過去は忘れて 戦争でも始めよう!
誰が敵だかわからない

−北支戡定戦日記−


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 中国との戦争ひろがる


福知山20連隊は昭和12年12月22日、南京を後にした。

 『福知山連隊史』は、


 〈 北支戡定戦
師団は軍の予備として北支占領地区の警備に任じ居りしが、三月十八日頃より北支戡定作戦に参加する事となり、概ね大隊毎に地域を指定されて之を覆滅する事となる。
 在彰徳の第三大隊主力(第七中隊は彼の呂翁の夢物談で有名な邯鄲附近の守備)は、十八日出発、劉如明の率いる約三ケ師の蠢動する黄河北岸地区を討伐することゝなる。
 討伐とても中支戦線の比に非ずして、宛然昔の大名行列、陽炎燃ゆる春の麦畑を、ゆらゆら揺らぐ楊柳の招きに誘はれつつ、鼻歌交りの行軍すれば、実に駘蕩たる春の長閑さを感ず。
 緑一色の中に咲き乱だる、李花も所々に散見されて、桃源の春に蕩酔せし古人の情緒もそぞろ偲ばる。
 春光煦々、芳香馥郁たるこの桃源に腰を下し、明日の戦いを談り合いつゝ弁当すれば、花はひらひら叉銃に降りて、正に価千金の風情あり。
 斯くして大隊は連日、「迦葉見よ、空即是色花盛り」の誰れかの歌を口吟さみつゝ、不測の法縁を追って行軍を績け、黄河近くに進出するや俄然残敵の挑戦を受く。
 三月十九日は白道口附近で約二−三百の敵、四月一日は僕県城で、六日には黄河を渡河せる敵と陳塞部落で、四月八日は劉如明の率いる数千の敵と、劉呂邸、甘呂邸附近に於て遭遇戦を展開し、数倍の敵に全く包囲され、約十二時間、孤立無援の苦闘をなすも、翌九日天明と共に、敵は我が決死の應戦に恐れをなせしか黄河の西に退散す。
 第三大隊は三月十一日より二十四日境まで新郷附近の警備に任じ、十日は桃源郷附近に出動して討伐を行い、三月二十五日より、北支戡定戦に参加して黄河北岸地区の掃蕩戦、並に林県附近の討伐を実施す。
 第一大隊も一部を滋県及彰徳に残置し、主力を以て黄河北岸地区に蠢動する残敵を求めて第三大隊と反対の東方地区より京漢線方向に討伐を行ひ、新郷を占領し寧日なき附近の掃討に従事す。  〉 


 その第一大隊の東史郎氏の日記
昭和13年3月 北支那路王墳にて
農民虐殺事件日記をコピーする
戦場の日記を昭和14年11月凱戦後記録したもの
東史郎(当時 29才)

同人誌『丹波文庫』15号(93.10)に発表されたもの。同日の日記が『わが南京プラトーン』にもあるが、両者を較べてみると、ところどころ違っているよう。勝手にこんなところへ載せていいのかわからない、同同人誌の関係者はすべてすでにない、発行部数は千部はなかったはず、この日誌は知らない人の方がはるかに多いはず、このままではもったいない、『南京プラトーン』が公表されているのなら、いいだろうと、勝手に判断しました。
文中に兵士達の名が出ている、住所まで書かれていたりする、どうも実名ではないかと思われて、私の判断で人名はすべて仮名に書き替えてあります。
「これですよ」と東氏にその日誌の原本を見せてもらったことがある。ボロボロの大学ノートに整理されたものであった。開けばノートの端っこがほころびて畳に抜けて落ちた。
「ええや、こんなもん」と氏はその切れ端をほったらかし、「だめですだめです、そこに挟んでおいて下さい、貴重な証拠ですから」と、あわてたことがあった。
さて日中戦争の実相、最後まで読めるだろうか−



昭和十三年三月六日
京漢鉄路、新御。
まだ至る処で残敵の蠢動は激しかった。
私が麗らかな春の陽光に、北門営兵所でのびのびとしていると、午前十一時に突然、非常召集の喇叭が鳴った。
中隊は直ちに三台のトラックに軽装で分乗出動した。中隊が出動した後で営兵も引き上げ出動すべしと命令され、私達営兵も重機関銃分隊と同乗し中隊の後を追った。
「汲県附近に匪賊(ゲリラ)五〇〇名があらわれ鉄道隊を襲撃す」
砂塵を巻き上げ全速力で疾走するトラックが、二時間半の後に汲県(衛輝)へ到着した。汲県には女学校跡があり第四中隊(山田中尉隊)が駐屯していた。女学校といっても貧弱な学校であった。黒板といえば白壁に墨を塗ったものであり、教室もガランドウの陰気な部屋であって、日本の寺小屋とも云うべき程の学校であった。
我が軍の悲劇は汲県から5粁ばかりの所に起こったのであった。
我々が急ぎ到着した時は、戦いは終り虐殺された三十七名の死体があっただけであった。敵は凱歌をあげて逃亡していた。
我々は小さな駅に到着した。その駅は汲県と道口鎮の中間にある駅であった。その小さな駅で、悲惨な装甲列車の来るのを待った。
北支那の三月初旬は、早や春風和やに流れ、楊柳の芽生えも早く、ミルクのような空気に満ちた大地は、萬象生物の育成を促していた。暖かい風は心もなごみ故郷の山や川父や母彼女とのあの日この日を思い出させずにはおかなかった。
汲県と道口鎮を結ぶ鉄道は、敵が逃亡の際に破壊し、住民達に枕木を燃料に使用してもよいと布告したので、燃料に困っている住民は我勝ちに枕木を取りはずして、鉄路を破壊したのであった。レールは取りはずされ散乱し捨ててあった。
鉄道隊の工兵四十五名は、京漢線の彰徳から南の破壊不通ヶ所の修理にあたっていたのであった。農民を苦力として五十名ほど作業に使用していた。空は青く春風は麗らかに、大地はかげろうが夢のように炎えていた。
砲弾の音もなく、けたたましい機関銃や小銃の音もせず、平和な太陽の輝きと、十字鍬の音が這うのみであった。
工兵達は半裸になって営々と作業していた。三日前から約千名の敵が襲いつゝあるという情報が入っていた。
日本軍に好意を持ち、匪賊の悪虐を怖れる農民達は、敵の襲撃のある時は、作業する工兵隊にその由を通報するのが常であった。そして、工兵隊はその報告を受ける度に注意し、警戒し作業するのであった。情報は三日前から彼等の耳に入っていたが、第一日も第二日にも何の変化も不安な気配もなかった。工兵隊は安心し油断した。
朝食をすませ春風に心地よく鼻唄を歌いつ、帰国の話をしながら故郷を心に画いて作業にかかった。十字鍬の鋭い先が太陽に燦き、たくましい半裸の陽焼けした膚が春風に濡れていた。
みずみずしい平和な空気の中に、残忍な死がひそんでいようとは思いもそめなかった彼等であった。五十人の苦力も営々と働いていた。附近の部落の住民達も手伝いに来て作業はどんどん進んだ。作業が進むにつれて、工兵達は銃の場所から百メートルも離れてしまった。それでも彼らの安心と油断は何の注意も呼びおこさず、不安の蔭も感ぜず作業に専念していた。彼らの一人が十字鍬の手を休め、ふと大きく春風を呼吸した時、農夫らしい奴が四方からじりじりと接近しつゝあるのを見た。しかし、まだ特別な不安も感じなかった。
五十人の苦力に増して附近の住民も有って作業していたので、どれが匪賊でどれが苦力かわからなかった。ただ、今日はいやに苦力が多い、と思っただけであった。だから作業も捗ると思っていた。再度十字鍬を振りあげレールを掘った。然し一抹の不安が心にわだかまって、彼等が顔をあげて再度四方を見渡した時、腰に赤い布を附けた三人の便衣隊が左腕を曲げ凄い目つきで工兵達に近寄りつ、あった。
アッ!拳銃だ。拳銃が左腕にのっかって彼等の命を狙っている。そして、多くの不穏な気配の便衣隊が狼のように襲いつゝあった。赤い布をつけた男は頭目であるらしい。工兵連が驚愕しあわてた時は、五十人の苦力達は破裂した榴散弾のように四方へ散り、工兵だけが敵に完全に包囲されていた。
銃は百メートルの彼方に在る。
如何にして銃を手にすべき。彼等は不注意を悔い如何に應戦すべきかに迷い怒号した。
彼等は拳銃に対して十字鍬を以て戦わねばならなかった。
彼等は「最後」だと覚悟し死力を尽して暴れだした。拳銃が鳴り、小銃がはじき、機銃が唸り、十字鍬が繁めき宙に舞い、青龍刀が振り廻わされた。血が鉄路に流れ、首が飛び、うめきが地を這い、叫喚がはねあがって乱斗が続いた。この時卑怯にも指揮官の小隊長少尉は、素早く部下四十五名を捨て、装甲列車へ走り飛び乗った。何という卑怯だ!何という無責任だ!
敵は装甲列車の扉をめがけて乱射した。迫撃砲の砲口が列車に照準された。小隊長はあわてふためき己一人逃走した。列車が動き出した時七名の兵が列車の扉に殺到した。敵弾は激しく扉に集中する。卑怯とも無情とも愚かとも言い難い小隊長は、扉をぴしゃりと閉ざした。
「小隊長殿、小隊長殿」と悲痛な叫びをあげて七名は扉にしがみついたが、遂に扉は開かれず全速力で列車は疾走しだした。
背後ではすでに、戦友が血に染まり、うめき、わめき、叫喚して悲愴な斗争が続けられていた。七名は小隊長をのろい乍ら
「畜生メ」と叫んで列車から手を離した。列車は彼等を掃き捨てるように黒煙をあげて去った。彼等は一様に身をぴたりと地に伏せ、薄手のヶ所を探した。彼等の手には叉銃所から、ひったくった小銃があった。彼等は目茶苦茶に乱射しながら薄手のヶ所から逃れんとしたのだった。彼等の前に三人の敵が伏していた。七名はーあそこを突破して−と叫び銃剣を振りかざして突入すると、三人の敵は石コロのような物を放って逃げた。彼等の一人が敵兵の放った物をひろって見ると、鉄製の円筒だった。
畜生!と叫んでその円筒をぶん投げると、轟然として土煙をあげて破裂した。
その破裂の昔を後に、あれが手榴弾だったのか、と思い乍ら疾走した。彼等はまだ手榴弾を見た事がなかったのだと言う。
戦友達の半数はすでに殪れていた。
獣じみた叫喚と狂人的激斗は死の乱舞の中に踊った。七名を追って数十人の敵が追ってきた。七名のうちに一人の伍長である分隊長がいた。七名が一つの土堤を越えた時、分隊長は六名を逃がして只一人踏み止まった。
土堤を銃座にして乱射した。一人、二人、三人敵は殪れた。だが尚も敵は迫って来た。伍長は必死になって射って射って射ちまくった。分隊長の心はすでにきまっていたのだ。
逃げた六名が、とある家角を通ろうとした時振り返ってみると、あゝ、その時分隊長は銃剣を振りかざして青龍刀と戦っていた。
彼等は伍長を救援す、べからざる己を知った。遂に数十人の敵は伍長の頭に青龍刀を叩きつけた。伍長は血を吹いて無念の死をとげた。六人は分隊長を見殺しにしながら、涙を呑んで仕方なくも、身を以て逃がれた。六名が息たえだえになって鉄道守備隊に駆けつけた時、彼等の小隊長−部下を捨てて己だけ列車で逃げた卑怯者の少尉は、彼等に唾を吐いて怒鳴った。
「貴様達は何をしとるかァ!
敵襲にも銃を持たずにうろうろして應戦もせず、その醜態はなんだァ!連絡は俺がしている」指揮官が指揮もせず、部下を見捨てて逃走した少尉は、敵と戦いつゝ命からがら守備隊に着いた六名を口汚く叱った。叉銃場所から百メートルも離れて作業させたのも指揮者の責任である。三日前から襲撃の情報が入っていたにも拘わらず、歩哨も立てずに油断したのも指揮官の責任である。
その卑怯な無責任な少尉が罵声を浴びせた。精も尽き、根も尽き、力尽き、くたくたになっている六人は、その怒声にカッとなり憤然として、だが、たらたらと男の涙、くやし涙を流し、一言も上官に反抗の声をあげなかったが、野獣のような燃えるような目で上官を睨みつけた。
彼等は心の中でこう叫んだであろう。
「卑怯者メ、隊長は指揮して奮戦すべきである。小隊員を見すて、逃げるべきではない。
分隊長でさえ俺達の身替わりになって一人奮戦し青龍刀で斬られた。連絡は兵に命ずべきであるのだ。卑怯者!」と。
理不尽であろうと、上官なるが故に反抗の出来ない無念の思いに悔し涙にかきくれたであろう。
報告により直ちに警備隊は出動したが、方向をまちがえて走り、引き返して現場へ到着した時は、敵は一名も居らず、附近の部落民も戸をしめて逃亡していた。其処にあるものは鮮烈な流血と苦悶の呻吟であった。惨殺された三十七名の死体は、全く目を覆はしむる鬼畜の行為の限りがつくされていた。或る者は目をえぐられ、鼻を切りとられ、或る者は性器を切断され、頭を砕かれ、或る者は足を切りとられ、腕を離されて、みな一様に衣類のすべてを剥ぎとられ、素っ裸になっていた。
救援隊の瞳には熱い哀悼の涙と、悲憤の怒りが炎えた。かくて、三十七名の素っ裸の死体は、無蓋車の上にずらりと並べられ、荒筵がかけられて運ばれた。我々が救援に急行する時、熊野郡出身の三十五才の後備役召集の上田太郎は、トラックの上で電柱とガソリンタンクに小銃をはさみ二つに折った。この事件は山下中隊長があわてふためき無秩序に急がした事から起こった事件で、殆ど不可抗力のような結果であったので、誰も彼もが同情し処罰に対して嘆願したが、山下中尉は上田を重営倉に処した。
昨日は、山本一等兵が歩哨交代の際、過って小銃を落とし照星頂を壊したので五日間の重営倉に処せられた。
我々はこれについてこう語った。
「我々は生死の第一火線に戦う者である。いつ死ぬかも知れない身である。その者に、かかる僅かな理由で重営倉を命ずるのは不当だ」と
小銃には菊の御紋が刻印してある。
日本の軍隊は天皇の軍隊であるから。
その御紋にほこりがついていると言っては殴られ、傷をつけたといっては処罰された。
水戸黄門の徳川家葵の御紋のついた印籠に、庶民のみならず一般武士も畏れ多くて、へいつくばったように、天皇家の菊の御紋は絶対であった。日本軍の小銃は単なる武器という物体ではなく神聖なる天皇の象徴である。
だから、これを損傷させる事は処罰に価するという事なのであろう。
南京戦の時、許浦鎮の泥濘の中で銃を落とし、輜重車に敷かれ破損させた初年兵が、重大なる責任感から死を選んだ事があった。
然し、二十三才の山下中隊長の処罰に我々は心の中で激しく抗議した。
このような瑣事で重営倉を科するのなら、部下を捨てて一目散に己一人列車で逃亡した少尉は、どのように罰せられるべきであろう。彼は処罰されないのである。

三月十五日
早やる心を押さえ無言で、ガツガツと軍靴の音を揃えて歩度をつめ救援に走っていた。
悲痛な思いの一団が、青白く照り渡る月光の広々とした夜の大地を、憎むべき敵に対する戦斗への余力を残そうと、用意周到な心配りをしつゝ走っていた。私達は今日三里ばかりの地点に散在する部落の掃討に行ったのであったが、いつも、敗残兵らしき者は見つからず、掃討と言えば鶏を捕えるか豚を捕えて帰るか、姑娘のズボンを剥奪してピーカンカンと叫んで、彼女の股間を眺めるぐらいのものであった。今日も鶏を三羽捕えて帰り、すき焼きに腹鼓を打ち酒を呑んで、大いに怪気焔をあげていたのであった。突如、砲声が重苦しく遠くで闇の中に響いた。砲声は二発、三発、四発つづいた。
敵襲!私達の脳裏に電光のように繁めいた。戸外では月明かりの道を右往左往する伝令が急走していた。
「第三中隊は聯隊本部へ来れ」
伝令は激しくせき込んで叫ぶと、あわただしく闇の中に消えて靴音を残した。
武装した我々は直ちに本部へ駆け走った。
「第三中隊は北門を守れ」と命令され再度北門へ引き返し警備していると、衛生隊の馬鹿どもが軍人らしくもなく、兵器も持たず各自勝手な品々を抱いて、城外から崩れ込んで来た。欲と酒と女に耽溺していた哀れな亡者共である。多分相も変わらず女を抱えて寝ていたに違いない。彼等は靴もはかず素足であった。女を連れていないのがせめてもの、という格好であった。暫くすると悲憤すべき情報が伝えられ、命令が飛んできた。
「第三中隊第二小隊は敵に包囲さる。苦戦中なり。直ちに救援すべし。」
我々は愕然として驚き憤り、救援に心は逸り駆け走るのだった。
月光が燦々と照っていた。大地が莫々と遠く暗に消えていた。城壁が後ろに残り道が先に長々と連なっていた。我々の後を追ってトラックが三台疾走して来て、我々を乗せて驀進した。運転手は何を思ったのか途中で停止して、何か喋り出した。と、
「君達が一言しゃべっているまに、戦友が一人尊い命を失うのだ。ぐずぐず言わずに走れ!」とせき込み叫ぶ声がした。
車は更に激しいスピードで砂塵を巻いて驀進した。
三十分程走ると左方に部落がみえた。
中隊長は、あの部落に敵が居てはいけないから射撃してみろ、と言った。
車を停止させて車上から部落に向かって、軽機関銃をぶっ放した。
部落では女や子供の絹を裂く悲鳴の外は、敵の応戦もなく何の反響もなかったので、「敵ナシ」と、再度驀進させた。約十分程して目的の路王憤駅近くに到着したので、攻撃開始に移った。運転手を残して行く事は甚だ心もとなく思われたので、中隊長は彼等三名に、自動車を残して部隊と共に来るように言ったが、運転手は、「我々の兵器は自動車であります。兵器を捨てることは出来ません自動車と共に残ります。」と頑張った。
我が部隊の兵力は、歩兵三十余名と重機関銃一ケ分隊であったので、運転手の護衛に兵力を裂くことは残念であったが、やむなく四名の歩兵を彼等の護衛に残して、攻撃前進を開始する事になった。
この時、常々大言壮語し喧嘩をふっかけ、我武者羅な勇壮なようにみえるラッパ手に、残るよう中隊長は命じたが、彼は僅か数名で残る危険を案じて臆し残ろうとしなかった。
他の戦友達は、戦斗員でない運転手の立派な態度に較べ、歩兵の彼が怖けついているのを嘲笑した。
兵力が少ないので成るべく大勢に見せる為散兵の間隔を延ばして、凸凹の地勢を進んだ。ここを行けば駅の裏側へ出るのだと山下中隊長は言う。昼間は春風が吹くとはいえ、夜中は寒気の激しい北支那である。寒さが刻々に加わった。十五分ほど前進した時、「喇叭手、ラッパを吹け。喇叭を聞かせて援隊の来た事を知らせるんだ。どんなに喜ぶか知れんから、早く吹け」と中隊長は怒鳴った。
「喇叭を持って来ておりません」と喇叭手は答えた。
「馬鹿!喇叭手が喇叭を持って来ないようで任務がつとまるかァ」
「ハイ」
我々はやがて守備隊に到着した。
小隊長安田少尉以下八名が重軽傷を受け、一名戦死していた。
敵はすでに凱歌をあげて逃げ去っていた。
今宵も又尊い犠牲が出た。
月が冷たく朧々と輝いている。広漠たる大地は冷たく氷っている。
我々は敵の襲撃に備えて散兵壕を掘り警戒線についた。寒い夜が更けていつとはなく空腹を覚えはじめた。野犬が遠い闇の中で吠える。風の音にも犬の吠声にもきき耳をたてて敵襲を待ったが、遂に敵は現われず東の大地が自みかけた。長い夜だった。
ほっと太い安堵の溜息が寒気に氷る


三月十六日
朝日はまだ大地から光芒を空に投げているばかりである。農民はまだ眠っている。我々は掃討すべく部落へ侵入した。部落には森がある。森も村も人もまだ深い眠りについている。退路を重機関銃で塞ぎ戸毎に調べた。寝込みを襲われた村民は右に左に逃げ惑った。
中隊長は、
「逃げる者は皆殺せ」と命令した。
暁に銃声が四方にあがり、夜はすっかり目覚め、森も村も恐怖に驚きあわてた。
我々は一軒一軒侵入して、あらゆる物を叩き壊し蹴散らした。村のはづれの壕の中に、女子供が十二、三人怖れおののいていた。
額に汗を流して、希望もなく安息もなく労作し、租税は重く麦は実らず、農夫は代々貧しいと、詠嘆された彼女達は、野獣のような戦争にみまわれ、今、死に直面して身をふるわせ哀哭している。
すでに一人の少年は殺され、老婆が死体をかき抱き、頭をさすりつゝ慟哭している。
少年の血の気のない顔が、老婆の膝に仰向いてぐったりしている。老婆の血にまみれた、しわがれ骨ばった大きな手が、少年の頭の上で静かに動く。老婆は一心に笑わぬ少年の顔を見つめ慟哭し涙を流している。彼女達は昨夜から此処に居たのか、我々の襲撃に家を飛び出して此処へ来たのか、この危機にしっかりと蒲団を抱えていた。
それ程蒲団は貴重な物なのか?
戦友の一人が彼女達に銃口を向けた。私はとっさに、それを止め「女だ逃げはしない。殺すな」と叫んだ。
女や子供に何の罪もない筈だ。善良な農民を殺さねばならない理由はない。
六名の年寄った農夫が連れてこられた。彼等は地に伏し拝み哀願して助けを乞うた。
しかし彼等の哀願には一顧も与えられず、
「ヤァッ」と鋭い気合と共に銃剣で一人刺された。と、さっと他の五名に地獄の恐怖がみなぎって、本能的に「大人!大人!」と叫びつつ拳を組んで幾度も幾度も叩頭して哀願した。刺された一人が苦しみもがき、あがいて爪で地を掻いている。又、一突き。彼は二度突かれて死んだ。
「ヤア!ヤア!」と鋭い刺突の気合が空につらぬき、うめきが地を這って、六名は殺された。みんな年の老いた農民であった。
血を吐く声、世を怨む呻き、刺突の気合が消えて、後にはうづくまった農夫の死体と、赤い血が朝日の光ににぶく光っている。
彼等は何の罪もない善良な農民であり、助けを求めて地に伏し哀願していたが、容赦なく突き殺された。このような彼等に私はとうてい刃を向ける気持ちになれなかったが、ある兵は平然として彼の銃剣に血ぬらした。
この兵は勇敢なる者であり、私の如きは臆病な者であるのだろうか。
彼は強く私は弱いのであろうか。
機関銃が逃げ走る農夫を追ってタンタンタンと連続して唸る。多くの農民が殺された。
六名の農夫は老人故に逃走出来ず居残っていたのであろうか。
やがて真紅の巨大な朝日が遠い地平線に昇った。すくすくとのびた白樺の木立に陽光が燦燦と降りそそぐ。あちらの村にも、こちらの森にも、朝餉の支度のほのかな煙が陽光に、からんで垂直に立ちこめる。犬も吠えない、銃声もしない、死の呻きも怨いの声もない静かな朝が来た。
断末魔の怒号も、女達の慟哭も消えて、血を吸った大地に小麦が三寸ほど青々と生長し、無限に拡がっている。
農民達は殺された。此の広大な麦畑をこれから誰が耕すのであろう。
事件は、
第二小隊は路王墳駅の警備につくと、早速治安維持会を設立した。
路王墳駅には郵便局長が居たのであるが、小隊が行くと恐れて逃亡した。数日後に局長を探して呼び戻し、各部落の村長を集めて治安維持会をつくり会長を局長に任命した。
郵便局長は彼の家族を連れ戻し、駅にある彼の家に住居して治安維持会の職をとった。
村長達は毎日のように卵や鶏や野菜を持って来た。こうして平和な日が過ぎていくうちに、敵のスパイは農民に交じって出入りし、こちらの兵力、兵器、警備状況を調べていた。
或る日、郵便局長は出たきり帰って来ず、毎日のように来ていた村長達も来なくなった。局長の妻と老母も出て行き、後に十八、九才の息子と十才位の息子が残っていた。
警備隊員達は何か起こるのではないかと危惧し待機した。敵は襲撃すべきヶ所、兵力の凡てを調査した後襲撃の時を覗った。
局長が居なくなってから三日経った。三日目の夜十時頃山の方向にチャルメラのようなラッパが鳴った。
夜襲だ!
第二小隊月ははね起きて中庭に集合した。そこへ手榴弾が屋根を越えて落下し出した。手榴弾は集合した足下で爆発し、数名が死傷したのであった。隊員は屋根に登り機関銃で應戦した。だがこの戦いは警備隊の負けであった。
敵は疾風のように襲い、思いのまゝに暴れて光のように、さっと引きあげた。
敵は傷つかず味方は傷ついた。
かくて我々第三小隊が救援に走ったのであった。
三月十七日、彰徳から情報が入った。
「三十八聯隊の一ケ大隊を主とする友軍は、一万五千の敵に対し攻撃を開始した。敵は鉄路を逃げるやも知れず充分警戒ありたし」我々は現在の警戒地域では防ぐに不利と考え、局長の家を捨てて官舎に移る事にした。
私は斥候となり附近の部落を偵察に行った。昨日の朝惨殺した部落へ行くと、六十を越えた爺が五人と、婆が五人と子供が一人、日向にうづくまって悲惨にうちひしがれていた。若者は兵隊に徴発され、壮年の男は虐殺されて残った唯一の老人達であろう。彼等は、あまりな不幸な悲惨に、神への信頼も信仰も忘れて、ただうつろになっている人々である。私達は防禦作業の使役に使うため、しわがれた爺五名を連れて帰った。
彼等を連れて帰る時、老婆達は哀れな目ざしで老爺に別れを告げただけで、許しを乞う事も哀願も、とりすがりも泣きもなせなかった。見送る老婆の目には、抗し得ないものに対する悲しいあきらめがあった。我々は懸命に鉄条網を張り、壕を掘り見透しをよくする為め農家を壊した。
あちこちから集められた苦力は十六名いた。彼等は昼間は防禦工事に従事し、夜は後ろ手にくくられて駅の地下室に監禁された。夜が明けると縄を解き工事に従事させられた。のろわれた哀れな農民達だ。三月十八日。再度情報が入った。
「三万五千の抗日学生軍が、黄河を渡り、新仰攻撃を企図す」我々の神経は過敏になった。
「前方の山の頂に歩哨と思われる人影が見えた」と、
我が軍の歩哨が夕方報告した。
いよいよ事体は近づきてあるか?と、いつでも應戦出来る準備をしていると、歩哨が再度報告してきた。
「部落に築壕するらしい十数人の姿が見える」私達は一様に屋外へ出て見た。
なる程十数人の人影が壕を掘っている。
敵だろうか?
「あれは、この間殺した奴の墓穴を掘っているのであろう」と誰かが言った。
なる程、そうかも知れない、あの部落は殺した部落であるから。
だが?擲弾筒を一発打ち込んでみろ!と村田小隊長が命じた。
「距離六百五十。撃て!」
ドーンと弾は筒を放れて、グワンと破裂すると、壕を掘っていた十数人は四散して逃げ去った。私達は子供がかんしゃく玉をはじらして人を驚かせたように、愉快がって笑い乍ら部屋へ帰った。夕食をしていると又、また歩哨が報告してきた。
「さっきの部落に合図の火と思われる火が見えた」と。
情報はひんぴんとして伝わってくる。
小隊長は、分隊長を集めて應戦の場合の注意をし、今夜は軍服のまゝ就寝せよと命じた。いよいよ来るか畜生奴!
我々は心の用意怠りなく横になって待ったが其の夜は遂に何の変化もなかった。
我々の宿舎に二人の少年が居た。
一人は昨日徴発されてきた少輩であり、一人は郵便局長の年下の方の息子であった。
彼等は太郎、次郎と愛称された。局長の息子は太郎であった。
太郎は全く傷ついた雀のように打ちひしがれ悩み、うつうつとして元気がなかった。
太郎は彼の兄と共に殺される筈であったが、少年の故に助けられたのであった。
郵便局長は敵に密通したと考えられ、その代償が息子の死であったのである。
太郎は彼の目の前で兄の死ぬのを見た。兄が目の前で血を吹いて死ぬのを見てから、彼はすっかり元気を失い悲しみに打ちのめされた。私達は、何とかしてこのいじらしい可哀相な少年を元気にしてやろうと、手をつくした。
この二人の少年を私達の寝台の下に、筵を敷いて寝かせ敵の来襲を待ったのだった。
やがて何の変化もなく夜は更け、朝が来た。
三月十九日。苦力達は地下室から出され、残飯を与えられ作業にかり出された。
現下の状況から防禦陣地構築を急がねばならなかった。
見透しを良くする為に局長の家を壊した。鉄条網は鉄道線路を越えて張られた。
附近を一人二人の支那人が通っても、我々の神経は尖る。我々が陣地構築の作業をしている時、四人の支那人が丘陵へ走って行った。怪しいと直感して三人の兵が後を追った。しばらくして彼等は牛一頭と鶏二十羽を捕えて、「匪賊を捕えた」と言って帰って来た。この匪賊の頭目は数日後に、自分は明日我々の舌を喜ばすことになった。
装甲列車が夕方到着し中隊長がやって来た。
「裏の小高い丘陵に歩哨を出せ」と命じた。
「いや、それは歩哨が危険です」と村田小隊長が反発した。裏の小高い丘陵へ行くには、壊した家のうず高い煉瓦と鉄条網と、巨馬を越えて行かねばならなかった。
二間先の見透しのきかない夜間に、敵が音もなく近寄り手榴弾を投げたら歩哨はやられてしまい、報告も出来ない位置なので、山下中尉の命令は無謀な歩哨配置であった。
歩哨の任務は状況報告である。山下中隊長の命令は否定され、結局宿舎の裏の入口に複哨を立てることになった。
小隊長が居るのに中隊長が来て、免角の指示する事に我々は不満であった。
小隊長は「俺が頼りないと思われているのだろう」と低くつぶやいた。
部下を信頼しない中隊長は、部下からも信頼されないであろう。
此の駅には満鉄の駅員が四名勤務していた。俺は九州男児の葉隠れ武士だと自称する大酒呑みの駅長と、Y談好きの助役と、中学出の若い駅月が二人。夜、中隊長と小隊長と駅長と助役は、冷や酒を呑み出した。一升瓶がころがり、二升瓶が空になり、三升目も残り少なくなって、駅長と助役は酔っ払った。駅長は、安田第二小隊長の守備状態を悪評しだした。私は憤然として戸外に出、立哨している岡本上等兵に、「彼等は駅員だ。軍隊の事について、何がわかっているというのだ。負傷した安田少尉について奴の広言は無礼だ」
と、怒りを込めて話していると、私がつと立って戸外へ出たので変だと思ったのか、中隊長が密かについて来ていて、私をなだめるが如く、叱るが如く言った。部屋へ帰ると、中隊長は酔ったふりをして駅員達に調子を合わせ、私に
「東はムジナ」だと言った。
「ナニイ!ムジナとは何だァ!」と私はむかついた。
酔っ払った駅員はいつまでも声をあらげてしゃべくり立てて、我々の睡眠を妨げるので私はいよいよ憤り、「あなた達を守る為め、許された時間に充分寝なければならんから、えゝかげんに静かに」と毒づいたが、彼等は「すみません」と答えて相も変わらずであり、遂には助役が作戦の書だと言ってY本数冊を出してきて我々に提示した。
馬鹿野郎!三十五才にもなって、かようなものを持って喜こんでいるのか。
私は心から軽蔑して、そのY本を投げつけた。控室に帰った私は、先日従弟の岡山次郎君から送られたツルゲーネフの散文詩を読んだが、頭に入らず、かといって眠れもしなかった。


三月廿三日
今や兵士達は、支那人である限り殺す事に何の躊躇も逡巡もなく何の呵責も痛痒も感じていない。支那人を突き殺す事を、鶏を殺すぐらいにしか思っていない。その死体を見る事は豚の死体を見るほどにしか感じていない。苦力の中に一人の老人が居た。彼の顔はいけずな冷たい嫌な顔であった。原田上等兵は、
「貴様の顔は実に好かぬ顔だ。お前が死んだら俺の目の前でぶらぶらしないだろう」と言って、ぐさりと銃剣で突いた。
老人は肺を突かれたのか口から、ぶくぶくと血へドを吐いてうめき乍ら死んだ。
老人が反抗したわけでもなく、悪い事をしたのでもないが、好かぬ嫌な顔だ消え失せろ、という事だけで一人の支那人が殺されたのである。これは殺人であるが、良心も罪の意識も無く殺し、支那人は家畜の如くに死んだ。
昼を過ぎて間もない頃、四十才位の支那人が天秤棒で荷物をかついで汲県の方へ向かって来た。野田一等兵は直ぐとんで行って荷物を型のように調べると、その男を山の方へ向かって歩かせた。彼は何とも思わず謝々と言って、背後から死が襲いかかってくるとも思わず歩いた。
野田は、支那人が百メートルも離れると、銃を堆土に委託して狙った。子供が空気銃で雀を狙うように、気晴らしに支那人を殺そうとするのだ。
二発の銃声は一人の支那人の命を落とした。


三月廿四日
その日は暖かく空には一片の雲もない晴れた日であった。私達は生の歓喜に浸り春を謳っていた。防禦陣地作業は完成した。
小隊長の村田少尉は苦力を殺すべきか否かについて分隊長を集めて討議した。
私は、この哀れな老人達、なかには壮年の男も居たが、彼等は殺されねばならないとは考えられなかった。彼等は善良な農民である。彼等は敵兵ではない。彼等は従順に働いた。彼等は何の反抗もなく言われるまゝに七日間働いた。
私は彼等を釈放してやれと主張した。
「然し、東」と一言区切って小隊長は言った。
「然し、もし彼等が敵に密告したらどうなる?奴等は我々の防禦陣地の秘密を知っている」
「これだけの陣地があったら恐れる事はない。寧ろ襲撃したも駄目だと思って、攻めて来ないだろう」
「俺は隊長で皆の命をあずかっている。一人の部下も傷つけられないんだ。少しでも危険な事は避けねばならないんだ。」
「小隊長の考えもよくわかるが、簡単に人を殺す事は如何なものだろう。敵兵なら当然であるが、彼等老人は善良な農民だし、従順によく働いてくれた。なんの不穏な事もなかった。治安維持からも殺すべきではない。人道に反する殺人はすべきでないと思います」
「戦争に人道があるのか、人道を思っていて戦争が出来るか?」
「戦争だから何をしても良いわけでもないし、戦争にも人道はあると思います」
「東よ、人道とは同情する事か」
「いや、そうだとは思いませんが、私は虐殺と人道について煩悩しておりますし、戦争に疑問を持っております。私も敵を殺すのに躊曙はしません、しかし、農民であり従順に一週間も働いた。その間に人間同志のふれ合いもあった。彼等は殺すべきでないと思います。解放してやりましょう。」
「奴等が善良な農民ばかりであると、お前は証明出来るか」
「彼等は農民であるに違いない。もし敵兵であったらあの朝部落に居る等はありません」
「それはわからん。彼等が皆残敵であるとは思わんが、一人でもそのような者が混じっていたら重大である。その一人を見つける方法がない。わが小隊には支那語の話せる者が居ない。彼等の釈放は敵の襲撃となるかも知れない。殺そう。それが味方を守る事になる。お前にして彼等に同情するという事がわからん。お前にそのような面があろうとは思わなかった。とに角殺す。」
「しかし……」
「然しではない。我々は敵に同情する事は出来ない。それは味方を憎む事になる。俺は小隊長として一人でも部下を傷つける事は出来ないのだ。」
私の心には納得のいかない憤満がうづいた。私は泣きたい程の気持ちで釈放を願ったのだった。私がもし彼等の一人であったら、どんなに悲しい事であろう。
「何の罪もない己の家族は虐殺され、己の家は破壊され、己は強制徴発されて労役させられ、その果てに己も虐殺されるのだ。己は敵にも味方にも何の関係もなくただ鍬をふるい土を耕すのが終生の仕事であった。戦争に関係せず自然に関係し、土を相手にしてきた。何故に、妻も子も孫む、この老体も無残な最後をみなければならないのかそれは、あまりにも無慈悲であり罪悪ではないのか。己達は農夫である。罪はない。大地は慈悲深く自分達を育み、生成させてくれた。だが大地に生きている人間達は己のひからびた命まで断とうとする。あまりにも無慈悲で、のろわるべき事だ。」
と彼等がこう思っているに違いないと思うと、たまらなく愛く感じた。
十六名は地下室から出され、一連の縄で首をくくられる事になった。
老爺達に縄をかける時、宮下上等兵は、意地悪くなぐったり敵ったりした。
「オイ、今殺す者を手荒にするな!」と私が言うと、「いう事をきかんからだ」と言ってますます調子に乗って打擲した。
四十才ぐらいの壮年者は二、三人で、殆ど六十の坂を越えた老人であった。最後に七十を越えたと思われる小柄なよぼよぼの爺が引きずり出された。このような老人達が何のために殺されねばならないのか、と又しても又しても私は思うのだった。彼等のどこにも残敵の姿は感じられない。
「小隊長殿、若い奴だけを殺して爺は助けてやっては如何でしょうか」と私は言ったが、
「此奴らに兵隊が殺されたのだから、助ける必要はない。全員殺す!」と言った。
私はずらりと並んだ彼等の顔を見た。被等の顔には痛烈な必迫感が漂っていた。
彼等は声もあげず一言も喋らず、顔面を硬直させて、鋭い牙のような目で睨んでいた。彼等は只今、今まで殺されるとは思っていなかったであろうが、首に縄をかけられて初めて、死が近ずいた事を知ったのである。左から四人目の爺は、なんとなく私の父の面影を思い出させた。頬の凹んでいるあたり、額の広くはげ上りしわの一文字に教本ひいているところ、口の小さな顎の尖って髭だらけなところ、ほゝ骨の出たやせた顔面など、私の老いた父を偲ぶものがあって、その老人がひとしおいとしくなった。此の老人には二日前バットを二箱与えたのであった。彼はバットを一本出して吸い謝々と言って煙を吐いたのだった。今日が最後の彼に又煙草を与えようと思っていると、彼は懐中から先日の煙草を取り出した。タバコを吸うのかと思いマッチをつけようとすると、彼は憤怒に炎えた目で睨みバットを投げ捨てた。
二日前には謝々と感謝してうまそうに吸った彼であったのに。
己の最后を悟った為めにか、それとも日本兵からもらったものである限り憎い、として投げたのか。私は彼の顔ともえさしのマッチの軸木とを見くらべて黙った。
彼がこうした態度をとる心情は理解出来て、それが為に憎む気持ちにならなかった。
父の面影を彼の上に感じて憎めなかった。たまらなく此の老人だけは助けてやりたい衝動にかられて、「この節だけは助けてやろう」と叫んだ。
すると、中田というバカ、森下いうバカ、山岡というバカ、宮下というバカ達は、口を揃えて反対した。私はしかたなく部屋へすごすごと戻ったが、十六名が屠所へ引かれる羊のように、とばりとぼりと歩く様を窓から見た時、堪え難い熱いものを感じた私は、素早く部屋を出て後を追った。
中田や山岡や森下や宮下は、仔羊を追う狼群のように意気揚々としており、或る時は飢えた狼が食欲にたまらなくなって、ちょいと羊にいどむようにピシッとなぐり、ぽんと蹴り、犬にけしかけるように怒鳴った。哀れな老人達は蹴られて転び、殴られて曲がり、突き出されてよろめいた。
四人の兵士は優越と見幕を誇示し、狼が羊を攻撃するのは当然である如くにふる舞った。良心も愛も同情もない非人間的な戦場なのだ。鉄路を越した所で、一連の縄で数珠のように繋がれた老人達は、土下座して哀愁の哭声をあげ、幾度も幾度も叩頭して許しを乞うていた。私は、そうだ許しを乞うがよい。そして憐愍の情に訴えて許してもらうが良い。と彼等のために心の中で叫んだ。
すると、老人達がへたりこんだので、宮下は土下座した彼等を、堅い靴先で蹴りまくり、犬でも叩くように棒でしばきあげた。老人の頬は赤くはれ血がにじみ、着物は裂け襤褸の破れからはみ出た足にも血が流れた。それでも必死になって「大人!大人!」と苦しい悲痛な哭声をあげて拝んでいる。蹴られて転び、手首をつかまえて起き上がり、突き出されてよろめき歩いていく。
私は憤然として怒った。
「宮下!」と叫んで、
父の面影をしのばせる老爺の首の縄をときかけた。山岡が声を荒立てて制止する。私は無理矢理に解こうとする。宮下、中岡、森下が声を合わせてがなり立てる。
「東やめとけ!止めろ!」と。
「かような者を殺すのは可衷相だ」と私は毒づいて尚も縄をとこうとした。
「あれが可愛相だ、これが可変相だと言っていたら皆助けてやらねばならない」と四人の兵士は叫んで私の手をとめた。
「そうだ。皆逃がしてやれ!貴様等は敵襲が怖いのかァ。馬鹿!」
私はも早あきらめた。私は部屋へ帰った。遂に一人も助ける事は出来なかった。
寂蓼たるものが私の心をつつんだ。
私のような者は弱いのだろうかと反省してみる。私は私の戦跡を返りみる。
私は何の卑怯もなく怖れもなく良心に向うて恥ずる処のない自分である事を確信する。
どの戦斗にも人の後から突入した事はなかった。一度も戦斗から抜けた事もなく全戦線に参加した。敵襲があろうとも決してビクビクはしなかった。断じて卑怯ではなかった満足がある。彼等四人はどうであったか?
森下は戦斗が始まると必ず後方に残り、まだ一度も戦斗した事のない臆病な奴である。
南棲下村では不寝番に立っていて、馬の前ガキの音を聞いて敵襲だと騒ぎ、怖れ驚き震えて大騒ぎした奴である。
中田、山岡、いづれも大して勇敢ではなかった。彼等の中で勇敢であったのは宮下上等兵である。彼が勇猛果敢であることを認める。彼は全戦線で勇敢であった。だが半面残忍である。勇敢ではあるが冷酷な男。
我々は支那人をチャンコロと蔑視する。
蔑視する事は人間並に思わない事であり、その命を軽視する事である。
豚を殺すように支那人の命を奪っていく。これが聖戦なのであろうか。
私はとつい考え込みむなしい思いにかられた。やがて十六名の老人の結末が伝えられた。目撃してきた野上一等兵は語った。
「東よ。十六人は丘陵の中腹まで連れて行かれた。狭い道がなだらかな傾斜を登っていた。その道の傍で皆殺された。奴等はそこへ行くまでは哀願していたが、いよくとなったら覚悟を決めたのか平然としていた。
全く泰然自若として坐り、首をさしのべた。日本の武士が従容として死んだというが、彼等はそれに劣らぬ、いやそれ以上に立派な態度を示した。驚嘆すべきものであった。
彼等のうち二名だけが逃げかかっただけであった。戦車隊の中尉が四つの首をずばりと落とした。実にあざやかな腕前でその見事さに皆感心した。中尉は五人目を斬る時、皮一枚を残して斬ると言うと、又斬った。中尉の腕は確かであった。ぶらりと下がった首が、少しの肉と皮で胴についていた。十六名は目の前で斬られていくのを見ながら、何の恐怖も反抗も示さず、己の番になると一歩前へ出て、どこか楽園へでも行くように泰然自若として落ち着き従容として首を斬られていった。
実に不思議だ。あの態度は俺達には考えられない。支那人というものは何を信じて、平然と死んでいくのだろう。
驚いたのは、宮下が一人突き、二人突き、三人突いて、四人日の四十才位の頑強な大男を突こうと身構えると、彼はサッと立ち上がり、自分で胸を開き突けと言わぬばかりの態度をとった。憎悪に満ちた眼で宮下を睨み据えた。宮下は「ヤア!」と鋭く気合いをかけて銃剣を刺した。大男はばさっと倒れたが、「アッ!」と叫んで仁王立ちになった。胸から血を吹き出し乍憤怒の眼で睨みつけ「上等兵!」と絶叫した。
大男は尚も突いてみろと言わぬばかりに、両股を開き右腕を上げ仁王立ちの顔に二タリと笑った。宮下上等兵を冷嘲するが如く睨みつけてニタツとする姿は、なんとも言いようのない壮絶さで、戦友達は呆然として驚嘆した。宮下上等兵はこの凄絶な大男に日本語で上等兵!と睨み据えられて怖れ怯むかと思ったがナニ!クソウ!と叫ぶとぐさりと一突きした。さしもの剛気な仁王も倒れ血を吹いて最後を遂げた。宮下は残忍ではあるが、まさに勇士であった。仁王に負けない剛者であった。
誰もが彼を賞賛した。
蹴ったり撲ったりして引きたてた中田も山岡も、一人も殺せず、森下如きは宮下の殺した死体を、なまくらな気合いで突いたが、銃剣は僅かに一二寸肉を刺しただけで嘲笑された。戦車隊の中尉は見事に首をはねたが、我が小隊長村田少尉は一人も斬らなかった。」
野上一等兵からこの話を聞いて、やっぱり残敵が交っていたのか、その大男は敵兵であったに違いない。陣地構築の苦力に交って作業し、すべてを熟知して襲撃を計画していたに違いない。私の考えは間違いであったか?と反省する。村田小隊長が帰ってきた。
「東。やっぱり敵が交っていたぞ!宮下が突いた大男は敵の将校であろう。日本語で上等兵と叫んで宮下を睨みつけた。軍服の肩章を見て日本兵の階級がわかるのは、普通の敵兵ではない。確かに将校であり、日本語さえ知っていた。相当の地位の者であったであろう。お前の言うように奴等を解放していたら、俺達はどのような襲撃を受けたかも知れないぞ!戦友が一人でも殺されてみろ、とり返しがつかん。此処は戦場だ。安易に同情するな!」
私は返す言葉もなかった。己のとった行動感じた感情について強く反省した。
小隊長の言う通りだ。俺は間違っていた。個人的には農民に同情しても、大局的には殺さざるを得なかったのだ。
戦争は暴力の無限的行使である。戦争に於ける「宋襄の仁」ほど愚かなものはないようだ。私の浅薄な人道は宋襄の仁というべきかかの大男の股を開ろげ胸を張り右手をさし上げた、血にまみれた仁王立ちが私の頭の中で大写しされる。そして彼は私の宋襄の仁を嘲っているように思える。
そうだ。現在は流血の斗争である。俺達のなすべき事は、支那人の頭を撫ぜる事ではない。我々の手は彼等の頭を強く殴って骨の髄までめちゃめちゃに粉砕することだ。容赦なく−。だが、それのみが我々に要求されている事なのだろうか?
この戦争は、この宣戦布告なき戦争は、一面には撫ぜる必要もあるのではないか。
戦争は勝たねばならない。勝つ為には如何なる方法、武器も使用せねばならないのか?道徳も勝利への犠牲にすべきか
我々には、なんらの人情にも道徳にもわずらわされる事なく、有害であるもの、有害でありしもののすべてに対し、それから有害であるかも知れないが無害であるかも知れないものに対しても、遅疑も躊躇もなく直ちに殺戮する処の、冷ややかな人間機械であればよいのか?勝利の為には、勝利への道に少しでも邪魔であったもの、あるもの、あるかも知れないもの、の凡てに対して、思想もない、道徳も人情もない冷ややかなる精確度で働きかける一ツの殺戮機械であればよいのか?
しかし、どのような理論で覆われようとも、結局我々は人間の城を脱し得ない。
愁々たるものに涙し哀れみ、楽々たるものに輿悦し手を叩く処の人間である。
かくてよく行動をあやまらない為には、怜悧なる知性と強烈なる意志と大膽なる勇気を持たねばならない。これらが、愚かな宋襄の仁か、
玉蟲厨子の台座「捨身飼虎」のマカサッパ王子の愚であるかを、よく判断せしめ、正しい行動をとらしめるものだ。
私の今日の農民に対する同情は、一應人間としてもつともだはあるが、それはやはり間違いであった。私は勝利の為に戦っている兵士なのだ。
十六名の苦力を虐殺し終え、帰ってきた戦友達が私を責める。
お前の言う事を開いていたら、俺達がやられているぞ!と。
私には一片の言葉もない。己の愚かさを悔いるのみであった。

だが、何故に人間は悲惨と流血の斗争を繰り返すのだろう。
人類は最後には月世界に対して土地分配の要求斗争を行うのか?
私は且って、幾十日行軍しても一片の石ころ一ツ見ず、山も見ず、東の大地の果ては雲に続き、西の大地の果ては空に接し、太陽は、大地から昇り大地に沈み、果てもなく続く大地は、あらゆる人種すべての人々を包容している。歩き疲れ戦い疲れて夜になり、歩哨に立ち吐息をついて夜空を見上げる時、昼となく夜となく歩きつづけ、戦いつづける大地と、同様の或いはそれ以上のものが、幾億万となく星という名で散在し輝いている。
そして、然も玲瓏と青白く輝いている月は、私の直ぐ頭上にあるのだ。
我々が幾十日を汗にまみれ疲れにあえいで、故郷から遠く離れたと思っているのに、月は同時に双方の頭上で輝いている。
宇宙はなんという壮大、何という偉大な事よ。人類最大の雄大で偉大な仕事である戦争は、それに比し何という小さな事件でしかない事よ。
天地は悠久無限である。それに較べて我等が偉大と称する戦争は、何程の事でもないではないか、−と比較にもならず結論もつかない、とりとめのない思いに耽った事がある。
なぜ戦争をするのか?
戦争は生物生存の必然の過程か?
いとうべき必然ではないか。それが必然だとすれば憂うる事を止めよ。悲しむ事を止めよ。残虐に目を覆うことなく、力を欲し力を求め、力を得て斗争に前進するのみ。
現実は力を持つ者即ち正義なり、
正義とは力なり。
私は煙草をくゆらせ乍、とつ、おいつ考えに耽っていた。
毎日毎日一片の雲もない晴れた麗らかな日であったが、夕方突然物凄い嵐になった。
窓から眺めると異様な黒雲が空を覆っている。やがて大粒の雨が瀧のように降ってきた。
それに大きな雹が榴散弾のように落下してきた。天地が狂乱し怒涛して、地上のあらゆるすべてのものを全滅させずんぼやまぬ、というような激烈な降り方である。癇癪玉を破裂させたような雹の音、瀧の流れるような豪雨の昔が地上を満ち覆った。
それは連日の春光うららかさに較べて、ついさっきまでの太陽の輝きに較べて、思いもかけぬ極端な急変であった。
私はこの雨に先刻殺した十六名の死体が、ずぶ濡れているであろうと、丘陵の方を眺め乍ら煙草を吹かせていた。
突然、パンパンパンと十発の銃声がした。
駅員が飛び込んで来て
「敵襲らしいですぞ」と叫ぶ。
私は、フ、フーンと鼻であしらって寝ころんだまゝ、相も変わらず煙草を吸っていた。
この大雨に一歩も外へ出られるものか、まあ大した事はないだろう。と横柄に構えていた。十発の銃声が止むと、ぬうと小田上等兵が入ってきた。彼は「今日殺した十六名の外に、使役に使うつもりで残しておいた一人の苦力が、此の大嵐を利用して逃げたので早速くたばらして来た」とずぶ濡れた服の雫をはらい乍ら語った。
「ずぶ濡れになってまで、御苦労だったネ」と私は皮肉まじりに答えた。彼はその足で小隊長に手柄顔に報告に行った。
此の路王墳駅は部落も何もない所にあった。駅の東側は広い無限に続く麦畑であり、西側はなだらかな樹木ない丘陵であった。そして山に続いていた。その山の中腹に立派な宮殿のような路王の墳があった。路王がいつの時代の如何なる功績のある王様かわからないが、立派な墳墓から考えると、良い治績を残した人であったであろう。
此の地は紀元前三〇〇年春秋戦国時代に趙の国たりし所である。秦の始皇帝と勝敗角逐を争いし時代の王であろうか。
攻城野戦に奮斗した廉頗将軍とい藺相如が、今に衆口に絵炙する「刎頚の交わり」で有名な所である。
戦車隊は敵を急迫してこの路王墳駅へ来た。道路には多くの地雷が埋設してあった。
駅の近く3キロの所で一台の軽戦車が地雷にひっかかり動けなくなってしまった。
だが敵を迫撃せねばならなかったので、その戦車を捨てて走ったのであったが、戦いが一段落したので、中尉を長とする戦車兵が引き返してきて修理に従事していた。
彼等は敵に襲撃される事を怖れて、私達の小隊に宿営した。プラットホームには、彼等が乗ってきた四台のトラックと、重戦車と軽戦車が置いてあり、戦車の中には二名の兵が夜は仮眠していた。
十六名を殺した翌日私は下土哨勤務についた。私が哨所で仮眠をしていると、午前二時頃、突如として静謐な闇を破って、二発の砲声が間近に起こった。近頃の我々は神経が太くなっていて大概の事には驚かなかった。
私はやおら起きあがって耳を澄ませた。二発の砲声の後何の音もない。歩哨の報告は「闇の中で怪しい物音がして二三人歩いているような気配がした。ガチヤガチヤと銃剣のかち合う音、ゴトゴトと薬盆のすれる音、などが闇の中で起こった。誰か?と誰何したが答えず、又誰か?と呼んだが何の應答もなかった。続いて接近するような気配がした。俺は早速戦車隊に告げた。すると隊長は砲を射てと命じて、二発打ち込んだのだ。すると物音は止み敵は逃げてしまった。
それから何の物音もしなかった。
「もの音のした方向に、先日徴発した馬が木にくくられているんだだが、もしや?」と誰かが言った。私は歩哨を交替してプラットホームに立哨した。動哨しつゝ闇をすかして注意していると、ガサ、ゴトゴト、ガチャガチヤという音がしてきた。じっと耳をたてて注意深く闇をすかして見た。暗の中に馬の形がぼんやりと見えた。近よってみると馬がガサガサと前掻きをし、ガチヤガチヤとはみを噛み、ゴトゴトと鞍をゆすっていた。やっぱり馬だったのだ。繋がれた馬に神経を尖らして砲を射ったとは、さてもさてもである。私は苦笑しつゝ、ホームをしのびやかに動哨した。


三月二十四日
戦車隊の兵が徴発に行って連行してきた支那人四名を殺すことになった。
駐屯する駅附近を歩く者、徴発した荷物をかつがされて使役に使われた者、すべて殺されるのであった。路王墳駅は人間屠殺場であり我々は死神であった。今日は、私が彼等を斬るつもりであった。昨日甚だしく殺す事に抵抗し、戦友と争った私が、今日は斬る!
三名は二十才前後の青年であり、一人は四十才位の頑強な男であった。
私は彼等の上に、昨日の不屈の面魂で、仁王立ちになり宮下を睨み据えて、上等兵!と叫んだ憎むべき敵将の姿を重ねた。
宋襄の仁と冷嘲され、安易な同情と責められ、あれを思いこれを反省し深い疑問の末に、殺す事に釈然たらずも、理屈なしに斬る事が要求されているのだ、と結論して反動的に斬る決心をした。
昨日もの凄く降った豪雨は、からりと晴れて空は青く空気はすがすがしかった。
私達は鉄路に腰をかけて彼等を眺めていた。四十を越えたと思われる男は、土下座して哀願していた。彼は四十八才だと言い、私には親もあり妻もあり子供が二人あって、私の帰りを待っている。私は兵隊ではない。農民である是非とも御許しを願いたいと、三拝九拝し額を地につけて嘆願した。彼の妻は四十才だという。彼は嘆願書を紙片に書いて提出した。だが我々にはその意味はわからなかった。
誰かが彼の掌を握ってみた。
「掌が柔らかい。百姓ならゴツゴツと堅い筈だ。ピン(兵)であろう」と言った。
百姓は鍬を振っているし労働しているから掌が堅い。兵は労働していないから柔らかい。というわけだ。私達はたよりない支那語で問答したが、要領を得なかった。
若い駅員が来て問答したが、これも要領を得ずつくづく言葉の通用せぬのをはがゆく思う。嘆願書には四名連署してあった。
彼は両手をぴたりと地面につけ額をすりすりして哀願していた。よく見ていると暫くの後、彼は右手で小石を持て遊び、少し頭をもたげて眺めていた。私はこんな時終始神妙にしないで、小石をもて遊ぶとはけしからんと思い、コラッ、と叱ると又、ヘイと額を地につけた。
彼の頭は大きく、顔は三角形で、目はギロリと刃物のように鋭い。額には数本のシワが集まって陰険な感じがする。着物は襤褸、襤褸ですね坊主が丸く飛び出している。
彼の赤黒い顔は憎く憎くして好感が持てない。三名の若者の掌も柔らかかった。
三名のうちの李自然という若者は、学生軍ではないかと思われる程の、顔立ちの良い理知的な容貌であった。この若者も又、顔に似合わず襤褸の着物を着ていた。若者達は一様に阿呆のようにとぼけた風をよそおっていた。
戦争に召集されるまで巡査をしていたという伍長が、若者二人を連れて行って、柔道の稽古をするのだと、背負い投げの練習をしだした。
若者は三度四度投げられ倒れてふらふらになった。
「オィ、オィ、君の強いのはわかった。此所は道場ではないし今は稽古の時間ではない。こいつらは今から殺すんだから、同じ殺すのならあまりいじめないで殺してやろう」と私は皮肉って止めた。
再度彼等は横隊に並んで坐った。
左端の若者は頭が薄いのか馬鹿をよそおっているのか、ポカンとしていて、他の三人のように神妙にせず腰をくねらし姿勢をくずしていたので、小隊長は、生意気な奴だ、不孫な奴だと、刀尾でしたたかしばいた。すると隣に坐っている四十八才の男が、若者のいじっている小石をもぎとり何か囁いていた。さだめし若者に神妙にして嘆願しろ、とでも注意したのであろうが、村田小隊長は二人は内通していると解釈し尚更怒り出した。
言葉の通じないはがゆきの故に、心はいらつき何らの釈明も理解も出来ず、無辜の住民が甚だ多く殺されたものであった。
小一時間も訊問したが要領を得ず、良民である確証もあがらなかったので、いよいよ殺す事に決定した。昨夜小隊長は私に俺の軍刀で斬れと言っていたので、小隊長の軍刀で斬るつもりであったが、いざ斬るとなると何故か躊躇した。
小隊長は彼の軍刀が血を吸う事を嫌ったのか、曲がったり折れたりすると困ると思ったのかも知れない。或いは軍刀に血を吸わせる事は不吉でゲンが悪いと思ったのかも知れない。村田小隊長はまだ一度も戦斗を経験したことはなく、人を斬った事もなかった。彼は補充将校として中途に配属されて来たのであった。彼は与謝郡宮津市丹後由良の石材店を業とする人であった。
私はやむなく駅員の尺八寸の日本刀で斬ることにした。
四名は昨日十六名を殺した場所へ連れて行くことになった。私が駅員から日本刀を借りている時、「逃げたァ!」と鋭く叫ぶ声がした。
一人の若者が一目散に走り、その後を二三の兵と小隊長が追っていた。とっさに私も自刃を抜いて走った。土ばかりの畑は昨日の豪雨にどろんこにぬかるんで、足にたわむれ吸いついて思うように走れなかった。若者は必死の逃走である筈なのだが、ものの怪に憑かれたように無遊病者のようにふらふらと逃走していた。彼は、死神が追ってくる。しかも大勢激しく追ってくる。つかまれば死なねばならないという恐怖に、おののききっているようだ。追っ手は怒りきって気盛んであるので、足は早く刻々に接近した。つと、つまづいたのか、もつれたのか、ばたりと倒れた。起きあがって走り出したが鷲づかみになった。
目茶苦茶に帯剣でしばきあげた。彼が引っ立てられ連行されて来る時、頭から口から血を流し、血まみれになった。
私は彼の背後にまわって斬ろうとした。すると、小隊長はもっと山へ行ってからやれと言う。
「カイ(早く)ツオー(走れ)」と怒鳴り乍若者の後を迫った。
追っ手の兵隊は、
「畜生メ、走らせやがって」と息を切り乍ら怒っている。私は青年の後について彼の首に流れている血を見ているうちに、このまゝ歩いている処をバサッと斬りたい衝動にかられ、「斬る!」と叫んだ。
「まて!もっと上へ登ってから」と隊長は止めた。
やがて我々は昨日殺した死体の転がっている近くへ来た。
私は鞘におさめていた刀をずらりと抜いた。戦友が若者の首にしめた帯を解き上衣をぬがす。私は立姿を斬る方が斬り易いと思ったが、戦友達は座らせてやれと言い座らせた。間一髪、エイ!と鋭い気合いと共に刀を打ちおろした。
刀で人の首を斬る、という事は生まれて初めての事である。刀を打ちおろす瞬間、その瞬間に私は目を閉じたように思った。
刀を斬り下ろすと共に、刀を手前にサッと引いたので、私の姿態は斜になり若者の殪れるのを見なかった。私の後ろに島田三郎一等兵が居て、(丹後由良出)「アツ、上すぎたァ!」と叫んだので振り向くと、若者は前にのめって息たえだえとなり、耳の少し上の後頭部が半分程斬れ斬り口からピューと細い噴水のように血が五、六寸噴出していた。ざくろの割れたような真赤な斬り口が、ぱくつと二つに割れていた。若者は斬られた瞬間にも一声も発しなかった。斬る瞬間は何とも思わず無想であったが、ざくろの如き割れた血みどろの斬り口を見た時、ふと、嫌な思いがした。私は頭を斬ったのではあるが腕に自信がついた。私の気力と気合いは鋭かった。斬る時無想であった。私の傍に居た井沢上等兵は、気合いにギクッとしたと語った。
二人日は綺麗に首を落とすことが出来た。
三人日は野田一等兵が斬ったが、ほんの一寸足らずで斬っただけであった。斬られた若者がもがき苦しんだので、やむなく他の兵が二三人で突き殺した。四十八才の男は泣き叫び乍命乞いをしててごずらせたので、逃がして背後から射殺すべく逃げろと言ったが、逃げもせずいつまでも泣き叫んで哀れみを乞うた。
「そのまゝ射ち殺せ」と小隊長が命じた。
昨日から合計二十名。二十人の死体が丘陵の中腹に点々と転がった。
これが第一小隊員の一名戦死、七名負傷への代償であった。その外にも殺された。


三月廿五日
太郎ももはや兄の死を忘れたかのように、すっかり子供らしく明朗になって、おけさ節を唄ったりした。私は寝台の下に彼をもぐらせて寝かせ、寝物語におけさ節を教えた。
我々が酔ってぐっすり寝ていると、朝四時頃「信号弾が上ったから斥侯に行け」と命じられた。起きてみると戦車隊員は武装していた。
「歩哨、どの方向に信号弾が上がったんか」
「山の方向だ」
戦車隊から一名、第三小隊から川上上等兵が歩哨に立っていた。
「然しネ、東、信号弾のようでもないんだが……青白いような赤いような火が、山の中腹あたりを横にも尾を引いて流れ、すうと細くなって消えたんだよ。この人は(戦車隊の歩哨を指して)信号弾だと言うのだが、俺はそうとも思えない。が、しかし、とに角普通の火ではない。怪しい火ではあるがー」と山を見つめ、川上上等兵は言った。
「では、流れ星だったんだろう」
「いや流れ星でない事は確かだ。」
「とに角偵察してくる。一時間足らずで帰ってくるから、気をつけていてくれ」と川上に言うと四名を連れ、鉄条網の切れ目から出て、鉄路をよぎって山の方向に歩いた。畑を通り抜け狭い道を登った。
道は月明かりであかるかった。私達は黙って歩いた。銃剣が白く光っている。
にぷい靴音だけが静寂な丘陵にバサバサと消える。しばらく歩くと左側に死体が一つ転がっている。昨日の午後殺した奴だ。
十五、六メートル行くと右側に死体が三つ転がっている。私の斬った奴もガクリと地に伏せている。昨日殺したばかりの生々しい死体だ。私の殺したのは見たくなかった。
死にぎわの悪かった四十八才の男が、大きなずう体をひっくり返している。
月光が彼のみにくい顔にじろりじろりと光っている。昨日の午後三時まで、今から十三時間前まで生きていた奴らである。
親がある妻がある子が二人もあると、しぶとく命乞いをしていた此の大男も、今は冷たく夜露にぬれ月光が死体を照らしている。
夫の帰りを待つ妻、父親の帰りを待つ二人の子供、我が子を待つ両親は彼の死を知らないであろう。人の世の情を思うと哀れになってくる。
凹凸の激しい道になった。道は段々急な登りになって稜線へ出た。
野犬がウォーウォーと遠い闇の中で恥る。北支那という所は野犬の多い所だ。
飼われていたのが、戦争で主を失い野生化したのだろう。
稜線へ出ると一昨日殺した死体が転がっている。死体の傍を通り次の稜線へ登る。
稜線はいくつもいくつも続いた。通ってきた下の方はすっかり暗い闇の中に消えて、茫漠として広がっていた。
空には無数の星がキラキラと燦めき、三ケ月が女王のように、にぶい光芒を放っている。私達は山の八分目程登ったが敵影は見えなかった。何の異常も無いようである。
冷え冷えとした山膚が闇の中に消え、地下のような静寂の世界に星と月がきらめき照っているだけである。時々野犬が恥ているだけである。
「なんの異常もないようだなァ」
「異常ない」
「やっぱり流れ星だったのか」
「しかし、川上は流星でない事は確かだと言ったし、青白いような赤いような火が、横に尾を引いて流れすうと細くなって消えた。と言ったが、すると、所謂火の玉て奴かも?」
「火の玉?そうかもなあ……」
「燐がもえるという事もあるからひょっとすると死体を犬がくわえて走らて、燐が燃えんじゃないかネ」
「幽霊か、昨日殺したニイコの幽霊か。ナムアミグブツー」
「なんだ。なんだ。気色の悪い事を言うなよ」
「ナムアミダプツ」
「やめろ、茶めんと考えろ、気色ワルイー」
「では帰りに数えよう。死体が二十あればよいんだ。」私達は登ってきた道を降り出した。
「大体、昨日の大嵐は不思議だよ、何ヶ月も晴天続きで春になっているのに、雹が降るなんて」
「神、二イコの死をあわれみ給い、雹を降らせ死を悼み泣きたまいぬ」
「じゃれるなよ。だが、確かにそんな感じもちょいとする。あまりにも突然だったし、あまりにも気違いじみた嵐の急変だったから」
「すると、二十名は俺達を恨んでいるのか」
「勿論だよ、殊に東はうらまれていようぜ、この中で殺したのは東だけだから」
「何を言っとるんだ。俺の殺した奴は脳髄を叩き割ってあるから何も思ってやしないヨ。」
私はふと。ざくろのような血みどろの割れ口から、血が噴出している様が目にちらついて嫌な思いがした。
だが誰も何の恐怖も感じていない。戦争なればこそである。
やがて我々は一昨日殺した十六名の死体の所へ着いた。一つ、二つ、三つ…………・十六。やっぱり十六ある。首が横向いたり下を向いたり仰向いたりして、ごろごろと転がっている。首の無い胴体が虚空をつかんで殪れている。突き殺された死体が何気なく放り出されたポロ切れのように転がっている。
上等兵!と宮下に目をむいて叫んで、にたりと笑ったという大男が、地獄でも大暴れに暴れているといった風に乱暴に横倒しになっている。
どの死体も大地に吸いつけられたように動かない。にぶい月光が死体にまつわりついている。
「異常ない。十六ある。」
私達は又黙って降りた。下の稜線に四名の死体がある。私の斬った若者が、がくりと伏せている。後頭部は割れ目が夜目にも赤黒い。私はつと目を閉じた。俺が斬った奴だ。
なにかしら見たくない。
「帰ろう」私はそう言うと歩き出した。瞼にざくろのような割れ目がちらつく。なんとなく声が出したくなった。声を出せば不気味が消える。
「おけさを唄おう」と私は言った。
みんな一斉におけさ節を唄い出した。
静寂な夜の山々に、おけさ節がしじまを破って消える。
一節がやんだ。
又、私の頭に、ざくろのような割れ目がちらつく。
又、おけさを唄う。
やがて歩哨の位置に着いた。
「何の異常もなかったよ」
「では、やっぱり火の玉だったのか」
私達は二人の歩哨が見たという怪しい火を人魂ときめて寝についた。(完)







(1)『南京事件』(笠原十九司・岩波新書・1997)
(2)『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫・1999)
(3)『わが南京プラトーン』(東史郎・青木書店・1987)
(4)『隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1987)
(5)『続・隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1988)
(6)『中国の旅』(本多勝一・朝日文庫・1981)
(7)『南京への道』(本多勝一・朝日文庫・1989)
(8)『福知山連隊史』(編纂委員会・昭和50)
(9)『舞I地方引揚援護局史』(厚生省・昭和36)
(10)『京都の戦争遺跡をめぐる』(戦争展実行委・1991)
(11)『なぜ加害を語るのか』(熊谷伸一郎・岩波ブックレット)
(12)『新版南京大虐殺』(藤原彰・岩波ブックレット)
(13)『完全版 三光』(中帰連・晩聲社・1984)
(14)






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 福知山二十連隊と南京事件
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