シューベルト「魔王」(ピアノ版)↑
三十八度線を越える直前の頃、この曲が何度も聞(幻聴)こえてきた、何かその時はわからなかったという。引揚船のラジオから流れていてそれがわかったという(『流れる星は生きている』筆者は開拓団民ではなく政府役人、まだしもよかった方の引揚者)。息子を取ろうと「魔王」が追ってくる、父親は高熱にうなされている息子を抱えて医者の元へ夜間馬を走らせる、結局息子は魔王に取られてしまう。そんな歌曲だったか。
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満州移民について「舞鶴引揚記念館」には何もこれという展示はない、「青少年義勇軍」は少しあるが、「移民団・開拓団」は名すらない。ミゴトに歴史からマッサツされている。図書に少しあるくらいか。(ないことはないと言った程度で、誰か書を本当に読む人が集めた系統的な蔵書ではない、開拓団研究をしたい人にすすめられる本格的な書はまずない、一般に教養を高める場所とも言いがたい、専門史家(当館当市好みではない優れた学者)など呼んで市民も含めて講演会や研究会学習会などされるとそのうちに当館もレベルが上がってくるかも、この水準では先はなかろう、ベンキョーし続けることだろうが、舞鶴人はすぐにやめてしまうだろう。)
悲劇の一つの結末としての「残留孤児」「残留婦人」についても、ヘッサラで展示がない。過去はマッサツです、トーゼンでしょ、と言わぬばかり。
何も知らぬわけでもなかろうが、よいかげん者のプランになるようで、当館をヨイショする者の気が知れないのだが、無いよりはマシ、の程度のことか、無いよりはマシですよ、もし無かったらどうにもならんでしょ、無いよりは…。そうした「無いよりマシ館」が棄てれようとも、日本国民とアジア諸国の人々は決して棄ててはならない歴史である。
開拓団の悲劇は過去に発生した赤の他人事ではない、ああかわいそう、だけでは済みそうにもない、同様の事態が百倍にもして明日は我が身にふりかかる危険性の高い、繰り返される恐れが否定できそうにもないこの国の教訓深い歴史である。
彼らは何度も棄てられた、国家から、故郷から、そして当館からも…
歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は万才として。
いやいやもっともっと日本では何度も繰り返すものなのかも知れない。
過去に学び、二代目三代目の万才を演じる愚は避けようではないか。
シベリア抑留よりもしっかり学ばねばなるまい興味引かれる歴史で、「残留孤児問題」など現在まで尾を引いているものであるが、記念館が「引揚」と名乗りながら、これに触れていないのは、ガッコーでも教えられていないのと同じ「都合悪いことは隠す」の一種の隠蔽工作的なものになりかねないが、また贔屓的に言えば舞鶴は満州移民は少ない、軍需産業が忙しく学徒動員を持ち出すまでもなくよそから多量に来てもらっているほどだから、他国へ行くほどの人的資材はなかったのである、従って身近にそうした人がいない、言葉は知っているが実際を知らないわからないの面もあるかとも思われる。市民も同じで、この問題はしっかり学びなおしてかかる要がありそうである。
満州移民は農民だけではない、百姓の話でワシは関係ないというものではない、軍需産業の大きい所は大忙しだが、そうなると人手不足と人件費の上昇、中小零細の上の方は吸収合併だし下の方、特に生活品の製造販売などは物資不足と消費不足でやっていけなくなる、働き盛りの男はみな兵隊にとられるのだから新しい生活用品を買うだけの余裕はなくなり、戦争には莫大な費用がかかる、イージス艦一隻にどれだけカネがかかると思っている、その分一般の国民の生活は苦しくなる、ますます苦しくなる一方である、多くは倒産し、失業した、一時は130万人の失業者で溢れたという。中小零細は戦争となれば儲かるどころか大失業である、戦争でボロ儲けするのは上の方だけである。平和でこそ営業できて多少は儲かるという歴史を知っているのか気になるようなどこぞのマチの「赤れんがスンバラシイ」業界と中小企業応援のつもりのようなあまりに頼りなくてウンザリのマチ当局だが、花嫁さんですらモンペ姿になってくる、「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょう」「長い振り袖はきりましょう」になってくる、それで自分の商売が儲かるのかどうかくらいは少しは考えてみてはどうかと思うがそれはおき、彼らもというか、農民ではないマチのそうした業者の失業者が主体となった「開拓団」もあった。京都市編成の「廟嶺開拓団」「平安郷開拓団」はそうであったし、武蔵小山商店街の人達中心の「東京荏原郷開拓団」もそうである、ここでは1039名が渡満し800名が死亡したという。これは義勇軍もそうで、農民の子だけではなく、後になると空襲で家や親を失ったマチの子もあった。
戦争が終われば、あるいは軍縮で軍需産業も縮小されることもある。軍縮などは絶対にやめてくれと泣いて嘆願した、どこかのマチの話だが、不景気で貧乏で生活に困っていれば満州侵略の片棒を担いでもいいということにはならない、同じことを当館を作ったマチもあげてやってきたのであった。もっと軍艦をさらに軍艦を。「舞鶴市民は温かく引揚者を迎えました」それだけである、その前にあった実は舞鶴市民も「彼らを満州へ送り出す片棒を担ぎました」の根本的に非道な市民あげての大愚行が問題でないか、そのあさはかな経済観念、その当面の自分さえよければいいの功利主義、そんなものに流されて真の平和を完全に忘れていたの展示は何もない。舞鶴市民は彼らの大きな犠牲によりそれに気づきました。しかしもうそれもほとんど忘れました。「赤れんがへは行かれませんか」と忘れた証拠のチケットを売りつけようとするのである。
「青少年義勇軍」への応募は教育界挙げてのガッコー挙げての取り組みであった、ガッコのセンセが勧誘に貧しい困窮者卒業者や生徒の家を回った、こうした下っ端先生ばかりでなくエライさんの方でも満州移民は教育者が先導役を勤めて希望のない農民を説いた、このままではダメだ、20町歩の広大な土地が持てる、一筋の希望と夢とロマンを説く、向こう見ずの勝手なだいぶにあやしいもので、この時点ですでに彼らは棄民であった。
「国とセンセに送り出されたんです」と元義勇軍が言う、「息子はどこへ行き、どこで死んだかわかりません、センセを思うと腹に据えかねる」と遺族は言う。遺族は小学校のセンセが悪いと怒りをセンセに向けている、センセも好きこのんでやったのではなかろうが、責任の大きな一端は背負わねばなるまい(昭16の調査によれば、志願の動機は77%が「先生の指導」と答えている)。センセにもノルマがあり割当があった、達成しないと非国民と言われた、涙ぐましい努力をガッコはしてきた、多く義勇軍に送り出した学校の校長やセンセは出世できたという。
当館の展示より↑
『凍土の碑』より↑(肩にしているのは鍬の柄だそう)
こんなヤバイ最前線へ自分らの息子を送るならともかくも、いや彼らにも「ボクも満州へ行く」と言い出す息子があったこともあるという、よその子ならバンザイバンザイと送り出した彼らも、さすが我が子が行くとなると泣いて反対し、何とか思いとどまらそうと誰彼問わず止めてもらえんかと頼んで回った。出来まへんな、お断りです、アンサンは何君のときも何君のときもバンザイバンザイと先頭切って盛大に送り出したでないですか、あんな年端もいかんような子にあんなことができたものと思っとったんですわな、その手前よくもまたそんな勝手が言えますな、自分の子もひとの子も同じでないですか、自分が生み出した事態でないですか、自分で何とかしなはれ、と断られ、にっちもさっちもいかなくなり、その村長さん悲喜劇を演じたという。自分の子はこらえてくれ、ひとの子ならバンザイ、こんなタラズが自民族以外の「五族協和」「王道楽土」と唱える、アホクサの極地で、ネゴトにもならぬものでしかなかろう。
ひとの子ならバンザイだが、我が子をアタマのイカレた連中が始めた戦争で死なせるわけにはいかない、我が子の志願でようやく目が覚めてまともな親の判断力に近づいたのかも知れないが、その時ではもう遅かろう。
小学校高等科を義務教育を卒業した(今の中2)貧しい農家の子弟を半分強制半分ダマシで少年兵として最前線へ送るブラックなことは悪名高いナチですらさすがにしなかった。少年を危険な作業に使ってはならない、労基法だってある通りの彼らはその保護年齢である、自国の己が子弟の被保護者すら守れなかった、そしてロシアが悪い、ひとのことが言える資格があるのか、言うなら自分のタラズを言ってからでも何も遅くはなかろう。ワレラの痛恨の歴史であった。
赤レンガなどに生徒を連れて行けるか、これは私が小学生の頃はそうであった、戦中派先生の実体験に基づいた慚愧痛哭の自己批判の上の覚悟であったと思われる、今はヘッサラ、マスコミは大宣伝、何でも過去を一面からのみみれば美しくもスバラシクも見えるものである、どうやらニガイニガイ過去の真の体験は引き継がれなかったようである。「なぁに、すぐ忘れるよ」とアベリカさんがうそぶくとおりのようである。こうしてまた大アホを繰り返すことになる。
また開拓移民応募に関係しなかった役場もない。国や軍だけが戦争を進めたのではない、ごく身近な信頼厚かった誠実な人々もまた熱心に協力してきた、そうした所から戦争がやって来た。
おいおいそれって、今も変わらんのでないの、教育界って信用できるの、自治体って大丈夫なの、にもなりかねない。その恥ずべき過去を押してまで今の舞鶴市が展示できるとは、どう贔屓の引き倒しで見てもまったく思えない、由良川が逆に流れることがあってもありそうにもない、そうしたことで少し触れていこう。
満州移民は「百万戸、五百万人移民」20年計画の国策(関東軍の原案を昭11閣議決定)であった、当時の日本の全人口(7千万)の一割近くを、日本の勝手で満州へ持って行こうというわけであった。
満州は清朝の故地で馬賊というか騎馬民族の地、元々から軍事的には強い土地柄、南部を除いて故地保全のため無闇な開発は禁じられていた自然豊かな所であった。満州馬賊の流れを汲む張作霖(奉天政権)やその息子の張学良などは当時の中国では最大の軍事力を持っていた。
関東軍は独断で張作霖を爆殺し、柳条湖事件を起こし、一気に満州全土を制圧して(満州事変)、「満州国」(昭7)をデッチ上げる。政府も陸軍も関東軍の独断専行が押さえられず、これらを追認していまう。まあ起きたことは起きたことだから、既成事実をムリでも認めてしまう。原発はあるものだから、の論と同じである。何もその是非が基本から見直されることがない。(満州は今は地図にもない、当地の女真族には文殊信仰がありその文殊の当字という。満州は今の中国では禁句だそう、満州傀儡国とそのバックの日帝の横暴を想起させるためという、中国東北部と呼ばれる、元々は今のロシア沿海州も含む広大な地域、用語としてはふさわしくないかも知れない、ほかのふさわしくいない表現も当ページでは歴史をふりかえるために当時のままに使う、当時は「満洲」と表記したが、「洲」の字が当用漢字にないので戦後は満州と書くようになっているのでそれに従う)
:手つかずの原野でなく開墾済みの既耕者がある土地を「買収」して立ち退かせた、先祖伝来の営々として切り開いてきた土地をただ同然二束三文(一般売買価格の1/3〜1/5もあればよく実際は1/10程度)で取りあげられた者は生活の糧を奪われ一部は「匪賊」になって襲ってくる、日本が作りだした「匪賊」「抗日ゲリラ」今で言えばテロリスト集団があちこちにある、やがてはその場で殺してもよろしいとなり、フツーの人との区別はムリで、解釈拡大して何でもカニでも殺すこと黙認された「治安が悪い」と言うか、民間人がやすやすと殺されるから敵意が沸き返る今で言えばテロ地域、北にはソ連の脅威がひかえ、「正当な自衛のためはウソですな、侵略行為です。何が生命線ですか、生命線は国際連盟の精神を守ることこそにあります」とする国際社会の目がある、日本の3倍もの広大な「五族協和の王道楽土」(大本営語。相手国からみれぱアウシュビッツ国家)の傀儡国家の土地へ「開拓」移民しようというものである。
福知山20聯隊も満州「匪賊討伐」に動員され間島省など「討伐」した。舞鶴港(五条海岸)から出船した、西舞鶴の民家にも泊まって出征して行った。バンザイバンザイと市民や小学生は見送った(昭9)。
この2枚の写真は同じ五条海岸の浮き桟橋の光景である、ワタシが子供の頃にはまだ残っていたが今はない。右側の写真は当館にも展示されているが、ここで帰らぬ父を待つ母子である(昭22年頃か)。
左はその10年ばかり前の同じ場所である(『舞鶴市史』)。同じ部隊の所属ではなかろうが、同じ場所でバンザイバンザイの熱狂で送り出したファシストども舞鶴市民のムレについては当館は触れないようである。
この戦争遂行へのバンザイバンザイの市民的熱狂こそがファシズムそのもので、この根拠ナシの軽薄極める戦争遂行への市民あげての熱狂現象、銃後の市民のファシズム、草の根のファシズムの軽度のというべきか、バンザイバンザイは表向きで本心は要するに「チャンコロを殺せ!殺せ!」と叫んでいるのだが、頭が狂った一般市民が大量にあるいは全員が街頭に出てくるようになり、それがもう誰にも止められなくなってこそ正義なき侵略戦争が大々的に遂行可能となる。当時の日本政府の不拡大方針よりも関東軍の拡大方針の武力行動を国民が熱烈に支持した、世界大恐慌の経済の行き詰り感と軍部の密かな世論操作があったことは違いないが、国民が戦争拡大を求めた形になり、政府も半端な政党などもこれに乗らざるを得なくなってきた。
『写真集 平和に対する罪』より。
国民は犠牲者だった、それとも国民は戦犯だった、いずれであろうか。
厳しく見れば、国民と言ってもいろいろだが、「国賊」で戦争反対して監獄にぶち込まれていた人や判断力のない子供などのそのごく一部を除けば、戦争の犠牲者・被害者といっても実はDEFHIJK級くらいの戦犯でもあったのではなかったかとワタシは見ているのである。多くの日本国民は犠牲者ヅラだけでは済まないのではなかろうか。
ヒットラーはヒットラーにだけ発生した狂気ではない。ヒットラーは私の心にも、君の心にもいる、皆の心にいる、人の心に住んでいる、今もやはり住んでいる。ある日、それが姿を現すことがあるかも知れない。戦争博物館はその予防ワクチンのようなものでもある。人はヒットラー菌に感染するよ、キミはもうかなり感染しているかもしれないよ、と警告するものでなくてはなるまい。過去のもう終わったハナシではない。現在の、将来のまたしょうこりもなく繰り返すかもしれない、最悪の精神病である。
『目で見る福知山・綾部の100年』より↑。キャプションには「歩兵20連隊の出征。昭和4年頃。出征する兵士を福知山駅で見送る中学生・女学生・在郷軍人・婦人会等の諸団体」とある。これも満州事変である、この時は遼東半島まで「出征」したが、幸いにもドンパチ騒ぎにはならずに帰国できた。
敵も殺すかも知れないが味方も殺されることが避けられなくなる、こうした遺族が出ることは避けられなくなる。そうした否定面は考えもしなかったのであろう。軍部ばかりでなく国民も操縦されていたとはいえ、狂っていたのである。それに対する痛恨の反省がないままを丸出しにして、バンザイバンザイしたりは「仏作って魂入れず」になってしい、見る人の心を打たないものになる。
〈
出港地東舞鶴に於ける熱狂的な歓迎振りや、港湾を埋めんばかりの日の丸の旗の波に見送られつつ、故国を離れた
〉
と『福知山聯隊史』は語る。さらに続けて、下の写真も添えられている。
〈
第一機関銃中隊長○○○○大尉の手記に曰く、
「我が精兵を満載した軍用列車が、沿道至る所で熱溢るる御見送を受けつつ綾部駅を過ぎし頃、田圃の中を杖を頼りに、今にも転ろぶような格好で、日の丸の小旗を振りながら、列車に吸い寄せられたように走り続け、声を限りに叫びつつ御見送り下さった御婆さんの御姿に、思はず掌を合し拝まずには居られなかったと…
斯くの如き将兵を泣かす銃後の眞心に、出征勇士は命を懸けての御奉公が出来、皇軍たるの使命も達成されたのである。
〉
こうした草の根の「熱狂」現象がみられなくても、「殺せ!」観念のファシズムが進行することはある、今の日本社会やどこかの国もそれだと警告する人も多い。今の日本はごまかしながらだましだましでコソコソやってズルズルと引っぱっていくやり方のようである、こうしていつのまにやら憲法も骨抜きにしていくシロアリである。
ファシズムというのは、全体主義、国家主義で、「国家」なるものの利益が最優先される、国民側の権利はまずない。国家と言ってもそれは表向きで、実は持てる者、特権を持っている者、利権を持っている者の少数者の利益が最優先ということで、それを持たざる大多数の国民はその命すらヤバいアウシュビッツ国家のことである。
過去のファシズムは歴史に書かれているが、目の前で展開続ける今のファシズムはまだ書かれてはいない、バンザイバンザイは古典的な形態だが、いろんな形があり、社会のおかしな動き、人が人を殺す、人が人を傷つける、それをアタリマエの正義であるかのように思う、こうしたとんでもない思い上がりの風潮には決して容認や迎合姿勢を示したりはしないよう厳重注意が必要かと思われる。昔の人が間違ったようにワレラも間違うかも知れない。アホげた大ウソやヤシインチキに簡単に、実感のないままにだまされるかも知れない。それまでは否定するかのように言動をとっていて、それとはまったく逆の立場を突然に取って押し通す。ファッショの進行が見えにくく、見えた時はもう遅いのである。「誰も気づかないうちに進める」このやり方が現在日本ファシズムの主流になっていそうである。
社会が壊れてきて国も壊れてくると人間も人間性も壊れてくる、社会は重要な所の端々で先の見えない行き詰まり、多くの人々、特に下層に生活苦が増してくるとムチャクチャな主張ややり方が始まりそれがバカ受けするようになる。たとえば市民の命などは屁とも見ない原発容認などの流れも強まる。生活が苦しいのは電気代が高いため、安い原発を動かそう。事業者なら自分のお客様の命、あるいは政治屋なら自分を選んでくれた市民の命に対してすら、その責任を負っている者、一番しっかりしなければならない者どもですらこんなイカレた主張に乗ってしまうほどに狂ってくる。
関電はすでにボロモウケをしている。 2015年9月中間決算では、純利益は1125億円。中間期としては3.11前の09年(1277億円)以来の高水準。こんな1企業がさらにボロボホロボロボロボロモウケするために再稼働を進め、保安院も舞鶴市すらもいわずもいい容認を言い、もし何かあれば、なくても死の灰の処分ができないし市民安全の備えは何もしない。差し止め仮処分で出るであろう「損失の賠償」を求めるとか、どこへ、国だろうが、国が進めて、それでモウるはずの暴利が出ないといって国が賠償するのか、こうしたアホを言い出すまでに狂っている。アメリカ世論でも最近は反対派が多数派になった、日本では昔からそうであるが、それに沿わない現政権がおかしいことは誰の目にも明らかであり、これは反民主主義の反国民主権の立派なファシズムである。
ファシズムにとってもっともイヤなのは、社会にしっかりした個人がガンと存在していることである、理性的な考えを持って非暴力と言っても何もしないのではない、武力暴力以外のあらゆる手段で戦い続けるヤツがいることである。アホの波に流されない自律的能動的な主体的な個人が社会に多数存在していれば、ファシズムはどうにもならない。あらゆるウソが通らない。
しかしこれは日本人には最も不得意な生き方である。まだ近代人ではなく、チョンマゲ頭のままのファシズムに免疫のないセンサーのない金魚のフンにはたして食い止められるだろうか。絶望かも知れない。
ヤバイぞの現象は日本全体でもあちこち各地にも見られる、舞鶴含めて丹後でも見られる(ワタシのセンサーは振り切れている)。市民の生存権をヘーキで無視する、民主的なルールの無視、自分の勝手な思い込みだけで進めていく、排外主義、暴力主義、その礼賛。まことに愚かな風潮ではあるが、もうすでにファッショ(ファシズム的傾向を持つ者・団体・思潮など)が産まれている、この方向での暴走がファシズムと気づかなかったり、無関心でいたり、迎合したり、妥協したりせずに、抵抗(レジスタンス)をしっかり強めなければ、ますますワルノリしてこの流れは強まる、民主主義はもとより幾多の犠牲の上に築かれた現代日本の理念がバカどもによって根底から破壊されてしまう。もう崖っぷちに立たされている、そして次には戦争が本当に始まる。
だから「誰も気付かないうちに」コソコソをやらせない、気付いた者はワーワー、ガッサガッサとうるさく騒ぎ立てるより手はない、騒いで騒いで騒ぎまくってバカでもヤバイと気が付くようにすることであろう、相手の手に乗って黙っていたら戦争だ。ヤシだインチキだファッショだと騒ごう。その通りなのだから騒がれるとどうにもならないのである。
ロスケが悪かったんですデ、市民自身の一端の大きなタラズぶりくらいは感じるものでないと、この母子にも申し訳ないように思われる。オマエらバカどもが調子に乗ってバンザイバンザイと送り出したからトオちゃんはとうとう帰って来なかった、ホンマに悪いのは誰じゃい、送り出した者とちゃうんかい、行ったら最後で相手国から見れば侵略兵だろが、もし勝てばよいが、もし負ければどう扱われても仕方あるまい、オマエらが殺したようなもんとちゃうんかい、ナニでもよいからすぐトオちゃんを返してくれ、そう言っているようにも感じられる。負けたら…といった事はまったく考えてもいなかった。自分勝手な者の極地をワレラは行ったのである。バンザイ組のトップを勤めていた者がそれには知らぬ顔で、今度は「引揚者を温かく迎えた」と言うのである。
広島長崎の場合は市民自身が大量に犠牲になり、今もそれが続いているし、またワシらは戦争協力者であった、平和な市民ではなかった、こうなった責任はワレラにもあるという世界的視野に立つ自覚がしっかりある、犠牲者追悼式などで「二度と過ちは犯しません」とカレラが述べるのはそうした意味である。
広島の原爆死没者慰霊碑にも「
安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。この言葉はおかしいのではないか、キミら市民が悪かったわけではないだろうなどとの疑問が周囲からは昔から、ワタシなど若かった頃から聞かれたが、正しい言葉であることは理解されよう。市が作っているものだから、広島市民としての決意を言っているのではなかろうか。ワレラにも大きな誤りがあり、それがこの犠牲を生んだの認識が、思想があると思われる。ワレラがまた誤れば、この悲劇が繰り返される、そうした観念であろう。
舞鶴はその肝心なところがぬけている、抜けているというこすら気づかぬほどな抜けている。引揚者の悲惨に向かい舞鶴市民では誰一人として「二度と過ちは犯しませぬ」などと誓った者はない。
「宮津戦争展」会場入口には、そのコピーが掲げてあった(平30.8.17)
後の世の市民達のこの決意を聞かぬには死者は安らかには眠れまい。広島城は第5師団があり、一時は大本営が置かれたこともあった。多数の市民が本心願ったことかは別としても広島は軍都であった。マレー半島はこの部隊であった。ワタシのオヤジもこの部隊にいたのではないかと思われるので、こんなことを書くのだが、シンガポールを落とす主力となった部隊であった。隣は呉軍港である。平和友好の町とは決して言いかねる、軍事侵略の拠点軍事都市であった。他国へキバを剥いて襲いかかってきた、そうしたことをすれば相手もキバを剥いてくる、そのわずかばかりの当然のオカエシだと言われても反論もできないような過去があった。
ワシらはキバ剥いて大量殺害しムチャクチャするが、オマエらはうまいメシを喰わして、暖かい所に収容して、大事にオモチナシしろよ、的などこかのメデタイ町のような甘えきった子供のような周回遅れ、というかそもそもドッチ向いて走っとるんじゃいや、皆が走る方向を向いているのか、憲法の方向へ走っているのか的な、いかにも舞鶴的な、おかしなベクトルのかかったような考えも方向も広島にはないようである。基本を間違えればやってもダメである。66万の引揚げを受け入れた町として、戦後70余年の今、ジマンですホコリですではなく、最優先で取り組むべき課題は何なのかよ〜く考えてもらいたい。
平和は相手あってのことであり、外への視点・理解・認識を欠いては平和などは遠いハナシでしかない、一国内だけでは平和は成り立たない、他国と軍事同盟を組むとかいうことではない、少なくとも被害を受けた近隣諸国くらいは目をしっかり向けないでは、平和があろうはずがない。いくら口先で平和平和と言っても、どこを見ているかを見れば、その平和姿勢が口先だけのニセモノか、世界的な思想にたつ本物かはだいたい見分けられる。
舞鶴市民が引揚者であるわけでもない、市民にとっては引揚げは所詮はひとごとでしかない、舞鶴市民のダレも我が身を振り返り、ワレにも責任もありそうだと気づいた者はない。ワルイヤツがいて、そいつらが勝手にやったことで舞鶴市民がワルイわけではない、ワシラは無罪、おとがめなし、東洋的思想というのか、しかしあまりに加害国の国民、いやしくも一国の主体者としては無責任なことではなかろうか。上はファシストでダメで、下も無責任でダメ、しっかりした者が不在、それではメデタイ国はどこへいくのだろ。米帝様のケツについていくか。
同じように物を並べて記念館を建ててもその魂においてはまったく及ばない、似て非なるものである。広島長崎は世界から人々が集まる、米大統領すらやってきた、この市民たちの覚悟に共鳴されるからであろう。舞鶴は来ない、引揚者ですら横を向いている。
ワタシが勝手にそう妄想したんだろうと考えるなら何も知らないことになる、実際にも体験者はそう語っている、ひどい目に遭いましたがロシアも中国もウラムことはありません、本当に悪いのは私たちを送り出したものです、私たちを送り出した者をうらみます、と。舞鶴市民よ、記念館よ、ロシアではない、本当はオマエが悪いのだ、と。ワレラこそが引揚者にはロシア以上に本当にうらまれているのである。
今の五条海岸には、こんな案内板がある。
〈
岸壁の母・妻
この五条海岸は引揚者を待つ家族が感激の再会をした喜びの場所であり、なんど訪れても再会どころか消息さえ得られず、はるかシベリアの空を仰ぎ、落胆と失望と共に「岸壁の母・妻」と呼ばれる家族が待ちわびた場所でもありました。
この写真にある五条桟橋は、昭和25年まで引揚援護局から故郷へ向かう引揚者を乗せて船が着く浮桟橋としてこの場所に係留されていました。その後、昭和28年〜33年の間は場所を移し平南桟橋として引揚者の第一歩を記した桟橋でした。
NPO法人舞鶴・引揚語りの会
〉
と書かれている。満州へ「匪賊討伐」に兵士を派遣した場所で、舞鶴市民が、自分がここで日の丸を旗をふってバンザイバンザイで送り出したことは語らない、あるいは知らないのだろうか、当館は一応は市民のオピニオンリーダーなのでそこがノンキに構えて己が責任を感じていないと、市民も自らの責任は感じないのであろうかのような調子である。ボランティアがやっておられるもので文句を言う気はないが、引揚前史も大事なところだから落とさずに語ってもらいたいと希望を述べておきたい。
そもそも送り出さなければ何も問題は発生しなかった。隣国に大挙して押し入り植民地にし、さらに兵士や農民なども大量に送り込んだ、そして一端ヤバイとなれば彼らを残したまま先頭切って秘密裏にバイナラした。この非道があったからこそ引揚の悲劇が発生した。最初からバカをやめておけば問題の発生はなかった。国民もあげてワルノリをやめなかった、問題の根本はここにこそある、ロシアも来たくもないのに来ることもなかった。これを言わないでナニが引揚館であろうか、ナニが引揚の町であろうか、ナニも歴史に学んでいない、フクシマにナニも学ばなかったように、70年昔の大失敗にも当然にもナニも学ばず、以前のままではないか、再オープンでバンザイバンザ〜イ、バンザイできる立場か、ワタシたちにも誤りがあり責任の一端はありました、くらいは言え。多くの舞鶴人には、いや多くの日本人にはフクシマも戦争も引揚げもなかった、無意識のうちにあれは「なかったことにしたい」のだ、直視するなどには耐えられない、忘れたい、自分の責任などはなかったことにしたいのだろう。
今となれば弱者愚者の勝手なネゴトに過ぎないものを展示してナニか意味があるのだろうか、頼りない市の史観、さらにバイアスがかかっていると市民からは以前から言われている、そうしたものに基づくものでなく歴史学問的最先端史観に立っての展示を強く求めたい。
人間としての深い絶望も悲しみも何もない、この悲劇を生んだ真犯人としての市民の反省姿勢も見られない。人集めの観光資源くらいにしか見ていない。引揚の町といわれ何十年とやってきてもこの程度の町だろうかとまことに情けない、不勉強職務怠慢、もうチイとらしいこともしていたと思うが退化劣化がひどい。満州事変あたりから書かねばならないのだろうか。当方側には何の正義もないものを書くのも苦しい、しかしもう少しはワタシでも書かねばならないのだろうか。当館が知らぬ顔なので「残留孤児」までは書かねばならないだろうか。
←これは世界記憶遺産に決まったときの舞鶴市民のバンザイだそう(『舞鶴市民新聞』平24.10.13号より)(ぼかしてあります)
どちらの町の市民さんなのであろうかのぉ。戦争と引揚の悲劇を見てきた、自国民の悲劇だけであっても、それでもそうした町の正統な後継市民や関係者ではないのではなかろうかのぉ。
青少年の皆様は決してマネをしてはいけません。
「戦争は政治の延長」と『戦争論』は言う、そのとおりだが、政治は経済の延長で、経済的に何をねらったものか。
撫順炭鉱や鞍山鉄鉱などの無尽蔵の地下資源、大豆などの国際商品となった農業資源、満鉄などの経済利権の大拡大、アヘンなどの目の届かない所での超ブラック業(ケシは熱河省やその後の内モンゴルなど僻遠の地で栽培され満州で精製され全世界へ送られた、当時の世界の白麻薬(精製麻薬)の9割は日本人が扱ったものであった−極東軍事裁判判決文。これをさらに精製するとモルヒネとかヘロインとかになるというがワタシは詳しくは知らない、○○さんが詳しいかも、そっちへ聞いてくれ。ホロンバイルあたりでは紙幣代わりに日本軍民も避難民もアヘンを持っていたという、手榴弾より効果ある自決手段ともなるとか。
麻薬商人を関東軍や政府が表向きは別として取り締まることはなかった。原発どころでない膨大な利益を生んだ、軍官財グルのマックロけでマフィアもマッサオの超悪行であった。)、これらを根こそぎ奪うが根底のネライか。
純な観念としては、世界戦争が避けられない、長期の持久戦となるだろう、そのためには自給可能な国にしないことにはそれが戦えない、日本本土に資源がない、どうしても満州は頂戴しないことには、その戦争に勝てない、満州は日本の生命線だ、そしてさらには、中国本土、南方と頂く、そうした勝手な考えに基づく強盗の理論であった。
ネライはそうだろうが、何もネライ通りにいくとは限らない。満鉄は鉄道会社に見せかけた半官半民を装った植民地経営の国策会社であった。政府自らが経営するものであった。ロシア東清鉄道の長春以南の路線を日露戦争で手に入れたもので、関東軍は本来はその沿線の旧ロシア租借地の警備軍で、最初は1万ほどであったが、どんどん増強されて74万とかの大軍となった。その関東軍に牛耳られた満鉄はその暴走軍事的要請でとんでもない所ヘ次々に鉄道を敷くし、また満鉄併行線が奉天政権で敷かれるし、全体としては大赤字が避けられない(東清鉄道も満州国が買収)。みな日本のカネや資材であったが、リターンはなかった。
舞鶴市10万とすれば、働き盛りの1万市民が満州へ行こうという計画だから、それは内地にとっても大変な話で、舞鶴でそうした事態になれば、マチが廃れてしまいそうな話である。満州栄えるかも知れないが日本が廃れる、しかも全世界相手の大戦争と平行してすすめるという、どう見ても最初からうまく行くわけもなさそうな話で、そうした現地実情を知らない机上のと言うか経済も社会知らない妄想軍部と妄想農本主義者のみの暴走空論に基づいて膨大な人やカネのリソース(資源)を使うアホみたいなことはやめておけ、それに見合うリターンがないの意見も当初は強かったが、やがては軍部や国策に反対をはさむ者もいなくなり、権力バックに強引に進められていった。
開拓団や青少年義勇軍は国ばかりでなく、地方の役場もその組織あげて深くかかわり推進した計画であったが、これに関する公文書がキレーサッパリと残されていないことが多い。GHQの追究を恐れてすべて焼却したとも伝わるが、歴史から完全にマッサツされていることがだいたいである。もし残っていれば「世界記憶遺産」級であろうか。国策というものの都合悪い結末はそうしたことになる。
京都市が編成した平安郷開拓団を引率して満州に渡った当時の当人が今は市の教育界のエライサンになっていた。平安開拓団は二次に分かれて、計138名、そのうち90名が死亡又は不明となっている。生き残った元団員が慰霊碑を建てたいから協力願えないかと言うと、「平安開拓団はあったかどうかも、書類は焼却しましたから、存在しなかったんです」と言ったという衝撃的な話が『裂かれた大地』にある、当人が望んで引率したわけでもなかろうから責める気はないが、無責任を絵に描いたような話でなかろうか。当人にすれば抹殺したはず者の亡霊が白昼目の前に出現したようなことであったろうか。だいたいどの役場でもどの教育界でもそうしたことのようである。舞鶴からも渡満している、人数的には多くはないし、私費をさいてコツコツと調査してくれる人がなければ何も文章は残らない、従って舞鶴の場合は詳しくはわからない。
舞鶴の人で残留孤児になっていた女の人が帰ってきた、「舞鶴は何と大きな都会だろう、電気もあるし、汽車もある」と言ったというウワサを聞いた私の母はおいおい泣いた、という記憶があるが、そうしたことくらいしか私は知らないが、さいわい市史に多少の記述がある、抹殺したはずのボーレーの姿を引かせてもらえば、
『舞鶴市史』
〈
満州事変後、日本は中国東北部に建てたいわゆる満州国を植民地、大陸政策の拠点とするため、重要国策としてわが国農民の同国入植を計った。そこで、昭和十一年には二○か年一○○万戸(五○○万人)の大量移民を決定し、同十三年の計画によると、同十五年までに集団開拓民四万戸余りを入植させようというものであった。農村の中には、この国策に応じて過剰人口問題を解決し、農業経営規模の拡大、農業所得の増加を企図するところもあった。八雲村では、同村農家三七五戸のうち九五戸を分村移民し、母村の農家は耕地面積一町歩以上、農業収入一、○○○円以上の中農に育成しようとして、次の分村計画を立案し府当局へ提出している。
満州開拓八雲村分村計画概要
食糧自給 畜牛一頭以上飼育 年農業収入一千円以上 耕地一町歩以上ノ安定農家現出ヲ目途シ九五戸送出ヲ計画ス。
(略)
しかし、移民計画の実行はなかなか困難で、全国的にみても実際に入植した農家数は一万戸余りにとどまったとされ、昭和十五年末までの京都府下移民数も開拓民一一七戸、開拓青少年義勇軍六六三人で、舞鶴市・東舞鶴市・加佐郡のそれも左の程度にすぎなかった。
京都府取扱 満蒙開拓青少年義勇軍 満州開拓民 送出数
昭和十五年十二月末現在
市郡別 |
青少年義勇軍 |
開拓民 |
四次 |
五次 |
六次 |
七次 |
八次 |
計 |
舞鶴 |
一五人 |
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一 |
二 |
二 |
五戸 |
東舞鶴 |
一六人 |
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. |
. |
. |
. |
. |
加佐 |
二二人 |
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. |
. |
二 |
. |
二戸 |
〉
〈
翌七年に入ると、三月、満州国の建国宣言があり、これに伴い国策として満蒙開拓の植民が奨励され、京都府の調べでは、この年四月、府下で初めて加佐郡舞鶴町、与謝郡養老村、竹野郡郷村から計四○戸の移住農家が新天地を目指して渡満していった。
〉
32年度(昭和7)から始まり37年度(昭和12)が第6次になるよう。1次〜5次は試験移民と呼ばれたもので、在郷軍人が武装して入植した武装移民の時期である。1次〜3次では京都府は募集対象地に含まれていなかった。4次から全県対象となった、本格的な集団移民は6次からになる。敗戦の直前まで14年間に渡って続けられた。
最初は「移民」と呼んでいが、39年(昭14)から「開拓民」と呼ばれるようになった。移民は棄民と通ずるというので開拓民と呼ぶようになったといい、実際に棄民であったが、それは後で見るとして、開拓民なのかどうか、この当時は大本営語ばかりなので、実態を見てみなければならない。
実際には荒野の開拓などはなく、テッポウバックで強奪した既耕地に移民したのが実態であった。「開拓」と呼ぶのは実態を反映していない宣伝用大本営語であって、カッコつきの言葉である、実態をそのままに言葉にすれば、土地強盗団とでも呼ばれるようなことであった。100万戸が1戸あたり20町歩として、それを十分満たす土地がすでに(昭和16)移民用として「買収」確保されていた、それは当時の国内の全耕地面積の3.7倍もあった。実際はそれだけの移民はなかった(27万戸)から、既耕地は有り余っていて、開拓開墾などはいうまでもなく、10町歩とか20町歩は広大で1戸の労働力では耕作できない、草をひくだけでも10日も20日もかかる、一毛作で1年で1回しか収穫はできないから失敗は許されない、耕作期4月から9月までで9月になれば雪もふった、6、8月は雨期で泥沼になる、冬期は-20℃、土地は地下2メートルまでカチンカチンに凍り付く、地表全面コンクリート鋪装だから馬車などの移動は冬期がよかった。広ければよいというものではない、こんな土地は何百町歩もらっても仕方ない、と思われるかも知れない、自然環境が違い日本式農法では耕作できない、猫の額を耕してきた農民は途方に暮れたことであろう、農業も現地も知らないバカどもが立てた無謀な計画との酷評もあたっていなくはない、ナニ大和魂の浄き心があれば出来ぬことはない、日本の鍬ではダメだと、それならコブシでやれ、バカめが、であった。
農耕馬は多少はいたが、除草や収穫は人手でなければできない、従来からの現地農法を真似る以外には手がない、餅は餅屋で、彼らの方が日本農民よりはるかに上手で生産的あった、そうしたことで周辺のというか元の土地所有者などにそのまま耕作、小作させるから、入植者は農業することすら必要はなかった。単に不在地主になって、自分はほかの職業につき、ほかの所に住む者すらあった。
「みんな自分じゃやらない。むこうの人にやってもらったの。畑を貸して、小作とってたの。自分じゃ手を出さん、田んぼも、畑もそう」
太平洋戦争は昭和16年からだから、内地用食糧の大増産が求められていて、荒野を切り開くなどの手間暇のかかることをしていることはムリであった。手っ取り早く既耕地を手に入れる以外には増産などは出来なかった。
(白人の西部開拓より悪いのでなかろうか。1町歩というのは昔の条里制で言えば、1丁×1丁の面積、何ノ坪とか呼ばれた面積になる。1丁は109メートルだから、だいたい100メートル四方である。昔から最低でもこれ以上の農地がないと自営できないと言われる。1町歩の換算はだいたい今でいう1ヘクタール=10000平方メートルになる。10町歩はその10倍、20町歩はだいたい500メートル四方である。それを100万戸分だから、額に汗する苦労もせず徹底して奪いに奪ったわけになる)。
開拓との美名の元に進められた当時の日本国の国策として送られた、何10万人が現地に送られがんばろうとも、彼らは満州や中国のために仕事しているのではない、自分自身のためにでもなかった、あくまでも日本の支配者のためのものであった。満州人に尋ねよう、キミは今何を一番に望むか、答えたことであろう、日本人に武力で取り上げられたものを返してほしい。日本人が勝手な観念をでっち上げて、現地でがんばればがんばるほど彼らから遠ざかったのである。
すでに朝鮮では日本によるあの手この手での農民からの土地取り上げが進んでいて、取り上げられた朝鮮農民は一部(80万人とか)が満州へ無一文の流民となって移住していた。後に抗日ゲリラの拠点になる間島地方というのは、こうした彼らが最初に移住した所であった。「共産匪」の発生地と日本では警戒した地方で、今の北朝鮮のリーダーなどはその後裔になるが、だいたい満州の「共匪」もこの地方が元になった。
在日朝鮮人もこの時期のものであった。土地を奪われた農民が日本の最下層に流れ込んだり、また労働力不足で強制連行されたりして、210万人にもなり、朝鮮総人口の10%近くになっていた。これらも日本がまいたものであった。また女子挺身隊といって、何でもない実は問題の従軍慰安婦だが、数万とかいわれるが、戦場に送り込んだりもした。そんなものはない自らが進んできただけのものだとか、そんなものはとどこの軍隊でも常識だ、何も日本軍だけに限られたことではないとか、日帝後継者どもは言っていたがアメリカに尻を叩かれ頭を叩かれして、戦後70年にしてようやくいやいや半分ほどは悪行を認めたのであろうか。まあ彼らがシンから悔い改めるなどは信じがたいことではあるが。
『義勇魂』の手記に、
〈
後々、ことあるごとに、若い鮮人達からいやというほど同じことを聞かきれたが、彼等は私を見学えながら、口々に、
−日本は、朝鮮を三十六年間奴隷扱いにしてきた。この積年の怨み、屈辱は一朝一夕で消え去るものではない。
日本は、朝鮮を、武力でもって徹底的に弾圧、統治した。
日本、および日本人に詐欺的手段で土地をまき上げられた朝鮮農民は、貧困な小作人になり下がり、収穫とともに高率な地代として米をとられ、残った米は、これまたさらに安い粟、高梁、玉蜀黍、大豆等に替えることを余儀なくされ、米はすべて日本にまき上げられ、日本へ持って行かれてしまった。お前等日本人は、我々朝鮮人が作った血と涙の米を食べていたのである。
そして、そのようにしてもなお朝鮮人は、次の穫り入れを待つことさえできず、山野の草の根、木の皮をあさり、果ては離農し、日本、満洲、支那、シベリヤヘ群れをなして流浪していった。この満洲に居る朝鮮農民は、大部分そのような人達なのだ。満洲へ土地を求め、しかもその目的地へ達するために、彼等は歩いて行ったのだ、日本から来る開拓団のように、あらゆる交通機関を流用して、のうのうと乗り込んで来たのでは、ない。
年を逐って貧窮のどん底に落ちていく朝鮮民族は、「朝鮮独立」を願い、京城に於いて示威行進を行なった。しかし日本は陸、海軍を出動させ、「朝鮮独立」を叫ぶ徒手の群衆に向かって銃火を浴びせて虐殺し、或はこれを焼き殺すという残虐をあえてした。朝鮮全国の人々の怒りは爆発し、いたるところで紛争が起こり、多数の犠牲者が続出した。
日本の財閥は、貧因にあえぐ朝鮮農民や貧民を、朝鮮に於けるダムや工場の建設に低賃銀で、しかも長時間酷使するという労働搾取をして、肥え太った。
戦争が熾烈になるにつれ、日本はいよいよ皇民化政策を強要し、我々研鮮民族に、「我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国に報ぜん…」を、あらゆる機会に暗唱せしめ、日本語の使用を強制し、朝鮮語の使用を一切禁止した。
朝鮮全土に神社を建ててこれを朝鮮人の氏神として参拝を強要し、家ごとに神棚を設けしめ、天照皇大宮の神符を配付した。そして日本式姓名に変えることを強制した。
こうして我々朝鮮民族をムリヤリ日本人に仕立て上げた陸軍志願兵制度や徴兵制が出来て朝鮮の若者が徴発され、勤労動員、徴用の名のもとに、膨大な労働者が、朝鮮国内だけでなく日本各地の鉱山、ダム建設、軍需工場と、ことさら危険な、最低辺の労働に狩り出され、動員されていったのだ。
一家四散という悲惨な目に遭った家族も少なくない…
現地に於ける日本人の、それこそ非人道的な侵略行為のかずかずーーたとえそれがカサにかかった、勝てば官軍調の告発であるにもせよ、何も知らなかった、いや知らされていなかった少年の私には、正直、大きな愕きであった。
五族協和
王道楽土建設
美しい理想の、これが現地に於ける実態であったというのか?
もしもそうなら、その美しい理想を信じ、希望に燃えて、満洲へ骨を埋める覚悟で来た、私達少年の純粋な気特をふみにじり、裏切り、土足にかけたのは誰なのだ?
そして侵略者日本人のひとりとして、一少年の私は、現地人に、一体どのようにして償えばいいというのか?
ソ蓮の参戦、あの時いちはやく我々を見捨てて逃亡南下した一部関東軍の酷薄な仕打ちが思い出された。そしてあの、上陸第一歩を印した釜山から、いよいよ未知の拓地へ向かうべく私達が乗り込んだ客車の窓へ、ばらばらと駆け寄ってきた、あの見すばらしい朝鮮の子供たちのことが−。
「何か食べるものをください」
そう言って、五、六歳から十歳くらいの、飢えた子供たちがさし出した手、手、手。
「お父さんは、お母さんはどうしたの?」
「お父さんも、お母さんも日本へ行った」
グッと胸にこたえるものがあって、私は乗船前に弁当としてもらっていた握り飯をそっくり渡してやった、そのことがいま、鮮烈なイメージとなって思い出された…
〉
スンバラシイスンバラシイと言うばかりで、この少年達にも何も真実は教えられていなかった。この当時は、と言うのか、現在もであるが…
彼ら入満朝鮮人たちは満州に水田を拓いた。満州での稲作は日本式ではムリで彼らの農法でなければできなかった。米は畑作よりも何倍も収入が得られた、米をつくらないと、百姓の気分になれなかった。朝鮮人たちが拓いた水田も濡れ手に粟の「買収」をしていき、入満朝鮮人農民は小作人として使った。
朝鮮人は優秀で日本人がかなわいところがある、戦後の舞鶴の学校でも学力体力ともに上部にいたのは朝鮮人の子弟で、彼らのオカゲで学校全体の成績がよかったなどと言われるが、現地の学校でもそうであった。これでは優秀指導民族としての顔まるつぶれとなるので、日本人子弟と朝鮮人子弟を一緒にしなかったと言われる。日本人は満州からたたき出されたが、朝鮮人は今も200万人とかが満州に暮らしている、どちらが優秀かはわかる。
土地を取り上げ、原住民の家屋は焼き払い、彼らは一ケ所にまとめて住まわせる、それは匪賊との接触を断つためでもあった。消される部落は4千を越える。ベトナムでアメリカがやったようなことである、一般農民と解放戦線のゲリラとの区別がつかず、解放区の農村をまるごと破壊し、米軍将校が「この町を救うためにそれを破壊している」と述べたようなハナシである。また見通しきかないジャングルを枯れ葉剤を撒いて枯らしたように、ゲリラに逃げ込まれるとどうにもならないので、背の高い作物、コウリャンやトウモロコシなども栽培が禁じられる土地も多かった。これらがだいたい主食であったから、日本で言えば米は作るな、アメリカだったら小麦を作るな牛を飼うなである。
取りあげられた者は小作者となるかさらに奥地に行って一から開拓するか、撫順炭鉱でも行くか「匪賊」になるか。相手側から見れば開拓民でなく土地強奪民であったろう、満州移民とか開拓団とかは日本がそう言うだけで、相手側から見れば先祖伝来の土地取り上げ、生活手段を取り上げた真の匪賊団であった。ブラジル移民などは雇用奴隷としてか、本当の自営開拓民として行くようなものであったが、満州は土地も用意されて大地主様として行くわけで、満州語など現地文化をベンキョーする苦労も必要もなかった。
自ら汗して働く自作農として移民するの方針が、いつのまにやら寄生大地主、寄生虫の親玉となっていく。満州人から土地を取りあげ、満州人の村を移動させ、さらに安い労働力として使い、相手の超悲惨な境遇を足蹴にして日本人だけが豊かになる。スンバラシイですねー。書くのも恥ずかしいが、これが夢とロマンある満州「開拓民」の実際の姿であった。
「私達がクワを持って開墾したということはなかったです」「汗水流し時間をかけて耕地にしたのは中国人で、それを満拓が買い上げて、私達に無料で払い下げるといううまい話です」「満人が拓いて出来た所を、畑も家も取り上げて日本人が入り込んだみたいなものです」「これではいつかきって仏罰があたるにちがいない」と証言している(関東軍都合で国防上の観点から一部には本当に未開地を切り開く開拓民であった所もある)
移民たちもわれ知らず、いつの間にか加害者の一端を担わされていたのである、本人の意図とは関係なく加害者であったからその返り血を浴びて、自らの血で加害者としての誤りを購わされることになる。本来ならこんなムチャクチャ政策を立案し推進した者どもこそが、その血で購えばいいが、ヤバッホナバイナラで、とうの昔に現地にはいなかった、今もノウノウとしてどこかで笑っているのであろう。国策などは下っ端には詳細がわからないのだから、どう甘い言葉で丸め込まれようともうっかり乗らないことであろう。国がやっていることだから、などと信用してはならないという手本のような歴史である。
体験者の移民史も意外と加害責任には触れていない。ワシラはかく殺されたは言うが、かく殺したは言わない。それなら当館なみ認識レベルではないか、何も真の教訓を掴めていないことが多いようである。
開拓団を振り返る思い出集などを見ても、ナニコレと言いたくなるほどに、元開拓民に今に至るも加害者意識が希薄な、希薄でもあればまだよい方で、スコーンと抜け落ちているものも多いことが気になる。
これは日本の今の各界指導者自体ですらそうした意識を持つことなく、悔い改めがないことにもよると言われる。しかし元開拓民や政治屋どもばかりでなく、普通の現代日本人が弱い、ドイツなどと比べればよくわかることであり、元開拓団員ばかりを責めるわけにはいかない話である。何でもないワレワレ自身に問題がありそうである。
どうしてそうしたヘンなことが起きるかと考えれば、そもそも満州は外国の領土と教えられていない、日本人が好き放題して当然の土地、程度の低い満人ばかりが紛れ込んでいて、日本人が行って指導してやらねばならない土地なのだと思い込まされていた。土地を取り上げて当然、襲ってきたら殺して当然、何が悪いか、よいばかりでないの世界であった。
地図を見れば日本本土と同じ色に塗られていた。「教科書」も世の「リーダ」たちも他国だとは言わない、満州は日本なのであって、たまたま原住民が紛れ込んで勝手に住んでいる土地なのであった。そんな者はあっちへ行けと追っ払っても何も侵略とかいうものにあたらない。と開拓民初めほとんどの日本人は考えていた。今もそうした帝国主義ファシストのボーレーの支配からワレラは抜け出せてはいないのかも知れない。
江戸時代は鎖国だったのに、こんな所に日本の領土があるわけないだろう、本土の3倍もあるではないか、などとまともなことは考えてはならなかった。教えられたことを疑ってはならなかった。関東軍がいるから安全、と言われれば疑ってはならなかった、神国が負けるハズがないと言われれば疑ってはならない。(今も同じ、原発安全と言われれば疑ってはならない。そうした状況をダブられて見ればわかろう。脳死した亡者ばかりで、もうまともな観点から自分たちの行為を判断できた者はいなかったのである。もうすでに最初から亡びていたのである。)
加害責任などを持ち出せば今のたいていの平和運動でさえ、参加者がなくなるのでないかと私は考えているくらいに、ヘイワ国家ニッポンと言っても何とも底が浅いのである。
開拓団員に加害者意識がない、ヘンだというよりも日本全体がヘンなのである。彼らのヘンを言うよりもワレラ自身のヘンを考える方がよいのかも知れない。
土地を取り上げだけではない、731部隊、飛行場もついた広大な部隊で、細菌実験をして、中国、ソ連、蒙古の無辜の人民3千余名をマルタと呼んで殺したという。悪魔そのものであった。
万人坑。満州なら黒竜江省鶏西市の滴道炭鉱万人坑、吉林省龍井市の老頭溝炭鉱万人坑、遼寧省営口市の大石橋マグネサイト・虎石溝万人坑、撫順だけでも30箇所も万人坑があるという。要塞や飛行場など基地作りにも中国人を酷使して100万人が死んだとも言われる。いったい何万人殺したのかもわからない、アウシュビッツ国家と呼ばれるわけである、ワレラが殺し捨てた人々の遺骨が累々と残されている。撫順炭鉱の平頂山、3千名の無辜の人々が殺された。これらは一部の話と思われる、ヤミからヤミへ葬られたものもまた多かろうが、悪事千里を走り、周辺の満州農民の耳にも入っていたことであろう。
内地へも強制連行の中国人労働者はたくさん連れてこられたが、国内ではまだしも、満州ではむき出しの暴力である。「罪を犯しそうな者」としてそこらにいる者は何でも理由を勝手に付けて拉致して連行し炭鉱で働かせた。超苛酷な労働と環境のもとに多くが命を落とした、その使い捨てられた労働者の墓が「万人坑」である。
アウシュビッツではない、大同炭鉱万人坑のごくごく一部。山西省にあった日本支配の炭鉱で、石炭1400万トンを得るために、6万人の鉱夫を死亡させたという(『昭和史の消せない真実』(岩波書店)より)。
日本人としては何ともまともに見ることもできないが、ここだけでもシベリア抑留で死亡したといわれる数と同じであった。何をしてくれたんじゃ、この超野蛮な非道、見て震えるか、見ないかするだけ、同族の日本人としては心痛めに痛めてどうすればいいものかと、途方に暮れてしまう重い苦しい歴史である。やがてこれらも「世界遺産」の負の遺産に指定されてくることだろう、その日が必ず来ることを日本人としては覚悟しておかねばなるまい。軍隊はもとより民間企業がこれほどの残虐行為を行うなどは世界的にも珍しいことであろう、すでに知っている日本人はいいが、知らない日本人の方がはるかに多かろう、ウソだとか言って笑われないように、世界からバカ扱いされないように今から対策しておくのがいいだろう、スンバラシイ国ですね、とは言っておれなくなる。
被害に遭われた日本の方々個々についてはそれは大変で気の毒なことであったと言うしかないのだが、こうした他国の大被害の実態を知るとき日本人全体としては被害などが言い出せる立場とは言いにくい。
当館を指したものか、「被害ばかり強調するのは歴史をゆがめる」の海外から声には一理も二理もありそうである。
医学というのか731の生き残りが会社を作りエイズ薬害事件や最近の無届け血液製剤を作っていたとか、満州でヤバイ大仕事をしての生き残りが今の日本にも大手をふって植民地日本の支配している。何も満州国は過去の物語ではなく今も名を変え場所を変えただけで存在し続けている。
バンザーイバンザーイと当館の再オープンを祝って市長以下が繰り返した。アホしかおらんのかと言われた。元団員が満州の開拓村があった所を訪問して日の丸を立ててバンザーイバンザーイと慰霊祭をやった、その日本人の開拓村を作るために原住民が何人殺されたか、それは知らなかった。現地では大変な顰蹙を買ったという。慰霊祭をするのは止めないが、現地の感情がある、誰もいない夜中にできるだけ静かにやってくれないかと中国当局から注意されたという。民間人か軍の慰霊かを明確にして民間でないと基本的にはダメのようである。
元団員元兵士ですらそうしたことだとするなら、それも知らない○○市あたりがやったとしても別に不思議ではないが、何万人もの墓標(国内だけではない、他国にもどれほどあることか)の前でバンザイはなかろう、黙祷とかあろうが、そこまでもチエが回らなくともせめて拍手くらいにしておけ、常識もないヤツらだと。そうおっしゃるのは戦争を多少とも体験された方々であろうか。戦争を知らないオッちゃんオバちゃんばかりになってきて、とうとうここまでになった。オジイの葬式、孫の祭、何も知らない幼児が祭と間違えたようなものか。重い歴史の展示館かそれともカル〜イ調子の観光施設か、それもわかっていないようで、言うのもイヤになってくるが、展示ひとつするにしても亡くなられた方々や遺族の気持ちを思い丁寧に慎重にすすめなければならない、本当はこうした展示などは控えたのがいいのかも知れないが、申し訳ないな、世界平和のためです、70年以上も過ぎましたがまだ戦争は終わったととも言えない状態が残っています、どうかそこを理解してこらえて下さいよ、などと震える思いで拝みながらかなり控えめに行うものだが、量販店のディスプレー業者のような人の目を引けばよい式で、謙虚な姿勢がなく、ましてバンザイするなどは何もまじめにやっていない何もわかっていない証拠、ムチャクチャでないかと怒ってみても仕方もない、たいていの日本人がこんなメデタイ状態なのだから。
墓をあばき死者を展示する決してしてはならない大罪をあえてする、本来はその道の修業を積んだ僧侶なとの意見も聞きながら展示のあり方も考えていかなければなるまい、当館周辺は霊が集まる「霊スポット」、よい霊ばかりでなくいろいろな悪霊も吸い寄せる、アンビリバボーに話になるが、信じなければ信じなくてよい、気を抜くとテンバツがあたる、ツタンカーメンの呪いがふりかかる、それは誰の身にふりかかるかわからない、と一応注意はしておこう。万人坑などを見学に行くと、あるいはその町に入ったとたんに「私、日本人だからかしら、急に頭が痛くなって、目がチカチカして、ふらふらしてくるのよ。あれ何、これって何、という感じ。恨まれてるのね、仕方ないけど」という話も聞く、それ以上は来るな近づくな警告だろう、オマエラに何がわかるか、ワレラの苦しみがわかるわけなかろ、それ以上近づくと何が起きるかわからんぞ、のカレラの怨念がうずましているのかも知れない。商品の展示ではない、ええかげな気持ちでいるとヤバイかも。私は正義の味方だからも通用しない、相手は悪霊化しているかも知れず、区別はないかも知れない。キミは何ともないかも知れないが家族にとりつくかも知れない、どこへ来るかはわからない。頼むからエエかげんな気持ちではやってくれるな。
それはどうかはわからないが、それにしても恥ずかしい、被害を受けられた方々(国内外の)犠牲者と遺族の方々には何とも不遜無礼なことである、子供の教育上悪い、テレビには頼むから映してくれるな。
ひとさまの不幸にバンザイする、舞鶴は引揚のマチではあるが、実は何も引揚げを知らないということが、思わぬ所でバレてしまったが、一つには満州への移民が舞鶴だけでなく京都府全体としても熱心でなく少なく身近な所での経験を持たない知らないし興味もない、そこへドカーと引き揚げて来た人々のムレを市民は目の前に見た、何だあの哀れなムレは、と様子を彼らに聞けば、彼らはロシアが攻めて来て、こうなったと口をそろえて言った。
引揚者はほとんどが帝国臣民の歴史認識しかなかった。加害を言う者はなく自国や自国民の大きな戦争責任を言う人は多くはなかったし、舞鶴人は軍港人であったから、そうした見方はアカであって、それが正当に理解できるレベルにはなかった。もともとが軍事基地の帝国のマチであり、カシコイ町であるはずもなく歴史認識レベルの全体的な低さがあった。
また軍関係の公文書類は焼却されていただろうし、開拓団関係あるいは広く役場の軍務関係公文書は何も京都市ばかりでなく、どの役場でも焼却されているようで、たぶん上からの指示があったと思われるが、府と新聞記事にわすがに一部が残るのみで、役場には一切何も残されていないようである。資料はなく、誰が行ったのかもわからない。正義の戦争とか何と言おうが、その上の方では残しておくと具合が悪い公文書、歴史と認識していたと思われる。忘れてくれの歴史であった。
役場は捨ててしまったが、奇特な方々の私費をさいたたいへんな努力で、その一部の事情が歴史のヤミのなかから掘り起こされ今に伝わるだけである。
戦後も舞鶴では現代史や戦争史研究の進展はなく文献も残されてはいない、学校でもこの時代は教えない、今もって当時の帝国臣民レベルのままにある、引揚記念館はそうして風土に出来たもので、舞鶴人の引揚時代の頭の中をそのままに展示した70年以前の「舞鶴人の過去の戦争認識の化石」となってしまった。
これが真に克服できる日はまだ遠い、まだまだ遠い、多くの地元研究者に取り組んでもらいたいが、その動きも見られない。世界のレベルからは1世紀以上も遅れたままである。彼らの責任も大きいが動こうとはしていない。私もそのハシクレのつもりなので、一端はワシにもあるわいの責任を感じて書いて見るようなことである。
日本の無条件降伏、軍や開拓団が武装解除を受けると、ゴロリと立場が変わった。というか正常に戻ったというか、土地を取り上げられた者が暴徒のごとく開拓団を襲ってきたという。それ以前から土地を取り上げられた「匪賊」が蜂起して開拓団を襲うことは何度もあったが、今回は本格的で全土的である。
土地を取り上げたのは日本の政治家や関東軍で、そいつらが悪く、開拓民は半ば強制的に連れて来られただけで事情は知らなかったから、別に悪くはない、というリクツは成り立たない。相手から見ればいずれも同じ日本人で、同じ強奪侵略者のグル同士であった。グルでないと言うには、いやいやでも彼らに従ってはならない、断固反対して日本の軍国主義ファシズムに抵抗しぬいた者でなければならない。そうした者が日本人に幾らいたことだろう。ほぼゼロでないか、やはりグルと見られてもどうしょうもない。
「現地民と仲良くやっています」は武力で押さえつけていた間だけの話であった。ナンボ悪者でも金品強奪くらいで土地までは奪わない、土地を奪い命を奪うなどは決してやってはならない、超極悪人でもしない、最低限の彼らなりのルールである。土地を奪うことは命を奪うのと同じである。日本はそれをやってきたのだから、彼らの怒りは強い。
開拓団にひるがえっていた二つの国旗、上に日の丸、その下に五色の「満州国旗」がすぐに降ろされた。
世の終わりかと思われるすさまじい怒号が開拓団を取り囲んだ、ファンゴライ、ファンゴライと叫んでいた、天地がひっくり返ったゾ、と言っている。驕る者は久しからず。
←満州国旗。満州国は日本がデッチあげた傀儡国家。下地の黄色は満州人、赤が日本人、青は中国人、白はモンゴル人、黒は朝鮮人を表した。敗戦を知って真っ先に二つの国旗は降ろされた、こんなものはヤバイとさすがに知っていたのである。満州国の国語も日本語と満州語、もしくはモンゴル語であった。別に満州語を知らなくとも日本語だけでほぼ不自由なく旅行できたという。この優越感、奢り高ぶり、その裏側は現地人への侮蔑感である、何も正当な根拠はない、満州では日本人は何をしてもOKと日本人は勝手に考えていた。ワレも人なり、カレも人なり、の当然の認識はなかった、ワレは神なり、カレはブタなりであった(過去形でなく今も多くはそう考えている、だから何も反省はない)。
開拓団に中にはワルもいる、一人や二人はヘンな優越感丸出しにして、現地人を馬鹿にして、だましたり、蔑視したり、いじめたり、ささいなことで殺害もしたりした、そうした者がいる、特に目に余る者がいる団は全体が特に恨まれた。
『草の根のファシズム』に、
〈
日本からの開拓民の入植は、中国民衆の生活権を脅かすことになるため、現地の民衆の反応は「相当鋭敏」なものがある。ところが、開拓民に対する教育は、国策移民として「国士的気概」を注入しているため、開拓民は現地の中国民衆を蔑視し「殴打、暴行、甚だしきは殺害するに至らしめ、而も之が集団的なる為し中国人は圧迫・迫害されたと感じている。日常的に起っている開拓民と中国民衆との紛争・暴行事件は「多く開拓民側の不法に端を発し」ている。
満州に新しく流入した日本人の大部分は「腰掛的気分」でやって来、浮かれ気分で過ごしており、官吏・協和会職員・特殊会社従業員など指導的立場にある者が、率先して中国民衆との「相剋を惹起し、或は泥酔徘徊して醜態を満人民衆の環境に曝」している。
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この書が「 」で引いているのは大本営陸軍部研究班の報告書である。ファシストの大親玉ですらが、眉をひそめるほどのものであった。
少年義勇軍にもあった、だいたい最初からずさんな計画でよいかげんな机上プランで送られている、現地へ到着してみれば何もないただ荒野だった、もう−20℃の冬が近づいているのにどうするんだ、現地「訓練所」とはそうしたものであったという。行け行けと言うだけの調子者の無責任な無謀な連中が進めているのだから、エエカゲンは当然と言えば言えようか、それにしてもヒドイもので周到な受け入れ施設などはまったくなかった。義勇軍は自給自活するから必要がない、というのである。実際に現地予算はゼロであった。中2くらいの少年たちがである。
どこかの原発「容認」派のような者ばかりがアトサキの考えもなしにゴリ押しした現地も知らない空論に基づいた計画の結果であったのである。何大和魂があれば、予算や施設などなくとも出来るのカラ精神論だけだったのである。
(キチガイかアホかと、驚いた現地担当者が東京に飛んで何とか予算を獲得し、入植3年後の自活をめざすとするようになったという)
そこへ判断力の弱い少年ばかりだし、軍隊といっても軍隊のとしての規制はなく、ウラでは何をしてもやり放題という無法の訓練所でもあった。その不満が弱い所へ向けて爆発する。心は荒れすさんで現地人の畑から作物ゆ動物をチョロマカス、鉄砲突きつけて強奪するくらいでは済まない、集団で周辺の原住民集落を襲った。
実生活から隔離されて、狂った「狂育」を受けて、彼らを指導できるまともな人物がいないのだから、いるはずもないのだから、頭も狂いとんでもない方向へ集団暴走しても何もおかしくはない。「すまんキミ達に責任はない、大人が悪かった」と認めた上は偉かったかも知れない。今だったらそれを認める大人もいないかも、子供が悪いんですわ、成人年齢を引き下げて処罰を強くしましょう…
『舞鶴市史』
〈
満蒙開拓青少年義勇軍
昭和七年三月、満州国建国宣言が行われ、同九年に帝政を実施した。この年十一月、満州国へ武装移民団四一六人が日本を後にした。同十二年になって満州移民講演会並びに映画会が明倫小学校を会場に開催されているが、満蒙開拓青少年義勇軍編成についての打合会や講話が行われたのは翌十三年となっている。同十四年三月に大陸拓士が出発したが、これは舞鶴市内から送り出した満蒙開拓青少年義勇軍の最初である。以後、茨城県内原訓練所への青年教師派遣や満蒙開拓座談会、移民思想普及講演映画会、現地報告会等が開催されるようになった。
同十五年には高等科児童に対し拓務訓練開始の拓務省通達等もあって、同年八月には夏休みを利用して、岡田下小学校を会場に舞鶴市・東舞鶴市・加佐郡児童拓殖訓練を四日間開催している。翌年は舞鶴市は高野国民学校、東舞鶴市は新舞鶴国民学校で、同十七年は舞鶴市は余内国民学校、東舞鶴市は与保呂国民学校でそれぞれ拓殖訓練を開いた。
この拓殖訓練は合宿生活訓練を行いながら皇国精神の体得、国策満蒙開拓青少年義勇軍の真義の理解と参加の気運醸成をはかろうとするもので、舞鶴市拓殖訓練部統括のもとに実施された。期間中は毎朝夕の点呼、食事訓練・学科・教練並びに体操及び作業が課せられ、野営・野外作業・行軍その他特殊訓練を施した。これら皇国精神を基調とした合宿訓練によって行の生活を通して心身の鍛錬を行い、進んで青少年義勇軍に対する理解と感激を深くしようと努めた。開拓訓練は大陸国策に基づく興亜訓練であり、内原訓練所や農民道場の教育に類するので、指導者には主として内原訓練所で拓殖講習を受けた教員が当てられた。
一方、満蒙開拓青少年義勇軍の父兄や親権者たちは、昭和十七年三月、相互の親睦、義勇軍参加の勧誘等を目的とする満蒙開拓青少年義勇軍両舞鶴市加佐郡父兄会の設立総会を舞鶴市公会堂で開催した。
昭和十五年度から青少年義勇軍京都中隊を編成するようになったが、小学校日誌には次の記録がある。
(昭和十三年)
一月二十九日 土曜 晴天 満蒙開拓青少年義勇軍編成打合会 於公会堂 一○・○○ヨリ
三月十三日 土曜 雨天 満蒙開拓青少年義勇軍ニ関スル講話 於吉原校 U男聴講 后二・○○
(同十四年)
三月十五日 水曜 曇天 大陸拓士壮行会 五以上 朝会時
学校長訓話 児童代表送辞 訓練生代表答辞 記念品贈与 校歌合唱
健康祈願祭 於朝代神社 高等科全 バンド
祈願 万歳三唱
卒業一証書授与 事務室
御真影奉拝 送別会 U男 於旧講堂
三月十六日 木曜 曇天 大陸拓士見送り 第二時 五以上校庭ニテ 高男 駅ニテ見送リ
(同十五年)
八月四日 日曜 晴天夕立 拓殖訓練(岡田下) 七日マデ
十一月十四日 木曜 晴天 満蒙開拓青少年義勇軍京都中隊編成促進協議会 后一・○○ 於西裁
(同十六年)
七月十一日 金曜 曇天 義勇軍京都中隊送旧協議会 后一・○○ 府庁
八月四日 月曜 晴天 拓殖訓練 本日ヨリ七日マデ 於高野校 后二・○○ 入所式 高二男二十二名参加
八月七日 木曜 晴天 拓殖訓練 本日終了 前一○・○○
(同十七年)
三月二十二日 日曜 晴天 満蒙開拓青少年義勇軍父兄会設立総会 前一○・○○ 公会堂
七月二十四日 金曜 舞鶴市児童拓殖訓練 第一日 於余内校 開所式 一四・○○
七月二十七日 月曜 舞鶴市児童拓殖訓練 第四日 閉所式 一○・○○
同十二月二十六日 土曜 雪天 満蒙開拓青少年義勇軍指導懇談会 前一○・○○ 於本校西裁
主催京都府 参会者範囲 西舞鶴市内各国民学校長 指導主任 第一回訓練生保護者
第三回合格者及其ノ保護者
(同十九年)
三月三日 金曜 晴天 義勇軍父兄会 后一・○○ 同壮行会 后二・○○ 中舞鶴校
三月六日 月曜 曇天 第四回京都中隊義勇軍 郷土出発 一三・一八発
九月十八日 月曜 青少年義勇軍第五回京都中隊編成協議会 后一・○○ 本校
(同二十年)
二月二日 金曜 義勇軍第五回京都中隊入隊者壮行式 后四・○○ 講堂 初五以上参列
本市ヨリ十四名ノ中 本校ヨリ左記四名合格参加(氏名略)
二月三日 土曜 市主催 義勇軍壮行式出発 一二・二○ 駅前見送り 初五六全
五月二十五日 金曜 晴天 義勇軍第六京都中隊編成協議会 二・○○ 敷島校
七月十一日 水曜 曇後雨天 満蒙開拓青少年義勇軍詮衡 一○・○○ 敷島校
本校ヨリ左記七名受験合格(氏名略)
(明倫小学校日誌))
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『舞鶴市史・年表』
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昭和七年 4・ 舞鶴町・与謝郡養老町・竹野郡郷村の移住農家四〇戸が渡満(府下最初)
昭和十二年 2・3満州移民講演会並びに映画会開催(明倫小学校)
昭和十三年 1・29満蒙開拓青少年義勇軍編成打合会開催(舞鶴公会堂)
3・13満蒙開拓青少年義勇軍について講話実施(吉原校)
この年 八雲村、満州開拓八雲村分村計画を立案し府に提出
昭和十四年 2・14満蒙開拓講習会(舞鶴中学校) (明倫校誌)
3・15明倫小学校、大陸拓士(満蒙開拓青少年義勇軍訓練生)壮行会挙行 (明倫校誌)
昭和十五年
この年満蒙開拓義勇軍京都中隊編成
昭和十七年 3・22満蒙開拓青少年義勇軍両舞鶴市加佐郡父兄会設立総会
7・24舞鶴市児童拓殖訓練開催(四日間、余内国民学校) (明倫校誌)
昭和十八年 3・6中舞鶴国民学校、満蒙開拓青少年義勇軍出発壮行会 (中舞鶴校誌)
3・17明倫国民学校、満蒙開拓青少年義勇軍壮行会 (明倫校誌)
昭和十九年 3・6 満蒙開拓青少年義勇軍第四回京都中隊郷土出発 (明倫校誌)
〉
市史にあるのは以上がすべてである。開拓団は7戸くらいか、満州天田郷の記録には舞鶴から誰と見られるが市史には記録がない正確には不明、義勇軍は終戦の直前まで送られたようで、全体としてどれくらいの人数になり、どれくらいの犠牲がどうして生じたものかは不明。義勇軍は一応は軍隊だから、「特定機密情報」だろうから開拓団より調査はさらに困難と思われる。
(一応軍人と言うか、軍人並の遺族補償と恩給補償があるとか、死ねば靖国神社に祀られるとか)
舞鶴分は昭和15年まではわかるが、その後の5年については調べられるものかも不明。たぶん生き残った者の証言しかなかろうかと思われる。
義勇軍は日本全体では86530人(91903人とも)、そのうち24000人が亡くなったと研究者によって推定されている。
昭和16年度からが不明だが、この時期になると海兵団への少年入団も割当になっていて、こちらの方へ力を入れたかもわからない。もちろん海兵団に入っても死である、軍艦と共に沈む運命であった。学級から最低でも2名とかの強制であった。
開拓団入植は目標の500万人計画にははるかに及ばず、実際は27万人とされ、そのうち8万人が亡くなったという。義勇軍はこの足らず分の穴埋めであった。
満州開拓団は、特に青少年義勇軍は、純に農業的な観点から入植地が選ばれたのではない。荒野を開き種蒔く人というこんにちの日本人が抱いているような平和な牧歌的なものではなく、彼らには実は国防という軍事上の任務があった、軍の予備軍であった。従ってソ連国境に近い所、軍事上の重要拠点に近い所ヘ送り込まれて、「人間トーチカ」になる役割があった。開拓団も義勇軍も一応の主管は拓務省であったが、実際は完全に関東軍の思い通りになっていた。関東軍の捨て駒であり、ほとんどが軍の駐屯地や基地よりも先の敵地前線に近い所に入植させれていた。
移民団は50%がソ満国境に近い所ヘ、40%が抗日ゲリラが出没する地へ、10%が重要拠点都市満鉄周辺に入植していた。都市の近くというのは、日本の満洲支配といっても点と線だけで、日本が拠点とした都市や鉄道などのすぐ横が満人集落でしっかりと取り囲まれる状態は具合が悪い、ここが抗日ゲリラの拠点となってしまうと考え、そこを強制撤去させて日本人に入植させたのである。
まさにタマヨケとして「シコのミタテ」として捨て石として最前線に配置されていて、何かあれば死んでくれの配置であった。
「非常に希望の多い、絶対に安全なことを信じています」と、入植勧誘の「訴え」はつづける。
何かどこかで聞いたような原発再稼働容認派が言うような話を愚かにも信じていた。開拓団にはラジオも新聞もなかった、戦況などは知るすべがなかった。「なに無敵の精鋭関東軍がおるから」「国家事業だから危険などあるはすがない」「神国が負けるか」と安全神話を疑いもせずノンキに構えていたが、その関東軍はソ連侵攻はいつあってもおかしくないと見て、開拓団を前線に残したまま何も告げず密かに後方へ撤退していて、防衛戦を朝鮮国境近くまで引いていた、ソ連が本気で来たらどうしようもありまへんがな、満州は放棄してせめて朝鮮だけでも死守しようとしていた。主立った面々もホナバイナラして国内へ引き揚げていた、その穴埋めに開拓団の男子という男子は根こそぎ動員を受けて(昭和20.6ころ、18〜45才男子すべて、五日分の食糧を持って全員出征、学校の校長先生も出征、平和に暮らしていたが気が付けば戦局はもう最後であることがわかった、4万7千名とか。村に残るのは女子供老人病人だけになった)、にわか編成のド素人の「関東軍」となったが、満足な鉄砲さえ残されてはいなかった、タケヤリと棍棒(木銃)で「武装」した撃たれるままの張り子のカカシのようなものであった。彼ら急ごしらえの「関東軍兵士」はほとんどシベリア抑留となった気の毒なことであったが、しかしまた国際条約の保護によって無事帰国できた者も多かった、ある開拓団の統計では即席の軍人となった者の生還率は78%になる、一方団に残された家族の方は世帯の中心を失って最前線に残され、生還率は男30%、女24%。全滅を2度以上したことになる。
見捨てた関東軍に対する開拓民のウラミは深い、何よりも関東軍を恨んでいる。今もビドイこと恨んでいる。あれほど偉そうに言って、われらの食糧を軍に根こそぎ供出させ奪いながら、見捨てくさった。軍人軍属を最初に列車に乗せて逃げくさった、軍隊には国民を保護する役目があるでないか、その民間人をほったらかして最初に逃げた、それだけではない橋を壊して逃げくさった。何が軍隊か、何のための軍隊か、何が皇軍か、何が天皇か。国民を守るものでなかったのか。だまされた。死んでも恨むと。目をつり上げ涙浮かべ、口角泡を飛ばしてわめく。聞いていてもこわくなる。国民を守らず、天皇や軍隊は一体何を守るというのだろう、実際はてめえーらだけを守るというサイテーぶりの正体を見せてしまったが、同じ日本人として恥ずかしい、鉄砲に頼るものは所詮はそんな勝手な無責任なもの、邦人保護などは口先だけのこと、自分らを守るのが精一杯、そのためなら国民も殺すといったのものでしかない。
自国の軍隊やシドー者ですらそうなのだから、他国の軍隊が守ってくれるなどアホげきった妄想は持たないことである。
満州だけに起きた特殊な不幸な出来事ではない、沖縄など見れば分かる、戦争になればどこでも起こる、戦争になれば実はワレラが最初に軍隊に見捨てられ殺される。
舞鶴からも加わっていた隣町の天田福知山で編成された開拓団の生き残りが書かれた『生還者の証言−満洲天田郷建設史』は、
〈
西村増雄氏の証言によれば八月十日は亀井副団長以下十数名が第二天田郷をいわゆるねこそぎ動員により最後の応召者として出征した日である。引用の前掲資料によればこの日は関東軍司令部が軍家族に避難命令を出した日であり、更に中沢きよ氏の証言による八月十一日の第一天田郷の中沢英男校長以下十四名の出征の翌日十二日には、関東軍司令部は新京を放棄してすでに通化に逃げ出してしまっていたのである。
これは明らかに後藤蔵人氏のいわれるとおり、関東軍並びにその家族の避難を容易にする案山子の役割を果たさせるための身代り要員の動員であったのである。
この動員により団員の中核を失った開拓団のその後の状況は両氏の手記のとおりである。
関東軍がその存在使命であった「在満邦人の生命と権益の擁護」という任務を卑劣にも放棄し、一身一家の安全を守るために、在満邦人百数十万人を戦場に残して逃避し、ソ連軍の暴虐に任せ、その結果大半の生命を北満の荒野に晒させ、一家離散に追いやり、私達の家庭を破壊した悪逆非道の背信行為を私達は忘れないと共に、「軍部」というものが最悪の事態に直面したときに、どう変貌するものであるか、その結果一般庶民がどんな犠牲を被るものであるかの厳粛な証言として記憶しておいていただきたいと思う。
〉
どこの開拓団もそのように言っている。当館はそんな本当の怒り、歴史の真実の展示は日本の亡びた旧体制の護持にかかわる触れてはならないタブーとでも考えたのか、シベリア抑留のソ連への怒りにきれいにすり替えている。憎い憎いロシアが憎いと。
同書の著者である上垣氏はその後慰霊のため訪中する(昭和56)。挨拶のためと持って来た挨拶文を通訳にわたすと
〈
この複写を楊さんに見せたら大変をことが起きてしまった。「こんなあいさつをしたら駄目だ」楊さんは、さらに言葉を続けた。「中国を侵略していたのは日本だ。ソ連は、それを追い払ってくれた正義の軍だったのだ」それは私の文章にある 「日本軍閥の引き起した太平洋戦争のため、ソ連軍の侵入するところとなり、第二の故郷として永住の地と決ていた………」の個所を指していた。
私達は、満洲建国を正しいと認識させられ、ソ連の参戦を日ソ不可侵条約の一方的破棄による不当な行為と教えられていた。そのソ連軍の侵入で私たちは、六年間の開拓創建の新しい村をすてて逃避、多くの犠牲者を出した。また、私も戦場に狩り出され、ソ連軍の暴虐非道ぶりを体験し、シベリヤ抑留生活の苦難を味わっている。
そのソ連軍を 正義の軍″ だという言い分には感情的になんとも承服できない。論争になりかけたところで日向さんが割って入り、事なきをえて問題の個所を修正することで妥協した。
だが、あとでゆっくり反省すると、これは当時の日中両国の国際的な立場と世界観の相違。その後の推移を考えると、中国でこうした歴史教育がされていることも首肯されるし、世界に視野を広げることの必要性を痛感させられた。
〉
「ソ連は正義の軍だった」観は当館の「みんなロスケが悪かったから」観よりはずっと道理性は高い。当館の勝手な主張はロシアはもちろんとして中国にも受け入れられない。秘密で要請したアメリカにもイギリスにも受け入れられそうにはない。恐らく全世界が受け入れがたいものと思われる。
開拓団の悲劇を生んだ直接の原因がソ連の参戦にあったとは認めたとしても、その十分に見通せたソ連参戦に主原因があったと見るのは、その前史や背景などをトータルに見ない表面だけを見たもので歴史からは遠いであろう。世界史に残るほどに卑怯な関東軍ならびの大本営や軍部指導部の肩を持ちすぎたものであり、実際の引揚者の同意はなんら得られぬものであろう。
何も事前の準備がなかったのは開拓民だけで、突然攻めて来たソ連が悪いと吠える当の日本人など主立った面々はすでに満州からホナパイナラをしていたでないか、なぜ逃げたのか、ちゃんと知っていたのでないか、現地人同士でもちゃんと打合せができていた、チャンスが来ればこうして日本人をたたき出すとソ連が来る様子もないころからすでに申し合わせ彼らのネットを使い秘密裏にできていた、そうでなければ敗戦と同時に全土で一斉に蜂起できたりはしなかった、いつ爆発してもおかしくない、そうした活火山上の開拓団、いつ事故があってもおかしくないそんな原発や米軍基地周辺に安全ですとだまされて開拓団は置かれたのであった。
開拓民は日本が負けるわけがないと教えられていて、こんな日が来るとはツユ思ってはいなかった。
襲った者が襲われた歴史であったかも知れない、各方面で十分に準備が出来ていた、だまされて特に何も事前の準備もなかった開拓民に被害が集中したのであった。だました当人は先に逃げてソ連が悪いという、本当はオマエが悪いのでないか、誤れる襲う国策がそもそも悪いのではないか。
「われわれの敵は日本人だ」「ソ連や満人から打ちのめされましたが、憎むことはできません。戦争を始めた人、開拓団を送った人を心から憎む」と。実際の義勇軍や開拓団民はそう言っているのだが、その当然の声を消して、それをねじまげる勝手な展示で、たいへんに卑怯、正気かと言わざるを得ない。
すでに昭和20年2月にはヤルタ会談が行われ、そこは密約だらけだが、「極東密約」も交わされてされていた。アメリカはドイツ降伏後のおおむね2、3ヵ月後にソ連に対日参戦するよう要請、中立条約が有効だし国内は壊滅状態、そんなことはムリですわと渋るスターリンに、ルーズベルトは、二国間条約より国際連盟憲章が優先する、また見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々権益(ポーツマス条約により日本が得た旅順港や満鉄といった日本の特殊権益)を与える、一日も早く戦争を終わらせたい力を貸してくれ、というものであった。まだ原爆はなく、もし日本本土上陸作戦となればアメリカ側には100万人の犠牲がでそうだと見ていた、ノルマンジーとかアメリカがドイツとの戦争で失った犠牲者は20万人にもならない、100万なんて、マジか、たまったものでない、ソ連を対日戦に引き込み犠牲を半分でも背負ってもらうことはきわめて重要な戦略であった。勝手なご都合主義のその場その場主義のアメリカらしい要領のよい考えである。中国さんに厳しく制裁に加わってもらわないと、と同じで、これまでの中国敵視政策はどこへ消えたの、の感じである。この目先だけのその場主義が世界を大混乱させる。
しかしアメリカの外交は日本とは格違いに上手で、表面はともかくも裏では利用できるものは何でも利用する、膨大な物資支援と引き替えに真珠湾直後から強く働きかけ、早くからソ連の対日参戦の同意は得ていた、あとはその時期だけであった。前年のソ連革命記念日にはスターリンは日本を侵略国と呼んで非難していた、日本は南方に忙しく、ソ連はドイツとの戦争が手一杯で、日ソ間は一時的には平穏であったが、この演説はその雲行きがいよいよあやしくなってきたのを感じさせた。
4月にはソ連は「日ソ中立条約」の期限の不延期を通告してきた、日本側では不延期通知と言うが、ロシア側では「破棄通知」とされていて同条約を破棄したことを意味していた(日本側はそう解釈していなかったというが、満洲国の日本人役人などははっきりとこれを廃棄通告と書いている)。スパイ(外務省クーリエに化けていた)の情報ではシベリア鉄道を使って兵員が続々と東ヘ送られ、動き活発と知らせてきていた。大本営ではソ連参戦は8、9月、兵員は160万、戦車3000、航空機5600と推測していた、どの方面からどれだけとか、さらに詳しく分析し知っていた(6月段階、これに従い関東軍は朝鮮国境付近まで下がった)。条約がどうあれあるいは日本側が表向きどう解釈していようが、何も担保のない二国間条約だから相手側がクズクズ言い出せばヤバイことが差し迫っていたことは間違いなかった、大本営は知っていて国民には秘密にしていた。
ヤルタで何が話されたのかは日本は知らなかったが、ソ連軍の動きからだいたいそう予想したようである。
独ソ戦が始まった(昭16)直後に行った「関特演」は実は演習というものではなく、ソ連を日独で挟み撃ちにしようとした軍備大増強対ソ戦開戦準備策であった、内地では大量の招集と軍馬の徴発があったが、それは秘密裏であり、壮行会などは禁止されていた。
満ソ国境は一触即発の状況で今にも戦争になるかもという空気であったという。これにより関東軍は28万から74万の大兵力になった。ソ連が反対側から攻められて苦戦をしている中だから、こちら側に攻めてきたりすることは絶対にない、それなのにでなぜこのような大増強をしたのであろう、理由はチャンスとみてこっち側からも攻めるぞという気になったということしか考えられない、その後の戦況の変化から開戦には至らなかったが、ソ連は苦しい中でもこちら側にも兵力を置かざるをえず、東西からの実質の挟み撃ちになっていた。もし日本に有利に戦況がすすんでいたならば、ノモンハンをずっと大きくした戦争が日本側より始められたと思われる。条約破りは実質日本が先で、条約を守る気がない以上はこの時点で終了していたとソ連は言う。(ソ連側の苦しい言い訳かも知れないが、中立条約は16年の4月の集結で、その3ヶ月後に関特演が行われた。これ以前の昭和13年に張鼓峰事件、14年にはノモンハン事件があった、いずれも国境不明地点で関東軍側が攻撃をしかけて逆に大打撃を受けたものであった、条約破りと責める日本側も苦しい)
独ソ不可侵条約(昭14)を破ってドイツが進攻した、これも「突如」ではなかった、有名なゾルゲはじめ外国の情報部からすらも公式に「そっちへ行くぞ」とソ連へは知らされていた、6月何日150個師団の兵力と警告していた。ソ連はその2年前から赤軍大粛清をしていてソ連軍も経験豊かな幹部を大量に失っていて(旅団長以上の45%が殺害されたという)初期は敗戦が続き2000万とかのものすごい犠牲が出た。不可侵条約を破りくさったドイツが悪いなどという子供が言うようなことはソ連は言わない、そうしたもので、何の担保もない二国間条約は、まして大国との条約は弱国側には不利で口約束のような頼りなくすぐ破られる、今の在日米軍の「約束」のようなものである、ないのも同然のアテないもの、破ったからと言って誰も何も責任はとらない、破っても罰則はない、破り放題のものである、国際連盟が責任をとってくれたりはしないけれども、それからすら脱退していた、まったくの孤立国憎まれ国問題国でイッチョ前の信頼ある国家たる努力はいっさいしなかった、イッチョ前であったとしてもそもそもはじめから絶対に有効とかいったものではない、コソコソと皆の目を盗んでワルを繰り返した、隣家に大挙して押し入り殺し尽くし奪い尽くし焼き尽くす、集会へ出て来いといっても隠れて出て来ない。当人は神のつもりで頭がイカレていい調子のようたが、外から見ればヤパイ極まるヤツであった。
これでは条約は守ってはくれまい、とそれを見越した対応をしなかった者が本当はダメである。カノジョがあのときの口約束を破りくさって破談になった、オレの人生がメチャクチャになった、カノジョが悪い、そんなことを言って回ったりまして展示する男がいたら、こいつそうとうにアホだと思うだろう、世の中はそんな事ばかりでないか、こんな男との口約束を破ったカノジョが正解だなと、同情はカノジョに移る。甘ったれのバカお子ちゃまだと全世界から笑われたくなければ、しっかり男らしくその全責任を負うのが当然であろう。まして普段の素行かんばしくなく自分の方が先に破る行動をしその破談直前まで行っていた、ただ周囲の情勢からたまたま実行にはならなかったというだけのものでなかったか。そしてそうでしかえ、そんなことしましたかえ、とそれはとぼけている。守るべき自国民すら捨ててバイナラした連中である、こんな者が何していたかはだいたいは想像ができよう。そのようなどうしょうもないドクソであっても、犯罪者にも人権がある、盗人にも三分の利があると言うような話であって、言い訳にもならない、言い出すだけの資格を自らが捨てている。そう言うなら初めから信頼される国家づくり軍づくりに真剣に励めよ。
頼りない当館であっても、そうした無責任で幼稚園児のようなシンから腐り果てた史観のマネなどは間違ってもせぬことである。これだけの痛恨の犠牲のまことの責任を問わなければ笑われるだけである。
日本の多くの都市が空襲で焼き払われ、沖縄に米軍が上陸したのは3月であった、しかし日本が焼けても満州がある、そこに日本を作ればいいでないかと、この時期になっても「開拓団」は送り出され続けた。京都市編成の第二次平安郷開拓団などは4月28日に京都を出発している。中国人たちは「キミたちの国はもう負ける、ここにいたらヤバイ、早く日本へ帰るがいい」と言う、「いや帰らない、神国は負けない」と言うのであった。もう何も見えていないのであった。
ドイツ降伏は5月8日であった。ドイツ戦線から大部隊が転戦してくるぞ、6月には満州の守護神だったはずの関東軍が秘密裏に撤退を始めた、図們・新京・大連を結ぶ線まで下がり始めた、満州は捨て朝鮮で死守の作戦始動であった。新京が飛び出しているが、ここが満州国首都だからであり、捨てようがなく、一応はここまではというようなことか。しかしソ連参戦を知った関東軍総司令部は即刻、新京から通化へ移った、皇帝も臨江に移った(通化は古代の高句麗国の前期王都(丸都山城)、広開土王碑もここにあるから、ここはもう朝鮮である。臨江は地図にないが、白頭山麓の鴨緑江沿いの朝鮮国境の小さな町。満州は全部捨てて朝鮮に籠もるということになる)。
『流れる星は生きている』でも9日夜には政府役人の家族も新京駅へ急いでいる。トラックがひっきりなし通りその上には軍の家族と荷物が満載されていた、軍の家族が続々と列をなして駅の中に吸い込まれていく、という。彼女らを乗せた無蓋貨車は国境を越え朝鮮へ向けて走った。満州国は全土が即刻捨てられた。
参戦してくる2月も前に関東軍は満州から逃げ去った、軍機であり重要機密情報で軍人達は知ってはいたが、それを話すことはなかった、主立つ日本人面々だけはそれを知らされていたか、あるいは悟ったたのか満州を去っていた、ワタシが言うまでもなく、彼らは知っていて覚悟し、逃げる計画ができていたのである。条約を破って突如襲ってきた、はウソである。それはキミたちでなく開拓民のハナシである。彼らとて多少はその危険を知ってはいただろうが、信じたキミたちが知らさなかったから知らなかったのである。こうした軍や国家の方針で開拓民はみすみす死地に何も知らぬまま残された、ナニ無敵関東軍が守ってくれると信じたまま。
通化に逃げるは事前の作戦要項に沿ったものだが、その通化基地は急ごしらえで通信設備もなかった、これでは全軍の指揮が執れない、しかたなくまた新京へ司令部は戻った、大事な時に司令部はこんなことをしてムダに時間を失うのであった。
関東軍ではソ連の進攻はたぶん9月だろうと予測していた、どうした根拠あってのことかがわからない、予測日と言うのか、どうかそうあってくれの希望日というのが正解か。
ヤバイ、関東軍では防衛できない、撤退してくれ、と開拓民を最初に引き揚げさせていれば、8万人の犠牲は防げたのである。それをせず置き去りにしたのである。ヤルタ密約の通りギリギリにソ連軍が侵攻した日(昭和20.8.9)、冬将軍到来を考えてもこの時期が限界と思われるが、それは西部戦線から移動させたものすごく強い軍も含む大軍で、150万の兵員と、2万6千門の火砲、5千輌を越す戦車、3千の航空機で一気に国境を越えてきた。関東軍50万と見て、その3倍、兵術書通りの律儀な作戦で、関東軍が仮に万全の体勢で迎え撃ったとしても勝ち目のない大軍であった。
アジア最強とか言われていた関東軍は弱かった、満州全土がわずか1週間で堕ちた、南方や内地に主力のほとんどが引き抜かれてはいたが、70万もの大兵力は一応はあったので、誰もまさかこんなにも弱いとは予想もしていなかった。
ロクな鉄砲もなく、男子がいない開拓団の末路は悲惨の極みであった。安全神話を信じ切って、何があるか不明の異郷での普段からの現地人とのつきあい方も心得ず、「もしも」の時の対処法も避難路も何も考えがなかった、頭の中が真っ白になった、対応は各団バラバラであった、開拓地を死守しようとした団もあれば、即時引き揚げる団もあった、「産めよ増やせよ」の時代だったので団には小さい子供がむちゃくちゃ多かった、これを抱えて逃げる、「五族協和」は大ウソで、周囲はこれまで押さえつけていた「匪賊」ばかりで四面楚歌、いやいや全面楚歌でしかも何重にも取り囲まれていた。これまでのいきさつを見れば味方してくれる者などいるはずもない、だいたいどうなるかは想像はつこう。
「治安の確立、日本人の指導的立場に立っての活躍など、実に日本国民の誇りと有難さと今更ながら感激するのみであった」などの視察団の報告などは表面を一方からだけ垣間見たネゴトの類であった。
普段から医療奉仕などをしたり自分で開拓したりして、決して現地人に迷惑をかけず武器を手にしなかった、これぞまことの勇者の姿を見るようなキリスト教開拓団などは現地人が護衛をつけて守ってくれたが(リクツもクソもない窃盗集団が襲ってくるから)、一方天理教開拓団などは軽機関銃も備えていた武装団で全体が軍事基地さながらであったが、襲われて命がとられた。宗教開拓団でもそうしたことであったのだから、そのほかの一般団はそうした心得がない。「現地人に襲われた」などはよく聞くが、それは全体の結末部分だけのハナシで、先に自分ら心得などあるはずもなく現地人を襲っていた、その実際の過去を語っていないハナシになる。
開拓団には武器が大八車に何台分もあった、これを手にして身を守った者よりこれゆえに殺されたり、銃口を己や家族に向けて自決した者が多かった。武器を持たないことこそが最大の防衛、何も値のはりそうなものを持たない農民だから、武器は決して持たないこと、これに徹することであろうか。
根こそぎ動員で男子がいなく、まだしも女子供老人の非武装で逃げたからよかったとも言える、武器は身を守らない、ヘタに鉄砲など持つと、せっかく気の毒にと道案内してくれた親切な現地人を秘密がばれるなど殺したりする。世話になった農耕馬などもすべて銃殺した、敵に利用されぬように。日本人は危機に遭うとこうしたこともする、恩を仇で返した、それも多かったから、現地人が怒るのはアタリマエ、日本人はいかに困っていようが決して助けてはならない者だったのである。この人間にあらざる犬畜生の血は今のワレラのDNAにも流れている、一歩誤れば鬼も震える悪逆者になる、そうした者もいるだろうし、自分もそうだろうからから注意されよ。
日本人ってそんなにワルモノだろうか、そんなことはないで、と思われるだろう、自分の周囲の日本人や自分自身でもジっとそのワルイ面を観察してみられればどうか。こうした環境下だったら今でもありそうだな、と思われたりはしないだろうか。
←「引き揚げの長い道」(ちばてつや)(当館展示)
ちばさんは農民でなく都市の居留民で、この絵は開拓団ではなかろうと思われる。
鉄砲があったら心強そうに見えるが、それは誤り。男子が全員武装しているような団(たいていがそうだった)は外部からは戦闘部隊と見られて襲われるし、この鉄砲兵の都合悪くなれば、落伍者などに向けても発砲した、自分が出来るだけ身軽になりたいからである、我が身の方が可愛いに決まっていた。匪賊に襲われてあなたの家族は全員亡くなられました大変でした、などと彼は言うだろうが、それにしては怪我一つなくピンピンしている彼があるいは撃ったものかも知れないと一応強く疑われるのであった。
当時は軍民一体といった観念しかなく、民は軍人ではなく非戦闘員だといった観念は日本にはなかった、民といえども軍事訓練があり、夜間戦闘や対戦車肉迫攻撃法などをたたき込まれた、それでボロクソに負けて、最も弱い女子供が大量に犠牲になって、ずっとあとになってから「民は非戦闘員でないか、こんなに犠牲が出るのはテキがワルイからだ」と言っているのである。
明確に非戦闘員集団だと示すこと、武装もそうだし心構えもそうある、軍服に似たものは身につけない、日の丸などは掲げてはならない、「君が代」などは歌ってはならない、そうしたものは敵意こそ向けられることあっても、決して身を守ってはくれない。
「非戦闘員」などいう言葉は生まれてこのかた一度も聞いたこともなかろうが、彼らはずっと軍国教育だけをたたき込まれてきているので、民が軍と協力するのはあたりまえであり、非武装の日本市民といった、軍民一体思想に反する非国民、アカ的な考えはもともと誰も持たない、侵略の先兵であることを当然と思い込んだ者ばかり、鉄砲があれば安全だと思い込んだまま、敵だと見れば先制攻撃すれば勝つ、そうした観念しか持たないので、市民であるものが貧弱な武器を手に、タケヤリで敵重戦車に渡り合おうとして、それが市民である者の道だとしか考えなかった。それで負ければ自決する。軍国主義しか知らず、侵略主義しか教育されてこなかったことで自らが招いた悲しき宿命劇もまた多かった。
「市民にとっては、無抵抗こそ最大の戦力である。いかに暴戻残虐なるものも、無抵抗者に対しては手の下しようがないのである。
僅少な武装警官に掩護されたり、自ら若干の自衛装備をもっていたばかりに、開拓民等の避難集団がソ連の重火器の餌食となり、あるいは戦車に蹂躙されたりしたのは、無用有害の微少抵抗の反作用ではなかったろうか」と、ワタシが言うのではなく、関東軍参謀が、あとから言っている。あとからなら何とでも言える。先にいわんかい、ワシらは逃げるからキミらは軍人ではない市民なのだから無抵抗でいけよ」と、そうしたことは何も言わず、避難民がワルイかのような言い方である。
有名な「葛根廟事件」(8/14)でも避難民の長い行列に数台のソ連軍戦車が入ってきた、それを見て一部日本人男子が刀を抜いたり(白旗を掲げた−との話もあるが実際に見ていた人は、「馬上刀を抜いた」としている)、男子は全員武装していて戦車に向けて鉄砲を撃ちかけたという、相手は正規軍である、テロみたいなことをすればテロ集団と見て撃たねばならなくなる、殺してくれと言っているような無謀な行為である、1200名ばかりの避難民のほとんどが自決(半分くらいは自決といわれる−軍の命令で自決したのではない)も含めて全滅することになった。白旗を掲げたというのは本当か、避難行動の最初に全員に青酸カリが配られていて、降伏するくらいなら自決と決められていた、白旗など掲げれば味方から撃たれただろう、疑わざるを得ない、「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓が生きているから兵隊は降伏できない、8/17に降伏してもOKの勅語が出て、それ以降に軍の守備隊などが白旗を掲げた、それを見た兵達はわが目を疑ったなどの記録はあるが、満州避難団がそれ以前に白旗を掲げた例はワタシはいまだ聞かない。いくらかは生き延びていてその証言だろうか、5キロにも伸びた長い行列のなかでよほど近くにいた人でなければ、実際の本当の事情はわからない。戦車を見れば高粱畑に隠れたとかいう話は聞くが、カタナを振り上げたり、鉄砲で応戦したというのもこの避難団だけではなかろうか、古武士の美学なのか知らないが時代が違いすぎる、バカみいたなことにこだわっているばかりでなく、相手と自分をよく見て行動しないと本当に命を失うことになりかねまい。なお日ソの「停戦協定」(ソ連軍から関東軍への命令伝達)ができたのは8/15ではなく8/19で、しかもその命令も通信途絶で伝わらない部隊も多かった。またこの時にシベリア抑留の密約(シャリコーバ密約)もなされたのでないのかとのウワサもある。関東軍参謀が停戦命令を受けただけのようで、暴走関東軍とはいえそうした密約が勝手に取り決められるものではないと思われるが、抑留は日本側も売り渡したのではないかの疑惑はほかでも見られた。
名著の定評ある書を手に入れた。まさかこの書が買えるとは思ってもいなかった、安くとも1万は下るまいと見ていたが、意外と安かった、ありがたい。
『あゝホロンバイル−元満洲国興安省在住邦人終戦史録−』で、佐村恵利氏編。獣医さんで、昭和56年発行。
日本では通説的になっているソ連戦車T35による非武装住民の虐殺史観なども本書にも一応は引かれているが、それは2000メートルも後方で見ていて、人は黒い点にしか見えなかったが、というもの、氏の目は下に引かせてもらったように見ておられるよう。
〈
葛根廟事件
(興安街東半部の避難疎開概況)
…かくて、浅野隊は十四日早朝漸く行動を起し、午前十一時頃葛根廟手前の丘に達した時、突然、数台のソ連軍戦車が横ざまに山陰より列中にはいって来た。之をいぶかって最後尾より馬を飛ばして来た浅野参事官は、車上にソ連兵の姿を見て、馬上刀を抜いたところを機銃に倒され、男子は小銃をもって応戦したが、戦車に向っては所詮蟷螂に斧、然も何の遮蔽物もない丘の上で敵戦車の掃射を浴び、葛根廟の山麓を紅に染めて千二百余名の集団殆どが、自決も含めて全滅を期する大惨事となった。
〉
避難団に敗残日本兵が何名か紛れ込んでいたり、併行して逃げていることもある、そうした者は団の統制外であるし、かまってもおれない、こうした事態に直面してバカな男子が鉄砲を撃ったりもした、しかし多くは女子供の非武装集団であったのだから、ソ連やりすぎの非難はまぬかれそうにはないが、戦場で武装していて、こちらから先に挑発すれば、思わぬ大反撃も覚悟しなければなるまい、意味のない戦争をふっかけていれば、ヘタすれば原爆を投下されるかも知れない。こちらがキチガイにハモノをしていれば、相手も紳士ばかりとは限らないいきなりキレテしまうかも知れない。
名著だが、なぜ現地蒙古人が「土匪」となって「東洋鬼!打殺!打殺!」と叫びながら避難団を襲ったかの考察がない、土地を取られ、独立を取られた現地人からの視点がほぼ見られないのが欠点か。現地人省長をスパイ罪をテッチ上げて銃殺した話はあるが、「土民」襲撃に何度も遭っていながら、当時の植民者の観念は越えられてはいないようである。当時の周囲への配慮からから心ならずこうした記述にするしか仕方なかったのかも知れないが、後の者が読めば何か現地人がワルイかのように取られてしまおう、ワルイのはどちらかを書くべきであろう。それに気づかなかったゆえの悲劇が今後も続いていくことになりかねない。
「土匪」はもともとクワカマ類しかなく武器はもっていないが、日本側が捨てたりしたものを大量に手に入れたようである、自分の武器で自分が撃たれた。
「轢っ殺してゆけ!」
司馬遼太郎氏がどこかで書いていたが、彼は関東軍の戦車部隊にいたのだが、それが引き抜かれて北関東で本土決戦に備えていた。97式中戦車→
(司馬氏の戦車部隊はもともとは牡丹江省石頭に駐屯していたとか、ここは「岸壁の母」の一人息子(新二)さんがいた予備士官学校もあった所と思われる。息子さんは箱爆薬を抱いてソ連戦車に飛び込まれた、あるいは爆弾や手榴弾を身体に縛り付けソ連兵の中に紛れ込み自爆されたのではなかろうかと推測されている)
なんとも戦車というモノを知らない、カネも技術も生産力もない陸軍の防衛も攻撃もできるようなシロモノではないヒミツ兵器、付いている砲は何とも砲身が短いがこれは戦車砲でなく47ミリ榴弾砲、装甲は25ミリのブリキのオモチャ戦車、こんなものは戦車ではない、歩兵が守ってやらねばならないようなモノだった、これでも九十九里浜か相模湾あたりに上陸してくるであろう米軍から帝都を防衛する切り札であった、三八式歩兵銃とか、日本陸軍の時代遅れのタケヤリ武器を象徴するものとしてよく取り上げられる、不敗などと言っていたが何も知らないアホばかりが威張り散らしていただけのものであった、負けて当然を象徴するようなものであった。こんなモノでゴトゴトと敵へ向けて進んでいけば、避難してくる大量の国民と遭遇するするだろう、狭い道路で鉢合わせしたらどうすればいいのかと問うた。その答えが「轢っ殺してゆけ」であったという。命をかけて一体ワレラは何を守っているのかと、司馬氏は思ったとか、のちの彼の思想の根底を形作った原体験であったと思われる。おらおら道をどけんかえ、どかなんだら轢き殺すぞ、味方の「戦車」でもそんなものだから、戦車をみたら逃げろ。今ならそうだが、当時の大和魂に敵はないの軍国主義の元ではこれにタケヤリ突撃して破壊するが当然だったのである。ノモンハンでも使われた「戦車」だが、そのコテンパーの敗戦に学ばず、改良を加えることはなかったという。
端野新二氏の最後については、同じ予備士官学校の候補生だった佐藤清氏の『画文集 シベリア虜囚記』が発行されていて参考になる。←
〈
ソ満国境全域から侵入したソ連軍は、国境守備の日本軍を一蹴し、怒涛の勢いで満州の心臓部へと南下してきた。
当時わが石頭陸軍予備士官学校十三期生は牡丹江の南にある石頭の地で教育途中であったが、ソ連軍の侵攻に対して、三六〇〇名の隊員を荒木連隊と小松連隊に二分し戦時編成とした。この二つの連隊のうち、荒木連隊は東満の軍事基地牡丹江を目指すソ連軍機甲部隊を遊撃するために石頭から北上し、ムーリン街道の要衝である掖河・磨刀石に布陣して進攻するおびただしいT34重戦車にたちむかった。素手にもひとしい装備を以ってしてはいかんともしがたく、このうえなく悲痛な肉迫攻撃の後、六〇〇名にのぼる戦死者を出し壊滅したが、三日にわたってソ連軍の進撃をはばみ、牡丹江にいる日本人居留民の避難を容易にした。
〉
新二・士官候補生はこの磨刀石陣地で8月15日戦死と広報にはある(当館展示)。「いや生きていて上海におってらしいよ」などと舞鶴ではすぐ言うが、そこがどんな戦場であり、この戦場から生きて帰るなどは奇跡でもムリだったろうなどは知らないようである。
T34は第二次大戦中の最高傑作戦車の評価高い戦車であった。日本の自称「戦車」などはまったく屁でもなく、タイガー戦車より上と言われた。装甲は90ミリ、キャタピラは幅広かった。日本側は10キロの即製濫造爆薬を敵前で急遽製作し信管がなかったが、古い手榴弾で代用し、これを抱いてキャタピラに飛び込む作戦だった。それはタケヤリ突撃程度のもので「蛙の顔に小便」の自殺行為以外の何物でもなく、人命をまったく無視した無謀作戦であったが、ソ連側がそれでも慎重に進軍させたため時間が稼げたというのである。
戦車を見て敵愾心よりも、その巨大な32屯の鉄の塊に驚きを感じた、また戦車周辺に群がるソ連歩兵も驚くほど逞しい身体をしていた。戦車部隊の補給についてくるトラック部隊のトラックはすべてアメリカ製の優秀なものであった。日本軍は何もなくテクと即席爆弾だけであった。
あったのは15センチ榴弾砲の1個中隊(4門)のみ、榴弾砲だから、近距離用の対戦車砲ではなく、動きまわる戦車に命中させることは難しいが、なんとか敵歩兵を吹き飛ばしてくれた、しかし味方もついでに吹き飛ばした、小口径の速射砲や野砲では命中させても屁でしかなかった。
舞鶴は「岸壁の母」の町である、磨刀石の悲惨な戦闘については、一般には割合によく知られているが、「岸壁の母の町」の当地ではほとんど知られてはいないように思われる。
もう少し引かせてもらうと−
禿げ山に「タコツボ」を堀り、その中にひそみ、進んでくるT34へ爆薬を抱いて飛び込むしかなかった。飛行機が上から見ているのでこうした陣地もマル見えであり、カチューシャロケット砲の猛烈な集中砲火をあびた。また戦車を取り巻いて一緒に歩兵が来るので、彼らにすぐに発見されてしまい、戦車に近づく前に撃たれた。
〈
掖河
われわれがたどった敗走の道を再び北上して、牡丹江の街を迂回し、掖河に着いたのは、冬をまじかにした晩秋であった。
激戦の跡はそのままに放置されていて、砲撃で崩れ落ちた赤煉瓦の兵舎が廃墟と化していた。あたり一面には砲弾の薬筴が散乱し、兵舎裏の台地には、十五榴一門が虚空に砲身を向け、あたかも関東軍の墓標のように残骸を晒していた。
腐爛した軍馬、軍服を剥がれて、袴下だけになった戦死者は、葬る人もなく、そこかしこに横たわっていた。
磨刀石に通ずる街道下の小さな川辺には、なかば白骨化した戦友が、半身を土の中にうもれ、這い上がるような姿で倒れていた。
掖河、磨刀石で闘った荒木連隊のことは、敦化に収容されたころからそれとなく風の便りには聞かされておったが、この無残な戦場に立ったとき、深夜あわただしく石頭を先発した荒木連隊の全滅を信じないわけにはゆかなかった。
ソ連軍はなぜわれわれを遠くこの掖河の戦場まで歩かせたのか。その真意はわからない。ただ石頭の戦友が散華した山河を、われわれの脳裏にしっかりと焼きつける機会にめぐりあわせ得たのも、神仏のひきあわせだったのだろうか−。
戦場の跡
「入ソ最後の梯団が、激戦の地、磨刀石を通過した。
その日、雪が降りしきり、かつての戦場は白一色に掩われていた。その中に真赤な十字架が林立していた。ソ連兵の墓である。おびただしい林のような、十字架の連なりであった。
雪の中に踏み入ってその墓標をのぞきこもうとしたとき、雪に掩われ、こんもりした地面から、仰向けにのぞく兵士の顔が見えた。日本兵の、それは候補生の屍体であった。
顎は朽ち、眼窩はくぼみ、真白な頬から骨が剥き出した候補生の姿である。〈いたぞ、ここにも。ああ、ここにも……〉)半狂乱のようになって、雪の中を駈けずり回った。あそこにも、ここにも無数のしゃれこうべが雪に埋もっていた。骸骨が、横たわっていた。
その軍服の襟には、くっきりとあの座金だけが光っている。階級章はむしりとられたのが多く、中には赤い階級章の布地は残っているのに、どういうわけか、軍曹の星二つだけが付いていないものもまた多かった。
勝ち誇ったソ連兵が、日本兵の屍体から、勝利の証に階級章の「星」、彼らのいうズベズタを奪い去っていったのか。」
(南雅也著 『我は銃火にまだ死なず』より)
〉
参謀はすでに気が狂っていたと書かれているが、こんなこともあったという。
毒ガス手榴弾。
〈
チビ弾と野犬
丸いガラス球に濁ったピンク色の液体が入っていて、それを手榴弾のように投げつけると、ガラス球は毀れて白い煙が立ち、その煙を吸うと一瞬にして死んでしまうというチビ弾が、わが陸軍自慢の秘密兵器であった。チビ弾はつまりは毒ガス弾なのである。
野犬を捕らえてきて木に縛りつけると、前に大きな穴を掘り、後には莚をたて風がこちらにこないようにして、チビ弾の投擲演習が行われた。
尻尾を巻いた犬は、白煙が上ると「キヤン」 と一声、悲鳴とともに穴の中にころげ落ちてしまうのであった。
チビ弾は風上から風下に向って投げないと、逆にこちらがやられてしまうという、投げる方にとっても、物騒な代物であった。敵戦車の目つぶし用兵器だったのだが、実戦では、風は必ずしも風下にばかり吹いてはいないので、始めから実戦むきではなかった。
出陣のとき、二、三個ずつ茶筒のような容器に入れて持たされたが、苦しい行軍の途中、めいめい満州の山野に捨ててしまった、あとのことも考えずに。
〉
中味は液体青酸(シアン化合物)という、国際条約違反である。こんな違反などはヘッサラである、そして言うソ連が一方的に条約を破った。
実際に使われたかどうかは不明だが、それは自分がやられるから控えたという話であって国際条約を守るというためではなかった。
日本軍部などはもう何も弁護してやるネウチはない。ぜんぜんネウチのないクソでしかない、同じ日本人としては、同じ日本人であることがイヤになる。日本人であっても何も肩を持ったりできるものではない。こんな者は日本人のツラ汚しでしかない。
『義勇魂』にも手記がある。
〈
右側の田圃から左側の丘の方に視線を移すと、そこには人間がしゃがんで入れるくらいの穴が点々と幾つもある。
私は思わず太田の手首を握りしめ、無言でその穴の方を指さした、あれを見よと何故か喉がかれて声が出なかった。
ある穴の中には、人間がうずくまったままの状態で白骨と化し、骨のところどころに布切れが少しひっかかっていたり、ある穴では骨がバラバラになり、半分以上ないところ、またある穴では、風化しかけた軍服の原型が辛うじて白骨にまといつき、金属製のボタンだけが妙に印象的に遺っている。
頭蓋骨にヨレヨレの戦闘帽がのっているのや、骨がくずれて一塊の山になり、その側に頭蓋骨が転がっているのや、さまざまな状懇となって、関東軍兵士の白骨が穴の中に散乱していた。
私は穴の中に白骨と化した数々の関東軍兵士に、おもわず手を合わさずにはいられなかった。あふれくる涙をとめることが出来ず、茫然としてその場に立ちつくすのみであった。
あばら骨にひっかかっている軍服の切れはしがかすかにゆれ、頭蓋骨の空ろな眼窩が私達に何かを訴えているような気がした。
次の村で泊めてもらった時、昼間見た白骨屍体のことについて聞いてみると、土地の人はこう答えた、
「あの白骨屍体はたしかに関東軍兵士で、あの穴にそれぞれ一人ずつ入り、街道を通るソ連軍戦車に爆薬を抱えて飛び込み、それを爆破する兵隊さん達であったが、この近辺のある人々かこのことをソ連軍に通報した為に、ソ連軍は穴のある一帯を砲撃、関東軍の兵隊さん連を皆殺しにした。ソ連軍戦車はそのあとで悠々と通過した。時あたから八月酷暑の真盛り、屍体の腐敗早く、屍臭あたり一面に芬々として、一時街道は人が通れず大変困りました。
関東軍の行動をソ遊軍に密告したり、哀れそれがもとでその目的も達し得ず、無念の涙をのんで散華したであろう関東軍兵士を、野ざらしのままで抛っておく満、鮮人。
私は、かつて私達が沙蘭鎮に於いてソ連軍の捕虜となり、東京城捕虜収容所へ連行される途中、私達に注がれたあのひややかな満、鮮人達の眼、眼、眼、を思い出した。小孩(子供)達は、私達に、唾をはきかけ、石を投げつけ、ロ々に 「パカヤロー」を連呼し、悪態の限りを尽した……
現地人の大部分の人々が日本人に対して、よくない感情、いやそれ以上の反感をもっていることが了解された。しかしその原因が何であるか、少年である私には、はっきりしたことがわからなかった。
〉
場所は間島省だから、新二氏の場所よりほんの少し南になる。
バカなことをしかれけなければソ連戦車はだいたい窃盗団の襲来から避難民を守ってくれ、襲撃にそなえる鉄砲すら貸してくれた、ソ連戦車の後について避難を続けたなどと手記にはある。関東軍よりは頼りにしてよかったようなものだが、自分がワルばかりしてるから、事態が悪化してくると何を見てもコワイのだろう、自分の過去の影に怯えている、しかしそのため自分が撃たれるのは仕方ないしても、その巻き添えになる者が多いとは気もつかなかったようである。
ソ連参戦も知らされなかった開拓団も多い、どうするの説明会も避難計画もなかった。とにかく女子供を避難させて、避難できない場合は自決させて(実際自決させた団も多いし、避難命令と同時にヨウ素剤配布、いや違った青酸カリが配れた、何で非戦闘員までも死なねばならないのだ)、ワシらは遊撃隊になってゲリラ戦を戦う、関東軍がそのうちに来てくれるだろう。テキを殺すのでなく自分の家族を殺してまで終戦後も侵略戦争をやめない、武装解除にも応じず、家族を全員殺して最後の突撃をした団、関東軍も顔負けしてマッサオになりそうなムチャクチャ狂気の団またも多かった。兵隊は死ねば国家から補償を受けられるが、彼らは家族を全員殺して、敵に撃たれて死んでも何も補償もない、靖国にも祀られない、彼らの勝手な行動によるものと見なされる、本人たちは大まじめのつもりだろうが、何のためにこんなことをするのかと考えたことはあるのだろうか。
米軍基地のある周辺でもそうしたことは教えられていない。仮に敵が基地を攻めてきても市民はクワやカマを手にしてはならない、非武装で基地周辺からすみやかに避難することであろう。はじめから軍事基地などは自分の村には作らせないこと、平和的にやってくれと言うことが市民の勤めである。
幸運にも大きな被害がなかった団もあれば、不幸にも全員死亡の団もあった。団員の死は80%ばかりは逃避後の都市周辺に設けられた「収容所」においてではあるが、長い長い(ソ満国境附近から長春(新京)までは舞鶴からなら九州くらいまでの距離)逃避行中に「匪賊」に取り囲まれ殺されたり、自決したりした者も多かった。この頃でも一部残っていた軍人軍属満載の列車が「ホナバイナラ」と徒歩で逃げる団員尻目に南下して行ったという。
団といってもいろいろだから、開拓すると思って来て見ればすでに土地はすべて開拓されていた、「これは満人から取り上げた土地だ」と直感したリーダーのいる団は周辺住民との関係を良好に保とうと努力した、そうした団は被害が少ない。武力かさに着てふんぞり返っていたリーダーの団はヤバイことになった。上がそれでは下はもっとひどいのである。ファンゴライの怒号で取り囲まれた団とは、ほとんどがそうした団であった。
開拓団総数27万人、死亡は甚大で8万人、約3割が死んだ。3割も失うと軍隊では全滅と言うらしいが、まさに国策開拓団壊滅した。(犠牲者などの数値はだいたいのもの、完全なデーターは今もない)
シベリア抑留による死者は、日本側調査では5万3千人、ソ連側はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を日本側に引き渡している
。従来は死者は約6万人とされていて、実数については諸説あってよくわからないが、たぶん単に死亡者数から見れば開拓団が一番の悲劇にみまわれたと思われる。シベリアは主に病死餓死であったが、開拓団は病死餓死も多いが、殺されたり自決したりも多く、質的にもより悲惨である。
またいまだに「残留孤児」「「残留婦人」などの問題を残している。南北朝鮮問題とか今も尾を引く大問題などもこれに端を発している。戦争は今も終わってはいない。こうした最大の悲劇に当館は知らぬ顔である。
逃避行の途中に全滅した開拓団は77個あったという。これらは全員玉砕なのか全員自決なのか最後がが判らないが、集団自決が多かったことが知られている。全員殺された団もあったかも知れないが、それよりももうダメだ、匪賊に殺されるくらいなら自分の手で美しく死のう、の「戦陣訓」のリクツが多かったように見られている。
近くでは、出石郡の旧高橋村(但東町で、福知山や夜久野の北隣の旧村)の「第十三次大兵庫開拓団」は老人や女性、子どもら団員約400名は増水した呼蘭河に集団入水自決し298人が亡くなった。8月17日というから戦争が終わったことも知らなかったようである。全員が死に切れたわけでなく、誰か助かった者があったから後世に事実が伝わったのである。生き延びた人達は敗戦後のハルピン郊外の新香坊収容所で天田郷開拓団と一緒になったという。
(高橋村の場合)
但東町の豊岡市立「日本・モンゴル民族博物館」の特別展、『満州「大兵庫開拓団」と高橋村』が開かれていた。チョット見てきた。勝手にチョット紹介させてもらう。資料はすべて同展による。
←開拓団本隊の出発
昭和19年3月21日、盛大な壮行会が開かれ、本隊が満州に向けて出発した。(※峠尚代氏製作の紙芝居)
満州行きに反対した祖父
本当は誰も行きたくなかったでしょう。言いにくいんですね。戦争反対と思われたくないから。〔中略〕
うち〔?氏〕のじいさんの論法も分からんでもないです。「アメリカは金持ちなんだ。戦争に勝てようはずがない」と。いっつも、おやじとけんかしてました。満州行きも頑として反対で、「満州は日本の国と違うど。戦争は3年ももたん。負けたら帰ってこんならん。住むとこがないとどないもならん。わしは留守番しとく。絶対に先祖からもらった土地は売らせん」と言っていた。(※?氏の証言〔『神戸新聞』平成27年2月17日付「慟哭のホラン河B」〕より)
役人による移住の勧誘
兵庫県の役人だったと思います。直接は言いませんけど、「あんたのところは兵籍がない」と。お国のために役に立っていないという言い回しをした。おやじもさすがに怒りましたね。私〔?氏〕も、ようあんなことを言うわと思ってました。
ある日、おやじが会合から帰ってきた「満州行き、決めたぞ」と言いました。どうせこれは行かんならん、それやったら最初に印鑑ついた方が男らしいとゆうことではなかったですかね。私は、ほうか、立派なおやじだと正直思いました。(※?氏の証言〔『神戸新聞』平成27年2月17日付「慟哭のホラン河B」〕より)
蘭西県城に避難を始めた団員たち↑
蘭西県城への避難命令を受け、昭和20年8月14日、開拓団員は避難を始めた。(※峠尚代氏製作の紙芝居)
襲撃を受ける団員たち↑
蘭西県城を出た後、団員は各地で襲撃を受けた。中には日本人への「復讐」を語る者もいた。(※峠尚代氏製作の紙芝居)
呼蘭河(ほらんがわ)に身を投げる団員たち
覚悟を決めた団員たちは、呼蘭河に次々と身を投げた。辺りには悲鳴と絶叫が響いていた。(※峠尚代氏製作の紙芝居)
必死の逃避行
私は一同を元気づけて、先頭にたった。青崗街道き避けて、自然に足は呼蘭河の方に向くのである。〔中略〕途中2回ばかり衣服をはぎとろうとされたり、荷物を盗もうとする暴徒の襲撃があった。〔中略〕隊列は乱れがちである。女子供は恐怖とみんなに遅れまいとと必死てある。隊列を整えるために土手にもたれて小休止をする。もちろん周囲は男で警備する。〔中略〕そうするうちにも土匪が執念深く追ってくる。〔中略〕その追って来る姿に脅迫され、早く逃れたいのだが、思うようこ足が進まない。(※?氏の手記より)
食べ物をくれた現地の人々
8月14日以来3日間、飲まず食わずの逃避行を続けてきた私たちに、ようやく粟やコウリャンのおにぎりが1個ずつ配られた。双合屯の呉屯長さんはじめ、現地人の皆様が作ってくれたおにぎりである。感謝しながら口へほおばる。〔中略〕その時、呉屯長が、「暴徒がとうとう双合屯にまで入りこんでき田。もはや私の力で皆様を守り切れない」と発言する。〔中略〕Kさんが、「後まで追い詰められたように思う。ここで死を選ぶか、または何としても生きのびるか、団員の所へ帰り、意見を取りまとめてきてくれ」〔中略〕と、各班長に申し渡される。(※I氏の手記より)
団員の自決を故郷に伝えよ!
その後、Kさんは、I〔中略〕の5名を呼び寄せ、 ここで自決する。
君達はいかようにしても生きのぴて日本に帰り、故郷高橋村にこの事を報告してくれ」と、それぞれに命令する。〔中略〕皆が安らかに死ねるよう暴徒から守り、最後に自分たらも刀で自害し、濁流に投身するつもりでいたので、「団員の死も見届けずに、この場を去って行くようなことはできない…」と、5名は口々に言って反対をする。〔中略〕そこで親と相談することになり、〔中略〕母に説得され、Kさんの所へ帰ってきた。(※I氏の手記より)
呼蘭河への入水
予定の場所につき、丘をおりると、一面の湖である。水底には粟や麦の穂が沈んで見える。家族ごとにそれぞれ固まり合っている。小さな仏の掛け軸を草につるし、念仏を唱えあった。弟も妹も小さな手を合わせている。母が静がな声で言い聞かせている。〔中略〕日頃は腕白だった弟が、何の反抗もせずおとなしく母の言葉を聞いている。幼い者の覚悟がいじらしくてならない。母も泣いている。 もう周囲では入水が始まっている。縛り合って入水することにした。「子供の死を見届けてがら入水せよ。」の命令、子供が生き残っては可愛そうだから…。(※I氏の手記より)
自決の光景
ある父親は娘三人を巻き脚絆で背中合わせにしばり、丘の上から転がしながら水中に落とし、その後自分たちも水辺に消えて行く。
あちらでも、こちらでも、我が子の手足をしばり、包帯で首を締めては次々と濁流へ突き落し、自分たち夫婦も手足を結んでは自ら濁流の中へ身を投じて消えていく。〔中略〕片方では、赤ん防を背負い、幼い姉妹をひもで腰にしばり、母子が死んでも離れないようにして、泣き叫ぶ子を叱りながら濁流へと消えて行く。〔中略〕何かにとりつかれたように、我も我もと水辺に走っ行く。(※I氏の手記より)
←自決現場より下流の方を望む
【北西→南東方向か。昭和62年8月撮影】
丘の下から、さらに南東方向を撮影したもの。昭和20年当時は、呼蘭河の増水のため、この辺り一帯が湖のようだったという。
全員自決までの経緯
【昭和20年8月9日…ソ連軍の満州侵攻】
・午前〇時(日本時間)、ソ連軍が満州への軍事攻撃を開始する。
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【8月10日…開拓団にソ連参戦の情報伝わる】
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【8月11日…本部に壕を掘る作業を中止】
・開拓団本部に各部落の班長を召集、中易団長より不測の事態に備え、防御のため本部
の周囲に壕を掘る方針を伝える。
・しかし大雨のため、ぬかるみがひどく、壕を掘る作業は延期。
【8月12日…男子20名の召集】
・開拓団の男子20名が兵士として召集され、団員が村はずれまで見送る。
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【8月13日…蘭西県公署より避難命令】
・夜、関西県公署にいた倉橋誠一副団長より、開拓団員の身の安全を図るため、全員ただちに塀で囲まれた蘭西県城内へ避難するよう命じる副県長(日本人)の指示を電話で伝える。
・すぐに本部に各部落の班長を召集、中易団長より、翌朝、身の回りの品のみを持って出発する方針を伝える。
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【8月14日…蘭西県城に避難開始】
・各家では、未明から朝まで荷物の整理と避難準備をおこなう。
・約400名の開拓団員は、県公署より派遣された馬車に荷物を載せ、蘭西県城に向けて入植地を出発。
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【8月15日…蘭西県城に到着、敗戦を知る】
・蘭西県城に到着、蘭西病院に収容。
・反乱した江上軍(河川を警備する満州国の軍隊)がやって来るとの情報があり、団長と副団長が病院を出る。(その後、団長と副団長は、江上軍に拘束される)
・日本の敗戦を知り、ハルビンに脱出しようと、集団で城外に出て待機。
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【8月16日…暴徒の襲撃に遭う】
・団長との連絡がつかないなか、周りを暴徒に取り囲まれ、各所で襲撃に遭う。
・もとの入植地をめざし、呼蘭河沿いに北へ逃避行を続ける。
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【8月17日…呼蘭河で入水自決】
・早朝、双合屯(現双安村)に到着し、呉屯長らから食事をふるまわれる。
・しかし回りを暴徒に取り囲まれ、協議の末、自決を決意。
・午前10時頃から、呼蘭河で298名の団員が命を落とす。86名の命が救助され、生存者は蘭西に向かう。
【昭和20年8日18日…蘭西県公署に監禁】
・入水自決後、救助された生存者は、蘭西に向かい、蘭西県公署に監禁される。
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【6月3日…ハルピンへ移送】
・生存者は、現地復員者(兵役解除者)と合流し、ハルピンへ移送される。
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【9月5日…新香坊難民収啓所に収容】
・老幼婦女子60名は、ハルピンの新香坊難民収内所に収容され、男子43名は牡丹江に移送される(途中1名死亡)。
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【10日13日…牡丹江から収容所へ移送】
・男子42名が、牡丹江からハルビンの新香坊難民収容所へ移送、収容される。
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【昭和21年1月24日…中易団長が病死】
・発疹チフスのため、中易寛団長が病死する。
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【8月12月…日本に帰国の発表を聞く】
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【9月下旬…収内所から解放】
・新香坊難民収容所から解放された団員は、貨車に乗せられ、南部へ移送される。
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【10日6日頃…コロ島から船で日本へ】
・遼寧省のコロ島から船て日本へ向かう。
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【10月7日頃…長崎県佐世保に到着】
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【10月11日頃…兵庫県石の玉津寮に到着】
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【10月13日…高橋村に帰郷】
鉄砲で肉親を撃ち殺す、手で絞め殺す、血も凍る光景があった。オレがここで食い止めるから、「きみよ生きて」、バラバラになって逃げろ、近くの満鉄沿線の都市をめざせ、そこには日本人がいる、助かるかも知れない、とはならない。いいリーダーがいた恵まれたわずかな団だけに限られた話のようである。「きみよ生きて」はウソとは言わないが、わずかにはあっただろうが、それよりもずっとずっと「戦陣訓」の「きみよ死のう」世界であったと思われる。戦陣訓から突然にそのように考えるようになったとも思えない、散りぬべき
時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ(細川ガラシャ)、プロの武士階級などはずっと古くからその覚悟でいたようで、それがカレラの美学であり、本懐であったかも知れないが、この当時は一般の農民もそう考えるようになっていた。自分が人殺し商売の武士なのかそれとも農民かわからなくなっていたのであろうか。プロの軍人が「中国や日本の農民のみなさんに大変な犠牲を強いた、まことに申し訳ない」と自決するならそれはよいが、そうしたことはしない、ホナお先にバイナラであった。その愚か無責任の軍部指導部などに愚かにも従って愚かにも農民がここで「美しく死」んでも何にもなるまい。「国のため」「日本人のため」にはならないし無駄死でしかあるまい。
息も絶え絶えで、次々に奥地から都市周辺にたどり着いた開拓団の姿は見る者をして声を上げて泣かさせた、何も身につけていない、何も持っていない、ガリガリの身体に麻袋を頭からかぶるだけの疲れ切ったヨロヨロの集団であった。
ヨロヨロでも歩ける者は上等。「歩けなくなった人もいた」(ちばてつや)と当館に展示されている。こうした様子であったものか。
身体を起こして座れる人間は…3週間
寝たっきり起きられない人間は…1週間
死が忍び寄っている、都市もホナバイナラ状態の無政府状態、誰にもどうしてやれるだけの余裕もなかった。
ひとまずは襲撃からは逃れられたが、都市周辺に設けられた「収容所」とは名ばかりの物で、何もなかった、窓ガラスもない雨が何とか防げる程度のだいたいは校舎であった、飢えと寒さと伝染病(衛生悪くシラミが媒介する発疹チフスなど、引揚船の中ですら発生し「敗戦病」と呼ばれた)が襲ってきた、医者などいるわけがない、6万人がここで亡くなった。開拓団の最大の死場所となった。収容所へ次々と日本人は到着するが、一向に満杯とならなかった、次から次へと死んでいったからである。
遺骨はまずない、土は凍り付いて穴が掘れず遺体は積み上げられていたがオオカミが喰ってしまったという。「8万の墓標なき死者」と呼ばれる。
「残留孤児」「残留婦人」はだいたいはこの時に発生している、弱い者から死んでいった、赤子は百%死亡、5才以下は数えるほどしかいなくなった、子供を死から救うためには、中国人に預けざるをえなかった。
彼らはおおかたの日本人よりも貧しかったが、団に食べ物がない、世話になれぬだろうか、と頼めば、自分が食べなくとも子供には食べさせてくれて、子供は日に日にマルマルと太ったという(一般に上流家庭よりも下層の人に預けた方が大事にしてくれたよう、どこの国でも似たことか、ムリして上流などはめざさないがいい、あちこち狂るわせたくなければ)。
自分も苦しい中でウラミ重なる侵略者の子弟を育てる、ホナバイナラ組でいまだにエラそうに言っている日帝後継者どもには決してできないハナシだし、私も含めて戦後の食糧すらない混乱期に大方の日本人にできただろうか。一番下の子を我が手で絞め殺し、上の二人だけを連れ帰った、とかの話も聞くが、兄弟の一人を中国人の手に託すとあとの二人が助かった、それをしないと三人ともに飢え死ぬことになる。そうして子供を残して帰国した者は自責の念に苦しみ、また親戚から責められた。
テレビは踏切に入って撮影する中国人観光客の姿を何度も何度も映してマナーが悪いですねー、ジョークかと本気で笑えた。そんな日本人観光客はくさるほどもいるし、カメラマンは「傑作」を写したい芸術心でやってるのだから多少は大目にみてやれよ、ましてマスゴミさんはひと様のマナーを言えるほどにマナーがよかったんどすかえー、どこの国のマスゴミさんのつもりどすえー、ゴミが吹くラッパによってどれだけの中国人が苦しんだか忘れたのどすかえー、正気どすかえー
そんなパカどもに洗脳されたのか「外国人お断り」の看板を掲げたおかたの日本人。こうした場合の外国人とはだいたいは中国人を指している。本当に「マナーが悪い」のはドッチか一度はよく考えてみようではないか。自分は棚に上げておいて「マナーが悪い」はない。どうしても言って優越感が持ちたいならば、まずは自分を改めてからである。
中国人ばかりではない、飢える日本人母子に「あなたたちにモノをあげるわけにはいきません、あなたたちの国の政治が悪く、そのために私たちは苦しんできたからです、みんなひどく憎んでいます、もしあなたにモノをあげると私は村八分になります。たいへん気の毒な様子ですから、私がそこへ食糧を捨てます、すぐそれを拾って下さい」とたっぷりな食糧を「捨て」てくれたという朝鮮婦人の話が『流れ星は生きている』にある、本当に困った経験があったのではないだろうか。あの食糧難時代にこうしたことは日本人同士ですら出来はしなかったではないか。
孤児はその数は多く見積もれば1万人とか言われる。言葉かえれば1万人はこうして貧しい中国人の手で生き延びた。恩を仇でかえすな。ブタ化はげしい日本で、抗しきれずそのマネしてもう一匹ブタになっても未来はない。
敗戦直後に海外にいた日本人(軍民合わせて)は660万人以上、そこに置いてもらえるようなことではなく、たたき出されるように、逃げ出すように一斉に一目散に本国を目指す、いまだ美化する者も多いが、大東亜戦争とは何であったかはこれでもわかる。
国内はメチャクチャで食糧さえなかった、引揚受け入れ支援体勢があるはずもない。
アメリカだとどこか日本軍を攻撃するとすれば、何千人分とかと見込んだ捕虜難民収容施設、テント村くらいは先に作ってから攻めている、日本はそうした用意はない。メチャクチャに攻撃するだけで強いと自己主張するだけのものであった、大量の捕虜ができた時にはどうにもならず、死の行進をさせたりするのは上等で、機関銃で全員撃ち殺す。
戦争に負けたときの引揚用意などがあるはずもなかった。
犠牲というのか被害というのかどう言えばいいのかわからないのだが、女性の場合はさらに性暴力を受けるということも重なった。
まず水商売の女、次は未亡人、次は夫が出征中で夫不在の妻、これは引揚集団に危機が迫ったときに外国兵や現地民に差し出す順番であった。女を差し出すから危害を加えんでくれ、この女でこらえてくれ。
柱にしがみついて拒む娘に、幹部は手を合わせて、こらえてくれと頼んだ、皆の為だ、ワシラもしてきたのだ、これは仕返しだ、逃げられないのだ、皆が殺されることなる。どうかこらえてくれ。
日本軍の戦勝直後に起きた悪行は現地婦女子に対する強姦の横行であったと軍幹部も言っている、「勝った勝ったバンザイバンザイ」とはこうしたことであった。その日本兵の悪事は今度は日本人娘の貞操と性病と妊娠で購われた。舞鶴にもそうした女性がいかほどか上陸したと思われるが専用の病院があったという話は聞かない、ある援護局管内には秘密で作られていた。もう明日は日本に上陸できるという日に船から身を投げる娘がある、このままでは帰れないとでも考えたすえのことであろうか。今の何とかカウンセラーなどはなく、誰もたいして気遣いもしなかった。「病院」は奪胎病院で4、500人がここで手術を受けたという。
別に被害女性を肉体的にも精神的にも救おうなどと考えてはいなく、「強力な性病」が蔓延するのを防ぐ目的で、体調が悪いとかほかにも気になることなどもし希望者があれば調査対処しますので船医まで申し出て下さいといったものは引揚船内でもあったという。
日本人のゲスもこれに加わらないはずもなかった、「どうせロスケにくれたもんだろう、オレたちにもよこせ」とか、配給に手心加える代わりにとか、そうした話はよくある。危険はロスケばかりではなかった。こうしたことから身を守るために現地人の妻になった者もあったという、現地人だけが救ってくれたのかも知れない。
「銃後は私たち愛国婦人会でと総動員の決意」とある(『母と子で見る中国残留日本人孤児』より)
侵略戦争に協力したのは何も彼女たちばかりではないし、彼女たちは選挙権もなく被害者ではあるが、そうであっても彼女たちとて厳しい批判は免れまい。「私は被害者だった」「知らなかった」「反対はできなかったそれは非国民で憲兵が来ました」ではもちろんあろうが、それだけでは済ませてもらいたくはない。国が進めた政策に無批判に盲従するだけの協力姿勢を深刻に反省し、まだ「残留孤児」とか「慰安婦」などの内外に残した問題の解決に取り組むのが責務であろう。上の言うことなら何でも信用して盲従する、その姿勢を改め自分の頭で考える、そうしなければ次は己が身に同じ被害がふりかかろう。写真では立派そうに並んでいるが、上が言うままに動く人形のムレである、ロボットの集団である、子は殺せと言われれば本当にわが子を殺した開拓団の母親と何もかわりはない。今の幼児虐待とも繋がるのかも知れない。まずはこの状態から抜け出すことでなかろうか。
今だってこのての人間は多い、総理大臣の言うことですから、信じますよ、アンタが言うことよりは信じますな、である、別にワタシを信じろとは言わないが、総理大臣が言うのだから正しいに決まっているは戦争の歴史の結末を知らないのではないか。立派な総理大臣も稀にはいるかも知れないが、彼とて神ではないのだから、間違いを起こすのは避けられない。
舞鶴は66万人を受け入れました、というが、それはだいぶに後になってからの話(援護局開庁は昭和21.2)で、問題の昭和20年の冬には間に合わなかった。(釜山からの引揚を受け入れただけで、満州からの引揚者はゼロ)
当時の満州にも開拓団ばかりでなくたくさんの日本人がいた、軍民合わせて166万人と言われる。翌21年5月が満州引揚の第一船となった。
収容所はソ連の管理であったが、管理が悪いし、たいして感心がなかった、自国が大変で翌年1月から撤収をはじめ4月には完全に撤収した、ソ連軍は12月には撤収完了することになってたが、国民党と中共軍との戦争が始まったという中国側の事情もあって遅れたが、ヤルタ密約によって日本のすべての満州権益は自国へと急いで運び去った、トタン板1枚クギ1本も残さなかったという。戦利品だからどうしようもない、ただ中国の戦利品でもあって、ソ連だけが独り占めはなかろうが、半分は中国に残してやれの密約はなかった、中国は関係ないものであった。
その後を中国(国民党政府)とアメリカが引き継ぎ、5月から本国へ順次引き揚げることになった。舞鶴へは6月5日のV74号による葫蘆島からの引揚3474名が最初で、その後続々と引き揚げてきた。アメリカのビクトリー型運搬船で日に何隻も着くこともあった。まだ平の桟橋もなく「上安寮の時代」であったが、その7月の末ころまでには満州関係民間人の引揚は舞鶴ではほぼ終了している。
(葫蘆島は元々は満鉄併行線の積み出し港(大豆など)であったが、後に日本が手に入れて軍港としていた)
手に職がついて一人立ちできた日本人に「日本へは帰るな、日本はアメリカの属国になっているというでないか」「ここに残る方がいい」「どうせまた捨てられるぞ」と引き留める中国人もいたという。
舞鶴に最後まで残っていた受入施設「上安寮」の最後の1棟↓。満州で言う収容所であるが、平成27年に老朽化のため取り壊された。ここへ帰ってきたのであった。
ここへ何とかたどり着けたのは全体の何ほどになるのだろう、だいたい半分のようである。さてこれからであったが、彼らの故郷のわずかな土地は処分して親戚などに譲ったり借金の抵当に取られているので行き先はなかった。
祖国は冷たかった。「温かく迎えられた」は表面だけのハナシであった、当館がウソ宣伝するだけのものであった。舞鶴人たちによって表面だけは確かに温かく迎えられたとしても、どうなるものでもなかった。多くは故郷には戻れなかった、身をおく場所がなかった。多くは次の国内開拓地へと再度入植していくのであった。戦前の満州開拓団へ送り出されたのとそうかわるようなことではなかった、にぎやかだった家族が半分になって帰ってきた、ひとりぼっちになって帰ってきたり、誰も帰ってこなかった家族もあった、
あの労苦と犠牲は何だったのだろう、それなのに日本は何も変わらないでないか、まるで何もなかったかのように、これでいいのだろうか。
そんな疑問を帰還開拓民は持ったが誰も聞いてはくれなかった。額に汗する今度は本当の開拓が待っていた。これからいくら努力開拓したとしても、そのためにたとえわれら家族が全滅したとしても日本がかわるとは思えなかった、いくら努力し犠牲をはらっても、この国の行き先にははやっぱり破滅しかない…
ワレラは表面だけは何か温かそうな仮面をかぶっただけのもの。われらの内面は過去のファシスト丸出しのものかも知れない。何もシンからそれを克服したわけではない。
ビンボー人だけが捨てられたのではない、軍は捨てられなかったかと言えばそうしたことはない、棄軍というが、遠い島に棄てられ玉砕の運命をたどった軍も多い。特攻だとか棄てられた軍人のようなもの。
では最高幹部だけは捨てられなかったのか、そうしたこともない。低国も最後になってきての御前会議、天皇は書いている「彼らには引導を渡した」、東史郎氏がこれを見てえらく怒っていた、何ということだ、彼らとてメチャクチャとはいえ、天皇のために懸命に努力した者でないか、それに「引導を渡す」だと。彼らもまた捨てられた。
下から順次に捨てられた、では何が最後に残るのか、天皇家だけかポツンと残るのか、それで何か意味があるのか、まことに現人神というなら自分の身くらいは自分で守ればいいでないか。勝手にしろ、となる。
棄民とは一部を捨てて全体は残るではない、要するに誰一人守らない、天皇も守らない、日本全滅の思想である。何であろうが、神がつくりたもうたかけがえなきもの、人間ごときの身で勝手に捨てるなどは不遜の極み、それは全滅の天罰の道であった。昔からの教えのとおりでなかろうか。