九社明神と九重神社
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西舞鶴地区には、九社明神と呼ばれる神社が存在する。またまた長い引用で恐縮であるが、私が下手な要約をしたり怪しげな説明をするよりは、直接資料を読んで頂く方がはるかに正確で読み応えもあるので、ご辛抱を願いたい。
『舞鶴市史 各説編』には、 〈 西地区には、九社神社といわれる神社があった。九社明神とは九つの神社の神々を指す言葉で、このことについて触れている文献は、いまのところ享保十六年(1731)の「丹後国加佐郡寺社町在旧記」が古く、ついで、享保二十年の「丹後旧事記」があり、「一、郷中古来より九社明神と云有」として神社または神名および所在地を列挙している。しかし、数ある神社のなかから九社だけをいかなる理由で選び、いかなる待遇を与え、何を行ったのか、また、この意味するものは何か、などいずれも究明されていない。 女布の日原神社の「御旅所略縁起」(明治十二年第五組戸長役場写)によれば、「天武天皇白鳳元年に九会神事が始り、毎年、御祓川上流の山崎川原に九社の神輿を集めて祭典を行ったが、慶長十六年から十八年(1611-1613)までの三年間は、七日市より神輿が進まず、やむなく日原神社の元の御旅所の下森を仮祭場としたことから、以後そこを祭場とした」といい、また「九重神社略記」(七日市)も、ほぼ同様のことを伝えている。これによると「慶長十八年(1613)に八咫笶原宮の祝部海部正之が九会神を下森に祀ったところ、流行していた疫病がやんだ」とも書いている。 この「縁起」にも日原神社神主大谷美正の署名があるが、「略記」とともに原本未見のため正確に資料批判することが出来ないが、疑問点も多い。ただ、享保以前から九社明神として、他の明神に比して何か特別な扱いを行っていたことは十分にうかがえる。参考のため左にこれを掲げる。 〉 として下の表を掲げている。
さて、この話の解明である。まず「九社」はどう読むのか、何を意味しているのかである。 九社とは表記に使われた漢字の意味通りに、「九つの神社」として誤りはないのか。そう固く信じて疑った人はかつて一人もなかった。しかし私たち・郷土史を研究しようかという者には聖域はない。当たり前を疑うことから学問や科学は進歩してきた。まずはこの古来からの通説を疑おうではないか。 表を見れば11社ある、旧語集には8社しかない。何が九社だろう。おかしいではないか。どれかが誤記だとでもいうのなら簡単だが、そうではないのではないか。他の文献も九社とは九つ神社の事と思い込んでいて、無理に九つに員数合わせをしているかも知れない。元々は九社とは九つの神社を意味していないのではなかろうか。 九社をキュウシャと読めば、先のクシに似た発音になる。クシャ・クサとも読める。カサくさくもなってくる。九社は何かそうした発音に対する当字ではないだろうか。音が先である、字は後のもの。地名漢字の十中八九は当字と柳田は書いている。神社名もそれに似たものである。神社名は古来の発音を地名よりは正確に記憶している場合が多い。「九社」とは九つの社ではなく、クシフル神社・カシハラ神社・カサ神社のことと私は考えている。 九社神社とか九所明神は私はほかでもいくつか見ている。何も西舞鶴だけにあるのではない。はたして何者かと解明されたものがあるのかどうかも知らない。 当地と同じで9つのホコラが祀ってあったりしたが、敦賀の越前一宮・気比神社の境内にあった。 綾部市西坂の枯木峠近くにも 京都御室の仁和寺の境内にもあったと記憶している(左は同寺のハンプ。右手上に九社明神とある)。 いずれも渡来人たちの活躍があったような場所になる。なおGOOGLEで探索すると和歌山県の根来寺にもある。 もし敦賀市の気比神社に祀られるものと同じ九社なら、大加羅の王子の都怒我阿羅斯等系統になるし、仁和寺なら新羅加羅系の秦氏の系統、枯木峠の麓なら加羅来かも知れないから、加羅系統と考えられる。たぶん加羅や新羅系統の人々でなかったかと思われる。直接かいくつか日本国内を遍歴した後かわからないが、当地への渡来時期の絶対年代は、考古学で決めてもらうより手はないが、とりあえずは紀元前後くらいか、もう二百年くらい遡るころとしておこう。このころから西舞鶴の今に続く歴史は始まるのであろうかと思われる。 根来寺 先だって敦賀市の しかしこれはどこか不自然な無理な員数合わせという感じがする。有名な角鹿神社とか他にも摂社や末社があるのに、何故に9つだけを特別に選んだのだろう。九社という漢字に引かれたのではなかろうかと私は思った。敦賀にはクシという地名がたくさんある。櫛川、櫛林、沓、沓見、これらと同じようなクシという名の神社が本当はあったのではなかろうか。たぶん天日槍系統の人々の祀る神社が古くからあったのではないかな、気比神社よりも古い神社だったかも知れないと考えたようなわけである。 さて、朝代、朝禰は前ページですでに見ている。以下に説明するように、朝代・朝禰の故地が千石山麓であったことが、ここからも知られるのである。 上の表に記載された、一つ一つの神社をみてゆくことにしよう。
千石山の東麓にある。この神社参道に「延喜式内日原神社往古九社神輿御旅所」の四角の、背丈の二倍もある石柱が建っている。この裏に「昭和二年九月再建」とあり、写真から見て右側が正面で「下森神社」とある。この石柱に沿って小道を20メートルばかり入ると下森神社(舞鶴市女布)がある。ホコラ程度の神社である。 明治中頃までは昼なお暗い狐狸の住む森であったそうである。少し前まで畑だったが、現在は新興住宅が建ち並ぶようになている。この地面の下が女布遺跡である。弥生後期からの遺跡であるが、有舌尖頭器の破片も出土している。縄文の草創期から人がいたようである。彼らが求めた物は兎かそれとも水銀だったのだろうか。 森さんと呼ばれいて、亀の形をした丘の一番高い所に鎮座している。 『ふるさと女布』は「京都遺跡地図」を引用している。私も孫引させてもらうと、 〈 さて四方が肥沃な、いかも水利に恵まれた平地をもつ、やや高燥なこの台地は、正に弥生人たちの集落を営む絶好の地であったろうと考えられる。やがて古墳時代を迎えて、生活はますます豊かになり、集落も拡大され、彼等の首長を葬る古墳も営まれたであろう。例えば当勝神社内古墳や、城屋遺跡、あるいは高野川を隔てて茶臼山古墳、その他の古墳も近く、さらには中世に発生した集落名といわれる京田(きょうでん)、や高野(こうや)、公文名(くもんみょう)などの地名からも、西舞鶴地方の水田耕作(稲作)集落の発生はこのあたりから初まり、次第に周辺部に広がって行ったと考えられる。 ともあれ、この女布遺跡が、その出土品からみても弥生時代中期の住居跡であり、古墳時代・奈良・平安時代の各種の出土物が見られることと考え合わせて、当地方の文化の芽生えを、推定させる貴重な遺跡であることは特に注目したい。 〉 考古学的に見てもこういった事がいえるようだ、別方向からの私の分析も実にその通りになる。 九社明神を氏神に持つ集落は、確実にここが(もう少し広い範囲の高野村の千石山麓が)古里だろう。なぜならここがその御旅所、すなわち各々の神社の元の鎮座地だからである。 神社だけが勝手に移動したのではなく、それを祀る人々が移動したのだ。ここがクシフルの地、カサの地だ。クシフル神社・カサ神社の地である。クシフル山・カサ山は千石山である。女布川の流域、もっと絞れば、女布遺跡の地、こここそがカサの地であろう。 先の『市史』によれば、毎年、 御祓川は今はない。弥仙山麓の綾部市於与岐を水源にする真倉川(丹波川)と呼ばれた川が北流していたのだろうが、江戸初期に河川の床替が行われ、以前の場所をこの川は流れていない。今の鉄道か国道27号線の辺りかもう少し西側であろうか。ここで氏子はミソギをし、身も心も清めて来臨する神を迎えたのだろう。 御仮屋と呼ばれる所も、その途中にあったそうである。御仮屋も御旅所も同じ意味である。ご丁寧に蛇に足を加えたのだろうか、別に特にここという点ではなく、面としてあったのだろうか、時代によっても一定しなかったのか、だいたいこの辺に神は降臨されると伝えられたのか。この周辺はここに住む者たちの一等地であり、いつの時代でも下森の地で祭典が行えたとも思えない。何か事情が発生して場所をあちこちと移動させなければならないことも多々あったのかも知れない。 つまらぬ解説をつけておくと、本来は千石山の頂上の磐座にご来臨あったのである。天から降りるのだから、一番降りやすい高いところであった。しかしそこへお迎え、お送りが大変になる。下森神社からずっと千石山頂上へ続く道が残っているが、この道を送迎したのであろう。 大変だから、じゃあ、直接麓まで降りて頂こうと、人の住む平地に降りられるようになる。平地でも高い所、高い岩や樹木などが依代になる。岩もないところなので、一番高い平地、すなわち現在の下森神社の地が降臨地であったろう。この地が「往古九社神輿御旅所」と記憶されているのは当たっていると思う。 下森の森は神社を意味しており下宮、下の神社という意味である。中ノ森・上ノ森が想定できる。下森から千石山山頂まで、ほぼ直線の参道が続く、古代の道はこうだったんだろうと思わせるようなまっすぐな道だが、その途中に式内・日原神社、これが中ノ森だろう。山頂磐座が上ノ森だろう。 また、神事の始まりを天武元年としている所も面白い、先の朝代神社の創建由緒はいつとされていたか、ご記憶されているだろうか。同じ天武元年(672)であった。壬申の乱の最中である。天武の即位は翌年の天武2年である。 もとよりいいかげんな話であろう、実際は天武よりずっと古いのであるが、なぜか天武と結びつく縁起を持つのである。また朝代が九社と同年の縁起をもち、まさしく千石山麓こそが故地と知れるのである。
式内社・日原神社は、先の下森神社から千石山頂上へ続く古い参道の中ほど、現在の女布集落の西はずれの宮谷に鎮座する。延喜式内加佐郡11社の小社、丹後風土記残欠に日原社、「室尾山観音寺神名帳」に従二位日原明神と見える社である。
『舞鶴市史・各説編』は 〈 日原神社は一説に「田辺朝代町 朝代大明神伊奘諾命」(丹後旧事記)とするが、これは誤りと思われる。祭神は天日腹大科度美神(丹後国加佐郡女布村日原神社御旅所略縁起)とも、日臣命(ひのおみ)とも伝えられる。大科度美神は大国主命の裔、若昼女神を母神としている(古事記)。因みにヒルメ・ミヌメなどは太陽母神に仕える巫女的性格がつよく(折口信夫全集・二巻)、その子科度美神は祓に関与する神名でないかと考えられる。また日臣命は「高志連。高魂命(たかみむすび)の九世の孫、日臣命の後なり」(『姓氏録』右京神別上)あいは「高志壬生連。日臣命の七世の孫、室屋の大連の後なり」(同)とあり、壬生の名は古代信仰上きわめて重要である。所在地の女布は熊野郡久美浜町に同じ地名があり、式内社の売女神社がある。更に竹野郡網野町にも同名の神社があり、ここは旧和田上野村字女布谷である。この地方ではヒメフ・メブなどと呼称するが、この売女の神の系統は山陰道に点在する。本市の女布がメブ・ミブ・ニフ・ニュウなどの転訛ならば、日の神に仕える”水の神”(折口信夫全集・二巻他)として注目され、日原神社もこれと無関係ではないと思われる。 〉 祭神というのは当てにはならない場合が多い。古代からの本来の祭神が伝わっていない場合の方がずっと多いからである。後の世に無理して考えられたような祭神を、いくら考察しても成果はない。 日原とは何かをまず考えねばなるまい。鎮座の位置から考えても、九社の一社であるということからも、クシフル系の神社であると思われる。 吉田東伍の『地名辞書』は目原としてメフと読んでいる、この人は天才の人に思える、私など非才の者には思いさえつかない説ではあるが、これは当たらないだろう。 どの言語においても、ヒ(hi)とシ(shi)はよく入れ替わる音であるといわれる、七はシチなのかヒチなのか、質屋はシチヤだろうが、ヒチヤともいう。ヒツコイ話だが、人はヒトなのかシトなのか、一つはヒトツなのかシトツなのか。こうした人間の発音構造上どうしても発生するユレを方言だと考えてしまう立場も多いようだが、どちらが「正規」表現で、どちらが「方言」なのか、公文書でも作る場合はどちらかに統一したらいいだろうが、どちらが正しいというような性格のものではない。どちらもそれで正しいのである。こんな事までも、おカミに決めてもらうなどといったことはやめた方がいい。 ヒハラではなく、シハラではなかったか。クシフルのシフルである。その方がピッタリと合う、九社の中では唯一の式内社で、九社の親玉であるにふさわしい名になる。シフルはソフルのことである。ソフルは首都の意味とよく書かれている。そう理解してもとりあえずはいいかもしれない。 韓国の首都はソフルであることは誰もが知っている。このソフルは気の遠くなるようなずいぶんと古い地名である。 高句麗の分れた元の東扶餘は鴨緑江上流の迦葉原に都を置いた。その迦葉原というのも何となく日本の橿原に似て、たぶんクシフルである。 万景峰という船が入港できないとかで、舞鶴にクサボンという代船が入ったことがある。報道陣が舞鶴港を埋めたのであるが、これはクサ峰だろう。これなどはカサ峰でないだろうか。たぶん日朝共通の山名ではないかと思う。お互い顔もよく似ているし、こう書いている日本語は中国語のみだれたものではない、朝鮮語と同系統の言語である。フセインやブッシュは親類ではないが、キムは親戚筋でしょう。少なくとも日本国家建設の根幹となる政治・経済・文化の中心は彼らが担ったものと考えざるを得ない。 日原宮はこうした歴史の流れにある神社なのだと私は考える。式内社比定を朝代と争うのは、元々は同じだからである。一応こうしておく。女布のあたりは複雑だから、簡単にはいかない、何が飛び出すかわからない。 先の『市史』(昭和50発行)には、いろいろと混乱が見えるのでいくつか訂正をしておこう。まず、出雲系の天日腹大科度美神の母神を若昼女神として考察を進めるが、この祭神自体がどこまで信用できるものか怪しい上に、『古事記』はこの神の名を 『加佐郡誌』がそう記しているのだが、祭神を日臣命としても怪しい。彼は『書紀』には、道臣ともされ、大伴氏の遠祖とあって、ぜんぜん当地とは結びつかない。日原の日と関係ありそうだと考えてこんな祭神にしたのではないかとも思われる。しかしその日原すらあやしい、たぶん当社はシハラである。接頭語の また女布の地名は、日原神社とは関係がないであろう。女布にはもう一つ別系統の天王さんと呼ばれる金峰神社があり、その奥の院に 『ふるさとのやしろ』は、二つの祭神を考察して頭をかしげた様子である。 〈 祭神がさだかでないほど、古いお宮なのであろう。 〉 としている。それが本当であろう。西舞鶴開闢当時の弥生の神社。祭神は不明。 日原という名はずいぶんと古いものだと思う。女布とか高野という以前は、この辺り一帯は、あるいは西舞鶴地区の全体は日原と呼んだかも知れない。 高野川の源流、城屋の奥は日浦谷という。日浦は日陰を意味する地名ともいうがそれも怪しい説で、日原と同じ意味だったかもしれない。笠水神社の御手洗川は新原川、漁師町の吉原は、『京都府の地名』によれば、 〈 享保頃写された丹後国田辺之図(杉本隆可家蔵)によれば、東吉原町は「五給四間、家数不知」、西吉原町は「東より西へ六拾八間半、幅浜迄八間、家数不知、新裏町共云」であった。 〉 とあるように、新裏町という。シウラ→ヨシハラである。よくささやかれるように、葭(葦)が茂っていたから吉原なのではない。それは超俗流の地名考察である。 ヒハラ・ヒウラ・シハラ・シウラと、これらも古代にまで遡れる地名群であるならば、これの地はクシフルともシフル(ソフル)とも呼ばれていたと想定せざるを得ない。 尚、三輪の檜原といって、大和の三輪山の麓にも檜原神社がある。元伊勢と呼ばれて、天照大神の鎮座地であり、笠縫村はここだといわれる。伊勢へ移る前はここにいたのである。しかし私の守備範囲を超えるので紹介だけに留める。
昔から住みよい村とされ、里謡に「一掘、二女布、三十倉」という(『京都府の地名』)。
とある。どこが住み良いか、住みたくなる地か、古代人もよく知っていた。そうした所から住み始めたようである。そこで人口が増えると、あちこちと住みにくい土地へも移っていったのである。 堀は舞鶴若狭道のインターのある場所、十倉は女布の東隣になるが、この両所に弥生遺跡があるという話は聞かない。 九社明神の本貫地の女布には弥生遺跡がある。女布遺跡と呼ばれる。 『京都府の地名』は、 〈 女布遺跡 (現)舞鶴市字女布 女布の小字大所(ルビ・おおどころ)・馬場・大坪にある住居跡。大和紡績工場南側台地上の下森神社境内を中心にして南北二〇〇メートル、東西一〇〇メートルにわたる。下森遺跡とも称する。 弥生中期・古墳時代・奈良時代・平安時代に関する遺跡地で、弥生式土器片・須恵器・土師器・石斧・子持勾玉などが神社境内を中心に出土している。 下森神社は檜の生垣で囲まれ、人口に石の鳥居が立ち、中央やや北寄りに祠を祀り、境内はほぼ平坦である。四周は下がって水田となっている。肥沃なしかも水利に恵まれた平地をもつやや高燥なこの台地は、原始・古代人の住居地として好適であったものと推察される。 〉 『広報まいづる』の01年8月号は、 〈 *女布遺跡 第三次発掘調査* *飛鳥〜奈良時代*大規模な倉庫群跡* *古代の役所として計画的に造営* *弥生〜古墳時代*竪穴式住居跡も確認* *西地区の中心集落遺跡* 五月下旬から市教育委員会が進めていた女布遺跡(女布)の第三次発掘調査が終了。飛鳥〜奈良時代の倉庫群跡と弥生〜古墳時代の竪穴式住居跡十八棟などを確認しました。この地が飛鳥〜奈良時代の加佐郡田辺郷の官衙【かんが】(役所)跡であったと推測されます。 同遺跡は、市南西部の女布地域に位置し、下森神社を中心として南から続く微高地上に広がる東西約二百b、南北約二百bの集落遺跡。平成三年と九年の調査で弥生時代から平安時代にかけての遺跡と推定されていました。民間の宅地造成に先立ち調査したもので、調査面積は約千五百平方b。 弥生時代中期から後期の竪穴式住居跡(円形の大型住居跡四棟と隅丸方形の住居跡二棟)を舞鶴西地区で初めて確認しました。住居の規模、密度から同遺跡が弥生時代中期に同地区の中心集落であったと考えられます。古墳時代中期(約千五百年前)の住居跡(方形の住居で炉跡を持つ)が二棟、そのほか、祭祀【さいし】に使用されたと考えられる土器の投棄場所が見つかりました。かつて子持勾玉も見つかっていることから、この周辺で祭祀を行っていたことがわかりました。 また、飛鳥〜奈良時代の倉庫群と考えられる三間×三間の総柱建物跡(倉庫跡)五棟、三間×三間の掘立柱建物跡二棟、柵【さく】列跡一列が見つかりました。それぞれの柱間や配置に強い規格性が認められることから、当時の役所跡である官衙に付随する施設と考えられます。 〉 〈 *打製石器や土器片など数万点*弥生から平安時代の出土物* 女布遺跡から出土したものは、弥生時代から平安時代にかけての石器や土器片など、合わせて数万点。うち打製石斧【ふ】三点は、ヤマイモなどを掘る道具として使用されたものであることから、稲作だけでなく畑作も行っていたことがうかがえます。 なお、市内で二例目となる縄文時代草創期(約一万二千年前)の有舌尖頭器(石の槍先)が市民により発見(今年五月に発表)されていましたが、今回の調査では、縄文遺跡として確認できる遺物はありませんでした。 *採集ボランティアも活躍*磨製石器など約3千点* 六月十八日から七月二十七日までの平日に遺跡の遺物収集をしていただいた市民ボランティアは、延べ百八十人。 遺跡を覆っていた畑の土の中から、弥生時代の磨製石器や石鉄【ぞく】(矢じり)、石のキリをはじめ土器片約三千点を採集しました。 *郷土資料館で常設展示* 女布遺跡からの出土品は、郷土資料館(北田辺)で常設展示中。有舌尖頭器をはじめ弥生時代から平安時代にかけての石器や土器など。 〉 『舞鶴市民新聞』02.03.22号は、 〈 *由良川 考古学散歩−94−*穴ばっかり* 遺跡の発掘現場、中でも集落遺跡の現場をのぞいてみたことがありますか? そこは、数え切れないほどたくさんの穴が大地一面に掘られた、ちょっと不思議な空間なのです。「どうしてこんなにたくさんの穴が掘ってあるの?」と尋ねるあなた。「昔の柱の跡ですよ」と答える私。あなたは、今ひとつピンとこない。そこで私は、昔の人が柱を立てるために穴を掘るところから、時が経ち柱は朽ち果て埋もれ、さらに時は流れ、そして今、私たちが発掘で再びその穴を掘り出すまでの過程を順に説明していきます。 「なーるほど」と納得するあなた、そしてこう言うんだ。「こんなにたくさんの柱穴があるってことは、いっぱい建物が建ってたということだよね」 え?あ!そうだ、建物はどこだ!(じっは、穴が多すぎてちょっとよく分からんのだけど)ここからが腕の見せ所。メジャー片手に、柱穴の間をウロウロ。ある時は三角定規を片手に図面とニラメッコ。ウンウンうなりながら柱穴と柱穴を結んで、なんとか建物を復元していくのです。建て替えがあったり、いろんな時代の建物の柱穴が重なりあっているから、なかなかややこしいんですね。 昨夏、私が調査した女布遺跡もそうでした。ここでは、柱穴が千八百個も見つかったのです。あまりの穴の多さに建物復元は困難を極めましたが、なんとかウロウロ&ニラメッコ方式で、古代の計八棟の建物と一列の柵を見つけ出すことが出来ました。いずれも方位をそろえ整然と並んで建っていたことも分かりました。 五棟は総柱の建物跡でした。側柱だけの普通の建物に対して、総柱の建物は倉だと考えられています。有名な例を挙げれば、奈良東大寺の正倉院がそうです。女布達跡の五棟の倉はいずれも同じ構造・規模で、各倉は整然と並んで配置されています。倉一棟の床面積は約四十五平万b(今の二十八畳分の広さ)、五棟全部で二百二十五平方b(百四十畳分)の広さにもなります。この倉庫群、いったいだれが何を収納するつもりで建てたのでしょう。古代の一般集落なら倉はせいぜい一〜二棟ある程度と考えられていますから、この女布遺跡の倉庫群はそれとは違うもっと大きな何かであっていいわけです。こうして、女布遺跡の穴ぼこの群れには、ただならぬ気配が漂ってきました。 古代の女布は丹後国加佐郡田辺郷に位置します。ですから、女布遺跡の倉庫群は周辺郷の公的な倉(田辺郷衙の正倉)、あるいはさらに上の加佐郡衙の正倉かも知れない。私的な倉とするなら、在地の有力豪族のものでしょう。恐らくこれらの倉の中には稲や穀物が入っていたと考えられますが、もしかしたら周辺で取れた海産物や塩といったものまでここに集積されていたのかも知れません。そんなことを、現場で千八百個の穴と格闘した私は、想い巡らす今日このごろです。(松) 〉 田邊郷の郷衙というが、五十戸ばかりの各々の郷に官衙があったとは聞かない、普通には郷には郷衙はないとされている、土地の有力者が代行したのだそうだ。 ここがもし官衙跡なら、加佐郡の官衙であろう。加佐郡衙の位置なのだ。とうとう見つけたかも知れない。あるいるはひょっとすると与謝郡へ移る以前の丹後国府の位置かも知れない。 考古学ど素人の者だから、引用ばかりになるが、ご勘弁ねがいたい。現在は埋め戻されて、住宅が建ち並ぶ、女布新町と呼ぶ。 弥生墓は聞かない。古墳は多くはないし発掘されたものもない。 『市史通史編上』は、 〈 西舞鶴地区の古墳は、その分布状態よりみて、女布遺跡や切山古墳の付近から次第にその周辺の丘陵部に移っていったようで、当時の集落の広がりを物語っている。 〉 (1)切山古墳(舞鶴市境谷)は、佐武ケ岳の西麓、境谷切山にあった。当時このあたりまで湾入していた西舞鶴湾を見下ろす位置にあったという。4世紀初めの舞鶴では最古の古墳であり墳形は不明だが、内面全面が朱に塗られた組合式石棺が出土、頭蓋骨内も朱彩された人骨片と鉄剣・鉄鏃などの副葬品が出土したそうである。被葬者はその華奢な骨格から女性ともささやかれている。 この石棺は現在は市民会館(北田辺)の入口に移されている、もう朱の色は見えない。 丹後の朱は、最近発掘の相次ぐ弥生から古墳前期の遺跡からも多く見つかっている。有名で新聞報道等ですでにご存じとは思うが、中郡大宮町の大谷古墳・女王の丘という案内看板がたててあるが、あの箱形石棺にも朱が塗られていた。この近くの三坂神社古墳群から1キロの朱が出土している。青龍三年鏡の出土した大田南古墳・京都府与謝郡加悦町の日吉が岡遺跡・京都府与謝郡岩滝町の大風呂一号墳にも朱があった。中郡峰山町の赤坂今井墳丘墓にも朱が見られる。(下は四号墓だったと思うが、その朱の出土状況。古代の里資料館に現物が展示されている) 「切山古墳」 (2)女布大日山古墳(女布大日山)は、下森神社から千石山をみたときの、とっつきの支脈の先頭部にあたる。ここが古墳だろうと言われるが、調査はなされていない。 (3)当勝神社古墳は、白雲山にある。正勝神社の境内にあるそうであるが、探してみたが、私には皆目わからなかった。未調査である。 (4)マルコ山古墳は、勘注系図に登場する古墳である。野村寺も古い歴史のある地である。十七世孫丹波国造・明国彦命の注文に葬二于加佐郡田造郷高野丸子山一とある、その高野丸子山古墳である。丸子はマラコで産鉄者の長が葬られているのではなかろうか。
笠水神社(舞鶴市公文名)は、九社の一、残欠に笠水社。「神名帳」に、正三位笠水売となっているのがそれだろう。 『丹後風土記残欠』に、 〈 笠水 訓宇介美都。 一名真名井。白雲山の北郊に在る。潔清は麗鏡の如し。たぶん豊宇気大神の降臨の時に湧出た霊泉であろう。其深さは三尺ばかり、其廻りは百二二歩である。炎旱に乾かず、長雨にも溢れない、増減を見ない。其味は甘露の如しで、万病を癒す麗機がある。傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命或いは豊水富神と称する。西は笠水神即ち笠水彦笠水日女の二神である。これは海部直等の祖神である。(以下五行虫食)(原漢文) 〉 笠水 訓宇介美都と、わざわざ訓とあるのがおかしい、以前から気にしているのである。ここは原文は分かち書きにされているが、それであれば訓とわかる。勅命で作成され、天皇に上梓される、言上される風土記ならば、こんな無駄な文字はないはずのもので、残欠にもここにしか見られない表現である。訓曰何々と本文に入れて書かれているのが普通だ。此云何々とか訓云何々なら私は疑わないが、この文は頭をかしげる。ひょっすると後に加えたものだろうか。どこまでが後に加えたものだろう。訓だけか、あるいは訓宇介美都の全部が後の付け加えかも知れない。 勘注系図の倭宿禰命の注文にも、笠水に宇介美都の訓があるそうである。海部氏にとってはカサの地名は禁句なのかも知れない、カサには何か隠しておきたい過去があるのではなかろうか。そのどうもあやしい何かいわくありげな訓にあるように、ウケミズと読む。現在に至るもカサミズではなく、ウケミズと読むのは残欠による。 しかしである。本当にウケミズと読めるかということである。絶対に読めない。「笠」は竹で作った頭にかぶる雨よけのカサ、蓑笠の笠で、リョウ(リフ)と読むが、ウケとは読めない。 ウケ郡というが、このウケは豊受のウケで、食物のことである。オホゲツヒメのケ、ウカノミタマのウカ、トヨウカノメ・オオウカノメのウカであって、食物の意味がある。雨を受けるのウケではない、だからその意味のウケには「笠」などという漢字はまったくふさわしくはない。食べ物に笠などという字を当てるだろうか。笠はやはりカサと読むのだ。笠郡が元はウケ郡だったというようなことも考えられない。もっとも現在の史料によるかぎりはの話であるが。笠郡はやはり元々からカサ郡だっただろう。それなら笠水はやはりカサミズではないか。 では、なぜこれをウケミズと読むことにしたのかを考えてみようと思う。 明治のはじめ、田辺から舞鶴町になるまでに、この笠水も新町名の候補に挙がっていたそうであるが、内務省から蹴られたそうである。笠間に似ているという理由だとされているが、しかし日本国中、似た名前ばかりである。真の理由はウケミズとは絶対に読めないからだったと私は思っている。もしカサミズと読むのだったら、今頃は舞鶴市ではなく立派にカサミズ市になっていただろう。笠水神社はそんな神社である。 茨城県笠間市のHP→笠間市の自然概要 余談は置くとして、やはり笠水はカサミズと読むのだと思う。そうしか読めないではないか。どうしてウケミズと読めるだろう。どうしてもウケミズなら受水とでも書けばいいではないか。残欠は笠郡をウケ郡と読むとしているから、笠水社は当然にウケミズだと、後に書写した者が、訓を付け加えたとも推測はできるし、私はその論に傾いているが、もし本当に古代からそう読んだのだというのなら、次のようなことでなかろうか。 この泉は、いろいろ呼び名があり、当時からカサミズとも真名井とも、そしてウケイとも呼ばれていたと思う。 勘注系図の天香語山命の項に、宇介井社の記事がある。 〈 宇介井社 一名吹井 祭神 多岐津姫命 〉 が見える。この 現在の上福井・下福井両村の氏神・和泉神社か、恐らく多分にこの公文名の笠水神社であろうかと私は考えている。和泉神社(舞鶴市下福井)、福井小学校の裏山の鎮座するこの神社は古い記録には名がない。現在は泉らしき所もない。 江戸期には西舞鶴湾を 右画像は現在の九景浦・笛浦である。海面は埋め立てられており、往時の面影があるかどうか。きれいな姿をしたのが田辺富士(舞鶴富士とか丹後富士とも)とも呼ばれる建部山。この麓が笛浦らしい。あるいは東港の枯木浦に対して、西港を笛浦と呼んだともいわれる。 舞鶴は美しい地名が多いですね、舞鶴なんて、その名から美しい。なんとかいううれしい声も聞く。そうですよ。私が地名に興味を持つのもその美しさからかもしれませぬ。 しかしこの建部山にもその山頂には砲台があった。少し古い人になると、この山を単に「砲台」と呼ぶ。そうした同世代ばかりだと「あそこにホラ、砲台が見える」などと山を指していう。もう少し下の世代が混じっている場合は「砲台山」と呼ぶ。何もわかりそうにもない者がいるときにはタケベ山と呼ぶ。戦争地名がまだ生きている。田辺冨士とでも呼ばれ続けるように、決して砲台などと呼ばれることがないように努めたいものである。 『舞鶴市史』は、 〈 建部山堡塁砲台 舞鶴湾の西岸喜多から、東雲村打越に至る山道(軍道)の峠が、標高三一三メートルの建部山である。舞鶴軍港の側面防御のために、明治三十二年九月、築城工事を起工し、同三十四年八月竣工した。備砲は一二センチカノソ砲四門で、三十四年十月据付工事を始め、十二月これを完了した。備砲費は二万円であった。二門を一砲座とし、砲座中心間隔は二五メートに 砲床および胸墻はコンクリート造りで、胸墻の高さは一・○四メートルである。火砲の首線はNW八○度、射界は一二○度である。両砲座中間と両翼に積土の横墻があり、その下に砲側庫を設けた。砲座通路の後方にも積土し、その下に幅三・八メートに 奥行一○メートルの地下掩蔽部を設けた。第一砲座の傍に、砲台長位置がある。山頂の狭小な地域を巧みに利用して、監守衛舎・弾廠・砲兵庫・厠・貯水所を構築し、戦備に当っては道路の屈曲部にコンクリート造の水溜を造ることになっていた(日露戦争時完成)。喜多には繋船場と倉庫を設けた。 〉 高射砲もあったように地元の人はいう。五郎岳とここには探照灯もあったともいう。日本でも有数の優秀な高射砲やったんやデ。連射砲でな。ドンドンドンと討ちよった。ワシも見たことがあるデ。高射砲のタマいうたらこんな長いもんやった。たまに撃っとったナ。あかせん。届かんワイ。見かけだけ立派でも役には立ちゃあせん。あかせん。敵サンはソレくらいは調べてから来よる。ここまでなら届く、これ以上なら届かん。B29(戦略爆撃機)はその上を来るし、その下を来る。グラマン(戦闘爆撃機)なんかも砲台の下を、上からも下からもどこからも撃てんとこを来よる。乗っ取る者の顔が見えたな。事前の調べが違う。パリパリパリと西舞鶴の湾も水柱がいっぱい立っとった。 敵が来たらタケヤリで突けいうてな、タケヤリ作って、防空壕掘ってな。知れとるワナ、そんな事を言うとるようなモノらあやで。頭を指しながら、ココの程度がナ。あんなモンらあに騙されてえらい目におうたワイナ。ということで大変人気が悪い。学校の校庭はみんなイモ畑にしてな。やっと出来たイモを学校の倉庫にしまって、さあ明日はこのイモが食べれると子供らあが楽しみにしとった。そしたら次の日の朝には全部取られとってな、何もない。ここの兵隊らあやというウワサやった。 B29を竹槍で突いて堕とせ!すばらしい。基本は侵略目的の帝国軍と解放目的の市民軍の違いだろう。イラクの米軍のザマを見ていると彼らは帝国軍になってしまった。彼らに明日はない。敗北の日は近い。唯一頼りの軍が滅ぶとき低国も運命を共にすることだろう、ローマのように。核兵器で武装しまくった軍隊、何と醜悪極まる超異常なものでなかろうか。我々は国家とは正義なのかと本気で疑わねばならない。軍は国家ではなく市民が握るべしと私は思っている。人類は国家の軍を全廃する知恵をもつべきと思う。 クケイ・フエ・フクイはたぶんウケイ・フケイからの転訛であろう。笛原はしたがって真名井原のことであるかも知れない。また笛とか笛吹とかいえば楽器の笛とばかりは限らないようで、風を吹くための道具で、吹革を吹くための道具も意味したようで、金属の精錬とも関係のある言葉となる。 西舞鶴駅をおりると出たところに「時の太鼓」が建っている(左写真)、何か出石の太鼓婁のまねのようだが、まねをしたわけでもない、田辺城内にはこれがあったのである。そこの金属プレートの説明書きにあるように、彼は「丹後田辺にすぎたるものは、時の太鼓と野田希一」とうたわれた大学者でもあった。 不明にも気がつかなかったのであるが、匂ケ崎公園の一番北側の眼下に西舞鶴湾を見下ろせる位置に写真のようなモニュメントがあった。次のように書かれていた。 〈 笛ケ浦 舞鶴湾の西港は、その古名を「笛ケ浦」といい、心が安らぐ勝の地として人々に親しまれてきました。 幕末の有名な儒学者・野田笛浦もこの風景にちなんで自らを名乗ったといわれ、彼が詠んだ詩は「九景ケ浦」として舞鶴の代名詞とも言われるほどに有名になりました。 笛浦が詠んだ九景 五郎峰朧月(五老岳に昇る月) 洲崎退潮(引き潮で現れる島崎地区の中洲) 葭原曝網(吉原地区に干されている漁網) 二翁崎漁舟(匂崎沖の漁舟) 十洲晴旭(朝日に照らされた戸島) 三岳落霞(吉田地区の三岳山麓の夕暮れ) 四所浦浴鴎(下福井辺りで水浴びをするカモメ) 喜多村漁火(喜多地区の漁火) 小芙蓉霽雪(雪晴れの建部山) 現在、埋め立てなどでその姿は変わりましたが、港内の穏やかな波は当時と変わることなく私たちの心を和ませてくれます。 〉 磯砂山の麓の、笛原寺のあたり、笛の浦(府上原・府江原)と呼ばれるので、はたして本当にこの西舞鶴の入江を指して笛ケ浦と呼んだのかどうかは検討してみる必要がありそうである。『丹哥府志』の【磯砂山笛原寺】(真言宗)の項に 〈 【笛の浦】(一に府江原と記す) 笛連の府跡なりとて山中に海部の名あり、海部は其父直の姓なり。 名寄 名に高き波立よりて聞しかは 笛の浦にも風き吹なり 〉 『中郡誌槁』が引く「丹後雑史」は、笛浦 掛の湊(掛津村也)としている。網野町掛津もそう呼んだようである。カケ津、ミカゲのカゲで銅と関係があるかも知れない。 太鼓櫓などはどうでもよいのである、こんな所に大金かけてはたして正確かどうかもわからない復元をしても、実際には邪魔になるだけがわからぬようだ。景観も周囲と釣り合わぬ。思いつき行政丸出しである。 1億円だったと記憶しているが、こんな物を突然に復元して一体誰が喜んだりするだろう。官僚どもの自己満足の「町作り」、こんなものを「税金のバカ使い」と呼ぶのである。社会保険庁と同じように舞鶴市なる官庁もそろそろ民営化がよいであろうと自ら告げ始めたわけで、そのよい記念碑として残しておけばいいであろう。 再建するなら野田希一の方であったろう。私も同じくキイチなのだが、親父が一生懸命に調べて、たぶん彼からもらった名だと思う。名は同じでも中味はだいぶに落ちると自覚しているのではあるが…。 税金のバカ使い・クソ使いには税金や公共料金のバカ取り・クソ取りが照応する。まもなく大増税と公共料金の大幅値上げがはじまろう。市民が腹を立てるはゴミの有料化などであろうか。何か市民がムダにゴミを出しているとでも考えているのであろうか。誰も出したくもないが出るのだ、有料化しようがしまいが生きていく上では絶対に出る、日本国内で現在の普通の生活感覚で生活していれば年々ゴミは増えるばかりである。何故にそれを有料化するのだ。ゴミを少なくするのは有料化して市民からゼニを取ることではないだろう。ゴミ処理などは自治体の一番の仕事だろう。町中が不法に捨てられるゴミだらけになることだろう。そんなことになればあげて市や議会の責任であろう。何か市民の責任のように考えているのが腹が立つ。ゴミが出る原因を分析したのか。ゴミを少なくするのはどうすればいいか、まじめに考えたのか。市民と一緒に考えたか。有料化などを市民抜きで勝手に議会などで決めても何も解決はない。何の解決にもなるまいし、ゴミは増えるだけであろう。ゴミの出る元にメスが入っていない。一般市民の感覚とは外れすぎている。 上下水道の料金も値上げという。30パーセントばかりという。コストが上がったといっても、一般の企業、特に中小零細企業などはそれを製品の値段に上乗せすることなどはまずできない。自分の所でコストの値上がり分は全部吸収しなければならない。製品に転嫁することなどは思いもよらないだろう。まさに無理と思えるような努力をしなければ企業としては生きてはいけない。30パーセントコストが上がりましたので30パーセント値上げして下さい、は通らないのである。そうした内部での企業努力をして、それでもどうにもならなければ、資料を山ほどもつくり、100パーセントをかぶるつもりで努力しましたが、あと少しがどうにもならない、何とかその分だけの値上げを認めてもらえないかと、頼まなければならないだろう。 値上げしたからといっても何も市民はその分が豊になるわけでもない。ただ値上がりしたというだけである。高くはなるが何もよくはならない。まずは行政当局が真剣な身を切る努力をすること、さらに市民に真摯に説明すること。この二つがない限りは安易のそしりはまぬがれぬであろう。そうした行政の改革省略の、説明責任省略の大幅な同時値上げは市民無視の暴挙と非難れても仕方あるまい。次の選挙では考えようかという話になろう。 なおややこしいことに舞鶴と宮津は同一の地名が多い。これは勘注系図や笶原宮の棟札に従えば、加佐から与謝へ海部氏が移動したからである。地名も一緒に持っていったわけであろうか。宮津市府中一帯の阿蘇海の浦が和歌の名所で 上の空撮写真は坂根正喜氏による。冬景色の天橋立を成相寺上空あたりから南を向いて写している。右が内海で阿蘇海と呼ぶ、その手前海岸辺りを吹飯浦と呼んだそうである。 『丹後風土記残欠』に、 〈 田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原(ヤブ)山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす−引用者注〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)(原漢文) こうした残欠の記事に天香山命と天道姫命が登場する、これに従うなら、宇介井社 一名吹井は、このウケミズ社だろうと思える。 『元初…』によれば、「所伝の天香語山命の条に」、として勘注系図の長い文章が引かれている、その中の、分かち書きされた部分に、真名井亦云宇介井とある。これは当地の真名井ではなく、与謝郡の真名井であるが、宇介井と云うとある。やはりそうであった。久志備之真名井とも比沼之真名井ともいうそうである。真名井そのものに、クシとかカサとかウケイとかいった意味もダブルようだ。真名井は本来は天空にあるもので、そこがクシフルなのだから、当然と言えば当然だったのかも知れない。 もう一つややこしい事を書けば、伊去奈子嶽の麓にも笛原寺がある。読者はもうここにあっても当然だと思われるであろう。ここは真名井原の故地だからである。 伊去奈子嶽と現在の丹後一宮の地と舞鶴の地が同じ地名を残しており、手前ミソでいうのではないが、いずれも丹後の大変な聖地であったということがわかる。 宮津市の大垣、天橋立を渡った所であるが、そこに籠神社が鎮座している。このあたりの広い一帯が真名井原である。奥宮の真名井神社の鎮座地だけが、真名井原のように現在は呼ばれているが、籠神社の鎮座地も真名井原である。府中と呼ばれたり、速石郷と呼ばれたりした地域の全体が古くは真名井原であったそうである。この地域に面した阿蘇海を吹飯浦と呼んだ。しかし真名井の池はどこにあったのであろうか。 さてたぶん、加佐郡のカサの意味がもう忘れられていたのだろう。故地を離れてから、もう何世紀も何十世代も過ぎている。カサとは何かと考えるうちに、カサミズはまたウケイとも呼ばれているではないか、それならカサとはウケではないか。なんだ簡単だ、となったのではないだろうか。私のように古代人も軽薄であったのかも知れない。こんな説明しかできないほどに過去の歴史は忘れられてしまっていた。 しかしこれは古代人の誤解であった。カサミズはカサの地にあったからカサミズであった、たぶんイカリ氏の命名になるものだったし、ウケイは豊宇気大神の神饌を炊ぐ水を供給する池であったからウケイだったのだ。どちらも譲れない中でのイカリ氏と海部氏の妥協である。本来はカサ=ウケでは決したなかったものだ。 さて話は飛ぶが『丹後風土記残欠』に、 〈 青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。(以下一行虫食)(原漢文) 〉 とある。若狭・丹後の国境にある青葉山の話である。青葉山はピークが二つあって、中の鞍部が国境であったらしい。現在は両ピークとも福井県である。東のピークに若狭彦・若狭姫を、西のピークにちょっと格が落ちるが笠津彦・笠津姫を祀るとある。この笠津彦・笠津姫を何と読むかといえば、「神名帳」に従二位加佐比売・加佐比古とあってカサと呼んでいる。ウケではないのである。勘注系図は笠水彦の子が笠津彦とする。 こんな事から、私は笠水はカサミズであり、祭神の笠水神・笠水彦・笠水姫もすべてカサミズである。この地こそ加佐郡の加佐の本来の地であると考えるのである。 尚、残欠は笠水社は真名井の西側にあるとしている。現鎮座地とは異なる。現鎮座地なら北側と書かねばならない。西側なら現在の城南中学校のあたりになるだろうか、ここなら九社の本地である。確かにカサの地である。 笠水(真名井)−笠水神社(現城南中学校の地)−下森神社(九社本貫地・女布遺跡)−千石山のラインこそが古来のカサの地である。加佐郡の心臓部である。加佐郡のカサはここから拡大したものである。(中世になると山崎川原の九重の地も含まれるだろう) 青葉山の雰囲気→「青葉山縦走」 このHPでは触れていないようだが、現在の青葉山は古青葉山の外輪山の一部である。古青葉山の噴火口は、のぞき込んでいるその眼下に広がる丸い形をした内浦湾である。プルトニウムを燃やそうとする高浜原発四基がそこに稼働している。神をも恐れぬ所業。天罰が下らねばと祈るばかりである。 海部直等の租神と残欠がいう笠水彦(−笠津彦)の父子であるが、『元初…』によれば、彼らが何者かは海部氏の伝えにも様々なものがあるそうである。普通は始祖とされる火明命よりもさらに上に加えられている伝えや、まったく削除された伝え、川上真稚命の上に来る伝えもあるそうである。まだそのほかにも伝えはあるそうで、海部氏系図においてすら非常に不安定な二代であり、本系図には見えず、その史実性は恐らくは怪しいものと考えざるを得ない。かなり新しい時代に加上されたものではなかろうか。本来は海部氏本宗家の系図とは関係がない人なのではなかろうか。別のこの地の氏族の系図を後に何とか海部氏系図に差し込もうとしてうまく果たせていない状況なのではなかろうかとも思える。 加佐郡時代の海部氏も、郡内にかなり広く分布する。産鉄集団ではないかと思われる一族が多く見られる。後に加佐海部氏本宗家が祀った神は愛宕山の笶原神社であろう。ここ笠水はウケミズと呼ぶからには、その加佐本宗家かあるいはそれに近い一族の祀った神社であったろうと推測しておこう。まだ海部氏ではなくウケミズ氏であったかもわからない。笠水神社の辺りが海部氏の拠点だったのだろうかと思われる。 加佐郡は昔はウケ郡と呼ばれたという残欠の主張である。現代人の考えからすれば、そんなバカなと、一蹴してしまいそうになるが、はたしてそうしてよいのであろうか。古代については現代人よりも残欠の方がはるかに詳しいのである。我々は何も知らないのであるから、基本としては謙虚に残欠に耳を傾け、考えてみるべきかも知れない。 ウケ郡といっても何もそれらしい記録は残されていない。ただ残欠がそう記録しているだけである。ウケは神社名であるはずと考えて見ると、「室尾山観音寺神名帳」の正三位・大宇賀明神が思い当たる。この神社のあった所あたりを、この神社にちなんでウケと呼び、それが拡大されて郡全体の名となっていたのかも知れない。加佐郡と呼ばれる以前にウケという郡名があったかも知れない。何も初めから加佐郡ではなかったのかも知れない。しかしそれは短命ですぐに加佐郡と名を変えたのかも知れない。 では正三位・大宇賀明神はどこにあるのだろう。しかしそんな名の神社は加佐郡内にはないのである。竹野郡にはあって朱と関係がありそうにも思われるありかたをしている。 大宇賀明神は大宇賀之売を祀るのではなかろうかと思われる。大宇賀之売を祀る神社は加佐郡内に現在はただ一社だけ知られている。朝禰神社(舞鶴市倉谷)である。 朝禰神社は現在は倉谷に鎮座あるが、本来は千石山の頂上にあっただろうと、前のページで見たとおりである。そこならばカサの地である。ウケもカサも同じ場所を指しているのではなかろうか。現在でいえば高野から中筋にかけての地域である。そこはウケともカサとも呼ばれた地であり郡内の心臓ではなかっただろうか。 大宇賀のウケでなければ、豊受のウケだろうか。そうだとすれば、もう少し海辺よりの地で、愛宕山から笠水神社や高田神社にかけての地をウケと呼んでいたかも知れない。 ウケとカサの地名には前後関係はないと思う。どちらが古いかといえばカサがずっと古いと思われる。ウケの意味がわかる人は多いが、カサを説明できる人はないからである。新しいウケから古いカサを導くことは無理であろう。だから残欠の説明は理解できるはずはないのである。 『丹後の地名』「はじめに」のページへ戻る
昔は全部が砧倉であったかも知れない。その方が地名としては合う。十倉が下の方の現在の十倉をもっぱらそう呼ぶようになったから、真倉という地名が後にできたものと私は思う。十倉・戸倉・都倉…の地名は全国に多いが、マグラという地名は少ない、無理して作った感じもする。村の歴史としてはどちらが古いか、一般には奥の方である。 現在は山崎神社とよぶ。十倉・真倉の氏神である。国道脇にある。なぜ一宮と呼ぶのかはわからないが、普通には一宮さんである。この境内のふと雰囲気で感じただけだが、この少し下が七日市であり、あるいは市の宮かも知れない。 残欠に砧倉社、「室尾山観音寺神名帳」に正三位砧倉明神とあるのがこの神社であろう。 『ふるさとのやしろ』に、 〈 国道二十七号線が西舞鶴の街をはずれ、伊佐津川の山崎橋にかかる手前に鎮守の森がある。「山崎神社」が社名だが、通称「一の宮」ともいう。地籍は十倉だが、真倉、十倉両村の氏神で、祭神は天照大神の荒御魂。 真倉の氏神が、十倉の地に両村の氏神としてまつられている理由には二説がある。一説は、ここから一・五キロ上流の真倉小字サミ田にあったお宮が、大水で流され、鱒がお宮を背負って現在地にあがったという伝説。他の一説は、昔はこの付近が真倉・十倉の境界線だったので、両村合同で社を建てたという説。「一の宮」を「山崎神社」に改めたのは、幕末か、明治初年ごろのようだ。 〉 これ以上のことはもう誰にもわからない。 山崎というのは、山の のちの(寿永3年。1184)の平辰清所領寄進状案(百合文書)の大内郷の西限を示すなかに、赤前山の名が見える。 〈 西限田辺郷堺子午仟佰并赤前山 〉 が見える。西舞鶴の二つの郷、田辺・大内の両郷の境となる もっともこれは中世の私有地の明確な境であり、それ以前の律令国家の郷境がどうかはわからない。そもそも郷境というものがあっかのかどうかもよくわからないといえるかも知れない。律令の郷、和名抄の郷なのだが、これは五十戸で一郷としたのであり、人間を掴まえた郷である。自然村落的な土地を単位としたものではない。土地の境などは意識されていない。だいたい水系くらいで大ざっぱに掴んでおくより手がない。これ以前の屯倉なども人間を掴まえているものであり、地図上に書き込めるような明確な境というものがあったのがどうかはよくわからない。ひろい無人の土地などは掴まえても仕方のないことで、人間を掴まえて国家権力の基盤とする、土地よりも人間を把握する、これは騎馬民族国家的な支配の仕方である。加佐郡でも神戸郷や凡海郷、屯倉郷などは特によくわからないのはそうした理由である。今の村と同じような村境があるだろうと考えるのは現代人的な誤解である。 この社の祭神の 天照大神と同じものと考えているような書があるが、というのか地元では全部そう考えてしまっているようであるが、これは違う神である。 古い記録では神功皇后紀に一度だけ登場する神である。紀の語るところによれば、神功皇后の新羅征伐ののち兵庫県の武庫川の川口まで帰ってくるのだが、ここで船は進まなくなった。占うと、天照大神が、わが荒魂を広田国に祭れといったという。それで西宮市の広田神社の祭神として山背根子の娘葉山媛を以て祭ったという。甲子園球場の北西4キロばかりの地に鎮座する。 山背根子は『姓氏録』によれば、摂津神別の山直あるいは山背直が天御影命の十一世孫の山背根子の後也となっている。山城国の未定雑姓の山代直は火明命之後也となっとている。『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)によれば、山背直は久世郡の水主神社を祀る氏族らしく、この氏は建田背命の後であるという。広田神社は丹後海部氏や尾張氏と同族のようである。こちらの方がだいぶに有名だが、全国のエベッサンの総本山・西宮戎はこの神社の末社である。 広田神社(武庫郡名神大社) 広田神社 西宮戎神社 阪神タイガーズの守護神でもあるというが、なぜ、この戦闘神とされる神が十倉に祀られるているのかは、もちろん誰も知らない。 元の鎮座地ともいわれる、真倉のサミ田は、もう少し谷を入ったところである。山崎はごく最近の名であるし、一宮としてもいくら遡っても平安くらいの名であろう。砧倉は地名によるものだろう。すべて本来のこの神社の名ではなかったと思える。 ずっと古くはサミ神社といったのかもわからない。MとBはよく入れ替わる。サムイ・サブイ。アブナイ・アムナシのようなものである。サミはサビだろうから鉄・刃物を意味していて、もともとは鉄の神社であったかも知れない。十倉・真倉のクラは鉄の谷を意味することがある。 あるいはサフでソフル神社かも知れない。またソフルかと思われるかも知れない。別に趣味でそう言うのではない。 『日鮮同祖論』に、 (瀬織津姫) 〈 神道五部書の中の御鎮座次第記に、伊奘諾尊二左眼一因以生神、号曰二天照大神之 とある。金沢庄三郎は、天照大神荒御魂とは別名 『書紀』や広田神社や金沢庄三郎は、古来の本来のこの神の性格を伝えるものであろう。誠に元初の神々は光輝いている。私はこんな神々が好きで、長々と、しなくても良かった説明にお付き合いを願ったわけであるが、時代が下るにつれて、この輝きは失せ、まことにつまらぬ姿へと零落していく。神々も人間と同じ運命をたどるのかも知れない。神とて不変ではない、いつまでも青春の輝きが続くわけではない。最後には妖怪となって闇の中へ消えていく。 天照大神荒御魂=瀬織津姫は 『広辞苑』に、 〈 祓戸神 祓い所を主宰する神。すなわち瀬織津姫・速秋津姫神・気吹戸主・速佐須良姫の四神 〉 とある。 祓戸神はまた塞の神・道祖神とも考えられるようにもなり、こうした境を守護する神と考えられるようになっていく。こんな扱いをうけるのだから、あるいは金沢博士の説の通りに本来は他国の神であったかも知れない。 九社で言えば、喜多の宮崎神社に速秋津姫神が、青井の結城神社に気吹戸主神が祭神として祀られている。おそらくずっと後の世に、たぶん江戸期の中頃だろうか、上記の二社の祭神と同時期に、誰か城下に住む者が、この祭神を設定したものと思われる。もちろんこれらの神社にさふわしい祭神ではなく、これらの神社の本来の神は不明ということになる。なお速佐須良姫は神崎の湊十二社に祀られている。 クラを鉱山関係の地名、産鉄の谷とも考えられる。九社は鉄の神社群のようだからである。トクラはそのクラの出入り口に位置している。 「天孫本紀」に十一世孫物部眞 『新撰姓氏録抄』の和泉国神別。天神。に、 巫部連。 同上。雄略天皇御躰不豫。因茲召二上筑紫豊国奇巫(クシカムナギ)一。令二眞椋(マクラ)率レ巫仕奉一。仍賜二姓巫部連一。 『続日本後紀』承和十二年(八四五)七月己未条にも「昔属二大長谷稚武天皇時一。公成始祖真椋大連迎二筑紫之奇巫一。奉レ救二御病之膏肓一。天皇寵レ之。賜二姓巫部一」とあるそうである。豊国の氏族である。宇佐八幡に近い所ではなかろうかと思われる。
愛宕山(=笶原山・天香山)の東南麓に当たる
『丹哥府志』に、 〈 九社明神 祭六月十二日 〉 『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、 〈 引土村 京橋より真倉境まで道法二里、並松あり京街道なり、八幡九社明神、若宮八幡、長江小太夫城城跡あり。九社明神の事右七社の外、倉谷朝禰明神、田辺町朝代大明神これを合わせて九社と云ふ。郡中東西と分れること伊佐津川限り、西の町在を西方と云い、又川東の在々を東方というなり。 〉 この神社については、これ以上の由緒は何もわからない。愛宕山東麓は古い八幡社がある所で、それらと一緒の歴史があるのかも知れないと思う。 引土は現在は広い土地で、愛宕山の東から南麓は全部引土である。高野川から東側は深田や池であったようで、その昔ならたぶん入海が入り込んでいて、その海辺までが全部引土であったものと思われる。何か由緒のありげな地名で、あるいは案外に土蜘蛛の住んだ所かもしれない。 少しばかり北の真言宗の円隆寺の鎮守の八幡神社(左画像)、ここは真言宗だからそうなのかも知れない。天文二年の建物という、朱が塗られていたというが今は錆びてしまってそんな様子は見られない。『ふるさとのやしろ』は、 〈 同寺は文禄八年(1595)山崩れで六十六坊が壊滅、また享保十七年(1732)の大火で類焼(仏像は搬出、焼失はまぬがれた)した。八幡堂も焼けたが十年後の元文二年に再建された。この当時の棟札によると祭神は「正八幡大菩薩、常宮、姫宮」の三柱とあり、御神体も衣冠束帯姿の神像という。 〉 その北に桂林寺(曹洞宗)境内の八幡神社がある。これはお寺よりも古い。丹後でも二番目に古という石灯籠(右画像・旧重勇美術品)がある。『舞鶴市史』は、 〈 丹後で最古のものは、鎌倉時代に造られた重要文化財指定の中郡大宮町周枳、大宮売神社にある徳治二年(一三○七)銘の一基と、その傍にある無銘の同じ時代の同型一基に次いで、市内の桂林寺境内にある旧重要美術品で同じく無銘の一基の計三基である。また、市内で年銘のある最古のものは河辺中の八幡神社境内にある市指定・貞治三年(一三六四)銘の石灯籠(後出)一基であろう。 中世の丹後型式は、八角形で中台が薄く、平らかな感じで基礎の竿受座を中心にした段型の上に反花(かえりばな)を刻み出しているという。この定説からこれらの型式を一般に京都系丹後型といいならわしている。 この素材には、隣接の若狭内浦湾の日引(高浜町)に産出する彫刻に適した緻密な良質の凝灰岩(淡青緑色)が多く用いられ、次いでもと田辺領であった由良(宮津市)の花崗岩が使われている。… 旧重要美術品 石灯籠 一基 鎌倉時代 総高二三七センチ 桂林寺(紺屋) 市内の石造工芸品の中で最も古いといわれるこの石灯籠は、基礎、竿、中台、火袋、笠までが八角形に造られ、すべてが当初のままの姿で請(うけ)花のない宝珠を乗せている。 基礎の各面は一区で、格狭間(こうざま)と開蓮花(かいれんげ)を交互に彫り、竿受座をめぐる蓮弁はやや盛り上った高めで、発達した反花から鎌倉も後期に降る様式を示している。正八角形の竿石の上・中・下段の節は、比較的高く造り出し、特に中央の節部分が目立つ。 火袋は四角を大面取りにした八角形で、笠は降り棟を造り、 蕨手の先まで鎬(しのぎ)をつけたもので、頭も重たい感じでなく、均衡のとれた心良い姿には余り地方色が見られない。多少の石面風化はあるが、花崗岩一式で造られたこの石灯籠は、幾多の風雪に堪えていささかの損傷もなく、「従嘉禎元己未歳(一二三五)」云々の棟札を持つ桂林寺鎮守八幡社の前庭に静かに立っている。 〉 曹洞宗の古刹・桂林寺から東へ延びる道を八幡通と呼び、高野川に架かる橋を八幡橋(左画像)と呼ぶ。左の写真でいえば、背後の山は天香山で、この路は桂林寺の惣門へまっすぐに続く。こんな所に八幡神社があることを知る人は少なく、何故に八幡通なのかと不思議に思うかも知れない、思う人なら歴史感覚や地名感覚のある人だろうか、むしろ桂林寺通とか呼ぶ方が現代人にはピッタリとくる。(狭いのであまり利用価値はないが) 地名がこの地の歴史を語っている。桂林寺よりも八幡神社なのである。こんなに古くからの神社ではあるが、しかし誰が祀ったものかはわからない。本来は真言宗の関係ではなかろうかと想像するが、わからない。 この神社が鎮座する谷、愛宕山の東南麓にあるわずかな谷間であるが、出雲谷と呼ばれる。ここから流れ出る川を出雲谷川と呼び。東へまっすぐ行って高野川に架かる橋が出雲谷橋である。 この地に残欠の出雲社、「室尾山観音寺神名帳」の従五位上の出雲明神があったものと思われる。この社については現在に伝わるものは何もない。この「神名帳」出雲明神のすぐ次の伊波比明神も出雲系の神社だろうか。 隣の丹波国一宮は出雲神社(亀岡市千歳町・祭神は大国主命、三穂津姫命)である。又海部氏の始祖火明命は、高天原に坐しし時、大己貴神の女天道日女命を娶り天香語山命を生んだという(勘注系図)。その天香山(=愛宕山)の麓の出雲神社だとすると、あるいはこここそが天道日女命の古里なのではなかろうか、天道日女命や天香語山命は尾張氏系図に見える神で、ここが発祥の地ではなかろうが、そうした信仰があったかも知れないような気もする。 勘注系図は天道日女命の亦名を 引土の出雲は出雲国のことであろうか、あるいは亀岡の出雲神社や山城国愛宕郡出雲郷(有上下)、現在の京都市上京区から、出雲井於神社(下鴨神社境内社)や出雲高野神社(左京区上高野西明寺山)あたりの地にいた出雲族と関係深いのだろうか。それとも大和の出雲だろうか。引土は古墳もあって古くから人の住んだ所なのだが、私にはとてもこれ以上は解明できそうにもないのであるが、丹後には出雲の名はほかにはなく、解明の手かがりもない。 海部氏には古くは大己貴神を祖神とする伝承があったと私は想像する。国宝「海部氏系図」には見えないが、火明命の妻・天道日女命を大己貴神の娘としている所に過去のカケラが残っているように感じられるが『播磨風土記』にあるとおりに大己貴神の子=火明命という信仰が当地にもあったと思うのである。大己貴神を祖神として祀る、ずいぶんと古式を伝える海部の一集団がここにいて、その神社を祭神の性格により出雲神社と呼んでいた。そしてその周辺の地を出雲谷と呼んだ。のではないかと、想像に想像を積み重ねている。 ずっと時代は下って江戸時代の話だが、ここには半田焼と呼ばれる焼物の窯があった。半田は羽田空港の羽田も同じで、ハニタ、良質のハニが採れたのだろう。神武が天香山の社の中の ついでに京田辺市田辺には名神大社の 〈 村社 棚倉孫神社 延喜式内 (大月次新嘗) 祭神 天香古山命 綴喜都田辺町大字田辺にあり、祭神につきて諸説あり、饒速日命子、高倉下命なりと。社説には天香古山なりとす。 三代実録、貞観元年正月廿七日・甲申奉授山城国従五位下、棚倉孫神従五位上とありて、鎮座地を字棚倉野と云ひ.是を以て棚倉孫神社なること、明かなり。 例祭十月十五日. 〉 天香語山命は高倉下命と同じと弥彦神社は伝える。天香語山は銅山という意味で山そのものを神格化したものであろう。高倉下は銅のクラジ(オロチ)で、銅そのものの神格化である。 田辺という郷名は、天香山とあるいは何か関係のある地名なのかも知れない。タカクラ・タナクラ・タナクリは地名なのだろう、どれが正しいとかいう問題ではない、これくらいはゆれるのであろう、その辺といった意味かあるいは神戸の部で、タカクラベ・タナクラベ・タナクリベがタナベとなった可能性はある。この神社は物部氏系の何かの氏族が祀ったと思われるが、これ以上は私にはわからない。 さて舞鶴の場合は田辺郷は田造郷ともされるので、さらにややこしく、さらにおもしろい。田造郷はタツクリと読んで異論はないようであるが、あるいは本来はタクリと読むのかもしれない。勘注系図の始祖火明命の児・天香語山命の条に、亦名手栗彦命とある。『元初の最高神と大和朝廷の元始』は、タクリヒコと読んでいるが、タナクリヒコかも知れない。田造はタクリあるいはタナクリとは読めないだろうか。まあ読んで読めないこともない。無理ではない。田造は田辺よりも古い地名だったろうと想像しておこう。田造が徐々に田辺に置き換わったのだろう。残欠は田造を「今依前用」としている、昔からこう書かれていたから今もこう書いておくということだが、本来はどういったいきさつで、どう読んだのかは記憶していないのではなかろうか、海部氏の祖とされる天香語山命(=手栗彦命・高倉下命)を祀る神社が天香山(=愛宕山)にあって、その麓をその祭神の名で呼んだのではなかろうか。舞鶴田辺の辺りは天香山の祭神の名により、古くはタナベともタクリ・タナクリとも呼ばれたと想像しておくことにしたい。 棚倉孫神社(京田辺市田辺棚倉) ついでついでで申し訳もないが、本当についでであるが、ここにはカサ神社(京田辺市高船)もある。『綴喜郡誌』は、 〈 無格社 痘瘡(カサ)神社 綴喜郡普賢寺村大字高船にあり、豊受比売命を祠る。 例祭 二月初午日 〉 この神社の向かいに磐船神社があり、物部氏と関係があるのか、息長山普賢寺の地であり、息長氏と関係があるのか、 田辺の古い地名が田造であった、あるいは並び使われたと考えても、何も別段不思議でもないと思われる。ところで頓岡良弼の「残欠偽撰考」という書がある。田造郷と高橋郷は間違いだとして、この書によって丹後風土記残欠は偽書だということになったものであるという。『両丹地方史37』に引かれている、下はその孫引である、 〈 この田造郷も栂尾本に田辺とあるぞ宣しき、田辺は多奈倍とよむ、即ち田之辺の之を省けるなり。姓氏録に田辺史・犬荒田別命之後也とありて摂津住吉郡田辺郷(略)に居て氏に負ひ其族のここに分処せし故に、やがて郷名となれるなり美作・日向の田辺郷もこれに同じ天平勝宝元年丹後国解に判官田辺史真人と云人あり丹後田数目録に加佐郡田辺郷田百九千九町五段二歩、細川讃州領、また東鑑建久五年条に丹波国田名部庄を鎌田兵衛尉正清が女(ムスメ)に賜ふとみえ(丹波は丹後の誤写なるべし)島津忠氏、貞和三年丹後田辺庄の地頭職に補す。大平記に足利尊氏、一色範光を丹後守護となし田辺城に鎮す。天正中織田信長、細川藤孝を丹後に封じ又田辺城に治せしむ。悼玄旨法印辞に天橋之側・田辺之里など諸書に見たれど田造といふ名はをさをさ書に見当らず、又さる地名だに聞えざれぱ本書の偽撰なるや明らけし 春秋耕田人民豊足故曰田造と流布本の誤文を望みてこれが説を為る陋もまた甚しからずや今も田辺郷とて、この国の著邑なり由良・石浦・和江・漆原・長谷の諸村に亘りてこの郷に属せり、この二節にて全書の信用するに足らざる一斑を知るべし 〉 要するに、田辺が正称であって、田造という名はまったく書に見当たらず、そんな地名さえ聞いたことがないから、そんな間違った郷名をあげる残欠は偽撰であることは明かである、と主張する。 田造郷は『和名抄』刊本と勘注系図に見える名である。田造という地名などは聞いたことがないと言うが、明治人が聞いたことがあろうがなかろうが、遠い過去にその地名がなかった証明にはならない。まして残欠を偽撰とする根拠には全然ならない。残欠の地名説話からタヅクリと読んでいるようだが、私の説のように天香語山命の別名タクリヒコのタクリと読むのかもわからない。田造郷の比定地もまったく間違えている。これは子供の主張というか病気のようなものである。有名な「偽撰考」は、もう少しマシな学問的な書かと思っていたのであるが、これは期待はずれであった。こんな説が通るなら、あやしげな地名や地名説話の多い記紀や他国の風土記類もすべて「偽撰なるや明白だ」ということになるであろう。すべての過去の貴重な書物は偽書となろう。高橋・倉橋郷については、後に述べる予定。 地名は民衆が名付けたものである。支配者が名付けたものではない。その地名の「正称」とは何であろうか。そんなものがあるのであろうか。その地名本来の意味をできるだけ正しく称している呼び名が本来の意味での正称ということであろう。周囲の多くの人々が同じ一つの地域でもいろいろと呼び、いろいろと似たような呼び方で発音する地名群のなかから、たまたま権力に拾い上げられ、たまたま記録に残り、たまたま偶然に現代にまで伝わった地名が、本来の意味における正称とは何も限らない。忘れられた地名のほうが正称かも知れない。そうした意識を持って努力をして拾い上げられた地名の記録ではないからである。古代の官人が地名の研究者であったわけではない。彼らが正しく拾ったかどうかは我々が判断すればいいのである。
『加佐郡誌』に、
〈 祭神 天照皇太神 由緒 従来若宮神社を称へて居たものを、明治四年の廃藩置県の時名称を改めて、奥上神社と呼ぶ事にしたのである。最近まで無格社であったが、大正十年九月三十日村社となつた。 〉 とある。この神社が九社明神だという。下の空撮は坂根正喜氏のもの。 『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、 〈 吉田村 九社明神社あり、村中産宮なり。 〉 愛想のないことだが、この神社もこれだけしかわからない。 舞鶴市七日市の古名も吉田だそうである。この吉田という地名は鉄と何か関係があるかも知れない。竹野郡弥栄町鳥取(竹野郡鳥取郷)に吉田神社がある、奥出雲の菅谷タタラのある所は飯石郡吉田村(飯石郡多禰郷)である。入江の口に名勝・ 尚、この北が青井だが、この青がつく地名も鉄と関係があるともよくいわれる。 吉田の名所は何といっても瑠璃寺(曹洞宗)のしだれ桜であろう。樹齢三百年とかいうみごとな桜である。村の入口にある宝物の桜。この日は観光バスも来ていた。女性ばかりがゾロリゾロリと、どこからお見えですかと問うと、大阪の××新聞のツアーですとか、全国的有名桜である。 あまりに有名になりすぎて駐車料金を取られるようになったのは貧乏人には痛いが、ここでいい案内を貰った。上に書いたことは自信がまったくなかった、こじつけと取られても反論できないなと考えていたのだが、この案内は年取は鳥取かもしれないという。長いけれども全文引用させて頂く。 〈 瑠璃寺 由緒 瑠璃寺は、山号を金剛山と称する曹洞宗寺院である。創建は、江戸時代中期村全体を焼きつくしたと伝えられる大火で、瑠璃寺も全焼し、同時に過去帳始め寺の由緒となる一切の書類が焼失したので、詳らかではないが、文化九年(一八一二)に書かかれた瑠璃寺過去帳によると、【当寺開山大渓和尚和上慶長十四年(一六〇九)】とある。 かっては、鎌倉時代の元応年間(一三一九−一三二〇)にさかのぼる寺縁起があったものと考えられる。 本尊 瑠璃寺の本尊は薬師如来である。本来曹洞宗の本尊は、釈迦如来なので、薬師如来が祠られているということは、大渓和尚以前から瑠璃寺が存在していたとの証拠ではないかと考えられる。 しだれ桜の由緒について 吉田瑠璃寺のしだれ桜は、樹齢三百年以上と伝承されており、昭和五十二年(一九七七)には「古木と若木が織りなす開花期の景観すばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっているが、天正八年(一五八〇)から慶長四年(一五九九)にかけて、この地に幽閉されていた京都の公卿中院通勝(なかのいんみちかつ)を慰めようと、当時の田辺城主であり、通勝の歌の師でもあった細川幽斎が、京都の吉田山の桜を移し植えて、この地を吉田と名付けたのではないかと言う。また、瑠璃寺開山の大渓和尚は、かの田辺龍城戦に細川幽斎を助けて、袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦った人物であることから、瑠璃寺と幽斎にはつよい結び付きがあったのももっともと思われる。 一方、瑠璃寺の南東に当たる吉田の入り江には、年取島とゆう周囲二百米ほどの小島がある。この島の小庵が二人の会う場所であったといわれ、幽斎は舟で城と島を行き来したとみられる。ある年の大晦日に二人は夜が更けるのも忘れて歌に興じ、ついに元日をむかえてしまい、年取島と名付けたと伝えられている。また、その時幽斎が詠んだ『藻塩草かき集めたる跡絶へて、ただ年取の名のみのこれり』と、以前からあった地名の「トットリ」を読みこんで、「年取」の字をあて、風流を示したのではないかとも考えられる。 このようなことから、瑠璃寺と年取島と中院通勝、細川幽斎は一連のものと考えるのが自然のようで、その鍵を握るのが「吉田のしだれ桜」かもしれない。 ※因みに、平成十五年(二〇〇三)、当寺しだれ桜の故郷とおもわれる、京都吉田山の吉田神社と縁あって、友好の関係が結ばれ、平成十六牛(二〇〇四)二月、古木のしだれ桜からとった、穂木を贈り、吉田山大元宮の他に里帰りした。 〉 としている。どなたが書かれた案内かしらないが、吉田はやはり鳥取なのかも知れない。たぶん鳥取という古地名があったのだ。幽斎の時代にはもう途絶えていたようだが、同じ火を使う製塩もしていた。 鳥取か鳶取り、あるいはトミ取りかも知れない、風流人の細川幽斎のことだから、その地名を多少変形してこんな普通にはありえない島名に変名した…そう睨みをつけていたのだが、当たっていたかもしれないようだ。 そうすると七日市も鳥取となるかも知れない。弥栄町の鳥取はご存じのように遠所遺跡のあるところで、古代の製鉄大コンビナートであった。鳥取と鉄の関係はいつかどこかで取り上げてみたいと思う。
九社明神の御旅所として、今一つ、この九重神社があった。現在は伊佐津川を東へ渡った所に鎮座している。万願寺地内の七日市飛地であるが、万願寺は七日市の枝村であった。七日市には関西電力の変電所があるが、元はその辺りにあったという。
『丹後国加佐郡寺社町在旧起』は、 〈 九重(大己貴神他八神)明神氏神なり。 〉 とする。『加佐郡誌』も、大己貴神外九神として、出雲系の神社としている。 しかし、九重神社は九社明神の御旅所であったのだから、出雲系の神社とするのは何かの間違いであろう。 『ふるさとのやしろ』は、 〈 七日市はその名の通り、七の日に市が開かれるこの方面の経済的中心地で、村々の氏神の神輿がここに結集する「九会神事」が催される御旅所があり、それが九重神社の前身と思われる。その場所は、昔は今の関電変電所付近だったが、水害で今の場所に移ったとの説もある。慶長年間の大水害後、伊佐津川の大瀬替えが行われ、真名井の清水から笠水神社方向に流れていた池内川と真倉川を九枠の石垣でせきとめて合流させ、伊佐津川として東の山寄りに流すことにしたため、お宮の位置が、七日市の集落からは川向うになったとも考えられる。 同社の祭神については、九社明神ではなく、出雲系の大国主神の子孫の九柱の神とする説がある。七日市の九会神事は中絶して、女布の下森神社に移され、現在の九重神社は、笶原神社の神主海部正之が「貝重神社」としてこの九柱神を祀ったというのだが…。 〉 恐らく、九社の御旅所(=元の鎮座地)は、下森神社(女布馬場・女布遺跡)の地であったろうと思われる。こここそが九社の古代の古里の地である。しかし中世になると七日市・公文名の地名が示す通りに、この地域の中心地は東へ、この方面に移動してくる。近世になると、今度はその北側の現在の中心地へ移動した。 御旅所も何かの理由により、ここの山崎河原に移動して、ここで九会神事が執り行われたのだと思われる。それからいつの日にかそれは中断し又、元の下森神社の地に戻ったのであろう。 …と私は考えるわけであるが、それならば、九重神社は、こんな字を書く以上はココノエではなく、クジュウと古代名らしく読んでもらわないと、話が合わないことになる。九社はクシ=クシフルのことであるのだから、九重もクシ系の発音でないと具合が悪い。 ところが誰もクジュウ神社などとは呼ばない。ココノエ神社と呼ばれている。九社の神輿が集まって、 はたと困り果てて、これでは私の九社=クシフル説は、全体をもう一度考え直さなければならなくなる。どうでもいいことかも知れないが、これは私には重大な問題であった。 さて、先に引用した『ふるさとのやしろ』の、最期の行をもう一度トクと見ていただきたい。九重神社の出発は「貝重神社」とある。印刷の間違いかと何度も見てみてみたが、貝重である。何だこれは?これはおかしい、何でこんな変な名なのか。 ある日これは具重の間違いだと気が付いた。具重はグジュウとしか読めない。九重はやはりクジュウと読むのだ。原本が間違っているのか、読み違えたのか、原本を見ないのでそこはわからないが、具重神社が九重神社の前身と書かれている。これで間違いなく九重はクジュウと呼ぶのだと理解できよう。 ココノエ神社と呼んではせいぜい数百年の歴史しか反映しない、クジュウ神社と呼んでこそ、その本来の数千年の歴史を理解した呼び名に戻るだろう。どうか今後はクジュウ神社と呼んで頂きたいと願う。
ついでに、九重神社の脇を流れる伊佐津川、その支流の池内川をどんどん遡った源流、
岸谷から南の綾部市上林の五津合町遊里に出る5キロばかりの峠を鬼住(木住・幾津見)峠と呼ぶ。キスミ・キツミと読む。上林街道とよぶが、古くは京街道であったろうと思う。丹後・何鹿国境のきれいなピラミッドをした上写真の弥仙山(一番奥の薄く見える山)へはここから登ったのだそうである。 私の親父は与保呂の常の農家の次男であったが、13になったときその親父がこの弥仙山に連れて登ってくれたそうである。13と聞いたように記憶しているが確かではない。もう70数年も昔の話である。いったいどの道を登ったのだろう。 さて、そのキスミ・キツミだが、これでは何のことだかわからない。たぶんキジュウと読むのが本来と思える。クシフル峠だったのだろう。岸谷のキシも同じでクシフルのクシ谷であろう。そうだとすると、弥仙山もその古名はクシフル山であったろうと思われる。 舞鶴湾へ外海から入ってくると、船の進行方向の真正面に弥仙山が見えるてくる(写真)。出迎えてくれているようにも感じられる。ひょっとするとカサとかクシフルの地名はこの山とも関係あるかも知れない。 |
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