。
さてヒヤソ踊は簡略ながら田楽のおもかげをとどめているが、田楽とセットになることの多い王の舞と獅子舞もその片鱗が残っており、注目される。獅子については、いわゆる太神楽系の獅子舞も行なわれているが、これとは別に非常に古い獅子頭があり、神幸・還幸の行列に出ている。この獅子頭は高倉神社に保存され、行列に際しては有岡町の人によって肩にかつがれる。舞や動作はなく、ただ歩くのみで、頭の痛い人が獅子にかんでもらうと治るといい、希望の人をかんでいく。獅子の形といい、また大神楽系の獅子舞とは別扱いにされている点で、田楽系の獅子と思われる。次に王の舞については、その仮面である鼻長の役名が残っている。現在の鼻長は面も失われ、その意味については伝承がとだえている。持ちものはただ棒のみで、その棒は舟の艪であるとのみ伝えるが、鉾の変化したものかもしれない。このように名称のほかは王の舞の名残りを示すものはないが、田楽・獅子・王の舞とそろう点は興味ぶかい。
これとのかかわりで、いまひとつ注目すべきことがある。それは、高倉神社祭で二五人編成をとるヒヤソ踊が、有岡町段階で笛一・太鼓一・ビンザサラ三の五人編成をとることである。有岡町がもつ芸能的位置とあいまって、この五人編成が一つの単位であったとも考えられよう。

高倉神社には幾点かの古文書・古記録を残すが、このうち、祭礼に関係するものは、宝暦十三年(一七六三)五月一日付の『高倉天一大明神御祭礼御出輿之式』と明和二年(一七六五)四月付の『神輿馬場ヨリ還輿之式』さらに文化四年九月九日改とある『御祭礼古例帳』の三つである。前二者は巻子仕立て、後者は袋綴じの冊子となっている。前二者は神幸・還幸の行列の次第と奉仕する部落名が詳しく記され、往時の祭礼のありさまを彷彿とさせる。このうち、ヒヤソ踊については「田楽踊弐拾四人内、七人里村、五人有岡村、五人多田村、四人小呂村、三人干原(星原)村、但高倉ハ除ク」とあり、やはり田楽踊と称していたことがわかる。またササラ役の出仕分担も現行の伝承とかわらない。このほか、有岡町には「覚附笛之次第」と題する笛の譜がある。これらはまとめて以下に翻刻した。

高倉天一大明神御祭礼御出輿之式
            持役人
一番 獅子頭 宮本ニ有  有岡村より出ル
二番 獅子舞       同村より出ル
三番 日神白幣      六ヶ村順番
四番 神子白幣      多田村より出ル
五番 流鏑馬白幣     里村より出ル
六番 同断        有岡村より出ル
七番 同断        小呂村より出ル
八番 田楽踊白幣     有岡村より出ル
九番 太鼓        同村より出ル
十番 幟         高倉村より出ル

十一番 幟        村々より入込出ル
十二番 太鼓       多田村より出ル
   切
御先金幣         干原村
天一大明神金幣      高倉村
金幣           有岡村
金幣           多田村
     序而
鼻長           高倉村
御先鉾          千原村
天一大明神一ノ鉾     高倉村
同断ニノ鉾        同村
二番鉾          有岡村
三番鉾          多田村
天神鉾          同村
祝詞馬          干原村
禰宜馬          高倉村
禰宜馬          有岡村
笛            同村
田楽踊弐拾四人内七人   里村
 但高倉ハ除ク      五人有岡村
              五人多田村
              四人小呂村
              三人干原村
神輿  御供       里村 役人壱人宛
                麻上下着
              多田村
              小呂村
              干原村
      支配人高倉村役人
       但人足指図共兼帯
      人足八人内 四人 高倉村
            四人 有岡村
       但左右入交リ支配人有岡村高倉村
        両庄屋麻上下着用之事
散銭類 高倉鳥居内ハ高倉附
    御旅所之内神輿ノ正面右ハ有岡村附 後左ハ高倉村附
日之神馬        六ヶ村順番
  但御供物帳面之通
神子馬        多田村
天一大明神太鼓    五ヶ村順番
   但高倉村除ク
流鏑馬        里村

流鏑馬        有岡村
流鏑馬        小呂村
悪魔払        里村
 但里村役人麻上下着立合候事
神輿馬場ヨリ還興之節式
御先
 天神        多田村
  但高倉於宮御作法之御規式依有之也
  尤村役人麻上下着用御供之事
二番         
 星ノ宮       干原村
    但古格田坂より御帰也
    尤村役人麻上下着用御供之事
天一大明神      高倉村
二ノ宮        有岡村
三ノ宮        多田村
  但有岡多田両宮ハ高倉江直ニ御供之事
右之趣此度改メ被仰付間、末々ニ至迄少茂無違乱急度相守可申者也
   宝暦十三癸未年五月朔日 源五兵衛
               万右衛門
               伝兵衛
               享 蔵
               多 中

               里村
               有岡村
               多田村
               小呂村
               高倉村
               干原村
             右之村々
                庄屋年寄
                  惣氏子中

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   神輿馬場より還輿之式
御先
 天神         多田村
 幟          出ル
 金幣         出ル
 鉾          出ル
   但、高倉於宮御作法御規式依有之也
   尤御侍悉相立押多田村役人組頭弐人相勤ル
二番
 星ノ宮        干原村
 幟          出ル

 金幣         出ル
 鉾          出ル
   但、古格田坂より御帰也、尤村役人組頭弐人押相勤ル
    切
           持役人
 一、天一大明神獅子頭  有岡村
  二番 獅々舞     同村より出ル
  三番 幟       出ル
  序□ 幟       村々入込出ル
  四番 太鼓      多田村より出ル
 一、天一大明神金幣   高倉村
  二ノ宮大明神金幣   有岡村
  鼻長         高倉村
  一ノ鉾        出ル
  二ノ鉾        出ル
  二ノ宮大明神鉾    有岡村
  三ノ宮鉾       多田村
  祝詞馬        干原村
    但シ田坂より帰ル
  禰宜馬        高倉村
    但、高倉宮江御供之事
  禰宜馬        有岡村
   同断
 太鼓            同村
   同断
 笛             同村
   同断
 田楽踊高倉宮御供之事
  神輿  里村、有岡村、多田村、小呂村、干原村ト廻ル
一、天一大明神太鼓  五ヶ村順番、里村より初メ村々へ廻ス
   但、高倉村除ク
  日ノ神馬         六ヶ村順番
    但、里村ハ馬場より直ニ帰ル、有岡村ハ高向より帰ル、多田村
    小呂村干原村は田坂より帰ル、高倉村ハ高倉村江入直ニ帰ル
  神子馬          多田村
    但、高倉宮江直ニ御供神楽上ル
  流鏑馬          里村
    但、地主堂より帰ル
  流鏑馬          有岡村
    右、同断
  流鏑馬          小呂村
    田坂より帰ル
右御祭礼式、去ル未年改被御出候処、還輿之砌乱相成候旨相聞候付、

右之趣御添書改被仰出間、末々ニ至迄少茂無違乱急度相守可申者也
              源五兵衛
              万右衛門
  明和ニ乙酉年四月    惣左衛門
              伝兵衛
              多 中

              里村
              有岡村
              多田村
              小呂村
              高倉村
              干原村
           右村々庄屋年寄
                惣氏子中

----
  「(表紙)
      高倉神社
     御祭礼古例帳
      文化四卯年九月九日改   」
    祭礼ニ付献供勤方次第

御神酒      あま酒
御神酒      常之通
拾八膳      くつ形御供
  内
   弐ぜん     内向
   同壱ぜん    外向
   百弐拾ぜん   杉森御供
   豆御供
   大ぶり
    右御献供之上申上
 高倉神社
 二宮神社      ひよふぎ数百八十一枚
 天満宮社      内
 星宮神社      上十五膳
 奥宮神社      中十二森三膳
 三宮神社      下十四膳
  右之通り候也
    馬場ニ而御備へ
 拾弐森三膳
 五シ森廿九ぜん
   〆三拾弐ぜん

    日ノ神
 御神酒
 御供
 白幣付ながら
      右加輿長扶持方
           氏子六ヶ村庄屋年寄中
  文化三年帳写

一、せつぷん 杉森 上十五ぜん  ひふぎ数
                  〆百八十壱枚
          中十二森三膳
          下十四ぜん
一、正月御祭り始 灯明拾弐燈
  并ニ御鏡餅、本社へ六ツ并向戸前へ同事 〆拾八なり、外ニひよふ
  ぎ本社へ拾弐森三膳、上ノ御戸前へ五ツ森拾五膳、下ノ御戸前へ拾
  四膳、〆三拾弐膳、并ニ小宮へも五シ森三膳宛、輿并ニ御供石へも
  同断
一、三月節句 御燈明三燈御供菱餅之義ハ、右之通り三拾弐森小宮へ
  も同断也
一、五月節句 笹巻御供同事、燈明三燈
一、六月祭 御燈明拾弐燈、笹巻三拾弐盛同事、村方笹巻ニッ宛郷内
  へも参詣人ヲ笹巻見合事
一、九月六日 田辺よりねぎ帰り候へバ小豆飯待請致候
一、七日 米つき三人火ばつを朝飯米一うすつき候へハ、昼飯之米と
致し候、膳部之儀ハ平と汁限り之事、晩ハ芋飯なりと見合之事
一、神子同断 神子来リ候へバ紙弐拾枚ト米壱斗進上致候也
    日ノ神ヨリ高倉神社御そなへもの
一、土かわらけ  三ツ
一、柿      三ツ
一、栗      三ツ
一、御供     三膳
一、御神酒    一樽
  一、高倉輿かぎへ 弐膳
  一、一ノ鉾    壱ぜん
  一、弐ノ鉾    壱ぜん
  一、鼻長     壱ぜん
  一、禰ぎ     壱膳
  一、御はた     三拾五膳
   里村
   ぶさめ
一、やくさミ  一ぜん
一、大日様   二ぜん
一、神酒    一樽
一、御はた何かへ 弐拾枚
  〆
    有岡村
一、輿かき    弐ぜん
一、獅子頭へ   壱ぜん
一、御笛吹    壱ぜん
一、御鉾     壱ぜん
一、やぶさめ   壱ぜん
一禰ぎ      壱ぜん
一、御はた    五十枚
    多田村
一、御鉾     壱ぜん
一、同      壱ぜん
一、神子     壱ぜん
一、御はた何かへ 四拾枚
一、外に壱ぜん 南光寺太夫へ
  〆
    小呂村
一、やぶさめ   壱ぜん
一、御はた何かへ 三十枚
  〆
    星原村
一、御鉾     壱膳
一、のりと坊   壱ぜん
一、御はた何かへ 三拾枚
  〆
一、日ノ神子供  壱ぜん
一、高倉社太鼓持打手共三人へ ひふき三枚
    日ノ神買物
一、三ツ椀 足袋 こざ しゃく たが 白粉
一、七日 神子へ米壱斗 八日 太夫へ米壱斗
   八日朝
一、米壱升五台 取□見合之事
一、五百斗   房御供見合
    此内五ツ盛弐拾九ぜん 但シ此御供御はた中へ下ル也
    同拾弐森三ぜんと〆三拾弐森ハ馬場ニ而御そなへ申候也
一、沓形 十八斗  見合之事
一、ひよふぎ 弐拾枚計り 見合之事
 米七度蒸次ニあま酒米壱升
          麺米 壱升
 豆御供蒸 御供之儀ハ宮へ持参置候
 九日朝 杉森百弐拾膳御そなへ
 同 小宮輿御供石へも一せん宛御そなへ
   九日朝江戸表御殿様へ
一、御札   一
一、ひよふぎ 三
  水引白赤ニ而
    〆
     十倉御門内
    御札 壱枚
    沓形 壱枚
    ひよふぎ 壱枚
    〆
      右は大庄屋へも同断之事
      杉森之御供下ル
       里村
       小呂村
       多田村
     御出前
一、御はたへ 壱ぜん
一、御鉾へ  壱ぜん
一、のりと坊へ 壱ぜん
   右者三膳星原村へ下ル
    やぐさ馬
一、里村
一、有岡村
一、小呂村
  右三膳計り
一、日神へ 一ぜん
一、神子へ 壱ぜん
   右弐膳
   〆八膳御出前ニ下ル
    御帰後下ル
    ひやそふ済次第
一、御はた 壱ぜん
一、ひやそふへ 壱ぜん
   右者弐ぜん里村何かへ
一、獅子頭へ 壱ぜん
一、輿かき 壱ぜん
一、鉾   壱ぜん
一、笛吹  壱ぜん
一、ひやそふ 壱ぜん
一、御はた 三膳
    右九膳有岡村
一、鉾    壱ぜん 三ノ宮村
一、はた   壱ぜん 同
一、鉾    壱ぜん 天満宮
一、はた   壱ぜん
一、ひやそふ 壱ぜん
    右六膳多田村何かへ
一、ひやそふ 壱ぜん 星原村へ
一、ひやそふ 壱ぜん
一、はた   壱ぜん
   右者弐膳小呂村へ
   山家御奉行様へ 弐膳
   十倉御奉行様へ 壱膳
   〆三拾弐膳
     内八膳  御出前 同廿四膳 御帰り後
    世話方者馬場ニ而神酒下る
高倉禰ぎ
有岡禰ぎ
高倉一ノ鉾
同ニノ鉾
鼻長
御輿
金幣
御はた
   右日神えも同事なり
世話方ハ輿え塞銭ヲ下テ、柿買申候、宮元はた中何かへ柿一ツゝ下ル、
御帰後、ひやそう禰ぎへ参りおどり、済候へばなすびのあへものニ而
ひや酒ヲ出シ可申候、玄米壱升進上致ス也
    日神宿
七日神子出来り候へバ幣串三尺なり、米三合三夕紙三十弐枚、右ハ幣
串ニはだけ置也、此紙ハ馬場ニ而御供ヲ三十二森つゝミてそなへ申也
一、右之米弐合弐夕高倉禰ぎ取
一、同  壱合壱夕有岡禰ぎ取
一、くつ方壱つニ杉森壱膳□ 有岡禰ぎ九日晩帰宅之節進上候
    八日昼
日ノ神子供ト宿檀那ト禰ぎへ参り、日ノ神子供ヲ上座ニ直シ飯くひ候
へハ、役割宿より頼申候
一、白幣持
一、神酒持
一、馬口
右三人頼ミて帰るなり
    九日晩役御供下シ用之事
一、房御供十二森壱膳宛
一、一ノ鉾
一、二ノ鉾
一、鼻長
一、御輿中へ 弐ぜん
一、御はた何かへ 五シ森壱人前壱ぜん宛
一、村并弐つ宛村中へ下ルなり、外ニ杉森御供下る事、壱膳宛
一、壱ノ鉾
一、弐ノ鉾
一、鼻長
一、輿へ 弐ぜん
一、御はた中へ 三ぜん
  〆 八膳
    御祭礼之事
一、獅子頭  一、獅子舞
一、日神白幣 一、神子白幣
一、かけ馬白幣  里村有岡村小呂村
「(裏表紙)
   明治廿六年九月  四方幸太郎  」

(『京都の田楽調査報告』)


*ふるさとの社寺を歩く〈44〉*高倉神社(綾部市高倉町)*腹痛除け祭典催す*
 一葉の香類が、歴史を変えることがある。一人の皇子がはなった令旨が、中世に隆盛を極めた平家一門を滅亡へと導く。平家討伐の旗を揚げた、歴史上もっとも有名な皇子の一人・高倉宮以仁王(もちひとおう、一一五一-八〇)が、高倉神社の祭神である。
 一一八〇年、以仁王は鵺(ぬえ)退治で有名な源頼政(一一〇四-八〇)とはかり、平家討伐の令旨を全国に送った。しかし事件が発覚。奈良に落ちる途中、宇治で平家方の追っ手の矢を受け、南山城光明山寺付近で討ち死にしたとされる。
 現在、山城町には以仁王を祭る高倉神社と陵墓があり、日本史上での以仁王落命の場所は、山城町ということになっている。
 しかし、綾部市こそ以仁王落命の地とする伝説が同市に残っている。山城町で亡くなったはずの以仁王が十二人の頼政の家臣に守られ、ひそかに丹波に逃げ落ちたという。腹部の矢傷が悪化し、この地で息を引き取った宮の霊を慰めるため、同地の高倉神社は祭られたという。
 記録はほとんど残っておらず、裏付けは難しい。だが、以仁王にまつわる、ほほ笑ましい習俗が同社に伝えられている。
 同社では、腹部の傷で命を落とした以仁王を「腹痛の神様」と祭り、土用の丑(うし)大祭で腹痛除(よ)けの祭典を催す。深夜丑の刻(午前一時から三時)に同社に参り、宮の手に模した五葉のササを敷地内で採取し、腹痛の時にササで腹をさすると痛みが消えるという。同夜は、腹痛除けの「腹わたモチ」も売られ、「氏子をはじめ、遠くは福井、兵庫県から約千人が訪れる」(四方律夫宮司)。
 たわいもないと言えばそれまでだが、以仁王に限らず全国各地に記録のない伝承や習俗が伝わり、人々の信仰が存在する。そんな習俗や人々が、歴史を血の通ったものとし、面白くしている。
(『京都新聞』(96・3・12))


伝説





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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