小堀(こほり)
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福井県大飯郡おおい町小堀 福井県大飯郡大飯町小堀 福井県大飯郡本郷村小堀 |
小堀の概要《小堀の概要》 西から行くとおおい町の最初の集落である。青戸入江の海面が原発廃土で埋め立てられて「おおい町総合運動公園」になっているし、国道27号も埋立地に移されている。昔は鉄道線路沿いに国道27号(丹後街道)が通り、そのギリギリまでは海であった。 船岡古代製塩遺跡の発掘から当地域付近に郡衙があり、その郡(こおり)が地名になったの説がある。 小堀村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。慶長7年の若狭国浦々漁師船等取調帳には船数の書上げはないが、小浜~和田間の通船に関わり、当村から水主として雇われる者がいた。また時代を下ると、3艘の船数が書き上げられ、おもに巡礼・旅商人などの客を運んだという。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。 小堀は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北1町余、戸数32、人口は男81 ・ 女84、小船4。 《小堀の人口・世帯数》 93・40 《小堀の主な社寺など》 古墳 山の神古墳群12基が確認され、丸山(つんぼ山)にはつんぼ山経塚遺跡があり、この出土遺物である鏡・経筒などは香山神社に保存されている。 『郷土史大飯』(≒『大飯町誌』) 古墳 この地には、古墳がたくさん残っていた。現在は一二基だけ確認されているが、既に破壊されて痕跡さえとどめていないものがあったのであろうと思う。それは明治三十八年(一九〇五)に香山神社を再建し、その後境内整備に際し、この集落の山の神古墳群から石材を取って社前の高い石垣を築いたという、明らかな口碑が残っていることによって類推される。 大正の初めにできた『本郷村誌』の小堀の中にも、「谷田という所に古墳五六ヶ所あり、皆大なる石を畳み、その入口は僅に匍匐して入るべく、内方は腰を屈めて立つを得べし、その広さは三畳あるいは六畳を敷くべきものあり。いずれも構造堅固にして古人の力量のほど想像せらる。しかるに近年石材を得んため、多くこぼちて今儷に二三ケ所を存せり。その石の質はことごとく犬見磯の石に同じ」と記録しているのである。 こうして集落の大きさに比べて非常に多数の古墳を残していたということは、遠い過去において有力な人物が居たことを思わせるのである。それに続く時代にはいま一つこの件について有力な意見が挙げられている。すなわち、昭和四十一年(一九六六)発行の『若狭大飯』の別編「考古学よりみた大飯町の古代」の中に小堀地区の船岡遺跡について述べてある。そこには、次のように仮説を立てて説明している。 郡(こおり)説、製塩 「わたくしは、船岡遺跡が製塩工場であることから、次のような仮説を考えています。この遺跡は現在小堀区に属していますが、小堀は宛字であって、大飯町の方々がコオリと発音されているのが昔からのことであるとすれば、郡であるかもしれません。とすれば、ある時期の大飯郡の郡衙の(郡の役所)所在地が小堀区にあったことが考えられます。郡衙は郡司(郡の役人)の居住地に置かれ、郡司には地方の有力者が選任されるのが例です。船岡遺跡は七世紀末-八世紀(奈良時代)の製塩工場です。すでに大化の改新も終わり、本格的な古代国家の完成した時代です。さらに二〇〇年ほど後『延喜式』という法令の細則について記された書物が作られました。それによると若狭の人々は、国家に対し、「塩」を税として出す義務があったことが分かります。 しかし、若狭の住民といっても、全員が塩生産に従事しているわけではなく、大部分は農民であり、平素の生活に追われていますから実際には郡司などになる力を持っていた有力な人々が、その地位を利用して一族や付近の人々を集めて組織的、能率的に塩生産を行なったのであろうと考えられます。集落から離れた場所に、かなり計画性をもって製塩場が作られていることは以上のような想定をたすけるものです。敷石を作る作業はそれほどの労力を必要としなかったでしょうが、土器を作るための粘土の採掘、薪取り、海水を何回も汲んでは藻にふりかけて濃縮する作業、それをさらに火にかけて結晶塩をとるための膨大な準備等、大変な労働が必要です。その労働に参加した人たちは、税の塩を郡司にかたがわりしてもらったでしょうが、余分の塩は、国司や郡司ら有力者の手に残ります。 これらは実際には全く塩生産に無関係であった人たちの負担する税のためにも貸し出されると同時に、その貸し出し料として高率の利息(主として米穀などで返済する)が課せられることになり、一つの塩浜を占有しているような有力者の収入は次第に増大していったと考えられます。……(以下略)」 船岡製塩遺跡 埋め立てられた「総合運動公園」の一番東側の図書館や郷土資料館の東側が遺跡地で公園となっている。当時の海岸は埋め立てられ、船岡山は削平されて道路になっている。 青戸入江に南から北へ突出した岬状の丘陵(船岡山、丸山、つんぼ山)があり、この西南麓一帯の入江に面する狭小な場所である。奈良時代の土器製塩遺跡で船岡式土器の標式遺跡でもある。この地域は船岡とよばれ遺跡名もこれによる。 昭和35年と36六年に発掘調査が実施された。遺跡の南北に6群17基の敷石製塩炉跡と海岸線に沿った敷石帯とよばれる護岸跡、炉跡群南部の国道27号近くに焼土面が検出されている。 一時期の製塩炉址群としては我国最多で、敷石炉は岡津遺跡(国史跡)と同じく海岸線に直行して設置され、長方形・楕円形をなす。基本的には約2 m x 4 mであり整然と並ぶ。敷石は径20~30cmの表面が平坦な自然石を使用、他の遺跡でもみられる表面が加熱され、中にはひび割れを生じているものもある。さらに煎ごう過程で噴出したカルシウム化合物の付着も認められている。 ここで使用された土器は口径30~60cm,深さ20~30cm,胴部の器厚は6~8㎜、底部では1.2cmと厚くなり、従来見られなかった巨大な製塩土器で、奈良時代の船岡式土器と呼ばれる製塩土器片が多量に発見された。須恵器や土師器の生活土器の出土はきわめて少なく、古墳時代の浜禰(はまね)遺跡の様相とはきわめて対象的である。生産の場として独立した遺跡であり、集落はまったく別に形成されていることがわかる。遺構配置などから官工房的要素をもっているとされる。 若狭湾沿岸一帯55か所の製塩遺跡のうち、8世紀代が45か所(複合を含む)と最も多く、この時期に土器製塩が盛行したことを示し、都への調塩とのかかわりをうかがわせている。 当遺跡および製塩土器は、若狭で初めて発見され、船岡式と命名され奈良期土器製塩の標式として現在にいたる。17面の炉は重なって出土しており、廃棄された上へ上へと設置されている。 バケツのような大型土器が船岡式製塩土器。後の作業は海水を濃縮するためのもので、ここで濃縮された塩水を土器の中で煮詰めて塩を採った。 製塩炉も復元されている。後の山のような道路のような所がかつての船岡山の残骸。春は桜や芝桜が咲いて美しい道になる。 昔はこんな所だった。 ←『若狭大飯』にある写真 手前は海面で、今はここを埋め立てている、向こうの山が船岡山(丸山・聾山)で、堀切にして鉄道と街道と電線が通っていた。左手の山の麓に当製塩遺跡があった。 船岡は現地ではフノカと呼んでいる。府の丘であろうか。国府ではなくもっと古い時代の府があったかも知れない。丹後の五箇にも同じ船岡の地名がある、丹後の船岡は四道将軍・丹波道主の館があったと伝承されている。 当地の船岡や高森は何かそうした気配がする所である。 『大飯郡誌』 (丸山公園) 本郷小堀兩區の中間に壹岡丘あり丸山又は聾山と稱し半は青松半は雑木蜜生す登ること數十間にして頂上に数百歩の平地を造り名けて丸山公園と云ふ背後には長覚寺山を控へ前は海水に其の裾を洗はせて一葦を隔て近くアヅチ山に対す開拓日尚ほ淺く老樹草花の観るべきなしと雖も左方和田及高濱海濱の蒼々たる松林を通じて端麗なる若狹富士の全景は掌上に載するが如く右の方青戸海の水色亦掬すべし遠望の風致に至っては敢て妙見山に譲らざるものあり思ふに妙見山と丸山とは本村好一対の勝地なり。 香山神社 臨済宗相国寺派獅吼山向陽寺 『大飯町誌』 獅吼山(鹿口山)向陽寺 宗派 臨済宗(相国寺派) 本尊 阿弥陀如来 所在地 小堀字田垣(五の一六) 主な建物 本堂、庫裡、地蔵堂、本堂は天保十四年(一八四三)再建 境内地その他 境内七二七平方㍍、山林八、五五八平方㍍、原野三八六平方㍍ 住職(兼務)鈴木元拙 檀徒数 二六戸 創建年代 永正十年(一五一三) 開山 栄巌勝林和尚 寺宝 寛永十二年過去帳あり 『郷土史大飯』 寺院 向陽寺 所在字田垣 山号獅吼山(鹿口山といった時もある)宗派臨済宗相国寺派、本尊阿弥陀如来、創建永正十癸酉年(一、五一三)その後中絶して、栄巖勝林和尚(潮音院開祖桂廬和尚の法嗣)開基(慶長十五年七月九日)元和三丁巳年(一、六一七)七月九日(由緒記には天文二十三年に開基なり。本尊安阿弥の作観音なりとある)。(元禄五年改帳には開基勝林蔵主元和年中示寂とあるから中興開基はこの住職であることに間違いないだろう)。寺内仏堂地蔵堂(延命地蔵菩薩、子安地蔵菩薩でこれには由緒があるが省く)。天保十三年六月三日類焼、同十四年七月再建、明治十八年上間坐敷など増築。境外仏堂字薬師にある薬師堂(薬師如来)字稲木場にある阿弥陀堂(阿弥陀如来)である。 明治初中期に川瀬軌道という住持がいた。漢学の素養があり又書をよくした。 『大飯郡誌』 向陽庵 臨済宗相國寺派 小堀字村中に在り 寺地二百九十一坪 境外所有地一町一反四畝十六歩檀徒百三十八人 本尊阿彌陀如来 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕永正十癸酉年建立の由古老傳ふ境内に地蔵堂二つあり一は延命地蔵菩薩一は子安地蔵菩薩を祀る共に霊験不思議なりと云ふ。 〔元禄五年改帳〕 開基勝林藏主元和年中示寂 建立諸檀那中 名寄三石一斗三升年貢地也。 《交通》 通船 《産業》 《姓氏・人物》 小堀の主な歴史記録『郷土史大飯』 宮当祭 香山神社の氏子小堀と下車持には夫々宮坐があって、古くから古風な宮当祭を続けて今日に至っている。香山神社の社宝は嘉暦三年(一三二九)木製掛仏をうらに鋳出した方鏡、その他大小二十三面の掛仏中文明十一年六月一日の銘文あるもの、大日如来二躯水晶軸法華経八巻を一巻とした木版経巻、多数の写経(文明十八年の年号入り一)棟札四面(中永享七年最古)、一木彫成のこま犬二対、石彫こま犬一対、酒井忠進の領民に与えた感状、など多数ある。これは香山神社が中古から江戸期にわたって、かなりの繁栄をもたらしていたことを証するものといえよう。 伝説地 戦国時代の伝説地かと思れるものに、土居内の胴塚、若宮の首塚というのが伝えられている。昔一勇士が軍に破れて小堀の谷奥の巌(いわお)というところの岩の間に身をかくしていた。敵のために追及されて土居の内まで来て、谷川を渡って逃げようとした時、敵に首をうたれてどうとたおれた。ところが首はとんで川の向う若宮の地内に落ちた。よっておのおのそのところに埋めたので、胴塚と首が谷川を隔てて相向かってあるのだというのである。 同じような血腥い話は、つんぼ山の西麓船岡の海浜にもある。戦国であろうかこの浜を斬罪場としてあったという。果してどうか、その後この浜辺で牛馬に焼ごてをあてるはくらく場となっていたことは筆者の青年時代実見しているところである。牛馬を入れてくくりつけておく馬形の抗がいつまでもこの浜に残っていた。牛馬の首は斬られなかったが熱い灸をすえられたのである。 通船 この部落の小名に、中通り、上町、下町というのがある。上町は名のとおり、上方に、中通りは横通りで下町はそれから下海浜の国道筋までというわけである。国道筋は旅人の足どまりであり、また船着きである。それで江戸期に通船を経営するものができた。本郷の庄屋文書には小堀に船株があって、三艘ばかり船を通わしたように書いてある。船客は主として巡礼、旅商人、物詣り(高森だし=香山神社の祭礼など)。その他荷物の運搬もしたようである。本郷尾内、和田、小浜にもこの海の船株があって、互いに競争してしばしば係争があった。委しいことは五章にゆずるが、船役人の仲裁で本郷尾内小堀間で抽箋で順番を定めて乗船させる様にして解決したようである。小堀は本郷などよりあとからこの仕事を始めながら対当の抽箋順番という解決に持込んだことは、そのねばり強さにもあるが、船着場として有利な地点を占めていたことも有力な原因であっただろう。 宗四郎磯八 「若狭良民伝」中に書き残された小堀村宗四郎磯八伝説は兄弟仲の美わしかりた話で、巡礼のもたらした事件であった。 小堀の伝説『越前若狭の伝説』 土居の内の胴塚 (小堀) 天正年中(一五七三ころ)郡内では、あちこちの武将たちの戦いが起きた。ある日いくさに負けたひとりの武士が、小堀の村の谷奧にあるいわお(巌)という所の岩の間にかくれていた。しかしとうとう見つけられ。谷川を渡って山中へ逃げようとしたが、追いつめられて一刀両断のもとに切られてしまった。このとき落武者の首は飛びはねて、川向こうの若宮の地へ落ちた。胴体は土居の内にそのまま倒れた。 このあと村人たちが、この落武者の菩提を弔って、川向こうの若宮に首つかを作り、川のこちら側の土居の内に胴つかを作った。このつかは、今も谷川のほとりにある。 (山口久三) 小堀の小字一覧小堀 岩尾 數左近 奥谷 村中 田垣 犬ノ角 西若宮 若宮 土居之内 月縄手 稲木場 薬師 堂ノ奥 胡麻左近 堂ノ下 上縄手 才ノ木 永畑 晩茶口 岡口 新陀羅谷 中東 東 谷田 森ノ下 永田 山崎 西船岡 東船岡 丸山尻 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『大飯町誌』 その他たくさん |
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