丹後の地名 若狭版



旧・高橋村(たかはしむら)
兵庫県豊岡市但東町


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兵庫県豊岡市但東町旧・高橋村(薬王寺・大河内・久畑・後・東中・小坂・佐田・栗尾・平田・正法寺)

兵庫県出石郡但東町薬王寺・大河内・久畑・後・東中・小坂・佐田・栗尾・平田・正法寺

兵庫県出石郡高橋村

旧・高橋村の概要




《旧・高橋村の概要》

高橋郷
円山川支流出石川上流域に位置する。出石川上流域と支流の河本川・佐々木川の流域を主とし、出石郡の南東部の山間地。
古代の但馬国出石郡高橋郷。「和名抄」但馬国出石郡七郷の1つ。東急本の訓は「多加波之」。近世の「但馬考」は,河本・西谷・天谷・小谷・佐々木・相田・正法寺・平田・栗尾・佐田・久畑・後・中・小坂・薬王寺・大河内の諸村を当郷とする。出石郡司高橋臣義成の食封の地であったことが、郷名の由来という(但馬秘鍵抄・県神社誌下)。郷域内の但東町河本に鎮座する式内社手谷神社は、高橋臣義成がその祖大彦命を祀ったものとされる。平安末期に郷域は再編され、高橋荘・雀岐荘・片野荘などが成立した。出石町袴狭遺跡出土木簡に「但馬郡出石郡高椅里長□□□」がある。

高橋荘
高橋郷は高橋荘(聖護院領)・雀岐荘(法勝寺領)・片野荘(聖護院領)に分かれ、旧埴野郷は土野荘のほか、矢根荘(賀茂社領)になったと考えられる。皇室関係の所領が大部分を占めることから、当町域の多くが院政期に成立したものと見られる。

高橋村は、明治22年~昭和31年の出石郡の自治体名。薬王寺・大河内・久畑・後・東中・小坂・佐田・栗尾・平田・正法寺の10か村が合併して成立。旧村名を継承した10大字を編成。明治24年の戸数624、人口は男1. 538 ・ 女1. 510 。第2次大戦中、当村から満州への分村移民が行われた。
昭和31年但東町の一部となり、10大字は同町の大字に継承。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


旧・高橋村の主な歴史記録

『但東町誌』
町村制下の旧三村の発足
1、村行政の発足
 法制的には明治二一年に市制、町村制がしかれ、二三年には府県制郡制がしかれた。しかし、実際には二九年七月になって但馬八郡は統合され、出石・城崎・美方・養父・朝来の五郡となり、内務大臣-府県知事-郡長-町村長の行政体系が確立されるまで、出石郡の奥三村、合橋・高橋・資母は、ほぼ旧藩時代の村方
の制度が、徐々に新しい町村制に組織化されていったといえる。

 「町村制」施行当時の新旧村(明治二二年)
新村名     旧     村     名
合橋村 唐川村、三原村、出合村、南尾村、小谷村、相田村、佐々木村、天谷村、西谷村、河本村、日殿村、出合市場村、口矢根村、奥矢根村、畑村、水石村(一六)
高橋村 薬王寺村、大河内村、久畑村、後村、東中村、小坂村、佐田村、栗尾村、平田村、正法寺村(一〇)
資母村 奥藤ケ森村、中藤ケ森村、口藤ケ森村、虫生村、坂野村、高龍寺村、西野々村、太田村、木村、東里村、日向村、中山村、畑山村、坂津村、赤花村、奥赤花村(一六)
〔注〕、一、大正六年の「土地の名称変更」施行により旧村名の「村」が除かれた。
二、同時に「口矢根」を「矢根」に「奥藤ケ森」「中藤ケ森」「口藤ケ森」の「ヶ森」も除かれた。
三、かくて旧村名は、大字名として新村を構成し、町村合併にいたり、こんにちに及んでいる。
 行政史としての町の歴史は、旧三村の役場の成立から初まり、町村制の施行による旧合橋・高橋・資母村という村政の発足から始まる。したがってまず新しく出発した、各村の行政事務の出発点からみよう。
 早急に町村制の公布により、近代的な自治行政団体として出発した各村は、まずその事務所の確保から始めねばならなかった。このため例えば旧資母村の場合をみても、旧戸長役場が中山に置かれたが、別段日常の恒常的行政事務があったわけでなく、役場そのものよりも、学校令による小学校の設置の方が先行し、まず明治六年(一八七三)中山校を開設し、続いて太田校を、七年赤花校を、八年中藤校を開設している。かくして一二年に出石郡第五戸長役場としての役場を中山に置いている。そして二二年に戸長役場を廃正し、資母村役場に改称した後も、旧戸長役場で執務していた。そして村議会を二階で開くことのできる村役場を新築したのは、明治三二年三月のことであった。
 また、高橋村では後にみるように、明治二二年五月久畑の光蓮寺で第一回の村議会を開いている。このように役場の建設は、学校や郵便局・巡査駐在所の建設よりもおくれて発足していることが知られる。そしてその村の行政の具体的進行も、それぞれ異っているのである。
 町村制施行以来の各村の行政記録は、法令の定めるところにより、例えば村議会の議事録や予算、決算書等の記録が整備され、保存することが義務づけられるようになった。また、年一回上級行政機関の長に報告する「事務報告書」は、当時の各村役場の行政事務の概要を知りうる公的な文書記録として、今も残っている。いまこれらの文書によって、当時の各村の行政事務の概要を語らしめるとすれば、凡そ次のようである。
まず旧高橋村からみよう。
2、高橋村第一回議会議事録
 明治二二年の高橋村村会議事録をみれば次のようである。…
3、高橋村の発足とその事務状況
  明治二三年高橋村事務報告の概要


大兵庫開拓団の悲劇
但東町史に永久に火の文字で特筆されねばならない善良町民の痛恨の悲史

「殉難者之碑」(久畑一宮神社境内)
戦争最終末の1945年(昭和20年)8月17日、満州国浜江省蘭西県北安村(哈爾浜の近く)において、避難行動中に現住民の攻撃を受けてホラン川に入水集団自決して死亡した「第13次大兵庫開拓団」(高橋村中心)298人をはじめとする、日本国外で死亡した開拓団員345人の慰霊碑。1953年(昭和28年)3月、高橋村によりに建立された。
第13次大兵庫開拓団員は103世帯434名(幼児や子供も含めて)とされる、その8割が犠牲となった。昭和19年3月21日豊岡駅出発。一方的な負け戦になっていく時であった。
満蒙開拓団高橋村の場合」参照

『但東町誌』
大兵庫開拓団の満州分村
 昭和一九年大平洋戦争の戦局漸く不利となった三月、高橋村を中心に結成された「大兵庫開拓団」の本隊員四四三人は、満州国浜江雀蘭西県北安村に、悲劇の分村計画による移住を行った。この『国策に散った開拓団』(昭和五○年町教委刊)の送出と引揚げの事実は、但東町史にも永久に特筆されねばならない善良な町民の痛恨の悲史となった。まずその当時の背景からみよう。
 満州事変以来わが国の満州開拓は、わが国の発展を東亜の広域経済に求めようとする海外発展政策の拠点になった。この頃から東亜共栄圈という言葉が用いられ、日満共栄圈という言葉も盛んに使われるようになった。満州への分村計画は、この満州経営政策と、日本本土の農業経営規模の拡大、農家経済の安定、食糧自給確保政策とが結合された基本国策となったのである。地主制下の国内農業の安定のための適正経営規模の創出は困難で、海外移民と満蒙開拓と満州への人口分散計画より他はなく、それ等は、農林省で戦時下に計画立案された。満州移民のための満蒙開拓義勇団の編成、青少年義勇軍の訓練(内原訓練所)等は最も精力的に行われ、前述の経済更正運動と共に早くも長野、山形等の山村で具体的な分村分郷計画が進められ、模範にされた。これらを第一次計画として既に第一二次集団開拓移民計画が「分村(分郷)計画」の形で進められつつあったのである。
 その第一三次集団開拓団選出計画は、兵庫県を中心として計画され、具体的には氷上、三原、佐用、美方、出石の諸郡が予定されていた。昭和一七年八月、満州への分村事業促進協議会と、それに伴う講習会が出石町昌念寺で開催され、これに高橋村長大月敏三が出席し、感動したことから、この問題は急激に高橋村を中心として具体化することとなったのである。(「国策に散った開拓団の夢」一二頁」)
 この八月二〇日から二一日に亘る協議会と講習会の主旨と内容は次のようであった。
 目的は満州開拓特に分村計画運動の具体的参加者を募集するにあり、この事業は「満州国の農業開発を以て東亜新秩序建設の拠点培養に寄与する」と共に、「内地における農業生産組織を再編成し、農業生産性の向上(就中食糧増産自給確保)と零細農家の規模拡大、生活安定確保を期するため」の非常時下の喫緊の要務とされた。それを各指導機関の理解と連携によって具体的に実現しようとする計画であった。
 また、協議並びに講習科目は次のようであった。
 (一) 農村再編成の方向とその対策
 (二) 安定農家適正規模に関する件
 (三) 分村計画樹立指導に関する件
  1 分村事業と兵庫県における今後の計画
  2 入植形態とその手続
  3 分村計画設定方法
  4 開拓地の建設方法
 (四) 分村事業促進に関する件
 講師は県及び県郡農会関係職員であった。また、当日の郡内の参集者は各種団体役職員、町村長以下全吏員、国民学校青年学校全職員、町村翼賛壮年団幹部で時局下のよくある普通の協議会であり、講習会であった。しかし、この会合で、第一三次大兵庫開拓団に対する予備概念が造成され、分村計画の伏線となったといえる。
 その年の一一月大東亜省が設置され、開拓農家の送出計画も総合的に大東亜省に移り、農家三二万戸を満州に送るという尨大な五ヵ年計画が立案された。続いて翌昭和一八年二月、出石町で県農会主催の興亜運動推進大会が開かれた。前述大東亜省の計画に基き、既に昭和一八年度三〇〇村を指定することとなっており兵庫県下では、従来他県の実績から見ても純朴な人口圧の高い農山村が選定され成功している例にかんがみ出石郡、美方郡等が照準されたことは当然であった。そして遂にこの二月の興亜運動推進大会で、第一三次兵庫開拓団を、出石郡で組織することが決定されてしまった。もちろんその背景には時局の厳しい推移と、戦時下の狂ほしい国家主義精神の強調があった。この大会での決定に従って、この月の一五日本部の分郷開拓団建設事業の現地調査が行われ、約二〇日間に亘って中易寛、岩破平右衛門、倉橋誠一の三氏が現地を調査し帰国、三月一四目視察報告を兼ね、分郷開拓団建設協議会が開催された。
 しかし、老幼男女を加え全家族を極寒の満州に送出することは容易に全員の同意を得ることの困難な事業であった。このため昭和一八年度の出石郡における満州開拓事業実施の指導要項を見るに、まず郡全体として推進員を養成するため各町村より一〇人程度の推進指導員を選定し、その錬成講習会を開く。次いで町村吏員の講習会を、また、各町村で全村教育を徹底せしめることとし、国民学校、青年学校はもちろん「女子拓植運動」の展開のため女子指導者講習会が開かれた。また、各種団体の講習会、開拓雑誌の購読、転業者の帰農、現地の満州開拓予定地、茨城にある内原訓練所の視察及びその視察報告会が開催された。とくに資母、高橋、合橋においては、団長の現地調査、推進員の現地、先進県(既に分村を行っていた)視察等が要請され、
 イ、村会における分村計画の議決
 口、中心人物の現地派遣
 ハ、学校、青少年団、部落婦人会への教育
等が重点的に行われた。
 すなわち二月の現地視察に次いで、同年四月、満州国浜江省(開拓予定地)にプルフ農法伝習生三名を送り視察せしめ、七月には開拓団推進委員一〇名が任命され、まず茨城県の内原訓練所(加藤完治所長)に入所し訓練を受けた。
 昭和一八年九月二七日、農林省は高橋村を正式に皇国標準農材に指定、同日村民大会が開かれ、単独分村による満州移民選出を決議し、団名、戸数、幹部編成が成立してしまった。まことにあっという間の出来事であったといえる。
 一二月一八日には開拓特別指導事業費の助成金として一、〇〇〇円が交付され、また、高橋村も残留家族の扶助規定、一世帯一人一日五○銭、五人家族で一円三〇銭を支給すること等を決めた。また、満州開拓者にはゲートル地下足袋等衣料品が配給され、渡満家族中の他出者は、それぞれ家族と共に渡満のための解雇を申請した。
 また、開拓地での満州生活料理講習会が開催され、渡満開拓団員の手荷物等の輸送準備や同行する開拓地の教師、医師等も決定された。
 昭和一九年一月先遣隊一一名出発、続いて二月補助先遣隊二二名出発、三月二一目本隊四四三名が故郷を去り、満州に向ったと記録されている。
 しかし「国策に散った開拓団の夢」の資料によってみても一九年三月の渡満者の予定は団員七〇、準団員二、男大人四四人、女大人一二八人、六才~一三才まで一一一人、五才以下五二人、計四〇七人となっており、三月二日付の文書では三月二一日豊岡駅発一〇〇名は山陰廻り下関行、一六〇名は播但線姫路廻り下関行、残余の団員は四月一日より五日までに出発予定とされていた。
 また、三月二一日豊岡駅発数森助役引率で山陽線~関釜連絡船、北朝鮮の安東経由の渡満者名簿では、大人一一三人、小供四七人、幼児三三人、計一九三人となっており、翌四月豊岡駅出発、小山書記引率の渡満者名簿では、大人五八人、子供一四人、幼児一〇人、計八二人となっていた。さらに四月二八日、大橋喜之助を引率者として、豊岡発同じコースでハルビンに向っだ渡満者は、大人二四人、小供二人、幼児四人、計三〇人となっている。この合計で三〇四人である。これに先遣隊、出発者を加えたものが渡満分村者の合計となるわけである。したがって「第一三次開拓渡満者名簿」によると、一〇三世帯四三四人となっている。旧高橋村にとっては、村民の大移動となったわけである。これによって母村である高橋村の部落別戸数はどのようになったか、「戸数より算出した適正農家戸数」によってみれば、次表のようである。
 すなわち、平田、栗尾、久畑のような大きい部落と、小さい部落とでは異るが、高橋村全体からみれば、総戸数五一二戸、農外戸数三〇戸、農家戸数四八二戸のうち渡満分村戸数は八四戸、全体戸数は三九八戸となり、当時の言葉での人口圧というか、戸数圧は大いに減少されたことになる。そのうえに過小農五八、兼業農が八二戸あり、それらに渡満者の農家の戸数を配分すると、いわゆる「適正規模農家戸数」は二三九戸となる計算となったというのである。
 また、これら分村渡満者の世帯に対する補助援助については「高橋村満州分村開拓規定」に基づいて、渡満者には一戸当り五百円の奨励金が交付され、残留家族には前述の扶助金を交付し、渡満者の財産処理は特別評価委員が評価し、家屋の見積二〇〇円以下は八割、二〇〇円以上は超過額の二割を加算して交付し、負債は整理し、財産処理金と差引き、余りは開拓者に交付し、財産管理の委託の申出については「共同収益地設置計画」に組入れ管理する。等が定められ、それにより故郷の財産と負債を整理して渡満したのである。また、全戸を挙げて参加する世帯には五百円、一ヵ年家族を残し単身渡満者に対し三五○円(渡満時半分、家族招致の際半分)準団員は二五〇円、一家より二戸として参加するものは一戸分五OO円(準団員が全家参加するものも同じ)帰農して参加するものには二〇円、他町村よりも縁故関係で参加するのには、一〇円の「銭別」が村から送られた。また、満州における農耕地は団地三、九〇〇町歩、既耕地畑一、三○○町歩、田一〇〇町歩、未耕地二、〇〇〇町歩、植林地三〇〇町歩、牧場二〇〇町歩を各班に別れて共同耕作し、住宅は旧民家を改造して入居し、一戸当平均は一二坪であった。また、家畜は馬二二〇頭、豚四〇〇頭、鶏一、八〇〇羽を飼養することとし、共同施設として共同倉庫三棟、共同浴場五棟、加工場一棟、他に小学校と診療所を建設する予定となっていた。渡満開拓者は高橋村の分村としてこれらの広大な土地を耕作し、米は自給用とし、大豆、高梁、麦、小豆、馬れいしょを栽培し、開拓が完了すれば広大な土地はそれぞれ各戸に配分されることを信じ、それに希望をもって渡満したのであった。
 これら分村計画による渡満者の輸送報告によれば、昭和一九年三月二一日豊岡駅を出発した一九八名の開拓団員とその家族は、一〇台の貨物自動車に分乗、三月の春霧の中を出発、豊岡駅前で分隊の整理を行い、一二時豊岡駅発、一五時姫路駅着、城南国民学校で休憩、一七時三○分姫路駅を出発したが満員で六〇名乗車できず乗り遅れ者が出て、何人乗り遅れたかも調査できなかったという。

 三月二二目下関着、直ちに乗船、全員船酔いに悩まされ、一八時半釡山着、開拓団用列車来ず、乗り遅れ者の到着を待ち、全員会館に泊る。二四日釜山発し二五日一六時二〇分安東着。二六日朝八時奉天着、二三時ハルピンに着き、満拓会館泊、二七日も満拓会館滞在、二八日肇東着、貨物自動車で行程一三里の現地に向い、更に一里余り歩いて浜江省蘭西県北安村の開拓地に入り、それぞれは村の名をつけた開拓地大河内、平田、東中、栗尾、佐田、正法寺、小坂の各部落、やや離れて久畑、薬王寺の部落に分れて開拓に従事することとなったのである。その大兵庫高橋村開拓田部落の見取図は次図のようであった。また、その一つ佐田部落の見取図をみれば下図のようであった。もって当時の満州問拓の実情を偲ぶことができる。
 高橋村の大兵庫開拓団の現地における生活は、大河内班の班長和田福太郎の手記によれば、次のようであった。
  「満州に入って県庁から荷馬車で現地蘭西県北安村にある開拓団本部に着いた。岡の下に五部落が設けられ、私達はその岡の上に設けられた三部落に住むこととなった。本部から八キロも離れた大きな土塀のある家で、その中に一家族住んだ。夜は大きな門を閉め安全であったが、土間の上にござを敷き、更にアンペラを布いて寝た。五月初めから穀物の荷付けを共同作業、共同炊事で行った。交通は馬で行い、川には石を敷いたように貝がいた。馬は四頭飼った。原野は無限に広く、珍しい花が咲き、陽の入りが美しく、これが戦争中かと思う程であった。」と記している。そして茄子を作り高梁が一〇メートルも伸び、地味も悪くなかったようである。しかし、近くの満人部落のお嫁入りなどを見に行ったというから満人混住地であったと思える。結局これらの開拓地は、日本政府が現地人を追い出して安くで強制買収し、有力者の家を占拠し開拓者の用地に供したものであったことが知られる。
 満州開拓が、王道楽土建設の美名の下に、軍の偉力を背景として、現住民の土地取上げの上に成立したところに敗戦後の悲劇の原因の一つがあったといえるであろう。

大兵庫開拓団の悲劇
 高橋村を中心とする大兵庫開拓団は一九年四月現地に到着し種馬鈴しょの送付等、母村と連絡をとりながら一家を挙げて困難な開拓に従事した。そして厳しい冬と斗い昭和二〇年の春を迎えたが、僅か一年余を経た二〇年八月九日、日本軍利あらずとしてソ連が参戦し、開拓よりも北方警備に力を入れなければならない事態となった。以下この開拓団の年譜によって悲劇の終末の推移を見れば次のようである。
二〇年八月九日 ソ連参戦、警備充実を図る。
二〇年八月一四目 戦局急迫のため、県公署の命により団地より脱出を図る。
二〇年八月一五日 関西県公署にて終戦を知りハルビン市に脱出すべく夜八時同地出発、団長、副団長同日江上軍に軟禁さる。
二〇年八月一六日 土匪(現地満人部隊)の襲撃を受け、食なく全員終日逃避に全力を尽す。
  八月一七日 土匪の襲撃ますます激しく、万策つきホラン河に入水実に二九八名が集団自決す。
  八月一八日 入水後死に切れず救助された者八六名、蘭西県公署に軟禁。
  九月三日 生存者は現地復員一七名と合流し、ハルピン市に送られる。
  九月五日 生存残存老幼婦女子六〇名ハルピン難民収容所にはいり、男子四三名は牡丹江に送られる。途中一名死亡。
  一〇月一三日 男子四二名牡丹江よりハルピン市難民収容所収容。
昭和二一年一月二四日 収容所内で団長病死
  八月一二日 内地送還の発表を聞く。
  一〇月六日 コロ島出港。
  一〇月一三日 一一九名引揚げ帰村
というのがその経過である。(前掲資料)
この恐るべき悲劇の記録の詳細は前述但東町教育委員会の「国策に散った開拓団の夢」にのせられている。
当時の体験者の手記、又は口述として残されている、それらの主なものを挙げてみれば次のようである。
(1)ソ連参戦と入植地引揚げ交渉
 ソ連参戦後の開拓団は入植地を引揚げのうわさがあり、終戦の前日団長は朝早く団員を一カ所へ集合させ。 「全員県庁に籠城することになるかも知れない。多分ソ建軍が進入してくるだろう。馬車一〇〇台位送るよう計らう」と蘭西県公署から開拓団本部へ電話してきた。開拓団員は馬を部落民に与へ貯蔵の大豆七~八石を安く売り脱出を用意した。しかし蘭西には開拓団員の多くはいなかった。それは一時五〇〇人ばかり蘭西病院に収容されていたためであったが、まもなく城外に出よといわれ団員達は一五日の夜は蘭西城を出て一晩中歩き廻った。そのうち朝鮮人が扇動し、開拓団役員は人民裁判にかけられたが死刑を免れ、三日間刑務所へ収監された。(倉橋副団長手記)
(2)自決入水の記録
 私達は必要品だけを手にし一晩歩き続けて県庁(満州蘭西県)に着いた。団長副団長らは江上軍に捕えられたらしい。仕方なく皆で歩くことになった。一歩でも日本に近ずきたかった。長柄の草刈鎌をかざして現地人が襲ってくる。小銃の音もする。夜こそ歩くことが安全なので皆で夜中歩いた。青壮年は全部現地召集され、ワーワーと匪賊の襲う声を聞き乍ら病人、老人、子供、身重な妊婦、乳児などを皆でとり囲むようにして守り、まる二日飮まず喰わずで満州の広野を歩いた。一七日の未明満州部落につき、水と高梁の捩り飯を一つ宛与えられた。しかし疲労はその極に達し「こんな半殺しの目に遭うより自分達で死にたい、潔よく自決しよう」こんな意思が暗黙の中に皆の胸に成立していった。
 一〇時頃入水自殺することが決った。この年は雨が多く豪雨でホラン河畔が増水し田畑に水があふれていた。そこが自決の場所と決められた。水底には粟や麦の穂の沈んでいるのが見えた。身体を縛り合って入水することになった。「子供の死を見届けてから入水せよ」との命令がでた。水際で子供達は「死ぬのはいやだいやだ」と泣き乍ら逃げ廻っていた。それらの子供の首をしめて入水した。苦しさのため一生懸命水にもがき上ろうとする。それを押へて水中に入れた。(石田多美枝手記)
  「わが手で絞めた弟妹の首」松本佐紀子「ひたすら死にたかった」後けい、「白眼をむいた兄の溺死体」山下幸雄。悲壮な手記と口述が「国策に散った開拓団の夢」に残されている。河は立てば胸まで位の深さでしかなかったため助かった人、気絶後引揚げられ助かった人もあった。また一年生の妹の首を絞め、仰むいたまま死んで流れていった妹と「殺さんといて!」と叫ぶ弟を三度び川の中へ突放し、傍の人に首を絞めて貰って死んだが水中で生き返って助けられた人もあった。それらの人の手記は、当時の悲惨な真実を後世に伝えている。
  「水の中は二九八人の死骸で一杯になっていた。そのうち満人の死人の追剥ぎが始まった。(死人の衣を剥いで持帰った)生き残った六人は、三班に分れ脱出したが飢と恐怖で同行の音松医師が何度も死のう死のうと注射針を腕に刺そうとした。しかしやっとそれを拒絶し続けて生きのび県公署に辿りついた」
 生存者の手記も生きて逃れてきたことの苦しみをこのように綴っている。
 集団自決のあと駈け付けた中易団長が「残念だ三〇分遅かった。息を吹き返しそうな者がいたら皆引揚げてくれ」と大声で叫んだという石田多美枝手記も、済んだことは仕方がないと云えない重要な意味をもつ手記といえる。
 このような悲劇は、二度と歴史の上に繰り返してはならない。要するにこの分村開拓の悲劇は一つにはこれらの開拓計画が現地、満人の土地を奪って「僅かの金で熟地を取上げ満人を追出した」(春木一夫「遥かなり墓標」)いわば軍事移民であったこと「ただ国家の為に命を棄てよ」と教えられ、個人の尊厳と主体性を無視した教育によって自決に追い込んだ所に悲劇の根源があり、これらの歴史を通して改めて民主土義と民主憲法の趣旨を再認識する必要があろう。みんなの納得に基く民主的な政策と政治があればこれらの悲劇はこんな形で起らなかったといえよう。






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社)
『但東町誌』

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