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久畑(くばた)
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久畑の概要《久畑の概要》 出石川の上流域で、出石・福知山道の宿場町として繁栄したという。出石川と薬王寺川が合流する。 ![]() 同道は当地で東に折れて薬王寺川沿いに進み、大河内村を経て登尾峠を越え、丹波国天田郡上佐々木村(福知山市)に至った(国道426号)。また出石川沿いに南下を続けると、小坂村を経て小坂峠を越え、直見村(夜久野町)に至る道(県道63)や、薬王寺村で出石・福知山道から分れ、神懸峠越で雲原村(福知山市)に至る道(県道63)もあって、交通の要衝にあたり、出石藩関所も設置されていた。 小坂峠-当地-神懸峠とつなぐ道は、西国三十三所二七番の播磨国書写山円教寺(姫路市)から同二八番の丹後国成相寺(宮津市)へと向かう観音霊場巡りの道でもあった。 永禄9年(1566)に没した夜久重聴の6月10日付の八木殿宛書状草案に「能美殿久畑へ御越之由候」とみえ、年未詳6月6日付の立脇左衛門・新左衛門宛山城性重書状にも、宛先の両人が「久畑へ御越之由承候」とみえる。当地へきた目的まではわからないが、当地が宿場町として地域の中心的役割をもち始めていたのであろうという。 安永元年(1772)の諸色覚書に「久畑御蔵」とみえ、出石藩の御蔵が置かれていた。その規模は表30間・表堀内15間・裏26間・裏堀内22間であったが、設置場所は不明。宿屋を営んでいる家もあった。また出石藩の本陣も設けられ、安政2年(1855)に藩役人が本陣を見分(御用部屋日記)、本陣を勤めた小山家には「出石藩宿陣」「京極飛騨守宿」「仙石讃岐守奥泊」などと記された表札や屋敷見取図が現存する。 久畑村は、江戸期~明治22年の村。江戸期は久畑市場村とも称した。但馬国出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年からは出石藩領。当地は古くから宿場町として栄え、久畑茶が多く採取されていた。明治22年高橋村の大字となる。高橋村の中心地。 久畑は、明治22年~現在の大字名。はじめ高橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。 高橋小学校跡↓(23相橋校と統合となり廃校となった) ![]() 中世の 出石川上流にあったと推定され、「但馬考」は佐田・久畑(久畑市場)・後・中・小坂の五村を「片野庄と云」としている。讃岐国崇徳院御影堂(香川県坂出市)領。建長8年(1256)9月29日付の崇徳院御影堂領目録(華頂要略)に「但馬国片野庄」と記される。弘安8年(1285)の但馬国太田文には「片野庄 三十九丁二反三百分」とみえ、「崇徳院御影堂領」「領家二位律師」と注記があり、また「不出注文之間、任古帳注進之」と記される。崇徳院御影堂は讃岐国白峰(坂出市)の御陵の傍らにあり、建久2年(1191)に朝廷によって建立されているが、当庄が同院領となった経緯は未詳。領家の二位律師についても未詳。次いで徳治2年(1307)5月25日洞院公賢が「片野庄事璋玄法印申之趣」について後宇多上皇に奏上し、「先聴断、可有其沙汰」との「仰」を受けているが、具体的な内容はわからない。正中3年(1326)2月には、後醍醐天皇綸旨により崇徳院御影堂領として、当庄は改めて安堵されている。 南北朝時代の当庄の下司は志津田彦三郎入道、公文は当麻三郎左衛門尉で、ともに「当国本御家人」であった。しかし貞和4年(1348)二人とも但馬国大高山凶徒(南朝方)与同輩として所領は没収され、跡地は同年12月27日付の足利尊氏下文(案)によって門真左衛門尉寂意に与えられ、翌5年5月28日付で当庄下司・公文両職等が寂意代快尊に打渡された。門真寂意はその姓から河内国門真(大阪府門真市)を本貫地とする国人と思われ、当庄のほか同じく志津田氏・当麻氏の跡地である雀岐庄栗尾・平田・増法寺・小谷各村なども得ており、平田村・増法寺村・小谷村では領家職をも押領したとして、領家坊門為名家から訴えられている。闕所とされた志津田氏に連なるとみられ、同じく「御敵張本」として所領を没収された明覚も訴えられており、当庄下司・公文職もこの相論にかかわっていた可能性があるが、相論の経過については史料を欠き明らかではない。そして当庄自体も、この後史料は伝わらない。門真氏が当庄や雀岐庄で土着した形跡はないが、一方、当庄も庄園としては消滅したのであろうという。 《久畑の人口・世帯数》 116・43 《久畑の主な社寺など》 ![]() ![]() 国道426号に面して鎮座する弌宮神社。鎮守の杜がスバラシイ 欅の巨木↓ ![]() このあたりの神社はどこも立派な神木がある。神社はこれでなくては、の感を深めるのだが、当社は圧巻で、これが日本の神社だ、これが日本の森だ、の見本のようなもの。県の天然記念物指定を受けている 兵庫県指定天然記念物 弌宮神社のケヤキの森
当社の社叢はケヤキ(9本)、スギ(2本)、エノキ、ムクノキ、イチョウ(各1本)などの大木が茂り、県指定天然記念物。ケヤキは最大のもの(上の写真)で樹高約35メートル、根回り10・9メートルにも達し、ほかの8本の樹高も約25-35メートルある。所在地 兵庫県出石郡但東町久畑字宮ノ市八七五番地 所有者 弌宮神社(管理者 久畑区、佐田区) 指定年月日 昭和六一年三月二五日 兵庫県指定 概要 弌宮神社の境内には九本の:ケヤキがあり、最も大きなもので樹高三五メートル、目通り幹周り七メートル、推定樹齢五〇〇年になる。また敷地内にはエノキ、ムクノキ、イチョウ、スギなどが自生しており、豊かな鎮守の森を形成している。これほど多くの巨木がまとまって自生している場所は希少性が高く、群生林として文化財に指定し保護していくものである。 平成一七年一月 但東町教育委員会 ![]() 当村はかつて薬王寺村大生部兵主神社の氏子であったが、天正年間(1573-92)に同社の氏子を離れ、一宮神社を祀った。享保9年(1724)に社殿を改築、文政10年(1827)には拝殿を再建している。 境内に大兵庫開拓団345名の集団入水自決の殉難者之碑↓がある。 ![]() ![]() ![]() 「昭和十九年三月大兵庫開拓團員四七六名満洲浜江省蘭西縣北安村双合屯ニ入植シ昭和二十年八月十七日三四五名入水自決ス …(その名が書かれている)… 昭和二十八年三月 高橋村建之」と記されている。 ![]() ![]() ![]() 関所跡の下側に庚申塔がある、この前の道が参道で、裏山の頂上にある。 ![]() ![]() ![]() 『但東町誌』 松谷山 光蓮寺 (久畑)
旧街道に面してある、一宮の向かいあたり。創立木端法師の開基にして眞言宗である。古時、後村に在り、貞享四丁丙九月久畑市場村へ移転し、説導に奉仕す。のち眞宗となる。初めて寺号本佛を本寺(出石福成寺)より免許、光蓮寺開山とす。明治四年三月出石藩の命により小坂の眞宗乗專寺と合併せしめられ、同年七月離れて復旧し現在に至る。 (古文書及び宝永三年久畑村差出帳による。「但馬考」。) ![]() 源信作と伝える阿弥陀如来坐像(高さ85センチ)が祀られている。 《交通》 ![]() ![]() 『但東町誌』 次の写真は久畑に設けられた久畑宿陣趾の碑である。
背景の森は一宮神社。碑の後は小高くなっている、ここに「老人憩いの家」があったようだが、今はない。参勤交代の道中、殿様がここに泊まられた。近世における久畑村は江戸時代京街道として藩主参勤交代の通路で、廃藩当時まで宿陣であり、後世に伝えるため、宿陣趾に昭和四七年一〇月但東町教育委員会が記念碑を建てられたものである。またこれらの宿陣を示す宿札や見取図が残っている。次頁は宿陣屋敷図並宿札である。江戸時代藩主参勤交代の通路にあった宿陣には、廃藩当時までは、駅名を附し宿陣は一宮神社の側で、現在の町立「老人憩いの家」の地で、宿陣は現在の小山芳彦氏の先祖の家である。宿札は藩主及奥方等の宿泊のしるしとして使用したもの。屋敷図は宿陣当時の見取図である。 ![]() 宿陣跡の200メートルほど先、国道426号沿いにある。国道に関所跡の案内板がある。 ![]() これが旧街道↑ 「桂小五郎ゆかりの久畑関所跡」↑案内板がある。 ![]() 維新史跡 出石藩関所跡の石碑類↑ オマエは但馬出身と名乗るが、但馬弁ではないでないか。 いや、彼は、但馬と申しましても、居組の者で御座います、但馬では御座いますが、因幡国と国境の者で御座いますので、あちらの訛りのほうが強いので御座います。。 フン、アヤシイ。しかし甚助が申すのだから、見逃してやっか… 居組は古くは二方国で、但馬国ではなかった。逃げの小五郎、今回も逃げ果せた。 ![]() 丹波を経て、出石藩領へ・・・。 その関所・久畑にて尋問を受けあわや捕らえられようとしているところを、甚助は「この者は居組村の者で、私の雇い船頭で大阪で発病したので連れ帰ることにしました。」と釈明した。 尋問に当たった藩士・長岡市兵衛は甚助と面識があったこともあり、無事関所を通過することが出来ました。 偉業を成し遂げる人は目には見えぬ運命の意図に恵まれているように思います。 神が憑いている… 元治元年(1864)禁門の変を受けて出石藩は当地の関所に対して「此度京都散乱の余党万々一落業候程、難渋に付往来厳重相糺入念候様」と通達し、取締強化のためにケーベル銃二挺を「玉薬相添え差遣」している。 同年7月、蛤御門の変で敗れた桂小五郎(木戸孝允)は新撰組に追求され、出石に逃れるとき、当出石藩久畑関所で捕らわれそうになったが、同道の広戸甚助の機転で逃れている。広戸甚助は出石の津島藩出入りの商人、彼やその弟の世話で出石に潜伏した。 一番背の高い石碑の碑文 元治甲子七月京師蛤御門ノ戦二敗レ長藩士桂小五郎(后木戸孝充ト改ム)幕府新撰組ノ追及ヲ遁レ出石二落チ行ク途中此ノ関所ヲ通過セントシテ関吏ノ疑フ所トナリ将二捕レントセシモ広戸甚助百方弁解危難ヲ免カレタル史跡当時ノ関吏ハ出石藩士長岡市兵衛、高田十郎左衛門関所二使用シタルハ民家浅田品太郎ノ家屋ナリ
ハラハラの史劇の演じられた関所跡。静かな、猫の子一匹いない、手入れのよい公園になっている。 旧街道↓ 現国道426号↓ ![]() 左手の山裾をいく道が↓旧街道 ![]() 阿弥陀庵がこの旧街道↑沿いにあるらしいが、行かないことにした。対向車があれば逃げ場がなさそうである。 《産業》 《姓氏・人物》 久畑の主な歴史記録久畑の伝説![]() 久畑の小字一覧関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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