過去は忘れて 戦争でも始めよう!
誰が敵だかわからない

福知山20連隊と南京事件

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 蘆溝橋事件


 昭和12年7月7日の深夜に、北平(現北京)の西南約6キロの盧溝橋(ろこうきょう)付近に3発の銃声が響いた。蘆溝橋はマルコ・ポーロも訪れたという伝承や、東方見聞録にも記録がありマルコ・ポーロ橋と通称されていた。
その北側に鉄道線路が走り、それを挟んで日中両軍が駐屯していた、どちらが発砲したかは不明だが、日本軍の10mばかり頭上を鉄砲の弾が飛んでいったという。これをきっかけに両軍が衝突する。昭和16年までに日本側だけで18万人を超す戦死者を出した泥沼の日中全面戦争がいよいよ始まった。
 日中戦争はこれより早く昭和6年9月18日に始まる柳条湖で満鉄を自ら爆破した関東軍が中国の仕業だとして始めたことから始まり(満州事変)、ここを起点に以後15年に渡った戦争を15年戦争とも呼ぶ。「満州国」建国、国際連盟脱退、軍縮会議離脱…などと続き、そうした流れの発展大拡大版であった。
満州はいわば地方軍閥相手であったが、今度は中国国民党政府、共産党、4億の全人民相手の戦争であった。これを支那事変と呼んだ。戦争と呼ばず「事変」と警察力では及ばないが何かちょっとした軍事的小競り合いのように日本では呼んだ、宣戦布告し交戦国になればアメリカの禁輸法にひかかり必要な軍需物資の入手が困難になるから、などと言われるが実際は他国に宣戦布告するだけの誰もが納得できるだけの明確な理由がなかったためで、そんなことで「事変」なのだが、実際は日中戦争、それも大戦争であった、日本は相手をなめていたが結局この戦争に勝てなかった。

蘆溝橋
↑蘆溝橋。(昭12)7月7日夜、盧溝橋の西側で夜間演習を行っていた支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊に向けて、中国兵のいる竜王廟の南側堤防から数発の銃声が響いた。この発砲騒ぎは双方に死傷者もなく、現地で収拾交渉が行われたが、その最中、北平(現北京)にいた第一連隊長牟田口廉也大佐から中国軍攻撃の命令が下る。満州事変同様、現地軍の暴走から日中戦争は起こった(『朝日クロニクル20世紀』より)


 11日には停戦協定が調印されたが、この日近衛内閣は「重大決意をなし」「支那側の計画的武力抗日」によるとして華北派兵を声明し、関東軍から2旅団、や朝鮮軍から1師団、内地から3個師団の動員を決定して各界に挙国一致を呼びかけた、呼びかけられた新聞・通信社、政界・財界の代表はひとり残らず協力を約束した。暴走は何も軍部だけではなかった。誰も彼もいよいよ亡国への坂道を走りはじめた、ポイント・オブ・ノリターンを越える、もう止まらない。
中国政府は中国の主権侵害と「最後の関頭」に立ち至れば抗戦も辞さないと声明した。28日には華北の日本軍は総攻撃を開始し日中全面戦争にはいった。

日本軍は連戦連勝の快進撃を続けていた、「勝ってくるぞと勇ましく」の声に送られて出征兵士がぞくぞくと大陸の戦線にはこばれた、各地の駅頭では藁にもすがる思いの千人針が人を集めていた。



 福知山20連隊にも動員がかかり、12年9月8日大阪を後に、14日塘沽に上陸した、9月といえども寒気で手もしびれた。天津から河北省中部で子牙河作戦に従事、あたり一面も見渡す限りの泥沼の世界であった「どこまでつつくぬかるみぞ」の悲嘆はあながち現地の兵ばかりでもなかったが…




(8)は、

 〈  グッショリ濡れし戎衣は胸を締めて息苦しく、膝を没する涯しなき浸水地の泥底は、疲労しきった兵の足を払う、最初は一人辷って黄濁せる水の中に顔を突込む度毎に、睡気を醒し冗談なぞ飛ばしつつ笑い居りしが、疲れるに従い皆んな転ばされ、笑うどころか泣き度くなる。
 大行李の追及し得ぬ泥濘行軍の連続に、煙草は勿論糧株も無くなり、一本宛大事そうに一々背嚢から恭々しげに取り出しては、多勢で一口宛吸い廻して居た煙草も全く尽き、「嗚呼、せめて一本吸って死に度いなあ!」と口々に呟やき居りしが、窮すれば通ずで、野作りの煙草を見付け出し、背嚢にぶらさげつゝ行軍し、天日で乾くのを待って、少し萎れ育味の褪せかけたのを丸め、葉巻で御座い!と豪勢な喫煙振りを発揮するも、無いから吸うものゝ火付けも仲々で、イガラクて、吸へたものではなし。
 糧株の代用は毎日河北名産の棗と白梨(二十世紀に似て美味)、梨畑が在ると疲れも忘れ、休憩毎に飛込んで、「腹も身の内だぞ!」と言いつゝ貪り喰つて空腹を満たし居りしが、数日続くと「腹も身の内だ」がものを言い出し、誰れ彼れの別なく皆んな強烈な猛下痢だ、前と同じ梨畑通いなるも、今度は便所通い、而かも多くは血便なり、休憩毎に梨畑へ群がり押寄る下痢患者の姿も情なき思い出の一哀話。
 連日の睡眼不足に飯もなく、毎日腹を押へて顔しかめつ、血便通いの兵隊は、何時まで続くか涯しなき夜昼なしの作戦に、泣くにも泣けぬ苦しみなり。
 茫漠として涯しなき北支の沃野は今、豊穣の秋の波、殺気漲ぎる修羅場に目もくれず、すくすくと伸び、且つ稔り、只管に大自然、弥栄の心の侭に貢献しありて、あたら人の世の浅ましさに無言の天啓を垂れ居れり。
 (昭和12・9月)二十八日、謝庄附近の堤防上(子牙河)にて行李を満載せる我が輸送船(ジャンク)に逢い、久し振りに珍らしい米の飯と、ほんとうの煙草(はまれ)にありつき、地獄に仏、あまりの嬉しさに鬚面顔に涙して泣きぬ。  〉 



 それから少ししての郷土の兵たちの様子は…
(3)より、公式的な資料には見えない。一般に戦争遺跡とされる国内のものには、加害に関するものは多くはない、たいていは被害戦争遺跡である。国内だけを見ていれば被害国のように見えてしまうかも。
加害の現場は国外である、加害戦争遺跡は国内には鉱山とかごくわずかである。加害戦争遺跡は、あえて呼べばこうした加害兵士の証言であろうか。赤レンガ倉庫が重要文化財ならば、こうした加害証言は国宝の値打ちがあろう。
誰も気も付かない様子だが、そうしたことでたいへん貴重なものであるが、それでも血が吹き出し流れて、まるで釣り上げた鰺か鰯のように、人が何の値うちもない魚のように殺されていく、一匹二匹と数えながら殺す、そんな地獄よりも怖ろしい場面は引用すら何ともつらい、こんなことが平気でできるのはオニと、世界最悪と司馬遼太郎氏もどこかで書いていたが、そんな低国兵だけかもしれない、ロシア兵が最悪だったろうが、彼らにもマネもできないもっと最悪兵がいた、それは日本兵だった、と。名誉なことである。世界に冠たる蛮行兵、これには20連隊も遅れをとらなかったようであるが、それは本当か自虐者のウソか、とりあえずおとなしいところを…

 〈 十月三日
朝霧の中に絶景を見た。
形のよい望楼をもつレンガ造りの城壁が水中に浮かんでいた。
大発艇にそなえた歩兵砲が火を吐き、城壁に炸裂した。二発、三発……。だが、堅固な城壁は、びくともしなかった。
数分後、砲撃に驚いた衡水の住民たちが、即製の日の丸旗を手に、城壁の上にずらりと並んで、恭順の意を表明した。
炊さん命令が出、飯を炊く。城外の商店で、驚くべき光景を見た。
多くの兵隊が、商品をひっかき回して掠奪していた。商店の主人や番頭たちは、ただ呆然と隅に立って眺めている。悲痛な面持ちであった。
「戦勝国の当然の権利だ」−私もまた、店をひっかき回していた。
何から奪おうか。まず砂糖だ。干ぶどうもうまかろう。一箱とった。缶詰もうまい。懐中電灯も必要だ。煙草もうんとないと困る。
毛皮の手袋−冬になれば冷たくて困るだろう。こいつも二足。羊の毛皮も露営に重宝だ。
私が持ちきれぬほどの物品を抱えて出ようとすると、大隊本部経理部の下士がやってきてどなった。
「貴様ら、誰の許可をえて持ち出すのかァ!」
私はぐずぐずしすぎていた。すでに他の兵たちは、うんとこさ持って出ていた。私は返答のしょうがなかった。
「金は支払ったのか、まだなら、いくらでもいいから支払っておけ!」
私は十銭玉を一個とりだして、店員に渡した。店員は腹を立ててつき返してきた。
河原には、分隊の戦友たちがサンタクロースの私を待っていた。あちらでも、こちらでも、掠奪品の処分に大わらわの歓声をあげている。
二、三人の戦友が、また持ち帰ったので、私の分隊は食料品でいっぱいだった。
干ぶどうを食い、ぜんざいを食い、だんごを食い、ボタもちを食い、缶詰を食い……。帯革とバンドをゆるめて腹をゆさぶった。
我々は、こういった。
「掠奪ではない。徴発だ。戦勝兵当然の必要なる徴発だ」
徴発という言葉を使うと、罪悪感を覚えないのだった。  〉 
物品を奪い、一銭も支払わなければ「掠奪」と呼ばれ、一銭でも支払えば「徴発」という。このころはまだしも「徴発」(限りなく掠奪に近いが)だったようであるが、こんなことばかりが目立つようになったのではなかろうか。(8)はこのころ、次のように記して誡めている。

 〈 斯くする自戒こそ、敵に勝つ唯一の要諦にて、軍紀の厳粛は事変解決の先決事なり。  〉 

 進軍は誰からも祝福されてはいない、何もかもが不吉、暗黒の前途の忌まわしい前兆か、地獄の門が開く怖ろしい前触れか、小さな火はいよいよ大きくなり、部隊の日本の未来に暗雲が垂れ込める。
南京大虐殺は突然に南京だけに発生したものではなかった。それまでの歴史の必然か完成拡大か。誰も火を消そうとする者はいないのか。

京都や大阪の兵の人気は一般によくないようであった。弱いくせに妙な暗黒面がある、弱い者いじめをする。他地域出身兵と較べるとヘンな、こいつら人間かいな、と思われるような連中だったようによく書かれる。
予備役の年齢の高い兵隊であった、現役よりも戦力も規律も劣るといわれる、かんべんしてくれよ、の思いがあるのだろうか、「国を背負い東洋平和のための聖戦」に来ているという崇高な気はない、そんな気持ちを持つほどもう若くはない、上のいう寝言などはもう信じているはずはない。自分勝手な判断と勝利の見えないヤケクソで何をはじめるかわからないヘタすれば強盗殺人集団とかわらない。この地は日本の中心、いまも文化の中心、とよく勝手に誇る。しかしそんなことは何も誇りにはならない、たまたまそこに住んでいるだけのこと、どんな状況下でも人間としてどうかを第一に考えないと、暗黒時代でもその時代の「優等生」を努め、東洋鬼・日本鬼子でも最先端の人殺しのやりすぎ派となることになるのかも…
観光時代でもヒットラーでもナチでも震える赤レンガなどをヘーキで作るのかも…
戦争を回避し平和を築こうとする姿勢などはハナクソほどもないものを…
オニに成りはてて、それにも気が付かないオニよりもさらなる人のドカスに…

(『「南京事件」日本人48人の証言』)より。

 〈 「日本の軍隊だけではなく世界共通だが、強い軍隊は軍紀もよいし、逆に弱い軍隊に限って問題を起こす。これは人間の心理でね。弱いから報復的に、一層弱い人民に当たるんだろう。日本陸軍でいえば、東北、九州の兵は強く、京都、大阪の兵は弱かった。東北は服従心が強く、九州は自負心が強いという特色を持っていた。第十軍は強い九州の第六、第十八師団が主体であったので、軍紀が乱れているという話は聞いていない」  〉 

南京を共に攻略した第十軍の参謀だった人の話だから、どこまで本当かはわからない、まず大ウソだろう、ワシとこは問題ない、悪いのはアイツらだというハナシかも知れないが、後に触れるが十軍だってまけずにやっている。しかし一般にこんな話がされていたようである。こうした県民色はもう過去のものだろうか…
また次のように同情的にも書かれている。家庭内暴力がすべての暴力の元だとか。(1)より

 〈 第一六師団が南京大虐殺の主役の一つとなるのには原因があった。華北いらいの転戦の負担と犠牲にもかかわらず、途中から投入された上海戦では継子扱いされ、兵要地誌(作戦・軍事に必要な地形・地勢・気象・人文・産業産物等を調査した書類資料)も機材も補給もまともにあたえられず、作戦目的も説明されないまま行き当たり式に戦闘を命じられ、さらにこの武藤書簡のようにこきおろされて、南京進撃へと駆り立てられたことの憤懣と苛立ちと怒りが、逆に中国軍民にたいする敵愾心のかたちで爆発したのである(江口「上海戦と南京進撃戦」)。  〉 
16師団は北支で9月から戦闘をしていた、凱旋かと思っていたところを、中支へ派遣された。中支方面軍中では、こんなに戦闘続きで疲れ果てた部隊は16師団だけだと思われる。ほかの部隊は内地から新たに派遣されている。南京を落としたあともまだまだ内地へは返してもらず、まだ1年半戦闘に使われた。

 〈 十二月十五日 晴
何する事もなくして暮す。
其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徽発して来た、支那饅頭うまかった、十六師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、…  〉 
↑(21)会津若松の65連隊の上等兵の日記にある。ほかの部隊も見ている。しかしよその部隊のことばかりも言えまい、この部隊も次の日には大虐殺をしている、あとでまたふれる。

 「南京虐殺はなかった」とか「まぼろし」とか、本が売れれば何を書いてもいい式にすぐバレるウソを書く詐欺師みたいな連中や出版社は別としても、ナイーブに「なかった」「あるはずがない」「ないないないない」とか「いやあれは正当だった、相手が悪いんだ、ワシらは悪ない」「善意でやったのだ、悪意はあるはずがない」とか思い込みたい向きもけっこう多くあるであろう人々の気持ちも理解できないこともない気になる。私だって封印したい、もしやそれで済むのならば…

 この頃は引揚げいうたらサルベージのことやと思とるんですで、と「観る会」の老会員はおっしゃる。「あんなもんはウソ」といいはりますで、とか。
我国のそれも地元の引揚げすら知らないとすれば、南京などは知ろうはずもない。中国とのお付き合いは今後ますます増えてこようが、南京事件は知りません、そんなことはウソですと舞Iでは皆が言うとります、では経済的信用にすらもかかわろう、そうしたことではアジアに向かって港のある舞Iには経済的な未来すらもなかろう。

 悪事千里を走る。壁に耳あり障子に目あり。天知る地知る。隠せば隠すほど顕れるもの。
神様が見ている、どうあがいても隠せるワケはない…
しかしそれでも都合の悪い事は隠す、これは日本の支配層のDNAで、福島原発事故を見ていてもよく見えてくる。どんな大問題でもまず隠す、3号炉燃料のプロトニウムなど超重要情報は隠して、生のデーターを見せない、見せてもごく一部だけ小出しにする、本当の重大問題のデーターは隠す、それで安全ですという、デマに惑わされないように、という。それで大丈夫なのか見ていると、突然に大問題が発表になる。東電も、経産省も、国の諸機関も、メデイアにも、この悪しきDNAが受け継がれている。放射能はこれら「安全です」どもだけの問題でもなければ、我国一国だけの問題ではない、全地球を長く長く汚染する、「保安院のアホがわけのわからんことを言うとる、こいつらも知らへんのやろ」などと国内の一般国民の間でもでも発表にはまったく信用がないが、国の外ではそれ以上にないことであろう。自分のことしかわからん日本人のアホどもがわけのわからんことを言うとる、日本というのは問題の重大性も認識できてない小心なペテン師ばかりのゼニ儲けだけのアホ国でないのか、問題に向き合えるだけの能力はあるのか。全般的な危機に臨んでも正確な情報を出すことをせずに、都合の悪いことを隠して己の保身を優先する、これが支配層のDNA、まもなく全世界が東電も政府も信用しなくなる、もうまもなくであろう。
やはりとうとうやってしまったかの感である、ある程度は予知できたものであったが、「安全です」どもの大ウソつきがどう隠そうがこの事故は今後何千年にもわたり全世界で語り継がれることだろう。人間の作る物に万全はない、完全無欠はない、どこかに欠陥があるはず、それを見抜けないだけの話である、ヤバそうと感じたときにすぐ対策は打たれるべきであった、己らがでっち上げた安全神話に、愚かにも己ら自身までもが欺かれて超愚かにも無対策であった、最も危険な状況を自らが完全無欠に作り上げていった。
その重大さにもかかわらず、情報もまともに出さずに周辺は「自主避難」だそうである、呆けてはいないか。普段からの知識周知徹底や避難計画、訓練も施設もなく、安全ですと繰り返したのみで、事故が起きればその正しい情報も伝えず、何が自主避難か。まったくの何重もの何十年もの怠慢と無責任さ。これが日本支配層DNAの好標本。要するに自分さえよければいいのである。
山菜とか勝手に山に入って根こそぎ採って帰る人もあるのだが、その対策の決め手は「除草剤撒布中」と看板に書いて立てておくことだそうで、そうすれば誰も採らないそうである。勝手にシッケイしていくような連中でもそれくらいに食糧に対する安全意識は強い、政府東電メディアなどの「風評被害」とか寝ぼけた問題意識のレベルしか持ち合わせないヤカラどもに原発を扱わせるのは極めて危険である。
事故はたまには発生するし「想定外」も実際に起きるものである。人間がすることは所詮そのテイドなのである。神様でもたまには失敗するのだから、人間では完璧はムリ、それをよく承知しながら対策も考えておかねばなるまい。安全です安全ですは、愚かな怠慢者の、不安全、危険ですの別語でしかなく、実際は何も安心できるものではない。こうした連中の最っとも悪いところは安全です安全ですと欺瞞を繰り返している間に自分もそれを信じてしまっていることである、科学者技術者というよりももう狂信者になりきっている。
この事故で日本の原発時代の終焉は始まった。今後もどうしても作りたいなら、地下深くに建設するより全世界からの同意は得られまい。武装と同じように原発は持ちませんと憲法に明記するよう求められるようになるかも知れない。
デマだ風評だと言っても、どちらがそれかがわからない、安全だ安全だ、安い安い、環境に良い環境に良い、それらはデマではなかったのか、風評ではなかったのか、だからナマのデーターがいるのである。判断はこちらでする、隠さずにナマのデータをすべて出せ。
認識が甘すぎる、自分らで何とか押さえられると傲っている、オマエらクズだけの問題ではない、の認識がない。
舞Iでは市民病院がこうなっいる。どうなってるんですか、と問われることがあるが、さっぱりわからんですとしか答えようがない。誠に恥ずかしい話ながら私のような舞I市民には答えられない、さっぱりと情報が出てこなくなっている。こんな大事な問題でもやはりカスどもが隠している。そして自分らで何とかなると愚かにも勝手に思い上がっていて、市民病院は私物だと思い、これまでの経緯に何も学んではいない、名医必ずしも名行政マンではない、周囲のクソばかりに関わっていて全体としてはとんでもないことになりそうな気配もある。

 インフル感染のニワトリのように、何万もの人々を殺処分して壕に埋めた。戦争には似たような事件は多少はつきものといえ、それにしてはあまりに突出した規模と深刻な内容である。我国政府の行為がもたらした誠に容易ならざる過去である。低国が残してくれた本気でありがたくない遺産である。
こんな大変な負の遺産、はっきり言えば大変な人殺しはスコーンと忘れてノスタルジックやね、とそれとは完璧に切り離して古い軍事建物だけを大事にする(この者ら流にだが)どこかのニセ歴史好き市みたいな者もけっこうあるだろう。
容易ならざる深刻な問題は我が国には多いが、これも超重い。目をそらしたい、しかし誠実に向き合う以外には未来はなかろう。過去にも正面から向き合えない精神には、現代の超難問などは何一つとして解決できるはずもなかろう。そんな頼りない者どもは今の課題にも向き合えはしない。過去を忘れる者は現代も忘れる、という。

 郷土に残された戦争遺産は地元の市当局が夢想するような甘いロマンチック遺産では決してない。2000万にものぼる戦争犠牲者たちの身になって考えればたぶん、ナチがやったように1対1の平等で、仕返しに2000万の日本人を殺したいが、それでは怨みが残るかもしれないワシらはおまえらのようなオニではない、もしやおまえらのようなものでも今後は皆と平和に暮らしていくというなら、この地球上に残してやってもいい、日本人2000万は執行猶予とする、おまえら次第だ、ということであったろう。そうして我らは戦後の60年ばかりを生かせてもらい、日本人5人に1人は死刑執行猶予の身、それを念頭において何とかやってきたのである。
そうした過去も忘れ、何の長期的総合的見通しもなければ道義性もない、その場その場の出来心的にゼーキンをバカ使いすれば何とかなるワイ式では町に未来はないのである。無責任なクソ官僚どもが先導するような調子の良い計画にはそんなことが多く本当の郷土作りはまったく期待はできない。そんな日本の風潮にふりまわされて「すばらしい舞I」などと長く言ってもらえるなどと本気で考える程度の、世界でも希な情けないものどもばかりなのだろうか。
赤レンガは「世紀をこえた感動」なのであろうか。「レトロに街並みが、どこか懐かしいあの時代へいざないます」なのであろうか。


 (16)ヴァィツゼッカーはいう。

 〈  われわれドイツ人は自らの経験から、過去と向かい合うことがどんなに困難か、だがぜひとも必要であり、結局は未来のために役立つことも承知いたしております。
 歴史はわれわれの記憶に重くのしかかるものであってはなりません。それはわれわれの精神に光明を与えてくれるものなのです。心に刻んで記憶するのは困難なことではなく、偉大な力への呼びかけなのです。明暗双方をもつ過去の全遺産を受け入れ、ともに責任をもってこれを担うことこそ、一つの国民を真の国民にするのです。  〉 
もしや誠の愛国者ならば、もしや誠に郷土愛をお持ちならば、その先頭に立っていただきたい。
 10月10日の東氏の日記(3)より。北支戦線での最後のページは耐え難くむごい場面で閉じられる。氏とは同人誌で同じだったのだけれども、ずっと年上のオヤジよりも年長だった氏の思いに、私が代われることもできないが、同人のはしくれとして、犠牲となられた方々に深くお詫びしながら、引かせてもらいます。

 〈 「師団長は、女子供にいたるまで殺してしまえといっている」ということだった。
我々は片っぱしから民家に入り、住民をつまみ出してきた。広場には、三十数人の住民が集められ、地面にしゃがんでいる。
 聯隊長・大野大佐が命令した。
「住民は殺すべし!」
 敵がいた部落だから、住民は敵に加担し、抗日に燃えているものと断定されたのだ。
 住民たちは哀願も抵抗もしなかった。逃げようとさえしなかった。彼らは完全に観念していた。
「ヤァ!」「トウ!」…………
 銃剣で突き刺す気合いがあいついで起こった。悲鳴と喚き、気合いとうめき、断末魔の叫びが交錯した。
 住民たちの胸から噴き出した血潮は、地面に流れ、もがき苦しむ住民たちの両の目玉がこちらをにらむ。
 「ヤァ!」「この野郎!」…………
 またしてもくり返される刺突。
 兵士たちも血しぶきを浴び、地獄の鬼のような様相である。凄惨さを追い払うように、死にもの狂いになって、銃剣を突き立てた。
 広場は、文字通りの地獄図と化した。
 また、老人と子供が引き立てられてきた。子供は、残酷な光景を目前にし、突き殺された親や一族のうめきと血みどろな姿におののいた。老人は、おろおろと少年をかばい、両手でひしとかき抱いた。
 「ヤァ!」「オゥ!」−鋭い気合いとともに、「ぎゃ!」という悲鳴をあげ、二人は抱き合ったまま、あお向けに倒れた。
 すると−。
 おゝ、何ということだ!老人は、少年の胸からあふれ出る血に顔を埋め、吸いはじめたではないか。いいようのない痛苦といとおしさの表情で、血まみれの老人は最愛の孫の血をすすっている。ずうずうと音をたてて、子供の血をすする老人−。
 何のために?なぜ?それほどまでに、老人は子供を愛し、消えようとする命がいとおしいのだった。惨憺たる崇高!
 建設への犠牲か。破壊ゆえの犠牲か。これが、戦争のあるがままの姿だ。これが戦争の感傷だ。
 このいいがたい悲惨は、電光のように我々を打った。
 老人は、なおも少年の鮮血を吸う。子供の生命を自らに生かそうとするかのように。
 まもなく子供は痙れんし、最後のひと呼吸がきた。
 「ヤァ!……」
 ふたたび老人の背に銃剣が突き立った。ここでは、人間の生命は塵芥ほどの値打ちしかなかった。  〉 


(2)の冒頭。16師団の様子である。

 〈  高島本部隊が太沽に上陸したのは北京陥落の直後、大陸は恰度残暑の頃であった。汗と垢にまみれた兵の行軍に従っておびただしい蝿の群が輪を描きながら進んで行った。
 それから子牙河の両岸に沿うて敵を追いながら南下すること二ケ月、石家荘が友軍の手に落ちたと聞いたのはもう秋ふかい霜が哨兵の肩に白くなる時分であった。
 高島本部隊は寧晋の部落に部隊[師団]集結して次の命令を待ちながら十日間の休養をとった。その間に中隊ごとに慰霊祭が行われた。二人の中隊長は戦死し歩兵は兵力の十分ノ一を失っていたが、補充部隊が来るという話は聞かなかった。  〉 
このあと、連隊本部の建物に火をつけたらしい中国青年が捕まる。これは9連隊本部と思われるが、彼に尋問すると、彼は言った。
これはオレの家だ、オレの家をオレが焼いたのだ、何か文句あるか。
ドタマにきた日本兵は彼を切り捨てた。
最初から何も道義のある戦争ではなかったことを思い知らされた。何のための戦争なのか、何のために命をかけるのか、何故にこんな所にいるのか、オレは何をしているのか、兵はわからなかった、耐え難い不安な現実を前にしていろいろ考え悩み答えをだそうとしている様子が東氏の日記には見える、何とか自己納得できる解答を得ようともがいている。いくら自己説得してみても、本当は兵にも暗澹たる将来が忍びよる予想しか立たなかった。兵士たちは戦い生きる意味がなかった、もうすでに「生きている遺骨」「生きている棄兵」になっていることを感じただろう。
アジアではもっとも早く近代化・工業化した先進大国民衆による草の根からの虐殺。農民の市民のごく身近な人々のファシズム。郷土の誇りの軍によるオニも怯え震え泣く残虐。一人がコケルと皆がコケル。一緒にこけないと非国民・国賊。ヒットラーもナチも日本人には顔負けである。
日本は一番、日本の技術は世界一、経済は三位に落ちたけどな、日本はもっともっと自信と誇りを持ったらええんとちゃう。まだまだやれまいよ。日本はよい国やで、やっぱりサイコーや
絵になるなぁ、映画になるなぁ。レトロだ、アンチークだ、ロマンチックだ、ノスタルジックだ。観光名所だ、ようこそようこそ舞Iへ。
どう見ても暗澹たる気しかしない、自分でムリして褒めなければ誰も褒めてはくれそうにもない、自ずから径を為すことの決してない、心もないみえみえのおべっかつかい以外に持ち上げる者もない、クソ役人どもが自分で褒めているようなものに何か立派なものがあるのか、そんな赤レンガ軍用倉庫に己が出世目的ですがりついた、どこかのいかれた未来も知性も理性もないクソ公務員どもは別としても、市民としては納税者としては戦争遺跡の大宣伝の硬貨の負の裏面もしっかりと見ておかねばなるまい。全世界から嘲笑されることのないよう、神が怒り天罰の下ることのないよう、こうした残虐・殺人、掠奪、強盗、放火、暴行、強姦などなどの人にあるまじき無法行為の数々を支え続けてきた遺跡でもあることを忘れてはなるまい、正気を忘れると我らが不幸になるだけである。こうした戦争遺跡を郷土に活かすとはどういうことかをもう一度、というより初めて真剣に考えてみなければなるまい、何もいいことはしてこなかった、外から、世界の目から、もし見ればそうしたものでしかない、硬貨の裏面でしかあるまい、裏面と呼ぶか、表面と呼ぶべきか、たぶん表面なのだが…。
一面的に嬉しそうに宣伝しているだけのような市のふざけたやり方では、70年後の今もますますわからないままになる。歴史の真実からはなれると、市民は何をなすべきか、ますますわからなくなってくる。
東氏は隠さずにその日の日記を公開することで、ようやく自分なりに納得できる解答を得られた。我らもまたそうでなければなるまい。そこから始めなければなるまい。
(23)に、西ドイツ前首相のことばがある。

 〈 日本はいかなる国とも、欧州共同体の加盟国同士、または欧州諸国と米、カナダとの関係に比べられるような緊密な関係を持っていない。……ドイツ人は、その最近の過去と、また未来について、厳しく分析する必要があると痛感した。つっこんだ自己検証を行い、その結果、自己の非をきちんと認めるに至った。ヒトラーの支配に苦しめられた近隣諸国にも、そのことをだんだんとわかってもらえた。しかし、日本がこうした自己検証をしたとか、それ故、今日の平和日本を深く信頼して受け入れるとか、東南アジアではそんな話はまるできかない。
(ヘルムート・シュミット「友人を持たない日本」)  〉 


 上海事変

 これより早く8月13日、戦火は上海に飛び火していた(第2次上海事変)。
揚子江(長江)の一帯は古くから列強が中国侵略を重ねてきた権益の橋頭堡であった。その中心地・上海には日本人は25.000人ともいわれ当時は最も多く住んでいた、アメリカ・イギリス・フランスなど列強諸国も大きな権益と租界(一時は8ヵ国27ヵ所に及んだという、治外法権の区域)が入り乱れる国際都市であった。
居留民保護・邦人保護を名目にした海軍の「縄張り地域」であった、北支の陸軍へは批判的だった海軍であったが、その海軍もだんだん狼になりつつあった。この当時何か良いことをする日本人などは皆無状態だっただろうが、名目とは関係なく戦火を拡げた海軍もけっこうワルであり、人殺しであった。

 5年前の昭和7年、第1次上海事変が起きている。「肉弾三勇士」で知られるが、柳条湖事件から上海でははげしい抗日運動が展開され、日本製品の不買運動が広がった。上海公使館付陸軍武官らは、これを抑圧するとともに、満州国樹立工作から列国の目をそらすため1932年1月18日買収した中国人に日本人托鉢僧を襲撃・殺傷させて、日中間の対立を一挙に激化させた。
上海市長に対し事件について陳謝・加害者処罰・抗日団体解散などを要求して、第1遣外艦隊の武力を背景として27日最後通牒を発した。28日中国側は日本の要求を承認した。
しかしエエカッコしたくなった海軍は、日本が一方的に警備区域に編入した租界外の閘北へ陸戦隊を出動させ、中国第19路軍と衝突し激烈な市街戦となった。海軍は第3艦隊の兵力を増強したが苦戦に陥り陸軍派兵を要請し、2月2日第9師団・混成第24旅団の派遣、中国軍に租界から20km以遠への撤退を要求して20日総攻撃を開始したが大隊長が捕虜となり、肉弾三勇士の犠牲を払うなど中国軍の強力な抵抗に直面して人員・弾薬の不足をきたした。
24日第11・第14師団などからなる上海派遣軍を編制し、3月1日第11師団が中国軍の背後に上陸、第9師団も総攻撃をかけて中国軍を退却させ3日一方的に戦闘中止を声明した。5月5日停戦協定が成立。中国側は約20.000の死傷者、日本は戦死769名・負傷2322名の犠牲を払って撤兵した。という。

3勇士競技会
←美談の再現 上海・廟行鎮を日本軍が占領した2日後に行われた小学校の運動会で、「肉弾三勇士競技会」をする子どもたち(10月28日、堺市)。第1次上海事件のときに作られた美談を再現しているが、戦争の進展とともに、学校や地域の少年団では心身鍛錬や軍事訓練が行われるようになる(『朝日クロニクル20世紀』より)




 昭和12年8月9日海軍陸戦隊中尉と水兵1名が虹橋飛行場偵察で中国保安隊に殺害される事件が発生すると兵力を増強した。これに対して中国側も増兵して緊張はいちだんと高まった。
12日海軍軍令部は陸軍派兵を要請し内閣は13日内地2個師団(名古屋3師団・善通寺11師団)派兵を決定。同日夜日中両軍は衝突はげしい市街戦となった。
14日中国空軍の日本艦隊爆撃、日本海軍の台湾基地からの杭州などへの空爆、15日長崎県大村基地からの南京への渡洋爆撃、第3・第11師団を基幹とする上海派遣軍の編制へと戦局は拡大して、23日上海北方への日本軍上陸により戦争は完全に全面化した。


上海事変
↑上海事変 (昭12)8月13日、日中両軍は上海で交戦状態に突入(第2次上海事変)、23日松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が上陸した。中国軍は蒋介石直接の指揮のもとに頑強に抵抗し、日本軍の戦死傷者は4万人にのぼった。しかし、11月5日、11万の日本軍が杭州湾北岸に上陸して進軍すると、中国軍は総退却した。上海での戦闘が本格化した8月15日、政府は「支那軍の暴戻(ぼうれい=荒々しく道理にもとる)を膺懲(ようちょう=征伐して懲らしめる)する」という政府声明を発表、事実上の戦争宣言をする。写真は上海の海軍陸戦隊兵士(『朝日クロニクル20世紀』より)



ウースン砲台の総攻撃(8・31)

↑華北の戦争が、華中に波及することは時間の問題であった。八月九日上海陸戦隊の海軍中尉大山勇夫が、中国保安隊によって殺害されたことをきっかけに中国軍と日本軍との間に全面的な衝突が起った。中国軍は、精鋭を誇る蒋介石直系軍三〇個師を上海戦線四〇キロにわたって配置し、陸戦隊はその重囲に陥った。海軍の要請によって、まず松井石板大将を最高指揮官とする三個師団が揚子江下流と呉淞(ウースン)に敵前上陸をしたが、中国軍のトーチカに拠る反撃にあい、無数のクリークという条件もあって、戦線を拡大することができず、犠牲者は続出し、約一カ月のあいだ戦線は膠着した。この間海軍機は八月一五日最初の南京渡洋爆撃を行い、ついで各地に出撃して中国空軍を制圧した。戦場には更に三個師団が到着して戦線はやや動いたが、一〇月末大場鎮を占領、日本軍右翼は蘇州河の線に進出した。この国際都市上海を中心とした陸海空の宣戦なき戦闘は、事故百出で、世界的にますます日本にたいする悪感情を挑発するとともに中国側の抗戦熱をいよいよあおるものとなった。(『画報近代百年誌』)より



 仙台13、東京101師団は戦時下の特設師団であった。常備師団と較べて装備は貧弱で予備・後備兵が大多数の師団で内地での訓練も受けずに、いきなり第一線に投入された。志気は低調で、中国軍の方がはるかに高かった。また上海一般市民が自発的にさまざまな形で抗日戦争に加わっていた。
101は東京第1師団の編成で、その輜重兵連隊は目黒にあったそう、そこへ兵士の日用品を収めて大儲けをしていたのが横井量子さんのオヤジさんだとか。
上海の中国軍は強かった、甘くみていた日本軍は想定外の困難を極める。蒋介石直系の精鋭軍8万を含む国民党軍30個師団が準備して待ち構えていた、中国全土の三分の一の兵がここにいた。5000しかなかった海軍陸戦隊の数十倍以上の戦力であり、何年も前から日本軍の戦術を予想して縦深の陣地を何重にも作り(無数のクリークやレンガ建物など利用して45ヶ所もあった)、ドイツ輸出の兵器の6割を占めた中国はそのドイツ装備をし、ドイツ軍人顧問の指導を受けていた。日本軍を殲滅できる戦略と戦力を持っていた。(ドイツが中国よりも日本の味方になるのはこれより3年ばかりあと)
(24)に、

 〈 第三師団歩兵第六八連隊に所属していた春見三市が率直に次のように回想している。
中央軍の精鋭に関する限り、敵乍らその勇敢さと、徹底せる抗日対戦意識は天晴れであり頑強である。火煙天地を覆う砲爆撃集中砲火にも克く陣地を固守し、日本軍の近接を待って猛烈な近距離射撃と手相弾の投てきを開始、全力を集中して抵抗。日本軍の自刃が身に迫る時始めて小銃や拳銃を発射し手榴弾を投げつゝ後退する。降伏は絶対にしない。……日本人よ大和魂は何処にありや、支那魂をせんじて呑めと言いたい(前掲『従軍の想い出』上巻)。  〉 


 〈 上等兵として上海戦に従軍した高橋忠光は、九月に故郷にあてた二通の手紙のなかで、「敵死体等を見るに大抵十八、九の若者で、中には女等も混って居り多分学生が主だと言います。其等は非常に抵抗力強く敵ながらあっぱれと言ひます」、「女子供も戦線に立って生命を失ふ者も多数あります」と書き、さらに一一月の手紙のなかでも、「女子供も戦線に参加して弾運びをやってゐる」と書いている(岩手・和裁のペソ編『農民兵士の声がきこえる』)。
 また、日本軍の密命をおびて八月から九月にかけて上海・南京を旅行した金尚用は、その旅行記、「一鮮人旅行者ノ眼ニ映ジタル戦時ノ上海並南京」(『帝大日記』一九三七年第四冊)のなかで上海における中国人青年の積極的な活動を驚きの眼をもって次のように記述している。
 今般僕ガ第一ニ印象付ケラレタ事ハ中国男女少年軍ノ活発ナ働キデアッタ。人間味ノ立場デ称讃シナイ訳ニハ行カナイ。市内数十余ノ避難民収容所、傷兵病院、避難民病院、江十字病院等ハ無慮数百余箇所ノ多数ニ達シテヰルガ十五、六才カラ二十二、三才迄ノ男女少年軍ガ看護、慰問ハ勿論ノ事、門衛等事務ニ至ル迄ヲ赤誠コメテヤッテイルノミナラズ、戦線後方ニ及ブ迄多数ノ少年軍ガ活動シテヰル事ハ実ニ吾等ノ意想外デアツタノデアル。……路上ニハ赤十字ノトラック自動車ガ少年軍ヲ載セ間断ナク往来シテヰルガ此ノ後方戦線デ任務ニ着ク少年軍デアル。  〉 


(7)には、


 〈 中国軍主力部隊の戦闘ぶりは、それまでに日本軍が華北で戦った相手とは違っていた。
この第一一師団の一部「天谷支隊」は青島沖から後発して九月三日に呉淞に上陸するが、その一〇日前に上陸した第三師団がどうなっていたかを、召集されて天谷支隊に加わっていた一下士官の戦後の手記が次のように伝えている(三好捷三『上海敵前上陸』=図書出版社・一九七九年)。

 こうしてビリから呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。
修羅の巷(ちまた)もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然ところがっている。それと同時にへドのでそうないやな死臭が私の鼻をついた。
 これは十日前に敵前上陸した名古屋第三師団の将兵の変わりはてた姿であった。彼らはこの地に中国軍の大部隊が待ちかまえていると知ってか知らずか、上陸するやいなやつぎつぎになぎ倒されていったにちがいない。そして兵隊たちは、何が何やらわからないまま死んでいったのだ。(中略)
 その上それらの死体はみな、内臓腐乱のために発酵して丸くふくれあがり、その圧力で身体の軟らかい部分が外にふきだしていた。眼球が五、六センチも顔から突きだしているのである。なかにはウジ虫のかたまりとなりはてて、幾万もの虫がウヨウヨとかたまってうごめいている上を、無数のハエが黒々とたかっているものもあった。私はこのありさまを目にした瞬間、脳貧血をおこして倒れてしまいそうになった。第三師団と同じく八月二十三日、川沙口に上陸した第十一師団長山室宗武中将が戦後語っているところによれば(『丸』昭和四十六年三月号)、この呉淞上陸戦の犠牲者は一万人にものぼっていたということである。

 この第二次上海事変は「事変」というような規模のものではとうていなく、一〇〇万人近い日中両軍の兵が死力を尽くしての大決戦であった。苦戦に陥った日本側は、九月下旬から一〇月はじめにかけて、さらに第一〇一師団(東京)・第九師団(金沢)・第一三師団(仙台)を順次送りこんだ。平行して華北での戦線も拡大していたが、主戦場は上海方面へと移っていった。  〉 

弾薬は不足し、一門一日当り30発とか、5発とかいったものしかなく、それでもすぐに対ソ戦用に内地に備蓄してあった砲弾までカラッポになったという。日露戦争当時の貧弱きわまる生産力を思い起こさせられるようなハナシであった。兵の日記によく登場する「チェッコ」と呼ばれ恐れられた軽機関銃は日本軍のものよりすぐれており、遠くまで投げられる「長い柄のついた手榴弾」にも悩まされた。市街戦のような超近接戦は中国軍が質でも量でも上廻っていたという。

 日本軍が優れていたのは海軍力、空軍力であった。上海事変・南京事件と舞I海軍との関係が知りたいのだが資料がない。海軍に陸軍が引っ張られたといわれるが、日露戦争の蔚山沖でリューリックを沈めた「出雲」が旗艦を努める第三艦隊が上海にいた。ここにいた第三や第四艦隊の中に舞I籍の艦艇も多数混じっていたと思われるが目下のところ手元には資料がない。
(23)に、

 〈 上海戦の渦中で
榛名に乗艦した今井は、死を覚悟して改めて心の中で、父・母・姉・弟・妹や岐阜駅に見送りに来てくれた心の恋人に別れを告げた。三七年八月二一日、上陸を前に理髪室で髪と髭を剃り、さっぱりとして「もうこれでいつ死んでもいいのだ」と思った。二二日、上海沖に戦艦陸奥・長門などが浮かんでいるのをみて「思えば支那など可哀想な国だ」と考える余裕もあった。翌二三日上陸した。
しかし、第一線にでた二四日から負傷者が続出し、二五日には早くも戦死者が出ることになった。彼はつぎのように記している。

 召集兵の堀田は一息に戦死だ!上陸してから傷者の出なかった日は一日もない。そして、今朝は遂に戦死者だ。自分はいま家屋の蔭でペンを取っている。二尺とはなれていない所に、戦死者が置いてあるのだ。支那兵に対する憎悪が俺の全身をはせめぐる。(八月二五日)

 優しく平和的であった彼は、今は中国軍兵士に対する憎悪にもだえながら必死で戦う兵士に変貌した。二六日も三名が戦死した。彼は「俺は戦争というものがわからなくなってしまった」と悩んだ。二七日、さらに三名が死んだ。この夜「ああ人類はなぜ戦うのだろう。死の部落で歩哨に立っていると、何故とも知れず冷たい涙が流れ落ちるのだ」と記した。予想もしなかった苦戦の続く戦場で、明日といわずつぎの瞬間の命もおぼつかない中で、空腹や熱気や泥水やシラミやむかつく死臭に耐えながら、翌二八日の呉淞要塞総攻撃を前に、死を予感して書いた。

 俺は今日まで家庭には恵まれていた。いい父母といい姉さんたちと、優しい妹や弟を持っていて……いつ死んだっていい……。父母やみんなが悲しむのが一番つらいぐらいのものだ。何ひとつみんなに報いないのが残念だ……、けれど日本のためだから……。(…は原文のまま)

 彼は「日本のためだから」と納得して死に向かい合おうとした。呉淞攻撃は二日間延期の後、三一日に始まった。猛烈な爆撃と艦砲射撃で呉淞市街は「クシャクシャ」になった。日本軍の突撃で中国人の死体が散乱し、日本軍の放火で市街は焼け落ちた。彼の属する小隊は一五〇ないし一六〇名の敵を追い詰めた。一時間かかって皆殺しにした時のことを、彼は「我々は血にまみれた銃剣を拭きながらほっとして、戦闘の一段落を喜んだ。ああ俺は幾人の彼らを殺したことか。十人?否十五人!ともあれ俺は生まれて初めてひとの命を、自己の力で消滅させたのだ。手を合わせて、おがんでいた男、死にもの狂いで向って来た男!それは一場の悪夢だ……。」(八月三一日、…は原文のまま)と記している。
 追撃戦の中とはいえ、追い詰められ戦意を喪失した中国軍兵士を皆殺しにしたため、彼の良心はさいなまれる。彼は、荒らされた同済大学の建物の中から、母と妹に語りかけた。

 お母さん、お母さん……。
 お母さんのおとなしい息子だった僕はいま、ひとを殺し、火を放つ恐しい戦線の兵士となって暮らしています。
 もう一週間も入浴しません。乾パンととぼしい米の飯と缶詰とが、ぼくらを養うものの全部です、お母さん−。(九月一日、…は原文のまま)
 妹よ。
 兄さんは元気。毎日戦争をしている。兄さんの考えていた人生と、この事実は何という相違だ。人間は何故、戦争するのか?昨夜、兄さんはキリストの泣き顔を夢に見た。星の光っている大陸の青草の上だった!
 兄さんは毎日変って行く。魂の底からゆれ動いているような激しい心の変化だ。いいことか、悪いことか兄さんは知らない。(中略)兄さんはその〔中国の美しい〕風景のなかで演ぜられた戦争を、お前に語りたくない。若いお前の魂は一変に汚されてしまうようなと、兄さんは考えられるんだから。(同上)

 無残な戦争に追い込まれていった若い一兵士の激しい心の動揺、悲痛な心の叫びが耳元に伝わってくるようである。彼は無差別の殺りく、放火、破壊を強いられて苦悩しっづけた。そして、このような精神の危機を「亡びゆく支那」「哀れな支那民族」への同情と「悠久なる平和」の構築という名分で、乗り切っていこうとしていた。燃え落ちる呉淞市街をながめながら「ああ亡びゆく支那よ、アジアの古い歴史よ。俺は(中略)哀れな民族の為に流れ落ちる涙を禁じえなかった」(八月三一日)と記し、「悠久なる平和、愛情−国民性−団結!」(九月一日)と書いたのは、その現れであるように思える。
 今井は九月一日、呉淞西方一キロの地点で残敵掃討中腹部貫通銃創を負い、翌二日戦傷死した。
「新しい兄さん独特の農家を完成さしたい」という彼の夢は、無残にも断ち切られた。  〉 


 大艦巨砲から戦艦無用として、航空戦力を主へと拡充したい海軍の山本五十六中将を中心とする航空派は、そうした戦略のPRも兼ねて渡洋爆撃を繰り返し、戦果を宣伝し予算を取ろうとした。一応は陸軍は上海に限定していて内陸へは侵攻しないよう制限されてはいたが、海軍航空隊はそんなものは最初から無視した。事変と呼べるような極地戦闘を越えて上海以外の内陸部も無制限に爆撃した、軍事施設に限ったピンポイトだけとは言っていたが、どこかの国の大将どもと同じで実際には平気で無差別「誤爆」をし、一般市民にも多くの被害を出した。華中・華南の都市60ヶ所以上、鉄道や橋なども爆撃した。
外国記者たちはその違法性・残虐性を全世界に伝えたが、日本のプレスは違っていた、大戦果だと軍と同じように「世界史上初の渡洋爆撃の快挙」として無差別都市攻撃の違法性も残虐性も伝えずに誇大宣伝するため、多くの日本国民は泣いて喜び、軍はますま興奮し血迷い、坂道を転げる雪だるま、いよいよ大きくなりスピードをまし誰にも歯止めが掛けられなくなってくる。全世界の厳しい非難を浴びても、それが経済や軍事に影響のない平和的な手段であれば、まったく意にも介さない国にすでになりはてていた。
中国などアジアや世界の目も考えてみることもなく、ロマンやねぇなどと赤レンガ軍用倉庫に呆けまくるどこかの市当局のように、あるいはテイノウのクセに誰よりも思い上がりまともな国々の制止を聞き入れなかったいつかのどこかの国のように。
自分のことしかわからないでは未来があろうはずはない。全世界に目を向けよう、世界の誰もが一緒に納得し支持してくれるように努めよう、人の立場に立って考えられないようではサイテーと言われる。
そうでない以上はいよいよいよいよ敗北へ向けてノ・リターンであった。



 この年に完成したばかりの海軍自慢の双発の九六式陸攻である。この当時世界最優秀機で、これでようやく日本の航空機も世界水準に追いついたといわれる、乗員5名、航続距離4380`、空母がなくても沿岸なら陸上基地から敵艦を攻撃することが可能になった。対アメリカ戦を意識したものであるが、後の太平洋戦争緒戦のマレー沖で英国の戦艦プリンス・オブ・ウエールズと重巡レパルスを航空機だけで沈めている。
60`爆弾を12発搭載できた。この機の性能や戦略作戦運用、航空戦力を主にしていく戦略思想を実際にテストしてみたかったといわれる。その爆弾の火薬の何割かは舞I製ではなかっただろうか。
(24)は、

 〈 日中戦争勃発時に中国方面の警備を担当していた海軍部隊は第三艦隊であったが、その後、その担当方面が華中・華南に変更されるとともに、第三艦隊への本格的な増強が相ついだ。とくに海軍航空兵力の増強は目ざましく、第一航空戦隊(空母龍驤・鳳翔)、第二航空戦隊(空母加賀)、第一連合航空隊(陸上中型攻撃機三八機・艦上戦闘機一二機)、水上偵察棟で編成された第二二、第二三航空隊および第三航空戦隊、第二連合航空隊(艦上機六六機)が第三艦隊の指揮下に次々に移されている(前掲『国家総動員史』上巻)。
これらのうち、水上艦艇は輸送船団の護衛や上陸掩護、艦砲射撃による陸戦協力などにあたり、航空部隊の場合は九月一〇日前後には、おおむね上海付近の制空権を確保して、以後、全面的な陸戦協力を実施した。たとえば、一〇月一日から二七日までの間に、第二連合航空隊だけで延べ一六六八機が出撃して陸戦に協力し中国軍陣地に五二六七個、三六○トンの爆弾を投下している(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書中国方面海軍作戦〈1〉)。
 また、陸軍の航空部隊の場合も、当初は、独立飛行第六中隊だけの兵力であったものが、独立飛行第四、第一〇、第一一、第一五中隊からなる第三飛行団が九月中に上海方面に増派され、一〇月中旬の大場鎮陣地突破作戦から本格的な陸戦協力を開始している(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書中国方面陸軍航空作戦』)。
 こうした海上・航空戦力による陸戦協力は砲兵部隊の活動とも相まって絶大な威力を発揮し、中国軍の抗戦能力を確実に打ち砕いていった。当時、上海にいた米国人ジャーナリストのエドガー・スノーは、この点について、「数千トンの鋼鉄が空から、砲兵陣地から、そして軍艦から閘北に雨霰の如く落下した。それは軍事専門家の言ったように、これまで地球の一部に落ちた中で最大の砲火の集中であった。中国軍の損害は明らかに長く持ちこたえることのできぬ速度で増えていった」と書いている(スノー『アジアの戦争』)。この圧倒的火力を背景にして日本軍は、堅壕を掘りつつ前進する戦術を採用し、掘り進んだ壕をT字形に左右に伸ばして両翼に機関銃を配置して中国軍陣地を制圧し、さらに前方に壕を掘り進めるという形で少しずつ中国軍陣地を蚕食していった。  〉 

 上海派遣軍は3個師半(金沢9師団・仙台13師団山田支隊・東京101師団の一部)の応援部隊を得ても、苦戦続きで戦線は膠着したままに動かなかった。4万以上の損害を出し、戦病者もふえて兵も指揮官も大部分が入れ代わってしまった。
双方で70万の死傷者を出したベルダン要塞戦以来の流血といわれるが、11月5日上海の背後の杭州へ第10軍(熊本6師団・宇都宮114師団・久留米18師団の一部)を上陸させ、16師団も上海派遣軍に加えた。背後を突かれた上海防衛軍に動揺が走り撤退と敗走、総崩れ状態となり、上海戦線は3ヶ月して動いた。
中国もドイツ製の近代戦用精鋭部隊が完全に消耗し、地方部隊を投入、延べ70個師団、70万人といわれるが、日本軍の攻撃が集中する陣地戦に固執して、被害をひろげ17万あるいは25万の犠牲を出したという。もともと国民党政府は労働者や住民組織などは敵視弾圧する政府なので、これらの組織化ができるはずもなかった、どこかの病院のようなものか、己が正面勢力の実力だけを頼っているだけでは難局には対処できない。全員の協力がいるのである。


上海〜南京戦線へは対ソ戦しか頭にない陸軍は現役兵の多い精鋭部隊は送り込んではいない。
弱い中国などにもったいないというわけか、兵の4割以上が後備兵(30才代くらい)の後備兵中心の動員であった。東氏に聞いたことがないが、氏もそうではなかったろうか。舐めていたのでもなかろうから、戦線が広がりすぎて、すでにも手一杯で手持ちが底をついていたのか。中国側は兵でもこの動員内容は知っていて、今度は日本の弱い軍隊が上がって来ると言っていたよう(17)。持ち駒なしの大将棋、提燈行列の戦勝報道の表面とはまったく違った限界線を超えてしまった大戦争の深い危機がすでに見える。
軍隊社会では兵の年齢が高くなると、それはそのまま犯罪率の高さになった。自分のオヤジみたいな年で、すでに結構な面構えと社会的地位の貫禄十分、若い士官では気後れして物も言えなくなってくるし、彼らより年上の上官ではもうもの申すほどの気力も体力もない。大問題でもみてみぬふりをする。
(18)は、

 〈 軍紀の弛緩兵役
荒木日記で触れられていた召集兵の内実は、興味深い。現役兵とは、教育のため軍隊に入り軍の骨幹を為すと期待された者で、満二〇歳から二年間(海軍は三年)。現役を終えた者は予備役となり戦時の召集を待つが、その期間は五年四ヵ月(海軍は四年)であった。後備役は予備役の終わった者全員で、一〇年(海軍は五年)、戦時の召集に応ずる義務があった(図5−8)。
となれば、後備の未年者とは最も若い場合でも二七〜二八歳になっていたはずだ。陸軍省軍事課長であった田中新一は、この点について厳しい観察を残している。一〇月一八日の業務日誌には「軍紀粛正問題。軍紀頽廃の根元は召集兵に在る」と書き、三八年一月一二日には「軍紀風紀の現状は皇軍の重大汚点なり。強姦・掠奪たえず。現に厳重に取締りに努力しあるも部下の掌握不十分、末教育補充兵等に問題なおたえず」と書いた。
 荒木日記にあった第一乙未教育補充兵とは、何であろうか。補充兵には、徴兵検査で甲種になりながら抽籤にはずれた者と、第一乙種の者が該当する。第一乙未教育補充兵とは、第一乙種合格で、一期三カ月の教育召集を経験していない兵を意味していた。田中の日誌に「歩兵連隊についてみれば初年兵は一〇〇〇ないし一五〇〇を充当しあるも、全員の三分の二ないしは四分の三は予後備もしくは補充兵にして、現役兵は各師団二〇〇内外しか残りあらず」(一二月二〇日)という状態であれば、上海・南京戦に従軍した兵士の錬度は低く、士気もふるわなかったろう。田中は「予後備兵の召集解除を行い、できるだけ速かに平常の体制に移し、右による兵員の不足は補充兵・新兵によって充足する」(二月一八日)方針を立てた。
 …
開戦後一年を経た三八年八月の時点で、陸軍省自身、中国戦線における役種区分を調査していた。一〇個師団の総計を算出すると、現役兵の率一六・九%、予備兵二八・三%、後備兵四一・五%、補充兵一三・五%となる(四捨五入のため、合計は一〇〇とならない。以下同じ)。中国戦線の実に四割が後備兵によって支えられていた。後備兵率の高さは、犯罪率の高さにそのまま直結していた。第一〇軍軍法会議の記録から被告の役種を求めると、既決犯のうち、現役三・九%、予備役二二・五%、後備役五七・八%、補充兵役一四・七%となる。既決犯の五割以上を後備兵が占めていた。  〉 

(6)(7)などに中国側から見た日本軍の様子が見える。

もともと兵士たちを自覚的に律するに足る戦争目的がなかった、上海戦、それ以前からすでに軍規の弛緩と頽廃は深刻であった。(24)

 〈 日中戦争の場合、当初からこの軍紀の弛緩が顕著であった。石川準吉『国家総動員史』上巻は、日中戦争の初期、朝鮮を経由して華北に向かった部隊の輸送業務に関する兵站司令部関係の報告書を多数収録しているが、それを見るかぎり日本軍の軍紀の弛緩は覆うべくもない。たとえば、九月八日から二九日にかけての第三次鉄道輸送に関する朝鮮軍臨時兵站司令部大邸支部の業務詳報は、「通過部隊ノ軍紀風紀ハ厳粛トハ認メ難シ」として、「下車ノ命令ナクシテ下車シ乗車ノ号令アルモ直ニ之ニ応ゼザルモノアリ」、「服装正シカラズ態度端正ヲ欠キ労働者ニ等シキガ如キモノアリ」、「敬礼ハ正シカラズト云ハンヨリハ寧ロ上官ニ対シテモ敬礼セザル者大部分ナリ」、「野卑低級ナル言辞ヲ弄スルモノアリ」などと指摘している。
 また、九月一一日付の朝鮮軍臨時兵站司令部釜山支部長田中正雄少佐の「宿営間ニ於ケル諸注意」も民家に分宿した兵士たちのなかに、「舎主(女)ニ対シ情交ヲ迫リタルモノ」、「遊興ノ末金銭ニ窮シ舎主ニ貸与ヲ申出ヅルモノ」、「夜間就寝中ノ舎主(女)ニ対シ酒肴ヲ要求セルモノ」等々があったことを指摘し、宿舎内の兵士の言動についても、「子女ノ前等ニ於テ兵員ガ卑猥ナル言ヲ無遠慮ニ弄シ家庭教育上多大ノ迷惑ヲ感ジタル事例尠ナカラズ」などとしている。  〉 
何をしに来たかわからない、中国が偉そうにしくさるから、そんなもんエエやないか、勝手にさせとけや、ワシらには関係ないはなし、このいそがしいのにアホくさい、やる気などあるはずはない、そんなことで志気が低い、そんなくらいならいいが、その不満のはけ口をより弱い中国人にむける。(24)に、

 〈 一般的にいって激しい戦闘の連続は戦友を次々に失ってゆく兵士たちの敵愾心を高揚させ敵に対する報復の念を強める。日本軍の場合、こうした一般的事情に加えて中国人に対する蔑視感や中国の抗戦力に対する過小評価が根強かっただけに、中国軍民の予期せぬ激しい抵抗に直面したとき、敵愾心は理性の押さえがきかぬまでに異常に先進し、これが兵士をすさまじい殺人機械に変貌させる大きなバネとなったのである。この敵愾心の高揚については、第三師団歩兵第六連隊の副官であった西岡末雄が自らの内面の変化をきわめて率直に書きつづっている。
 私の生涯を通じこの〔上海〕上陸作戦程無我に徹したことはない。そしてこの境地に達した瞬間、人間性を失い、和魂……は影をひそめ、荒魂……が現われて支配するかのように思われた。即ち死を超越すると共に、敵を殺すこと大根を切るように、悪の観念と恐怖心とは全く消え去ってしまったのである。敵の屍を見ることはこよなく楽しく、屍のそばで渇をいやすことも平気で心身のさわやかさを感じたのである。眼前で敵を殺すのを見るくらい心の欣びを感ずることはない。かつては死人を見ただけで二、三日は食事もまともに出来なかった私が不思議でならない(前掲『従軍の想い出』上巻)。  〉 
戦友が殺されたのは戦争行為の最中のできごとで、これはお互い様のこと。そうだからといって何をしてもいいということにはならないが、捕虜を惨殺するくらいはごく当り前の話で、軍とは関係のない住民に対しても同じであった。

 〈 岡村俊彦も、「農民の死体……ずいぶんありました。苦戦の連続で、兵隊は殺気だっていましたからね。敗残兵が便衣〔一般民間人の服〕を着て逃げるということもあり、少し怪しい者とみれば、たちまち射ち殺してしまう。だから良民も相当な被害を受けていると思います」と証言している(前掲「血と泥の野戦繃帯所」)。
…第一〇一師団歩兵第一四九連隊の戦史は、一般民衆が中国軍に協力して日本軍の情報を収集するため、「どこの部隊でも、怪しい土民はすべて捕えて処刑した」としたうえで、「抗日思想は、こうした土民の間にまで根をおろしていたのだ。そして、……土民にたいする追及は厳しくなり、捕えたものは、すべて処刑することになったのだった」と書いているのである(樋貝義治『戦記甲府連隊』)。さらに、この問題に関しては、当時読売新聞上海総局の記者であった西里竜夫の生々しい目撃談がある。西里は、妻と子どもをつれた一人の中国人が日本海軍陸戦隊に捕えられたときのことを次のように書いている。
 兵士たちが、そこらに散らばっていた「中国画報」の蒋介石の写真を見せて、これを知っているかと、指さしていた。私が、また許してやるように口をはさんだら、余程これまで苦戦してきた兵士達でもあったのか、こんどは私に喰ってかかってきた。その捕えられた男は、蒋介石の写真をみて、首をタテにふった。そしたち即座だった。隊長らしい将校が、軍刀を引き抜いて、たちどころに斬りつけた。悲鳴をあげ、血を吹きながら、息絶えてゆく夫を、その妻は、ハツと息をのんだまま凝視していた(西里竜夫『革命の上海で』)。
抗日のシンボル、蒋介石の顔を知っている者はすべて「敵性分子」でありその場でただちに「処分」してもかまわないということなのであろう。  〉 
すでに上海で数々の戦争犯罪が組織的に行われていた。


 北支戦線の16師団は一転して11月10日大連に集結。13日にはその大連を立った。
(8)は、(写真も↓)
揚子江敵前上陸



 〈  十三日暮色漂う晩秋の大連港を後に、吾が輸送船美津丸は、昏々として眠る暗黒の海路を静かに東を指して出港す。
 船内は、内地に凱旋するのだと云う者と、いや上海戦線に向うのだと言う者と、そんな事は一向に無関心で、その頃流行しかけた「勝って来るぞと勇ましく……」の露営の歌を、これを覚へねば死ねないと言うようにして、盛んに練習する者と相半ばし、毎日喧ましい船旅を続く。
 十七日の夜が煙雨に妨げられつ、静かに明けて驚けり。
 紺碧の水は黄濁して滔々と騒ぎ、何時の間に集りしか、一隻宛淋しく出港せし輸送船は堂々と大船団を組み、大小無数の艨艟これを護衛す。
 紛ふ方なき敵前上陸だ!
 午后四時三十分鉄舟に移乗し、無人の廃墟、滸浦鎮に、敵の虚を衝き無血上陸。  〉 

(7)より↓


20連隊は(3)に、

 〈 十一月十六日
 わが軍艦が、盛んに砲撃を加えている。
 砲撃で右岸に二、三カ所、火災が起こった。
 雨が降り出し、岸が煙って、視界がきかない。
午後十時、上陸命令がくだり、緊張して身構えたが、まもなく変更された。

十一月十七日
 午前八時、あわただしい混雑の中を、水上輸送隊の工兵船で、いよいよ上陸。三十分後、ようやく河岸に到着。無数の輸送船がひしめき、荷物と兵隊を陸揚げし、混雑をきわめている。
 揚子江岸には、いたるところ丸太の杭が四重五重に打ち込まれ、船舶の通過をはばんでいた。堤の上には、壕が掘られ、銃眼は水面をにらんでいた。
 そこここにトーチカが造られている。地形と防禦陣地から見ても、ほんの三日ほど前の敵前上陸が、いかに困難であったかが想像される。
 この部落・滸浦鎮は、ほとんどの家屋が破壊され、支那人は一人も見かけない。
 北支では、めったに見ることのなかった電灯が、ここでは敷設されている。何かしら近代的なものを感じた。ラジオのある家さえあった。  〉 


16師団は北支戦線より、しんがりで上海派遣軍に加わりずいぶんと継子扱いされたという。先輩扱いせよとまでは言わぬが、味方の派遣軍同士でもこのありさま、仲良くできない体質、「東洋平和」が笑う。平和などはムリのムリというもの。


5年前の年賀に、渡辺夫婦より次のような手紙がきていた。


 〈 2006年、次の作品は「南京」をテーマに!
いつも心奥深くつきささっている、南京
さりとて、深入りすることをためらう…
それは何なのだろう


 自問自答してきた6年間

再会参考文献として読んだ、笠原十九司先生の本「南京事件の日々−ミニー・ヴォートリンの日記」(1999年)。あの大虐殺のさなか、外国人が南京の人々を守り救った!心深くきざまれた時だった。けれど、人々から「生き仏」「観音様」としたわれたヴォートリンさんは1941年自死された(ガス自殺)「うつ病」となってしまっていた。私たち日本人が彼女を死においやった…のではという思いでした。加害者の渡辺さんのお母さんの自死と同じ重さで胸に迫った。私も未遂でしたが、…ガスでした。

 アメリカ(中国系)人の中で南京から逃れた方々が多くいた…
2000年、アメリカ公演の準備のため、サンフランシスコで4才の時、両親と共に「南京脱出」されたというウェィさんと逢う。その事を知らされた時の気持ち…「とうとう来た!」と思った。その上、ウェイさんのお母さんはヴォートリンさんがいた大学(金陵女子文理学院)の生徒で、結婚式のお祝いの写真が遺品の整理中、ポトンと落ちて発見された。その写真にヴォートリンさんが一緒に写っていたのだ!
ウェイさんのまた、アメリカ公演成功のために全力をかけて下さった。ロサンゼルスの実行委員会づくりに共に高速5時間かけて、私たちと共に市内をかけめぐって下さった。ウェィさんは血祭りという詩をホテルで自作の歌を聞かせて下さった。(曲は友人の方の作)。南京が、出逢いの中で、私たちに問いかけて来た。それもヴォートリンさんとのつながりの中で!2001年、アメリカ、カナダの公演は大成功となった。それはミセス・キャシーさんのおかげだった。

上海からはじまった大虐殺の前ぶれ

観光の都、上海…日本人の一般の私たちの認識だ。今回、抗日で戦った記念館を訪ねて、驚いた。「上海戦」は知っていたものの…かくもすさまじいとは!侵略戦の火ぶたを切った「観光の地」の歴史は…「のろわれた激戦の地、南京侵略出兵の最初の地となった!アメリカ公演のプロデューサー、キャシーさん(呂さん)のふる里が上海だった。
私は「法然と親鸞」なぜ「ナムアミダブツ」は生まれたか、を書きたかった…。
「南京」は手におえない!第一、会もつくれないだろうし、観たい人もいない…としか思えなかった。「再会」を終えた時、心の中でブツブツ、わき上がる…。日本人、みんなさけたがっている?本当?それでいいの?時間はない、みんな死んでいっているよ…私たちもあと何年がんばれるの…?「南京」をやらないで中国侵略、そのものを考えたことになるの?「再会」2001年5月虐殺記念館をはじめて訪ねて驚愕した。遺骨の方々の代弁をしたい!(アメリカから帰って)おこがましくも考え、セリフにした。恐る恐る演じた(再会エピローグで)初めて舞台で殺した側の戦犯の子が聞いた中国人の魂の言葉を聞く、そのセリフを演じた。舞台で語るたびに、今度は「南京」をつくり出さねば…中国侵略の最も本質とさえいわれている「南京」そのものを、つくり出してゆかなくては…いけないかも知れない…と思わされていた。

加害者の側から南京を!

つくらなければ…一人よがり、いえ、二人よがりなのかもしれません。これを三人四人五人よがり、何十人よがり何百人よがり…必ずいらっしゃることを信じて!とにかく作ろうと決意した。みなさまどうかお力を措かし下さい。2005.12.7記

南京大虐殺のはじまりは上海戦よりはじまった。

日清、日露で勝った日本軍、この上海ではじめて、「なめてかかっていた」中国軍(国民党軍)に苦戦をしいられた。ドイツ人指揮のもと、中国軍は決死で死守して戦った。
多大の命、日本軍にとって勝利しか知らなかったゆえに中国人を許せなかったといわれている。その嫉妬心とねたみ心は、今の右翼政治家の人々が、経済的上向きで豊に向上する中国国家への民衆へのそれと大変にている気がする。
私たちはここへゆくまで、上海戦がかくもすさまじい、そしてむごい侵略であったとは、知らなかった。食料の補給もなくゆかせる軍隊とは、人殺しをそせるアウシュビッツのような軍隊だと思う。とてつもない罪業でおおわれた南京、中国、アジア全土!とてつもない罪業で覆われている!!!  〉 


そして南京へ




(1)『南京事件』(笠原十九司・岩波新書・1997)
(2)『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫・1999)
(3)『わが南京プラトーン』(東史郎・青木書店・1987)
(4)『隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1987)
(5)『続・隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1988)
(6)『中国の旅』(本多勝一・朝日文庫・1981)
(7)『南京への道』(本多勝一・朝日文庫・1989)
(8)『福知山連隊史』(編纂委員会・昭和50)
(9)『舞I地方引揚援護局史』(厚生省・昭和36)
(10)『京都の戦争遺跡をめぐる』(戦争展実行委・1991)
(11)『なぜ加害を語るのか』(熊谷伸一郎・岩波ブックレット)
(12)『新版南京大虐殺』(藤原彰・岩波ブックレット)
(13)『完全版 三光』(中帰連・晩聲社・1984)
(14)『蘆溝橋事件』(江口圭一・岩波ブックレット)
(15)『語りつぐ京都の戦争と平和』(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会・つむぎ出版・2010)
(16)『言葉の力』(ヴァィツゼッカー・岩波書店・2009)
(17)『土と兵隊・麦と兵隊』(火野葦平・新潮文庫)
(18)『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子・岩波新書)
(19)『国防婦人会』(藤井忠俊・岩波新書・1985)
(20)『南京事件の日々』(ミニー・ヴォーリトン・大月書店・1999)
(21)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二他・大月書店・1996)
(22)『銃後の社会史』(一ノ瀬俊也・吉川弘文館・2005)
(23)『草の根のファシズム』(吉見義明・東大出版部・1987)
(24)『天皇の軍隊と南京事件』(吉田裕・青木書店・1986)




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 福知山二十連隊と南京事件
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東史郎氏の「北支戡定戦日誌」
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京− 』舞I公演


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