誰が敵だかわからない
福知山20連隊と南京事件 -4- |
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別に大義名分はなかった。何か難癖をつけることすらもできなかった。各国はごうごうの非難を浴びせたが、日本は反省してみようの様子はまったくなかった。 中国軍は上海から首都・南京を目指して撤退戦を続けていた。 海軍は準備万端を整えて中国への戦略爆撃を続けていたが、陸軍は場当たり的なものであった。 南京を一撃すれば、中国はまける、まけるに決まっている、中国は弱い劣等民族だから、というずいぶんと思い上がった勝手で安易な予想にもとづくものであった。別に根拠もないが、そう脇目もふらず一心不乱に勝手に信じているより何もアテのない戦争であった。 上海を落とせば中国は手を挙げるといってたじゃないか、ワシらが来たのは上海の邦人保護のためでなかったのか、まだ行くのか、老兵たちはブツブツいい、隠れて泣いたという。 ↓(1)より ↓(8)より 昭和12年11月13日、白茆口(上海北西約75`)に上陸した16師団は上陸した。上陸地点ではたいした抵抗はなかった。三日分の携帯食糧と弾薬などをもっていたが、そのご食糧は補給されることは一度もなかったという。 (3)は、 〈 十二月七日 〉 〈 …大きな沼があった。遊泳するアヒル。百羽はいようか。我々はノドを鳴らして喜び、アヒルを追っかけた。棒でたたき殺す者、射撃する者--約二十五羽の獲物を得た。たとえようもなく、うまかった。 … 私たちは、中支上陸いらい、輯重兵から食糧の補給をうけたことは一度もなく、すべて住民から掠奪してきた。輜重兵たちは悪路のため、前進が困難なのだ。 〉 パイ缶だ肉缶だ、サイダーだビールだ、内地米だと補給を受けて喜ぶ日記が他の部隊では見られるが、東氏のものにはない。悲しいほどに男っぽい人で、食べることには興味をまったく持たないのかと思いもしたが、そうではないようで、書きたくともなかったのである。 悪路というが、雨だと泥濘の道となるがそうでなければ結構なものともいう、もともとが現地軍の独断専行の暴走進軍で入念な戦略も準備も補給もないまま突き進んだためである。もともとが上海という海に近い1ポイントを攻めるために編成された軍隊であって、思いの外に手こずったため急遽送られた年長組主体の応援部隊であった、もともとが長距離移動できるような正規編成の部隊ではなく、輜重力その他に大きな制約を持った部隊であった。 食糧なしで進軍しろのおよそ近代的な軍隊とは呼びかねる作戦であった、これでは兵は泥棒するより手はない。貧乏人から金品を奪い、抵抗すればテロだと命も奪う、どこぞの国々のセージ屋どもと同じ極悪行為である。 戦場の村々には中国人は超貧乏人しか残ってはいない、なけなしを取られれば、彼らには死しか残らない、必死で抵抗する。退却する中国軍が先に取っていて、さらに追っ掛ける日本軍が取る、最初の部隊が取り、後続の部隊がまた取る、さらに後続が取る… (8)は、 〈 中支転進以来米粒一ツ補給を許さぬ大追撃に、喰うや食わずの、然も昼夜を措くかぬ命のやりとり、肉はおち、髪は伸び、色は萎びた草の如く、誰一人此の世の人とは思へぬ其の風貌、汚れし褸を纏い、傷つける戦友を助け、部下の白き遺骨を抱きつゝ只だ忠誠の一念に凡てを忘れ、南京へ、南京へ!と突き進む聯隊将兵のこの姿、走れ正に不世出の聖画でなくてなんであろう。 〉 (3)の12月12日。兵達が南京を目前に議論していた。 〈 「兵站部は職責を全うしていないように思う。上陸以来ただの一度も糧株補給を受けたことはない。我々は戦いつつ食糧の心配までしなければならない。粉味噌一袋ももらったことはない。毎日の副食物は菜っ葉の塩もみ一点張りだ。塹壕には至るところ敵の手榴弾が転がっているが、惜しいことに食えないのが残念だ」 〉 〈 「然して、兵站のやつらはうまい物をヘドつくところまで喰らっているに違いない」 〉 (24)は、 〈 すでに述べたように現地軍司令部は補給を無視した無謀な作戦計画を立案したうえで、食糧などの必要物資は「現地調達」することを各部隊に命じた。いわば軍司令部が掠奪を公認し奨励するような命令を下したのである。この結果、大規模な掠奪行為が全部隊にひろがるのは当然のことであった。南京への追撃戦のなかで「糧秣ハ現地ニテ徴発、自活スべシ」との命令を受けた曽根一夫は、この点について、「徴発命令といえはもっともらしく聞こえるが、現地の住民から食う物を奪って食えということである。徴発行為はいままでにもしたけれど、徴発命令が下る前は罪の意識があった。これ〔徴発命令〕によって罪悪感がなくなり、行く先々の集落を襲って穀物、家畜を強奪して腹を満たす匪賊のような軍隊となった」ときわめて率直に告白している(前掲『私記南京虐殺』)。 実際のところ、日本軍の必要物資の大部分はこのような掠奪によってまかなわれた。第一〇軍の場合、陸軍次官宛に送付された一九三八年(昭和一三)一一月一八日付「丁集団総合報告」(『陸支密大日記』一九三八年第二冊)中に「丁集団〔第一〇軍〕作戦地域ハ地方物資特ニ米、野菜、肉類ハ全ク糧ハ敵ニ依ルヲ得クリ」とある。また、上海派遣軍方面でも事態は全く同様であった。前出の第九師団参謀部「第九師団作戦経過の概要」によれは、同師団の場合、「軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして上海附近より南京に至る約百里の間殆ど糧株の補給を受くることなく殆ど現地物資のみに依り迫撃を敢行」している。さらに、第一一師団の場合も、同師団経理部の部員であった矢部敏雄が上海上陸後、無錫進出までの状況について、「〔その間〕一銭も円を使ってないんです。全部、徴発ですね。……おそらく第三師団も同じような状況で、二ケ月半というものは一銭も使ってないです」と証言している。矢部によれば、それは「徴発」と言っても実際には「強奪」であり、徴発証券すら全く発行しなかったという(「兵科物語陸軍経理部よもやま話(その7)」)。 〉 〈 無錫に進出した佐々木到一第一六師団歩兵第三〇旅団長が、一一月二七日のこととして、「城内外を視察す。種々雑多な兵隊でゴッタ返し徴発物件を洋車につんで陸続と行くあたりまるで百鬼昼行である。敬礼も不確実、服装もひどいのがある」と書いている(佐々木到一『ある軍人の自伝(増補版)』)。また、第九師団歩兵第三六連隊の西尾吉助によれば、南京への進撃途上で掠奪した銀貨で背嚢をいっぱいにした兵士が重さに耐えかねてそれを捨ててゆく姿が数多くみられたという(前掲『人間愛に生き抜く兵糧戦線』)。 〉 11月中旬には、日本軍は上海全域を制圧した。本来の上海派遣軍の作戦目的「上海の日本居留民保護」は達成され、三ヵ月におよんだ上海戦に多大な犠牲を強いられ、心身ともに消耗、疲弊した兵士たちは本国へ凱旋するはずであった。 南京どころか上海ですでに士気低下、軍紀弛緩、不法行為の激発が深刻な問題となっていた。予想も準備もなかった日中全面戦争の開始によって、急遽、予後備役兵を召集して臨時の特設師団を編成し、装備も訓練・教育も不十分なままに、上海攻略戦に派兵、投入したにわか作りの部隊であったことがそもそもの根本的な要因であった。兵だけでなく、将校下士官各級とも同様の予備役からのリサイクルが多く、その実際の実力や能力が問題にされていた。 馬にも犬にも赤紙が来て、すごい量が軍馬・軍犬として召集された。彼らもまた飼主によって千人針や御守を腹に巻き幟をたててもらい歓呼の声に送られて出征していった。しかし一頭たりとも無事生還したものはなかろう。 (2)に、 〈 日暮れ前に中橋通訳は歩兵砲隊の兵に頼まれて馬の徴発に部落をあるき廻った。戸数五六百の小部落で二十分も歩いて見ると馬は一頭も居ないことが分った。砲を曳いていた馬がクリークに落ちて足を折ったから明日の進軍に困るというのだ。兵は馬が居ないのに諦めて牛にしようと言った。 「牛なら居るよ。水牛だぜ。かまわんだろう。馬を牛に乗りかえるという訳だ」 〉 その馬もダメとなると現地で掠奪しかない。この牛、水牛だが、砲車を引いたまま、兵が目をはなしたすきに、ドロ田へずぶずぶと入っていってしまった。そうである。兵器を引く馬ですらないのだから、食糧など引く馬はない。 上海戦において甚大な死傷者をだした上海派遣軍を、独断専行で南京に進撃させたのは、中支那方面軍司令官松井石根大将と、参謀本部から出向して同軍参謀副長に就いた拡大派の武藤章大佐らであったという。南京攻略は現地軍の独断専行であった。 軍中央は、軍紀紊乱した上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、上海派遣軍の再建の方策として、予後備役兵の早期召集解除と国内帰還、将校・下士官の短期再教育の徹底を痛感していたという。予備役大将の召集として任命派遣当時から問題とされた、松井石根司令官の召還も対象とされたはずという。 参謀本部でも、こうした軍紀頽廃した将兵からなる上海派遣軍を南京攻略へ駆り立てれば、軍紀を逸脱した不法行為・残虐行為が激発する可能性を懸念し、上海戦を一段落として派遣軍を整理し、休養を与える必要を考慮していた。という。 上海派遣軍は、疲弊して軍紀も頽廃していたうえに、休養も与えられず、補給体制も不十分なまま食糧は現地調達(=掠奪)、宿営は民家占拠を余儀なくされるなど強行軍を強いられた。そのため中国軍民に対するむきだしの敵愾心と破壊欲を増長させ、虐殺、強姦、掠奪などの残虐行為をみちみちに重ねながら、南京に進撃していくことになる。 12月1日、大本営の下令によって正式に開始された南京攻略戦は、参謀本部の制止を無視して強行された現地軍の作戦を追認したものだった。 さて、 ↑『糞尿講』で芥川賞を受けたわれらが班長、玉井勝則伍長(火野葦平・2列目中央)を囲んで、よろこびの万歳の声があがる。杭州西湖の畔で(2月9日)(『朝日クロニクル20世紀』より) 作家火野葦平は、本名・玉井勝則で、37年2月に再召集された。久留米の第18師団の伍長として分隊を指揮して杭州攻略に参加した。第10軍である。 ついで38年の徐州会戦に従軍。その死地を生き抜いた日々は、『徐州会戦従軍日記 麦と兵隊』として、「改造」38年8月号に発表された。戦争文学の傑作といわれ、徐州、徐州と人馬は進む…の軍歌は超有名だが、『杭州湾敵前上陸記 土と兵隊』も書いている。杭州湾北沙に上陸し、無数の中国軍トーチカを一つひとつ潰しながら進軍するが、あるトーチカでの話。 〈 …中から汚れくさった顔をした支那兵が覗いた。あまりに近く敵兵の顔を見て、私は一寸ぎょっとした。支那兵は何か首を振りながら、私の方に銃を向けた。すぐに銃を倒に持ち直して差し出した。次から次に銃を出して来た。駭いたことには、次々に小銃や拳銃の数は三十挺を越えたのだ。来来、出て来い、と私は手振りで云った。次々に支那兵が出て来た。どれもひ弱そうな若い兵隊だった。それは、しかし、歯がゆいことには、どれも日本人によく似ていた。彼等は手榴弾のためにやられたらしく、気息奄々としているのや、真黒に顔が焦げたのや、顎が飛んで無くなっているのや、左頬の千断れたのやが、次々に現われた。彼等は.ぺこぺこお辞儀をし、手を合せて、助けて貰いたいというような哀願の表情をした。最初出て来た四人の支那兵の一人が逃げようとした。阪上上等兵がそれを射ち殪した。何人かずつ出て来ては、その後がまた中々出て来なかった。あまり沢山居るので私は古城一等兵に、小隊長にそう云って応援を求めにやった。やがて、手伝いの兵隊と一緒に山崎少尉もやって来た。中々出て来ないので、私と中川上等兵とは中に入って行った。煙硝の匂いが鼻をついた。私は銃剣を構え、暗闇に向って、ニ、来来、快々的来来、と奴鳴った。中は銃剣からの光だけである。おどおどした眼付で板壁から顔を出し、残っているのもぞろぞろ出て来た。すると、もう居ないだろうと思っていると、私は暗闇の中で、大声で呻いている声を聞いた。瞳を凝らしてみると、中央の土間に何か黒い者が蠢き転げ廻っているのを見た。私は銃剣を構えて、それに近づいた。手榴弾でやられてのたうっているのであろうと思ったのだ。入口の近くには既に二人死んでいた。私達が近づくと、その呻き声は一層はげしくなった。然し、それは呻き声ではなかった。それは泣いていたのだ。私はそこに転って身も世もあらぬほどの声を立てている兵隊に手を掛けた。来来。するとその二人の兵隊はやっと立ち上った。私は暗闇からにゅっと銃眼の光の中に出た兵隊の顔が、あまりにも若く美しかったので、どきりとした。二人とも同じ位若く、殆ど少年であったのだ。しかも二人とも女かと見まごうばかり美しかった。二人は顔中を泣き腫らし、私の肩に両方からより縋った。彼等は何か云い始めたが、無論、私には判らなかった。一人の兵隊は、ポケットから手帳を出し、頁を繰って私に一葉の写真を示した。それは母の写真かと思われた。彼等の云うことは無論私には充分に想像された。二人は兄弟かも知れぬと私は思った。私はふいと、この二人だけはここに残して行こうかと考えた。然し私は両肩にぶら下るように縋る二人の兵隊を連れて表へ出た。兵隊はしきりに首に手を当てて、殺さないでくれ、と身振りをした。私は、よしよし、というように首肯いた。少年兵の悲しみにつぶれた顔に、かすかな喜びに似た影がかすめたように思った。私は胸の中に説明しようのない、淋しさとも、怒りともつかぬ感情が渦巻くのを感じた。私が表に出ると、そこに兵隊が居た。二人の少年兵を渡して私は又、トーチカの中に入った。兵隊が二三人ついて来た。厚さ一米もあるコンクリートのペトン式トーチカである。入口の壁に中華民国二十五年と彫ってある。入口の左手の天井に、青天白日の徽章のついた袋に包まれた傘が五六本ぶら下っている。籠の中に飯の炊いたのや、炒り豆等があった。奥に入ると、乾麺麭が笊の中に一杯入っていた。私はそれを食った。兵隊も食った。我々はこの数日殆ど何も食っていない。毒は大丈夫かな、と心配する兵隊もある。私は忽ち四つ食った。残っていた弾薬や、手鞄や、書類等を拾い集めて、トーチカを出た。表には引き上げた後で、もう誰も居なかった。 大隊本部のある先刻の部落まで帰って来ると、ずらりと捕虜が並んでいた。吉田一等兵が来て、班長、飯は出来とりますよ、と云った。私は家の中に入った。私は裏のクリークに出て顔と手とを洗った、耳を少し怪我したようだ。久し振りで食う米の飯は何ともいえずおいしかった。 横になった途端に、眠くなった。少し寝た。寒さで限がさめて、表に出た。すると、先刻まで、電線で珠数つなぎにされていた捕虜の姿が見えない。どうしたのかと、そこに居た兵隊に訊ねると、皆殺しましたと云った。 見ると、散兵装のなかに、支那兵の屍骸が投げこまれてある。壕は狭いので重なり合い、泥水のなかに半分は浸っていた。三十六人、皆殺したのだろうか。私は暗然とした思いで、又も、胸の中に、怒りの感情の渦巻くのを覚えた。嘔吐を感じ、気が滅入って来て、そこを立ち去ろうとすると、ふと、妙なものに気づいた。屍骸が動いているのだった。そこへ行って見ると、重なりあった屍の下積みになって、半死の支那兵が血塗れになって、蠢いていた。彼は靴音に気附いたか、不自由な姿勢で、渾身の勇を揮うように、顔をあげて私を見た。その苦しげな表情に私はぞっとした。彼は懇願するような眼附きで、私と自分の胸とを交互に示した。射ってくれと云っていることに微塵の疑いもない。私は躊躇しなかった。急いで、瀕死の支那兵の胸に照準を附けると、引鉄を引いた。支那兵は動かなくなった。山崎小隊長が走って来て、どうして、敵中で無意味な発砲をするかと云った。どうして、こんな無残なことをするのかと云いたかったが、それは云えなかった。重い気拝で、私はそこを離れた。 〉 (7)にも引かれている部分である。何も「弱い16師団」だけではなかった。九州の強兵もまた同じ虐殺部隊であった。 20連隊は、300`上流の南京を目指した、常熟、無錫、常州、丹陽、句容などを抜いていく。このルート上を日本軍は必ず来ると中国は予想していて、いたるところに半永久陣地やトーチカ、塹壕がつくられていた、また無数のクリークやその堤防が防衛陣になっていた。上海から後退した100万とさらに予備軍も加わった中国軍が立ち塞がる。 南京一番乗り競争を煽られた各軍の各隊、各兵が入り乱れて進軍していった。上海ですでに問題であった軍規頽廃がここでさらに拡大され、南京大虐殺のプレビュー版となっていった。 ←(7)より。句容にせまる大野部隊(『アサヒグラフ』1937年12月29日)とある。大野部隊とは福知山20連隊である。 (3)は、 〈 十一月二十四日 朝七時半、常熟へ向かう。 常熟は県庁所在地で、大きな町だった。道路は石畳で、商店や旅館が建ち並んでいる。ここでも目立つのは、至るところの壁に、抗日宣伝文がはり出されていることだ。北支では、こんな光景はなかった。 「この中支は徹底した抗日思想を持っているから如何なる者も殺教すべし」「掠奪は思いのまま致すべし」と言い合った。我々は、そう言い合った。 〉 〈 十一月二十五日 私たちが部落へ入っていくと女子供がおののきふるえていた。兵士たちの中には女の姿を見ると早やみだらな気持ちを抱く者もある。 私たちは米を探さねばならなかった。糧食は輜重の遅延のため徴発することになっていた。 私がある農家へ入ると、女ばかり七人隅っこに小さくなっていた。男は私たちが部落へ入るやいなやしばられて死を待っている。十七、八歳の娘は顔に墨を塗りことさら汚ならしくして、その母や祖母らしき者の背後にちぢこまっていた。 私は、彼女たちに籾を持ってこさして米をつかした。米は支那軍が徴発したのか友軍が徴発したのか、一粒もなく籾ばかりであった。 私が一服吸いながら米つきをさせていると、田中少尉が入ってきた。 少尉はじろじろと彼女たちをながめまわして、顔を黒くくまどり汚ならしく見せかけている娘を見ると、憤然として怒った。 「この野郎、何のためにことさら汚なくしているんだ。きれいな姿を日本の兵隊さんに見てもらえ」少尉は家の中をさがして、怪しい者のいないのを確かめると出ていきかけて、「この部落民も隣村のやつらも皆殺しにするんだ。隣村では三歳の童子も殺した。用事が終わったら、逃がさぬようにしておけ。明朝は全部息の根を止める!」 少尉はこう憎らしく言いすてると、軍刀をガチヤリと鳴らして出ていった。 何のためにかよわな女子供を殺すのだろう。乳呑子を抱き、おののきふるえる女たちを殺したとて、何の得があるのだ。さっきも、木にしばられた男が、銃剣で突かれ、悲鳴をあげ、血を吹いて、血にまみれたさまを見て、七、八つの子が火のついたように泣き叫び、打ちふるえていた。 私は田中少尉の命令にそむいても、彼女たちを逃がしてやろうと思った。 私は懐中手帳に、「汝等逃十二時」と書いた。 彼女たちは、その紙片を眺め次々と回していたが、意味がわからないらしいので、私は帯剣を抜いて一人の主婦をとらえ、「ミンテン。ニイデイはこうだ」と言って彼女の胸に突きつけて、明日殺されることを暗示した。 私は彼女たちを裏口へつれていき、私の腕時計を見せて十二時を指示し、十二時になったら「ニイデイ、ツオー」といった。彼女たちは私の言わんとするところを理解し、地面に坐し三拝九拝して私をおがみ、感謝の意をあらわした。彼女たちは涙を流している。助かってくれよ、と心に念じながらそこを立ち去った。 〉 少尉の名は仮名にしてますが、されど運に見放されたか、彼女たちは逃げるところを見つかり、「ぞんぶんに満足させてから」殺された。一人や二人の善意の者がいてももうノー・リターンである。火は小さいうちに消すことである、燃え広がった火事は消せない。 そのころの様子(2) 〈 夜が明けて点呼を終り朝食をおわると、勤務のない兵隊たちはにこにことして夜営地から出て来た。勤務で出られない兵がどこへ行くんだと問うと彼等は、野菜の徴発に行ってくるとか生肉の徴発だとか答えた。進軍の早いしかも奥地に向っている軍に対しては兵糧は到底輸送し切れなかったしその費用も大変なものであったから、前線部隊は多くは現地徴発主義で兵をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小さな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他に仕方がなかった。炊事当番の兵たちは畑を這いまわって野菜を車一ばいに積んで帰り、豚の首に縄をつけて尻を蹴とばしながら連れて帰るのであった。 〉 兵士の日記は「遺書」として書かれたものである。明日が最後かもしれないと覚悟を決めながら書いているもの、ありもしないデタラメを書くことなどあるかどうかくらいはサルでもわかろう。 しかも何人もの兵が同じことを書いていれば、書かれたことは事実と信じるよりないだろう。はるか後に読む者の気に召そうが、召されまいが、国にとっては名誉であろうが、不名誉であろうが、彼らが書き残した事件は実際の国史である。 それらには将来的には、日本人が正気に立ち戻るであろう未来には国宝的価値を持つと認定されようから、殊に大事にして子孫にしっかりと託されるとよいだろう。(17)に、 〈 兵隊はどんなに疲れていても日記を附けることだけは忘れない。それは今日も生きていたという感慨とともに、明日を期待することが出来ないからである。誰か一人、まだ隅の方で腹這いになって何かしきりに書いている。早く寝んと明日は戦闘だぞ、というと、此方に顔を向け、薄暗い中で、にっこりと笑って、分隊長の方が寝なさい、と云った。 〉 〈 我々は厳しい軍紀と戒律の下にある。我々の現在は唯我々が知っているばかりである。軍機を守るために我々は全く通信を禁じられている。それは当然のことである。我々はどこにも手紙を出すことは出来ない。兵隊はただ日記の中に自分の行動を書き止めているばかりである。手紙を書いている者も、その手紙がいつ禁を解かれて発送され、宛名の人の許に届くものやら知らない。 無論、私が今書いているこの手紙も、何時君の手許に届くものやら、何もわからない。また、果して出せるようになるかならぬかすらもわからない。わからないけれども、兵隊は誰も日記をつけ、手紙を書いている。それはまた明日にも解禁になるかも知れないという希望とともに、明日にも敵地に上陸して戦死するかも知れない、とも思うからである。遺言状のつもりで、当もない手紙をつくり、日記を録す。無論私もその気持である。これから先どうなるのか、何にもわからないけれども… 〉 こうした日記を公開するのは命がけの行為であった。東氏は手投げ弾を護身用に持っておられた。これを爆発させると私は死にますが、相手もタダではすんません。と。 私などが若い時代に聞かされた周囲のオッチャンたちの加害証言(思い出話か)も今思えばそうした勇気ある行為だったのだろうか。勇気ある立派な方だったと中国政府が(日本政府ではない)と賞賛したのもうなずける。 渡辺義治さんがいつか言っていた。 −どこの舞台でもさ、オジイさんが必ず何人か見に来てくれていてさ、舞台がはねると、やってきてね、ぼくの手をしっかり握ってくれるの。 「よくやってくれた、よく言ってくれた」といった感じなんだね。彼らは何も言わないんだ、でもまあそんな感じが伝わってきてさ。 演劇なんて普通、オジイちゃんなんか見に行かないよ、どこだってそう、オバアちゃんばかり、そうなのに、ぼくらの舞台はオジイちゃんが何人か必ず見に来ていてくれるの。この人達は元兵士だな、とわかる、聞かないけどね。 彼らは何もしゃべれないんだね。しゃべれないんだよ。でも君らが演じていることは本当だ、よく言ってくれた。がんばってくれ、そう言っているんだね。 おおやけの場所で、おおぴらには話せないのであろう。知ってはいてもしゃべれないのであろう。 日記も証言も公開するのは大変な勇気を要するものである。それらを集められ公刊された人々もまた大変な苦労をして集められたのである。私は何の断りもなく気軽に引かせてもらってはいるが、時代が遡れば遡るほどよりそうであったという。加害を公言したりすれば、警察が定期的につきまとい暗に圧力をかけるため近所の人々の目の色が変わる、就職はできず、中国に洗脳された大ウソつき、国の名誉をウソで穢す者の社会的偏見と冷笑でそうした人々を見たのであった。日中国交回復(1972)ころまでは特にそうだったといわれ、1956年の「天声人語」ですらそうだった(11)。センノーされているのは自分ではなかろうか、とはツユ疑わない、狂信者のむれにひとり立ち向かった正気の者、おそろしい話であるが、もっとも何も過去の話ではなくて今でもそんな論調は絶えることなく繰り返されている、ネットなど見て貰えばよくわかる… 医者が殺し、坊主が殺す、…(2)は書いていくが、引用もつらい。 (7)は中国側から見ていく。これは日本人にはさらにつらい書である。古本で1円で売られている。もしできましたならば、読みたくはない書である、いくつかを引かせていただく… ↓避難した常州市の住民が機関銃で皆殺しにされた壕のあった所。手前と向こうの2人が両手をあげている間に掘られていた。 〈 「常州を占領した日本軍は、略奪・放火や、逃げおくれた婦女への強姦に狂奔、何日もつづいた大火災の煙は六〇キロ離れた漕橋に達し、三〇キロ離れた鳴鳳にまで灰が落ちました」 そして繁華街の中心・南大街は、一六六軒のうち葬具屋とタイコ屋の二店四棟を残して全焼、「不完全な統計」によると、戚墅堰を含めた常州市の住宅・商店・寺・町工場など九〇〇〇間が焼失した。 三年前(一九八〇年)に死亡した薫剣庵は、日本軍が作らせた協力組織「治安維持会」の秘書だった。その証言によると、「常州没落の一カ月後に死体処理・理葬のための隊が編成され、隊員の手で埋められた死体は約四〇〇〇人におよんだというが、隊員の手によらずに片付けられた死体がこのほかにも数多くあった。 〉 も一つお付き合いを… 〈 中国における強姦虐殺の無数の実例のなかで、日本側の証言としてとくに注目すべき一例は、日本へ帰国したあとで同じような強姦虐殺を何人もやった小平義雄であろう。今の中年以上の人であれば、戦後まもないころの有名な連続強姦殺人事件犯人として死刑になったこの男の名を忘れはしまい。その小平が、予審調書の中でつぎのように語っている(『新評』一九七一年八月号)。 「上海事変当時、太活では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間四、五人で支那人の民家へ行って父親を縛りあげて、戸棚の中へ入れちまって、姑娘を出せといって出させます。それから関係して真珠を取って来てしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で刺して子供を出したりしました。私も五、六人はやっています。わしも相当残酷なことをしたもんです」 〉 海軍陸戦隊員であったという。戦後すぐに事件を何度も起こしている。→「小平義雄連続殺人事件」 やはり戦場のトラウマなのだろうか。アウフヘーベンされない生死を分けた戦場のトラウマ、何か横井さんみたいな言葉になるが、… 横井量子さんに聞いた話であるが、平頂山や撫順炭鉱などの万人坑、あるいは731部隊関係、そうした日本でもよく知られた虐殺現場には記念館などが建てられているらしいが、何も言わなければ、案内してくれないそうである。 日本の方にはつらい所でないかと考えまして、まして責任のない若い人に見ていただくのはどうかと思っておりました。 私どもはそれを見たいのです。それを見るために、その目的でやってまいりました。 日本人による犯行現場は普通の日本人観光客などは案内しない、事情を話しすと案内してくれるのよ、という話であった。だいぶ昔のことであり、そうした資料も送ってもらったが、もうどこへしまいこんだか見当たらなくなってしまった… 私のオヤジの同僚氏は夜が怖くて一人で寝ることができなかった。宿直の順が来ると奥さんに来て貰って一緒に泊まったという。 彼は重機関銃兵であった。重機のすぐ横に仰向きに寝て、射手の撃つ機関銃に弾を込めてやる。彼の鼻先の1ミリ上を敵弾がピュンピュンと数え切れないほど飛んでいった。 重機は体格のよい者がなるんやが、重機前へ、前へ出ろで、戦線の一番の矢面に出される、すぐに戦死してしまう。そうすると体力もない弱兵も重機兵にされる。体力のある男やないが、そんなことで重機の、弾を込める役になったんや。銃撃手は目もカンもよい運動神経のよいヤツやないと勤まらん。 彼などは完全にトラウマだと思われる。一人でいられないような恐怖感の程度ならまだよいが、殺される恐怖から逃れようと我を忘れて周囲に暴行を働いてしまう…この小平もそうだったのかも知れないし、『地獄のDECEMBER-哀しみの南京− 』もそれを描く。 誰が敵だかわからない、誰にいつ殺されるかわからない−−。ヤバイぞ、上が言うように本当に勝てるのか。 ベトナムやイラク、アフガンの米兵、その悪いお手本をやっている。殺す、盗む、犯す、焼く…、人間の罪悪のことごとくが解き放たれた、米兵などはカワユイ者、それを何十倍も悪くしたようなものだったかも。 軍を進めることへの自信のなさと、おもわぬ強敵、姿の見えない敵が襲ってくるトラウマがすべての兵士たちを襲っていた。何も一人強姦魔・小平某だけ、C級戦犯の渡辺氏のオヤジ殿だけの精神状態ではなかった。何もワルイヤツらたけの状態ではなかったのである。 兵のすべて、そしてさらに銃後の国民のすべてを襲っていた。見通しに対するまったくの自信のなさと強い恐怖心。このとき日本人はどのような名誉ある行動をとったのだろう。 (1)に福知山20連隊兵士の日記が引用されている。 〈 歩兵第二〇連隊の牧原信夫上等兵が残した陣中日記(「牧原日記」)には、同部隊が進軍沿道でおこなった部落掃蕩のようすが具体的に記されている。句容にいたる前の部分からであるが、進撃途上や部落掃蕩の実態を日本兵が書き記したものとして以下に抜粋する。 〔一一月二二日〕道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。 橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。 〔一一月二六日〕午前(午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。兵隊たちは早速二名をエソピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。 八時半、宿舎に就く。三小隊はきっそく豚を殺していた。全くすばやくやるのにはおそれ入った。 〔一一月二七日〕支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて十一時、出発す…鉄道線路上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。 〔一一月二八日〕午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。 部落の十二三一家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。 〔一一月二九日〕武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない。 〔一二月一日〕途中の部落を全部掃討し、また舟にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一家庭に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。 〔一二月四日〕昨夜は大変に寒くて困った。二、三日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だということで早速徴発にでる。自分は炊事当番で岡山、関本と共に昼食を準備する。徴発隊は鶏・白菜等をもって帰り、家の豚も殺して昼食は肉汁である。正午すぎ、移転準備の命令があっておおさわざ、結局中止となったのでよかった。各自焼き鳥、焼肉(豚)をやってたらふく食う。午後二時、命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することになった。若人(苦力)も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した(一一月二七日の日記に「支那人二名を連れて」とある中国人。兵隊の多くはこのように中国人を連行して人夫、雑役に使用した。U章扉の写真参照)。 〔一二月五日〕午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時はもはや全村火の海である。 南京に近いのだろう。一軒家に乾いもが目についた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。 (『南京事件京都師団関係資料集』。) 〉 (2)に、 〈 友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向い、西沢部[聯]隊は無錫にとどまって三日間の休養をとった。生き残っている兵が最も女を欲しがるのはこういう場合であった。彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし廻った。この無軌道な行為は北支の戦線にあっては厳重にとりしまられたが、ここまで来ては彼等の行動を束縛することは困難であった。 彼等は一人一人が帝王のように暴君のように誇らかな我儘な気持になっていた。そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家までも出かけて行った。そのあたりにはまだ敗残兵がかくれていたり土民が武器を持っていたりする危険は充分にあったが、しかも兵たちは何の逡巡も躊躇も感じはしなかった。自分よりも強いものは世界中に居ないような気持であった。いうまでもなくこのような感情の上には道徳も法律も反省も人情も一切がその力を失っていた。そうして、兵は左の小指に銀の指環をはめて帰って来るのであった。 「どこから貰たんだい?」と戦友に訊ねられると、彼等は笑って答えるのであった。 〉 〈 「死んだ女房の形見だよ」。 〉 西沢連隊とあるのは京都伏見の9連隊と思う。何も決してこの部隊だけではないが、小平連隊と呼びたいような強姦殺人部隊でもあったようである。 (24)に、 〈 上海攻略戦の場合と全く同様に、ここでも、一般民衆に対するやみくもな殺戮が公然と横行したのである。 この南京への進撃路においても中国民衆の抗日意識は激烈であった。第一六師団歩兵第三三連隊の戦史には、「南京に近づくにつれ、抗日感情はいよいよ敦しい。部落の土壁には、至るところ『百年抗日』とか『倭寇壊滅』などのスローガンがでかでか書かれ、住民は女、子供でさえ道を聞いても教えてくれない」と書かれている(小林正雄編『魁 郷土人物戦記』)。また、同師団歩兵第三八連隊の「江蘇省常熟県福山鎮附近戦圃詳報」にも、「住民ハ避難シツゝアリ之等ヲシテ情報蒐集ニ資セントセシモ口ヲ緘シテ語ラズ」とあり、さらに同連隊「江蘇省無錫県塘頭及無錫附近戦闘詳報」にも、「住民ハ既ニ避難シ婦女子ハ一部落ニ集結シアルモ我ニ好意等全ク無キガ如キ感アリ」と記されている。 こうした状況のもとで、侵略者としての自らの立場を顧みることなく、民衆に対する激しい敵愾心だけをつのらせていった兵士たちは、その激情を一般民衆に対する殺戮という形で爆発させた。また、すでに述べたように軍幹部自身が民衆全体を敵視する方針を採っている以上、そうした激情の暴発に歯止めがかけられるはずもなかった。これは、日本軍が上海戦線を突破して追撃に移った段階での見開であるが、第一三師団輜重兵第一三連隊の分隊長であった佐々木稔は、一一月一五日、羅店鋲で目撃した「敗残兵狩り」の実態について、次のように回想している。 突然!「居たぞ……こっちだ……」歩兵の兵隊らしい声が闇をつんざくばかりに耳朶をうった。 ……見れば四十前後の百姓風の男が四歳位の男児を抱きかゝえ、その傍にはその倅であろうか、十五、六歳と覚しき小俾〔子供の意〕が親父の腰のあたりにしがみ付き、おびえているようである。将校のかざす電灯の光に浮出された彼等の姿の何処にも中国兵らしい印象が私には浮かばない。而かもその親父風の男が片手で拝むようにして哀願している。…… 「少尉殿、只の百姓じゃないですか……これは敗残兵じゃないですよ。他を探してみましょう。」私は圧つぶされそうな感情のやり場を求めて発言した。「馬鹿云うな、お汝達は後方部隊だから敵がい心が薄いのだ。敗残兵は皆逃げる時こんな風に化けるんだ。上海戦の戦友の仇討の意味でも許せないんだ……。」…… 「おい、兵隊、かまわぬやってしまえ。」少尉は自分の部下の一等兵を促した。「はい……」彼は……日本刀を抜いて彼等に向っていった。一瞬彼等の間に哀願と恐怖に満ちた声が挙ってたゝっと五、六歩駈出す足音を聞いた。然しそれも束の間「えーっ」と云う掛声が聞こえると黒い影は地上に倒れた。 私ははっと限を外らした。致命傷でなかったのか黒い影は、つと起上ると二、三歩よろよろと歩いた。「おい誰か銃殺せい。そうだ輜重、お前らやってみろ、後日の経験の為だ。」……私は義憤に似たものを体内に感じてくるのを圧えることが出来ずどうしたらよいかと暫くためらっていた。「ズドン」ハッと息を呑む。やゝあって再び「ズドン」歩兵の兵隊が発砲した。黒い影はバッタリ折重って倒れた。万事休す!「隊長殿、三人共息は絶えました。」彼はほっとしたように報告した。「よし、帰ろう。」「おい輜重隊、貴様等意気地がないぞ、第一線へ出てみろ、毎日く戦友が死んで行ってるんだぞ。これから先こんな事では戦は勝てないぞ、いゝか……」こう云い乍ら盛んに燃え続ける街の方に去っていった(佐々木稔『支那事変従軍記 われら華中戦線を征く』)。 〉 こうしたことばかりであった。そしていよいよ南京へ (1)『南京事件』(笠原十九司・岩波新書・1997) (2)『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫・1999) (3)『わが南京プラトーン』(東史郎・青木書店・1987) (4)『隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1987) (5)『続・隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1988) (6)『中国の旅』(本多勝一・朝日文庫・1981) (7)『南京への道』(本多勝一・朝日文庫・1989) (8)『福知山連隊史』(編纂委員会・昭和50) (9)『舞I地方引揚援護局史』(厚生省・昭和36) (10)『京都の戦争遺跡をめぐる』(戦争展実行委・1991) (11)『なぜ加害を語るのか』(熊谷伸一郎・岩波ブックレット) (12)『新版南京大虐殺』(藤原彰・岩波ブックレット) (13)『完全版 三光』(中帰連・晩聲社・1984) (14)『蘆溝橋事件』(江口圭一・岩波ブックレット) (15)『語りつぐ京都の戦争と平和』(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会・つむぎ出版・2010) (16)『言葉の力』(ヴァィツゼッカー・岩波書店・2009) (17)『土と兵隊・麦と兵隊』(火野葦平・新潮文庫) (18)『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子・岩波新書) (19)『国防婦人会』(藤井忠俊・岩波新書・1985) (20)『南京事件の日々』(ミニー・ヴォーリトン・大月書店・1999) (21)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二他・大月書店・1996) (22)『銃後の社会史』(一ノ瀬俊也・吉川弘文館・2005) (23)『草の根のファシズム』(吉見義明・東大出版部・1987) (24)『天皇の軍隊と南京事件』(吉田裕・青木書店・1986) |
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