丹後の地名 若狭版

若狭

中(なか)
福井県大飯郡おおい町名田庄中


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福井県大飯郡おおい町名田庄中

福井県遠敷郡名田庄村中

福井県遠敷郡奥名田村中


中の概要




《中の概要》

名田庄の中央部、下集落の対岸で南川の右岸に開けた地域。地名の由来は、名田荘のうち上荘に属し、上荘の中でも下村の上流、上村より下流にあたるため中村と呼ばれたことによるという。当時の中村は井上・西谷も含んだ広い地域と考えられている。
中世の中村は、鎌倉期~戦国期に見える村。名田荘のうち。建治3年8月日安居院実忠重譲状案によれば、名田荘内7か村の内の1村として「中村」が実忠から外孫三条実盛に譲られている。7か村は上荘と下荘に分けられていたが、中村は上荘に属した。弘安3年には村内の則重名1町8反10歩の検注が行われているが、名内の巌淵の田地110歩は中村内にあり、それを「中村巌淵」とも「左野巌淵」とも呼んでいるから、当時の中村は現在の佐野地区を含んだ範囲であったと考えられている。鎌倉期末の伝領は詳らかではないが、本家職・領家職ともに別相伝の地となったようで、南北朝期に入って京都泉涌寺領として見え、同寺の舎利会料所に充てられた。戦国期に入り、弘治2年6月22日明通寺鐘鋳勧進算用状には「百五十文 中村分」と見える。
近世の中村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年奥名田村の大字となる。
中は、明治22年~現在の大字名。はじめ奥名田村、昭和30年からは名田庄村の大字、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北30間、戸数51、人口は男142 ・ 女132。


《中の人口・世帯数》 142・57


《中の主な社寺など》

虫尾神社

集落の西側山裾に鎮座する、地内の氏神で、ムシの王を祀った社と思われるが、そのムシとは元々はあるいは蛇ではなかろうか。蚊蠅虻の類をこんな社殿に祀ったりはすまいと考えるが、どうだろう、その後中世に入って害虫と見るようになったのかも知れない。当社神主家は当地の田歌氏世襲だそうで、その田歌民俗と深い関係のある社でもある。古い興味引かれる社であるが、今はその田歌は残っていない。裏山を越えた地の美山町の田歌とも関係があるのであろうか。

『名田庄村誌』
虫尾神社
所在地 中字宮ノ下
創 建 延長年間(九二三~九三〇)
祭 神 虫尾大神
 稚狹考には虫尾大明神(祭、二月四日・九月四日)とみえ、宝暦四年(一七五四)の国中高附(福井大学図書館藏)によれば、「三寸御供を備え申候」としている。虫払いの土俗信仰に由来するのであろう。郡県志によれば、神階記に遠敷郡正五位虫尾明神というのに当るとされる。


『遠敷郡誌』
虫尾神社 村社にして同村中字宮ノ下にあり、祭神不詳にして舊時虫王大明神又は虫尾明神と稱せり、延長年間建立と傳ふ、本国神階記に正五位虫尾明神あり。

『名田庄村誌Ⅱ』
虫尾神社
 中区の虫尾神社は虫追いに関わる「土俗信仰」の神として「國中高附」などの史書にも記述されているが、「若狭国誌」によると、「中村虫尾明神 六祠中村ニ在リ併正五位」とあって、慶安元年の「中村検地帳」には妙神岩、神宮、明神鼻、塞ノ鼻、大将軍、宮ノ上、宮ノ下、大塚、山ノ神、磐くらなどの神々が祀られていたと思われる地名が多くあり、その一部は今も残っている。
 塞ノ鼻は塞ノ神(道祖神)が、明神鼻は下区境界にあった岩鼻で、地名の場所からして、今下区で祀られている愛宕社ではないかと想像されるが、多くの祠は今は不明で「若狭国誌」の記述のようにそれらの神々は虫尾神社に合祠されたものだと考えられる。
 今のように農薬や肥料のいないころの農業はまさに神頼みで、病虫害から作物を守る人々は必死であった。各地で虫追い行事が行われたことは「前村誌」にも今回本誌にも、かつて行われていた井上の虫追い行事を紹介したが、こうした現世利益願望の田ノ神、野ノ神などは各地の山麓、田の畦など日本中の至る所に祀られていた。
 これらの神々は明治に入ると神道の国教化を目ざす政府の神仏分離令(廃仏毀釈)神社統合令によって淫祠邪教とされ廃祠又は合祠されていった。
 そうした統合の一社かもしれぬが、この虫尾神社も豊作を祈る農耕神であることに間違いはない。昔話ではこの社は中村一一戸の時創建されたとの伝承があり、創建以来明治までこの社を祭祠する禰宜職には田歌多右衛門が吐襲相伝で当たっていた。
 田歌の姓はかつての田楽神事「田踏み歌」〝田歌〟から来ていて、踏歌(とうか)が田歌(とうた)へ変化したもので(藤山元春の説)この神事は田植時、豊作を祈って畦に立ち、地底からの悪霊湧出を防ぐ、大地を踏み固める地鎮、踏歌に由来し、この踏歌が天智天皇により、六七一年、宮中の五節会の一つに田舞として取り入れられ、その田舞は令により河内の氏族・田冶比氏の相伝として伝えられていた。
 都が平安京に移ると賀茂神社、祇園社などの神前での祭典神事となり、この踊りはやがて田楽舞として京の市民全体へ拡がり、踊り狂う群集で、街は騒乱状態となる事態がたびたびた起きたという。
 最初は、永長元年(一〇九六)のことで「永長の大田楽」といわれ六月の祇園会を発端に街へ拡がり、怪我人の出る騒乱が幾日も続き、遂に朝廷は一般人の田楽踊りを禁じたが、この大田楽は室町時代まで続き、その間何回も狂乱的な大田楽が流行したという。
 特に、祇園御霊会の田楽は、見物の群集の重みで桟敷が崩れ、怪我人の出る騒ぎがしばしばあった。
 祇園社の祭神は素戔鳴尊といわれているが、もともとは姫路広峰山・広峰神社からの分祠で祭神は印度祇園精舎の守護神、牛頭天王で仏教を守り、悪霊・悪疫から庶民を守る神といわれ、祇園で祀られると病虫害からも守る神とされ、豊穣・悪疫除けを願っての田楽奉納は一層盛んとなった。後には田楽舞を職業とする田楽法師が生まれ、彼らは各地方へ散って祇園信仰を拡げるとともに田楽、田歌も流行させていった。この田楽は後、さまざまな流派を生み能や狂言へと変化していった。(「日本古語辞典」「中世京都と祇園」、中田晴子著、などによる)虫尾神社はそうした歴
史を持って祠られた社で決して「土俗信仰」「淫祠邪教」の類の社ではない。
 多右衛門家は、田楽法師の流れをくむ、虫追い悪疫除け舞いで神に祭祀する禰宜としての職名から田歌と呼ばれて来たのであり、この社も農耕神の一社であり、いえば広嶺、祇園社の系統に属する社である。土俗とはこうした田楽祈祷に出来があると考える。
 丹波美山町田歌には八坂神社が祀られていて、今は田楽神楽が有名であるが、かつては勇壮な踏歌が神楽堂で踊られていた。田歌の地名の起こりである(「北桑田郡誌」編集者・藤田元春)。
 虫尾神社の虫追い踏歌、田歌田楽も廃たれてから久しく、今は過去にそうした田楽が奉ぜられたことを知る人もいない。
 田歌田楽は、室町時代に入ると猿楽能に分かれ、観阿弥・世阿弥の親子の洗練された芸により能楽となり、義満の被護を得、盛んになっていった。天正十年、信長は安上城に家康を招待、その席上で「能」「田歌」を演舞させたと「信長公記」に残るが、能楽が盛んになるとともに田歌田楽は急速に忘れられていった。形は変えられているが、今も田楽を奉納する神社も残ってはいる。



曹洞宗永昌寺

『名田庄村誌』
永昌寺
宗 派 曹洞宗
所在地 中第二十二号一番地
 文明七年(一四七五)の建立と伝えられる。そのかみ、梅左近太夫一家の外護をうけたといわれるが、そのころは山伏の住居であったようであるが、そののち興禅寺末となり現在の寺院となったものと考えられる。本尊は、地蔵菩薩木像である。

『遠敷郡誌』
永昌寺 右同寺(興禪寺)末にして本尊は地蔵菩薩なり、同村中字庵ノ上に在り、昔梅左近大夫一家の取立にして山伏居住せしが、後興禪寺末に列すと云ふ、文明七年の建立とも傳ふ。



真宗大谷派妙応寺

山門前に「蓮如上人御旧跡」の石碑が立つ。
『名田庄村誌』
妙応寺
宗 派 真宗大谷派
所在地 中第三十号七
 当寺は、古く密厳院と号し、天台宗の末流で、その開基は玄斉という人である。
 ところが、本願寺第八祖蓮如が、越前吉崎より丹波越えにて、摂津出口村におもむく途中、当地を廻り、その時住職の真了という人が帰依し、真宗大谷派に属し妙応寺と改めた。文明七年(一四七に)の事か。
 本尊は、木造阿弥陀如来立像。密厳院当時、安置した大日・薬師・観音・弥勒の尊像も現存している。方便法身尊像や顕如上人絵像も保存され、その裏書によって年代を知ることができる。史料編参照。当寺所蔵の縁起をかかげておこう。
   当寺縁起
 若州遠敷下中郡名田庄中村妙応寺ハ其先キ密厳院卜号シテ、天台宗ナリ。ソノトキ安置セル大日薬師観音弥勒ノ尊像今ニ遺レリ。其後文明年中、足利氏何某ナルモノ出家シテ此寺ノ住持タリ。然ル処本願寺第八祖蓮如上人越前吉崎ヲ発向マシマシ当国小浜ニ舟ヲ寄セ、丹波越ヘニ摂州出口村ニヲモムキ給フ。折柄、隣村知見山光久寺ニ御留錫マシマス事数日、即チ彼寺ノ住持正寛ト云人ハ上人ノ御直弟ナリシ故ニ、近辺ノ道俗自カノ迷心ニ拘ハリテ金剛ノ真心ニ暗キヲ嘆キ、易行他カノ大道ヘスゝメ入レシメ給フヘシト願ヒ奉リンカバ、上人慇懃ノ御仕導マシマスニヨリ、近世七ケ村帰依渇仰シテ、真宗ニ入リシトカヤ。
 則チ中村モソノ内ノー村ナリ。密厳院ヲ改メテ願宗寺卜号ス〔住持玄誓今所伝御代前ノ香盤ニ天正十四年丙戌正月廿三日若狭中庄中村釈玄誓ト云云〕自レ爾巳来、真宗日二盛ンニ、法義倍々弘マレリ。其後顕如上人ノ御代、織田信長大坂ノ御坊ヲ押領セントス。已事ヲ不得シテ干戈ノ乱ニ及ヘリ。ソノトキノ住持玄念〔玄誓之子〕身命ヲ抛テ御加勢申シ上ケタリ。乱劇既ニ事治リテ後、右願宗寺玄念ハ、顕如上入に随従シ奉リ、大坂へ寺ヲ移シケリ〔今大坂籠屋町ニ願宗寺トテ西派ノ寺アリ〕然ルニ当寺無住トナリシニヨリ、門葉ノ人々御本山へ住職ノ御願申上ケレハ、則チ真了トイヘル僧ヲ下サレ、当寺住持トナシ妙応寺卜改メラル。今ノ寺コレナリ。血脈相承シテ遠クハ高祖立教ノ源トヲ尋ネ、近クハ蓮師化導ノ流レヲ汲ミ,他力本願ノ宗意今I絶ヘセズ。称名念仏ノ相続、長二繁昌スト云レ爾。
   安永五年丙中春第七世現住智円


『遠敷郡誌』
妙応寺 真宗大谷派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村中字馳出に在り、文明七年創立す。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


中の主な歴史記録


『名田庄村誌』

 この部落には、真宗大谷派妙応寺の檀家三十七戸が洞宗永昌寺の檀家十四戸があり、この二派だけである。部落の西端に、城屋と称する地籍がある。高貴な武士が居住したとも伝えられ、また一説には、現在の門野一門の祖先の居住地であるとも伝えられている。釜のふちの伝説、弘法大師の御弟子の行脚等この地にも昔からの伝説が多い。昔から部落内の何処かに黄金のトンビが埋蔵されているといわれ、このトンビが住民の勤労意欲に応え、何処からともなく飛来してきたものという伝説があるが、何か一脈の筋書があるようである。
 南川の南岸の部落として、本村最大の集落を形成している。古くは農耕と製炭を主業としていた。現在は営農の多角化をすすめる。一方、農閑期には、名阪神方面への出稼ぎに出る人々がふえつつある。
 大正三年の戸数は五十戸、人口二百六十二人、昭和四十三年の戸数は五十七戸、人口二百五十五人であった。当地城に次の地籍を有する。

中の伝説


『越前若狭の伝説』
かまのふち (中)
 下(しも)と中の両部落の間を流れる南川に、かまのふち(釜の淵)という場所がある。昔はここから湯が湧き出ていた。所が、中の善助という家の人がここでかまを洗っていたら、沈んでこのふちの底につまってしまった。それから湯が出なくなったという。 (永江秀雄)

むかし柿(かき)谷からかま(釜)が流れて来て、かまの淵あたりで動かなくなった。村の人が念仏を唱えたら、かまは沈み、そこが大きな沼になったので、かまの淵という。(名田庄村の歴史)

弘法大師 (中)
 むかし下区の谷川でばあさんが洗だくをしていた。そこへ弘法大師が通りかかり、谷川の水を一ぱいほしいといった。ぱあさんは「勝手に飲みなさい。」といって、すげなく断った。それ以後谷川の水はとまった。
 次に中区へ来て谷の水を求めた。そこのぱあさんは親切に水をくんであげたので、大師は喜ばれた。それで中区の谷川の水はきれいで、一度もかれたことがない。 (名田庄村の歴史)

黄金のとんび (中)
 中区のどこかに黄金のとんびが埋めてあるという。(名田庄村の歴史)



中の小字一覧


『名田庄村誌』
中地区
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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